樺山紹剣自記
年月日未詳 / 冊子 830頁
樺山紹剣の自記は、島津忠恒が八月末までの上洛出立を予定し、野尻に滞留した間に伊集院忠真とその弟・母らを各地で討ったことを記す。これにより上洛の障害が除かれたとする。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 830頁
樺山紹剣の自記は、島津忠恒が八月末までの上洛出立を予定し、野尻に滞留した間に伊集院忠真とその弟・母らを各地で討ったことを記す。これにより上洛の障害が除かれたとする。
年月日未詳 / 冊子 882-883頁
樺山紹剣の自記。京都で越年した忠恒の慶長八年二月の帰国を祝い、前年からの山口直友との取次、鎌田政近らの動き、佐土原通過をめぐる交渉と龍伯の裁定により事態が収まった経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 931-932頁
樺山紹剣(久高)の自記。慶長九年の島津忠恒上洛に随行し、京都での用務から帰国までを記す。前年は留守役だったが今回は同行し、屋形の土地を受け取って、堀・門・町割りなどを整えた居所を築いた経緯も述べる。
年月日未詳 / 冊子 873頁
豊臣秀次が謀反を疑われ高野山で自害した事件に続き、薩摩・大隅・日向で地頭替えと所領再編が進み、代々の土地や知行を失う人々が悲嘆した状況を記す。 一石につき五斗の賦課や替地にも触れ、国や御家のためとして異議を言えない空気を伝える。さらに明・朝鮮使節の来訪と講和の噂、朝鮮沿岸の日本陣についても記録する。
年月日未詳 / 冊子 211~212頁
樺山紹剣が、豊後へ進む前提として岩屋城を攻めることになった経緯から、七月二十七日の総攻撃と落城までを回想する。城兵は石・長刀・鎗などで激しく防戦し、島津方も岸壁や城際で組み討ちとなって多数の死傷者を出した。配下の樺山忠助が重傷を負いながら退かず戦ったこと、各隊の攻撃位置や討死・負傷者、落城後の処置までを挙げ、岩屋城合戦の苛烈さを樺山家側から伝える。
年月日未詳 / 冊子 269~272頁
樺山紹剣が、府内・三重・松尾城周辺での守備と進退を自身の見聞として詳述する。年越し後、敵の反攻と兵糧難が強まる中、諸将からの書状・使者を受け、各城の兵を集めるか退くかを評定した。夜間の移動、城への入退、渡河、砲撃・放火への備え、負傷者や病人、食料・宿所の確保まで記し、伊集院忠棟らとの連絡や意見対立も描く。豊後侵攻後半の島津軍が、勝敗だけでなく補給・情報・指揮系統の混乱に直面したことを伝える長文の自記である。
天正十一年春夏 / 冊子 754頁
天正十一年春夏までに内空閑・合志・津守・木山・三船・隈之庄との境を小競り合いで安定させたこと、相良義陽が三船で敗死したため薩摩から八代へ番兵を置き、忠平が八代に滞在したことを記す。樺山紹剣が吉利氏と番替して八代へ赴いた後、樺山規久が日比良城を攻略し、負傷しながら敵を討たせたことも載せる。
年月日未詳 / 冊子 99~100頁
島津義弘の八代出陣後、堅志田城攻めに参加した樺山久高(紹剣)が自らの戦闘を記す。城際へ進んで敵武者と太刀を交え、相手の刀を押さえて討ち取り、城門・堀際で逃げる敵を追撃した。配下の働き、打物や太刀の扱い、負傷・討取りの瞬間まで細かく述べ、武将個人の近接戦闘を臨場感豊かに伝える自記である。
年月日未詳 / 冊子 243頁
樺山紹剣が、薩摩・大隅・日向・肥後の軍勢による豊後侵攻を回想する。義弘が肥後口、家久が日向口を率い、岡城・三重方面の城々を攻めた経過を記し、寒気と薄雪の中で川を渡り、城を包囲して焼き払った場面も描く。冬季の進軍路、攻城方法、現場の厳しさが分かる自記である。
年月日未詳 / 冊子 281頁
樺山紹剣が高動野の合戦から日州への退却まで、自身の見聞と行動を記した自記。勝戦の直後にも進路を失い、阿蘇坂などで多数の敵と戦いながら諸隊が離散・合流する様子が描かれ、撤退時の混乱を生々しく伝える。
年月日未詳 / 冊子 433~434頁
樺山紹剣が、春夏の国元遊覧、島津義久の上洛への随行、京都での越年、豊臣秀吉の鷹狩などを回想した自記。 京都で見聞した武家・公家の動きや贈答、帰国航海までを本人の視点で記し、島津家臣が豊臣政権中枢に接した体験を伝える。
年月日未詳 / 冊子 457頁
樺山紹剣が、豊臣秀吉の小田原征伐に応じるため、国中の有力者・役負担者から銀銭を集めて出納し、在国・他国奉公中の者の氏名と人数も記録するよう説いた自記。 全国の諸大名が太閤の命に従って軍勢を出す情勢を踏まえ、島津領内でも人員・資金を漏れなく把握して出陣に備える必要を述べ、豊臣政権の軍役が在地社会へ及ぶ様子を伝える。
記事 / 冊子 494頁
天正十九年、九州衆が名護屋の普請に動員された際の樺山紹剣の自記。武庫様が高麗渡海の支度と普請を進めるなか、紹剣が先に奉公を果たし、帰国や今後の出仕をめぐって指示を受けた経過を記す。朝鮮出兵を目前にした築城・渡海準備と家臣の奉公調整を当事者の言葉で伝える。
年月日未詳 / 冊子 536頁
文禄元年、秀吉が名護屋へ下向し、朝鮮へ出征するなかで、樺山紹剣が島津義弘・久保らの移動や各地での宿泊・歓待・贈答・詠歌を記した記事。船や宿の手配と歌の応酬から、渡海準備を支えた家臣団の実務と文化的交流が分かる。
年月日未詳 / 冊子 622頁
文禄二年春、朝鮮で日本軍が後退するなか、島津勢が奉行衆の命を受け、敵を十里ほど追って夜襲した経過を樺山紹剣が回想する。 鉄砲を用いた敵を城戸から追い散らし、一人を討ち取るなど、朝鮮出兵の現場での追撃・夜戦を当事者の視点から記した自記。
年月日未詳 / 冊子 764頁
京都からの命令で石田三成配下が下向し、国中で竿打ちによる検地を実施したことを樺山紹剣が自記する。薩摩は黒川右近、日向は伊地知氏、大隅は吉利氏が案内を担当した。 薩摩十三郡を測量した一方、泉・高城郡から山北は竿入れの対象外だったと、現場側の役割分担を具体的に記す。
文禄五年閏七月九日 / 冊子 30頁
樺山紹剣が、文禄五年閏七月九日に大地震があり、京都では十二日夜に諸大名の屋形や町屋、金銀で補強した御殿まで崩れ、数百人が圧死したと記す。高麗から人を日本へ渡す交渉にも影響し、秀吉が機嫌を損ねたことなど、伏見地震後の混乱を伝える自記。
年月日未詳 / 冊子 31頁
樺山紹剣が「松蔭新涼」を題として、茂る松の下露に秋の初風の涼しさを詠んだ和歌一首。
年月日未詳 / 冊子 75頁
慶長二年、前年の地震で崩れた家屋の再建に追われる一方、国中の軍勢が高麗へ渡って陣を張った時期の事情を記す樺山紹剣の自記。家中の祈籤・儀礼にも触れ、国内復旧と朝鮮出兵が重なった状況を簡潔に記録する。
年月日未詳 / 冊子 245~248頁
『樺山紹剣自記』が、豊臣秀吉の病没前後から朝鮮撤兵・帰国後までの自身の体験を記した記録。秀吉の遺命と高麗陣への大軍襲来、弾薬・船・兵糧に乏しい島津勢の防戦、敵船への備えや使者・迎船の手配、撤退命令を受けた渡海準備などを述べる。帰国後は京都で島津義弘に供奉し、馬の拝領、賀茂祭、京都と国元を往来する人々への対応など、戦場から在京奉公へ移る経過を自記する。
年月日未詳 / 冊子 558頁
樺山紹剣が、徳川家康の東国下向中に石田三成が謀叛の張本となり、伏見城を攻め落として美濃へ退いたこと、福島正則が石田方の企てを家康へ知らせ、関ヶ原で防戦して石田方が敗れたことを記す。島津勢は残兵をまとめて追撃を退け、伊勢・伊賀・大和・河内・和泉を通り、船で瀬戸内を経て日向細島へ帰着したという。
年月日未詳 / 冊子 667-670頁
上方からの早打や関ヶ原敗報で情勢悪化を察した樺山紹剣は、九月末に佐土原へ急行した。逃散する住民が多く、稲津掃部・伊東方の動向も不穏なため、高崎越前守・三原仲右衛門らと城の守備を相談し、城外の屋敷を取り払うなど籠城準備を進めた。伊東勢が宮崎城を攻略し佐土原へ寄せるとの報に、御上様(島津義弘夫人)へ、敵が来れば城下で防戦し、敗れれば入城して城で最期を遂げる覚悟を言上した。野伏らとの交戦を経て伊東方の進出を警戒したが、各地無事との報を受け、警備を引き継いで帰還した。
慶長六年~七年 / 冊子 772-773頁
樺山紹剣自記は、鎌田政近が上洛し、山口直友の取次で本多正信らと島津家の赦免・上洛を交渉した経緯を記す。徳川家康の意向や諸士との折衝を受け、神慮を問うたうえで上洛する方針となり、準備が慶長七年秋まで延びた。
(天正16年)2月13日 / 冊子 382頁
樺山忠助が武庫様(島津義弘)に暇を申し、穆佐で関係者と相談したのち、天正十六年二月十三日に出船した旅程を記す。佐土原を経て大坂へ赴き、本多因幡守の取り成しで神文を提出して龍伯に奉公した。秋には義弘の上洛と交替する龍伯らの下向船に供奉して国元へ戻り、そこで越年した。上方奉公と薩摩帰還の移動を具体的に残す自記。
天正四年八月 / 冊子 488頁
天正四年の領域変動を簡潔に記す。島津氏が高原・三山を領有し、伊東氏は野尻を保持した。さらに福島・志布志を得た一方、肝付氏は高山・姶良・内之浦・岸良を残し、禰寝氏に姶良・西俣を与え、鹿屋・串良・大崎は島津方が掌握した。
天正五年十二月三日 / 冊子 524頁
天正五年十二月、日向山東がことごとく島津領となり、義久が大隅正八幡宮へ参詣したことを記す。福永丹波守が内通を申し出た際、新納忠秀入道慶雲が高原から野尻城へ急行したことも載せる。
年月日未詳 / 冊子 308~309頁
豊臣軍の日向進攻で島津方が敗退し高城も包囲されたため、都於郡の義久は討死を覚悟するが、老臣らは大友氏との争いのために天下へ敵対すべきでないと説得した。義久は五月八日に川内で服属し、義弘も十九日に出向く。三州の所領が保たれたため義久は謝礼に上洛し、石田三成・細川幽斎が取次を務めた。
年月日未詳 / 冊子 359~360頁
慶長四年三月、龍伯の下向と幸侃生害を受け、庄内境の清水之浦・廻・市成・大崎・志布志・松山・高原・高崎などに諸将を配して警固した経過を記す。久高は志布志を拠点に各所を巡回し、梅北・末吉・飫肥越の通路を押さえて敵を休ませず、その忠節と弓矢の手柄を第一と称された。のち忠恒が庄内へ向かい山田・志和地を攻略し、山口勘兵衛尉の下着によって和議となり、久高は二万石を与えられ、忠真は阿多に残されたとする。
天正六年十月 / 冊子 597~598頁
高城合戦の日、樺山規久が島津家久に代わって城へ入り、十二日の大戦に備えたことを記す。樺山忠助は体調が悪く出陣しなかった。数代にわたる忠節の家として規久が穆佐・高城を拝領し、戦死した伯父忠副の跡を継いで一族を率い穆佐へ移った経緯を述べる。
天正八年 / 冊子 657~658頁
宝川内を取った直後、敵が夜ごと城麓を襲うため、樺山忠助が自ら警固に入り、遠見と野伏で敵を遠ざけた。正月十一日には津奈木城麓へ忍び、築瀬氏一人を討ち一人を捕らえた。二月末に水俣・津奈木間で仕置をして帰る途中、一之瀬陣で大口勢が敵の騎馬衆と戦い、永井軍兵衛が討死したことも記す。
天正十年八月十八日 / 冊子 716~717頁
水俣攻囲の五陣と佐敷獲得後、樺山忠助が義久への慶賀に参上したところ熊本警固を命じられ、船で松葉瀬へ渡って宇土を経て熊本へ入った記事。城親正は病で対面できず年末に死去し、熊本衆の心が離れる中、内空閑勢が鹿子木町を焼いたが、忠助は城入道とともに警固した。
天正七年三月頃~十一月 / 冊子 635頁
天正七年三月ごろから肥後・筑後方面の防戦に備え、同年十一月に薩摩から肥後熊本へ加勢の番手を派遣したことを記す。
天正九年四月十三日以後 / 冊子 687頁
天正九年四月、龍造寺勢が肥後南関から隈部方面へ進み、二十日ごろ赤星方の城が落ちて熊本の守備が困難になった情勢を記す。相良氏が水俣から豊福までを押さえて往来を遮ったため、まず水俣へ出陣する方針となった。
天正十二年三月 / 冊子 874~875頁
龍造寺隆信が有馬氏を攻めたため、島津方が安徳へ番衆を送り、家久を大将として渡海させて島原への通路を断った経緯を記す。寡兵で隆信の大軍を破り首八百余を懸けたとし、義久は後詰として八代に在陣した。樺山久高らは隈本・合志方面を巡って調略した。
天正八年五月十五日以後~天正九年二月下旬 / 冊子 654頁
天正八年に相良領の宝川内城を落とした後、敵が毎夜城麓を襲って警固が困難になったため、樺山忠助が入城して武略で退けた。翌年正月十一日には勇士を津奈木城麓へ忍ばせ、築瀬氏一人を討ち一人を生け捕りにした結果、襲撃が止み、二月下旬に陣を開いた。
天正十年九月二十六日以後 / 冊子 721頁
天正十年九月二十六日に佐敷が島津方の手に入った後、樺山忠助が水俣から慶賀に参上し、熊本警固を命じられた記事。松葉瀬から宇土を経て熊本へ入り、病床の城親正が年末に死去して熊本衆の心が離れる中、内空閑勢が鹿子木市中を放火したため、忠助は城入道と協力して警固した。
天正十一年春夏 / 冊子 760頁
天正十一年春夏までに内空閑・合志・津守・木山・三船・隈之庄との境で敵を退け、相良義陽が三船で敗死したため薩摩勢を八代警固に置いたことを記す。相良氏には球磨のみが残り、忠平が八代へ渡った際、樺山忠助は吉利氏と番替して八代へ赴き祝賀した。
年月日未詳 / 冊子 197~198頁
秋月種実が、豊後へ進むにはまず筑前の岩屋城を落とすべきだと進言したことから説き起こし、島津軍が城を包囲して総攻撃に移るまでを記す。岩屋城では高橋紹運方が鉄砲・石・長刀などで激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出した。樺山忠助も城際で負傷しながら退かず、家臣に救われたことを含め、攻城の戦略と個々の戦闘を結び付けて伝える。
年月日未詳 / 冊子 242~243頁
天正十四年十月十五日の豊後出兵で、島津義弘が肥後口、島津家久が日向口の大将となった際、樺山忠助は家久の軍に従った。南郡・三重方面の諸城を攻め、鉄砲や石が飛び交う城際へ進み、敗走する敵を追って川を渡るなど、家久軍前線での戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 278~280頁
豊後からの撤退に際し、樺山忠助が島津家久らとともに追撃軍へ抗し、白根城・松尾城を経て日向へ退いた経過を詳述する。夜戦、敵中突破、離散した味方との再合流、兵糧不足、城郭の放棄が連続し、豊臣方の大軍を前に島津勢が崩れながらも殿軍を組織して退く実態が具体的に分かる。
年月日未詳 / 冊子 379頁
樺山忠助が京都へ赴き、上原徳淵を経て大坂へ到着し、島津義弘の上京に随行した経過を記す。 義弘の妻子や家臣団の移動・滞在にも触れ、九州仕置後の上洛・参勤に伴う島津家臣の動向を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 486~487頁
樺山忠助譜に収められた、七十九歳の老母・通善周慶大姉の書状と事績。上京して龍伯に供奉する忠助へ、主君への忠節を尽くし、酒色を慎み、病を養い、仏道を忘れないよう諭す。母の教養と家訓、忠助が書を珍蔵して繰り返し読んだこと、母の死と龍伯の追悼までを伝える、家族の情愛が鮮明な史料である。
年月日未詳 / 冊子 763頁
秀吉の命で薩摩・大隅・日向三州の旧田数と境界を改める検地が行われ、石田三成の家臣らが下向した経緯を記す。薩摩では黒川右近が筆頭となり、樺山忠助が案内・指南を務めた。 日向は伊地知某、大隅は吉利某が担当し、高城・出水など公領は検地対象外だったことも示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 553~554頁
樺山忠助譜として、徳川家康の会津出兵から石田三成の挙兵、関ヶ原合戦における小早川秀秋の寝返りと西軍敗走、島津義弘の堺からの海路退却、島津豊久の戦死を叙述する。さらに、伊東家臣稲津掃部助が旧領回復を図ったため佐土原へ急行し、新山口城への放火や広原付近の戦闘で敵首八級を得て退け、冬には和平に至った経過を記す。
天正三年三月廿二日 / 冊子 432頁
島津義久が樺山忠助の母に、大隅国小田名を今後は覚悟の証跡として望むとの申し出に従い与え、子孫に至るまで相違がないよう保障した書下。
年月日未詳 / 冊子 269頁
島津家久が府内に留まり豊後半国を掌握したものの、諸将の抵抗と兵糧不足で進退に窮したため、樺山忠助を三重の松尾城へ退かせた記事。天正十五年正月十八日、忠助が府内から三重へ到着し、新納縫殿助・平田狩野介らと守備に当たった経過を記す。
天正四年八月十九日~十月 / 冊子 498~499頁
樺山玄佐が、高原城攻めの出陣・攻囲・断水・開城と、小林・須木など周辺諸城の帰属を回想する。孫の忠助・久高も戦ったとし、続いて肝付勢の飫肥出兵と大敗、志布志・福島の島津方接収、肝付領削減を記し、日新忠良の娘が肝付家にいたため家を残した慈悲と説明する。
天正六年十一月 / 冊子 598頁
樺山規久が高城防衛に入り、数代の忠節によって穆佐・高城を与えられ、戦死した樺山忠副の跡を継いで一族を率いたことを伝える。樺山家の由緒と、高城合戦後の所領拝領を家門繁栄の徴として記す。
年月日未詳 / 冊子 286~287頁
豊州から退く島津軍が各地で豊臣方の追撃を受け、鉄砲を交えた戦闘を重ねながら日向へ移動した経過を記す。諸将の戦死や離散が相次ぐなか、義弘らが殿軍として敵を食い止め、城を渡り歩きつつ本国への退路を確保した。
年月日未詳 / 冊子 467頁/原整理番号 70の2
川上久盤の覚書。樺山家八代の樺山善久(玄佐)の生没・法名と辞世、樺山忠助ら近親者の生没年や関係を注記し、樺山家の伝記を補足する。