樺山氏系図抄(九)
年月日未詳 / 冊子 700~701頁
樺山氏四男で外城を称した掃部助久泰一流の系図。孝久の山東須田木戦死、久里の出家、久光の吉田戦死、別府での戦死者など、外城氏分流の官途・法名・婚姻・断絶を記す。
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年月日未詳 / 冊子 700~701頁
樺山氏四男で外城を称した掃部助久泰一流の系図。孝久の山東須田木戦死、久里の出家、久光の吉田戦死、別府での戦死者など、外城氏分流の官途・法名・婚姻・断絶を記す。
文化10年10月17日(朱年注) / 冊子 422頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1312
全上・写正文在家老座。野田感應寺の位牌殿取建・御五代様位牌安置、霊膳道具ほか作足・取繕、米之津天神社の石灯篭建立・神垣仕調、飯野満足寺同所狗留孫山造立、その他寺方神社の取繕をするよう命じられたので、寺社奉行へ申渡して置いたと報告する。文化10年朱注10月17日、伊集院隼衛署、将監宛・島津久泰注。兼当の名義は目録。申渡し済という手続と各建造整備の要求を分け、全施設の完成を報告したとは書かず、御五代様の実名も補わない。
8月(本文年記なし。目録文化3年) / 冊子 267頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0864
嶋津因幡殿について、二男以下の家号が未定だったところ、今節三男が出生したので家号を見合わせて拝領を命じられたいと願い出た。今後は二男以下が右に掲げる和泉の家号を拝領することを命じるので、その旨を帳面へ記置くよう通知する。因幡に忠厚、将監に島津久泰の注、8月・将監署、御記録奉行宛、白木御文書七番箱中26番。年は目録の文化3年による。三男出生を契機とした願いと、二男以下にわたる家号の決定を分け、三男だけの命名に狭めない。
文化7年午11月7日 / 冊子 356頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1109
当地に居住する郷士ら諸與・與力にふさわしくない言動、辻歌、尊卑のわきまえが薄い無礼があるとし、従来の申渡しをさらに慎むよう命じる。前文の件に関連する共同の会合はしないよう支配頭等からよく申し渡すこと。足軽・家来・寺門前の者等が異様な身なりで徘徊したり士に紛れたりする件も、先年来申渡したのに守らない者があると述べ、今後再びないよう申し渡す。今回の取締に関わる者は掛役とも協力し、見聞の成行を申出ること、違背者があれば厳しく迷惑に及ぶので親兄弟や身近の者にも心得させることを指示する。文化7年午11月7日、将監(島津久泰注)署。具体の違反行為・身分別対象・支配頭と掛役の役割を分け、単に一般的風紀改善と縮めない。
文化8年6月14日(目録)。正文に独立年月日なし / 冊子 370頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1156
重豪公御譜中・扣正文在家老座。宇治黄檗山の直末寺なので寺社奉行所の触達等を直接申し渡すべきところ、これまでは壽国寺へ伝え、同寺から千眼寺へ伝えていた。今後は寺社奉行所から直接申し渡すよう大御隠居様が沙汰したので、そのとおり取り扱う旨を寺社奉行へ通知し関係先へ伝える。千眼寺に鹿児島の注。目録は文化8年6月14日・島津久泰申渡書とするが正文に独立署日・署名は掲載しない。壽国寺経由と千眼寺への直接触達を分け、寺格の新規創設や寺領寄附としない。
文化9年正月廿九日(目録。本文独立年月日なし) / 冊子 385頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1208
白木御文書7番箱中62番・寫の出典表示に続き、豹治郎様・富姫様・壽姫様の三名を列記する。目録は文化9年正月廿九日島津久泰書状とするが、この表示には独立した日付・署名・宛名や書状本文はない。続く1209照会文は右御三人と述べるため、本件はその対象三名一覧として採録し、1209本文を本件の独立署名本文と扱わない。原本上段70ptを空白帯境界に採用し、旧1208左端へ混入して裁断されていた1209の右若於御記録所からの列を除く。名の寿・壽表記は原名に従い、実母情報は回答1210と分ける。
文化9年12月(朱年注。日なし) / 冊子 392~393頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1234-2
取締役が自分勝手に扱い、拂出を第一に考え損費を顧みないため、大御隠居が別紙写の御筆で仰せ出したとする。不宜な手筋は調べた上で咎め、旧来の慣行でも不筋をなくし、見聞役へ詳しく指示して今後厳しく勤めさせる。各自の利得を求め緩く勤めることは許さず、不守者は軽重を問わず咎める。倹約に心を尽くし功績を立てた者は支配頭が報告するよう命ずる。御膳所向・御包丁人頭・御料理役等も我がもの扱いせず御費用を抑える。諸御蔵の取納時に升目過分があり、御奉公人が諸向へ入る際に音物・酒食を差し出させ百姓が困窮するとの報告があるので、今後一切なくす。差し出す者と請ける者は同様に処分する。格別精勤者には褒美。三頁の本文から文化9年朱注・12月、将監・安房・信濃の三署へ連結し、実名は各人物注から採る。取締・損費倹約・賞罰・収納と贈答の禁を分け、具体の既処分者名や金額は補わない。
文化4年6月19日(行間朱答)。共用本書5月24日 / 冊子 277~278頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0899
898本書に対する行間朱答。本返答の趣旨を承知し、御内證様へ御聴に達し、関係先にも申し渡したとする。6月19日の朱日付を伴う。共用紙面には文化4年5月24日・市田勘解由の本書と、朱上/下、嶋津将監殿・頴娃信濃殿・新納内蔵殿の列がある。目録は島津久泰外二名家老連署返書。本書の宿札薩州大奥、道中名目、紫縮緬桐紋の幔幕、当人紋の挟箱等と、それらの返答を承知・上聞・伝達した朱答を分ける。独立署名原紙を別に作らず、共用媒体で全文を確認し、実際の江戸出府完了は本文から作らない。
文化8年6月(朱年注) / 冊子 366~367頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1141
重豪公御譜中・写正文在文庫。今回の初帰国に際して老中が示談した政務の別紙を、御用番土井大炊頭から有馬左兵衛佐を介して三殿が了承したことを承知する。先代にも例のない厚恩として謝意を述べる箇所は、掲載正文御不幸に不は大カとの注があるためその異同を保持する。太守・大御隠居の別紙の趣意を深く受け、万端を慎み、国中の静謐を専ら心掛け、風俗を乱さず従来の規定を堅く守ると誓う。文化8年6月、将監久泰・安房久備・信濃久喬三署。1137の幕府示談・大御隠居仰出と、これを受ける家老請書を分ける。
文化8年12月6日(朱年注) / 冊子 380頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1191
重豪公御譜中・寫正文在琉球國司。国王の尊書を拝見し、大御隠居への年首祝儀として目録どおりの品が差し上げられ、江府到着後に披露したところ満足したという旨を伝達するよう求める。前頁の出典表示から次段本文、文化8年朱注、12月6日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の四署各實名判、讀谷山王子・三司官宛までを採録。目録は久泰外三名家老連署書状。品名・数量は本文にないため補わず、文書日12月と年首祝儀を別に保持する。
文化9年12月15日(朱年注) / 冊子 393~394頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1238
重豪公御譜中・寫正文在琉球國司。国王の尊書を拝見し、大御隠居への年首祝儀として目録どおりの品を差し上げ、江府到着後に披露したところ満足したと返す。この旨を伝達するよう求める。文化9年朱注、12月15日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房の三署に続き次頁に嶋津将監の署、各實名判、讀谷山王子・三司官宛。四署を連結し目録の久泰外三名を採録。品名・数量はないため隣の祝儀から補わず、年首という事由と12月の文書日を分ける。
文化4年3月15日(本文・包紙) / 冊子 276頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0892
この節出生した女子於都について、兵庫殿養子嶋津省之進殿との縁組が今日仰せ出されたので、その旨を帳面へ記置くよう命ずる。3月15日、将監署、御記録奉行宛、白木御文書七番箱中29番。包紙は文化4年卯3月15日に将監殿から渡された書付とする。出生と縁組仰出、相手の兵庫養子という関係、帳面登録指示を分け、当日の婚礼実施や女子の養子移動を作らない。
文化8年12月6日(朱年注) / 冊子 380~381頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1192
全上。国王尊書を拝見し、太守初入部の祝儀として玉城親方を通じ、大御隠居に太刀1腰・御馬代白銀100両と目録どおりの品を差し上げた件を記す。江府到着後に披露したところ満悦したため、この旨を伝達するよう求める。文化8年朱注、12月6日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の四署各實名判、讀谷山王子・三司官宛。頴娃署の實名判と安房・将監署宛は次頁へ続く。太守の祝儀という理由と実際の献上先大御隠居を区別し、白銀100両を100枚へ置換せず、目録品の明細は補わない。
文化8年12月6日(朱年注) / 冊子 381頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1193
全上。国王尊書を拝見し、寛二郎が嶋津若狭の養子になると仰せ出された祝儀として、玉城親方を通じ大御隠居へ太刀1腰・御馬代白銀30両と目録どおりの品を差し上げた件を記す。寛二郎に島津斉宣男、若狭に忠貫の割書注。江府到着後に披露したところ満悦した旨を伝えるよう求める。文化8年朱注、12月6日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の四署各實名判、讀谷山王子宛。本件は三司官宛表示がなく、1192の白銀100両・太守初入部の件と数量・事由を分ける。養子届・命の日付は本件にはなく補わない。
文化8年12月6日(朱年注) / 冊子 381頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1194
全上。国王尊書を拝見し、富姫の天亡に伴い、大御隠居の機嫌を伺うため玉城親方を通じて申し上げられた紙上の趣旨を、江府到着後に披露したと返す。文化8年朱注、12月6日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の四署各實名判、讀谷山王子・三司官宛。富姫の命日・享年・法名や贈品は記載しない。1195の寿姫誕生祝と本件富姫死去を別人名・別事由として保持し、系譜の他の姫名へ無断で同定しない。
文化8年12月6日(朱年注)。誕生は本文「去々歳」 / 冊子 381~382頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1195
全上。国王尊書を拝見し、去々歳に女子が誕生して御名を寿姫と称したため、大御隠居に祝儀を申し上げられた件を、江府到着後に披露したと返す。前頁の去々歳・女子誕生・寿姫の冒頭から次頁の祝儀披露、文化8年朱注、12月6日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の四署各實名判、讀谷山王子・三司官宛へ連結。本文は去々歳なので文化8年からの相対年は文化6年に相当し、1048・1049寿姫誕生の文化6年表示とも整合する。品名・数量は記載せず、1194富姫天亡や1116富姫誕生を本件の寿姫へ置換しない。
文化9年12月15日(朱年注)。太守叙位拝領は去歳 / 冊子 394頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1239
全上。国王尊書を拝見し、太守が去歳御位を拝領した祝儀として、伊江親方を通じ大御隠居に太刀1腰・御馬代白銀100両と目録どおりの品を差し上げた件を記す。江府到着後に披露したところ満悦したため、この旨を伝えるよう求める。文化9年朱注、12月15日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の四署各實名判、讀谷山王子・三司官宛。叙位の官位名や具体日付は本件にはないため補わず、祝儀の事由である太守と実献上先の大御隠居を区別する。
文化9年12月15日(朱年注)。御鷹の鶴拝領は当春 / 冊子 394頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1240
全上の見出しから次段本文へ続く。国王尊書を拝見し、当春太守が御鷹の鶴を拝領した祝儀として、伊江親方を通じ大御隠居へ太刀1腰・御馬代白銀100両と目録どおりの品を差し上げた件を記す。江府到着後に披露したところ満悦したため伝達を求める。文化9年朱注、12月15日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の四署各實名判、讀谷山王子・三司官宛。太守の鶴拝領の具体日付・数量は本件にない。1239叙位祝儀と同使者同品であっても、本件は御鷹の鶴の祝儀として別に保持する。
文化9年12月15日(朱年注) / 冊子 394~395頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1241
全上。国王尊書を拝見し、御内證の卒去に伴って大御隠居の機嫌を伺うため、伊江親方を通じて目録どおりの品を差し上げた件を記す。江府到着後に披露したため伝達するよう求める。文化9年朱注、12月15日、鎌田典膳の署は前頁、頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の三署と讀谷山王子・三司官宛は次頁へ続き、四署各實名判を連結する。御内證の実名・命日、贈品の明細・数量は本文にないため補わない。御機嫌伺への贈品を祝賀の品と同一視せず、太刀・馬代も隣件から移さない。
文化9年12月15日(朱年注) / 冊子 395頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1242
全上。国王尊書を拝見し、武五郎殿の卒去に伴い大御隠居の機嫌を伺うため、内間親雲上を通じて目録どおりの品を差し上げた件を記す。江府到着後に披露し、この旨を伝達するよう求める。文化9年朱注、12月15日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の四署各實名判、讀谷山王子・三司官宛。武五郎の別名・命日・享年や品の明細は記さない。1241御内證卒去の伊江親方と本件内間親雲上は別の使者として採り、品目を互いに補わない。
文化8年5月(朱年注) / 冊子 362~363頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1134
全上・写正文在文庫。国中風俗についての別紙は次頁へ続き、御両殿様が詳しく、従来から重ねて仰せ出されたことと今回の趣意を我々も恐れ入り承知したと述べる。各人が律儀を守り風俗が立ち直るよう努め、尊慮を安んじるよう朝暮心掛けて堅く守ること。特に若年の者は父兄から油断なく教育し、違背者には当人のみならず身近の者にも相応の咎を申し付けられるので、この旨が行き届くよう支配下役等へ折々申し合わせることを求める。文化8年5月、将監(久泰)・安房(久備)・信濃(久喬)の三署。本人と親族への取扱い、父兄教育と下役への周知を分ける。
文化5年閏6月(朱年注) / 冊子 301頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0947
江戸・国元とも隠居様が下知した件について、所帯向きの困難は放置できない急務で、省略中の当年から5年間厳しく取締ることを命じられ、是非その効果を上げるよう求められたと伝える。一方で当然の差し当たりが諸人の迷惑になる場合は用捨し、速やかに所帯向きを立て直し、諸人を身分相応に暮らさせることが本意であるため、趣旨を取り違えず、細かなことまで油断なく調べて申し出、将来に不頓着なまま打ち過ごす者には厳しい沙汰があると告げる。太守様もこの沙汰を承知し、厚く趣意を心得るよう命じたので、役人は吟味を尽くし、近年の取締りに効果が上がっていないことを戒め、精勤して遅延なく諸事を調査・報告するよう求める。将監・信濃・典膳署、文化5年閏6月朱注、重豪公御譜中、写正文在文庫。前の6月諭達に続く、閏6月の家老三名による実施通達である。本文の署名は将監、目録は久泰とする。
文化5年閏6月(朱年注) / 冊子 302頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0951
隠居様について、当分の御介助は名目まで断ることとなっていたが、今節の一件により、今後江戸・国元双方へ下知するので、この旨が各向きに洩れないよう通達することを命じる。将監・信濃・典膳署、文化5年閏6月の朱注、重豪公御譜中、写正文在文庫。介助の形式上の名目と、今回以後の江戸・国元への下知・周知を別に採録し、先行942・943の願い・返答だけで一括しない。本文の署名は将監、目録は久泰とする。
文化6年6月廿七日(正文末朱注)。別に朱7月19日・上の表示 / 冊子 325頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1020
隠居・家督交代と政事向、大御隠居の介助について、改めて願いを進めたいとの太守・御隠居の意向を承知したので、去19日、典膳が使者として高輪へ伺い、黒田嘉右衛門(清卿注)から詳しく申し上げた。返答承知への御礼と、さらに自分たちから願った趣旨も嘉右衛門に申し上げたところ承知を得たと伝える。両殿が聞き届け、向々へ別紙どおり申し渡したので、申渡しなどを取り扱うよう求める。冒頭朱注は正文を承知し向々へ通達する別紙控を置くとの口上。正文末に文化6年6月廿七日、別に朱7月19日・上を付す。上記は川上右近(久芳)・鎌田典膳(政與)・島津安房(久備)、下記は島津将監(久泰)・頴娃信濃(久喬)・島津登(久兼)の各注名。六月書状と七月別紙注、上下人名の関係は判然としないため分けて留保し、六人を一律に連署差出人としない。
文化6年10月(正文)。包紙11月朔日、出生9月28日夜 / 冊子 336頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1044
白木御文書七番箱中44番、口裏に将監へ渡された書付の写と表示。先月28日夜に御前が安産し男子が誕生したので、先に内分で取り計らい、島津称号を今後用い、追って届出が済めば松平称号とその文字を用いるよう命じられたことを、向々へ内分で伝える。10月、将監。包紙は文化6年己9月28日、江戸大奥での安産・男子誕生、内分取計と島津称号使用について将監から渡された書付写1通と記し、11月朔日を付す。実出生、正文10月、包紙11月を分け、届出済みの松平称号使用としない。目録の久泰は目録に由来する注で、正文署名は将監のまま保持する。
文化10年8月19日(下印の朱返答日。年は共用紙面・目録) / 冊子 407頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1278
1277本書の行間朱注に載る返答。本文を委曲に承知し、さらに吟味して差し越された別紙の趣により諸向へ申し渡すと述べる。途中での内沙汰の趣も承知し、受けは伊集院隼衛へ申し越し、別紙の御書面写等2通を控え置いて返答するという。下印・朱8月19日が返答日。川上右近・嶋津将監・嶋津安房・頴娃信濃の四名(久芳・久泰・久備・久喬の注)が返書差出人、鎌田典膳が返書宛で、本書とは署宛の役割が反転する。朱返答は本書と同じ紙面に挿入され、七月十七日は本書の日付である。
文化10年8月3日 / 冊子 409頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1284
白木御文書7番箱68番。高30斛、志布志月野村の内、名寄帳は別冊とする。大御隠居付として多年出精して勤め役立ったため、思召により右のとおり拝領を命じたので所務するよう通知する。文化10年8月3日、頴信濃久喬判・嶋安房久備判・嶋将監久泰判・川右近久芳判、伊集院隼衛宛。包紙には知行目録写とある。額・場所・勤仕の理由・四署・宛・別冊名寄帳の所在表示を区別し、名寄の個々の内訳や受領者実名は本文にないので補わない。
文化10年閏11月廿七日(本文)。包紙閏11月16日・同酉12月廿七日伝達を併記 / 冊子 431~432頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1343
白木御文書7番箱70番。先月16日夜御前様安産・女子出生という表向報告に対し、内実は同月4日生と述べる。産穢の届が必要だが竹千代七夜祝儀6日の献上等に差支えがあるため出生を極内々とし、一件が済んでから届けるよう留守居が吟味し伺って命じられたという。去る未8月4日生の治五郎(斉敏注)はこれまで届をせず内分の取扱だったため、今回女子出生の場に治五郎出生の筋として御二男の届をするよう命じる。出生直後の届には近例がなく、何歳かなどを記す御届書には名が記される一方、表向七夜前の届では名を加え難いとして、男子の出生届を産穢届に兼帯する相談を記す(後段の御二/三男表現は留保)。さらに吟味し、先月16日夜出生の筋として17日に届を済ませ、女子出生の思召をもって治五郎出生の届とする取扱を後年間違えぬよう記録奉行へ伝えるべきと内用で知らせる。文化10年閏11月廿七日、鎌田典膳署・政輿注、三宛の久芳・久泰・久備注。包紙は閏11月16日の女子出生と内実4日生、治五郎去未8月4日生を併記し、女子の場に出生の筋として届け済の書付写1通とする。文化10年酉12月廿七日右近から橋口(今彦候補)へ渡し7番箱納置、70番注。本書の先月と包紙閏11月16日は強制統一せず、1322実出生8年4月8日との月日差も保持する。
文化8年4月廿日(正文月日・附包年)。前年例:天明7年 / 冊子 363~364頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1136
白木御文書七番箱55番。川上右近が病気で、御暇礼に際して代りの伊勢雅楽を御目見させたい件。昨日19日の御暇礼に関連し、留守居が別紙を御用番土井大炊頭の御勝手へ持参し内見したが、正式の願書提出は示されず、用人木次傳四郎へ出すよう言われた。先例書を求められ、病気で御目見しない場合は献上品も流れ、例書は返却し名札のみ出す扱いだと留守居が聞いた。家老の病気代人例を出したが、今日は城内で検討中で、明日の御目見・御礼について上聞したものの、先格が往々の差障りとなること、内々に調べても余り気の毒で正式に太守へは伝えず、極内で留守居に相談する趣旨を記す。西丸老中松平能登守にも右近の病気を届け、了承を得、上田右の取次からも承知と知らせた。参府礼の家老二人中一人が病気だった先例として、天明7年の御隠居様家督礼で鎌田愛太夫(政誼)が病気となり谷村孫右衛門(純璋)を代人とした例を挙げるが、今回の急な病気・往来の差障りとは取扱いが違うため、留守居らにも調べさせたと述べる。極内の相談は先方にも申し合わせてあり、事情を見て内意を尋ね、手抜かりなく計らう旨で結ぶ。4月廿日、鎌田典膳政與署、将監久泰・安房久備・信濃久喬宛、添書2通あり。御目見許可が実現したとの結果は本文になく、正式手続と内々の照会・未決状況を分ける。
3月廿六日(本文、文化5年記事群)。本文に去る15・16・19・21日等 / 冊子 294頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0071
江戸詰・留守詰を命じられた安房の公儀御目見願を先例により差し出したが、書面が不十分として書き替えを命じられ、15日に御用番松平伊豆守へ桑山仲太夫が持参し、翌16日便の朱返答どおり通知されたと述べる。19日に伊豆守の用人から留守居へ切紙が届き、留守家来の退役により代わりの者が御目見する正徳の先例はあるが、その後同様の例があるか手控書のとおり尋ねられた。近例はなく、寅年の屋敷類焼で当地にあった帳面の過半を焼失した事情も伝えた。国元で取り調べた例をさらに知らせられたため、仲太夫名で答え、21日に再び用人から同様に断られ、仲太夫も願いのほかに例がないため御目見不許可と伝えられた。安房自身による大納言様への献上物の例書も先に西丸老中安藤對馬守へ出したが、ここでも同様の後例がないため不許可として書付を返され、御用番から申し渡された書付を聞いたと記す。返された願書と例書等3通を添付し、留守居首尾書等とともに知らせる。口達だけでは意向の意味が分かりにくいので、仲太夫を通じて問い合わせて承知した別紙も送ると付記する。3月廿六日、嶋津安房久備署、五名家老宛。願書提出・書替え・先例照会・帳面焼失・再度の不許可と資料返却を順に分け、安房の御目見が許されたとはしない。
文化11年8月2日(年は一件・目録) / 冊子 443頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0088
印刷(の1)。領内の損毛・城下二度の大火、御隠居家督中以来の琉球人召連参府、去寅年の火災で屋敷土蔵3箇所まで過半焼失し同年琉球人参府に伴う家作、江戸・京・大坂の借財増を財政難の事情として述べる。家中宛行減少の年限、諸事省略等を続けても急回復は困難で、臨時用の手当不足を挙げる。当戌年から10ヶ年余の格外省略、天明8年触達等に触れ、供人数・道中供廻道具の一部減少と先規通りの召連を後日伺う方針を記す。先月19日、御用番牧野備前守へ留守居が届書を持参し御落手となり、詳しい窮迫内意書、留守居名義の勝手届も受領された。翌廿日、大目付井上美濃守へ同様に届けたと報ずる。案文・留守居首尾書等5通を添え、記録奉行・右筆へ伝え吟味に応じ取扱うよう依頼する。但書は減供その他取締の沙汰があって各向へ伝達済、今日便で別に問合せるとする。8月2日、鎌田典膳・政輿注、四宛各実名注。受領と許可を分ける。
文化4年3月7日(朱注) / 冊子 273~275頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0890
高輪御殿では以前子女が天亡し、慈光院も卒去して御隠居が徒然に過ごし、随姫を引き取り世話し、昨年御前様の子女も来たが、追って芝へ残らず移り今は御隠居一人だと述べる。御内證様との高輪同居について太守の思召しどおりにされれば安心し、芝御殿からも余程隙ができ、平生の心配も軽くなるとして、遠路の出府を何卒願う。現在の高輪費用は気遣いなく、老年の御隠居と同居の安心、孝養を第一とする太守の意向を一統ありがたく思うとし、双方が直書を送り使渋谷藤内を急ぎ派遣した経緯を記す。以前の出府内沙汰は御隠居だけが入り御方様は入らず、芝から時々訪ね家内の世話を相談する案だったが、御方様も老年になり、芝同居・高輪のいずれでも思召次第に随うとする。惣方にも改めて相談して出府を願い、遠境の苦労はあるが老年介抱のため惣方を始め一統が望むとして直書を送った。江戸住居への断り・対顔について高輪で承知し、表も無故障で御隠居の機嫌が快然だったと伝える。高輪住居の世話が承知されれば早速段取りを知らせるよう求め、藤内は直ちに休息の暇を下し、返書等は別段の急飛脚でよいとする。出府の供女中は途中用の人数を召し連れ、道具は極力軽く、当地で支障なく手当でき、後の取寄せも都合次第。留守の田之浦を切に願い、残る女中の本丸大奥配置を差図されたいが、土産・下し物は当座のことで手当不要、江戸の手当は後で命じられたい。出府承知を得たらまず急飛脚で知らせ、追って用件を指示し、日数が掛からぬよう進め、道中の見物・伊勢参詣は思召次第とする。何度も願うのは老年介抱と惣方の都合によるためで、高輪側に存じ切った断りはないと内用で説明する。3月7日朱文化4年、市田勘解由署、三名宛。出典は重豪公御譜中、扣正文在家老座。依頼・既存内沙汰・承知を得る条件・将来の取計いを分け、実際の出府完了とはしない。
文化4年12月6日(朱年注) / 冊子 288~289頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0918
琉球国王からの尊書を拝見し、当春御女子が出生して於都殿と名を進められたことへの祝儀を隠居様へ紙上で述べられた件を、江府へ到着後披露した旨を伝える。12月6日、嶋津将監・頴娃信濃連署、実名判の表示。次頁右端に讀谷山王子・三司官の宛名と実名判表示が続く。文化4年の朱年注があり、出典は重豪公御譜中、写正文在琉球国司。本文は御女子出生と命名への国王尊書・紙上祝儀を伝える返書で、女子の父を斉宣と明記する文言や贈品の数量はない。
文化4年12月6日(朱年注) / 冊子 289頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0919
国王の尊書を拝見し、隠居様への年首祝儀として目録のとおり差し上げられたものを江府到着後披露したところ、隠居様が満足されたので、その旨を伝えるよう求める。12月6日、嶋津将監・頴娃信濃署に各実名判の表示、讀谷山王子・三司官宛。文化4年朱注。全上は前件の重豪公御譜中を承ける。年首祝儀の返書だが、本文に目録の品目・数量は展開されていないため贈品を補わない。
文化4年12月6日(朱年注) / 冊子 289頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0920
国王からの尊書を拝見し、昨年江府上屋敷が類焼したことに関して、太守様への宿次御奉書の御尋と御金拝借の仰出に対する祝儀として、隠居様へ奥平親方目録のとおり差し上げられたものを江府到着後披露した旨を伝える。隠居様は満悦されたので、その旨を伝達するよう求める。12月6日、嶋津将監・頴娃信濃署に各実名判、讀谷山王子・三司官宛、文化4年朱年注。出典表示は全上。類焼そのものの日付、御金拝借の額、目録の具体的品目や、見舞使者の派遣をこの本文から補わない。
文化4年12月6日(朱年注) / 冊子 289頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0921
国王の尊書を拝見し、於都殿が嶋津省之進殿と縁組するよう命じられたことへの祝儀として、隠居様へ奥平親方目録のとおり差し上げられたものを、江府到着後披露した旨を知らせる。隠居様は満悦されたので、この旨を伝達するよう求める。12月6日、嶋津将監・頴娃信濃署に各実名判、讀谷山王子・三司官宛、文化4年朱年注。出典表示は全上。縁組が命じられたことへの祝儀返書として整理し、婚礼済みの報告や本文にない贈品明細へ置き換えない。
文化5年閏6月(朱年注) / 冊子 302頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0952
領国の風俗等について、今回江戸で隠居様の意向を信濃が直に承知し、別紙写のとおり太守様が手筆をもって命じた旨を知らせる。太守も、その趣意を人々が厚く受け、十分に効果を上げることを求めている。風俗について先年から度々申し渡し、当代にも追って沙汰したが、今日なお効果がないのは甚だ不届きとする。今節隠居様が分かりやすく示した趣意を役人は初めて承知するように心へ入れ、その深い配慮を畏れ、風俗を立て直して安心させるよう朝暮に心掛けて守ることを命じる。特に中年・若い者は父兄らが油断なく教育し、万一守らない者がいれば本人はもちろん身近な者にも相当の咎目を命じるので、支配下の下役まで届くよう折々相談することを求める。将監・信濃・典膳署、文化5年閏6月朱注、全上。隠居の意向を承けた太守手筆、家老の実施通達、父兄教育と本人・身近な者の責任を分ける。
文化5年9月(朱年注) / 冊子 305~306頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0964
隠居様が介助を引き受けているものの所帯方は極めて難渋しているため、省略中でも年限を設けて厳しく取締るよう江戸表にも夫々役を掛けて吟味させ、速やかに1万両ほどの出目を出し、さらに効果を上げることを望んでいると伝える。老年の隠居を安心させるには一統の心を合わせる必要があり、以前の介助とは意味が変わり、江戸・国元とも下知を受けながら効果が見えなければ太守への申し分が立たないと戒める。当地の取縮めを進め、掛役以外の役場も意向を心得て協力し、出目になることなら他役場でも遠慮なく申し出、互いに相談して差図を求めるよう指示する。近年の御取続出米や諸人の重出米等は免じられ、安心させたい意向があることを伝える。各御用掛が趣意を理解せず受け止めが薄いのは不届きなので、十分に分かって詰めて協議し、一統の心を合わせ、さらに細かく吟味することを求める。各役場が心得て精勤し、規定を守り、御用向きに粗略がないよう心掛け、掛役人へ伝達するよう命じる。将監・典膳署、文化5年9月朱注、出典全上、写正文在文庫。隠居の節減効果目標と、役場間の協力・建議・相談・差図、出米等の免除・規定・精勤の実施条件を分ける。
文化5年11月15日(朱年注) / 冊子 307頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0968
国王の尊書を拝見し、隠居様への年首祝儀として目録のとおり差し上げられたものを江府到着後披露したところ、隠居様が満足されたので、その旨を伝えるよう求める。11月15日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津将監の三名署にそれぞれ実名判の表示、讀谷山王子・三司官宛。文化5年朱注、重豪公御譜中、写正文在琉球国司の表示。「目録之通」は目録のとおりとする表現で、贈品の明細・数量は記されない。
文化5年11月15日(朱年注)。本文に去年同行と六月中参府の沙汰 / 冊子 307頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0969
国王の尊書を拝見し、去年讀谷山王子を江府へ召し連れたことにより、参勤時期を用捨して6月中に参府するよう命じられた件への祝儀として、隠居様へ大宜見親方を通じて太刀1腰・御馬代白銀100両と目録のとおりの品を差し上げられたことを述べる。江府到着後に披露したところ、隠居様は満悦されたので、この旨を伝えるよう求める。11月15日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津将監の各実名判表示、讀谷山王子・三司官宛、文化5年朱注、出典全上。讀谷山王子は前年に同行した人物として記される。参勤時期の用捨への祝儀と、太刀・馬代銀・その他目録品を分ける。
文化5年11月(朱年注)。本文当6月二千両差出・当年から五年間年額二千両 / 冊子 307~308頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0970
冒頭に金2,000両を掲げる。所帯方難渋のため先年、隠居方続料から年1,000両ずつ表方へ差し出していたが、今回も極めて難渋する事情を詳しく聞き、当6月に金2,000両を差し出して置いたと知らせる。厳しく取縮めを命じてはいるがさらに効果を上げる必要があり、2万両ほどの出方へ及ぶことを是非望んで昼夜工面・心労しているため、続料から前記の額を差し出す以上もう余計はないとする。何事も格外に取縮め、当年から5年間は毎年右のとおり江戸の表方へ差し出すので、各向きもよく吟味して十分な出方を立て、その旨を別段詳しく伝達するよう求める。将監・信濃・登・典膳の四名署、文化5年11月朱注、全御譜中、写正文在文庫。年額2,000両の五年方針を明記するため955の年額留保を解消し、今回の援助2,000両と広い取縮め効果の2万両目標を区別する。
文化7年11月9日(朱年注) / 冊子 356頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1110
重豪公御譜中・写正文在琉球国司。国王様の尊書を拝見し、大御隠居様へ年首祝儀として目録のとおり差し上げた品が江府へ到着して披露したところ、御満足の思し召しであったと伝える。この旨を国王側へ伝えるよう求める。11月9日、四署の各実名判表示、讀谷山王子・三司官宛、文化7年朱注。上段冒頭を下段の用件・署宛へ連結する。目録の品名・数量は本文にないため補わず、年首祝儀の返書日を正月へ変えない。
文化7年11月9日(朱年注) / 冊子 356~357頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1111
全上。国王様の尊書を拝見し、去歳の御隠居・御家督が願いどおり命じられ、御隠居様(島津斉宣注)が修理大夫と改名したことへの祝儀を述べる。本部王子をもって大御隠居様へ太刀1腰・御馬1疋および目録のとおり差し上げた品が江府へ到着し、披露すると御満足であったと返す。11月9日、嶋津登の署は前頁、残る三署の各実名判表示と讀谷山王子・三司官宛は次頁に続く。文化7年朱注。御隠居斉宣と大御隠居への祝品を分け、去歳の出来事の日付を返書日へ置換しない。
文化7年11月9日(朱年注) / 冊子 357頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1112
全上。国王様の尊書を拝見し、太守様の結納・婚姻の首尾がよく整ったことへの祝儀として、當間親方をもって大御隠居様へ太刀1腰・御馬代白銀100両および目録のとおり品を差し上げた件を述べる。江府へ到着して披露すると御満悦であったので、この旨を伝えるよう返す。11月9日、四署の各実名判表示、讀谷山王子・三司官宛、文化7年朱注。1111の本部王子・御馬1疋と本件の當間親方・御馬代白銀100両を分け、両を枚へ変えない。
文化7年11月9日(朱年注) / 冊子 357頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1113
全上。国王様の尊書を拝見し、太守様の少将任官祝いとして本部王子をもって大御隠居様へ太刀1腰・御馬代黄金10両および目録のとおり差し上げた品が江府へ到着し、披露したところ御満悦であったと返す。11月9日、四署の各実名判表示、讀谷山王子・三司官宛、文化7年朱注。贈品の太刀・馬代・未詳の目録品を分け、同日1112結納婚姻祝いの當間親方・白銀100両と混同しない。
文化7年11月9日(朱年注) / 冊子 357~358頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1114
全上。国王様の尊書を拝見し、操姫(斉宣女注)の婚姻の首尾がよく整ったことへの祝儀として、當間親方をもって大御隠居様へ太刀1腰・御馬代白銀100両および目録のとおり差し上げた品が江府へ到着したと述べる。披露すると御満悦であったので、この旨を伝えるよう返す。11月9日、四署の各実名判表示、讀谷山王子・三司官宛、文化7年朱注。前頁の冒頭と次頁の用件・署宛を連結し、太守の婚姻祝いとは対象を分ける。
文化7年11月9日(朱年注) / 冊子 358頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1115
全上。国王様の尊書を拝見し、於幹殿が夭亡したことに伴い、大御隠居様への御機嫌伺として當間親方をもって申し上げた紙上の趣旨が江府へ届いたと述べる。披露し、この旨を伝えるよう返す。11月9日、嶋津登・頴娃信濃の署は上段、嶋津安房・嶋津将監の署と讀谷山王子・三司官宛は下段へ続く。文化7年朱注。紙上の弔慰として保持し、太刀・馬代など隣の婚姻祝いの贈品や、於幹の具体の命日を本件へ補わない。
文化7年11月9日(朱年注) / 冊子 358頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1116
全上。国王様の尊書を拝見し、去歳に女子が誕生して富姫と名付けられたことへの、大御隠居様宛の祝意を申し上げた件を述べる。富姫には重豪女の注。江府へ届き披露したと返す。11月9日、四署の各実名判表示、讀谷山王子・三司官宛、文化7年朱注。去歳の誕生と現在の返書日を分け、富姫の掲載名を別の出生記事の名に黙って替えない。贈品の具体品名・数量は記されず補わない。
文化10年7月17日(朱年注。本書の上印) / 冊子 407頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1277
重豪公御譜中・扣正文在家老座。大御隠居の国元温泉御暇が願いどおり許され、下向に伴う取締等について、別紙写のとおり有馬左兵衛佐へ内々に仰せ、同人から老中へ内沙汰するよう求めた思召を伊集院隼衛から承知したと述べる。その書面と趣意を各家老が承知し、諸向へ申し渡す件も承知したため、内用で伝える。申渡しはおおむね別紙の趣によると思われるが、国元でさらに吟味し取り計らうよう求める。文化10年朱注、7月17日、上印に鎌田典膳署・政輿注、左の四名は本書宛(実名注あり)。行間朱返答と下印署宛は1278として別記する。
3月(本文)、先月22日引結、3月12日祝物取遣。文化4年記事群 / 冊子 276頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0893
随姫と遠江守の嫡子伊達兵五郎との縁組内談があり、先月22日に双方の家老使者をもって引き結び、3月12日に双方の祝物取遣いも済み、両敬の旨が届いたので承知するよう関係先へ申し渡す。遠江守に伊達村候、兵五郎に村寿の注。3月・将監署、全七番箱中30番。口裏は将監殿から渡された書付の写、張札は御記録奉行江。包紙は将監殿から石原龍助の取次で命じられた書付1通を受け、白木御文書七番箱へ納置したとする。内談・家老使者による引結・祝物交換・届・記録保存を分け、婚礼済みとは扱わない。