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追録4の目録
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全2,674件中 2001~2100件・21 / 27ページ
追録4-No.1974 老中四人から吉貴への御鷹鶴拝領謝礼返書
老中四人は公方・右大将・大納言の健勝を伝え、吉貴が奉書とともに宿継ぎで御鷹の鶴を拝領し謝意を表したことを承知したと返す。吉貴が謝礼使者の種子島弾正久達を通じ樽肴を献じたところ、久達は御前へ召し出され、丁重な謝礼だと喜ばれた。鷹を吉貴が献上した文書ではない。
追録4-No.1975 松平乗賢から吉貴への御鷹鶴拝領謝礼返書
松平乗賢は公方・右大将・大納言の健勝を伝え、吉貴が宿継ぎで奉書と御鷹の鶴を拝領した礼を述べたことを承知したと返す。謝礼使者の種子島弾正久達が樽肴を献じ、御前へ召し出されて丁重な謝礼を喜ばれたことも伝える。No.1974と同件。
追録4-No.1976 豊岡らの継豊年頭拝謁に関する吉貴宛返書
豊岡・梅その・うら尾・高瀬は、吉貴の二月六日付書状に答え、公方・右大将・大納言の健勝を喜んだ。正月七日、同姓大隅守継豊が年頭の祝儀で御目見し、上意と御料理を賜ったことを祝う。継豊から右大将へ礼を伝えた旨にも触れる。菊姫の病状を報じる書状ではない。
追録4-No.1977 京泊難破唐船の乗員・荷物の長崎引渡し報告
継豊は、前年十一月に薩摩国水引村京泊で難破した唐船の乗員と荷物を別船へ載せ、警固を添えて長崎に送ったと届ける。正月十九日に長崎奉行側が異状なく受け取ったとの国元家来の報告を伝える。No.1951の難破・救護届の後報である。
追録4-No.1978 本多忠良から吉貴への東叡山参詣返書
本多忠良は公方の健勝を伝え、吉貴が正月二十日に東叡山の御霊屋へ参詣したとの書状を承知した。書状の趣旨を老中間で相談し、将軍に上聞したと返す。No.1979の増上寺参詣とは日付・寺院が異なる。
追録4-No.1979 本多忠良から吉貴への増上寺参詣返書
本多忠良は公方の健勝を伝え、吉貴が正月二十四日に増上寺の御霊屋へ参詣したとの書状を承知した。書状の趣旨を老中間で相談し、将軍に上聞したと返す。No.1978の東叡山参詣とは別件である。
追録4-No.1980 藤ゑ・岡田・荻原らの端午祝儀返書
藤ゑらは端午の祝儀の書状に答え、相手方が健勝でにぎやかに祝ったことを喜ぶ。こちらも大守らがそろって祝っており、目録どおりの品を進めたことに謝意を述べ、菊姫にも同じ趣旨を伝えるよう頼む。年頭の挨拶ではなく端午の祝儀である。
追録4-No.1981 土岐頼稔から吉貴への竹姫入輿・菊姫拝領物返書
土岐頼稔は公方・右大将・大納言の健勝を伝え、二月十二日に竹姫が大奥へ入った際、菊姫が御懇意にあずかり、公方・右大将から拝領物を賜ったという吉貴の報告を承知したと返す。ほかの家族への拝領物についても触れ、書状の趣旨を関係者で相談した。
追録4-No.1982 松平乗賢から吉貴への竹姫入輿・菊姫拝領物返書
松平乗賢は公方・右大将・大納言の健勝を伝え、二月十二日に竹姫が大奥へ入った折、菊姫が公方・右大将から拝領物を賜り、刑部卿らからも品を贈られたとの吉貴の書状を承知した。同氏大隅守・薩摩守への拝領物にも触れる。No.1981と同件である。
追録4-No.1983 土岐頼稔から継豊への御香具・丸煙斗献上返書
土岐頼稔は、継豊が同朝に御香具一箱と丸煙斗一箱を献上した件を披露し、喜ばしいと返答した。No.1984は同じ献上に対する松平乗賢の返書である。
追録4-No.1984 松平乗賢から継豊への御香具・丸煙斗献上返書
松平乗賢は、継豊が同朝に御香具一箱と丸煙斗一箱を献上した件を披露し、喜ばしいと返答した。No.1983の土岐頼稔書状と同件である。
追録4-No.1985 虚空蔵木仏と戸帳の抱真院安置・祈願指示
寺社奉行の本田由親・山岡久柄は、薩州様が寄進した厨子入りの虚空蔵木仏一躯と、菊姫が寄進した戸帳を抱真院に安置するよう命じた。祈願を怠らず、鎌田太郎右衛門の書付を添えて次の住職へ引き継ぐことも指示する。刀類・蔵物の掟ではない。
追録4-No.1986 継豊の増上寺火番任命と宗信の代勤
四月十九日、幕府は松平相模守宗泰に代わる増上寺の火番を継豊に命じた。継豊は病気のため自ら勤められず、失火の際は嫡子宗信が代わって出動することになった。翌年四月十九日には伊達宗村への交代が記される。
追録4-No.1987 老中から継豊への増上寺火番任命通知
土岐頼稔・本多忠良・松平乗邑が、増上寺の火番を松平相模守の代わりに継豊へ命じたことを通知し、承知するよう求めた。病気の継豊に代わる出火時の対応はNo.1988に記される。
追録4-No.1988 継豊病気時の増上寺出火対応指示
幕府は、増上寺火番を命じられた継豊が病気であることを踏まえ、出火の際には同氏薩摩守宗信が代わって現場へ出向くよう指示した。火番の任命を伝えるNo.1987に続く対応規定である。
追録4-No.1989 土岐頼稔死去による端午御内書相渡し中止通知
端午の御内書を継豊へ渡す予定だったが、土岐丹後守頼稔が死去したため相渡しは取りやめになったと通知する。奉行への指図書ではない。
追録4-No.1990 土岐頼稔から吉貴への延享改元返書
土岐頼稔は公方・右大将・大納言の健勝を伝え、吉貴が年号の延享への改元を承知して祝意を述べたことを受け取ったと返答した。書状の趣旨を老中間で相談して将軍に上聞した。
追録4-No.1991 松平乗賢から吉貴への延享改元返書
松平乗賢は公方・右大将・大納言の健勝を伝え、吉貴が延享への改元を承知して祝意を述べたことに返答した。書状の趣旨を将軍へ上聞したと記す。No.1990の土岐頼稔書状と同件である。
追録4-No.1992 松平乗賢から継豊への端午帷子単物献上返書
松平乗賢は、継豊が端午の祝儀として使者を遣わし、帷子単物を献じたことを披露し、喜ばしいと返答した。献上品は菓子ではなく衣料である。
追録4-No.1993 藤ゑ・岡田・荻原らの土用酷暑見舞い返書
藤ゑらは土用の厳しい暑さの中での書状に答え、相手方の健勝を喜び、大守・姫君・子らの無事を伝える。贈られた箱入りの品にも謝意を示し、引き続き暑さに障りがないよう気遣った。
追録4-No.1994 藤ゑ・岡田・荻原らの七夕祝儀返書
藤ゑらは七夕の祝儀の書状に答え、相手方と菊姫らの健勝を喜ぶ。こちらも大守らがにぎやかに祝っており、目録どおりの品を進めたことへの謝意を述べ、今後も変わらぬ健勝を願う。
追録4-No.1995 藤ゑ・岡田・荻原らの生身玉祝儀返書
藤ゑらは本文で「御生身玉」と記す祝儀の書状に答え、相手方の健勝を喜ぶ。こちらも目録どおりの品を進めたことを感謝し、これからも変わらず健勝・繁昌であるよう願う。
追録4-No.1996 藤ゑ・岡田・荻原らの八朔祝儀返書
藤ゑらは八朔の祝儀の書状に答え、相手方と菊姫の健勝を喜ぶ。こちらも大守らがそろって祝っており、目録どおりの品を進めたことへの謝意を述べ、今後も変わらぬ繁栄を願う。
追録4-No.1997 吉貴による三次郎の和泉家名跡継承
吉貴の御譜は、和泉氏が島津忠宗の子忠氏を祖とし、直久の戦死後長く絶えていた経緯を述べる。延享元年五月二十五日、吉貴は継豊と協議し、三男三次郎に和泉家の名跡を継がせて一門に列することを決めた。源姓と島津姓を用いる家とする旨も記す。
追録4-No.1998 継豊御譜に記す和泉家再興と三次郎の継承
継豊の御譜は和泉氏の祖忠氏から直久の戦死に至る由緒を詳しくたどる。長く途絶えた和泉家を再興するため、吉貴の三男三次郎を名跡継承者に立て、源姓・島津姓を用いさせ、一門家格に加えるとする。決定に伴う継豊の書付と吉貴の伝達は後続文書に載る。
追録4-No.1999 継豊から三次郎への和泉家名跡継承命令
継豊は、吉貴の隠居後の跡筋に関わる三次郎へ、和泉家の名跡を継がせ、一門に列し、島津を名乗らせると命じた。あわせて一所の地を与える方針を示す。後続のNo.2000に家格と所領の細目がある。
追録4-No.2000 三次郎の和泉家継承に伴う家格・所領等の細目
吉貴の三男三次郎が和泉家を継ぐに当たり、源姓を用いつつ島津の一門に列すること、家格は和泉家の継承により二男格とすることを定める。席次、隠居料五千石、屋敷・道具・所領の引渡し、十文字桐之丸の紋、将来の加増の扱いも細かく示す。五月二十三日の家臣への申渡しと二十五日の吉貴から三次郎への伝達を含む。
追録4-No.2001 三次郎の和泉家継承を記録奉行に記帳させる指示
三次郎を吉貴の三男として和泉家の名跡に立てる件について、島津権左衛門から記録奉行へ詳細が伝えられた。島津大蔵は、その内容を帳面に詳しく記し、担当の役人へ申し渡すよう指示した。三次郎本人に所領を与える直接の命令ではない。
追録4-No.2002 宗信の神當流稽古に関する秘事不口外誓詞
宗信は神當流の稽古に当たり、馬の取扱いや軍用に関わる流儀の事柄を外へ漏らさないと誓い、その旨を吉貴へ申し上げた。本文は秘事不口外の誓いであり、入門の許可を求める書状とは記さない。
追録4-No.2003 京泊漂着唐船の水手による禁制品取引調査届
継豊は、前年十一月に京泊で破損した唐船の乗員を長崎へ送った後、船の水手が長崎で唐人の品物を売り渡したとの情報を報告する。調査で水手の典次右衛門が唐人から品物を預かって取引したことが分かり、唐人との売買禁止に反するため身柄を拘束して番人を付け、長崎奉行に詳細を伝えて指図を待つと記す。
追録4-No.2004 酒井忠知から吉貴への酷暑伺い・鰹節献上返書
酒井忠知は、吉貴が酷暑の節に公方・右大将・大納言の機嫌を伺ったことに答え、三者とも健勝と伝えた。あわせて吉貴が鰹節一箱を献じた件を披露し、喜ばしいと返した。No.2005の本多忠良書状と同件である。
追録4-No.2005 本多忠良から吉貴への酷暑伺い・鰹節献上返書
本多忠良は、吉貴が酷暑の節に公方・右大将・大納言の機嫌を伺ったことに答え、三者とも健勝と伝えた。鰹節一箱の献上についても老中間で相談して披露し、喜ばしいと返した。No.2004の酒井忠知書状と同件である。
追録4-No.2006 酒井忠知から継豊への琉球産品献上返書
酒井忠知は、継豊が同朝に琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺を献上したことを披露し、喜ばしいと返答した。No.2007は同じ贈物に対する本多忠良の返書である。
追録4-No.2007 本多忠良から継豊への琉球産品献上返書
本多忠良は、継豊が同朝に琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺を献上したことを披露し、喜ばしいと返答した。No.2006の酒井忠知書状と同件である。
追録4-No.2008 古金六割半・古銀五割増の通用と引替え規定
幕府は、吹替え後も古金銀が残るため、元文元年の定めどおり古金を六割半、古銀を五割増の割合で通用・引替えできると通知した。年貢・運上、給金、売買代金などは文字金銀を通常どおり使い、希望者は古金銀を金銀座で引き替えられる。新たな金銀吹替えを予定していないことも明記する。
追録4-No.2009 古金銀触書の順達と返却に関する大目付廻状
大目付は松平乗邑から渡された古金銀通用の書付を順に回し、滞りなく関係大名へ伝えたうえ、最後に朽木山城守へ返すよう命じた。余白には六月十六日に有馬中務大輔家から書付が届き、次の松平陸奥守家へ本書を送ったとの受領・送達記録がある。
追録4-No.2010 豊岡らから吉貴への五月十一日付暑中伺い返書
豊岡・梅園・浦尾・高瀬は吉貴の五月十一日付書状に答え、公方・右大将・大納言が健勝と伝えた。土用中に右大将の機嫌を丁寧に伺った吉貴の心遣いを喜び、その旨を伝える。献上品の披露を扱う書状ではない。
追録4-No.2011 増上寺参詣を報じた吉貴書状への松平乗邑返書
吉貴が、公方の機嫌と四月晦日の増上寺御霊屋参詣を承知して恐悦の意を伝えた書状に対し、松平乗邑はその趣旨を諸老中で相談し、上聞に達したと返答する。公方の参詣報告に対する儀礼上の返書である。
追録4-No.2012 東叡山参詣を報じた吉貴書状への松平乗邑返書
吉貴が、公方の機嫌と五月八日の東叡山御霊前参詣を聞いて恐悦の意を示した書状に対し、松平乗邑は諸老中で相談し、上聞に達したと返答する。No.2011とは参詣先と日付が異なる。
追録4-No.2013 継豊の為生見玉祝い黄金十両献上への松平乗邑返書
継豊が為生見玉の祝儀として黄金十両を献上したことについて、松平乗邑は披露を遂げ、喜ばしいと返答した。No.2014は同じ献上に対する松平乗賢からの返書である。
追録4-No.2014 継豊の為生見玉祝い黄金十両献上への松平乗賢返書
継豊が為生見玉の祝儀として黄金十両を献上したことについて、松平乗賢は披露を遂げ、喜ばしいと返答した。No.2013の松平乗邑書状と同件である。
追録4-No.2015 於須磨(継豊の実母)の死去・葬儀と追善
継豊の実母於須磨は六月十七日から病み、七月三日に鹿児島の館で死去した。追号を贈り、七月五日夜に遺体を福昌寺へ移し、八日に葬儀を行い、継豊・吉貴の代理人が焼香した。二十五日まで中陰の仏事を営み、廟所を設け寺領を寄付。江戸滞在中の継豊へ急使で訃報を知らせ、将軍吉宗と家重からも弔慰の使いがあった。
追録4-No.2016 於須磨死去に伴う見舞・進物・届出の協議
於須磨の死去を受け、江戸へ到着した見舞使者の扱い、継豊・吉貴への進物と機嫌伺い、家中の役人や女性たちが誰にどの方法で挨拶するかを協議した。あわせて遺体の福昌寺入り、八日の葬儀、法名、京都・大坂・長崎の役場への喪中届、法事を簡略にする方針を伝え、朱書で返答を付す。
追録4-No.2017 於須磨死去後の使者・進物と家中の機嫌伺いに関する往復
於須磨の死去に際し、継豊・吉貴への見舞や進物、姫君・女中方への伺いの要否、葬儀・法事と各地の役場への届出を項目別に相談する。喪中は家中の大身や役人が書状で機嫌を伺い、寺院や外城役人には従前の例に準じて扱うとする。本文中に朱書の回答が挿入され、七月晦日の返答の書入れがある。
追録4-No.2018 於須磨死去の江戸到着報告と忌服届の時期
国元からの飛脚で於須磨が七月三日に死去したと知り、江戸の継豊・吉貴へ内々に報告した。両人に健康上の支障はなく、忌服届は死去から十六日目の即日では早いため七月二十三日に出す予定とし、それまで屋敷内の到来などを慎む。急使二人を出し、後日さらに側廻りの使者を派遣すると伝える。
追録4-No.2019 於須磨死去報告書状への受領・上聞返答
No.2018の七月十八日付報告に挿入された朱書の返答。届いた内容を承知し、紙面の趣旨を継豊・吉貴に伝えたと八月十六日付で記す。独立した新件の長文書状ではなく、先行書状への応答である。
追録4-No.2020 於須磨葬儀後の弔問使者・進物手配
於須磨の葬儀と喪中を受け、継豊から吉貴へ重箱一組を贈ること、宗信からの見舞、姫君や女中方へ使者・書状を出すことなどを相談する。国元から江戸へ来た三人の使者が各用件を済ませた後の帰国と返答の段取りも記す。後続のNo.2021には、使者の到着と実際の進物手配に対する返答が載る。
追録4-No.2021 於須磨弔問使者・進物手配の実施報告
No.2020の七月二十四日付書状に挿入された朱書の返答。軍兵衛・源蔵らが江戸へ到着し、継豊・吉貴と女中方への見舞使者、二箱の進物、吉貴への重箱一組の贈答を済ませたと報告する。四十九日法事の寺参、於嘉久への見舞、使者の帰国についても回答する。
追録4-No.2022 於須磨法事への寺参・香奠銀の手配
於須磨の死去に伴い、伊勢仲右衛門を寺参の使者とし、吉貴・宗信側や菊姫からの見舞の口上も伝えるよう相談する。四十九日法事には香奠銀三枚と二枚の扱い、目録、寺への納め方、返銀の手順を定めるよう求めた。各項目に後日の朱書回答が付く。
追録4-No.2023 於須磨四十九日法事の寺参・香奠銀への回答
No.2022の七月二十四日付書状への朱書の返答。仲右衛門の寺参は二十一日の四十九日法事に合わせて済み、香奠銀・目録も寺へ納めたと記す。菊姫分は寺へ納める銀を一枚とし、返銀は従来の例に従って手配する。
追録4-No.2024 吉宗から継豊へ御鷹の雲雀を下賜
将軍吉宗は大久保郷七兵衛教平を芝邸に遣わし、御鷹が捕った雲雀を継豊に下賜した。継豊の嫡子宗信が代理で拝領の礼を述べ、老中らの屋敷を訪ねて謝意を伝えた。
追録4-No.2025 東叡山浄円院位牌所参詣に対する本多忠良返書
吉貴が、公方の機嫌と六月九日の東叡山浄円院位牌所参詣を承知して恐悦の意を示した書状に対し、本多忠良は諸老中で相談し上聞に達したと返答した。浄円院は吉宗の生母である。
追録4-No.2026 一門衆の八朔進上使が着る熨斗目の規定
一門衆が八朔の進上物を出す際、使者の家臣は役職や本人の通常の身分にかかわらず、主人の格式に基づいて熨斗目を着用するよう命じた。通常は着ない者も使者を務める時には着用し、品物を受け取る側には着用を求めない。山津十太夫・肥後平左衛門らへ周知する。
追録4-No.2027 島津忠紀の居宅を鼓川屋敷へ移す命令
若年の島津忠紀を鼓川屋敷へ移し、成長までは城内に住まわせず、政務も命じないと決めた。屋敷の工事・家臣・医師や女中の配置を整え、従前の下屋敷は島津周防へ渡す。頴娃内膳久周が移転と人員配置の命令を伝えた。
追録4-No.2028 忠紀の鼓川屋敷移転と下屋敷処分の申渡し
忠紀を鼓川屋敷へ移し、今までどおりの家臣を付けること、詳細な人員配置を担当者に命じたことを伝える。従来の下屋敷は普請したものを含め島津周防に下賜し、引料を与える。No.2027の居宅移転記事に対応する具体的な申渡しである。
追録4-No.2029 一門衆の八朔進上と使者の熨斗目着用
島津貴儔・忠紀・久門が縁者として八朔に太刀と馬を進上することとなり、家臣の使者は主人の格式に従って熨斗目を着て登城し、品物を差し出すよう命じられた。熨斗目は家臣本人の身分ではなく主人の格式によることを説明し、島津大蔵久純が伝達した。
追録4-No.2030 八朔進上使の熨斗目着用と受取役の服装
一門衆の八朔進上物に伴う使者について、家臣の役職にかかわらず主人の格式に従い熨斗目を着るよう改めて申し渡した。通常は熨斗目を着ない者も使者の時は着用する一方、進上物の受取役には着用を要しない。山津十太夫・肥後平左衛門などへの周知を命じる。
追録4-No.2031 正建寺の心空院位牌料と月桂院供養の扱い
正建寺に以前から付けられた心空院の位牌料(貞享五年の白銀十五枚、享保七年の新銀五枚)を確認し、その銀で位牌の寺役を勤めるよう定める。月桂院の回向については今後の追加の上げ物はなく、継豊からの年忌日の香一把も後例としない。寺の住持が替わっても取り違えぬよう記録して引き継がせる。
追録4-No.2032 正建寺の旧寄付銀を用いた位牌寺役の継承
寺社奉行所は、以前に正建寺へ付けられた銀子を用いて位牌の寺役を勤め、後年に紛らわしくならないよう記録して、住持が替わる際に堅く引き継ぐよう命じた。No.2031の位牌料・供養方法の決定を寺へ伝える文書である。
追録4-No.2033 重陽の祝儀と継豊らの安否を伝える女房書状
重陽の祝儀について、継豊や姫君・子どもたちが健勝で賑やかに祝ったと伝え、吉貴方から例年どおり祝儀の品が届いたことに礼を述べる。冷気の季節になったので吉貴の安否を重ねて知らせてほしいとも依頼する。末尾には女房衆らの名が並ぶ。
追録4-No.2034 京泊破船水手の禁制取引に対する処分届
前年十一月に薩摩国水引村京泊で破損した唐船の乗員を長崎へ送った後、水手の次右衛門が唐人に頼まれた品物を売りさばいた件について、長崎奉行の指図に従って処分したと報告する。入墨、家財半分の取り上げ、居住地の制限を科し、漂着現場の取扱いと長崎への渡航から外した。No.2003の調査届に続く処分結果である。
追録4-No.2035 宗信から中山王への年始祝儀返書
宗信は、中山王から年始の祝いの使者が派遣され、目録どおりの贈物も届いたことに礼を述べ、心遣いを喜ぶと伝えた。No.2036は同じ祝儀に対する継豊名義の返書である。
追録4-No.2036 継豊から中山王への年始祝儀返書
継豊は、中山王から年始の祝いの使者と目録に記した贈物が届いたことに礼を述べ、その丁寧な心遣いを喜ぶと伝えた。No.2035の宗信名義の返書と対をなす。
追録4-No.2037 八朔の太刀・馬代献上への松平乗賢返書
継豊が八朔の祝儀として使者を立て、太刀一腰と馬代黄金十両を献上したことについて、松平乗賢は披露を遂げ、喜ばしいと返答した。No.2038は松平乗邑による同件の返書。
追録4-No.2038 八朔の太刀・馬代献上への松平乗邑返書
継豊が八朔の祝儀として使者を立て、太刀一腰と馬代黄金十両を献上したことについて、松平乗邑は披露を遂げ、喜ばしいと返答した。No.2037の松平乗賢返書と同件である。
追録4-No.2039 重陽の小袖献上に対する吉宗の謝状
将軍吉宗は、継豊から重陽の祝儀として小袖一重が届いたことを喜び、詳しい返答は松平乗邑が伝えると記した。No.2040はこの献上の披露を知らせる乗賢の返書である。
追録4-No.2040 重陽の小袖献上への松平乗賢返書
継豊が重陽の祝儀として使者を立て、小袖一重を献上したことについて、松平乗賢は披露を遂げ、喜ばしいと返答した。No.2039の将軍吉宗の謝状と同じ献上を扱う。
追録4-No.2041 端午の奉書受領のため家来を西丸へ呼び出す通知
松平乗賢は端午の奉書を渡すため、翌二十日の四時に家来を西丸へ差し出すよう継豊に伝えた。奉書交付の日時と場所を知らせる短い通知である。
追録4-No.2042 於須磨死去後の将軍弔慰と吉貴の謝礼
継豊の実母於須磨が七月三日に鹿児島で死去した。吉宗・家重は同月二十四日に秋元涼朝を江戸の継豊の芝邸へ上使として派遣し、哀悼を伝えた。この報が薩摩の吉貴へ届くと、吉貴は将軍家へ謝状を出した。後続のNo.2043・2044は謝意を伝えた吉貴への返書である。
追録4-No.2043 於須磨死去に伴う将軍上使への謝意に対する乗邑返書
継豊の実母於須磨の死去に際し、将軍吉宗・家重から継豊へ上使を通じて懇ろな弔慰があり、吉貴が謝意を伝えた。松平乗邑はその書状を読み、趣旨を諸老中で承知したと返す。No.2044の乗賢書状と同件である。
追録4-No.2044 於須磨死去に伴う将軍上使への謝意に対する乗賢返書
継豊の実母於須磨の死去に際し、将軍から継豊へ上使を通じて弔慰が寄せられた。吉貴がこの厚意への謝意を伝えた書状を、松平乗賢は受け取ったと返答する。No.2043の乗邑書状と同件である。
追録4-No.2045 姫君から吉貴への年賀祝儀を伝える女房書状
姫君は、継豊が健勝であることを喜び、新年の祝いに際して目録に記した品を吉貴へ届けた。吉貴の長寿と家中の繁栄を祝う趣旨を、女房を通じて伝える。年賀の儀礼と祝品の送付が中心で、政治上の命令ではない。
追録4-No.2046 文昭院三十三回忌で継豊が増上寺に香奠銀を献納
十月十四日は文昭院殿(徳川家宣)の三十三回忌に当たり、将軍家は増上寺で仏事を営んだ。翌十五日、継豊は蒲生十郎左衛門清高を使者として増上寺へ遣わし、霊前に香奠銀十枚を献じた。
追録4-No.2047 重陽の奉書受領のため家来を城へ呼び出す通知
松平乗邑は重陽の奉書を渡すため、翌二十一日の五半時に家来を城へ差し出すよう継豊へ通知した。奉書交付の日時と場所を示す短い書状である。
追録4-No.2048 島津家への牡丹紋拝領と嫡流での使用許可
御時服の牡丹紋を拝領し、嫡流が以後代々、望む時に使用してよいとの上意を樺山主計久初が伝える。別の書付には十文字紋は従来どおり、桐紋は大玄院の代から拝領してきたことを記し、今回の牡丹紋拝領を後代へ知らせるよう求める。
追録4-No.2049 牡丹紋拝領の経緯と家紋使用を後代へ伝える指示
牡丹紋の拝領に伴い、十文字紋はもとから使ってきたこと、桐紋は大玄院の代に拝領したこと、島津周防には桐之丸の紋が許されたことなどを記す。今回の牡丹紋拝領の由来を後代に伝えて、紋の使用を取り違えないようにする。No.2048の牡丹紋拝領の申渡しに続く説明である。
追録4-No.2050 日光の宮・霊屋修復への松平乗賢返書
松平乗賢は、日光の御宮と御霊屋の修復および正遷宮・正遷座を喜ぶ吉貴の書状を受け、その趣旨を言上したと返答した。No.2051の酒井忠知書状は同件の別の返書である。
追録4-No.2051 日光の宮・霊屋修復への酒井忠知返書
酒井忠知は、日光の御宮と御霊屋の修復・正遷宮・正遷座が済んだことを喜ぶ吉貴の書状を受け、老中間で相談して上聞に達したと返答した。No.2050の松平乗賢書状と同じ日光修復を扱うが、差出人と返答の文言を区別する。
追録4-No.2052 寒中の吉貴・継豊らの安否と贈物への礼
厳しい寒さの中でも継豊や一同が健勝であると伝え、吉貴とその周囲の安否を繰り返し尋ねる。吉貴から届いた贈物・書状への礼を述べ、菊姫からもよろしく伝えるよう頼む。末尾に荻原・岡田・藤ら女房の名を記す。
追録4-No.2053 歳末の祝儀と継豊らの健勝を伝える女房消息
歳末の祝いに、継豊をはじめ家族が健勝で賑やかに過ごしていると伝える。目録に記した祝いの品を吉貴へ届け、家中の長久と繁栄を祝う趣旨を女房衆から申し述べた。No.2052の寒中見舞いとは別の歳末祝儀書状である。
追録4-No.2054 継豊の弟忠通の出生と小松家・島津家の継承
継豊の弟忠通は安之助と称し、延享元年十二月六日に近藤嘉包の娘を母として生まれた。後に禰寝孫左衛門清香の養子となり小松を名乗り、宝暦六年二月二十一日に禰寝家を離れ、島津因幡忠郷の後嗣となったことまで系譜的に記す。
追録4-No.2055 継豊の病気療養による翌年の江戸滞留願
継豊は前年の暇年に病気が治らず江戸滞留を許され、養生を続けたがなお全快しないと説明した。翌年も本来は国元へ戻る暇年に当たるものの、病気のため江戸にとどまって療養したいと願い出る。十二月四日に願いどおりの付紙が出され、五日に礼を伝えたとの書入れがある。
追録4-No.2056 病気滞府中の継豊が宗信の初めての帰国を相談
継豊は病気のため翌年も江戸に滞留する予定で、久しく国元へ帰れていないと述べる。吉貴も高齢のため、成長した宗信を翌年初めて国元へ帰す暇を願いたいと内意を伺った。十二日に「来年勝手次第願い出てよい」との返答があり、十三日に礼を述べた経過が朱書で記される。
追録4-No.2057 宗信の初帰国暇願への内諾に対する継豊の礼
宗信を翌年初めて国元へ帰す暇願について、幕府から「来年、望むとおり願い出てよい」と内諾された。継豊はこの回答に礼を述べ、朽木大和守を通じて謝意を伝えた。No.2056の内意伺いに続く短い礼書である。
追録4-No.2058 蜜柑二箱・炙鮎一箱献上への松平乗賢返書
継豊が朝に蜜柑二箱と炙鮎一箱を献上したことについて、松平乗賢は披露を遂げ、喜ばしいと返答した。No.2059は同じ献上に対する松平乗邑からの返書。
追録4-No.2059 蜜柑二箱・炙鮎一箱献上への松平乗邑返書
継豊が朝に蜜柑二箱と炙鮎一箱を献上したことについて、松平乗邑は披露を遂げ、喜ばしいと返答した。No.2058の乗賢返書と同件である。
追録4-No.2060 文昭院三十三回忌法事と増上寺参詣への乗邑返書
吉貴が文昭院三十三回忌の法事が増上寺で営まれ、十月十四日に将軍が御霊屋へ参詣したことを聞いて恐悦の意を示した。松平乗邑は書状を受け、諸老中で相談して上聞に達したと返答する。
追録4-No.2061 将軍からの御鷹の鶴拝領と三次郎の和泉家継承・所領付与
十二月十九日、吉宗は山口孫次郎を芝邸へ遣わし、御鷹が捕った鶴一隻を継豊に下賜した。宗信が代理で謝礼を述べる。また五月二十五日に三次郎が和泉家を継ぐことになり、十二月二十一日には吉貴の要請で継豊が指宿郷の小牧・岩本・西方村、頴娃の池田・仙田村を所領として与え、和泉と称するよう定めた。翌年の正式な書付に…
追録4-No.2062 三次郎への指宿・頴娃の所領付与と和泉の名乗り
継豊は三次郎に、指宿・頴娃のうち絵図に示した一所の地を与え、その地を「和泉」と称するよう命じた。鹿児島に屋敷を求める際には改めて与えるとも記す。No.2061の記事が述べる和泉家継承に対応する直接の付与書である。
追録4-No.2063 寒中伺いと鰯一箱献上への松平乗邑返書
吉貴が寒中に公方・右大将・大納言の機嫌を伺い、鰯一箱を献上した。松平乗邑は三者とも健勝であると知らせ、老中間で相談して献上品を披露し、喜ばしいと返答した。No.2064は乗賢の同件返書である。
追録4-No.2064 寒中伺いと鰯一箱献上への松平乗賢返書
吉貴が寒中に公方・右大将・大納言の機嫌を伺い、鰯一箱を献上した。松平乗賢は三者の健勝を伝え、献上品を披露して喜ばしいと返答した。No.2063の乗邑書状と同件である。
追録4-No.2065 豊岡らから吉貴への十一月十八日付寒中伺い返書
豊岡・梅園・浦尾・高瀬は、吉貴から十一月十八日付で届いた書状に答え、公方・右大将・大納言は健勝であると伝えた。吉貴が寒中も丁寧に機嫌を伺ったことを喜び、御表からも伝えられた旨を添える。献上品の処理を記した書状ではない。
追録4-No.2066 島津三次郎の和泉家継承と指宿・頴娃の知行地
吉貴の三男三次郎を和泉家の後継とし、指宿・頴娃の村々を知行地に充てる経緯を系譜形式で記す。三次郎が幼年のため久門が代理で登城して太刀・馬などを進上し、継豊へ謝意を示す記事も続く。No.2061・2062の所領付与とあわせて読むべき記事である。
追録4-No.2067 越前島津家の系図一巻・家譜六冊の編修と交付
記録所が越前島津家の系図一巻と家譜六冊を編修・清書し、島津忠紀へ交付した。鎌田太郎右衛門政直と複数の国老が連署し、受け取った系図・家譜を大切に保管するよう証書として伝える。No.2068は同趣旨の別伝本である。
追録4-No.2068 越前島津家系図・家譜交付証書の別伝本
越前島津家の家督継承に伴い、記録所で編修した系図一巻と家譜六冊を島津忠紀へ渡したことを記す。鎌田政直と国老らが署名し、大切に保存するよう申し渡す。No.2067と本文の趣旨が重なるが、別の収録本文として扱う。
追録4-No.2069 歳暮の小袖献上に対する吉宗の謝状
将軍吉宗は、継豊から歳暮の祝儀として小袖一重が届いたことを喜び、詳しい返答は本多忠良が伝えると記した。No.2070はこの小袖献上の披露に関する老中返書である。
追録4-No.2070 歳暮の小袖献上への酒井忠知返書
継豊が歳暮の祝儀として使者を立て、小袖一重を献上したことについて、酒井忠知は披露を遂げ、喜ばしいと返答した。No.2069の将軍吉宗の謝状と同じ献上を扱う。
追録4-No.2071 新年の祝儀と吉貴・継豊家族の健勝を伝える消息
新年に継豊をはじめ家族が健勝で祝いをしたと伝え、吉貴方の新春も祝う。目録に記した年始の文を届け、吉貴と菊姫らの健康・家の繁栄を願う。荻原・岡田・藤ら女房衆から比志島隼人・島津権左衛門らへの消息である。
追録4-No.2072 継豊らの年始の祝儀と年明けの書状を伝える消息
継豊とその周囲が健勝で賑やかに新年を迎えたことを喜び、吉貴方にも年始の祝いを申し伝える。目録どおりに年明けの文を届け、今後も祝いの往来が続くことを願う。No.2071と同じ年始の儀礼を扱う別の消息である。
追録4-No.2073 若菜の祝儀の鯛一折献上への本多忠良返書
継豊が若菜の祝儀として鯛一折を献上したことについて、本多忠良は披露を遂げ、喜ばしいと返答した。No.2074は同件に対する松平乗賢の返書である。