亀山上皇院宣
三月八日 / 冊子 106頁
亀山上皇の意向を按察使頼親が伝えた院宣。新田宮造営について領家沙汰分を三分の一とし、神領では祈祷料田を除く残余田地から急ぎ負担させ、国衙料所分は従前の命令どおり実施するよう命じる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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三月八日 / 冊子 106頁
亀山上皇の意向を按察使頼親が伝えた院宣。新田宮造営について領家沙汰分を三分の一とし、神領では祈祷料田を除く残余田地から急ぎ負担させ、国衙料所分は従前の命令どおり実施するよう命じる。
六月廿六日 / 冊子 106頁
亀山上皇の意向を按察使頼親が伝えた院宣。新田宮造営料所について、未作地を含む負担と社家の合力で造営を完成させるよう求め、地頭・郡司らの年々の妨害を考慮して、既定の年限をさらに三年間延長すると伝える。
天文十五年三月四日 / 冊子 836頁
後奈良天皇が、坊津一乗院を勅願の浄場として皇室再興を祈るよう命じた綸旨。左中辨国光が奉じた。
永禄七年四月二日 / 冊子 132頁
筑前国聖福寺の住持職について、宗賓西堂が先例に従って執務するよう命じた足利将軍家の公帖。左中将が判を据える。
明和二年 三月廿一日(年は目録) / 冊子 50~51頁/原整理番号 159/整理ID 159
川田伊織国福が嶋津左中・髙橋此面に宛てた返書。口宣・宣旨が去る三日に届き、家老中で拝見し、先例どおり格護するよう記録奉行へ指示した。箱は左中切封のまま返す。添付の祝儀の扱いは先例を調べても、口宣を頂戴する際に当所で役人に限って本人へ祝儀を述べるという処置が見当たらなかったとする。元服・官位の先例について、国元が大御目附以上の役に往復書状で照会した結果を相談して書留を見たので、この日の便で大御目附以上から祝儀を述べ、書状を送ると報告する。なお、当地でも当該一件を調べ、相違がなければ披露するよう求める。三月廿一日付、年は目録の明和二年。注は本文書が第一五八号文書の行間朱書であるとする。
明和二年四月(日未詳) / 冊子 81頁/原整理番号 181の54/整理ID 181-54
日光山での権現百五十回御法会に伴い、使者を島津左中に命じていたが、差支えがあるため、代わりに高橋此面を命じ、急いで差し遣わす旨を申し渡すよう命じる四月付の内意書。御取次は桂馬とあり、左中へ伝える形で記す。付記は、法会使者を命じ、急ぎ明日差し遣わす旨を補う。四月十一日の朱書には、このとおり家老座で申し渡し、首尾懸へは岩下佐次右衛門を通じて伝え、即日書き上げ済みと記す。正文の代使任命・急派指示と、朱書の申し渡し・書上処理を分けて示す。
明和二年四月十一日 / 冊子 81頁/原整理番号 181の55/整理ID 181-55
四月十一日、島津左中を日光山の使者に命じていたが、差支えがあるため、その役を免じる旨が命じられたことを報告する。家老の場で申し渡し、事情を承知するためには岩下佐次右衛門を通じて伝え、首尾書をもって申し上げたと記す。宛先は島津左中殿。使者役の免除と、家老座での申し渡し・岩下を介した説明・首尾書による報告を簡潔に記録する。
明和二年四月十二日 / 冊子 83頁/原整理番号 181の61/整理ID 181-61
有川勇馬が四月十二日、来る十七日の紅葉山御宮参詣に際して予参を勤めるかどうか申し上げるよう求める書付の趣旨を承知し、薩摩守は予参を勤める心得であると届ける。御名内として有川勇馬が署す。続く首尾報告では、この書付を持参して差し出したところ、出羽守は登城中で、留守居に預け、帰宅の際に書付を差し上げる旨を用人から承ったとする。用人は渡邊源太夫と記す。同日、有川は自分が勤めた首尾を左中様へ報告している。予参の意向を届ける正文と、書付の持参・留守居への預け・用人の応答を記録した首尾報告を分けて示す。
明和二年四月十六日 / 冊子 83~84頁/原整理番号 181の64/整理ID 181-64
朱書の「書付壱通」は、明十七日の紅葉山御宮で予参を行う予定であったが、御暇を賜り、昨日御礼を済ませたため、明日は予参を勤めないと届ける書付の内容を示す。宛先は大御目付稲垣出羽守様。続く首尾報告には、佐久間新左衛門がこれを持参して差し出したところ、出羽守は登城中で、退城の際に申し上げる旨を用人から承ったとある。用人は曾根原新次郎と記す。四月十六日、佐久間は今朝自分が勤めた首尾を左中様へ報告する。添付書付の用件・宛先と、持参時の用人の応答、本人による首尾報告を分けて示す。
明和二年四月十六日 / 冊子 84頁/原整理番号 181の66/整理ID 181-66
朱書の御書付壱通は、明十七日に東叡山御宮へ参詣する予定であったが、積気のため参詣を辞退する書付について記す。御用番阿部伊豫守に宛て、山口十郎左衛門を取次として持参・差出したところ受取済となり、その取次を通じて承知した旨を、四月十六日に佐久間新左衛門が左中様へ申し出る。続く同日付の首尾報告は、紅葉山御宮の予参について、御暇を賜り昨日御礼を済ませたため、明日は予参を勤めず、今朝、大御目付稲垣出羽守へ届けたことを述べる。御用番にも届けるべきか、昨日登城した際に御並様方と相談していたが、念のため阿部伊豫守の用人牛丸久左衛門へ内談した。御暇の御礼が済んでいるので御用番への予参不勤の届出は不要との回答を用人から承知し、報告する。東叡山参詣辞退書付の受取と、紅葉山予参不勤の届出先照会を分けて示す。
明和二年四月二十一日 / 冊子 85頁/原整理番号 181の68/整理ID 181-68
東郷源五が四月二十一日、左中様へ首尾を報告する。四月十五日に日光の旅館へ、御使者此面の案内によって参上し、昨晩到着した旨を届けた。松平右近将監への取次を務める川井左傳から、追って申し上げる旨を承ったと記す。到着の案内を本人が勤めた経過と取次の応答を示す。四月十五日の参上・届出と、二十一日の首尾報告を分け、昨晩は到着届の時点の前夜として扱う。
明和二年四月二十一日 / 冊子 85頁/原整理番号 181の69/整理ID 181-69
東郷源五が四月二十一日、左中様へ首尾を報告する。四月十六日に日光の旅館へ参上し、先に指示された明十七日の御太刀献納の刻限を伺った。松平右近将監への取次川田喜内から、御目付より通達があるので御触を待つようにとの回答を承ったと記す。十六日の刻限照会、十七日の献納予定、二十一日の報告を区別し、献納の実施済みを意味する報告としては扱わない。
明和二年四月二十一日 / 冊子 86頁/原整理番号 181の71/整理ID 181-71
東照宮百五拾回御神忌法会に際し、日光山へ使者高橋此面を派遣して、御太刀一腰と御馬代黄金拾両を献納した首尾を記す。四月十七日、東郷源五が日光の本坊へ使者を案内した。御門主は御書院に出座し、老中松平右近将監、寺社奉行土岐美濃守・酒井飛弾守、大御目付筒井大和守、勘定奉行小野日向守、御目付松平庄九郎・松平縫殿頭・夏目藤四郎・新庄織部が出席した。別紙の御順書のとおり、使者が御太刀目録を持参して御書院の敷居内に備え、敷居外で平伏して退去し、奏者は東叡山執当であった。献納を済ませ、本人が案内した首尾を四月二十一日に左中様へ報告し、御順書一通を添付して差し上げる旨を申し添える。
明和二年四月二十一日 / 冊子 87~88頁/原整理番号 181の73/整理ID 181-73
日光山で御太刀献納のため本坊に揃った際、御門主から使者と副使へ御菓子・御茶を頂戴する旨が仰せ付けられたことを報告する。退散時には、立帰りの御礼を取次の者へ前もって申し置き、御主人様方が承知したうえで御礼を行うことになるため、江戸で一統が相談し、年番から廻状で通達する旨も申し合わせてあると記す。正徳の時には頂戴物等がなかったという注を付す。四月二十一日、東郷源五が左中様へ報告し、日光での拝領の仰付けと江戸帰着後の御礼手続きを区別する。
明和二年四月十八日 / 冊子 88頁/原整理番号 181の74/整理ID 181-74
日光山法会が滞りなく済んだことへの祝儀と、国許への御暇を仰せ出されたことを、使者に伝えるよう仰せ付けられた旨を記す。その御口上に応じて、今日、使者を勤めた首尾を、四月十八日に佐久間新左衛門が左中様へ報告する。法会終了への祝儀、帰国の御暇、使者への御口上伝達を分けて示し、帰国が既に済んだとの記述にはしない。 これに先行する日付のない覚には、御老中松平右近将監の取次香取庄右衛門、松平右京大夫の津田庄次兵衛、松平周防守の小田五左衛門、阿部伊豫守の太田藤蔵を載せる。御側御用人板倉佐渡守の記載に続き、取次富岡又吉がある。後半の「若御年」には「寄脱カ」の注があり、小出信濃守の取次早田軍治、松平摂津守の佐藤六左衛門、水野壹岐守の山本喜兵衛、酒井石見守の梅野八右衛門、鳥井伊賀守の小笠原丹下を載せる。取次覚と十八日付首尾の各内容・日付を分けて示す。
明和二年四月二十一日 / 冊子 89頁/原整理番号 181の76/整理ID 181-76
若君様へ一種一荷を献上した首尾を記す。日光山法会の終了への祝儀献上として、使者岩下佐次右衛門が西丸の殿上之間で、奏者松平能登守の家来荻原小市へ御目録を渡し、献上を済ませた。今朝、佐久間新左衛門本人が使者の案内を勤めた旨を、四月二十一日に左中様へ報告する。
明和二年四月二十一日 / 冊子 89頁/原整理番号 181の77/整理ID 181-77
御臺様へ一種一荷を献上した首尾を記す。日光山法会の終了への祝儀献上として、本人が使者佐久間九右衛門を同道し、平川口の番所で、奏者久世出雲守の家来田中源右衛門に使者から御目録を渡して献上を済ませた。今朝、使者の案内を勤めた首尾を、四月二十一日に寄御留守居矢野清右衛門が左中様へ報告する。署名には清香の注記がある。目録の清香と本文の署名・注記の対応を示し、御臺への献上先・使者・取次と案内者を区別する。
安永元年十二月四日(報告書状の日付・冒頭の覚は無日) / 冊子 340~341頁/原整理番号 962/整理ID 962
松平右近将監の用人宮川古仲太宛の覚と、葬送の相談を報告する留守居書状・追書を収める。覚では、浄岸院の病状が日々悪くなり、万一の場合には遺骸を国許へ引き越したいと願う事情を述べる。眞含院のように当地で葬送すれば以後の廟参ができないと太守へ頼み、太守も内談したという。一方、これまで御正統様の遺骸は国許へ移しており、浄岸院もその身柄なので同様に扱いたいとする。当地に菩提所を持つ婦人は江戸で葬送する例があり、伊皿子大圓寺に納めた慈照の先例も挙げる。国許には先祖方を祀る廟所があり、それとは別に造立して末永く菩提を弔いたいという意向も記す。眞含院という御一子への思いを黙止し難い事情、太守の意向を再三伝えても承引が得られない事情を述べ、浄岸院の扱いを特に深く考えているとする。松平陸奥守の先例の相談や、現在松平筑前守方にいる事情、京都の縁者との面会にも触れ、葬式の念入りさや家格を表向きに伝えにくい事情を述べる。右近将監の用人と内談したところ、右近も事情を承知し、家格に沿って扱い、幕府の沙汰があれば十分に取り計らう意向であったという。十二月四日の報告では、前夕に右近将監へ参上し、宮川古仲太を介して薄々承知されていた事情を詳しく伝え、太守の心遣いを察して家格どおりに取り計らう返答を得たと知らせる。近習を通じて関山軍兵衛にも伝え、御前にも出て報告した。左中様・斎宮様宛、佐久間新左衛門の署名に留守居・村央の注を備える。追書では増上寺火之番が当分免じられたことを伝え、今後万一国許への引越が許される場合の附添役・人数や御防について古仲太へ相談し、時節が来れば用番へ届け、さらに右近将監へ伝えるよう指示されたと記す。控正文は江戸家老座にあるという。
安永元年十二月十日(首尾報告の日付・冒頭覚は無日) / 冊子 343~344頁/原整理番号 968/整理ID 968
水野壱岐守の取次をする御側御用人荒木源右衛門へ示す覚と、交渉の首尾を左中へ報告する書状を収める。浄岸院の遺骸を国許へ送ることにつき、遠国への道中は火災その他の心配もあるので一日も早く当地を出棺し、国元での葬送を滞りなく済ませたいと願う。雲林院の仙台への引越の先例も引き合いに出し、幕府から附添の役人が命じられることを望むが、昨日まで沙汰がなかったため、一日も早く出棺できるよう取り計らってほしいと内々に頼んだ。源右衛門が出会って承知し、壱岐守へ伝えるという返答を得たが、遠国のことは殊に火事が多いので心配していると聞いた。今日の評議で願いどおりとなるよう話があり、壱岐守も気にかけている一方、附添の者はまだ命じられず、その点で差し支えはないという。右近将監の内意を受け、用番へ出棺日限を届ける方法を相談し、附添役人の決定を待たず日限を定める必要を伝える。季節柄、急いで支度しなければ日が延びるので、早く附添役人を命じてもらうのが都合よいとし、すでに出棺日限もあること、附添役々が命じられるのが五日前でも供を務めなければならない事情を伝えた。太守から家中にも心得を伝え、御前へ報告する旨を承知して、源右衛門を通じて急ぎの取り計らいを頼んだところ、事情を聞き届けてもらったと報告する。十二月十日付、年は安永元年の朱注、左中様宛、有川勇馬の名に留守居・貞厚の注を伴い、今朝の相勤首尾と結ぶ。
安永四年乙未六月十三日 / 冊子 461頁/原整理番号 1275/整理ID 1275
安永四年乙未六月十三日、太守が在国している時の経過を記す。浄岸院の仰せ置かれた事情により、徳川豊千代へ娘於篤の縁組を取り組みたい旨を、先に徳川民部卿へ内意として申し入れていた。今日、その返答のため一橋から使者新庄能登守が芝の屋敷に来て、口上を述べた。嶋津左中が取り次ぎ、口上覚書を受け取ったとする。新庄には一橋家老直有の注がある。冒頭の仝上・正文在文庫に続いて独立した経過本文を持つので、出典だけの構成行とはしない。書留中のの1~の8は、それぞれ独立した文書と付記経過として整理する。本項の六月十三日を、枝の六月十八日・八月の口達・七月十一日の内意書や、翌安永五年七月の許可・贈答日に統一しない。
八月十五日(安永四年の一件書留文脈) / 冊子 462頁/原整理番号 1275の2/整理ID 1275-2
末吉善左衛門の口達の趣旨を留める。普請手当として入用金二万両ほど、籠中一代の扶助として一年に金三千両・餅米五百俵ずつを進めたいとする。この二条の費用は公儀の構いがない筋で、こちら側から進めたい旨を述べる。今後の御手伝等に対する備えは、松平陸奥守などが二、三度手伝を命じられる時にはこちらへも一度命じることがあり得るので、それまでに備えを立てたいとする。八月十五日、於篤縁組の請の使者として嶋津左中が一橋屋形へ参り、新庄の取次で口上を述べ、演説覚書を渡した。続いて民部卿から目見と挨拶があり、昨夜から少し不快で今日の登城を断ったため、その意向を新庄へ伝えた経過を付す。二万両は程の概数、三千両・五百俵は一年の支給を意図する条件であり、支給・受領済みの額ではない。手伝二、三度対一度は将来の見込みで、実際の割当件数にはしない。
安永四年十一月二十日(末尾未十一月廿日、年は朱) / 冊子 478~479頁/原整理番号 1317/整理ID 1317
来春参勤する大名の参勤時節について、当月初に伺いを出していたが、昨日まで期日の通達がなく、三月・五月の間に参府するとの風説を聞いたので、前夕に問い合わせたと記す。来年の日光御社参に際し、近国から多くの人馬が江戸へ出るため、四月参府では道中の人馬に差支が生じることを理由として、三月・五月の間の着府が検討されていると伝える。御社参還御を承知してから出府し、遠国には五月中参府を通達する見込みであるが、今日この件の御治定はなく、両三日中に一統へ渡す予定とする。先頃は定式通り参府との決定を聞いていたものが、人馬差支の吟味によって変わったという段階を区別する。田沼から内密に聞いていたため早く決定を承りたく、前夕の照会と付札の回答を別紙添付した旨を述べる。別項では宿次鶴の件を問い、当冬この方様へ給付があるかを尋ねたところ、翌日決まるので夕方に問い合わせるよう言われ、聞き付けて別紙の通り返答があったと記す。末尾は未十一月二十日、有川勇馬の申出を左中が承り国元へ申し上げた旨と、先方の別紙を示す注である。続く鶴の条は、当年の分が大幅に遅れ、有馬一人が多いだけで安藝・出羽・上杉・土佐の順にあるとし、客来早々に申し上げるとする。
安永六年四月二十一日(年は朱) / 冊子 524頁/原整理番号 1446/整理ID 1446
太守は去年の参府の御礼を申し上げた時から御直御請を述べるようになっていたが、この節は御機嫌のことまで申し上げる上意があり、御直御請を述べた次第が別紙の御書附写の通りであると伝える。其元で承るべき面々へ、この趣旨をもって申し渡すことを何分取り計らうよう求める。四月二十一日、二階堂主計。島津左中・喜入主馬・小松帯刀・赤松造酒の四宛を掲げ、後ろの三宛は次頁へ続く。去年からの御直御請と、この節の御機嫌伺いを含む取扱い、別紙の次第写、在所への伝達の依頼を分ける。差出は原の主計の表示を保持し、この記事の独立署にない諱は目録情報と区別する。
安永六年十一月二十日(年は朱) / 冊子 541頁/原整理番号 1507/整理ID 1507
宿次によって当年の御鷹の鶴を拝領することがあるかとの趣旨を、西下という原呼称の相手に御内意として申し上げておいたことは先便で知らせた通りと述べる。その後、早春に国許から出発することに付き、拝領はない旨を、右近将監の御用人松倉左中をもって内々に伝えられたと有川勇馬が申し出たので、別紙一通を添えてこの旨を知らせ、貴聞へ達するよう依頼する。十一月二十日、二階堂主計。行旦の注がある。宛所は嶋津左中・喜入主馬・小松帯刀・山岡市正・嶋津仲・赤松造酒の六名で、それぞれ久金・久福・清香・久澄・久健・則正の注がある。先便の問い合わせと内聞の不拝領回答、有川の報告、別紙一通の送付、六宛への伝達を分ける。正文は同じ冊子頁上段にあり、署・日付・六宛は下段へ続く。行間の十二月二十八日付朱書返答をこの十一月二十日の元書状へ混ぜず、別紙一通を鶴一羽という数量へ読み替えない。
安永八年正月三日(年は朱)、経過は旧臘二十六日・二十七日・二十九日、正月二日 / 冊子 560~561頁/原整理番号 1582/整理ID 1582
年頭の登城・御目見・着座に際して取合の上で御機嫌を伺い恐悦を申し上げることは年首として初めてで、参府と暇の直御請はすでに二様とも済んでいたため、前年春の松平陸奥守の年首の勤め方を取り寄せたとする。初めての儀なので、右近将監の御用人松倉左仲へ掛け合い、旧臘二十六日に登城前に訪ねて対談した。左仲は、参勤・暇の直御請をすでに行っているので届書は不要とする趣旨を述べながら、正月の御用番へ前年の陸奥守同様に勤める心得を届け置き、大目付衆を通じて同席の人々へも伝える旨を説明した。当年頭当日の申合せは当日の大目付によるため、佐久間が正月御用番の勤め方も問い合わせたところ、右近将監へ申すとされ、再度出てきた左仲から名を書いた書付を差し出すよう指示を受けた。二十七日に別紙のとおり持参し、同席への通知方法を重ねて確認して書付が受け取られた。二十九日には矢野清右衛門が呼び出され、書付に付紙で「可為此通」と指示され、その経過を申し上げた。正月二日の登城当日、大目付新庄能登守へ前件の趣を直に伝え、右近将監からの通知と前年の振合どおりに行い、他も先規どおり滞りなく済んだので、委細は近習の帳留へ付け置くよう命じられた経過を報告する。正月三日、佐久間九十九、左中様宛。九十九には留守居・村央の原注がある。宛先は能登守ではなく左中で、能登守は当日の取合に関わる大目付。内談時の届書不要という説明と、その後に名の書付を求められた経過を消さず、願出・付札・当日の実施を別段階として保つ。
天明四年正月十六日 / 冊子 720頁/原整理番号 2039/整理ID 2039
大進久起が左中に、妙心院が旧冬から不快で、最近の疲労は老病と見られるため、薬用などの別紙と容体書を送る旨を記す。軽い容体との知らせでも老人なので、御附医師に念を入れさせ、奥御医師のうち二人を付け、時々診察し服薬などに配慮させる。用人・側役も日々参上して様子を承知し、相談するよう命じた。太守の見舞いなどの扱いは当地で吟味し、都合よく取り計らって首尾を報告する。既に急飛脚で知らせたが、現状の容体なら以後は途上の太守へ飛脚で逐一報告せず、随行側役の同役に問い合わせて知らせるとする。追って容体書・薬方合わせて三通を送ると記す。天明四年正月十六日、上嶋津大進の記載を伴う、正文が家老座にある控えの書状。
天明四年正月廿日 / 冊子 721~722頁/原整理番号 2041/整理ID 2041
妙心院が旧冬から不快で最近も疲労があり、十六日に容体書を添えて飛脚で知らせたことを踏まえ、その後の療養と手配を報じる。医師を詰めさせ、老体なので図師長益・中村瑞伯にも伺わせたい旨を申し出た。於千萬も時々訪れているため医師同様に詰めるよう求めた。昨夜は暫く眩暈があり、薬用の記述には人参三分を加える旨がある。今暁から目覚め、食事を取り、追加の手当の後にも容体はすぐれないため、医師・用人・側役で相談して服薬等を世話する。太守の見舞いの扱いを取り計らい、奥向からの使いと御肴一折の見舞いにも触れる。途中の御不快の知らせについても記し、急飛脚で報告し、途上の用事が済み次第この便を直ちに差し通すよう求める。正月廿日、宮之原主膳・嶋津仲・嶋津大進の連署で左中に宛てる。天明四年の朱書と、大野休之丞の便を通じた受達の注記を伴う。正文は家老座にある控え。
天明四年正月廿日 / 冊子 722頁/原整理番号 2042/整理ID 2042
大進久起が左中・二階堂主計に、妙心院の不快について於千萬や女中方から南泉院の加持を求める意向があったと伝える。南泉院の大奥への通行等は通常容易に許さないが、この時は格別として相談し、加持を許したこと、側役も詰めるよう命じたことを知らせる。奥御医師のうち二人を付けた件は先便で伝えており、平田長淳・左近允喜泉を詰めさせ、伺わせるよう命じたと記す。上への伝達は相手の考えに任せる。天明四年正月廿日付、島津大進の書状。大野休之丞の便を通じた受達の朱注を伴い、正文は家老座にある控え。
天明四年正月廿一日 / 冊子 722頁/原整理番号 2043/整理ID 2043
宮之原主膳・嶋津仲・嶋津大進の連署で左中に、妙心院の病気がよくならず、昨夜から当日にかけ疲労が増し、特に大切な容体になったと医師が別紙の通り申し出たことを急報する。於千萬が世話をし、女中方・家老ら・用人・側役も詰めて、時々容体を見て医師に療養を尽くすよう伝えている。太守の見舞いについて昨日知らせたが、当日も奥向の使いを遣わし、御肴一折を贈ったことを記す。容体書二通を添えて極々急飛脚で送り、上へ伝えること、江戸には当日便で別に報告したので、途上の用事が済めばこの便を直ちに差し通すことを求める。天明四年正月廿一日付。大野休之丞の便を通じた受達の朱注を伴い、正文は家老座にある控え。
天明四年正月廿三日 / 冊子 723頁/原整理番号 2045/整理ID 2045
二十一日に病状の急報を送った後も養生を尽くしたが衰弱し、本文は今日午ノ刻に妙心院が死去したと報じる。忌服について用人・記録奉行が調べ、別紙四通を提出した。本文では太守を御曾孫之御続とし、服忌令に従い忌掛は不要とする一方、信解院の死去の例により五日間、殺生・鳴物・遊興を止め、普請は差し支えないとし、京・大坂にも慎みを知らせる。遺体は良英寺へ納める予定だが境内が狭いため、葬式は福昌寺で行うよう寺社奉行の申出を相談して伝え、福昌寺を引導とする。葬式その他は月桂院・信解院の死去時の振合を参考に相談し、法名は追って送るとする。急飛脚で上へ知らせ、随行者にも手配し、太守の忌掛は不要でも御機嫌を伺って首尾を整え、道中の用事が済めば便を江戸へ差し通すよう求める。天明四年正月廿三日付、宮之原主膳・嶋津仲・嶋津大進の連署で左中へ宛てる。正文は家老座にある控え。
天明四年正月廿三日 / 冊子 724頁/原整理番号 2047/整理ID 2047
妙心院の死去に際し、太守に忌服がないことを別紙で知らせたが、堤前中納言の死去時には虎寿丸が半減の忌服を受けた先例があるとして再検討を求める。当地で調べたところ、江戸で問い合わせた上で定式の忌服を受けたという。この先例によればこのたびの太守にも忌服があるように思われるものの、もう一度照会して確定する必要があるとし、当面は当地で用いる服忌令によって調べた内容を伝える。太守へ報告して意向を伺い、指示があれば江戸と当地の双方へ知らせるよう求める。天明四年正月廿三日、嶋津大進から嶋津左中へ宛てた書状で、正文の控えは家老座にある。
天明四年閏正月十日 / 冊子 728頁/原整理番号 2054/整理ID 2054
妙心院の死去後、山下御屋敷付の者は死去当日から五十日間月代を剃らず、女中も五十日慎むよう申し渡したと報告する。御本丸勤の頃から付け置かれた役々などは、用務と首尾掛が済んだ段階で申し出させ、先例によって処置する。山下御屋敷の片付けと、妙心院一人に付け置かれた女中・役々は、五十日を過ぎてから順次暇を与える方針とする。妙心院への年中の代参、盆の燈籠・寺納などは後に伺うこととし、来る二十三日の初忌日は信解院の先例で奥向の代参を仰せ付けるよう相談した。遺物・仏餉料の扱いも取り計らう方針を伝える。遠方への連絡が間に合わない場合は先例により相談して処理し、後に報告するよう求める。天明四年閏正月十日、島津大進久起から島津左中久金へ宛てた書状。朱注は同年三月二十二日便で江戸から返答が来たことを記す。
安永三年午六月(日の記載なし) / 冊子 437頁/原整理番号 1204/整理ID 1204
朱の出典「雑抄中」を伴う一条の申渡。城下士、近名はもちろん、外城に関係する者が開地等を希望し、取込拝借を願う場合、御物に差し障りない場所であれば勝手次第に免じると定める。対象は城下士だけに限らず、近名・外城に関係する者にも及ぶが、御物に差し障りがない場所という条件を伴う。本文には「開地等致度所郷(本ママ)」「取込拝借」とある。末尾は安永三年午六月、左中。具体的な場所・面積・借用料・実施者や実施済みの事例は記さない。
安永三年七月(日の記載なし)、本文は五月十九日の届出を回顧 / 冊子 439~440頁/原整理番号 1210/整理ID 1210
第一条は、虎寿丸を当午六歳として丈夫であるため嫡子の届をしたこと、慈照院には実子がなく、存生中に養子にしたいと約束していたことから、民部卿と内談の上で五月十九日に御用番へ申し出、聞き置かれた経緯を述べる。虎寿丸の嫡子届が済んだので、敬姫・於篤が御姉として取り持つよう仰せ出されたことを、各々承知するよう伝える。第二条は、敬姫が御前様の御養子となった際に御猶子と申し渡したが、今後は御養子と心得るよう仰せ出されたとし、このとおり御記録奉行へ申し渡すよう指示する。末尾は朱の安永三年、七月、左中、島津久金の注。虎寿丸の六歳は届出上の記載として保持し、実年齢の六歳とは断定しない。慈照院の養子希望は存生中の約束を述べ、申渡時の存命を意味しない。敬姫と於篤の御姉としての取持、敬姫の御猶子から御養子への呼称変更をそれぞれ記す。
正平十九年二月一日 / 冊子 32頁
後村上天皇の意向を奉じ、渋谷能登守に、御方へ参じて一族を勧誘し軍忠を尽くせば本領を安堵し、忠節には恩賞を与える旨を伝えた綸旨。
〈寛延三年〉十二月十六日 / 冊子 291~292頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0845
嶋津主殿久柄が十二月十六日、義岡相馬・鎌田典膳・市来左中へ、隅州の今月二十二日の年賀御祝について連絡する。国許へ伺って返答を待つと遅くなるため、相談のうえ、当日の御祝料理には嶋津主鈴を使者として遣わし、家老らが料理に寄り合うよう命じられたと伝える。財部孫之丞も使者を務め、列席人数を先に知らせたとおりとし、別紙の次第書に従って隅州に御祝を申し上げるよう求める。慰物は嶋津遊閑操が担当し、山下御屋敷で面談して進上物を渡し、返しも賜るという。ほかの御祝儀もあるかと尋ね、隅州五十の年賀の前例を見いだせないまま、当日下屋敷へ面談に赴き、隅州と太守に御祝儀を申し上げるよう求める。別封書状を各方へ送るので、申し合わせのうえ御祝儀を届けてほしいと記す。
〈寛延四年〉六月六日 / 冊子 303~304頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0892
主殿久柄・主鈴久郷が六月六日、平田靭負正輔・市来左中政方へ、延岡領宮崎郡長峯村の百姓男女九十一人が先月七日に逃散し、同九日に穆佐へ入った件を知らせる。御目付藤野次兵衛・横目石川正右衛門を差し向け、十五日の報告を受けた後、穆佐からの書通と宮崎代官との対談により事情を調べた。前年の年貢取納が不適切だったため、百姓らの頭取は延岡へ訴えていたが、返答を待ちきれず退散したという。宮崎大郡役の清水五郎右衛門から渡邊今右衛門を遣わし、逃散の事情を承知したこと、首謀者の罪の軽重を定め、赦免される者もあろうことを説き、帰参を勧めた。しかし百姓らは当分このまま召し置いてほしいと願い、急に引き取らせるのは難しいとの報告があった。正徳五年、延岡の百姓四百人余が穆佐へ逃れて来た際には、江戸・大坂・長崎への先入来の御届を命じられ、ほどなく帰った例がある。この先例に照らし、今回すぐに帰参しないならば同じ三所へ御届を出すこと、隅州に伺い、御届書を調べ、近日の飛脚で申し上げることを求める。百姓らが心から帰るよう、先例を示して延岡の家老へ書通し、必要なら彼方の役人とも対談してほしいと依頼する。藤野次兵衛一人では難しい場合もあろうと相談し、留守居岩下佐次右衛門を差し向け、昨日穆佐へ出張させたと記す。
宝暦十四年 三月七日(年は目録注) / 冊子 15頁/原整理番号 49/整理ID 49
高橋此面が、来る十九日に拝領の鶴を料理して祝うため、四半時に出座する旨を知らせる。吸物と御流を下すので、当日は熨斗目上下で出席するよう案内する。三月七日付で、宛先は嶋津杢殿・左中殿、菱刈藤馬殿、川田伊織殿、鎌田藏人殿、嶋津大藏殿、小松式部殿、嶋津仲殿、河野八郎左衛門殿の九名。各人には人物注が付き、川田伊織・鎌田藏人・小松式部の名の上には○印がある。小松式部・嶋津仲・河野八郎左衛門の列には、本部分がNo.48の行間朱書であるとの注がある。目録は高橋種寿書状とし、宝暦十四年の年記を注記する。
明和元年 閏十二月十四日(年は朱注) / 冊子 42~43頁/原整理番号 142/整理ID 142
島津土鈴・樺山左京・島津山城が連署し、嶋津左中・髙橋此面に宛てた問い合わせ。官位についての城からの仰せを使番が持ち出したところ、白書院の縁頬で老中から、琉人を伴う参府の喜びと従四位上中将への任官を告げられたことを承知し、喜びを述べる。官位のための出仕に際して先例による相違はなく、喜びは同じながら、琉人を伴うため、通常の参府とは少し事情が異なるという先達の問い合わせ書に、官位昇進に際して琉人を召し連れた旨が見当たらないと指摘する。後年の先例となる書留と家譜編集に関わるため、前の問い合わせ書を抜き出して渡し、御城坊主の書出しと食い違いがないか、いま一度説明するよう求める。年は朱注明和元年、閏十二月十四日付。目録は島津久定外二名連署状。出典注は重豪公御譜中・扣正文在家老座。
明和二年二月廿七日 / 冊子 66~67頁/原整理番号 181の25/整理ID 181-25
佐久間新左衛門が左中へ、御前様の服中における日光山法会の献納伺に関する取次と御請の予定を報告する。正文は二月廿七日付で、付属の朱書には三月十六・十七日の報告を収める。三月十六日の報告では、伺書一通を持参し、先年の百回御忌法会の先例を把握していない旨を口頭で伝えたところ、松平右近将監が早く登城していたため、退出時に申し上げるとして覚兵衛が伺書を預かった。三月十七日の報告では、前朝に差し出した伺書について文言に思召しがあり、前夕に用人方から戻されたので、その旨を申し上げて認め直した書面を夜前に受け取り、翌朝持参して受領されたと記す。別の御同書一通の付記には、右近将監の用人佐々木五蔵の名がある。正文では、用人中から当日中に一人出頭するよう求める切紙が式台へ届き、使番から廻されたため佐久間が出向いた。付紙の指示どおりの書面を用人から渡され、桜田詰歩行野村源次を介して差し上げた。御請は夜更になる可能性があるため翌朝に勤めることを内談し、翌朝でよいとの返答を得たので、通例どおり表方の使者から御請を申し達するよう求める。正文と朱書の月日の前後は、この書面だけでは整合を確定できない。
明和四年四月廿二日(朱返答、年は371対応) / 冊子 160頁/原整理番号 372/整理ID 372
No.371の行間に朱書された返答。申し越した趣旨を承知し貴聞に達したとし、公方への謝礼文は今日廿二日の日付とするよう命じられたと伝える。御臺への礼は公方宛の文に含め、大納言・万寿姫君への礼も書き入れて申し上げるので、日積をもって差し出すよう求める。淨岸院へ文で祝詞を伝えるため、その文も差し上げるよう述べる。四月廿二日と記し、刊本は原文書No.371の行間朱書であると注記する。共有名簿の朱「下」高橋此面・朱「上」島津左中及び川田伊織との対応により、元書状の二名へ返答する。
明和四年五月廿五日 / 冊子 161~162頁/原整理番号 378/整理ID 378
逃参者について求麻との懸合で処置を決めて届け出る筋が定まっても、江戸へ差し出すまで間があるため、その間に内沙汰を申し出ておき、江戸で吟味して公辺の模様次第で取り計らうよう命じてはどうかという国許からの申し来しを伝える。この件を貴聞に達したところ、須木への到来までの届出の扱いについての意向もあり、求麻との懸合で領内に置くこととなった場合は未決の間に江戸で内沙汰するには及ばないという。ただし江戸でなお吟味して相応の首尾ができるよう申し越すべきとの意向があるので、相談して首尾を整えるよう求める。逃参者一巻について先に途中へ来た別紙二通も、見合わせのため添えて送る。五月廿五日付、年は明和四年の朱注。高橋此面署、島津左中・樺山左京殿宛を備える。
十月十四日(朱日付、年は目録の明和四年) / 冊子 173~174頁/原整理番号 421/整理ID 421
No.420の城下堀浚いと北郷主膳方の岸修補の相談に対し、行間の朱返答で承知したと記す。当地で詳しく聞き合わせ、留守居の申出を含む経緯を報告した原書について、示された二様の先例のとおりに差し置き、改めて届出等を命じるには及ぶまいという趣旨を、なお相談して伝えたと返す。主膳方の土手修補は国許から申し越す内容を差し留めており、次第が整えば差し越すとして、堀浚いの書抜一巻入りの二袋と絵図の首尾を申し付けたこと、留守居首尾書留を置くことを記す。十月十四日の朱日付及び朱の「下」「上」の表示によって、下の桂織部・菱刈藤馬・川田伊織・島津仲・高橋此面を返書側、上の樺山左京・島津左中を宛側として対応させる。
明和九年正月十一日(年朱注、返答の日付は別) / 冊子 311頁/原整理番号 850/整理ID 850
小倉喜藤太が老母に平日とりわけ丁寧に仕え、孝養のことが聞き届けられたので、褒美として銀十枚を与える旨の申渡しを掲げ、ありがたく頂戴するよう伝える。続いて、褒美下賜の命令について左京からの申越しを承知した旨、この日格どおりに申し渡し、書挙で報告したと述べる。この件を貴聞に達するよう求め、国元へは別紙で申し越したと知らせる。正月十一日付、年は明和九年の朱注、上の表示で嶋津仲の署と久健の注を備える。下の島津左中殿・山岡齋宮殿の表示は返答と対応しており、別の朱書返答が添わる。控えで、正文は家老座にある。
正月二十六日(朱返答の日付、年無記載) / 冊子 344~345頁/原整理番号 973/整理ID 973
書状で申し越した趣旨を承知したと返答し、女中様方へ申し上げ、長崎奉行と隣国への知らせも済ませたことを伝える朱書の返書である。正月二十六日の朱日付があり、原書の五名宛を返信の差出へ、署名欄を返信の宛へ用いる上下の朱指示を伴う。五名は樺山左京・喜入主馬・小松帯刀・川田伊織・嶋津仲で、宛には山岡斎宮と上に加えた嶋津左中を対応させる。年は返答に独立して記さない。
安永元年辰十二月五日 / 冊子 347頁/原整理番号 976の7/整理ID 976-7
山岡斎宮から島津左中へ送った書状の写し。浄岸院の遺骸を国元へ移す届をするよう命じられ、その供を今日直接命じられたことを伝える。そのため、来年の下国の供については免除する旨の命令が出たので、このことを通達するよう求める。末尾は安永元年辰十二月五日、斎宮の署名で、山岡久澄との注がある。遺骸移送の供と翌年の下国の供の免除を対応させた人員の指示であり、遺骸がすでに国元へ到着したことや供役の恒久免除を述べるものではない。
閏三月六日(朱返答の年なし、目録は安永二年) / 冊子 359頁/原整理番号 1006/整理ID 1006
1005番の織田図書による代拝と出立・通行予定の報告に対する、短い行間朱書の返答。「本文達貴聞」と記し、御休泊付を控え置いたことを述べる。朱の日付は閏三月六日。元書状の小松帯刀・山岡斎宮という二宛名を朱下で差出側へ、嶋津左中・喜入主馬・嶋津仲の三署を朱上で宛先へ転用する。本文の報告への返答と、休泊に関する書付を保管した旨を収録する。
十月(日なし、年は目録安永二年)、本文十八日・二十一日・二十七日の手配 / 冊子 400頁/原整理番号 1110の2/整理ID 1110-2
御本文を左中・齊宮へ伝え承知されたことを記す。別紙の先例と朱書によって、御膳の拝領は初めとなること、御膳の進上を先に、料理の頂戴を後に行う順序がよいことを確認し、家老中とも相談したとする。十八日に中城王子から御膳を進上し、二十一日に読谷山王子から進上、二十七日に御料理を頂戴する手配を左中から承った。伊織方にも相談し、調物に差支えがない旨を承知したので、この手配の吟味を張紙で申し上げる。賢慮に従って首尾を整えるべき旨を述べ、読谷山王子に別段の料理を頂戴させるには及ばず、中城王子が頂戴する時に同日に取り合わせるとする。末尾は十月、嶋津登に側用人・久連の注。相談、先例の順序と料理の別設を省く安排を記す。
六月十八日(安永四年の一件書留文脈) / 冊子 462頁/原整理番号 1275の1/整理ID 1275-1
豊千代への次女の縁組について、先の申入れに民部卿は大いに喜び、取組を進める旨を述べる。縁女をいったん一橋へ引き取り、その後正式な縁組を仰せ出すよう内意を申し上げたいとする。一橋からの口上を承知した挨拶、使者の応対、縁女の引取、縁組取調、民部卿の願う品を列挙する。願う品は襷・日傘、大奥登城の件(ただし一橋子達の通り)で、縁女の御名拝領は民部卿から公辺へ願い出る意向と記す。取組の手順は右の通りとし、引取は当年には間に合わないので、来年参府の時に裁量してほしいとする。付記は六月十八日、末吉善左衛門が芝の左中屋敷へ来て、書付一通を渡し、順々に口達した経過を記す。末吉には利隆・一橋家側用人の注がある。目録は新庄直有口上覚とし、本文は末吉による伝達を記す。願品・御名・大奥登城・来年引取は希望と取組予定で、すでに下賜・登城・引取を実行した事実にはしない。
八月十七日の送付付記、書面は八月(年は朱の安永四年) / 冊子 463頁/原整理番号 1275の4/整理ID 1275-4
縁組の請への返答に際し、こちら側の事情を理解して差し控えを願ったことに丁寧な礼を述べ、初めにこちらから起こした件なので直に受け、なお厚く申し上げるよう伝えたとする。付記では八月十七日、於篤縁組が一橋側から済んだ段を新庄が左中へ手紙で知らせ、内向の書面二通を添えて送ったと記す。本書面は、松平薩摩守娘が浄岸院の仰せ置かれた事情により豊千代へ縁組を取り組みたいと薩摩守から申し込み、民部卿もこれを取り結びたい旨を老中へ内意として伝えるよう求めたと記す。八月、設楽兵庫頭・新庄能登守の連署。一橋側の内意と、将来老中へ届ける手順を扱う伺書として整理し、老中の最終許可書にはしない。二通は添付内向書面の数で、縁組相手や婚礼の数ではない。