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旧記雑録拾遺 著作史料集2の目録

暫定版です。原文との照合により、概要や文書の区切り等を修正する場合があります。

全866件中 501~600件・6 / 9ページ

  1. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 339-6 記事

    二月二十九日、諸大将から各手勢の討死・手負の名付を上使へ提出したと記す短い付記。前掲339-5の死傷覚の提出事情を説明するが、目録年月日欄は空欄のためB列へ本文日付を補入しない。

  2. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 339-7 細川家中討死名付

    細川家中の討死者について、知行高、番頭・鉄砲頭・弓頭などの役、氏名を列挙した名付。中小姓、鉄砲之者并手伝討死、若者馬乗分などの区分も掲げ、末尾を合三十二人、手伝四人とする。続いて遊軍の討死・手負として、松平伊豆守手は討死6人・手負104人、戸田左門手は討死4人・手負30人、水野日向守手は討死188人…

  3. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 339-8 記事

    各家中の討死・手負を一手ずつ吟味し、諸大将から神文をもって上使衆へ達したとしたうえで、二月二十八日の総軍引取り後、本丸一番乗をめぐる申出を吟味した経過を記す。長岡佐渡守が松平伊豆守の陣場を訪れ、伊豆守は細川勢が三ノ丸を崩して本丸へ最初に人数と旗を入れたのを見届けた一方、柳川家中や他家の侍にも証拠を添…

  4. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 340 田代衆中島原立之覚

    有馬四郎の首を確定できなかったため、捕らえた八十歳余りの母に首を揃えて見せたが確かに見知れず、不審とされた二首を樟脳詰めにして上方へ差し上げたとする。四郎は生年十六歳で髭があったといい、江戸で四郎の首と判断された由を記す。三月に引陣し、田代衆中は全員帰国したと結び、本文末に寛永十五年三月とあるが、目…

  5. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 341 旧伝集

    『旧伝集』所載の逸話。島原で山鹿越右衛門が高所にいた敵五、六人を一人で突き散らしたが、負傷して鑓下の首を取れずにいたところ、永井信濃守家来の侍が敵を追って首を取り、山鹿へ渡した。後年、山鹿が江戸詰めから下る途中に濃州大垣でその侍と再会し、島原での働きを互いに確認した。さらに後の通行時には侍が山鹿を歓…

  6. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 342-1 加久藤衆中手負注文

    加久藤衆中の手負者六人を、負傷の種類・程度とともに列挙した注文。赤河兵左衛門尉は鑓疵深手、同弥七郎は浅手、金剛坊は鉄炮疵深手、岩崎弾之丞は鑓疵深手、西田杢之丞の小者九郎左衛門尉は同深手、川野与右衛門尉は同浅手とし、二月二十八日付で合六人とする。

  7. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 342-2 伊地知季安記事

    右の加久藤衆中手負注文は、地頭伊地知杢右衛門重政から届け出た控で、地頭仮屋の土蔵に残されていたものを、天保九年二月二十八日に季安の嫡子喜十郎季直が探し得たと記す。注文で深手とされた赤川兵左は同日晩または二十九日に死亡したらしく、二十九日付の届書では戦死とされるという。表紙・表題がないため『寛永軍徴』…

  8. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 343 新納忠清差出

    新納加賀守忠清が、寛永十五年二月二十八日未刻、肥前国有馬の原城本丸で一番鑓をしたことを証明する差出証文。立会人として市来八左衛門尉・市来五兵衛を挙げる。編者注は『旧記雑録後編五』二一四一号文書と同文とする。

  9. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 344 市来宗友差出

    市来八左衛門宗友が、寛永十五年二月二十八日未刻、肥前国有馬の原城本丸で一番鑓をしたことを証明する差出証文。立会人として新納加賀守・市来五兵衛を挙げる。編者注は『旧記雑録後編五』二一四〇号文書と同文とする。

  10. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 345 市来家昌差出

    市来五兵衛家昌が、寛永十五年二月二十八日未刻、肥前国有馬の原城本丸で一番鑓をしたことを証明する差出証文。立会人として新納加賀守・市来八左衛門尉を挙げる。編者注は『旧記雑録後編五』二一四二号文書と同文とする。

  11. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 346 伊地知重政差出

    伊地知杢右衛門重政が、寛永十五年二月二十八日未刻、有馬原城本丸へ一番乗し、鑓を合わせて敵一人を討ち取ったことを届ける証文。出水衆の指宿内蔵助・井尻三郎右衛門尉を証人に挙げ、翌二十九日、上原左太右衛門尉・新納佐左衛門尉宛に差し出した。編者注は『旧記雑録後編五』二一六四号文書と同文とする。

  12. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 347 三原大蔵太夫差出

    三原大蔵太輔が、有馬原城本丸へ一番乗し、敵二人と鑓を合わせたことを届ける証文。証人は出水衆入来源左衛門尉・大口衆肱岡左近、立会人は仁礼左近将監・伊集院衆西郷壱岐守で、さらに鉄炮で敵と戦ったのを仁礼左近・長瀬新兵衛が見たとする。寛永十五年二月二十八日付で、新納佐左衛門尉・上原左太右衛門尉宛。編者注は『…

  13. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 348 仁礼景頼差出

    仁礼左近将監景頼が、有馬原城本丸へ一番乗し、敵三人と鑓を合わせたことを届ける証文。証人として出水衆入来源左衛門尉、大口衆肱岡左近、濱川西市丞を挙げ、立会人は三原大蔵大輔・伊集院衆西郷壱岐守とする。寛永十五年二月二十八日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一三九号文書と…

  14. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 349 宮原景為実見証文

    宮原半右衛門景為が、三原五郎兵衛重英の原城本丸での働きを実見した証文。三原が高さ三間ほどの石垣を登って屏上に上がり、弓で矢八筋を射て敵三人に当てたのを見たとし、さらに屏を越えた働きを比類なしと評する。寅二月二十八日付で三原五郎兵衛尉宛。冒頭の『在三原四郎左ヱ門』は本文注記として区別する。

  15. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 350 田中国質実見証文

    田中五右衛門国質が、三原五郎兵衛重英の原城本丸での働きを実見した証文。二月二十八日、三原が本丸石垣を登って屏上に立ち、弓で敵三人を射伏せたとし、矢数は六筋か七筋ほどと見たという。その後、三原が屏を越え、城中でも田中と合流して言葉を交わしたことを証跡とする。寛永十五年二月二十九日付で三原五郎兵衛尉宛。…

  16. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 351 三原重英差出

    三原五郎兵衛重英が、寛永十五年二月二十八日に有馬原城本丸の石垣を登り、屏上から弓で敵三人を攻撃したことを届ける覚。証人として鹿児島衆田中五右衛門・高尾野衆宮原伴右衛門を挙げる。寅二月二十九日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一五七号文書と同文とする。

  17. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 352 是枝快温等討取首注文

    寛永十五年二月二十八日未時、肥前国有馬原城本丸で討ち捕った首の注文。立会人は平田弥左衛門尉・出水衆伊尻三郎右衛門尉。家名不知の首一つのほか、是枝喜右衛門快温の被官春田九兵衛、同道具之者才蔵、定加子与次右衛門尉、市作、権介について各首一つを掲げ、合計六首となる。目録年月日欄は空欄である。編者注は『旧記…

  18. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 353 新納忠頼差出

    新納佐左衛門忠頼が、寛永十五年二月二十八日、有馬原城の屏を乗り越え、城中で『鉄(炮脱カ)仕候』とする働きを記した証文。出水衆山内左近将監・村尾源左衛門尉がその場にいたとする。両名は本文中の証跡関係者で、宛先ではない。目録年月日欄は空欄である。編者注は『旧記雑録後編五』二一四六号文書と同文とする。

  19. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 354 田中国質差出

    田中五右衛門尉国質が、寅二月二十八日、有馬原城本丸の屏内で敵二人に遭遇し、一人の鑓を奪い、もう一人と鑓を合わせて『手負申候』と記し、その敵を鑓下で仕留めたが首は取れなかったと報告する。三原五郎兵衛尉から後日の証跡となるようその場で告げられたため差し出したとし、寛永十五年二月二十九日付で新納佐左衛門尉…

  20. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 355 宮原与左衛門・村尾重候連署

    村尾源左衛門重候・高尾野衆南郷狩野介・出水衆宮原与左衛門が、福崎新兵衛の原城本丸での働きを実見した証文。寅二月二十八日、福崎が高さ三間ほどの本丸石垣を登り、屏を越えて敵三人と鑓を合わせ、一人を鑓下に突き伏せたのをその場で見届けたとする。寛永十五年二月二十九日付で福崎新兵衛宛。編者注は『旧記雑録後編五…

  21. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 356 実見証文

    村尾源左衛門重候と出水衆中の三原与左衛門(『宮カ』との編者傍注あり)が、平山七兵衛の原城本丸での働きを実見した証文。二月二十八日、平山が高さ三間ほどの本丸石垣を登って屏を越え、敵一人と鑓を合わせて鑓下に突き伏せたのを見届けたとする。本文は寛永十五年二月二十九日付で平山七兵衛宛だが、目録年月日欄は空欄…

  22. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 357 有馬九郎左衛門尉差出

    有馬九郎左衛門尉が、寛永十五年二月二十八日、原城本丸の屏を越え、城中で敵一人と鑓を合わせたことを届ける覚。証跡人として平山七兵衛、出水衆山本左近将監、大口衆壱岐兵左衛門尉を挙げ、三人から証跡の書物を受け取っているので尋ねるよう求める。寅二月二十九日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧…

  23. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 358 村尾重候差出

    村尾源左衛門尉重候が、二月二十八日、原城本丸の石垣・屏を越え、城内で鑓を合わせたことを届ける覚。須木衆今村休右衛門尉を鑓下で『射とめ』たとし、その証跡として大口衆大田彦右衛門尉を挙げる。また、須木衆堀添十郎兵衛の首一つを取ったと記す。二月二十九日付。本文に宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一六…

  24. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 359 日高正盛外三名連署差出

    日高十兵衛尉正盛・有馬久右衛門・藤井助四郎・友野七郎の四人が、先手として原城本丸の屏に着き、屏越しに鑓を合わせた状況を届ける覚。ただし日高と有馬は鑓を合わせようとしたところ早く石打ちに遭い『無生ニ罷成』ったため、実際には鑓を合わせなかったと明記する。鹿児島衆が後方の岡から見たことを証跡とし、『薩摩壱…

  25. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 360 見証文

    村尾源左衛門尉重候と福崎新兵衛尉が、大野監物の原城本丸での働きを実見した証文。寅二月二十八日、大野が本丸石垣を登って屏を越え、長刀で敵一人を仕留めたのをその場で見たとする。寛永十五年二月二十九日付で大野監物宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一五五号文書と同文とする。

  26. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 361 大重久永差出

    大重傳左衛門久永が、寛永十五年二月二十八日、有馬原城本丸の石垣に着いて屏を越え、城内で首一つを討ち取ったことを届ける差出。証跡人として伊地知杢右衛門尉を挙げる。寅二月二十九日付で高名改衆中宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一六〇号文書と同文とする。

  27. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 362 平田宗宣差出

    平田弥左衛門宗宣が、寅二月二十八日、有馬春之城本丸の石垣に着き、屏を越えて城内で首一つを取ったことを届ける差出。是枝喜右衛門と出水衆井尻三郎右衛門が証跡を知るとし、差出改衆中に提出する。編者注は『旧記雑録後編五』二一四七号文書と同文とする。

  28. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 363 川田弥左衛門・木佐貫半右衛門連署差出

    木佐貫半右衛門と川田弥左衛門が、寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸で首一つを取ったことを連署で証する文書。首主は鹿児島衆木佐貫半右衛門、合討は曽木衆川田弥左衛門とし、証跡人に曽木衆坂元四郎兵衛尉と福崎覚兵衛尉を挙げる。本文に宛所はなく、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一四九号文書と同…

  29. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 364 上原尚辰差出

    上原佐太右衛門尚辰が、寛永十五年二月二十八日、有馬源(原カ)之城本丸の屏に着いたことを証する文書。市来五兵衛尉を証跡人に挙げる。本文に宛所はなく、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一四四号文書と同文とする。

  30. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 365 木村時重差出

    木村平右衛門尉時重が、寅二月二十八日、有馬原城本丸の石垣に着き、屏を越えて城内へ入ったことを届ける差出。伊地知本右衛門尉が証跡を知るとする。本文に宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一四八号文書と同文とする。

  31. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 366 寺師与左衛門差出

    寺師与左衛門が、有馬原城の高さ三間の石垣を登って屏に着いたことを届ける差出。市来八左衛門尉が落とした鑓を拾い、衆中の貴嶋小左衛門尉へ渡したとし、上原左太右衛門尉が証跡を知るとする。寅二月二十九日付で、本文に宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一六二号文書と同文とする。

  32. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 367 有村掃部助差出

    串木野の有村掃部助が、寅二月二十八日、有馬原城本丸で敵四人を鉄砲で射ち、さらに敵二人と鑓を合わせたことを届ける差出。鉄砲の働きは大口衆壱岐兵左衛門尉、鑓合は鹿児島の市来五兵衛尉が立ち合って見たとする。寛永十五年二月二十九日付で、本文に宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一五八号文書と同文とする。

  33. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 368 福崎覚兵衛尉・坂元四郎兵衛尉連署差出

    曽木衆坂元四郎兵衛尉と福崎覚兵衛尉が、寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸の内へ入ったことを連署で証する文書。鹿児島衆木佐貫半右衛門尉と曽木衆川田弥左衛門尉を証跡人に挙げる。本文に宛所はなく、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一五〇号文書と同文とする。

  34. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 369 村尾重候実見証文

    村尾源左衛門尉重候が、寅二月二十八日、有馬原城本丸内で須木衆今村久右衛門尉とともに鑓を合わせ、左手に鑓傷を受けながら敵を鑓下に突き伏せたことを記す証文。大口衆大田彦右衛門尉を証跡人とし、同じ須木衆の堀添十郎兵衛尉が首一つを取ったことも記す。須木衆長里弥兵衛尉・大石喜内・宗形佐市の三人が村尾とともに城…

  35. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 370 市来宗友等合戦太刀打・手負・首注文

    寅二月二十八日に有馬原城本丸へ乗り込んだ者と、市来八左衛門尉に従って戦場へ同行した者について、氏名と軍功・被害を列記した注文。市来八左衛門尉、三原大蔵太輔、平山七兵衛尉、新納佐左衛門尉、有馬九郎左衛門尉、福崎新兵衛尉らをはじめ、多数の人物ごとに鑓合、鉄砲・弓、首、討捕、手負、戦死、屏越、本丸乗などを…

  36. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 371 大口衆合戦太刀打・手負・首注文

    寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城本丸で鑓を働かせた大口衆を中心に、手負、首取得、射撃、屏越、戦死などを列記した注文。高城七郎左衛門尉、肱岡左近丞、松下惣左衛門尉、濱川西市丞らの手負と各証跡人を記し、続く『首注文』では松木平兵衛、小城弥左衛門尉、寺師刑部左衛門尉、帖佐喜兵衛、原田新兵衛らについ…

  37. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 372 高尾野衆合戦太刀打・手負・首注文

    仁礼左近将景頼が、寛永十五年二月二十八日の高尾野衆の分捕・手負と弓衆の射撃を列記し、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉へ提出した注文。宮原又左衛門尉らについて首・鼻の取得数と証跡人を記し、手負衆を列挙する。弓衆については各人の所持矢数、射た本数、当矢数を分けて記載し、仁礼自身は矢十四のうち十一を射ち、当…

  38. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 373 高尾野衆中失衆注文

    宮原又左衛門尉・税所助兵衛尉が、高尾野衆のうち「失衆」とされた一向宗の牧田主馬允・山口納右衛門尉・前田少兵衛尉・細山田内蔵助・児玉七右衛門尉について、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉へ提出した注文。牧田は有馬の春之城への城乗りで首一つを射取りながら、失衆のため仁礼左近へ内証で見せて切り捨てたとし、他の…

  39. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 374 加久藤衆等合戦太刀打・手負・首注文

    伊地知杢右衛門重政が、春之城本丸への城乗りで、加久藤衆と寺領衆の首取得・手負・戦死を列記した注文。加久藤衆では伊地知弥右衛門尉ら首取得者八名と原記載の合首数十、手負として金剛坊の弓射通(敵六人を射たとの付記)、岩崎源之丞の鉄砲疵、川野与右衛門尉の鑓疵を記し、同心衆十名を列挙する。寺領衆では西田市左衛…

  40. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 375 伊尻祐永実見証文

    伊尻三郎右衛門祐永が、寅年二月二十八日、有馬春之城本丸の屏内で長野正右衛門が敵の首を取ったことを確かに見届け、相違ないと伊地知杢右衛門重政へ証明した文書。冒頭に、羽月士長野式部左衛門の由緒書から写した旨を記す。

  41. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 376 記事

    寛永十五年二月二十八日、有馬原之城本丸の鑓場で、八左衛門尉の同心衆が敵の鑓・刀と戦った際の人名と軍功を列記した記事。前半は同心衆十七名を掲げ、湯田平兵衛尉の手負と川崎織部の戦死を明記する。後半は『八左衛門尉同心不申衆』二十三名について、鑓働き、首取得、取得首の切捨て、鉄砲、屏への取付きなどを個別に記…

  42. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 377 出水衆合戦太刀打・手負注文

    寅年二月二十八日、有馬之城本丸で戦った出水衆の軍功・手負を列記した注文。鑓を働かせた衆、刀討の衆、弓で射通した衆に分け、阿多六郎左衛門尉らの人名と、鑓疵・刀疵などを記す。寺領衆の池亀伝左衛門尉は鑓疵、本田蔵右衛門尉は刀疵として別記する。末尾に頭数百三十八、二月二十九日と記す。本文に差出・宛所はない。…

  43. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 378 片山重次書状

    片山次兵衛尉重次が、前日の城中で初めて会った指宿内蔵助の働きと手柄を比類ないものと称賛した書状。指宿が敵二人の頸を切り捨てたこと、片山自身も頸を切り捨てたが、後から捨てなければよかったと思っていることを述べ、指宿も同様に考えているだろうと推量する。追而書では、薩州衆の前日の働きは申し尽くせず各所で評…

  44. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 379-1 伊地知重政差出

    季安家蔵本。本文は三四六号文書と同文であるため省略した、との編者注のみを収める。目録は二月二十九日、『伊地知重政差出』とするが、本文・署名・宛所は本箇所に掲載されない。三四六号本文との直接照合は今回実施していない。

  45. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 379-2 負・首注文

    伊地知杢右衛門重政が、春之城本丸への城乗りで加久藤衆が挙げた首取得、手負・戦死、同心衆を列記し、上原左太右衛門尉尚辰・新納佐左衛門尉忠頼へ提出した注文。首取得者十二名の個別首数は合計十五で、本文の『合首数十五』と一致する。金剛坊の鉄砲疵、岩崎弾之丞・川野与右衛門尉らの鑓疵、赤川兵左衛門尉の戦死を記す…

  46. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 379-3 伊地知季安記事

    伊地知季安が、前掲の加久藤衆関係文書も地頭伊地知杢右衛門重政から差し出された控の横折で、地頭仮家に残っていたと記す記事。天保九年二月、季安の子喜十郎季直が墓参の折に庫中から見つけて持ち帰り、翌十年四月に本書へ収載した。これらを上原・新納らが取り合わせ、高名究帳を調進したものと推定している。

  47. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 380 喜入忠政従臣聞書

    喜入忠政の従臣から聞いた有馬原城落城時の薩摩衆の働きを記す聞書。同年二月二十九日に落城し、男女の大半が討ち果たされたとする。城攻めでは鹿児島の村尾三右衛門・友野七郎らが本丸の塀に乗り、弓で敵を射詰めて細川殿から称賛された。また新納加賀を先として鹿児島から十八人が城乗りで奮戦し、出水衆・大口衆各一人も…

  48. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 381-1 有馬原之城高名究帳

    田布施士二宮太郎兵衛蔵本の、寛永十五年二月二十八日付『肥前有馬原之城高名究帳』。外題はこの名で、別本は『島原一揆ニ付高名帳』と題したという。新納加賀守・伊地知杢右衛門尉らの鑓合、敵の討取り、弓・鉄砲による射撃、本丸の屏・石垣への取付き、手負、戦死などを、各人の証跡者とともに列記する。出水・高尾野・蒲…

  49. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 381-2 伊地知季安記事

    伊地知季安が、田布施士人二之宮太郎兵衛家蔵本を、文化十年七月二十七日付の『園田勘右衛門実吏所写』によって本書へ収載したと記す記事。同所の士・坂元氏も同じ本を所蔵しており、その奥書を次に掲げるとする。

  50. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 381-3 有馬原之城高名究帳奥書

    有馬山の戦いと名を残す心構えを詠む歌・教訓に続き、島原・有馬出陣の経過を記す奥書。寛永十四年冬に邪宗の土民が有馬城へ籠城し、薩隅日三州の士が翌十五年正月十一日に出陣した。田布施の地頭鎌田左京政高が京都勤務中だったため、田布施諸士は同心して敷根筑前守の手に属した。諸所の衆は有馬で高名を挙げた一方、鹿児…

  51. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 381-4 伊地知季安記事

    伊地知季安が、別本に別の記載があるものの漏れや誤りが多いため本文には収録せず、異聞として備えるだけとした記事。

  52. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 381-5 某覚書

    市来五兵衛尉家昌が国命を受けて正書を整え差し出したが、その草稿を市来拾郎右衛門が笥蔵していたため、これを書写したと記す覚書。

  53. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 381-6 伊地知季安記事

    伊地知季安が、出水にあった別本の有馬原城攻め軍功一覧を掲げた記事。前後の次第は不詳として略し、鑓合、討捕、城乗、弓・鉄砲、手負、戦死などを鹿児島衆、出水衆、蒲生衆、加久藤衆、伊集院衆等の区分で列記する。『首数百三拾八討捕』との原記載を含む。末尾には当時の上使と在陣大名を列挙し、出水本にない書付を大野…

  54. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 381-7 有馬原之城高名究帳

    寛永十五年二月二十八日の有馬原城本丸城乗における鹿児島衆の軍功帳。新納加賀守・市来八左衛門尉の鑓合、三原五郎兵衛・村尾源左衛門尉の弓射通、是枝喜右衛門尉・福崎新兵衛らの鑓合・刀討・首捕を記し、日高十兵衛には受傷を付す。ほか有馬九郎左衛門尉、大野監物、友野七郎、有馬久右衛門尉、平田弥左衛門尉を列挙する…

  55. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 381-8 伊地知季安記事

    伊地知季安が、出水本の高名究の伝来を記した記事。伊地知杢右衛門重政に従軍した付衆の山下金剛坊は加久藤預で、重政の養子・主膳重頼が同地の地頭だった時、付衆家跡を他へ養子に出し、自身は山田松岩の招きに応じて出水愛宕の『花香とり』へ移ったという。その子孫で出水士の山下本乗坊に伝わる写本を、文化癸酉年十一月…

  56. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 382-1 村尾重候覚書

    村尾源左衛門重候が、父・村尾三右衛門の島原出陣とその後の奉職を記した覚書。三右衛門は普請奉行として須木衆を多数率い、陣場普請を整えた。落城時には鍋島・小笠原両家の仕寄の間を通って本丸へ攻め入り、敵三人と戦って一人を仕留め、自らも深手を負った。両家および家中の証文数通を所蔵し、のち吟味役として在京まで…

  57. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 382-2 鍋島勝宗実見証文

    鍋島六左衛門尉勝宗が村尾源左衛門尉重候に対し、有馬原城での働きを確かに見届けたこと、将来も証人になることを証した証文。

  58. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 382-3 松下氏書留

    前半は明暦元年六月二十八日付の鍋島六左衛門勝宗書状。原城最後の合戦における村尾氏の高名と右股の鑓疵を称え、綱久初入国祝儀の使者として訪れた際、古傷による病悩のため対面できなかったことを一世の遺恨として再会を期す。後半は鑓・刀・鉄砲・首取・切捨などの軍功者を列記し、『右者、有馬ニ而書之、二月廿八日』と…

  59. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 383 鍋島勝宗書状

    蒲生士松下氏書留に収める短い覚。市来八左衛門尉の同心以外の者として、村尾筑前守を『手負』、松下源五左衛門尉を『鑓』と列記する。

  60. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 384 松下氏書留

    蒲生士松下氏書留に収める覚。冒頭で刀による鑓合の者を列挙し、続いて首取・切捨・手負などの軍功者を記す。さらに二月二十七日の城への放火と二の丸陥落、二十八日の本丸攻撃、二十九日晩の落城という原記載を掲げ、二月十六日の出立から有馬・米之津・江津浦間の乗船、悪風による滞留、帰着までを記録する。三月十九日に…

  61. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 385 松下源五左衛門書留

    松下源五左衛門の書留から上下を略した借銀覚。二月二十八日の城攻めの時、酒一升の代一匁、酒五合の代五分を六左衛門から借銀したことを、三月十一日付で記す。

  62. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 386 御厚恩記

    島津家が公儀へ差し出した御厚恩記の一条。寛永十四年冬、肥前島原で切支丹宗門の賊徒が籠城したため、家臣の島津豊後久賀・島津下野久元に人数を添えて出張させ、上使の下知を受けて攻撃するよう命じた。正月朔日の城攻めと二月二十八日の落城時、分捕をした者が多く、戦死者も少々あったと報告する。

  63. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 387 柏木主馬首実見証文

    二月二十八日、柏木主馬首が山下金剛坊に対し、有馬原城で本丸の高さ三間ほどの石垣を登り、屏を乗り越えて弓で敵を射通した働きを現場で見届けたと証し、後日のため証文を出した。

  64. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 388 福昌寺戦亡帳

    福昌寺戦亡帳に、島原で戦死した鹿児島衆・出水衆・大口衆・加久藤衆の野元源左衛門尉、日高十兵衛、阿多六郎左衛門、高城七郎左衛門、谷口三左衛門、赤川兵左衛門を列記する。伊地知季安は、新納賀州家中の千左衛門が載っていないのは記載漏れか書写漏れかと疑問を付す。

  65. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 389 松下氏書留

    蒲生士松下氏書留に収める有馬原城本丸合戦の軍功者帳。出水衆などを区分し、鑓合、鑓疵、刀討、刀疵、城乗、弓での射通といった軍功・負傷別に人名を列挙する。末尾に『頸数百三十八』と、寅年二月二十八日の本丸合戦人数である旨を記し、編者は『旧記雑録後編五』一二六七号文書と同一文書であろうと注記する。

  66. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 390 伊地知季安記事

    伊地知季安が島原陣関係者を補記した記事。池田右近には加治木兵具奉行として軍功があり、有馬半五左衛門は『此日』戦死し、大口士の赤塚吉右衛門重昌にも軍功があったと記す。

  67. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 391 田中国明・市来家年調書

    元禄十六年の田中国明・市来家年調に収める是枝氏の由緒記事。忠存の嫡子・周防坊快温は後に還俗して喜右衛門と称し、江戸・大坂へたびたび召し連れられた。寛永十五年の島原原城で屏を越えて賊徒二人を討ち捕り、その後、山川の地頭職を命じられたという。末尾に槐嶋喜平次・川村与介の名を掲げる。

  68. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 392 諸家大概記

    諸家大概記は、福崎新兵衛が島原で城乗をした者のうちに含まれると記す。

  69. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 393 伊地知季安記事

    伊地知季安が、長島衆の宮原半右衛門景為には『此日』合鑓の軍功があり、その証文は大口衆の肱岡左近允が出したもので、今仁礼伴太夫付郷士・宮原三左衛門家に所蔵されると記した記事。

  70. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 394-1 新納忠清差出

    本文書は343号文書と同一文書であるため本文を省略したとの編者注。本文・署名・宛所は本箇所に収録されない。

  71. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 394-2 市来宗友差出

    本文書は344号文書と同一文書であるため本文を省略したとの編者注。本文・署名・宛所は本箇所に収録されない。

  72. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 394-3 市来家昌差出

    本文書は345号文書と同一文書であるため本文を省略したとの編者注。続いて、右の三通は公儀へ差し出した証文の写しで、正文は御記録所の文書箱内にあると記す。

  73. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 394-4 伊地知季安記事

    伊地知季安が、右の三通は先祖の市来源右衛門家が以前に書き写しておいたもので、子孫の現・源右衛門家に伝来していたものを借り、天保二年十二月十二日に本書へ収載したと記す記事。

  74. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 395 伊地知重政差出

    本文書は346号文書と同一文書であるため省略したとの編者注。さらに全文が斜線で抹消されており、本文・署名・宛所は本箇所に収録されない。

  75. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 396 山元甚左衛門訴状

    出水士・山元甚左衛門の訴状からの抄録。キリシタン落城時、有馬原城本丸で山元左近が射通しの弓を用いて敵を多数射伏せ、新納佐左衛門尉の証文と、福崎新兵衛・村尾源左衛門尉ほか計六人連判の証文を取り置いたという。訴状の詳しい本文は正月二十日条に載せるとの注がある。

  76. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 397 桐野慶右衛門尉外五名連署実見証文

    福崎新兵衛ら六人が、寛永十五年二月二十八日に有馬原城で山本左近将が本丸の高さ三間ほどの石垣を登り、屏を乗り越え、弓で敵を多数射伏せたのを実見したとして、翌二十九日に連署して山本へ渡した証文。

  77. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 398 小原織部取払留

    伊地知重政附衆中・小原織部の取払帳にある御振舞方の記事。同二十九日、白米二升を二礼左近丞・三原治兵衛・三原某・野村某・福崎某の五人へ振る舞ったと記す。編者注は、上文を二月二十四日、下文を三月三日に載せると案内する。

  78. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 399 旧伝集

    旧伝集は、島原一揆の城攻めで討死した者は、鉄砲・弓・槍の三種の武器による傷で大方が死亡し、それ以外の深手や、手などを突然切り落とされる例はなかったという伝承を記す。大口衆の黒木三右衛門が若年に島原へ出陣し、長命して語った話だという。

  79. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 400 是枝快温実見証文

    是枝喜右衛門尉(快温)が、寛永十五年二月二十八日に有馬原城本丸の屏内で伊尻三郎右衛門尉(祐永)が二度鑓をしたことを確かに見たとして、翌二十九日に伊尻へ渡した後証の証文。

  80. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 401 山本左近允外五名連署実見証文

    壱岐兵左衛門尉ら六人が、寛永十五年二月二十八日に有馬原城本丸で入来院源左衛門尉が石垣上から屏越しに二度鑓をし、さらに屏を乗り越えて二度鑓をして敵四人を鑓下に倒したことを実見したとして、翌二十九日に連署して入来院へ渡した証文。

  81. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 402 平塞録

    平塞録に、三月朔日に真源公が凱陣したとあることを掲げ、この件は二日条の下に見えると案内する短い参照注。真源公の人物比定は本文から補わない。

  82. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 403 藤掛集書

    藤掛集書が伝える、水野美作守と有馬蔵人の本丸一番乗をめぐる直接の争論。落城後の三月朔日、有馬蔵人は水野の陣屋を訪れ、二十七日の落城時に大将分として自ら本丸へ一番に乗り込んだと主張した。水野側は旗・馬印を立て、家来に多数の討死・手負を出して敵を崩した働きとの違いを論じ、双方は一番乗の基準と証拠を争った…

  83. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 404 鍋島茂利書状

    鍋島茂利が村尾源左衛門重候へ、病中にもかかわらず届いた書状を謝し、先の働きは書中で言い尽くせないと賞賛しつつ、体調がすぐれないと聞いたため養生を勧めた返書。追而書で、八日に相国を通る折には必ず立ち寄ってほしいと頼む。

  84. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 405-1 藤井助四郎実見証文

    藤井助四郎が、寛永十五年二月二十八日の有馬原城落城時、日高十兵衛正盛が友野七郎・有馬久右衛門と一番に城乗し、屏際で敵の石打ちを受けて三間ほどの石垣から落ちながら名誉を遂げたことを、自身も同じく城乗して実見したとして、三月朔日に日高へ渡した証文。

  85. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 405-2 有馬純兵実見証文

    有馬久右衛門尉(純兵)が、寛永十五年二月二十八日の有馬原城本丸落城時、日高拾兵衛正盛が友野七郎・藤井助四郎と先陣し、屏際で敵の石打ちを受けて三間ほどの石垣から落ちながら名誉を遂げたことを、自身も同じく城乗して実見したとして、三月朔日に日高へ渡した証文。

  86. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 405-3 友野七郎実見証文

    友野七郎が、寛永十五年二月二十八日の有馬原城落城時、日高十兵衛正盛が有馬久右衛門・藤井助四郎と一番に城乗し、屏際で敵の石打ちを受けて三間ほどの石垣から落ちながら名誉を遂げたことを、自身も同じく城乗して実見したとして、三月朔日に日高へ渡した証文。

  87. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 405-4 伊地知季安記事

    伊地知季安が、日高十兵衛正盛は帰国後に右の石疵が瘍となり、その年五月二十九日に死去し、隆盛院に葬られて一雄宗将居士と法諡されたと記す。従軍時の胄と右の三通の証文は七代孫の日高与一左衛門が珍蔵し、胄には石痕がなお残るという。

  88. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 406 小原織部取払留

    小原織部の取払帳。三月朔日、有馬で主従十五人の十日分として真米三斗七升五合と赤米三斗七升五合を受け取り、二月二十六日朝から三月六日までの算用とする。出入賄では真米六升を記し、買物方では赤米六斗を銀二十三匁二分、真米三斗一升を銀十四匁とし、赤米一升を鰺五尾の代に八右衛門が使ったと記す。各項に前後記事の…

  89. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 407-1 友野七郎実見証文

    友野七郎が、本文に欠字を含む(寛永か)十五年二月二十八日の有馬(原之城か)攻めで、藤井助四郎が有馬久右衛門・日高拾兵衛と一番に城乗し、屏際で敵の鑓を奪い取ったのを、自身も同所へ城乗して実見したとして、三月朔日に藤井へ渡した証文。

  90. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 407-2 藤井助四郎系伝

    藤井助四郎の系伝は、寛永十五年二月二十八日の肥前国有馬原城攻めで、藤井助四郎・有馬久右衛門尉・日高拾兵衛・友野七郎の四人が一番に城乗し、藤井が屏際で敵の鑓を奪い、友野の実見証文一通とその鑓一本が伝わると記す。鑓は『兼門』銘の長鋒で、鋒先九寸五分、幅七分、中心一尺二寸とし、図を掲げる。

  91. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 408 平塞録

    『平塞録』は、三月二日に妙解公が凱陣し、一揆平定により上使衆の指図で諸大将も少人数を残して二日から五日までに凱陣したと伝える。また、朔日から上使衆の下知により、小笠原信濃守・松平丹波守・有馬左衛門佐・寺沢兵庫頭の人数が原城本丸の石垣などを請け取って崩したと記す。

  92. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 409 伊地知重政実見証文

    伊地知重政が大重伝左衛門尉久永へ、寛永十五年二月二十八日に有馬の原城本丸へ乗り入り、敵の首を討ち捕らえた働きを確かに見届けたとして、後証のため暮春二日に与えた証文。

  93. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 410 村尾重候実見証文

    村尾重候が金剛坊へ、寅二月二十八日に有馬原城で、本丸の高さ三間ほどの石垣を登って屏を乗り越え、多数の敵と矢の中で格別の働きをし、その場で負傷したことを確かに見届けたとして、三月二日に与えた証文。

  94. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 411 村尾重候実見証文

    村尾重候が岩崎弾之丞へ、寅二月二十八日に有馬原城で、本丸の高さ三間ほどの石垣を登って屏を乗り越え、敵二人を仕留めた比類ない働きを、その場で確かに見届けたとして、三月二日に与えた証文。

  95. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 412 村尾重候実見証文

    村尾重候が赤川弥七郎へ、寅二月二十八日に有馬原城で、本丸の高さ三間ほどの石垣を登って屏を乗り越え、敵一人を仕留めた比類ない働きを、その場で確かに見届けたとして、三月二日に与えた証文。

  96. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 413 小原織部取払留

    小原織部の取払帳は、三月二日に宿元で豆腐二丁を買い、その代として真米一升二合を支払ったと記す。編者注は、上文を朔日、下文を三日に載せたため、ここでは略したとする。

  97. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 414 伊地知季安記事

    この日、加久藤士前田内蔵介が僕の市之介を伴い、有馬から鹿児島へ使者として赴いて帰ったと記す。

  98. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 415 伊地知重政実見証文

    伊地知重政が伊尻三郎右衛門尉祐永へ、寛永十五年二月二十八日の原城本丸への城乗時、祐永の最初の鑓合を脇から見届けたと証明した文書。その後に先へ進んでからの手柄は知らないと、実見範囲を限定して三月二日に証文を与える。

  99. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 416 北郷久加世別記

    富岡で天草退衆の改めを行うため、渋谷伯耆守重国と北郷久加が富岡へ渡り、主税介・大和守・寺沢兵庫頭の家中衆と参会して改めることになった。山田民部有栄から有馬より問い合わせがあり、重国・久加は三月二日に上津浦から出船したと記す。

  100. 旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 417 堀興延自記

    島原一揆の落人に備えて浦々の番を厳重にするよう諸国へ命じられたため、堀興延は三十三歳で久志浦地頭甚左衛門の名代として、寅年三月二日に久志浦へ赴き勤番した。四月十三日に帰宅し、落人はいなかったと記す。