HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
後醍院淡路守源宗重
異名・検索語:後醍院淡路守源宗重/後醍院宗重/淡路守/淡斎/八郎/図書助/喜兵衛
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
未確定事項:遠祖系譜、高橋氏・高徳氏の細字人名、朝鮮の一部地名は追加校合。/法号と葬地の細字・地名の係り方は留保。郡山常盤村に続く大坪久田村だけを確定葬地として抜き出さない。/初名小注の字形は追加校合。
DESCRIPTION
本文内容説明
天文二十年、肥後八代に生まれた。良懐親王の八代後胤と記す。相良義陽に仕え、のち島津家の龍造寺氏・堅志田・岩屋城攻めに参加。佐々成政、小西行長の配下を経て朝鮮へ渡り、平壌・牡丹台を守り、退却時には後殿を務めた。慶長二年五月二十三日に帰国し、忠元に従って参上。義弘から百石を与えられ入来院市比野に住み、加増を重ね計五百石となった。庄内陣にも供奉。関ヶ原退却では木脇祐秀と殿を務め、戦死しようとする義弘を諫めて帰国に供奉し、感状と五十石の加増を受けた。寛永元年四月六日、七十四歳で没。葬地の地名の係り方には留保がある。
系譜・人物関係
良懐親王の八代後胤、宗能の子と記す。弟主税介は龍造寺氏討伐で戦死。二男義信の独立記事は08-138-13-02へ分離。遠祖の経歴を宗重本人へ転記しない。
奉公・役職
初め相良義陽に奉公し、島津家に出仕。佐々成政、小西行長の配下を経て、慶長二年帰国後に義弘へ奉公。百石を得て入来院市比野に居住。合計五百石へ加増、関ヶ原帰国後さらに五十石。
軍役・事績
龍造寺氏・堅志田・岩屋城攻めに加わる。朝鮮で平壌・牡丹台を守り、退却時の後殿で戦う。庄内陣に供奉。関ヶ原退却では木脇祐秀と殿を務め、義弘が戦死しようとするのを諫め、帰国に供奉した。感状と加増を受ける。
生没・法名等
天文二十年、肥後八代生。寛永元年四月六日、七十四歳没。葬地には郡山常盤村・大坪久田村と読める地名が続くが、字形と係り方は留保。法号細字は追加校合。没地そのものは補わない。
- 統合人物ID
- HP-0440
- 原人物ID群
- 08-138-13
- 氏・分類
- 後醍院
- 掲載巻頁
- 巻8:138~139
- 主題・活動
- 相良・佐々・小西家奉公・朝鮮軍役・義弘奉公・関ヶ原退却
- 人物関係要約
- 良懐親王の八代後胤、宗能の子と記す。弟主税介は龍造寺氏討伐で戦死。二男義信の独立記事は08-138-13-02へ分離。遠祖の経歴を宗重本人へ転記しない。
- 検索キーワード
- 後醍院宗重/良懐親王/相良義陽/佐々成政/小西行長/義弘/忠元/肥後八代/龍造寺/堅志田/岩屋城/平壌/牡丹台/後殿/入来院市比野/庄内陣/関ヶ原/木脇祐秀
- 公開区分
- 注記付き公開可
- 精読・確認状況
- 通常・AI用PDF全3頁と原冊を照合。分離後全頁確認済。
- 公開判定根拠
- 宗重本人の生没年・奉公・軍役を原冊から確認。子義信を分離し、系譜細字・葬地等の疑義を残して検索公開する。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界分離
- 本文境界判定
- 冊138頁下段の本人見出しから冊139頁下段の葬地末尾まで。冒頭の遠祖系譜は関係記事として保持。続く○後醍院内蔵助義信は独立見出し・没年・法号を持つため08-138-13-02に分離。
- 判読保留
- 遠祖系譜、高橋氏・高徳氏の細字人名、朝鮮の一部地名は追加校合。/法号と葬地の細字・地名の係り方は留保。郡山常盤村に続く大坪久田村だけを確定葬地として抜き出さない。/初名小注の字形は追加校合。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』