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旧記雑録拾遺 著作史料集2の目録
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旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 510 小川監物日記
寛永十六年正月二十日、御祭礼が通例どおり行われ、伊集院宮内少が名代を務めた。家老中から届いた掟条書のうち、禁断日、キリシタン宗、耕作人等に関する事項を衆中へ申し渡したと記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 511-1 某記事
この年、入来院石見守重国・島津豊後守久賀が奉行となって手札改めを行い、加久藤へは柳元喜左衛門宗真が改衆として派遣されたと記す。続いて、その時の古帳類を掲げる旨を示す導入記事である。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 511-2 八日町五人与日記
八日町の五人組名簿に続き、キリシタン宗を法度どおり厳重に取り締まること、往来の旅人は一夜泊まりでも組内で詳しく尋ねたうえで宿を貸し、不審者は届け出ることを定める。先年の札改め後に住み着いた旅人や他国の医者・山伏に紛れた宗徒を組内で見逃せば、五人組一同を厳罰に処すとする。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 512 野村元綱書状
野村元綱は伊地知重政へ文箱を送り、キリシタン改めで派遣された奉行衆と相談して当地の天道宗を速やかに改めるよう求める。天道宗の師匠が曽木に住むとの情報が確かなら曽木も改める必要があるため、札改奉行の田原主殿・関主殿へ知らせるよう命じ、老中から曽木の担当者にも同様の書状が送られたと伝える。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 513 加久藤衆中町在郷人数改目録
寛永十二年改めの男女二千三百二十六人から他方へ出た百四十二人と死去・逃亡した百七十五人を除き、残り二千九人に、その後の入人二百八十九人・出生百二十七人を加え、寛永十六年改めを男女二千四百二十五人(男千四百六十九人・女九百五十六人)とする。内訳は地頭・衆中・小者・出家・社人等千二百六十三人(男七百五十…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 514 赤川次兵衛尉・瀬戸山種左衛門尉連署覚
赤川次兵衛尉・瀬戸山種左衛門尉は御改奉行柳元喜左衛門尉へ、寛永十二年の宗門改めで人を隠した三件の科人について報告する。八十歳余りの盲人、男女四人、三十七歳の病人孫七をそれぞれ隠したため捕縛され、五人組預けとなったが、長期拘束が難しく五人組の相談で縄を解いて引き続き預かった。第一・第三件では五人組一人…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 515 上田三左衛門尉達
大膳亮内の上田三左衛門尉は加久藤御曖衆へ、妻の妹への宗門手札交付を依頼する。妹は先年の改めの際、加治木又八郎の御前に奉公しており、御内方には手札が下されなかったため現在も所持していない。寛永十三年八月に暇を得て上田のもとへ来た後、加久藤衆中小原織部佑方へ遣わしたので、今回の改奉行へ申し入れて手札を下…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 516 伊勢貞長書状
伊勢貞長は伊地知重政へ、札改めで加久藤に潜伏していると判明した走者を至急返すよう重ねて求める。一人は貞長が召し使った時は八介と称し、名を変えて隠れている者で、ほかにもう一人いるため両人を送ることとする。本文前段では三日以内に昼夜を問わず送るよう命じ、後段では鹿児島へ三月中に送り、拒めば縛って送るよう…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 517 柳元宗真覚
柳元喜左衛門宗真は加久藤の改め結果と処理事項を列記する。改帳を納め、八十人分の切札のうち五十三人分は科料を添えて召し上げ、残る二十七人分を返却し、黒札三枚を交換、おろし札四人分の科料を納めた。牛馬死札三十一帳を有馬主馬首へ渡し、年・馬の区分が違う一札には銀二匁の科料を付した。先年改めの拘束者は、当時…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 518 市来宗友覚
市来八左衛門宗友は野村新兵衛・谷口助右衛門ら曖衆へ七か条を申し渡す。上様のため悪いとの風聞は小事でも早く報告すること、キリシタン宗門と一向宗を念入りに探索すること、老若を問わず気ままな者を調べること、御立狩倉へ行司衆以外が立ち入れば報告すること、諸事を曖衆三人で十分相談すること、宗友自身についても善…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 519 喜入忠政書状
喜入忠政は加世田曖衆へ、片浦源之丞一類の『宗躰改』を昼夜を問わず急ぎ、その様子を確かな者に調べさせて三日以内に必ず報告するよう命じる。江戸への使者が近日出立するため油断を戒め、当人らを差し越して確実に引き渡すよう求める。編者は忠政自筆の案文とする一方、年次不詳のため暫定的にここへ収録し、小川日記で再…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 520 島津光久条書
島津光久が家督後初めて下国した際の条書。将軍から国中で奢りや華美をなくすよう直接命じられたとして、先代黄門の時と変わらぬ政務、諸士の専横禁止、訴訟・申出の適正処理、幕府法度の遵守、武具・馬具と軍役の準備、酒色の節制、年貢・出物の未進防止を命じる。さらに刀・脇指、髪形、衣類等の華美、徒党・荷担・落書・…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 521-1 寛明日記
寛明日記が、寛永十六年己卯七月五日に条書が仰せ出されたと記す導入記事で、後続の文書521-2・521-3を日付とともに位置付ける。目録の年月日は空欄であるため、本文の七月五日はB列へ補入しない。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 521-2 井伊直孝外六名連署条書
幕府年寄衆七名は、日本で禁制のキリシタン宗門について、伴天連や宗徒がなお密かに渡来して布教し、宗門の者が徒党を結んで邪義を企て、海外から隠れ場所へ物資を送り与えているとして処罰を命じる。このため以後の相互渡海を停止し、違反して渡海した場合は船を破却し、乗来者をすべて斬刑に処すとする。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 521-3 松平信綱外二名連署条書
幕府年寄衆は、キリシタン禁制後も海外から伴天連が密かに渡来するため、かれうた船(傍注『臥流陀船』)の着岸を禁止する。領内の浦々に確かな見張りを常置して不審船を厳重に改め、異国船着岸時は乗員数を調べて上陸させず、直ちに長崎へ送ること、不審者の乗来や船荷の密かな陸揚げを申告した者へ身分に応じ褒美を与え、…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 522 島津光久禁制奥書
島津光久は、前掲の禁制が上使大田備中守を長崎へ派遣して江戸の年寄衆から諸国へ伝達された命令であるとして、堅固に守るよう命じる。八月二十三日に内容を高札へ納めて御家中の諸所に立て置き、肥後国でも同様に実施されたと記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 523 小川監物日記
加世田小川監物日記は、天下からのキリシタン禁制高札と当家老衆の高札を新納次郎四郎・阿蘇主殿助が持参し、弓場で披露した後、町へ立てたと記す。本文には十四日の見出しがあり、この年九月の記事として確認できるが、目録年月日は空欄のためB列へ補入しない。編者は本記事が文書521-3の行間にあると注記する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 524 伊勢貞昌書状
伊勢貞昌は霜臺様へ、出銀未進の利銀二割、黄門の納戸銀借用分の返上利三割、押並銀の利二割という銀徴収は道理にかなうものの、新たな代の初めに直ちに厳行すれば家臣の不満を招くとして、一、二年の猶予や事情聴取を勧める。あわせて、家中の心を一つにすること、家臣を召して直接意見を聞き、依怙なく是非を判断すること…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 525 島津久慶外四名連署書状
島津久慶ら五名は加久藤噯衆中らへ、キリシタン宗門の者が医者・山伏・出家、牢人、居付の旅人・商人などを装い、辺地の寺門前、人里離れた村や空家へ潜伏する可能性があるため、継続して念入りに糺明するよう命じる。潜伏者を匿った屋敷主は厳罰とし、他国で取締りが厳しいため姿を変えて当国へ入る者があるとして、国境の…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 526 幕府条書
幕府は、キリシタン禁制と『かれうた船』の渡海停止に反して同船が長崎へ来航したため、以後は乗来者をことごとく斬罪に処すと命じる。各領分の海上を見渡せる場所に常時番人を置き、船を早期発見して注進し、経験者に長崎まで案内させる一方、独断で追撃してはならないとする。いずれの港でも幸力摂津守・長崎奉行人の指図…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 527 寛明日記
寛明日記は、寛永十七年六月七日、前月に風で長崎へ漂着した天川人六十余人が、全員キリシタンで盗賊との風聞もあったため梟首されたと記す。続けて、筑紫に牛頭のような形で剣状の突起を持ち、蟇ほどの大きさの虫が現れ、世間では耶蘇の亡霊かと噂したという記事を載せる。目録年月日は空欄のため、本文日付はB列へ補入し…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 528 小川監物日記
加世田小川監物日記は、この年六月十九日、前年に再渡航すれば処刑すると命じられていた天川船が長崎へ来航し、客衆・中乗衆は処刑、船衆だけは残され、南蛮へ帰して永代往来停止を伝えさせたと記す。幸力摂津守と江戸からの奉行二名が長崎へ赴き、当国でも警固が強化されたという。さらに三原左衛門佐に当所衆中二十人を付…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 529 島津光久書状
島津光久は鎌田政統・島津久元・島津久慶へ、相良清兵衛が相良家中を意のままにし、壱岐守を遠ざけ、親類や気に入った者には良い知行、壱岐守に仕える者には悪所を与えたため、壱岐守が幕府年寄衆へ訴え、詮議と処罰が見込まれると知らせる。清兵衛が召しに応じず籠居する場合に備え、新納加賀守らへ人数を率いて参集させ、…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 530 島津久慶書状
島津久慶は入来院左兵衛らへ、相良清兵衛の留守を守る大童半兵衛が七日未明に壱岐守の留守居衆と衝突し、半兵衛の子は一手で切り出して討たれ、半兵衛は約四百人で籠城し、清兵衛の宿所が焼かれたと伝える。ただし江戸からの情報には異説があり、清兵衛召喚や相良側の訴訟・処置をめぐる見通しを記す。人員を預け置くかなど…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 531 人衆賦帳
寛永十七年七月九日の人衆賦帳で、須木口・大口・加久藤口などの各方面へ、須木・小林・野尻・高原・高岡・鹿児島等の郷衆中と島津家諸士を組み分けし、各人の高、全役・半役、主従人数を列記する。複数の組に『合五百人』等の総計欄があり、国境方面へおおむね五百人単位で人衆を割り付けた構成を示す。冒頭の須木口一与は…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 532 米良頼貞・菱刈重信連署書状
米良頼貞・菱刈重信は三原重庸らへ、相良清兵衛を江戸へ召し登せるとの上意を相良壱岐守から受け、清兵衛が前月二十日に当地を出立したと報告する。その留守中、大童半兵衛らが同心して逆心を起こしたため討ち果たし、残るところなく鎮定したので安心するよう伝える。去る八日の当地の状況は伊地知弥右衛門尉を介して注進し…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 533 相良清兵衛口事日記
相良清兵衛の口事に伴う大童伴兵衛方籠城の経過と損害を記す日記。伴兵衛親子三人をはじめ、親族、山伏四人、出家一人、内の者二十人余、女五十二人ほどが清兵衛宿所を構えて籠城し、寄手がこれを攻めた。寄手側の損害は合計百二十一人で、内訳を死者百十人・負傷十一人とする。七月十二日の事件記事に続き、松平石見守家中…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 534 諸家大概
『諸家大概』は、相良源五左衛門の養祖父相良清兵衛が求麻相良氏の家老であったが、家中から疎まれて騒動となり、公儀に召し上げられて父子とも預け置かれたとする。清兵衛の子内蔵助、その子内蔵允へと続き、内蔵助の妻が島津家久の娘であった由緒から島津家に召し抱えられ、下高二千石を与えられたと記す。内蔵助はそれ以…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 535 天草覚書
『天草覚書』は、寛永十八年から天草が代官鈴木三郎九郎の支配となり、同年九月十一日の奉書によって富岡在番を細川越中守へ命じたと記す。目録年月日は空欄のため、本文の九月十一日はB列へ補入しない。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 536 北郷久加世別記
北郷久加が寛永十八年十月五日、国老の尋ねに対して書物を提出した記事と、その表紙書きを収める。表紙には寛永十八年九月二十八日から明暦三年十一月七日までを収める旨、『寛永軍徴巻之二十 餘響の巻』『合弐拾壱冊』などを記す。さらに、この後には寛永以後の事柄も混じるが、いずれもその余響に当たるため付載したと説…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 537 島津久賀外五名連署差出
山田有栄ら六名は、寛永十五年正月晦日までに天草へ渡った人数を、都合五千七百三十一人、内訳は人躰二千六百十九人・雑兵三千百十二人として差し出す。内訳二項の合計は総数と一致する。文書539と人数・連署者は同じだが、本書の対象期日は『正月晦日まで』であり、539の『正月朔日まで』と区別する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 538 伊地知季安記事
伊地知季安は、寛永十八年二月十二日に提出された三通を記録する。第一は谷口次郎左衛門尉・伊地知弥右衛門による地頭伊地知杢右衛門尉重政主従三十二人の有馬陣立差出、第二は加久藤衆中の人躰・被官・夫丸九十五人の同断差出、第三は検地寺領衆自力立・一向宗寺領衆自力立の差出である。三通は寛永十五年正月十六日の箇所…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 539 島津久賀外五名連署差出
山田有栄ら六名は、寛永十五年正月朔日までに天草へ渡った人数を、都合五千七百三十一人、内訳は人躰二千六百十九人・雑兵三千百十二人として差し出す。内訳二項の合計は総数と一致する。文書537と人数・連署者は同じだが、本書の対象期日は『正月朔日まで』であり、537の『正月晦日まで』と区別する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 540 山田有栄覚
山田有栄は、有馬・天草のキリシタン一揆に際し、新納加賀守ら四名が三百人を率いて肥後境へ進み、十一月十五日に獅子島へ渡ったこと、その後の撤収、板倉内膳・石谷十蔵への使者、十二月十日の有馬城攻め開始、薩摩勢の渡海・在番を記す。有馬城は二月二十八日に落ち、薩摩衆が奮戦した。有栄は松平伊豆守から暇を得て三月…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 541 使者船取仕立入目
長崎・天草・島原方面の使者船仕立て費用を記す。三枚帆一艘について、水手四人には一人六匁ずつ計銀二十四匁、水手六人には計銀三十六匁を支給し、別に一人一日赤米七合五勺ずつを渡した。往来日数に応じるため米の総数は確定できず、同様の数十行は編者が省略した。平田民部宗直家伝来の九冊を御船手へ提出した後、平瀬武…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 542 続長崎鑑
『続長崎鑑』は、寛永十八年にオランダ人を平戸から長崎へ移して出島に置いたこと、その時の奉行が山崎権八・馬場三郎左衛門であり、貞享四年まで四十七年になると記す。また出島の築造は寛永十三年で、奉行榊原飛騨守・馬場三郎左衛門の代に完成したとする。目録年月日は空欄のため、記事中の年次をB列へ補入しない。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 543 島津久賀外三名連署覚
島津久賀ら四名は、有馬・天草へ出陣した鹿児島・外城衆のうち御賦銀を受けていない者が支給を願い続けているとし、江戸の老中談合後に出物方で差し引いて支給するとの話も実現していないため、この機会に必ず取り次ぐよう野村大学・仁礼主計へ求める。数年支給がなく家計が続かない事情を訴える。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 544 天草江移百姓人数並馬道具帳
天草の明地へ移す百姓について、出身村、家長、男女人数、馬匹、農具・鍋釜・桶・種などを戸別に列記する。全三十戸の人数は男女計百五十六人、馬は四十五疋である。冒頭の一戸では鋤一丁・まんが一つ・鍬三具・鎌三具などを明記し、後続戸は同断または個別の道具を記す。編者は寛永十九年七月十六日の奉書による移住とみな…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 545-1 御役元基
寛永十九年十二月、城下士を初めて十組に分け、各組に組頭二名を置いた由来と、一番から十番までの組頭二十名を列記する。別に家老組一組を設け、島津弾正久慶・島津図書久通を与頭とした。寺社家組・諸役座組なども分け、合計二十六組を置いたと記す。目録年月日は空欄のため、本文の年月をB列へ補入しない。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 545-2 島津光久条書
与頭衆に対し、組中の野心・不忠を速やかに報告し、喧嘩を談合で収め、奉公を談合のうえ割り付けるよう命じる。病気を装うなど奉公を難渋する者は処罰し、キリシタン宗・一向宗の者を糺明して報告すること、組内が緩んだ場合は与頭・談合衆の責任とすること、訴訟等は与頭を経ずに公儀へ申し出ても受理しないことを定める。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 545-3 島津氏老臣条書
与之衆に対し、与頭の下知に背かず、指示に対して気任せに振る舞わないこと、出陣・在江戸・狩などを命じられた際に異議を申し立てないことを定める。喧嘩・口論は遅滞なく与頭へ報告し、訴訟等も与頭を経て公儀へ申し出るよう命じる。末尾は、与頭が条々を伝達する取次として小組頭を置いたと記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 546 島津久元外二名連署達
江戸から、奥州でキリシタンが多数召し捕らえられ、逃亡者が諸国へ散るおそれがあるとの知らせがあったため、三名は地頭・衆中へ、怪しい者の通報、素性不明の旅人の宿泊禁止、巡礼・流浪者の追放を命じる。併せて、金山などでの密鋳銭を禁じ、発見時は報告して公儀法度により賞罰すること、金山に滞在した異国人が外城・在…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 547 北郷久加達
北郷久加は、高七千六百九十二石に対する軍役として、武具持六十六人、馬印持・小指持・兜持・草履取各一人と馬取四人の計八人、歩兵三十人、夫丸二十二人、騎馬十五騎に一騎当たり主従七人の百五人、合計二百三十一人を差し出すとする。大小の船五艘も自船で用意し、出陣命令時に不足なく勤める旨を届ける。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 548 川上久国外三名連署廻状
江戸の老中から島津図書頭・新納右衛門佐を通じて異国船警戒の命があったため、四名は沿岸・境目の警固を厳重にし、伴天連らが上陸しても内地へ入れないよう命じる。前年夏に筑前大島で捕らえられ江戸へ送られた南蛮人の陳述を添えて、溝辺・横川・栗野・吉松・吉田・馬関田・加久藤・飯野・須木・小林・高原・野尻・綾・高…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 549 伴天連入満陳述書写
筑前大島で捕縛された南蛮の伴天連・イルマン・同宿は、ローマ教皇が諸国へ宣教師を送りキリシタンを広め、領国化を図っていると陳述する。日本は攻略しにくいため、日本語・風俗・法令・仏神の教えを学ばせ、外国語へ翻訳・印刷したうえで再来日させ、宗門を広めようとしていると述べる。鎌田政昭の自記に収めた写しである…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 550 中俣市兵衛差出
中條市兵衛は、夫丸二十八人を含む百六人が正月十日に出立した後、二月十九日に三十四人が呼び戻され二十二日に帰宅して各四十三日となったことを報告する。残る七十二人のうち三人は二月二十八日に江戸役へ付け替えられ、上津浦を出船して三月二日に帰宅し各五十三日、残る六十九人は三月十四日に暇を得て十七日に帰宅し各…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 551-1 松下源五左衛門尉差出
有馬・島原出陣衆の人数・日数と兵糧米不足を精算する。人躰は第一組百四十人に市来八左衛門与力の貴島小左衛門一人を加えた百四十一人、第二組九十人で、合計二百三十一人。下人は第一組百二十五人、貴島分二人、第二組六十二人で合計百八十九人。支給不足は真米二十三石七升五合、赤米二十石八升とする。市来八左衛門保管…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 551-2 谷山民部左衛門尉外八名連署添状
前件の兵糧不足銀を支給するため、吉田二郎兵衛尉・黒田三左衛門・土持左馬権頭から正月十七日に通知を受けた九名は、市来八左衛門保管の米受取証文が火災で焼失していたため、関係者を三日間集めて出陣日数と人数を照合し、算用した旨を添える。鹿児島への使者は佐濱車右衛門である。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 552 某差出
阿久根蔵からの真米二十七石八斗四升二合と天草で受け取った二石六斗、計三十石四斗四升二合のうち、十石九斗五升九合を田上九郎兵衛・小幡主膳正へ返納し、残りを十九石四斗八升三合とする。支出は人躰八十九人の三千三百二十七人日分十六石六斗三升五合、小者・夫丸十六人の四百十八人日分二石九升、大石小監物主従二人の…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 553 天草立軍衆覚
天草出陣衆の延べ人日を一日賦で集計する。鹿児島衆は十万四千四百二十五人日で、人躰九千四十九人日、被官・夫九万五千三百七十六人日。外城衆は十五万六千八十三人日で、人躰十一万二千七百六十六人日、被官・夫四万三千三百十七人日。総計二十六万五百八人日は、人躰十二万一千四百二十五人日、被官・夫十三万九千八十三…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 554-1 鎌田政昭自記
有馬・天草両陣と獅子島・長島番手の延べ人日を集計する。鹿児島衆十六万二千百六十六、外城衆二十六万七千二百九十六、出水・阿久根・高尾野衆一万五千九百六十五、長島等の自飯米衆三千五百八十二で、計四十四万九千九人日。内訳は人躰二十万八千七百七十、被官・夫二十四万二百三十九である。併記の銀子は元銀四貫四百五…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 554-2 有馬天草両陣軍衆人数究一紙
有馬出陣衆の延べ人日を一日賦で集計する。鹿児島衆五万七千七百四十一人日は人躰三千七百五、小者・夫五万四千三十六。外城衆十一万一千二百十三人日は人躰六万九千六十九、小者・夫四万二千百四十四。獅子島・長島番手の外城衆一万五千九百六十五人日は人躰一万一千五百九十九、小者・夫四千三百六十六。長島・西目・大瀬…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 555 有馬立軍衆人数究
有馬出陣衆の延べ人日を一日賦で集計した別本で、鹿児島衆五万七千七百四十一、外城衆十一万一千二百十三、獅子島・長島番手の外城衆一万五千九百六十五、長島・西目・大瀬・小瀬の地下衆自飯米三千五百八十二、総計十八万八千五百一人日とする。人躰八万七千九百五十五、小者・夫十万五百四十六で、前文書と同じ集計内容だ…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 556 有馬立軍衆人数究
本文は天草出陣衆の延べ人日を一日賦で集計し、鹿児島衆十万四千四百二十五、外城衆十五万六千八十三、総計二十六万五百八人日とする。内訳は人躰十二万一千四百二十五、被官・夫十三万九千八十三で、文書553と同内容である。本文日付は二月三日だが、目録は標題を「有馬立軍衆人数究」、年月日を寛永二十一年二月五日と…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 557 天草立軍衆覚
本文は有馬・天草両陣と長島・獅子島番手の延べ人日を集計する。鹿児島衆十六万二千百六十六、外城衆二十六万七千二百九十六、出水・阿久根・高尾野衆一万五千九百六十五、長島等の自飯米衆三千五百八十二で計四十四万九千九人日とし、さらに前々に賦方を始めた衆二万五千二百十七人日を加え、総計四十七万四千二百二十六人…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 558 有馬天草両陣軍衆人数究一紙
本文は銀子四貫四百五十五匁と利銀十貫二百八十三匁三分五厘を掲げ、本利合十四貫七百三十八匁三分五厘八毛とする。寛永十四年十二月から「慶喜二年」二月まで七十一か月、閏月を含め、一か月につき百目に二匁の利と記す。目録標題は有馬・天草両陣軍衆の人数究だが、本文は利銀計算のみであり、後続の編者記事は慶喜二年表…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 559-1 伊地知季安記事
伊地知季安は、前文書の「慶喜二年」という年号を、加久藤の古帳に照らして偽説とし、正保改元以前のことと考えられるため、考証として注記した。目録年月日は空欄のため、推定年をB列へ補入しない。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 559-2 伊集院右衛門佑・種子島左近丞連署廻状
当春の札改めで新年号を「慶喜」と書いた札について、その年号は風説にすぎないため、札を作成した筆者へ命じて年号部分だけを寛永へ書き直し、諸帳も訂正するよう十五外城へ回覧する。新札の書き直しに要する間の飯米は各所の役負担とする。目録は正保二年五月十日だが、本文には「正保元年」とある。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 560-1 鹿籠御廻文留
長崎へ来航した唐船にキリシタンの唐人がいるとの訴えから、拷問で天川における南蛮宗への勧誘と日本・大明への渡航企図が判明したとして、唐船を厳重に改めるよう命じる。唐人を給水のためにも上陸させず、陸から船へ水を渡すこと、入港船には番衆を付けて直ちに鹿児島へ報告し、必要に応じ宰領を付け長崎へ送ることを定め…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 560-2 島津久通外三名連署申渡書
前文書の唐船・唐人警戒の趣旨を各地域の浦々へ確実に申し渡すよう、島津安芸守以下の地頭・役人へ命じる。本文は寛永二十一年十月三日付で四名が連署するが、目録年月日は寛永二十一年九月晦日である。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 560-3 島津久通外三名連署廻状
唐船・キリシタン・他国人の警戒を沿岸諸所へ回覧し、各所で受取日と次所への引渡日を宛所下へ記し役衆が判を据え、回覧後は秋目から鹿児島へ返すよう命じる。唐船への唐人乗船・荷役は上陸を避け、キリシタンが名を替えることや無手形の不審者を改め、該当者を捕らえて鹿児島へ報告する。本文日付は寛永二十一年十月二十六…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 561-1 島津久通外三名連署廻状
本文は武具担当を定め、鎧・旗・馬験・幟・小指等を平田藤右衛門景則、鑓・太刀・長刀を平山七兵衛尉忠昭、弓を三原伝左衛門尉重隆、鉄砲を東郷喜右衛門尉、玉薬を児玉四郎兵衛尉利実に割り当てる。本文は「正保元年か」とする六月二十一日付だが、目録は標題を島津久通外三名連署廻状、年月日を寛永二十一年十月二十六日と…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 561-2 児玉利実書留
五月十八日夜、東郷喜右衛門と児玉利実は御前へ召され、御道具衆の総書立を作るよう命じられ、六月十三日に提出した。御道具衆を早く四百人に達させる旨を新納刑部少殿から家老へ申し上げ、添状を付して須田十郎兵衛の下向時に国元へ送ること、当該組分は町田勘解由・平田狩野介から受け取り写しを送ったことを記す。目録年…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 561-3 児玉利実覚書
御道具衆四百人について、前代から召し仕えた三百六十人と近年任命した四十人を挙げ、細工人の扶持、馬屋方、御船手定水衆二百人のうち近年任命の百人、作事方、犬井付衆、歴々衆の扶持銀、二十人衆の取立、小姓衆の増員、近年召し抱えた男女を列挙する。書立は権兵衛・豊前の座へ出し、奈五左衛門が受け取った。本文は正月…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 561-4 児玉利実覚書
玉薬の在庫と不足を計算する。塩焔一万四千七百五十四斤は二千三百六十貫六百四十目、五十九石一斗六合に当たり、五匁ずつで九十四万四千二百五十六発分となる。一万人へ一人九十四発ずつ配る想定に対し、大小の玉三十五万七千六百九十四発しかなく、玉不足は五十八万六千五百六十二発とする。別に白塩焔二万二千五百三十斤…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 561-5 児玉利実覚書
編者は、前文の玉薬方の組分書留について、児玉四郎兵衛利実が御兵具奉行のうちから玉薬方を分掌するよう命じられたため作成したものと推考する。書留は子孫家に伝来し、利実は児玉筑後守利昌の子で島原立にも参陣した人物だと記す。目録年月日は正月七日だが、本文自体に日付はない。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 562-1 児玉利実覚書
若君の四月元服に伴う奉行衆の振舞いへ西弥左衛門ら五人を召し寄せること、秋目地頭には港務に通じた者を置くことを求める。また従来は高三百石以上を乗馬とした軍役を、今後は二百石以上を乗馬、百石以上を小荷駄とする旨を申し渡す。本文は正保二年正月十八日付の新納久詮・北郷久加連署書状だが、目録は年月日空欄・標題…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 562-2 北郷久加・新納久詮連署書状
編者は、右の仰せ出し以前の御作法が左の通り見えるため、知っておくべき事としてここへ抜き書きすると記す。目録は正保二年正月十八日付の北郷久加・新納久詮連署書状とするが、固定ID本文は日付・署名のない編者記事である。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 562-3 伊地知季安記事
同姓権左衛門重昶は、残高三十四石ながら数十年にわたり自他国・江戸で役儀を勤め、主従三人から八人までの御賦を受けたと述べる。当時は高二百~二百九十九石が主従四人、三百石以上が騎馬という作法であったが、自身は役により百石・二百石・三百石以上相当の御賦を受け、先祖の光もあったかと考える。本文は延宝六年四月…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 562-4 伊地知重利書状
編者は、権左衛門が寛永十五年に二十二歳で光久の江戸供を勤め、同十七年の年頭使、同十九年三月の上屋敷普請奉行などを務めた経歴を挙げる。正保二年の制度改定後も三十四石で百石・二百石・三百石以上の者に準じる御賦を受けたのは、先祖の光というより、高役に召し仕われた人材を重んじた当時の運用によるものではないか…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 563 島津久通外二名連署廻状
『御役元基』から、正保二年二月に光久が久慶へ、国内のキリシタンを油断なく探索し、唐船・キリシタン対応は弾正ら老中と相談して入港時に十人衆を派遣し、手筈違いは久慶一人の越度になると命じた部分を引く。続けて、寛永十九年十二月に城下士を十二組へ分け、正保三年に六組へ改めたこと、家老組は別に置かれ城近辺の士…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 564 某四名連署書状
唐船が港へ入り、または沖に掛かった場合は昼夜を問わず厳重に番を付け、唐人が許可なく出帆しようとすれば功者二人を長崎へ直送して荒木加左衛門へ届けるよう命じる。掛け出した唐船を追って長崎へ赴く費用・飯米は後日算用で支給し、状を各所へ写して遅滞なく回覧する。本文は正保二年三月十七日付で日置から山川までの役…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 565 西田時通外三名連署書状
長崎にキリシタン宗の者が一町いて、その衆が発したとの風説と、相手方からも使者を差し越すとの噂について真偽を尋ねるため、一人を遣わし詳しい返報を求める。本文は正保二年五月五日付で差出を「四人」とのみ記し、番衆奥甚介に持たせ口上でも詳述させる。目録は差出を西田時通外三名とする。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 566 某四名連署書状
町人千介が求麻で聞いた、長崎にキリシタン宗の者が一町いて人々が離散したとの風説について、窪田新兵衛の話とは少し違うと断りながら新納刑部忠秀へ報告する。求麻・求広からも飛脚を長崎へ遣わして実否を確かめるといい、境目の事なので続報するとする。本文は正保二年五月五日付だが、目録年月日は正保二年五月二十七日…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 567 鎌田政昭自記
殿の下向について田舎では確かな情報がなく、伊地知杢右衛門尉重政の四月二十六日付書状以後も続報がないと報告する。異国船の雑説も確証がなく、求麻へ一人を遣わして聞き取ったが新情報はない一方、行先不明ながら鉄砲衆三百人を召し置き玉薬を調え、大畑町にも鉄砲衆二人ずつを置いたとの情報を伝える。本文は正保二年五…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 568-1 某奉行達
薩摩国出水村へ無人の異国船一艘が漂着したため、宣教師やキリシタン宗徒が上陸した可能性を想定し、匿った者は宿主だけでなく一類・隣家・在所の者まで処罰すると触れる。一方、キリシタン本人でも訴人となれば罪を許して褒美を与え、今後も同様に扱うと定める。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 568-2 島津久慶外三名連署下知状
出水針原の磯へ異国の釣舟が漂着し、舟人はいないものの船内外に生活の痕跡が見えたため、分国内を密かに探索し江戸へ報告した。近郷・島々まで捜して不審者を発見できなかったところ、公儀の高札が下ったので、行方不明のキリシタンを申し出た者には褒美を与え、見逃し・聞き逃した者は高札どおり厳罰に処すよう下知する。…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 568-3 三原重庸書状
軍役の与分けを改め、川上上野守・渋谷岩見守・三原重庸の三人を一与の与頭とし、与中の触方を三つに分けて籤取りしたため、門司安右衛門が三原の触方になったと知らせる。弓・鉄砲・玉薬・鑓・馬鞍・具足・指物を入念に改め、前年の出銀二両八分の皆済状況を詳しく返答するよう求める。本文年次は正保三年かとの編者比定で…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 569 伊東祐充持高人数賦
伊東祐充の持高七百四十八石九斗二合二才に、百石につき三人役を適用した人数賦。馬廻二十人(本人を含め二十一人)、鉄砲足軽二人、小姓四人、手道具足軽四人、草履取一人、中間二人、鎧箱二人、弁当箱二人、挟箱二人、小荷付小姓一人、九人重みを合わせて総人数五十人とする。衆中二十人の内訳は持道具五人・鉄砲五人・弓…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 570 小川監物日記
正保四年七月一日、南蛮船二艘が長崎へ着いたとの報で、五日に川内衆を揃え、加世田から百三十人を賦課した。高百石以下三十石まで、二十石以下、無足衆で人夫・飯米・兵具負担を分け、各地の兵を召集して長崎方面へ遣わした。その後八月九日に帰還したが、沖の黒船を警戒して麓衆を小松原浜辺へ集め、磯辺・浜辺に一町ごと…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 571 加治木吉祥寺僧春良覚書
正保四年六月二十四日、長崎へ南蛮船二艘が入津したため、江戸から山崎権八・井上筑後守・松平讃岐守が上使として下向し、九州諸大名も兵船を催したが、八月六日に船は無事帰帆したと記す。季安は、次に掲げる御賦がこの時のものかと考証し、原本は田尻種甫所蔵と注記する。目録年月日は空欄である。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 572-1 伊地知季安記事
季安は、右の南蛮船渡来時に出水地頭山田昌岩へ諸所の手当が命じられ、その問合書などの本書が出水地頭仮屋にあるとして、以下に掲げる文書群の由来を説明する。目録年月日は空欄である。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 572-2 市来家昌覚
出水衆のうち長崎へ向かう者の飯米は当初倉戸で渡す予定だったが、福之江に米があるため、同地で渡すよう面高主馬へ申し渡す。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 573 島津久慶外三名連署廻状
江戸の奉行衆が、各浦に以前から異国の漂流船が来ながら披露せず留め置いた例がないか把握したいとして、新納右衛門佐へ照会した。そこで各浦・島を早急に聞き合わせて報告するよう外城へ回覧する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 574 島津久慶外三名連署覚
長崎へ黒船が来着したため、国内の浦々に堅固な警固衆を置くよう長崎奉行から人数催促があったと伝える。黒船は江戸の下知を待つが、それ以前に勝手に帰帆して長崎から漏れ出た場合は可能な限り押し留め、必要なら防戦する。軍衆は下知に従い、物頭の指示を守り、自分の主取の手を離れて他隊で分捕・高名をしてはならないと…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 575 島津久度外二名連署廻状
山田民部少輔が出水瀬之浦から隼人之迫川口まで赴くため、同所から人数を求める連絡があれば夜昼を問わず急ぎ参集するよう、出水・高尾野・阿久根の役衆へ回覧する。本文署名は北郷久加・川上久国・島津久慶だが、目録標題は島津久度外二名連署廻状とする。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 576 川越重昌・相良頼元連署書状
島津久慶から、瀬之浦へ赴く山田民部少輔の乗船として二艘ほどを送るよう命じられたため、人数を確認して船賦する意向を伝える。しかし近辺の水手は長崎へ出て不在なので、出水諸浦の水主を残らず久見崎御船手へ急ぎ集め、乗船を米之津へ回すか別所へ回すか山田民部少輔に確認して返答するよう求める。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 577 某証文
以前に異国の漂流船が来たのを披露せず留め置いたことはないかとの尋ねに対し、浦中の者へ繰り返し申し聞かせたが、津浦はもちろん海上でも見かけた事実はないと証言する。申告に相違があれば処罰を受けるとして後証のため提出する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 578 中馬重辰書状
多田崎の遠見番衆から、げずみ沖に大船が見えるとの報告があったと知らせる。船は遠く詳細不明だが帆二つが見え、船首は南へ向いているようだといい、変化があれば追って報告するとする。七月五日戌初刻付。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 579 賦所達
賦所は、指宿内蔵助らに対し、瀬之浦へ赴いて飯米を受け、山田主計助の下知で乗船するよう命じる。別に人躰12人・持夫3人を用意し、三枚帆3艘へ各4人を乗せ、4人ごとに相中夫1人を付ける。飯米は福之江で受けるが、長崎まで派遣するものではないとする。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 580 谷山民部左衛門・野村利兵衛連署覚
長崎への黒船着岸により蒲生衆士161人を派遣し、谷口助右衛門ら5人を主取とする。軍役は5人と相談して滞りなく整え、その指示に難渋する者は日記に記して地頭帰任時に報告すること、宿をなるべく一所にまとめ、従者の狼藉を主人から厳禁することを定める。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 581 出水代官覚
出水代官は、武元与32人・六月田与9人・野田与9人・庄村与2人の夫丸計52人について、各地域から割り付けた相中夫をあらかじめ引き渡して待機させ、到来次第すぐ渡せるよう下代衆へ手形を出し、立衆にも事前に知らせるよう御曖衆へ命じる。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 582 堀弥右衛門尉外二名連署覚
鎌田大炊助ら3人は福之江出物蔵衆に、山田民部少輔の下知に従って諸所の軍衆へ飯米を渡すよう命じる。本手形は後で送るとし、福之江の米が払底した場合は向田で市来五兵衛へ相談するよう指示する。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 583 谷口助右衛門外四名連署差出
蒲生衆の差出として、身躰161人を高100石以上1人・30石以上16人・30石未満144人に分け、賄夫として下人18人、山元勘左衛門へ渡す夫丸36人を加え、合人数215人と報告する。武具は鉄炮152挺・鑓7本・弓1張(原記は壱帳、傍注張カ)・長刀1振とする。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 584 山田有真書状
山田有真は、京泊から船4艘が到着し、1艘を高尾野へ、1艘を地頭乗船に充て、残る11端帆・9端帆の2艘を乗合船にしたが人数に足りないため、今釜の12端帆も召し寄せたと報告する。帆1枚につき5人の配分でも不足が見込まれるため、追加船と未使用の篙を急ぎ手配するよう求める。追而書では寺領衆の集合状況も伝える…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 585 山田有真書状
山田有真は、今釜の祇園丸に必要な角材木、釘・鎹・地金、鍛冶炭を米之津・久見崎方面で手配するよう求める。乗合船に水桶・筈樽(箱カ)がなく支障するため、米之津客屋・水夫屋の品を急送させる。また船一艘につき5本として、はしけた用の竹75本を御城山から翌日届けるよう命じる。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 586 某覚
黒船の楷木は厚さ4尺余とされるため、弓・鉄炮は南蛮人が矢頃に見える時など有効な機会に放つよう協議する。石火矢で人が海へ落ちた時は僚船へ移し本船を寄せて救助し、小船から焼草を用いる策も相談する。鹿児島からの命令に従って勝手な行動を禁じ、準備済みの船は早く乗船させ、御曖衆以外で下知できる者の名簿を提出さ…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 587 山田有真廻状
山田有真は、山田民部少輔の命により楯板200枚を召し寄せるため、六月田の海辺近くの御蔵にある楯板を至急送るよう野村一郎右衛門・伊藤壱岐入道へ求め、不足分は麓方面でも相談するよう指示する。さらに急状として出水へ回し、野田・高尾野の御曖衆に速やかな転送を命じる。
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 588 山田有真書状
山田有真は番衆・使者の行き違いを報告したうえ、長崎の黒船について、鍋島勢が港口を材木で閉ざして出帆できず、船名は『がりゃん』と聞くこと、黒田勢が左右に小早2艘ずつを置くが南蛮人は自由に振る舞い、黒田勢だけでは対応困難なことを伝える。松山からの隠岐守入津や諸国からの人数参集、長崎から届いた絵図にも言及…
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 589 島津久憲外二名連署覚
新納忠清ら3人は蒲生御曖衆に、蒲生衆8人を石火矢の射撃時機に合わせて差し出し、石火矢船へ乗せるよう命じる。久見崎へ赴く予定の三原大蔵・伊東早馬介と相談するよう付記する。