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旧記雑録拾遺 著作史料集1の目録

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  1. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 1 元寛日記

    『元寛日記』寛永九年正月二十四日条は、徳川秀忠が五十五歳で死去し天下が深く悲嘆したことを記す。同夜、江戸町屋で十三度の出火があったが速やかに消し止められ、御城宿直の軍士らが密かに武具を携えて登城したため、遠国の人々まで不安に陥ったと述べる。

  2. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 2 伊勢貞昌披露状

    伊勢貞昌が御近習中へ、加藤肥後守の処置について詳しく問い入れることを遠慮し、切腹の場合も定められた者が処理するので、御馬廻衆を出して世間を騒がせないよう述べる。相手の衆が来ても屋敷から一人も出ず下知を得ること、雅楽頭・伊井掃部の返書は人数出動を命じる趣旨ではないことを伝える。城受取などの命令がないま…

  3. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 3 寛明日記

    『寛明日記』の六月朔日から十四日までの記事で、加藤肥後守の召し出しと、肥後へ向かう上使・付添役の人選と派遣を日ごとに記す。十四日には有馬左衛門佐に熊本城番を命じたことを記録する。

  4. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 4 元寛日記

    『元寛日記』六月四日条は、加藤忠広改易に至る風聞と、謀叛を疑わせる書状をめぐる詮議の経過を記す。あわせて肥後の城受取・警固のため酒井忠勝ら上使と黒田・鍋島をはじめとする諸大名を派遣する態勢を列挙する。

  5. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 5 島津家久書状

    島津家久が島津久慶に、薩摩守光久の男子誕生を祝う使者と脇太刀一腰・馬一疋の到来を喜び、謝意を伝える。加藤肥後守父子の処置について、肥後殿は出羽国、子息豊後守殿は飛騨国へ遣わされ、女房衆まで流罪となったと記す。詳しくは帰国時に面談して申し伝えるとする。

  6. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 6 島津家久袖判条書

    島津家久が、軍役の割付に当たり、各人の技能・体力、馬・鞍具、家中人数を見極めて書付を提出させる手順を定める。国内外の任務では用向きに応じて人数を決め、新規の割付や騎馬・装備の査定は上申して承認を得るよう命じる。

  7. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 7 島津久元・伊勢貞昌連署覚

    島津久元・伊勢貞昌が、家中の乗馬500騎を基準に、知行高別の騎馬負担、備の編成、鉄砲・弓・鑓・差物、外城衆の供出、出陣時の招集、船・水手の仕立てなどを条々定め、川上久国・喜入忠政へ通達する。知行の合算、寺社家・老与・若輩・後家の役負担、国分金剛寺への伝達、兵道稽古人数にも触れる。

  8. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 8 島津氏出陣賦

    東目筋・西目筋それぞれを一番から五番に分け、各番の騎馬・昇・鉄砲・鑓の数と担当者を列挙した出陣編成表である。鹿児島衆の予備騎馬や御手廻の騎馬も定め、六月吉日、牛根佐多越後守忠増の名で締めくくる。

  9. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 9 水野勝成外四名連署書状

    水野勝成ら五名が、加藤肥後守の国召上げにより家来が離散する見込みだと松平大隅守家中へ知らせる。加藤家中の者が領内へ来た場合は、差配して宿を貸し休ませても差し支えないとの方針を伝える。

  10. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 10 細川忠利書状

    細川忠利が喜入忠政・樺山久高へ、加藤肥後守父子の国召上げに伴う上使の江戸出立・下向予定を知らせる。黒田・鍋島および自身の人員派遣準備、城の引渡し・掃除について豊後横目衆から受けた報を伝える。相手方に城への人数投入を求める趣旨ではないとしつつ、近隣の事情として申し送る。

  11. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 11 白坂篤豊書状

    白坂篤豊が、薩摩の麦作が良好との報を喜ぶ一方、上方では五月中旬以来の日照りで田畠が枯れたと伝える。加藤肥後守父子の預け先と肥後へ下る上使を報じ、帰国後の軍装用意や鎌田源八から届いた書状・鹿皮への謝意を谷口重成・西田時通へ申し送る。

  12. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 12 谷口重成・西田時通連署書状

    谷口重成・西田時通が、加藤肥後守改易に伴い必要時には薩摩からも人数を出すとの命を若衆中へ伝え、伊東祐慶に求めた馬の手配状況を報告する。肥後・球磨では商人から異変を聞かないものの、人吉で橋普請材木を日々引いているとし、新情報があれば直ちに注進すると五代友光へ申し送る。

  13. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 13 某覚書

    江戸を六月四日に出立した右馬頭の早打が十六日に佐土原へ着いたこと、加藤肥後守父子の改易が五月二十九日に酒井雅楽頭の屋敷で申し渡されたことを記す。肥後守は酒井宮内預けで出羽庄内へ、豊後守は金森出雲守預けで飛騨へとする。上使・目付の六月十日江戸出立を町の伝聞として伝え、加藤右馬頭の案内と、隈本・八代の城…

  14. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 14 某覚

    将軍の政道と出馬覚悟、関ヶ原・大坂陣以来の加藤・前田家に関する風聞、加藤忠広改易を受けた薩摩側の対応を列記する。乗馬・供人数を知行高別に定め、武具指出・検分、外城衆への鉄砲玉薬支給、馬印提出などを整え、諸士の軍役を公平にするよう求める。

  15. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 15 島津久元・伊勢貞昌連署覚

    島津久元・伊勢貞昌の仰せとして、先年の大坂陣の軍役賦が他国の実情に不案内な概略だったこと、供銀の負担が重くても軍役奉公は整えるべきことを確認する。御蔵入から乗馬五十騎・昇四百二十本を定め、昇指は知行高に応じて出すとする。

  16. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 16 島津家久・同光久麾下人数注

    島津家久の備として鉄砲三百挺・弓二百張・鑓三百本を掲げ、外城鉄砲衆、馬験持、旗・手廻・厩・台所などの役別人数を積算する。家久・光久の各備を二千六百八十一人ずつ、総計五千三百六十二人とする軍役人数注である。

  17. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 17 新納忠清書状

    新納忠清が、肥後・球磨の情勢を油断なく聞き合わせて報告するよう有村隼人佐へ命じる。肥後では百石までの馬乗が上洛するとの風聞があるため宮原景之・新納忠秀にも伝えるよう求め、他言を禁じて即時焼却を指示する密書である。

  18. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 18 五代友光書状

    五代友光が、加藤肥後守改易後の熊本城受取に江戸から大名十人ほど・二、三万人が下向すると伝え、三原重庸の下向と加久藤の警戒を報じる。指物改定に必要な鶏羽を在郷から集めて上送するよう依頼し、鎌・鉈の調達も重ねて求める。

  19. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 19 五代友光書状

    五代友光が須木押米の決定、三原重庸下向後の家中改め、指物用の鶏羽調達、八朔の納物を指示する。塩硝の塩抜き、矢、赤籾など具体的物資の調達と荷物の速やかな発送を谷口重成・西田時通へ求める。

  20. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 20 無名雑抄

    『無名雑抄』は、肥後へ遣わした間者の帰還報告に基づき、新納忠清が川上久国・喜入忠続へ情勢を伝えた記事である。熊本・八代両城受取の上使が七月二十一日に肥後へ到着したとし、上使・目付らの名を列挙する。

  21. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 21 川上氏略系図

    川上氏略系図は、久林から久如・久盛へ続く系譜と、久盛の生年・家督事情を記す。兄久如の死後、幼少の千徳丸に代わって久盛が踊地頭職の番代となり、加藤忠広改易に伴う肥後出兵のため鹿児島で軍勢を催した経緯を載せる。

  22. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 22 秋月氏一枚系図長門守傳

    秋月氏一枚系図の長門守伝は、寛永九年の肥後国関所設置に際して秋月種春が熊本番を命じられたことを記す。七月十四日に国元を発って熊本へ着き、年中勤番した後、十二月六日に帰国したとする。

  23. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 23 不忘危

    『不忘危』は、島津久直が七月十五日に佐土原を発して肥後へ向かい、大雨による道路・橋梁被害のため二十二日に到着した行程を記す。伊集院忠兼の日記を引き、家中の旗・馬・弓・鉄砲・鑓・人数の備立と、城受取上使石川主殿頭の旗寸法・意匠を載せる。

  24. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 24 伊地知季安記事

    伊地知季安が、志岐氏・甲斐氏らが加藤家に仕えた後、加藤忠広改易を契機に薩摩へ来住して島津家・新納家・伊地知家へ仕えた由緒を考証する。肥後が治まった後も薩摩側が軍勢賦を怠らなかったことを、季安自身に連なる家臣系譜と結び付けて記す。

  25. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 25 本田親紀指出

    本田親紀が知行高に応じた乗馬奉公を申し出、以前の軍役負担と、知行召上げにより馬を手放した事情を述べる。現有する具足・弓・鉄砲・箙・矢・塩硝・鉄玉・鞍道具を列記し、馬や人員などの不足を届け出る。

  26. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 26 江田兼吉指出

    江田兼吉が知行高八十三石二斗五升を基礎に、小高ながら出陣時は乗馬奉公をすると申告する。鉄砲・弓・矢・鑓・具足・鞍道具・馬を現有するとし、不足分は上御定衆の裁定に従い次回に整える旨を述べる。

  27. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 27 島津氏軍役賦

    島津家の軍役について、知行高別に三人役・二人半役・二人役を定め、内人躰・外城衆・主従の人数を積算する基準を示す。百石当たりの寄人、騎士・鑓持・甲持・夫丸・小姓・馬取などの構成と、乗馬・飼料・鞍・具足・指物の支給基準を列記する。

  28. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 28 伊地知四郎兵衛尉指出

    伊地知四郎兵衛尉が高三百二十石一斗七升に応じ、出陣時は乗馬一疋と所定の諸道具を整えて出仕すると申告する。具足・鑓・長刀・弓・箙・鉄砲十挺・火縄・塩硝・鉄玉・鞍道具の数量を具体的に列記する。

  29. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 29 島津氏軍役賦

    東表出陣時の第四備として、又八郎殿の備に昇百本・鉄砲五十挺・弓二十張・鑓三十本、軍役乗馬二十騎などを割り当て、知行高に応じた人数を定める。加治木・曽於郡・蒲生・本城・栗野・吉田・馬越など付属諸所の乗馬・人数を加え、総人数を積算する。

  30. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 30 加久藤衆中乗馬衆・鉄炮衆指出帳

    『加久藤衆中乗馬衆・鉄炮衆指出帳』の扉で、後続する白坂篤豊・西田時通らの指出と鉄炮衆人数留をまとめる親帳である。本文扉には寛永九年八月十二日と記される。

  31. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 30-1 白坂篤豊指出

    白坂篤豊が知行八十五石八斗二升について、寄高を含めず自分高のみで乗馬奉公すると申し出る。手持ちの鉄砲一挺・鑓一本・弓一張と矢を申告し、馬と不足する諸道具の支給を求める。

  32. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 30-2 西田時通・同市左衛門尉指出

    西田時通と西田市左衛門尉が合計八十五石四斗四升について、自分高による乗馬奉公を申し出る。二人分の鉄砲二挺・鑓二本・弓二張と矢を保有するとし、馬とその他の道具の支給を求める。

  33. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 30-3 井上帯刀長指出

    井上帯刀長が知行五斛について、自分高による乗馬奉公を申し出る。鉄砲一挺・鑓一本・弓一張と矢を保有し、馬一疋とその他の諸道具の支給を求める。

  34. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 30-4 鉄炮衆人数留

    加久藤衆の指出帳(文書30)の資料群に属する人数留。自分鉄炮衆と御物鉄炮衆を区分して人名を列挙し、御物鉄炮衆を十四人と集計する。末尾に申八月十二日と「茄へ参候留」を記す。

  35. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 31 島津氏軍役賦

    東表出陣時の一番から五番・御旗本まで、各大将と諸所衆の乗馬、鉄炮、弓、鑓、手明、夫丸を知行高とともに列挙する。江戸へ提出する目録として、総人数二千八百四十五人、乗馬衆六百七十四人、鉄炮千八百六挺、弓六百四十七張、鑓六百五十三本、昇四百二十本を集計する。

  36. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 32 島津久元・伊勢貞昌連署書状

    島津久元・伊勢貞昌が喜入摂津守・川上左近将監へ、軍役準備の進捗を問い、急には調わない具足・馬・鞍の用意を督促する。大坂御蔵奉行衆と相談して注文の書立を送り、知行高や分限に応じた価格・品質を定めるよう求める。肥後のような不測の事態への備え、乗馬の用意不足、四国・中国・九州衆の参上予定、借銀返弁の催促と…

  37. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 33 岩井藤兵衛書状

    甲冑師岩井藤兵衛が伊杢右衛門へ、上洛する児玉四郎兵衛に「こ手・ふんこみ・すねあて」の三色を託し、代銀八十目の約束履行を求める。是枝喜右衛門の注文品は未完成で留め置いたという。後掲解説は宛先を京都御蔵奉行の伊地知杢右衛門重政とし、寛永十八年五月に受けた文書と説明する。

  38. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 34 寛明日記

    『寛明日記』寛永九年九月五日条。駿河大納言忠長の乱気と度重なる手討、出仕停止を記す。土井利勝が秀忠の遺言によるとして謀反の廻状を回し、忠長が判形したという風聞を載せる。後に利勝の判は偽判とされ再出仕したことと、家光の内意ではないかとの世評を記録する。

  39. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 35 島津家久袖判覚

    島津家久が、国家に益する意見の上申、贔屓を排した口事裁断と評議の一貫性、戦時の相談・警戒を定める。一向宗・南蛮宗への厳重な取締り、御蔵入百姓から役人への節々の贈答、町人を贔屓して町奉行を差し置く介入、百姓を士に取り立てることを禁止する。

  40. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 36 島津家久書状

    島津家久が島津久慶へ、鉄炮と道具の用意に注意を促し、細川越中守の肥後拝領・入部に際して祝いの使者と進物を送る旨を伝える。鉄炮百丁を贈るため、からくり以下を念入りに調え、摂津守と相談するよう求める。口薬の添付や、久慶が召し連れる家中衆の統制にも言及する。

  41. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 37 元寛日記

    『元寛日記』十一月条。細川越中守を豊前小倉から肥後熊本五十四万石へ移し、忠興に隠居領として八代城を与えたと記す。松平光政は因幡鳥取・伯耆米子から備前岡山へ移り、新田二万五千石を弟の池田信濃守恒能と池田主税助政倫へ配分。松平光仲には因幡鳥取三十二万石を与えたと載せる。

  42. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 38 川上久国上使付日記

    上使が、南林寺松原で鍛冶を増やし鉄炮二百挺ほどを急造した理由を問う。川上久国は、細川越中守の肥後入国に際し、大隅守から隣国への進物を調えるよう命じられたと答える。上方からの武具・馬具の購入には銀がかかり借銀もあるため、家老と相談して国産品を選び、鉄炮二百挺を細川方へ贈ったのであって、別の意図はないと…

  43. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 39 山田七郎右衛門尉外二名連署書状

    山田七郎右衛門尉ら三名が川因幡守へ、本丸・二之丸の間を埋める普請、堀や出入口、五つの口の守備配置と昼夜の巡回を報告する。紀之国様・尾張様の不和や兵具用意の風聞、江戸飛脚、伊東殿の帰宅、秋月殿の福島到着予定も伝える。八郎ヶ野番衆の海老原源助から孫六へ状況を伝え、急変時に連絡する段取りを記す。

  44. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 40 寛明日記

    『寛明日記』十二月条。忠長の改易と上州高崎への配流、朝倉筑後守の和州郡山・奥津河内守の奥州由利への配所を記す。駿府は番城とし、朝倉の旧居遠州掛川を永井信濃守・本多下総守・丹羽式部少輔が請け取り、郎従妻子は四方に分散したという。駿州田中城は松平忠重拝領と伝える。季安の按語は、同年六月二十二日条の国替え…

  45. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 41 島津久元外三名連署覚

    島津久元ら四名の連署覚。知行高の区分に応じて主従人数・寄高・馬一疋・指物などの負担を示し、馬の飼料と出陣前の給餌、具足の用意を定める。寄高百石の段銭を六十貫文とし、百石につき三人役、一人につき二十貫文の夫銭とする。

  46. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 42 泰平年表

    『泰平年表』大猷様御代。寛永十年正月の軍役制定、二月二十日の千石以下の御小姓組・御書院番・大御番への各二百石の加増と本高廩米の知行への引替えを記す。続く条文は、不相応な身代や奉公ぶりの者を精査し、番頭・組頭による勤務の監督、組中の不覚悟・不行跡の報告を命じる。無用の者は厳しく申し上げ、奉公に精を出し…

  47. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 43 島津家久覚

    島津家久が北郷式部太輔(久直)へ、知行高一万斛ごとの出陣馬数と家中の軍役を定め、馬数の超過と飼犬十疋超を禁じる。衣裳・鷹・大酒などの奢侈を戒め、諸士・下人の召仕、弓箭の備え、学問・信仰、百姓・町人の扱いを整えて北郷家の繁栄と忠節を求める条々である。

  48. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 44 島津家久供勢注文

    松平大隅守(島津家久)の供勢。乗馬二十騎、小姓十人、陸の者百三十人、小者・中間・道具の者二百三十人、又小者七百九十人を挙げ、都合千百八十人とする。替えの乗馬十騎は外数。寛永十二年四月三日付。

  49. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 45 島津光久供勢注文

    松平薩摩守(島津光久)が在江戸で召し連れる人数。乗馬二十騎、小姓二十人、陸の者二百人、小者・中間・道具の者百十人、又小者八百九十人で、都合千二百四十人。前の大隅守分千百八十人と合わせ、二口合計二千四百二十人と記す。寛永十二年亥四月三日付。

  50. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 46 北郷久加軍役賦

    北郷佐渡守(久加)宛の軍役賦写。知行高八千六百九十石を基礎に、「昇八本」、鉄炮・弓・鑓、馬験・玉薬箱・百矢臺・旗箱・道具持などを割り付ける。乗馬十九騎に一騎主従八人、計百五十二人とし、賦内の鑓持九人を含む旨を注記する。本文の合人数は二百六十一人、百石につき三人役。

  51. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 47 石高帳

    給人別石高を列記し、鹿児島と外城各地の合高・人数を集計する。本文の鹿児島合高は二万七千四百九十六石余、外城は七千五百二十五石余、惣合高は三万五千二十一石余。惣人数千七百十五人を乗馬二十人・陸立千四百三十一人・一ヶ所衆二百六十四人に分ける。当年出物の四分一上地衆は高一石につき銀二匁、三分二上地衆は一匁…

  52. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 48 伊地知季安記事

    伊地知季安が寛永九年の軍賦改定と天草・島原援軍時の事情を論じ、慶安元年・寛永十五年・十七年・慶長十八年などの古い軍賦帳や元和九年の公儀定と比較する。少人数主従の騎馬を停止した見直し、五番編成、東目・西目の出陣に応じて各外城地頭を先頭に繰り替える方式を挙げる。軍賦は古制と近例を時所に応じて斟酌して定め…

  53. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 49-1 島津忠久下向時役人交名

    忠久下向時以来の役人の由緒を記す。本田を御幡奉行、酒匂を御沓役人、猿渡を御剣役人とし、東条・西条・鎌田・山田とあわせ下向役人七人という。旗指は真幸ツハノの相京方(原注は愛甲)にあったが、氏久代の國合合戦で討死し、その後左近が旗指となったと伝える。永禄三年十月吉日付で、正文は貴久公御譜にあるとの注記を…

  54. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 49-2 伊地知季安記事

    伊地知季安が永正頃の清水城の年中御式五十九ヶ条と役人の由緒を考証する。評議に加わる老臣や下向役人、愛甲から左近への旗役継承を、聖栄自記などの記録と比較し、永禄三年の書付の年代には考え難い点があるとする。さらに藤野家伝来の錦直垂・御旗に関する今川了俊書状について、肝付譜の水島説や南山巡狩録の記述を検討…

  55. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 49-3 今川了俊書状

    今川了俊が島津越後守に、参会の遅延を詫びつつ、錦の直垂は先代一代の免許であっても子孫が相続でき、大御用には着用してよいと伝える。一方、御旗は陣中で一流以外を用いず、所持しておくよう指示する。

  56. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 49-4 伊地知季安記事

    伊地知季安が御母呂伝受について、寛永九年の条書、山田聖栄自記、松齢公(島津義弘)が大翁公(島津勝久)の子・修理大夫忠良入道休庵老に返した御書にも見えることを挙げ、古くから伝えられた事柄であろうと考証する。

  57. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 49-5 山田聖栄自記

    谷山郡内山田への入部をめぐり、山田右京亮が親類の式部常陸守・舎弟左馬助と相談したが異見が生じた経緯を記す。伊地知新左衛門尉らが夜に谷山方を攻め、鹿児島への通路を断ち、常陸守と弥三郎が討死したという。伊地知新左衛門尉・井ノムレ衛門四郎らが上下三、四十人を討ったと続く。氏久は鹿児島で事態を聞き、山田への…

  58. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 49-6 伊地知季安記事

    伊地知季安が、式部常陸守友久による応永六年三月二十一日の寄進文を挙げる。二親道慶禅門・通長禅尼の菩提料として、鹿児島給分小牧の中牟田二段を福昌寺に寄進したもので、友久は元久公の時代の人物を氏久の時代と誤伝したのではないかと考える。松齢公(島津義弘)の御書は後に載せるとし、永和三年二月二十五日の氏久公…

  59. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 49-7 山田聖栄自記

    二月下旬二十八日から三月一日の末吉・平波瀬・財部方面の軍勢を記す。御一家・御内の勢は千に足りず八百ほどで、月の軍勢を新納殿、杉の軍勢を本田重親が率い、別に二百ほどの氏久御馬廻を記す。両手が遅れた所へ横から入る相談と、旗役北原の進出に際して氏久が当日の下知を尋ね、重親が敵の後へ抜けるよう命じたと答えた…

  60. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 49-8 伊地知季安記事

    季安が月・杉の軍勢と『太平記』の十五夜・月弓の記事を引き、五手に分かれた陣編成を考証する。新納殿を越後守実久とし、その手に御一家の衆、杉の手の大将本田信濃守重親に地家の御内衆が付いたと解する。北原を梶原氏とみなし、左近尉の御幡指に関する記載と結び付ける。

  61. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 49-9 進上物注文

    島津殿(冒頭原注は島津元久)の上洛について、応永十七年六月三日の参府、十一日の参会、二十九日に御屋形へ御成の際の引物と、御所の目に懸かった供衆を記す。御一家二名、國方六名、御内方二名に分け、北郷中務少輔・樺山安藝守・加治木能登守ら各人の御太刀一・鳥目百貫を列挙する。軍行ではないが供衆の例として略抄し…

  62. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 49-10 伊地知季安記事

    伊地知季安が前掲の供衆はそれぞれ騎馬で供奉したという伝承に触れ、文亀四年二月に園室公(島津忠昌)が正八幡へ参詣した際の御供人数の記事も挙げる。軍行ではないが類例にもなろうとしてこの冊子に添え、重ねて浄写すべきものとする。

  63. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 50 島津忠昌社参随兵人数書上

    文亀四年二月の御屋形様の正八幡宮初社参について、十四日の鹿児島出立、十五日の社参・下向などの日程を記す。河上筑前守の先うちから各方の供衆まで、殿原・中間・小者の人数、太刀・槍・弓うつぼ等の武具、服装・馬具を列挙し、末尾に惣人数三百七十一人、伊地知越後守重實と記す。冒頭には文政十年に伊集院新之允本を書…

  64. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 51-1 記事

    大永六年の記事として、忠良が伊集院へ参上し、勝久が鹿児島へ帰宅するのに忠良も供奉した経緯を記す。勝久の御剣を忠良家臣の阿多加賀守、忠良の御太刀を本田紀伊守が持ち、両者が以後の契約を結んだことを述べる。

  65. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 51-2 島津貴久・同忠良連署掟書

    忠孝と五人組の和合、七書・合図・武芸等の訓練、田地五反ごとの武用家子養育、三十日分の自飯粒や軍役出物、役務中の家族の農業を定める掟。無免許出家を禁じ、地頭・領主の許可なく所在を離れた者は死罪とし、困窮者の直申、訴訟握り潰しや父子自身の非違の直訴も掲げる。忠良・貴久御判と記すが、季安の後評は原本所在・…

  66. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 52 三島本覚坊日記抄

    天文二十三年九月十二日酉刻の岩剣合戦出陣次第を記す。若殿義久を大将、伊集院大和守忠朗を軍配者、本田弥六を太刀役、梶原新兵衛を番役、瀬戸口藤兵衛を幡指とし、御屋形貴久の太刀役を鎌田甚五郎とする。後評では、永禄十一年正月二十日の菱刈羽作瀬での義久・義弘の危難と梶原の不手際・御内追放を挙げ、御旗役を三原氏…

  67. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 53 島津日新忠良書状

    島津忠良(日新)が又三郎(島津義久)へ、陣取が定まった報告や御くじの知らせを喜び、自らも二、三日中に出立する意向を伝える。各々が手を尽くして戦い、下知に従わない者を堅く成敗することが肝要と説く。追而書で岩切可楽の参上と浦々の船の早い回送を指示する。後には、この返書を軍法上の賢慮と評価し詠歌も併せて味…

  68. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 54 川上久辰日記

    天正六年九月十一日未刻、山東へ向けて発向した際の供奉次第を記す。御剣を本田紀伊守、御幡役を三原右京亮、旗指を色紙金右衛門が務め、鹿児島の人数まで召し連れ、まず諏訪社へ参詣して直ちに出立した。

  69. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 55 島津忠平(義弘)書状

    島津忠平(義弘)が修理入道へ、子息の出家に配慮する旨を伝え、昨冬以来御山で堪忍していると聞きながら事情を知らず音信を欠いたことを詫びる。代々所持する幌については、自らに嗜みや相伝がなく軽々しく頂戴できないとして差し出し、相手の心遣いに謝意を示す。上洛予定や必要品も隔意なく申し越すよう伝え、詳細を使僧…

  70. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 56 高麗日記

    高麗日記から、文禄三年十月十一日に北郷殿から幌を借りて見本とし、翌十二日に幌の件を主膳へ申し付けたことを記す。十一月六日には本陣へ参上し、帰館して幌と鎧を召し合わせ、御祝をしたという。文書55の行間朱書として載る記事。

  71. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 57 肥後合戦陣立日記

    天正八年八月十九日の肥後芦北郡水俣城をめぐる三か国勢の陣立を記す。家久の先陣、忠平の中陣、義久の本陣に関わる大将・地頭・外城衆・御内衆を列挙し、武具奉行、旗本、手替、付衆、台所などの役人数を記す。本文の陣別小計は三万一千・三万一千・五万三千人で、末尾の十一万五千人に合う。多数の異本注に人名・人数・外…

  72. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 58 肥後合戦陣立日記副書

    奈良原助左衛門家の肥後合戦御陣立日記は先年御記録所で模写されていたが、本書が雨漏りで汚損したため、願いを受けて再写し字画の相違がないと確認した副書。文政十三年十一月二十一日に御記録所関係九名が連署し、本書を従前どおり保管するよう伝える。軍事付記は、海路の不自由から陸路直通を相良側に求め、陸路を切り通…

  73. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 59 諸外城武辺功者度々談合衆交名

    諸外城から召し寄せられ、天正八年から同十五年まで度々の軍談合に加わった武辺功者54人を地域別に列挙する。蒲生衆湯田氏の旧記からの写し。季安は、水俣陣賦もこの54人が吟味して配したものかと推測し、考証のため補記したと説明する一方、上の陣賦と混同しないよう注意する。

  74. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 60 島津義久代老中・使衆交名

    天正六年頃の島津義久代について、川上久時・伊集院忠棟ら老中八人と、新納・鎌田・本田・伊地知ら使衆八人を分けて列挙する。加治木衆大村市兵衛重頼の旧記から原文どおり写した交名である。

  75. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 61 伊勢貞成掟書

    伊勢貞成が平佐城普請について二か条を定め、兵糧は一日三度・一人七合五勺ずつとする。御蔵から出す用物と普請関係の扱いは北郷作左衛門・相良新右衛門の指示に従い、怠りなく納めるよう鬼塚主税介・宮路三之丞へ命じる。行間朱書には年代や城修築の背景に関する推測がある。

  76. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 62 新納忠増覚書

    新納忠増が拙斎へ普請人数を報告する。前年の相良新右衛門奉行時は北郷作左衛門内衆と合わせ一日三千人・25日で六万五千人、当春の竹内織部助奉行時は千人・30日で三万人と記す。両口合計は十万五千人とするが、証拠が見当たらず不審な旨を述べ、今回の普請人数も未定と伝える。記載小計と総計には不一致がある。

  77. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-1 記事

    御家老の軍役衆盛に関し、将軍家から下された書付、御家で定めた書付、照合に用いる御状などのうち、御記録所で見出せた分を抜き書きしたと説明する。後続する軍役関係史料群の前書。

  78. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-2 高原城攻出陣賦

    天正四年の高原城攻めの出陣賦。一町衆は一町一人・主従二人、二町衆は主従三人とし、寺社・後家等の負担、送夫馬・普請用具を定める。陣中30日は自飯米、その後は公儀支給とし、小高の衆への支給も区別する。後評では町高・石高や土地尺度の諸説を比較し、一町30石・35石・25石などの差を考証する。

  79. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-3 軍役賦

    一町から十町までの所持町数に対し、主従二人から十一人まで一人ずつ増す軍役基準を列挙する。十町から百町・千町までは一町につき具足一領による軍役算用を記す。後評は天正四年高原城出陣賦との併記を検討し、同年ではなく天正六年の日州目白坂出陣時の賦ではないかと推測する。

  80. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-4 某覚書

    天正十一年五月六日、深江・安徳両城が義久に属す旨を有馬氏が伝えた後、深江の変約と安徳守兵の困窮から援兵を求めた経緯を記す。義久は六月二日の出発を予定し、新納忠堯・川上忠堅を先遣したが、勝利の報告を受け自身の出陣は中止した。田賦十五町につき勇士一人の定めを援兵派遣時のものとし、上井日記同年五月二十七日…

  81. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-5 某覚書

    義久公御譜に天正十四年の豊後入り人数として二手合わせ三万七百余騎とあることを記す。一方、田賦の割付が見当たらず、当時の分国全体の町高も分からないとする覚書。軍勢数と軍役負担の関係は確定していない。

  82. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-6 朝鮮出兵衆盛

    唐入りに伴う島津家の軍役として人数一万五千を掲げ、義久・義弘に関する幟・槍の配当と鉄炮1500丁・弓1500張・小指物600本などを列挙する。長槍だけでは陣屋前の見栄えが悪いとし、装備にも配慮する。馬上は歴々だけでなく体格によっても認める一方、人数は未定とし、甲・具足の用意を求める。

  83. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-7 大村重頼自記

    大村重頼自記から、天正十八年の北条不服と太閤の小田原出馬に伴い、又市郎殿が正月十一日に飯野を発った経緯を引く。久保が石田治部少輔の陣で太閤に仕合を披露する話、有川雅楽助らを挙げた300人の賦、伊集院右衛門太夫のほか御小童・御道具・御馬取衆を含む鹿児島からの動員を記す。

  84. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-8 町田久倍・平田歳宗連署書状

    町田久倍・平田歳宗が川上大炊助・町田右衛門佐へ、関東立の際に梅北宮内左衛門尉を乗馬させる旨を飯野の意向として伝え、梅北と相談するよう指示する。又一郎の出立は今月十七日に決まり、油断なく備えるよう求める。後評は別に、出立・大坂着の経路と唐入り当初の軍役予定、朱印による一万人、慶長二年の増兵免除などを考…

  85. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-9 豊臣秀吉朱印状抄

    文禄二年五月二十日の朱印による「もくそ城」取巻人数書立から、嶋津兵庫頭義弘の二千百二十八人を抜き出し、他の記載は省いたと説明する。末尾には朱印の転記内容を読者が取捨するよう求める付記がある。原本の後半が欠けたとの説明ではない。

  86. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-10 豊臣秀吉朱印状

    かとく嶋の内一城に二千人を置き、鉄砲100丁、弓100張、槍100本などの武具と食料を配当する朱印状。非常用備蓄を軽々しく使わず、米3000石・豆210石等を蔵へ積み、帰朝時から10か月分を確保するよう命じる。私兵糧の持参者・不持参者を区別し、余剰兵糧も人数に応じて割り当て蔵へ納める。

  87. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-11 島津義弘覚書抄

    国元の軍役を百石につき五人ずつと定め、全員の渡海を命じたにもかかわらず、前年春以来一人も渡海せず、軍役の履行も進んでいないと指摘する。文禄三年六月に義弘が申し送った覚書の一条である。

  88. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-12 島津義弘書状抄

    百石につき五人の国元軍役を命じたとの知らせに対し、義弘が朝鮮から石田治部少輔へ実際の渡海者不足を訴える。伊集院下野入・比志嶋紀伊の両人が六月に参陣したほか、一人も来ず手元が無人であると述べる書状の抄出。付記では他の用件を省いたと説明する。

  89. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-13 島津義弘書状

    義弘が比志嶋紀伊守へ鉄砲と玉薬を用意するよう命じ、槍は不要として鉄砲の数と人数の心得を重視する。石火矢は手に入り次第送るよう求める。後評は原文の所持・引用経路と鉄砲伝来、手火矢の利用を考証するが、龍伯公宛とする説明は本文の宛書と食い違う。

  90. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-14 某書状

    来る十一日の櫛間・牛原での作薙に向け、十日出発、十五歳未満・六十歳以上の除外、具足・手火矢・楯・箭種の準備を指示する。敵の火矢を警戒して三番島に詰め、夜中に作物を薙ぎ、夜明けには引き退くことや鎌の携行を求める。月日・宛書はなく、冒頭に判読留保と欠字がある。

  91. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-15 某書状

    差出人不詳の書状が斜木・石井へ来る八日の加勢を求め、城近くの畠作を荒らすため、特に手火矢の人数を送るよう依頼する。後評は斜木等を禰寝重長の家老かと推定し、朝鮮・島原での鉄砲利用や後世の扱いへの懸念を論じる。

  92. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-16 高麗国動員人数帳抄

    文禄四年正月十五日付の高麗国動員人数帳の第二番から、羽柴薩摩侍従(義弘)の八千人を抄出し、その他を省く。当時の御高頭55万9532斛との張紙注を添える。人数と石高は別項目として記す。

  93. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-17 豊臣秀吉高麗再渡陣陣立書抄

    朝鮮への再渡海にあたり、第五番の備えとして羽柴薩摩侍従に一万人を割り当てた陣立書の一部である。付記は慶長二年二月二十一日、秀吉の朱印により命じられた人数備えからの抄出とする。

  94. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-18 島津忠恒家久書状

    忠恒が桂・本田・相良へ、朱印による当年軍役一万人に応じ軍勢を増し、特に鹿児島の乗馬衆を整えて七月中に必ず参陣させるよう命じる。市方・帖佐方・鹿児島方に触れ、人数が揃っても遅陣は許されないとして早い出船を求め、事延べする者への処分を指示する。幸侃への連絡と三原諸右衛門との相談にも触れる。

  95. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-19 唐入軍役人数船等島津家分覚

    唐入りの軍役人数・五か月分の兵糧と馬飼料・輸送船を積算する。人数小計1万2433人に右馬頭・幸侃分を加え、総人数1万5097人と記す。二度漕ぎの一度分は人船91隻・5800人、馬船30隻・136足を配する。馬数・穀物合計・作船数と費用には内訳との不一致があり、記載値を保持する。

  96. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-20 伊集院幸侃忠棟書状

    伊集院幸侃が塚之脇次郎左衛門尉へ、検地奉行中小路傳五の要請により、塚之脇の側から筆者一人・算用者一人の計二人を早急に派遣するよう求める。賄いは検地所で用意するので道中の手配を整え、油断なく送るよう命じる。

  97. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-21 長谷場純知書状

    長谷場純知が塚脇次郎右衛門尉へ、又八郎の高麗渡海に備え百石につき五尋の火縄を調達し、十七日に持参するよう求める。火縄五尋十五文、三分出銀は鳥目七十五文と定め、出銀の今日限りの受取りを念押しする。高麗立の人組を知る二人も火縄とともに来るよう求める。

  98. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-22 伊地知重辰・長谷場純知連署書状

    伊地知重辰・長谷場純智が塚脇二郎右衛門尉へ、年貢算用・諸出物と出銀の納入を催促する。来る十五日の納期限を守り、延引者には「一倍之出銀」を命じるとして急がせる。過分の出物を統一する件は未定とする。欠字が多く、一部金額・単位は確定できない。

  99. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-23 新納忠増日記

    文禄元年三月から七月の移動と高麗渡海を記す。大口出立、久保・義弘の渡海、船不足での御供不能、船の雑作と荷積み、金山浦着船を記録する。馬船不足で徒歩随行する者の悲哀、遅れての乗馬到着、増水した川の渡渉、雨中の移動にも触れる。伝聞を示す「云」の記述を含む。

  100. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-24 高麗日記

    文禄三年九月から四年十二月の馬船到着、馬の贈進と馬奉行、名護屋津・壱州勝元の出着船、高麗唐嶋への到着や乗馬を記す。御供船別十二隻、十月三十日の御船を始め十七隻の到着、翌年十二月六日の大唐人の馬船七隻出船などを記録する。各日付の船数は別記事として扱う。