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旧記雑録拾遺 著作史料集1の目録

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  1. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 478 島津久慶外二名連署書状

    島津久慶ほか二名の連署書状。現地の上使から早打で届いた報告と、先月十三日付の書状を受け、天草方面の人数差し越し、黄門との書状調整、御城沙汰、兵部少輔の届出を確認する。海路での使者到着、現地の仕合と今後の御用について四名へ指示する。

  2. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 479 寺沢堅高書状

    寺沢堅高が島津家久へ送った書状。有馬の旧キリシタンが立ち帰り、天草十余村の者も共に蜂起したため、上使の命を受けて現地へ赴いたと報ずる。堅高の到着前、去る九日に一揆勢が一人残らず島原へ逃れたため、領内の仕置を厳重に命じ、今後も報告すると結ぶ。

  3. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 480 平塞録

    『平塞録』十八日の記事。島原の上使衆と諸大将が一揆籠城への攻め方を評定し、立花宗茂が着陣後に城の構えを見て有馬豊氏へ所見を述べる。竹牌・鉄砲による長期戦を武辺の恥とし、飛騨守の江戸着前に総攻めを行うよう促し、板倉重昌・石谷貞清との相談を経て立花勢を初手の先陣と定めた経過を記す。

  4. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 481 寛明日記

    『寛明日記』十八日の記事。板倉重昌の陣所に諸将が集まり、鍋島・有馬・松倉・立花各勢の攻め口と天草丸出崎方面への攻撃を評定した。出崎方面が空虚との情報を受け、当日の攻撃を見合わせて翌日に延期した経過を記す。

  5. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 482 松平行隆書状

    松平行隆が島津家久へ送った書状。病気見舞いに謝し、島原・天草両郡への使者派遣、天草方面の加勢と肥後人数の状況、江戸への注進を報告する。相互に申し合わせて対処したいとして、御使者の処置や進退について指図を求める。

  6. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 483 阿部正次外三名連署書状

    阿部正次ほか三名の連署書状。天草のキリシタン徒党が船で退いたのち川方へ逃れ、風と船の事情から追撃できなかった状況を報ずる。上使衆の現地到着を待って軍勢の人数と処置を定めるとして、進退の指示を松平大隅守家老中へ求める。

  7. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 484 牧野成純・林勝正連署書状

    牧野成純・林勝正の連署書状。天草方面へ細川忠利の人数らが差し出され、肥後勢が同道して到着したことを報告する。上使板倉重昌・石谷貞清へ相談し、現地人数と処置を確認したうえで松平大隅守島津家久へ情勢を伝える。

  8. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 485 牧野成純・林勝正連署書状

    牧野成純・林勝正の連署書状。遠路からの使札に謝し、別紙による報告と天草一揆への対応を述べる。関係者が表裏なく申し合わせて対処すること、使者が江戸へ到着する時期を懸念していることを伝え、松平大隅守へ返報する。

  9. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 486 平塞録

    『平塞録』十九日の記事。上使衆と諸将が家老中を集め、島原城攻めの評議を行った。城の遠巻、攻め口、夜中の出撃、松山方面の配置などを論じ、立花・有馬・松倉の三勢を同道させ、翌二十日に総攻めを行う方針を決した。

  10. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 487 寛明日記

    『寛明日記』十九日の記事。前日の評定を踏まえ、立花・有馬・鍋島各勢が天草丸方面の地形と攻め口を検討する。立花・有馬・松倉の三勢を一つにして本丸へ攻め寄せる案を諸将が評議し、翌二十日の総攻めを決した。

  11. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 488 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。薩摩藩家老三原重庸に従った大野内記以下の騎馬衆、家来・小兵衛らを列挙し、伊集院士四本源右衛門らを含む一行が島原へ到着した経過を記す。計四、五十人を率い、上使板倉重昌・石谷貞清らの指示で城近くへ移り、大江村北岡天神森に在陣したとする。

  12. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 489 児玉利泰覚書

    児玉利泰の覚書。二十九日の出来事として、島原城から五、六町の田間を隔てた陣屋にいた左衛門佐と、その家中の永井喜左衛門・永野源七・片野坂堅助・平山助之丞・寺前正兵衛・白坂式部左衛門らを列挙する。その他を含めて五十人余であったと記す。

  13. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 490 元立院覚書

    三原重庸家臣元立院の覚書。三原家の御同心・御与力・伊集院衆・御家来など、島原へ供奉した者を役組とともに列挙する。十二月末に国元から使者として新納仁右衛門尉が派遣されたこと、遠方から来た者は元日の記事に載せることを付記する。

  14. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 491 島原出征加世田士人名書上

    加世田士人相徳新助の蔵本による人名書上。三原左衛門が使者として島原へ渡った際、加世田から従った相徳新助・田実五右衛門・宮原佐吉兵衛・松田与七左衛門ら多数の名を列挙し、これらの人数が島原へ渡ったと記す。

  15. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 492 旧伝集

    『旧伝集』の記事。伊集院衆が島原へ出陣する人数を妙円寺拝殿で死鬮により選び、四本縫殿が三度まで死鬮を引いたため召し連れられたという。縫殿は少しも臆せず勇進し、矢玉が降る城際へ進んだが矢にも当たらなかったとの逸話を記す。

  16. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 493 緒方主殿覚書

    肝付兼屋従臣緒方主殿の覚書。旅、細川、春城の霞、敵城、長岡、鍋島などを織り込んだ和歌風の文言で、島原陣中の心情と敵城に臨む覚悟を述べる。末尾に十二月十九日と記す。

  17. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 494 四本助之丞家蔵聞書

    四本助之丞家蔵の聞書。慶安頃の召移しに始まり、伊集院衆中四本縫殿が島原陣で死鬮を取り、城際で槍を受けながら働いたことを伝える。負傷の療治、敵弾、刀や鎧の損傷、板倉重昌側への取次、四本家の法名・没年記事など複数の伝承と引用文書を収める。

  18. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 495 板倉重昌書状

    板倉重昌が島津家久へ、十二日付書札の十八日参着を受けて返書する。獅子島まで出した人数を国境へ引き取るよう牧野傳蔵・林丹波が申し遣わした旨を承知。天草に切支丹が居らず、細川勢を少し残して川尻まで進入したこと、当所古城の籠城者を攻撃する予定を報告する。道服二つの受納を辞退し、三原左衛門佐の口頭説明に委ね…

  19. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 496 馬場利重書状

    馬場利重が島津家久へ送った書状。十八日参着の尊書に謝し、島原表で切支丹籠城者を取り籠めたこと、近く討ち果たす方針を報ずる。天草の切支丹も同様であり、使者の申し入れを了承したとして十九日付で返報する。

  20. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 497 榊原職直書状

    榊原職直が島津家久へ送った書状。病中ながら印判を下付され、気色が回復したことを報告し、遠路の使札と道服二領に謝す。島原一揆対応の状況は三原左衛門佐から申し上げるとして十九日付で結ぶ。

  21. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 498 石谷貞清書状

    石谷貞清が島津家久へ送った書状。十八日参着の尊札に謝し、獅子島から御国境まで人数を派遣したこと、天草切支丹への対応、川尻までの進入を報告する。道服二領を受用し、詳細は三原左衛門佐が説明するとして十九日付で結ぶ。

  22. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 499 板倉重矩常行記

    『板倉重矩常行記』の記事。板倉重矩が高木城到着後に城を巡見し、松倉・鍋島・有馬・立花各勢の陣所と攻城策を論じた。城際へ鉄砲を放ちながら陣を寄せ、城中の動静を見定めたうえで総攻めを二十一日に予定するが、諸事情により延期した経過を記す。

  23. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 500 平塞録

    『平塞録』二十日の記事。鍋島勢が大江・松山方面から先駆けし、立花・有馬・松倉など諸勢が続いて島原城へ迫った総攻めを詳述する。鉄砲・矢・刀槍による激戦、城際への突入、各隊の死傷と敗退、立花勢の働きを描き、数万の人数でも攻撃は危険であったとの後代への物語で結ぶ。

  24. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 501 寛明日記

    『寛明日記』二十日の記事。鍋島家中が前日の評議を聞き、大手へ知らせず小川の瀬を越えて城下へ伏せ、夜中に攻め入った経過を記す。鍋島・立花勢の攻防、鉄砲・刀槍による多数の死傷を挙げ、数万で攻めても危うい戦いであったと評する。

  25. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 502 天草征伐説書

    『天草征伐説書』同月二十日の記事。鍋島方が出崎を乗り越えたのち、潮時を見て立花・有馬・松倉勢も渡河し、敵城へ攻め寄せた経過を述べる。鉄砲・刀槍による死傷と諸将の働きを挙げ、立花勢の手柄を本望とする後話まで記す。

  26. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 503 藤掛集書

    『藤掛集書』極月二十日の記事。上使衆の相談後、鍋島・立花・有馬・松倉勢が潮干を渡って城へ攻め寄せた様子を詳述する。潮時の判断、先手争い、鉄砲戦、立花勢の突入と撤退を記し、討死・手負二百三十八人余、上使衆の見合わせと仕寄せ、敵城の堅固さを述べる。

  27. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 504 野元為綱奉公状

    野元為綱の奉公状。十九日に着船し、二十一日の取合に召し連れられて上下六人で参陣したことを述べる。川上村の百姓前原門次左衛門から申し出た参陣の由来を記し、奉公の事実を証言する。

  28. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 505-1 伊地知季安記事

    伊地知季安の記事。三原重庸が夜討で手負・死傷した人々を聞書にまとめ、薩摩藩へ報告したことを記す。別記録が城攻めを十一月二十日の七つ半時とする点について、月の誤記であろうとの編者注を付す。

  29. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 505-2 討死・手負衆人名書上

    十二月十九日夜の立花勢を中心とする討死・手負衆の人名書上。役職・氏名・知行高とともに討死者、手負、近年召し抱えの牢人などを列挙する。有馬左衛門佐や上使衆に付属する者、肥後牢人らの被害も挙げ、末尾を二十一日乙卯とする。

  30. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 506 平塞録

    『平塞録』二十一日の記事。上使衆が城を囲むが、前日の攻撃で諸手に多数の死傷者が出て城中の守りも堅固なため、攻め難いと評する。竹束を用いて再び攻め寄せ、返忠の者を求めながら勝負を競う方策を記す。

  31. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 507-1 記事

    『平塞録』を引く導入記事。二十二日、肥後家中に細川光利の軍令が渡され、前日の城攻めで寄手が散々敗北したため、上使衆の命を待っていたことを記す。その際の軍令の写し一通が続くと説明する。

  32. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 507-2 細川光利条書

    細川光利が肥後家中へ示した陣中軍法の条書。公儀の法度遵守、組頭の統制、旗本を離れないこと、物見・夜間警戒、出陣時の隊列、喧嘩・敵前逃亡の禁止、火事・夜討への備え、馬の徴発禁止などを列挙し、違背者は厳罰に処すと命じる。

  33. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 507-3 記事

    細川光利条書に続く記事。二十三日から二十九日までは上使衆も遠巻きのまま日を送り、熊本の軍勢にも厳重な触れが出されて各自が用心したこと、二十三日以後は別事がなかったことを記す。

  34. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 508 板倉重矩常行記

    『板倉重矩常行記』の記事。松平伊豆守・戸田左門が上使として江戸を発し、鎮西へ向かう途中の風聞や板倉重昌ら先行上使の動静を記す。城方の様子をうかがい、正月元日の祝儀に気を取られる時機を利用して城中の油断を突き、乗り取る策を述べる。

  35. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 509 寛明日記

    『寛明日記』二十二日の記事。肥前天草に落書があり、武鎮西将軍・大谷四郎大夫竹帝などを詠み込み、有馬殿の下帯を題材にして立花勢の先駆けを風刺した文言を載せる。

  36. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 510 島津久賀外四名連署覚

    島津久賀ほか四名が大野正右衛門へ示した連署覚。領内にキリシタン宗門の者がいないとする先年の宗門改めについて、改宗者、縁組、他領からの出入り、被官・家来・山伏・商人・旅人などの調査と届け出の扱いを条項ごとに答える。沙汰があれば申越すよう求め、十二月二十二日付で連署する。

  37. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 511 島津久賀外四名連署覚

    前掲510と同文であるため本文を省略し、日付のみを「二十三日丁巳」と掲げた文書。原注にも五一〇号文書と同文につき省略とある。

  38. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 512 小川監物日記

    『加世田小川監物日記』二十三日の記事。殿役蔵の諸出物改めのため寺師与左衛門が召し回され、十左衛門方へ宿泊させたこと、御条書を写し置き、納物を差し出すよう申し渡したことを記す。

  39. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 513 寛明日記

    『寛明日記』二十三日の記事。二十日の城攻めが散々の不出来であったため、板倉重昌が本意なく心を悩ませ、矢文を射入れても返簡がなく、寄手から書状を送ったことを記す。末尾に二十四・二十五・二十六日の日付を列記する。

  40. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 514 島津久元・川上久国連署書状

    島津久元・川上久国が北郷式部太輔へ送った連署書状。松平伊豆守・戸田左門が上使として下向するため御使を出すこと、両名が近日到着する見込みであることを伝える。先に江戸を発った上使は九州内に着陣しており、今後の公儀の意向に備えて用意が肝要であると申し含める。

  41. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 515-1 板倉重昌・石谷貞清連署掟書

    『藤掛集書』所収の上使掟書。キリシタン徒党討伐では上使の指図に従うこと、喧嘩・口論・狼藉を停止すること、郷人との間で不法な物具取引や自然の味方討ちを避けること、違反を急度申し付け、物頭が堅く守らせることを定める。十二月二十七日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。

  42. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 515-2 板倉重昌・石谷貞清連署条書

    島原のキリシタン徒党謀叛への加勢に際する条書。喧嘩・口論と狼藉を堅く停止し、竹木の無断伐採を禁じ、宿賃・人馬賃銭は定めどおり支払うこと、島原へ逗留する者が帰国後に沙汰を受けないよう条々を守ることを命ずる。十二月二十七日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。

  43. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 516 新庄直綱書状

    新庄直綱が島津久元へ送った書状。式部らへの書状を省略して近況を伝え、仁礼主計への返書、二十一日の江戸到着、城攻めの見通し、伊勢兵部からの届け、相手の快気を喜ぶ旨を述べる。十二月二十七日付で、今後の演説を求めて結ぶ。

  44. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 517 寛明日記

    『寛明日記』二十八日の記事。二十日の城攻めが殊のほか不首尾で、多数の味方を討たせたことから板倉重昌・石谷貞清の責任や今後の処置を論ずる。松平伊豆守・戸田左門らが現地を巡見し、城攻めの命令・兵法を改めて再攻撃するとの見通しを記す。

  45. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 518 有馬直純書状

    有馬直純が島津家久へ送った書状。島津弾正大弼の使者と懇書に謝し、遠路の召出し、当地での御座、帰宅の予定などを報ずる。島原での情勢や延引の事情を述べ、在所の子蔵人へ使者を下されたことにも謝意を示す。

  46. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 519 平塞録

    『平塞録』二十九日の記事。有馬表の陣中で松平伊豆守・戸田左門が一、二日中に下着するとの風説が立ち、先行上使の板倉重昌・石谷貞清が到着済みであることを記す。城攻めの不首尾への公儀の怒りや、諸家を集めて再び攻撃を図る動きを述べる。

  47. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 520 相良頼寛書状

    相良頼寛が島津家久へ送った書状。松平伊豆守・戸田左門の下向を追而書で伝え、摂津からの出船と有馬への渡海、座への参着を報告する。島原籠城がなお落去せず帰国が延びること、江戸の薩州様へ暇乞いしたことを述べ、十二月二十九日付で返報する。

  48. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 521-1 記事

    『平塞録』晦日の記事。上使板倉重昌が諸大将・国々の使者を陣屋へ招き、翌日の城攻めを相談した経過を詳述する。攻撃の延期や兵の損害をめぐる応酬、各軍の陣配置、鉄砲・道筋・物見、城内の動静を論じ、明日城攻めを行うため上使衆の軍令一通を示すところで次文書へ続く。

  49. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 521-2 板倉重昌・石谷貞清連署条書

    翌日の島原城攻撃に関する上使衆の軍令。七つ時から人数を出し、鉄砲・石火矢を合図に攻撃すること、陣中の騒動を禁ずること、大将以外は歩行すること、合印を右肩へ付けること、合言葉、跡からの鉄砲射撃、小屋への放火などを定める。十二月二十九日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。

  50. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 521-3 記事

    板倉重昌の家老岡本新兵衛政信・多賀主水次定が、自らの書付によって家中へ触れた達書一通が世に伝わることを記し、次の文書を導入する短い記事。

  51. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 521-4 多賀次定・岡本政信連署達

    板倉家中へ出された攻撃時の連署達。両方の鉄砲を先へ押し出して十分に撃たせた後に攻めること、板倉主水と右近らの持場・働き方、竹束・火付けを指示する。内膳・主水らの鉄砲配置、持筒衆と諸隊の順序を細かく定め、十二月二十九日付で連署する。

  52. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 522 寛明日記

    『寛明日記』晦日の記事。板倉内膳・石谷十蔵が諸将を招集し、鍋島家老安芸へ内膳正の陣地に関する意見を求めたことを記す。早々の城攻め、城内の外立腹と人数損費をめぐる評議、安芸の応答を載せ、明元日の総攻めについて諸家へ触れたが『平塞録』と同じため省略すると結ぶ。

  53. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 523-1 記事

    『藤掛集書』所収、元日の城攻めと板倉内膳正討死に関する導入記事。武州江戸から来た松平伊豆守信綱を御代官として仰ぎ、板倉重昌・石谷貞清らが鍋島家老安芸へ城攻めの評議を求めたこと、元日の総攻めに先立ち諸勢へ触れた条々が次に続くことを記す。

  54. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 523-2 板倉重昌・石谷貞清連署達

    元日城攻めに際して諸勢へ示した連署達。明七つ時から人数を出し、石火矢・鉄砲を順次撃つこと、陣中の騒動を禁じ、大将以外は徒歩とすること、右肩の合印、合言葉、後方からの鉄砲射撃、小屋への放火などを定める。極月晦日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。

  55. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 524 児玉利泰覚書

    児玉利泰の覚書。十二月二十九日昼、伊豆守から翌日の城攻め参加を求められたが、三原左衛門佐らが上使到着前の攻撃や豆州勢との関係を理由に難色を示した経緯を記す。上使の指図に従うべきこと、参陣の義理や諸使者の応答を述べ、元日攻めに盛香集の説を参照しつつ、翌日の城攻めでは大名衆のみが立つよう命じられたとする…

  56. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 525 酒匂幸左衛門覚書

    酒匂家伝覚のうち、肥州島原一揆の際に甲斐右京・右馬助へ御使が命じられ、十二月二十七日に島原へ参着したことを記す。野元源左衛門を三原左衛門佐のもとへ遣わし、翌日早く江戸へ参るため両名を島原出船に付したこと、正月元日に平戸へ入ったことを述べる。

  57. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 526 酒匂氏日帳

    酒匂氏日帳の記事。その暮れ十二月に島原一揆が起こり、御使を命じられて同二十七日に島原へ参着したことを記す。野元源左衛門を三原左衛門佐のもとへ遣わし、翌日の江戸行きに備え、前十九日に島原を出船して正月元日に平戸へ入った経過を掲げる。

  58. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 527 藤掛集書

    『藤掛集書』に収めた寛永十五年正月元日の島原城総攻め記事。軍法に従って暁から鉄砲・石礫・竹束で攻め、城内外の激戦、寄手の突入と退却、諸隊の討死・手負、板倉重昌の戦死を詳述する。城内の防戦、敵味方の死傷数、松平信綱らの到着後の処置、板倉重昌の遺骸・辞世・家中の動向を記し、『平塞録』との小異を注する。

  59. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 528 児玉利泰覚書

    児玉利泰の覚書。正月元日、一番鳥に陣屋を発して島原城へ向かい、左衛門佐配下として戦った経過を詳細に記す。城際での鉄砲戦、竹束・石火矢、敵味方の討死・手負、野元源左衛門らの働き、諸隊の退却と再集結を述べる。翌二日以後の戦死者処置や出船、薩摩人数の動向も記し、自らの覚えどおり書き付けて野元源左衛門へ進上…

  60. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 529 旧伝集

    『旧伝集』の記事。肥前島原で三原左衛門佐が馬を降り、前に鉄砲を揃えて座したことを述べる。軍法・兵術に優れ、夫を御相伝された大事の節にこの法を修めたとして、その武智と落ち着きを称賛する。

  61. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 530 野元氏家状

    野元氏家状。寛永十五年正月二日、江戸から下向した松平伊豆守のもとで、前日の元日攻城後の城中・寄手の状況を記す。酒宴の席での上使との応答、鉄砲・竹束による攻撃、討死・手負、左衛門佐らの働き、薩摩勢の出水・船仕立・遺骸処置を詳述する。源左衛門の戦死と家中への知らせ、証拠の乏しさを述べ、千時八月三日付の家…

  62. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 531 旧伝集

    『旧伝集』の記事。島原へ差し遣わされた三原左衛門佐と、その騎馬与力野元源左衛門が元日の戦いで討死したことを記す。野元の遺骸から四本の縫殿が取られたこと、所持した刀・脇差の伝来を挙げ、右の説には伝聞の誤りもあると注する。

  63. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 532 三原諸右衛門書状

    野元源左衛門の祖父が肥州島原で戦死した次第を尋ねられ、三原諸右衛門が承伝を書き送った書状。寛永十五年正月元日の島原城攻めで、板倉内膳正の戦死後、三原左衛門佐と野元源左衛門が戦場を見分し、酒筒を携えて出陣したこと、両名の戦死と松平伊豆守方への報告などを記す。

  64. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 533 浦の波

    『浦の波』所収の逸話。伊勢貞昌が御老中の寄合に常に列したこと、掛物の難読字を読み解いて兵部殿から召し出されたこと、三原左衛門佐も掛物の字を読み御用に立ったことを記す。貞昌と伊豆守の詩文贈答、江戸で林道春と同断と評された三原氏の文事にも及ぶ。

  65. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 534 盛香集

    『盛香集』に記された島原乱時の逸話。近国大名の用聞家老が配されたなか、三原左衛門佐が板倉内膳正へ今後の処置を尋ね、使者として諸大名へ条書を伝えたこと、松平伊豆守方からの掛物の字を読み得たことを記す。末尾に季安が伝承の人物・時期に誤りがある可能性を注する。

  66. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 535 藤掛集書

    『藤掛集書』所収の正月朔日注進状抄。元日の島原城攻めで味方の手負・死人が四千余人に及び、板倉内膳正の討死後も寄手の勢いが衰えず、夜討・城中からの討死者増加など激戦が続いたことを記す。十蔵が黒田・細川・寺沢らの人数の早期出勢を求めた旨を掲げる。

  67. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 536 薩本島原軍記

    『薩本島原軍記』の記事。正月元日の城攻めで板倉内膳正が戦死し勝利を得られなかったこと、正月四日の飛脚注進、正月朔日付の城等落着まで警固を命じる御状、七日の返事と追々の人数差渡しを記す。薩摩人数五、六千程などを挙げ、八日以下の文書へ続ける。

  68. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 537 石谷貞清書状

    石谷十蔵貞清が、有馬の城をまだ乗り取れていないため急ぎ使者を差し出し、御手前の人数を早く懸け越すよう求めた書状。詳細は三原左衛門佐から申すとして、正月朔日付で松平大隅守の近習中へ送る。

  69. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 538 田代某中島原立之覚

    田代某の島原立之覚。寅正月三日、有馬四郎から矢文で取合いを求められ、前々日の元日攻城で城から出た敵に討ち取られた者や、薩摩方の野元源左衛門らの討死、出水衆中の討死者を記す。三原重庸受書や鹿児府の覚書、川監物日記との異同を注する。

  70. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 539 元立院覚書

    三原重庸家臣元立院の覚書。島原陣における討死として、野元源左衛門、伊集院衆の帖佐小兵衛、手負人として永井喜左衛門、片野迫監物、吉佐貫吉兵衛らを挙げ、左衛門佐の手負状況や鉄砲戦の聞書について照会への回答を記す。元禄八年正月八日付で三原諸右衛門へ差し出す。

  71. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 540 旧伝集

    『旧伝集』所収、四元縫殿の島原攻城逸話。城下の干潟にある大岩を盾として鉄砲を避け、敵を射落としながら縫殿を介抱した者との間で食糧・退路をめぐる応答を重ねる。城中から切って出た敵に追われながら馬で逃れ、薩州使者三原左衛門佐のもとへ到着して城攻めへの再参加を申し出た経緯を記す。

  72. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 541 旧伝集

    『旧伝集』の記事。老年の島津光久が東目通行の際、四元縫殿を綾江へ移して近習に掛け置き、のち遊興を許したことを記す。若年に武功がありながら長く蟄居した者、伊集院に住む者らが扶持・加増を願い出ると、光久がそれぞれの事情を聞いて処遇した逸話を収める。

  73. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 542 天草覚書

    『天草覚書』の記事。板倉内膳正が丑十二月八日に有馬へ下向し、寅正月元日の原城攻撃で戦死した経緯を記す。浦田村市吉の申告により、城外から鉄砲で板倉を討ち取ったとされる会村金作、墓所の印の松、阿蘭陀人の鉄砲に関する伝承も掲げる。

  74. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 543 伊地知季安記事

    伊地知季安の考証記事。『丑寅賊征録』を引き、板倉重昌が元日の攻城に失敗し、正月三日卯刻の再攻撃で鉄砲を受け戦死したとする説を検討する。前条の会村金作と、別史料にみえる駒木根八兵衛が同人の別名かどうか疑わしいと論じる。

  75. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 544-1 記事

    親見出し『平塞録』所収の記事。寛永十五年正月元日の原城総攻撃について、有馬勢の時刻違いの抜け駆け、諸勢の追随、鉄砲・矢石・竹束を用いた城際の攻防、各隊の突入と退却を詳述する。石谷貞清らの負傷、諸家の討死・手負、上使板倉重昌が塀下で銃撃され戦死した経過、遺骸の葬送、江戸への注進までを記す。

  76. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 544-2 松平行隆・石谷貞清連署注進

    正月朔日の原城攻撃について、板倉重昌戦死、石谷貞清の深手、諸勢の敗北と多数の討死・手負を幕閣へ報じた連署注進。敗戦の詳細は別紙に譲り、使者の木屋を派遣したこと、次の攻撃に備える決意を述べ、松平甚三郎直恒と石谷十蔵貞清が連署する。

  77. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 545 天草征伐説書

    『天草説書』の記事。正月元日、板倉内膳正のもとへ諸勢が集まり登城を企てたところ、石谷方から立花手への使番の行き違いが生じ、各城を乗り抜けた後に敵陣へ落ちた経過を記す。板倉・石谷方の討死・手負、立花勢、附使者らの死傷と退却を述べる。

  78. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 546 喜入忠政従臣聞書

    喜入忠政の従臣から聞いた記事。有馬城元の御囲合について島津家久が島津光久へ話し、三原左衛門佐が彼地へ使者として差し越されたこと、寛永十五年正月元日の一戦で与力野元源左衛門が働きのため戦死したことを記す。

  79. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 547-1 記事

    親見出し『寛明日記』巻第十九の記事。寛永十五年正月元日、江戸の強風とともに島原での総攻撃を記す。板倉重昌が戦死し、各家の軍勢が鉄砲・矢石を浴びて退却した状況、石谷貞清らの負傷、立花・鍋島・松倉勢の動向を述べ、末尾で当日の討死・手負注文へ続ける。

  80. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 547-2 討死・手負注文

    元日の原城攻撃における討死・手負を諸勢別に列挙した注文。有馬兵部太輔内、鍋島紀伊守内、松倉長門守内の士・雑兵、諸国の浪人・使者について、討死者と手負人の人数を記す。

  81. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 547-3 記事

    元日の討死・手負について、総数三千九百二十八人と記した短い集計記事。前掲の諸勢別注文を総括する。

  82. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 547-4 使者討死並働之覚

    諸大名から派遣された使者の討死と働きを列挙する覚書。小山田蔵之助、坪内勝右衛門、伊藤十之允、横山助之進の戦死を記す。国司下総は後殿を務め、混乱した足軽を静かに退かせ、死傷者を陣へ収容した働きが諸人に称賛された。

  83. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 547-5 記事

    元日早朝、板倉重昌が一書を認め、石谷十蔵のもとへ送ったことを記す短い記事。書状本文へ続く導入部である。

  84. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 547-6 板倉重昌書状

    板倉重昌が石谷十蔵へ送った書状。前年の元日は江戸城で年頭の緒を締めたが、今年は原城で朝を迎え、早打ちに臨む心境を歌に詠む。正月元日付。

  85. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 547-7 記事

    板倉重昌の歌を数通書き、内膳正と親しい者へ送ったとする記事。続いて松平甚三郎・石谷十蔵が同日午刻に江戸へ注進した旨を掲げ、次の連署注進本文へ接続する。

  86. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 547-8 松平行隆・石谷貞清連署注進

    松平甚三郎・石谷十蔵の連署注進。年頭の祝儀に続き、原城への総攻撃が失敗し、諸勢が先陣を競ったため崩れて多数の死傷者を出したことを江戸の年寄衆へ報じる。板倉重昌らの戦死、鉄砲による深手、存命不明者を挙げ、詳細は追って申すとする。

  87. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 548 某覚書抄

    板倉内膳が諸陣を巡見した際、城中から狙撃され、松倉豊後守とともに弾を受けた状況を記す。弾丸が左衛門へ当たったものの発火しなかった事情を述べ、二日丙寅条の狂歌二首を添える。

  88. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 549 平塞録

    『平塞録』正月二日条。石谷十蔵・松平甚三郎の要請を受け、熊本勢が島原へ発向した経緯を記す。細川忠利の軍勢について、旗・鉄砲・弓・槍・騎馬・荷物・兵船・供回りを詳細に列挙し、川尻から海上を経て佐渡手の陣へ入るまでを述べる。

  89. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 550 伊地知季安記事

    正月二日、島津下野守久元、その子図書頭久通、喜多村越中守忠智らが鹿児島を出馬し、島原へ赴いたことを記す記事。

  90. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 551 緒方主殿覚書

    肝付兼屋家臣・緒方主殿の覚書に収める、いろはを冠した弓・矢・鉄砲・玉薬などの歌を掲げる。伊地知季安は、城中からの矢文とみられる歌や板倉重昌討死後の兵糧攻めに関する歌を考証し、鹿籠の従臣から聞いた書にも同歌があると注記する。

  91. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 552 一色昭元書状

    一色昭元が、正月朔日の原城総攻撃で板倉重昌が討死し、石谷十蔵・松平甚三郎も負傷、幕府方に多数の死傷者が出たと早飛脚で注進する書状。城内一揆勢の抵抗が続くため、心を尽くして早く島原へ渡海するよう要請する。

  92. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 553 平塞録

    『平塞録』正月三日条。上使松平伊豆守信綱・戸田左門氏鉄が島原城へ到着し、筑前から来た内原田も同日島原へ着いたことを記す短い記事。

  93. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 554-1 伊地知季安記事

    本田親右衛門親貞が鹿児島からの使者として島原へ到着し、在陣せず帰国したこと、三原重庸が二之宮杢右衛門を帰して島原の状況を報告させたことを記す。

  94. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 554-2 三原重庸届書

    三原重庸が正月朔日の原城攻撃の経過を詳報する届書。幕府軍の総攻撃、板倉重昌らの戦死、城内一揆勢の抵抗、攻城用の塀・櫓・道筋の構築状況を述べ、薩摩からの早急な出陣を求める。正月三日付。

  95. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 555 猪俣則康筆記

    寛永十五年五月三日以後の天草一乱に際し、相良福長が兵粮米の人数割を指示し、村田郷左衛門らへ差配したことを記す。

  96. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 556 島原軍衆人数差出留

    島原出陣に際して提出された軍衆人数の控え。鹿児島・高山・市来などの諸士について、家格・系譜・年齢・軍役帳の石高・従者数・兵種を列挙し、出陣人数と装備を記録する。

  97. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 557 帝釈寺等由緒書

    隅州横川の安良大明神、妙高山帝釈寺、大慈寺、昌林寺などの開基・移転・寺跡を年代順に記す由緒書。地理志・寺伝・棟札等を引き、永享・延文・応永・弘安年間の伝承を考証する。

  98. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 558 寛明日記

    松平伊豆守信綱・戸田左門氏鉄が五千の手勢で有馬表へ着陣し、細川肥後守光利も船で洲川津へ着いたことを記す。

  99. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 559-1 記事

    『平塞録』に基づき、正月四日に上使松平信綱・戸田氏鉄が原城へ到着し、城の攻略法を尋ねて諸将と相談したことを記す。

  100. 旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 559-2 戸田氏鉄・松平信綱連署覚

    戸田左門氏鉄・松平伊豆守信綱の連署覚。山を築き城中を見下ろせる高さとし、急な箇所には柵・櫓を設け、前道を造るなど、攻城施設の構築を指示する。正月四日付。