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旧記雑録拾遺 著作史料集2の目録

暫定版です。原文との照合により、概要や文書の区切り等を修正する場合があります。

全866件中 301~400件・4 / 9ページ

  1. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 233-1 米良九右衛門・左近允与太夫連署覚

    御納戸奉行の米良九右衛門・左近允与太夫が、二十目の御持筒一挺について、石神源兵衛・重永重次作との銘があることを示し、九字筒の帳面では照合できないため、委細の由緒を知らせるよう求めた連署覚。本文は丑十二月十八日付だが目録年月日欄は空欄。

  2. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 233-2 種子島十左衛門覚書

    種子島十左衛門が九字二十目の御鉄砲の由緒を記した覚書。同族山栖から伝承を聞き、寛陽院様の代に山栖三郎次郎が御持筒として用いたのち御鉄砲蔵へ納めたこと、島原籠城時に御用のため再び使用したこと、その後八匁・十匁の鉄砲二挺を蔵へ納めたことなどを御記録所へ届ける。

  3. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 234 小川監物日記

    小川監物日記。摂州様も帰国に供奉することとなり、十五日に上津浦を出船したと記す。目録年月日欄は空欄。

  4. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 235-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。有馬から、世子光久が十五日に鹿児島へ着くとの報があり、この日、川上久国らが檄を諸外城へ移して猪鹿の肉を徴発したと記す。目録年月日欄は空欄。

  5. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 235-2 川上久国・三原重庸連署廻状

    川上久国・三原重庸が諸外城へ、薩州様が今日着くとの有馬からの報を受け、猪鹿を捕って二十日・二十一日までに届けるよう命じた廻状。猪は雄猪を差し上げ、ほかに各地で得られる肴もできる限り調達するよう求める。

  6. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 236 小原織部取払留

    伊地知杢右衛門付衆・小原織部の取払帳。二月十五日の買物方として、真米三斗を「おこし」代銀十七匁五分、赤米六斗を「おこし」代銀三十一匁で買ったことを記す。以下は三月朔日条に載せると注記する。

  7. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 237-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。この日、有馬へ召し連れられた加久藤衆中のうち五人を帰したと記す。

  8. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 237-2 某人名覚

    前文の、有馬から帰された加久藤衆中五人に関係するとみられる人名覚。渋谷長介配下の西田治部左衛門、同名隼人佑、岩崎弾之允、千介・関右衛門・内蔵之介・甚兵衛、宮竹越右衛門配下の元介などを列記する。五人との対応は明示されない。

  9. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 238 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が沿道諸地域へ、薩州様が今明日中に阿久根へ着き川内筋を通って鹿児島へ向かう予定なので、自有馬を整えて道橋を補修し、夜道に備えて各所で松明を用意するよう命じた。

  10. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 239 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が渋谷四郎左衛門尉へ、薩州様の帰国行程に伴う宿泊・昼休・供奉を指示する。十四日ごろ有馬へ着船し松平伊豆守への礼後に川内筋を通る見込みとして、西方では仁礼主計助、向田では鎌田源左衛門尉・相良新右衛門尉、市来湊では新納右衛門佐らに手配させ、昼夜を問わず後報するよう求める。

  11. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 240 某書状

    松平伊豆守の命として本田伊賀守へ、前年冬に切支丹へ与同し各地へ放火して富岡城を攻めた天草百姓について、松平主税助・伊東大和守・寺沢兵庫頭と薩摩勢が合同で糺明し、難渋する者を処罰し、逃散者を捕らえ、村へ戻して治定するよう求めた書状。本田久左衛門尉へ渡された。

  12. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 241 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が伊勢貞昌へ、渋谷四郎左衛門尉の報により、薩州様が松平伊豆守への礼を済ませて阿久根へ着船し、川内筋を通って向田に一泊する予定だと伝える。東之丸を御座所とする普請・振舞などの準備、黄門様の病状と食事量も報告する。

  13. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 242 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が諸地域へ、手形を持たない者を留め置いて早く報告するよう命じる。切支丹へ立ち帰った天草百姓が逃散し国境付近へ来る可能性があるため、旅人を改め、沙汰なく入国させないよう求める。

  14. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 243 川上久国・三原重庸連署廻状

    川上久国・三原重庸が市来宗友へ、薩州様が前日有馬へ着陣し松平伊豆守への礼を済ませた後、阿久根へ着船して川内筋を通る予定だと伝える。獅子島方面から御船が見えたら、遠見に命じて烽火を立てさせ、昼夜を問わず次飛脚で報告するよう求める。

  15. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 244 寛明日記

    『寛明日記』。薩州様の着船に備え、猪鹿や肴を二十日・二十一日までに献上するよう命じた二月十五日付廻状を写し、谷山・吉田・国分・郡山・牛根以下の各地について、受領日や提出予定日を傍注する。

  16. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 245 平塞録

    『平塞録』所収記事。十六日、上使の市橋三四郎が有馬へ着き、小笠原右近大夫・同信濃守・松平丹後守らが相次いで参着したと記す。

  17. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 246-1 記事

    『平塞録』による記事。十六日、細川方の大先手・長岡佐渡が軍令一通を組中へ渡したと記す。

  18. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 246-2 松井寄之・松井興長連署条書

    松井寄之・松井興長が立花勢へ示した六か条の軍令。軍法と別紙の指示を守り、理解できない点は尋ねること、同郷の一揆勢の首を取らず討ち捨てること、番頭が組を巡回して防戦させること、鉄砲頭の指図に従って射撃することなどを命じ、違背者を処罰するとする。

  19. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 247 喜入忠政従臣聞書

    喜入忠政の従臣による聞書。同月十六日、島津光久が鹿児島へ無事帰陣したと記す。

  20. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 248 薩本島原軍記

    『薩本島原軍記』。同十六日、薩摩守光久が鹿児島へ着き、中納言家久の病勢に驚いた。養生を怠らなかったが、病状は日ごとに衰え、困惑したと記す。末尾に二十日条への参照注がある。

  21. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 249 御譜抜萃

    『御譜抜萃』。二月十六日夜、島津光久が鹿児島へ下着したと記す。

  22. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 250 国分賦所日記

    『国分賦所日記』。薩州様が島原表から帰還し、二月十六日に鹿児島へ着いたと記す。

  23. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 251 小原織部取払留

    伊地知重政付衆・小原織部の取払帳買物方。同十六日、織部佑を使者として刻煙草六十目を調達した記録。伊地知季安は、元和中まで厳禁された煙草が寛永期には既に広まっていたことを指摘する。

  24. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 252 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。この日、蒲生衆が蒲生を発って島原へ向かったことを、松下源五左衛門書留に基づいて記す。本文後の「十七日辛亥」は次の日付見出し。

  25. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 253-1 伊地知季安記事

    十七日、伊地知重政が有馬の陣屋で加久藤から来た詰衆を饗応したことを、付衆・小原織部の取払帳に基づいて記す。

  26. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 253-2 小原織部取払留

    小原織部の取払帳。二月十七日、加久藤から有馬へ詰めた十六人の振舞に真米七升一合(白米五升六合二夕五才)を用い、鯨・めふか・豆腐・蛸・酒・酢などを買い、八右衛門尉と織部佑が使者を務めたことを記す。別に内衆の振舞用として清酒三升代銀三匁を記す。

  27. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 254-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が内衆三人を有馬から帰したと記す。

  28. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 254-2 小原織部取払留

    小原織部の取払帳米払方。今村之弥左衛門、長前之清右衛門、荒武弥五右衛門尉の三人について、それぞれ真米一斗五升七合五夕を、正月十六日夜から二月十七日夜まで三十一日分の一かたけ分として記す。以下は十九日条に載せるとの注記がある。

  29. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 255 国分賦所日記

    『国分賦所日記』。御迎衆が今月十七日に島原から帰宅したと記す。

  30. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 256 松下源五左衛門書留

    蒲生衆の松下源五左衛門書留。二月十六日に有馬へ向けて出立し、十七日に米之津へ着いて同行衆を待ち、二十二日に出船、翌二十三日に有馬へ着いたと記す。また敵が二十二日夜に切り出し、二百七十人を討ったとする。伊地知季安は地頭を市来八左衛門宗友と注記する。

  31. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 257 伊地知季安記事

    加久藤地頭・伊地知重政が召し連れた人数は削減により帰されたが、西田杢允時栄と赤川弥七郎は城攻めで働く志が強く、一人が小者八郎左衛門を伴い、三人でこの日加久藤を発って島原へ赴いた。いずれも自力で参陣したと記す。

  32. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 258 国分戸左衛門訴状

    伊作の国分戸左衛門が、山川地頭十右衛門のもとで島原一揆出兵に伴う兵站と帰国供奉を務めた経緯を述べた訴状。上之川伝左衛門と山川勢百五十人を率い、米之津で兵糧米百五十人分を受け取ったが、島津光久の帰国により返納し、山田松巌の書付で収納を実現した。その後、川内から鹿児島へ急行する一行のため兵部殿の乗物を調…

  33. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 259 堀輿延自記

    『堀興延自記』。寅年、江戸にいた島津光久が島原下向を命じられ、正月十四日に少人数の供で江戸を発ったが、道中で事件の決着を知った。二月十六日夜に薩摩へ帰着し、病中の島津家久と無事に対面したと記す。目録標題は「堀輿延自記」、本文標題は「堀興延自記」。

  34. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 260 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が伊勢兵部少輔へ、渋谷四郎左衛門尉の報では島津光久の船が前日に阿久根へ着き、天候が良ければ今明日中に鹿児島へ着く見込みだと伝えた。光久帰国の報を聞いて黄門様の容体が急に改善し、庭の花を覧じ、脈も良くなったとの医師の所見を、先の悪化報告を訂正する次飛脚で知らせる。

  35. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 261 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が仁礼頼充・鎌田政有へ、薩州様が到着したら、どこへ早く赴くかを次飛脚で逐次報告するよう求めた書状。追而書で、この書状を新納右衛門佐に見せたうえで早々に源左衛門へ回し、油断なく注進するよう命じる。

  36. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 262 某書状

    差出人不明の伊勢兵部少輔宛書状。獅子島からの報により薩州様が今日川内、明日当地へ着く見込みだと黄門様へ申し上げたところ、待望の意を示したと伝える。一方、黄門様は薩州様到着の報を聞いて機嫌は良いが、粥を食べず、中椀七合の五分一ほどしか膳を取らず、薬も十分飲めない病状を報告する。また御暇拝領の礼使として…

  37. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 263 川上久国・三原重庸連署書状

    川上久国・三原重庸が是枝快温・市来宗友・岩切信堯・川上久康へ、薩州様が前日に阿久根へ着く予定で、明晩には当地へ着く見込みだと伝えた。有馬へたびたび使者を送るため大小の船を集め、市来宗友が有馬へ渡るとの伊地知覚右衛門の報を踏まえ、三人で確実に相談して渡海するよう求める。

  38. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 264 平塞録

    『平塞録』。十八日、旧冬以来約三十万人が原城を包囲して大筒を撃っても一揆勢が屈しないため、有馬右衛門佐が日向から金掘十人を呼び、峯十郎兵衛・三原半太夫を付けて海手の堀から地雷坑道を掘らせた。しかし城方が横坑を掘って侵入者を鉄砲で討ち、鍋島信濃守方の坑道にも不浄物を流し込んだため、計略は失敗した。忍者…

  39. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 265-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が召し連れた人数のうち十二人を有馬から帰したと記す。

  40. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 265-2 某覚書

    前文で有馬から帰された加久藤衆十二人の覚書。長山仲右衛門、赤川喜早兵衛内、前田内蔵内、萩原甚介内、萩原藤介、内田大学介、園田市右衛門、池田八千左衛門、久米万らの所属・人名を列記し、自力立の者も示す。

  41. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 266 小原織部取払留

    伊地知重政付衆・小原織部の取払留。十八日、膳長坊と川野与右衛門の二人の振舞に白米五合(真米六合二夕五才)を用いたことを記す。買物方では、新町の彦八を使者として真米餅菓子八十目を調達した。

  42. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 267-1 記事

    肝付兼屋の従臣・緒方主殿の覚書に、原城から矢文を封じて射出したとあることを記す。次の文書267-2がその矢文。

  43. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 267-2 原城ヨリ矢文

    原城籠城者が上使へ射た矢文。宗門のために死んで後代に名を残し、板倉内膳正を討ったことを本望とし、近日の一戦で死力を尽くすと述べる。さらに細川・有吉・立花・有馬ら寄手諸将を風刺する漢詩・狂歌を添え、二月十八日付で上使様へ差し出す。

  44. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 268 島津久元外三名連署書状

    島津久元・川上久国・伊勢貞昌・三原重庸が市来宗友へ、薩州様から伊豆守・越中守へ送る書状を御道具衆に持たせたので両所へ届けるよう求めた。木下右衛門太夫宛の書状と、琢庵からの三通もそれぞれ届けるよう命じる。

  45. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 269 島津久元外三名連署書状

    島津久元・川上久国・伊勢貞昌・三原重庸が川上久康と出水衆中へ、市来宗友宛にも書状を送り、有馬へ渡海する場合は御道具衆を速船で渡すよう命じたと伝える。川上久康が帰っている場合は、地元の衆で相談し、御道具衆を早々に渡海させるよう求める。

  46. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 270 平塞録

    『平塞録』。十九日、細川忠利方が内道・柵・竹束・大筒を用いて原城の塀下三、四間まで迫り、船の帆柱と莚帆・布帆を銃弾除けにし、厚板の観察箱へ高野平右衛門を入れて城内を偵察した。横木上の足軽に間断なく鉄砲を撃たせ、火矢を避ける土塗り小屋や堀道も設けた。同日、有馬玄蕃・立花飛騨・松倉長門の三家は三の丸から…

  47. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 271-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。この日も、伊地知重政が召し連れた加久藤衆のうち二十八人が人数削減により有馬を発って帰ったと記す。

  48. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 271-2 某覚書

    前文で有馬から帰された加久藤衆二十八人の覚書。小川千介、宮路兵衛左衛門、林田平内左衛門、西田治部左衛門、柚木宮内左衛門、上田弥市、児玉清左衛門、永田主殿介、園田助左衛門、渋谷長介、益山七兵衛らの所属・人名を列記し、自力立の者も示す。

  49. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 272-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。伊地知重政の手勢のうち、付衆の池上内膳正一人を人躰衆と同じくこの日に発たせ、帰したと記す。

  50. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 272-2 小原織部取払留

    小原織部の取払留。池上内膳正へ、正月十六日夜から二月十九日まで三十三日分の一かたけ分として真米一斗六升七合五夕を支給した。伊地知弥右衛門が野津安右衛門を振る舞うため、白米五合(真米六合二夕五才)と酒五合代五分を用意したことも記す。

  51. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 272-3 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。重政の弟・伊地知弥右衛門重延は加久藤の小頭で、家僮六人を率いて島原へ出陣し、兄重政に従ったため、陣屋では兄の物資で振舞を行ったと説明する。

  52. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 273 矢文

    原城方の矢文とされる和歌・狂歌三首の断片。島津豊後守家来・時任氏の島原供奉日帳から本田万次郎が写した本を、伊地知季安が文化八年に転写した。後に緒方主殿覚書と比較し、日付表記に誤りがあると考証する。

  53. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 274 坂本権右衛門・伊地知喜左衛

    坂本権右衛門・伊地知喜左衛門が川崎織部佑へ、蒲生衆が島原へ渡海する際の乗船に関して届けた二月十九日付文書。冒頭には欠損を示す「キレナシ」がある。

  54. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 275 谷口氏書留

    蒲生士谷口氏の書留。二月十九日に出立し、二十一日に米之津から出船して、同日四ツ時に有馬へ着船したと記す。

  55. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 276 島津久元外二名連署書状

    島津久元・伊勢貞昌・三原重庸が有馬の山田有栄らへ、柳原飛騨守らに申し入れていた琉球から来た南蛮人を、寺の師と与左衛門尉を宰領として送るので受け取り、関係者へ申し入れて指示に従い処置するよう求めた書状。詳細は送状によるとする。

  56. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 277-1 平塞録

    『平塞録』。二十日、晴天と東風が続き、一揆勢が風上から火を放つ恐れがあるため、上使衆が諸陣へ厳重な火用心を触れた。細川方の大先手・長岡佐渡守が備頭へ出した触書一通を次に掲げるとする。

  57. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 277-2 記事

    松井興長が立花ら諸将へ、火用心を何より肝要として各組・配下へ厳命し、火事が起きる前に火元を粗略に扱う者を処罰する方針を周知するよう命じた二月二十日付の達。

  58. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 278 松井興長達

    本文は『薩本島原軍記』。島津光久が鹿児島へ着いた後、病状が悪化した島津家久が二十日夜に島津久元・伊勢貞昌を呼び、徳川家への恩義を語り、関ヶ原後の赦免や大坂両陣で十分奉公できなかった無念を述べ、光久の奉公を疎かにしないよう遺言した経緯を記す。目録標題と本文標題が一致しない。

  59. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 279-1 薩本島原軍記

    本文は伊地知重政付衆・小原織部の取払留。二十日、城攻めの討出酒として酒四升を代銀四匁で調達したと記す。目録標題と本文標題が一致しない。

  60. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 279-2 伊地知季安記事

    伊地知季安は、伊地知重政が城攻め前に用意した討出酒四升を、元日攻めで三原重庸が牛角の酒筒に泡盛を入れて板倉重昌へ奉った例や、天正十四年の鷹取城攻めで木脇祐定が水を携えた例と比較し、攻城前に酒を備えるのは勇気を助ける習慣だったと論じる。

  61. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 280 国分賦所日記

    『国分賦所日記』。御兵具持衆が今月二十日に帰宅したと記す。

  62. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 281 寛明日記

    『寛明日記』。二十一日夜、一揆勢三千余人が三手に分かれ、芦塚忠兵衛・布津村代右衛門の千百人が黒田陣、天草玄札の六百余人が寺沢陣、上総三平・千々岩五郎左衛門の千三百人が鍋島陣を襲撃した。火付役と夜討役を連携させたが、黒田・鍋島・寺沢方は応戦し、三陣合計で首三百五十八、捕虜十四人と記す。

  63. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 282 平塞録

    『平塞録』。二十一日、芦塚忠右衛門・馬場休意・毛利平左衛門らが、寄手は兵糧攻めを狙っており城内が飢える前に夜討すべきだと天草四郎へ進言し、城内で軍議した経緯を記す。八百人を選ぶ夜討計画に加え、有馬方からの矢文を介した内応工作、城内での処刑、船を使う誘出策、寄手側の人物を人質として拘置した一連の駆け引…

  64. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 283 天草説書

    『天草説書』。天草丸衆が長期籠城の鬱憤を晴らすため夜討を願い、数日前から夜間の水汲みで火縄の火を見せて寄手を慣らす偽装を行った。二十一日夜、月明かりの下で柵を破り、四郎の曲輪から四手に分かれて黒田・寺沢・鍋島各陣へ突入し、火付・鉄砲・槍で戦って首級を取り帰城したとする。追記は立花方が偵察し、夜討の配…

  65. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 284-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が新納二郎四郎忠秀・大口地頭宮原壱岐守景之・高尾野地頭仁礼左近将監景頼・須木地頭村尾源左衛門重候を有馬の陣屋で饗応した。季安は、新納忠秀が大口地頭新納加賀守忠清の嫡男で、重政の婿養子・伊地知主膳重頼の実兄であるため饗応したのだろうと考証する。

  66. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 284-2 小原織部取払留

    伊地知杢右衛門付衆・小原織部の取払留。二月二十一日の振舞として、新納二郎四郎・三原大蔵介・宮原壱岐守・仁礼左近将監・村尾源左衛門の五人へ白米二升五合を用意した。買物方には糸六尋の代、小さな縫物のため与右衛門へ渡した金員、わらび・牛蒡・鮑・豆腐・魚・九年母・酒などの代価を記す。

  67. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 285 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。喜入摂津守忠政に従軍した加世田衆の仁礼佐渡守忠頼らが三分一の帰衆としてこの日上津浦を出帆した。また、使衆との取次のため出水米津へ出張していた蒲生地頭市来八左衛門宗友も加勢を命じられ、この日米津を発船して有馬へ向かった。松下源五左衛門らは蒲生勢の集結を待ち、翌日の出船を準備したという…

  68. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 286 谷口氏書留

    蒲生士谷口氏の書留。二月二十一日夜九ツ時、キリシタン二千五百人が陣中へ出撃して火を放ったが、そのうち二百九十二人が討ち取られたと記す。出撃人数二千五百人と討取人数二百九十二人は別の数量である。

  69. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 287 川上久国書状

    川上久国が岩切六右衛門尉信尭・川上彦左衛門尉久康へ、有馬宛ての文箱二つを送るので、その地から早船で一刻も早く送り届けるよう命じた二月二十一日戌刻付の書状。あわせて、黄門様の容体が一大事となったと報じ、次飛脚としている。

  70. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 288 島津久元・川上久国連署書状

    島津久元・川上久国が山田民部少輔有栄らへ、十九日付書状を二十一日酉刻末に受け取ったことを報じ、江戸から細川越中守が持たせた文箱と、半井琢庵から細川越中守宛ての文箱一つを届けるよう求めた書状。琢庵は今晩または翌日に上洛するとし、黄門様については昨晩から仰せ置くことがあり時を待つ状態だが、今日までは異変…

  71. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 289 寛明日記

    『寛明日記』。二十二日、水野日向守・同美作守が有馬へ着陣した。松平伊豆守信綱は、戦功はなくとも上意を受けた御代官として諸将は下知に従うべきだと述べ、兵を損なわず在地を治めて一揆が自然に弱るのを待つ方針と、水野日向守が着陣するまで総攻めをしないとの上使の命を説いた。信綱が水野へ連日、道を急いで早く来る…

  72. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 290 平塞録

    『平塞録』。二十二日、原城の一揆方が寄手諸陣へ夜討ちを行った。天草四郎が頭立を集め、芦塚忠右衛門・布津村代右衛門を松平右衛門佐陣、天草玄札を寺沢陣、上総三平・千々岩五郎右衛門を鍋島陣へ向かわせ、檜皮を用いる火付役も配した。各隊は柵を破って放火し、寄手は鉄砲・槍・太刀で応戦して追撃した。諸手から上使へ…

  73. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 291 天草説書

    『天草説書』。城内は朝夕に宗門の法談を行い、持口を交替で守って結束した。松平伊豆守信綱が待っていた水野日向守は二十二日に到着したが、城方は三の曲輪の小屋を空け、二の曲輪を番持として守備範囲を縮小した。鍋島方の築山では石火矢が破裂してオランダ人一人が即死し、見物中の左門も軽傷を負った。細川方と鍋島方の…

  74. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 292 藤掛集書

    『藤掛集書』。松平伊豆守信綱は、城攻めに失敗した場合の責任を分かち得る歴戦の水野日向守勝成の到着を待ち、飛脚で催促したが、勝成は急がず二月二十二日に着陣したという。城方が三の曲輪を空けたこと、寄手の大筒・石火矢・坑道攻撃、城方の対抗掘りを記した後、二十一日夜の一揆勢による黒田・鍋島・寺沢等の陣への夜…

  75. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 293 味方手負・死人之覚

    出水士山本甚左衛門蔵本の「味方手負・死人之覚」。二月二十一日夜寅刻の原城方切出しに際する寄手側の討死・手負を、松平右衛門佐、黒田甲斐守、黒田市正、寺沢兵庫頭、鍋島信濃守らの家中別・人名別に列記する。味方損害の惣合は二百七十五人で、内六十九人を死人とする。続く「きりしたん首数目録」は松平・黒田・寺沢・…

  76. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 294 小川監物日記

    『小川監物日記』。二十二日暁、有馬城方面に火の手が見えた。城から敵約三百人が出て柵を破り陣中へ放火したが、筑前衆・唐津衆・肥前衆が応戦し、敵を一人残らず討取または生捕にしたとする。一方、寄手側にも多数の戦死者が出たと記す。

  77. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 295-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。この日、蒲生地頭市来八左衛門宗友らが有馬へ着陣し、蒲生衆の本野大学助ら十人を陣屋の外廻番に配置したと記す。

  78. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 295-2 市来宗友覚書

    市来宗友の覚書。陣屋の外廻番衆として、本野大学助・垂野源左衛門・尾方対馬守・馬渡四郎兵衛・赤塚源太左衛門・同名主水佑・村田五右衛門・帆芦舎人佑・池田源蔵・川嶋杢丞の十人を列記する。本文日付は二月二十二日で、目録日付の二月二十一日と異なる。

  79. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 296 松下源五左衛門書留

    蒲生の松下源五左衛門書留。地頭市来宗友が二十一日に出船し、二十二日に有馬へ着いたこと、同夜に敵が切り出して二百七十人を討ったことを記す。また、有馬で福崎内蔵丞・赤塚源太左衛門が十日分の飯米を新納佐左衛門尉から受け取ったが送手形が出ず、指出して江津浦で決済するよう命じられたとする。

  80. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 297 小原織部取払留

    伊地知重政付衆・小原織部の取払留。二十二日の買物として、脚絆用の「おくしゅす」の切れ代六分、朱珍一尺三寸の代五匁六分、脚絆仕立用の糸一匁六分の代銀八分を記す。難読の布名は本文表記のままとする。

  81. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 298 某覚

    差出不明の覚。夜番は五人ずつ、使番は三人ずつとし、使いに出る際の同心衆の日記、陣中の夜廻りについて定める。続いて『寛永軍徴』巻十六の表紙を収め、収録期間を寛永十五年二月二十三日から二十七日までと記す。

  82. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 299 寛明日記

    『寛明日記』。二十三日、上使の水野藤右衛門が着陣し、島原御横目の下曽禰三十郎も着いたと記す。

  83. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 300-1 平塞録

    『平塞録』。二十三日早朝、上使から諸手へ書付一通が渡されたと記し、次の連署覚へ導く。

  84. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 300-2 戸田氏鉄・松平信綱連署覚

    戸田氏鉄・松平信綱の二月二十三日付連署覚。昨夜の夜討ちで討ち漏らした者が小屋に紛れている可能性があるため各自の配下を改め、山で材木・竹木を採る者が落人を捕らえた場合は褒美を出すよう命じる。また、無手形の渡海船は三日間一艘も出さず、船内を検査するよう定める。

  85. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 300-3 記事

    同日、水野日向守勝成・同美作守・同伊織助が四千人を率いて有馬へ着陣した。日向守は老練な武将で、上使衆は城攻めに失敗した場合の公儀の咎めを避けるため到着を待ち、飛脚で道を急ぐよう催促したが、日向守は急がずこの日に着いたという。後備として山手に陣取った。

  86. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 301-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が上津浦から内衆二人を再び帰したと記す。

  87. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 301-2 某覚書

    池上内膳正と彦作の名を「与力」の下に列記した短い覚書。本文には年月日・用件の記載がない。

  88. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 301-3 小原織部取払留

    伊地知重政付衆・小原織部の取払帳。米払方の出入賄として、池上内膳正へ正月十六日夜から二月十九日まで三十三日、一かたけ分の真米一斗六升七合五夕を支給した。また八日町の彦作へ、正月十六日夜から二月二十三日夜まで三十七日、一かたけ分の真米一斗八升七合五夕を支給した。以下は三月朔日の項へ載せると注記する。

  89. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 301-4 有馬陣立差出

    伊地知重政主従三十二人のうち、与力の池上内膳亮と彦作が正月から従軍し、二月二十三日に有馬から召し帰されたとして、日数を一人三十八日ずつとする。伊地知季安は、この記載が「有馬陣立差出」と取払帳とで相違するとして「不審」と留保する。

  90. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 302 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。市来八左衛門宗友、蒲生地頭所の松下源五左衛門らが、前日の二十二日に米津浦を出船し、この日に有馬へ着船したと記す。

  91. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 303 薩本島原軍記

    『薩本島原軍記』。二月二十三日夜に中納言島津家久が死去し、葬儀を終えた後、その遺言に従って下野守島津久元が三月十三日に薩摩を出立したと記す。

  92. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 304 伊勢貞昌追悼文

    伊勢貞昌が、前黄門・花心琴月大居士こと島津家久を追悼した漢文。家久を薩摩・大隅・日向三州の賢君で文武に優れた名将と称え、約三年の病と治療、貞昌が島津光久に従って江戸にいたこと、島原一揆への出陣で鹿児島へ赴いた経緯を述べる。家久の死を悼みながら軍務に就く心情を記し、末尾に漢詩二首を添える。

  93. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 305 某覚書

    二月二十三日付の覚書。米二百石ずつと、ある場所にある米千石の内から早々に送るよう申し合わせた旨を記すが、欠字が多く、本文全体に斜線が引かれている。頭注は「此書物者不参候故けし候」と抹消理由を記し、傍注は有馬の山田民部少輔宛てに遣わす覚書で有川右近が持参したとする。抹消本文を有効な指示とは扱わない。

  94. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 306 寛明日記

    『寛明日記』の二月二十四日条。早朝、松平伊豆守信綱の陣屋で寄手の大小名が総攻めを評議した。戸田左門は、上使から人数を損なわず落城させるよう重ねて命じられているとして兵糧攻めを提案する。水野日向守は、援軍の恐れがないことや籠城が二百日前後に及ぶことを論じたうえで、今は城を一気に切り崩す時期だと述べたが…

  95. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 307-1 平塞録

    『平塞録』の二月二十四日条。上使衆の営で諸大将が攻城を評議した。戸田左門は、人数を損なわず敵を弱らせよとの公儀の命を根拠に兵糧攻めを提案した。水野日向守は、援軍の恐れがなく堅城であることや、軍に不慣れな若者が軍法を乱して損害を出す危険を述べ、兵糧攻めが妥当だとしたが、それは以前の意見であり、既に攻撃…

  96. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 307-2 松平信綱覚

    総攻めの合図と軍勢統制を定めた十六か条の覚書。二の鐘で食事を整え、太鼓で人数を出し、貝で攻め掛かり、釣瓶撃ちの鉄砲に続いて全軍が鬨を上げ、諸手一同に攻撃すること、総攻撃を見たら火矢を絶え間なく放つことを命じる。合印は三巻、合言葉は「国か」に「国」と答える。海手の番船は漕ぎ回って鉄砲を絶やさず、後陣は…

  97. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 307-3 記事

    水野日向守が二十六日の総攻めの触れを聞き、子の美作守と孫の伊織助に、鬨だけを上げて控えるのではなく先手として働く覚悟を問う。美作守は、伊織助の初陣でもあり、軍法に背くことになっても先手が乗り込むのを見物することはできないと誓う。日向守は家老・組頭・足軽大将・武者奉行・旗奉行・馬印奉行らを呼び、鍋島勢…

  98. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 307-4 記事

    妙解公の軍中への書付が一通あることを示す一行の導入見出し。具体的な命令本文・年月日・差出・宛先は記さず、直後の文書307-5を導く。

  99. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 307-5 細川忠利達

    二月二十四日、細川忠利が惣組頭中へ、二十六日に天候を見て火矢を射る予定に備え、五か条を命じた。卯の刻に鐘と太鼓を一斉に鳴らすこと、敵が出た際の相印として刀または脇差に白紙を三巻きすること、合言葉は「国か」と問い「国」と答えること、卯の刻以前に先手は静かに備えを出して合図を待つこと、味方の後方から射撃…

  100. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 308 藤掛集書

    『藤掛集書』所収「城乗評定并水野日向守金言之事」。寛永十五年二月二十四日早朝、松平伊豆守信綱の陣所に寄手の大小名が集まり総攻めを評議した。戸田左門は、人数を損なわず鎮圧せよとの上意と城内の兵糧不足を理由に兵糧攻めを唱える。水野日向守は、堅城で援軍の恐れがなく、未熟な若者の拙攻で損害が出るとして兵糧攻…