ARCHIVE DIRECTORY
旧記雑録拾遺 著作史料集1の目録
暫定版です。原文との照合により、概要や文書の区切り等を修正する場合があります。
全1,156件中 1001~1100件・11 / 12ページ
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 743 谷口氏書留
貴理師旦の一揆に際し、正月十五日に蒲生衆が出水米津へ参着し、二十八日に帰宿したと記す。末尾に十六日庚辰とあるほか、十九日条への参照注を付す。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 744 寛明日記
十六日、将軍が九州大名を召し、島原がまだ鎮まらないため急行して早期に討伐するよう命じ、馬や衣服を与えたと記す。土井・酒井・堀田・阿部らが上使を務め、大名は暇を賜って鎮西へ向かった。細川・黒田・鍋島・有馬・立花・小笠原・水野・榊原らを列挙し、人名訂注や榊原の子の年齢・父への随行を付記する。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 745 平塞録
十六日、目付の井上筑後守が嫡子清兵衛を伴い、島原へ到着したと記す短い記事。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 746 島原軍衆人数差出留
正月十六日を中心とする島原軍衆の人数差出留。前日到着の本田らの主従人数、始良衆・佐多衆・新納らの軍衆と夫丸、乗船勤務・到着地を記し、頴娃御蔵からの米受領、各人への米支給を注記する。季安は以後を十七日条へ分けたと説明し、十六日に米津へ到着した二階堂家中・敷根・福山・須木の人数を追記する。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 747-1 伊地知季安記事
十六日、加久藤地頭伊地知杢右衛門重政が加久藤衆50人とその内若42人、自分の内若33人、自力立など21人を合わせ、およそ150人を率いて加久藤を出発し、その夜は羽月西田村に宿泊したと記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 747-2 島原立供人数
島原へ出陣する供人数の名簿。西田七左衛門以下を列記し、13人と6人、詰夫10人、惣合29人、外町衆4人と記す。計33人を杢右衛門が召し連れた名書で、加久藤地頭仮屋にあった横折の原本を天保九年二月に見出したとの採録注を付す。詳細は二十八・二十九日条を参照するという。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 747-3 有馬陣立人数差出
加久藤地頭仮屋に伝わる有馬陣立差出。伊地知重政の主従21人について、与力・供人を帰還日別に列記し、正月十六日からの在陣日数を計算する。二月八日唐津から帰還した組、二月十七日・二十三日および三月八日に有馬から帰還した組を記し、惣合日数1342日とする。寛永十八年二月十二日付、谷口次郎左衛門と伊地知弥右…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 747-4 有馬陣立人数差出
有馬陣立人数差出として加久藤衆の人躰・被官・夫丸を主従95人と掲げ、帰還日別に氏名と人数・在陣日数を計算する。正月十六日から二月八日・十五日・十八日・十九日、三月二日・八日までの各組のほか、正月十四日出発者、夫丸11人、自力で参加した3人を記す。延べ日数3686日、うち66日は自力衆3人分とする。寛…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 747-5 有馬陣立人数差出
加久藤の検地寺領衆と一向宗寺領衆が自力で有馬へ出陣した名簿・日数差出。萩原藤介以下を帰還日別に列記し、正月十六日から二月八日・十八日・十九日、三月八日までの日数を計上する。寛永十八年二月十二日付、伊地知・谷口連署。後半には「合4人・一人53日」に対し「合106日」と記すなど、人数と延べ日数が一致しな…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 747-6 伊地知季安記事
島原の役で小原織部佑らが米銭出納を担った取払帳の来歴を考証する。表紙・巻末を失った横折小冊を享和三年の転居時に煤けた小桶から発見し、後に家伝・史館記録を調べて出陣記事を採録した経緯を述べる。織部自筆か疑う人もいたが、天保三年に子孫宅を調査し、承応元年の知行名寄や八月十二日付文書の筆跡・印形を帳簿と比…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 747-7 小原織部取払留
季安家蔵の取払帳から正月十六日の米・銭受取と米支出を抄録する。加久藤からの上白米4斗2升・中白米2斗・銭2貫500文、長野正右衛門からの大豆2斗・銭1貫文、羽月からの中白米4斗7升3合を記す。加久藤から羽月まで来た中間に一食分の真米2合5勺などを渡し、西田での支給も記録する。十八日条へ続きを分載する…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 748 伊地知季安記事
十六日夜、世子が府中へ到着したことと、その日の昼に大雨があったことを記す短い記事。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 749-1 記事
肝付兼屋の従臣緒方主殿の覚書。『同十六日』に加世田丸(九端帆)、関舟之頭覚右衛門の御舟を受け渡して渡海したと記す。『下文は十七日也』との参照注がある。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 749-2 天草御供人数
天草への御供人数を肝付九兵衛以下、各人・御馬・御中間衆・小者・加子に分けて列記する。原頁の続きには五枚帆船・四枚帆船と船頭室田利左衛門、久玉参着・天草への回船を記す。編者は今数えると94人で、本月十一日指出の主従106人に対して12人不足し、原書の切断で氏名が見えないか脱漏した可能性を注記する。目録…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 750 北郷久加世別記
同十六日に久加久田の間へ着津したと記す。先行本文は十五日条、続きは十八日条にあるとの参照注を付す。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 751 川上久国書状
海上が穏やかなうちに天草へ順次渡海し、船を送り戻して兵糧を運ぶよう求める。船の往来が途切れると兵糧不足となるため、物奉行・舟奉行との相談を重視し、加世田・出水からの米輸送に関する連絡も記す。正月十六日、次飛脚で送る書状。欠字は推補しない。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 752 川上久国書状
十三日付書状を受け、黄門の腫物・咽気・咳、不眠と食事の状況を詳しく報告する。城攻めの長期化による兵糧不足、船の回送、天草への渡海連絡、出水・大口の人数の半分を残すよう江戸から命じられた件について相談する。国境警備・大口番所の人数にも配慮し、新納加賀守の有馬同行希望を伝える。正月十六日付、野州宛。原史…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 753 川上久国書状
川上久国から出水噯衆中へ、文箱三つを見分し、それぞれの送付先へ油断なく届けるよう指示する。正月16日付で、次の飛脚は紫尾筋へ遣わすと記す。送付先等の欠字は補わない。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 754 寛明日記
十七日、小笠原壱岐守・来嶋丹波守が島原の城代として到着したと記す。また松平主膳・伊東大和守・御横目杉原四郎兵衛を天草の城代等として遣わし、同日に天草へ到着したとする。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 755 平塞録
十七日、松平伊豆守・戸田左門が諸大名に幕府の大筒貸与を知らせ、味方の損害を避けるため大筒で攻める方針を示す。伊豆守が長崎から紅毛人を招き、城を見下ろす場所に一斉に大筒を据える案について、上使や諸大名と相談して合意したと記す。長崎奉行馬場三郎左衛門に使者を送り、川口へ船を引く件を長岡佐渡守を介して諸大…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 756 藤掛集書
島原城に人がいなくなったため、小笠原壱岐守を城代に、来嶋丹波守を加番として差し置き、長崎や各浦の支配・警備を堅く命じたと記す。両人は正月十七日に島原へ到着した。また天草城代に松平主膳・伊東大和守、御横目に杉原四郎兵衛を遣わしたことを記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 757 薩本島原軍記
天草富岡に在番する松平主税助・伊藤大和守に、中納言島津久光が北郷佐渡守を通じて連絡したと記す。上津浦の番手人数は松平伊豆守から薩摩へ命じられ、島津豊後守・喜入摂津守・入来院石見守・北郷佐渡守を物頭として置いたため、用務を申し付けてほしいと伝え、相手からも用務は依頼すると返答があった。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 758-1 伊地知季安記事
十五日から二十一日までの七日間、島津久賀・喜入忠政らが薩摩勢を率いて天草久玉の吉田に陣を取り、山に潜む一揆勢を捜索したと記す。在陣が続く見込みから七か条の軍律を示したとし、その根拠を久賀従兵時任某の日記と忠政従士小川監物の日記に求める。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 758-2 天草陣中法度
天草在陣中の七か条の法度。下知に背かないこと、山里での鉄砲発射を禁じ違反者を身分によらず薩摩へ帰すこと、山狩りには弓・鉄砲を持ち槍は手槍に限ることを定める。所在外への外出には手形を要し、地下人からの借用や家・戸壁の破壊と焼却、在郷での濫妨を禁ずる。急な騒ぎには夜中でも所属の陣場へ集合するよう命じる。…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 758-3 小川監物日記
十七日に人数を揃え、山に籠もる天草のキリシタンを生捕りにするため山狩りを行ったが、隠れた者はいなかったと記す。加世田衆四十人の配置と翌十八日以降の残る山の捜索に触れる。また伊地知重政が主従三十五人で加久藤勢を率い、羽月から米之津へ到着して指出により兵糧を受け取ったことを記す。末尾に衆中共同の差出とみ…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 759 島原立人数差出
加久藤衆の島原立人数として人躰五十人、内衆四十二人等を記し、残る二十九人を伊地知弥右衛門ら十一名の人数に分けて列記する。十七日夜に米津へ到着したので飯米を引き渡してほしいと求める。伊地知杢右衛門尉から村田郷左衛門尉・猪俣猪右衛門尉宛。副本は加久藤地頭役屋に所在すると注記する。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 760 小原織部取払留
重政付衆中の小原織部佑取払帳から、諸衆の飯米として真米一石八斗を出水で支給した記録を載せる。対象は正月十六日夜から十七日朝までで、十七日夜分からは飯米を差し引く旨を記す。江平清右衛門尉宛で、後続記録は二十一日条にあると注記する。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 761 某指出
馬関田からの人数を人躰十人・夫一人と記し、野村三郎兵衛尉と斎藤五兵衛の主従各二人を挙げ、合計十三人とする指出。正月十七日付で、年の丑には寅かとの注記がある。正文は馬関田曖中に所在すると記す。同内容の765と対照できる。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 762 有川貞亮覚書
江戸を発して道中を急いだが、駿河で大雨に遭い、阿部川・大井川を渡れず両日滞留したと記す。駿河以後は少人数の手回りとなり、右筆衆不在のため与力役が右筆役も勤めた。夜通し進み、供衆が伏見・大坂で順次追いついたこと、乗船して島原へ向かったことを述べる。欠字の人名・語句は補わない。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 763 伊地知季安記事
前日の昼頃からの大雨で阿部川・大井川が増水して渡れなくなり、供の士相良兵右衛門祐秀が徒歩で試みに渡って瀬踏みしたと記す。詳しくは西藩野史にあると注記する。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 764 緒方主殿日記
十七日、五枚帆船の受渡しがあり、人数は安楽縫殿介を主取として出船し、久玉へ着津したと記す。緒方自身は賄役に留め置かれてその船には乗らなかった。兼屋は長崎の宮之浦の三の口に一泊した後、十七日に出船して天草久玉へ到着し、船中で一泊したと記す。舟路は八里。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 765 某指出
馬関田からの人躰十人に続いて「在壱人」と記し、野村三郎兵衛尉・斎藤五兵衛の主従各二人を挙げ、合計十三人とする。正月十七日付で、年の丑に寅かとの注記がある。所在は馬関田曖中。同内容の761では該当箇所を「夫壱人」とするため、原記載の違いを残して対照する。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 766 某覚書
寛永十五年正月十五日と記して、光久が江戸から下向する途中、大雨で増水した大井川に足止めされた際の祐秀の働きを述べる。伊勢兵部少輔が若者に瀬踏みを命じると、二十三歳の祐秀が渡河し、たびたび御前で比類ない働きとして賞されたとする。祐秀は少監物丞・兵右衛門と記され、正文は長倉七郎左衛門に所在するという。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 767 川上久国書状
有馬では当面城攻めがなく、十四日から天草へ人数を順次渡しているとの情報を伝える。十四日付書状への返答として、黄門の気色は変わりなく、高崎伊豆守が上洛するので口頭で聞くよう述べる。雑説や伊東殿の内通の噂にも触れる。船五、六艘と米調達、物奉行への相談、上方での借銀がないことなどを記す。正月十六日付、仁蔵…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 768 川上久国書状
琉球米を積んだ船を出水へ回すよう堅く指示する。有馬の陣まで船を引くと兵糧が間に合わないため、少しでも急いで回航するよう命じ、上荷を一部下ろして船を軽くすることを求める。荷下ろしには頴娃・指宿・山川から一、二人ずつ出会って立ち会うよう定める。正月十七日付。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 769 川上久国書状
軍衆と水手が合計三万近くになり、兵糧が続かず手持ちの米も少ない状況を伝える。先に二番立の者の帰還を検討し、後続人数を呼び留めるよう相談する一方、有馬城攻めが急に始まる場合への備えも必要とする。当面は城攻めの沙汰がないため先発人数を戻すことが重要と述べ、関係者間の協議を求める。正月十七日付。米数量など…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 770 川上久国書状
加治木の番は蒲生・山田・吉田の衆が勤めていたが、島原への出陣により人数がなく心許ないため、帖佐を加えたと伝える。四か所が相談して共同で番を勤めるよう命じる。正月十七日付、四地域の曖中宛。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 771-1 伊地知季安記事
昨日の大雨で阿部川が増水して渡れず、この日、世子が公に書状を送ったと記す。続く光久書状の前置きに当たる短い記事。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 771-2 島津光久書状
九州大名らが十二日に暇を得て出発する中、自身は伊勢貞昌を通じて年寄衆へ申し入れ、十三日に登城して暇を得て十四日早朝に出発したと報告する。十六日夜に駿河府中へ着いたが阿部川の増水で十七日は滞留し、渡れ次第夜中でも出発する意向を示す。国元の人数は有馬へ向かわせるよう求め、自身の出陣には高麗以来の先例に従…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 772 島原軍衆人数差出留
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 773-1 記事
平塞録を引き、十八日に上使衆が書付をもって諸大名へ上意の趣旨と道造りなどの事項を触れたと記す。続く773-2の達しを導入する記事。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 773-2 幕府上使衆達
上意を筑後守に伝え、諸勢が申し合わせて抜け駆けをせず、柵を第一・築山を第二としてから仕寄道具を扱うよう定める。道造りは一万石につき一人を出し、石火矢・玉薬の貸与と鋳物師による玉の鋳造を指示する。仕寄の張番に入念を求め、唐船来着に伴う引船について自方の船は出さないとする。寄手の築山一か所につき百目筒二…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 773-3 記事
細川越中守忠利がこの日、城州伏見に到着したと記す短い記事。詳細は二十六日条を参照するよう注す。前の幕府上使衆達と後の川上久国達書とは別文書。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 774 川上久国達書
松平伊豆守信綱の書出に基づき、攻城用の柵板二、三千枚を調達するよう出水曖衆へ命じる。長さ四尺四、五寸、幅三尺四、五寸、厚さ二寸内外を目安とし、何でもよいとする。長崎の表記に嶋の校注があり、板が調い次第送ること、急用なので削らないままでも差し支えないと指示する。引用の書出は正月十四日、久国の達書は正月…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 775 川上久国書状
軍衆は二万ほどの割当だったが各自が大勢を召し連れたため、水手を合わせ三万ほどとなり、米は五千石しかないと伝える。一か月分の兵糧のうち二十日分は既に渡しており、人数を減らすか、肥前・肥後などから米を借りるかを物奉行と相談するよう求める。日向庄内・肝付・根占など後続の衆は呼び留め、残っている大勢の扱いも…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 776 黒川民部左衛門尉外二名連署手形留
谷山衆人躰百三十六人分の真米十二石六斗、小者七十九人分の赤米七石九斗を記す。天草出陣に伴い、正月十八日から二月七日までの二十日分の引飯米として渡すよう求め、御曖衆の差紙に従うとする。寅正月十八日、五代助五郎・野元種右衛門尉・黒川民部左衛門尉の連署。谷山士有馬氏所蔵の手形留。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 777 小川監物日記
小川監物が天草久玉に在陣した時の日記から、十八日以降は残山に登る関係の賦であり、加世田衆四十人と記す。短文中の原表記は「残山くゝヲ嶋のほりせき廻之賦なり」で、具体的な役務名の解釈は断定しない。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 778 小原織部取払留
伊地知重政付衆中の小原織部萬取払帳から、正月十八日の米請取と送夫への飯米支出を抜く。真米・赤米各一石五斗五升を載せ、赤米は主従三十一人の二十日分飯米とする。羽月から出水米之津までの送夫について、西田源七らへの七合五勺、西市之丞への一升、北ノ薗之後藤への一食分二合五勺、狩代の夫への八升などを列記する。…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 779 島原軍衆人数差出留
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 780 某覚書
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 781 緒方主殿日記
肝付兼屋の従臣緒方主殿の日記から、十八日に久玉へ上り、陣屋を造ったと記す一条を抜く。前の人名帳とは別の行動記録。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 782 北郷久加世別記
天草の「から弥」という在所へ陣を移すことになり、久賀からの指示を受けて久加が陣場を見合わせに赴くと記す。吉利下総・土持権頭・皿良善介が同行し、正月十八日にから弥へ移った。前文は十六日の久玉着津条、後文は十九日条にある旨の注が付く。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 783 川上久国書状
新納忠清らの有馬渡海について、船不足なら先に天草へ渡り、千人が揃わなくても大口衆などを先行させるよう求める。吉田次郎兵衛の使者派遣、玉薬・兵具・大鋸大工の手配、出水の物奉行・船奉行らとの連絡を指示する。十三日の天草久田間着船を喜び、山狩と地下衆によるキリシタン探索を徹底し、捕らえた者を杖で問い相談す…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 784 川上久国書状
島原出陣に伴って出水へ回す船について、別の場所に隠している船があれば、船頭だけでなくその浦の曖衆・役人にも咎を科すと告げる。各浦を取り調べ、早く出水へ着船させるよう命じる。正月十八日付、片うら・茄籠・喜入・指宿など沿岸各所宛。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 785 川上久国書状
兵糧が不足するため、別紙で示す外城衆を天草へ渡さず、出水に留め置くよう命じる。すでに渡海した分はやむを得ないが、まだ残っている者は留め、その様子を追って知らせるよう求める。正月十八日、出水の岩切六右衛門・川上彦左衛門宛。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 786 川上久国書状
野尻・綾・高岡・穆佐・倉岡・高城・山之口、財部・都之城・末吉・松山・志ふし・恒吉・百引、串良・始良・大姶良・鹿屋・高山・根占・佐多の書付を添える。島原・天草宛の書状は到着次第急送し、島原宛は当地に滞在する野州老の使者に早速持たせるよう指示する。正月十八日付、出水曖衆宛。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 787 川上久国書状
黄門の病状を案じた出水からの見舞いに対し、次飛脚が今朝到着し、東郷肥前守に披露したと伝える。四日以来の息苦しさや横になれない様子、琢庵の診察、元日の野州老との面会後の変化、粥の摂取量と咳について詳報する。追書でも昨晩の食事と、汁・菜は食べなかった旨を当番平田主殿助の話として記す。変化があれば追報する…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 788 川上久国書状
野州老と松平伊豆守との面談や江戸への御礼に関する連絡を受け、吉田次郎兵衛の出発時に伝える旨を述べる。天草への順次渡海、軍衆法度の交付、板倉・石谷の条書返上を扱い、有馬・天草の急用を物奉行・船奉行・市来八左衛門らと調整するよう求める。長嶋・高尾野・阿久根での道具や大鋸大工の手配にも触れる。末尾では死去…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 789 川上久国書状
軍衆二万ほどの予定が水手と合わせ三万ほどになり、すでに二十日分を渡した米が不足すると警告する。人数を減らすか肥前・肥後で米を借りるかを急いで物奉行と相談し、日向庄内・肝付・根占などの衆を留め、余分な大勢を帰すことも協議するよう求める。上使に進める米にも触れ、物奉行が出水の仕事を仕上げられない状況を伝…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 790 立花忠茂書状
島津家久からの書状と蜜柑一箱・鰤一つの贈物に礼を述べる。昨冬以来当地に在陣しており、無音であったことを詫び、キリシタン方には現在変わった動きがないと報じる。正月十八日付、立花忠茂の花押。正文は文庫に所在し、後編五2194号と同文との注が付く。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 791 細川立孝書状
島津家久からの書状と白砂糖一桶・鰤二つを島津久元が持参したことに礼を述べ、家久の様子を尋ねる。有馬に在陣しているため音信が延びたことを詫び、使者に事情を伝えさせるとする。正月十八日付。署名は立允で立孝の校注があり、正文在文庫、後編五2195号同文の注が付く。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 792-1 記事
平塞録から、十九日に上使衆が二か条を申し渡した旨を記し、次の達文を導く。本文の「二ケ條」付近には書付脱かという校注が付く。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 792-2 幕府上使衆達
石火矢・玉薬は中坊と鈴木の両所の手形によって引き渡すこと、唐船が着く場所には両者側の案内者を置くことの二条を命じる。前の記事792の1が上使衆の申渡しとして導いている達文。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 793 伊地知季安記事
田代衆の牧田彦左ヱ門ら十人が十一日に田代を発ち、この日に天草へ到着して番手を命じられたと記す。十一日条も併せて考えるよう参照を付す。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 794 島原軍衆人数差出留
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 795 伊地知季安記事
十九日、飯野士の谷口大蔵卿・柏木縫殿助の供夫二人が米津へ到着したと記す短い記事。前の人数帳にある飯野衆の後着者を補う。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 796 天草立軍衆賦
出水米之津と黒之戸で取り決めた天草出陣の軍勢を、鹿児島衆・諸外城衆合わせて11,268人と記す。内訳は人躰5,235人、卒者・夫丸6,033人で、野州老島津久元と山田民部少輔有栄が別に召し連れた衆は含めない。寅正月十九日付。後編五1197号の一部とほぼ同文とする注が付く。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 797 緒方主殿日記
十九・二十日は逗留したと記し、出水米之津と志ぐ戸で定めた天草出陣人数を掲げる。久元3,707人、久賀3,609人、久加3,692人、浮衆・船奉行と廻りの分245人、鹿児島兵糧渡衆主従15人とする。総計表記は10,268人だが、組別人数および人躰5,235人・卒者夫丸6,033人の和はいずれも11,2…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 798 浜田半左衛門覚書
谷山衆が出陣する際、地頭が衆中を召し連れ諏訪方大明神で首途すること、召し連れた衆中が旧例・吉例であることを述べる。先年の島原一乱でも地頭代東郷長左衛門が衆中を召し連れた例を挙げ、旗竿を申し請けた事情を記す。丑三月二十四日、濱田半左衛門署名。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 799 榊原職信書状
島津家久からの書状と見舞いの心遣いに礼を述べ、当地に変わったことはないので安心するよう伝える。追って音信を送ると結ぶ。正月十九日付、榊原左衛門佐の署名は職元で職信の校注が付く。正文在文庫、後編五2200号同文の注がある。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 800 榊原職直書状
島津家久の書状と見舞い、左衛門佐への心遣いにも礼を述べる。城はまだ落ちていないが何事も油断せず対応しているので安心するよう伝え、詳細は島津久元・三原重庸から報告されるとして省く。正月十九日付、榊原職直花押。後編五2201号と同文とする注が付く。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 801 松平行隆書状
島津家久からの使札に礼を述べ、様子を尋ねる。一揆の籠る城について、松平信綱・戸田氏鉄が到着し、ゆるゆると処置する意向であると伝える。島津久元と三原重庸はたびたび面会して万事を相談しており、詳細は両人から知らせるとする。端書では籠城者を頓て平癒させる見込みを述べる。正月十九日付、徳恒署名に行隆の校注。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 802 天草立軍衆人数賦
803号文書と同文のため本文を省略した旨の編者注だけを載せる。軍衆人数や差出・宛先の実文はこの項には再録されていない。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 803 天草立軍衆人数賦
出水米之津と黒之戸で定めた天草出陣人数を、久元3,707人、久賀3,609人、久加3,692人、浮衆・船奉行と廻り245人、兵糧渡衆15人、総計11,268人とする。人躰5,235人、卒者・夫丸6,033人に分け、先に島原へ渡った衆や諸湊から直接渡海した者、未着者など、人数不明・除外の事情を細記する…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 804 川上久国書状
島原表への出陣に伴い出水に赴く市来八左衛門に、諸事を当地へ逐一相談していては遅れるため、物奉行と相談して直接調えることが肝要だと伝える。そのため書物を送っておくとする。正月十九日付。欠字部分は推測で補わない。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 805 平塞録
平塞録から、二十日に薩摩の家老三原左衛門佐配下の忍びが城内へ入ったと記す一条を抜く。人数や人物名の記載はない。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 806 山元甚左衛門訴状
申立人の曽祖父に当たる山本左近について、島原のキリシタン一揆時に出水から選ばれた十人に加わり、忍びとして働いたと述べる。三原左衛門佐の判紙だけでは他国の陣場を通りにくいため、松平伊豆守の判紙を得て三原・下野・山田の指示で夜昼奉公したとする。落城時には射通しの弓で多数を射伏せたと主張し、証文や判紙を提…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 807 児玉利泰覚書
元日夜、上使が薩摩には昔から忍びの名人がいると聞いたとして召寄せを求め、左衛門佐が山田民部少輔へ連絡した経緯を記す。出水から五、六人が来て城近くへ忍び入り紙を付けたが、他大名から薩摩の召寄せを控えるよう訴えが出た。自分たちの人数で一攻めするという話に上使が立腹して城と陣の間の柵を結わせ、薩摩衆が天草…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 808 川上久国書状
十八日付書状と江戸からの案文を出水衆が持参したと伝える。天草へ渡った人数が山狩をしてもキリシタンはいなかったが、好天のため探索を続けるという報告を受け、加勢の相談には吉田次郎兵衛を使者として派遣する。黄門は息苦しく横になれず、食も落ちていると報じ、詳細は次郎兵衛から聞くよう述べる。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 809 川上久国書状
黄門見舞いの使者に礼を述べ、夜の息苦しさで横になれず食も著しく落ち、琢庵が上洛を望むため一人での対応を案じると伝える。有馬の城への攻めについては、オランダ船一、二艘を寄せて石火矢を遠射させたが城の損傷は見えないと報告する。薩摩側は天草へ渡り十八日から山狩をしたがキリシタンはいないという。加勢の指示は…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 810 某覚書(川上久国覚書カ)
黄門の咳・横臥困難と十八~二十日の粥や膳の摂取量を詳記し、琢庵の診察と上洛希望、松平伊豆守らへの病状連絡を扱う。軍勢の兵糧が一か月分しかないことに驚き、後続人数の留置、江戸廻米や山川の琉球船を利用した米の出水回送、一色杢頭からの借米などを協議するよう求める。馬の削減、上使への米・大豆の贈答、天草へ三…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 811 川上久国書状
十七日付書状を受け、山田民部少輔の有馬使者派遣後の指示や三老間の相談、吉田次郎兵衛の使者派遣を伝える。黄門の病状が悪く、看病と使者対応が重なって諸事の細かな調整が難しいと述べ、霜月以来の腫物・痰血・吐血、四日頃からの息苦しさと食事低下を報じる。市来八左衛門・川越三右衛門との連絡を求め、軍衆・水手三万…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 812 某覚書(川上久国覚書カ)
豊後守・下野守ら談合衆と士に寒中の辛労をねぎらうこと、軍衆のため種々の祈願を行っていること、濫妨・狼藉を厳禁することを伝える。また、加勢を申し付ける必要があるか確かめて報告するよう求める。正月二十日、吉田次郎兵衛が使者となる際の伝達事項。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 813 杢田十左衛門日記
出水滞留中の正月二十日、喜入吉兵衛付衆の到着と、三原左衛門佐からの注進次第出船する旨を記す。落城間近との取沙汰や、南雲・市成・東郷三人の島原行、三原与力野元源左衛門と伊集院衆帖佐小兵衛の戦死注進を載せる。自力立以外には一人一日黒米五合を支給するとし、二十一日に書き留めたと結ぶ。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 814 田代衆中島原立之覚
同二十日に出水衆中と参会し、山に登って五、六日ほど人狩を行ったことを記す。山名や対象者の具体的記載はない。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 815 伊地知季安記事
市来八左衛門宗友を中取、岩切信尭・川上久康を物奉行、平田宗直・是枝快温を船奉行として米津に詰めさせたことを記す。川越三右衛門重能は京泊に詰め、舟手・兵糧を担当する。この日、高原士某が供夫一人を伴い米津に到着したと付記する。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 816 天草立人数書上
谷山衆有馬氏所蔵の、寛永十五年寅正月二十日肥前天草立人数の名簿。西田貞右衛門、有馬千兵衛純堯、東郷長左衛門重尚らの名を列記し、東郷長左衛門内の吉利覚右衛門も載せる。夫丸を含む総人数の集計はない。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 817 伊地知季安記事
この日、肝付兼屋らが久玉に逗留していたことは前日の日記にある、と参照を示す短い編者記事。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 818-1 記事
二十一日、小笠原信濃守が1,800人で島原城加番に到着したと記す。十七日夜に500人で入津した久留島、本丸の小笠原、二ノ丸の久留島、三ノ丸の下曽根三十郎による守備と、城門・愛津口での手形検査を述べる。松倉家に多数の武具と鉄炮三千挺があると上使に伝わり、諸家へ分配するため員数書出しを命じた経緯を載せる…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 818-2 幕府上使衆書出写
島原居城の石火矢・長筒・異風大小の員数を掲げ、小計236挺と記す。役に立たない筒、籠城中の損物、上方へ送った筒などを続け、合計1,159挺を記すが内訳との整合には疑義がある。さらに有馬で鍋嶋・細川・松平ら諸家へ渡した石火矢、玉、火薬の内訳を載せる。正月二十一日付、田中・岡本・多賀の三名を記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 818-3 記事
上使が城へ矢文を送るため諸家の射手を選び、長岡佐渡の仕寄から射込ませた経緯を記す。三十人のうち二十五人が距離を理由に辞退し、細川・黒田・鍋島の五人が射たという。城から射返された矢を調べると、細川家の北里次郎左衛門が自分の矢の羽に刻んだ名があり、上使と眞源公が弓勢を賞した。その後の矢文も北里が射込むこ…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 819-1 東郷長左衛門尉外二名連署覚
人躰十四人、夫丸五人、合主従十九人が出水米津へ赴くことに伴い、その飯米を手形の内から引き除いて確かに受け取ったとする覚。有馬・堀・東郷の三名が連署し、西田・榎田・山口へ宛てる。後日のための受取証明として作成された。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 819-2 江藤権六・有馬千兵衛尉連署指出
天草出陣に際し、人躰二十八人、夫丸十九人、主従計四十七人の引飯米支給を米渡方奉行に求める。有馬千兵衛尉と江藤権六の連署。脇に人躰二十八人分の真米二石一斗一升一合八夕六才、小者夫十九人分の赤米一石四斗三升四合八夕八才を記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 820 小原織部取払留
加久藤の小原織部取払留から、出入の賄として内蔵右衛門尉に真米二升五合、拾郎兵衛尉に一升五合、金拾郎に二合五夕を渡した記事を抜く。正月十六日または十八日の晩から二十一日朝までの賄や、長野正右衛門に供して出水へ往来した者の支給を記し、加久藤から米之津までの合真米一斗七升五合等を載せる。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 821 国分賦所日記
出水米之津へ出立した人々の消息を聞くため飛脚を遣わし、書状も持たせたと記す。飛脚は正月二十一日の八つ時頃に出発して帰参し、その仕銭五百文を上野九右衛門の手前から差し出した。夜昼急いで往来させる旨も記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 822 川上久国書状
黄門が朝六つ過ぎに目覚め、痰が上って苦しみ大量に吐血したため琢庵を呼んだと急報する。喉の腫物の痛みと食事低下があり、久国は回復が難しいと案じる一方、黄門は容体が危急となっても軍衆を引き揚げさせない意向を示したと伝える。付記では、松平主税助・伊東祐久の富岡城警固と薩摩への上津浦番手の命令、物頭五人の配…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 823 緒方主殿日記
同二十一日、天草の高根という場所へ到着して陣を取ったと記す。久玉から六里の距離とする。典拠は肝付兼屋従臣緒方の日記。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 824 川上久国書状
松平主税・伊東大和守が富岡の番であるため黄門から書状を届け、久国も伊東家老へ連絡したと伝える。宛先の五名を物頭として派遣し、用向きを伝えるよう命じたという。黄門は今朝大量に吐血して容体が悪く、必要な連絡は出水の市来八左衛門を介するよう求める。万一の場合も軍衆を引き揚げず奉公するという黄門の意向を重ね…
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 825 川上久国書状
822号文書と同文のため本文を省略した旨の編者注だけを載せる。書状本文や宛名はこの項には再録されていない。
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 826 某書状
黄門の容体が悪いため有馬・天草へ書状を遣わしたので、確認のうえ急いで送達するよう出水の曖衆中へ求める。署名はなく、正月二十一日付。