樺山久高譜
年月日未詳 / 冊子 876頁
三州の検地・境界確定後、秀吉の四月十二日付朱印状を受けた義弘が朝鮮を発ち、播州・難波を経て京都で秀吉に謁見した経過を記す。六月二十九日には三州半の領知を認める朱印状を受けた。 義弘は大隅へ下向後、再び朝鮮へ渡り、樺山久高は帰朝と再渡海の双方に供奉したという。久高の軍務と義弘の移動を結ぶ人物譜。
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年月日未詳 / 冊子 876頁
三州の検地・境界確定後、秀吉の四月十二日付朱印状を受けた義弘が朝鮮を発ち、播州・難波を経て京都で秀吉に謁見した経過を記す。六月二十九日には三州半の領知を認める朱印状を受けた。 義弘は大隅へ下向後、再び朝鮮へ渡り、樺山久高は帰朝と再渡海の双方に供奉したという。久高の軍務と義弘の移動を結ぶ人物譜。
年月日未詳 / 冊子 936-937頁
樺山久高譜は、慶長九年の島津忠恒上洛に久高が供奉し、忠恒の陸奥守任官と八月帰国を見届けたと記す。京都で屋形用地を受け取り、門・堀・建物を整備して居所を造営した経緯を詳述する。
(慶長十年)正月十日 / 冊子 2頁
島津義弘(惟新)が樺山久高へ、久高が望んだ肩衝について、山口殿の内覧前なので直ちに他所へ出せず、下向時に相談すると回答した書状。在京衆の普請での辛労をねぎらうよう頼み、山口殿宛書状を添えて適任者に太刀を持参させること、詳細は伊勢平左衛門尉が伝えることを述べる。
慶長十四年三月 / 冊子 207頁
慶長十四年三月、島津家久が樺山久高に与えた判物。琉球人との交渉による解決を優先し、現地の言語・習俗に通じた者を確保して旧来の諸役儀を調べ、首里城接収、兵糧確保、住民の扱いに配慮するよう命じた。
(慶長十四年)三月四日 / 冊子 208頁
三月四日、島津家久が樺山久高に、今回の琉球渡海は困難が多いので法度に従い惟新と相談し、兵部少輔とも十分に協議して慎重に軍務を進めるよう求めた書状。
(慶長十四年)三月廿日 / 冊子 211頁
三月二十日、島津家久が樺山久高に、出帆後の到着報告を待っていること、加世田永良部らを派遣したこと、琉球へ無事着岸すれば早急に帰帆の要点を知らせること、軍衆への慰労品等を伝えた書状。
(慶長十四年)五月二日 / 冊子 218~219頁
五月二日、島津惟新が樺山久高に、三月十五日付の注進状が四月二十九日に届き、諸船が無事着岸し大島での事も支障なく進んだことを喜び、遠海での辛労をねぎらい、琉球の処置も順調に済むだろうと伝えた書状。
(慶長十四年)五月三日 / 冊子 219頁
五月三日、島津龍伯が樺山久高に、渡海後の無事と大島着岸、上方への注進を喜び、琉球への軍衆配置と降伏処置を了承し、国中が喜んでいるとして一同の辛労をねぎらった書状。
五月三日 / 冊子 219頁
五月三日、島津龍伯が樺山久高に、渡海後の消息がなく案じていたところ、船団が無事大島へ着岸し現地も平穏との報告を喜び、上方へも伝えるので以後も早急に注進するよう求めた書状。
十月二日 / 冊子 245頁
十月二日、本多正純が樺山久高に、島津家久が琉球から無事帰国したことを喜び、現地での働きをねぎらい、家久に供して上国する際には御目見えを取り成すと伝え、太刀・銀子を贈った書状。
(慶長八年)九月二日 / 冊子 905-906頁
比志島国貞が将軍への拝謁と進上品を報告し、秀頼への進物は未決と伝える。休復の助命嘆願が認められ、遠国ではなく駿河国久能に置かれることとなり、島津家の働きとして世間の賞賛を得たと知らせた。
(慶長十一年)六月六日 / 冊子 76頁
島津家久譜の記事。慶長十一年六月六日、麗陽城楼門前の板橋が新たに完成し、渡り初めとなった。同日、伏見にいた島津忠恒が、国元の家老島津図書入道紹益・樺山権左衛門久高へ自筆の書を下し、来秋には必ず大島を討つので決して怠ってはならないと命じたことを記す。
(慶長十六年)十一月廿四日 / 冊子 355頁
慶長十六年十一月二十四日付の島津家久書状。本書は別番号文書と同文のため本文が省略され、日付と所在注記のみを確認した。
天正四年八月 / 冊子 488頁
高原城攻めの初対陣で、城内の勇士落合豊後守が若い樺山久高へ弓を引いた。傍人が、美しい若者を殺して得るのは一時の名声にすぎず後世に非道の評判が残ると諫めたため、落合は弓弦を切り、久高は命を救われた。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年閏八月十三日の肥後甲佐・堅志田城攻めで、樺山久高が城門へ進み、防戦する敵兵と交戦した記事。高田中軍兵衛・森山主計が各一人を討ち、高崎大蔵兵衛正顕が首級を挙げるなど、久高配下の戦功を具体的に列挙する。
年月日未詳 / 冊子 196~197頁
樺山久高は島津忠長・伊集院忠棟らの軍に加わり、七月十九日の筑紫広門の居城攻撃で、城門を開いて打って出た敵と白兵戦を交えた。久高は大刀で斬りかかる敵に応戦し、左手などに複数の傷を負いながら戦い続け、敵兵を討ち取ったという。岩屋城ではなく、筑紫広門の居城をめぐる具体的な戦闘記録である。
年月日未詳 / 冊子 280頁
豊州開陣の際、樺山久高が島津歳久らに従って退路を進み、白根城で敵の追撃を受けた記事。城兵と協力して敵を退け、夜間に次の城へ移るまでを記し、撤退軍の小規模な防戦を伝える。
年月日未詳 / 冊子 544頁
肥前名護屋で島津久保が樺山久高を召し出し、朝鮮従軍を命じるとともに「樺山権左衛門尉」と改名させ、知行を与えた経緯を記す。島津義弘・久保軍への編入と、出兵を契機とした家臣の登用・身分形成が具体的に分かる。
年月日未詳 / 冊子 737頁
樺山久高が、唐島で病死した島津久保の遺骸を薩摩へ送るため、平田太郎左衛門尉とともに剃髪して遺骸に付き添った経過を記す。 福昌寺で葬送を終えた後、久高は翌年冬に再び朝鮮へ渡り、船中で越年して高麗岸へ着き軍務に復帰した。
年月日未詳 / 冊子 132頁
『樺山久高譜』の項目名のみを掲げる。独立した本文はなく、直後のNo.295「南原城攻図」に接して配置されている。
慶長三年十月朔日 / 冊子 254頁
『樺山久高譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城で樺山久高が敵兵と一騎討ちした経過を記す記事。伏兵の中から現れた身長六尺ほどの江南の強敵と組み合い、久高は負傷して力尽きかけた。危急の際、郎従田實三之丞が槍で敵の頸を突いたため、久高は勇気を取り戻してその首を斬獲したとする。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
樺山久高譜が朝鮮撤収時の救援行動を記す。退陣期限が示された後、小西行長が順天で包囲され、義弘の救援船団も激戦に入った。島に残された五百余人を救うには釜山へ援船を求める者が必要だとして、久高は吉田大蔵少輔・竹内兵部少輔らと小舟で包囲を抜け、夜間に釜山へ到達する。援船を導いて残留者を収容し、自身らも無事釜山浦へ帰着して、その経過を義弘・忠恒へ報告したとする。
年月日未詳 / 冊子 359頁
慶長四年、樺山久高が市成を領していたころ、島津忠恒が伏見で伊集院忠棟を討つと、都城の忠真は父の仇を報じるため十二の外城を構えた。龍伯は国中の混乱を恐れて庄内周辺の要地に諸将を配し、久高も志布志に置かれて国境警備と戦闘にあたり、のち樺山家の家督となったことを記す。
(慶長四年)七月廿八日 / 冊子 409頁
樺山久高が平田太郎左衛門尉に示した覚書で、城内の普請、間仕切りや竹坂、諸口の番衆、板城戸、城近辺の山林伐採禁止、弓鉄砲、城屋敷、蔵米・財部・福島に関する事項などを箇条書きにする。普請と警備・物資管理を怠らず、諸事を監督するよう命じる。
慶長八年六月廿六日 / 冊子 899頁
樺山久高と鎌田政近が連署し、京泊から入津する唐船に関して、公方への礼物を理由に商人へ不当な買付けを強いてはならず、川内の唐人を含む当事者の自由な交易を妨げないよう命じる。違反者は厳罰とした。
慶長十年乙巳三月廿四日 / 冊子 6~7頁
慶長十年三月二十四日、徳川家康・秀忠父子が伏見へ上洛した際、島津忠恒(家久)の参覲が遅れ、樺山久高が憂慮して奔走したが、到着後は遅参の咎めなく家康・秀忠から厚遇されたことを記す譜記事。その後、忠恒は大御所への御目見と四月二十五日の参内供奉を済ませ、帰国命令を受け難波から船出した。久高も国分・帖佐まで供奉し、堅利で父の樺山紹劍と二年ぶりに再会したのち、鹿児島へ参候した。
慶長十年七月十七日 / 冊子 24頁
樺山久高と鎌田政近が田中伊豆守に、前年以来の長い在京勤務に加え、物方の代官として引き続き留まることを承諾した忠勤を賞した連署感状。今後恩賞を与えるとの上意を伝え、引き続き疎略なく勤めるよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 137頁
慶長十二年、家老樺山久高が本田六右衛門尉に代わって出水の境目警固を命じられ、再三辞退したものの任に就き、所領・屋敷を与えられて移住した経緯を記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 206頁
樺山久高譜の記事。琉球が旧来の朝貢規定に従わず度重なる使節にも応じなかったため征伐が企てられ、樺山久高を大将、平田増宗を副将として渡海させ、軍法の条目を授けたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 210~211頁
樺山久高譜の記事。三月二日の山川出帆後、暴風で船団が分散しながら奄美諸島へ進み、現地勢力との交渉・戦闘、上陸、荷物・船の確保を重ねて琉球へ向かった渡海軍の行動を記す。
(慶長十四年)四月五日 / 冊子 216~217頁
四月五日、樺山久高が喜入久正に、琉球王が王城を下り降伏したこと、王以下の有力者を人質として渡海させる旨を申し渡したこと、都島・久米島への人衆派遣の可否、翌月の帰登見込みを報告した書状。
(慶長十四年)五月五日 / 冊子 219頁
五月五日、樺山久高が島津家久に、琉球国は残るところなく平定し、王も上国する予定で順風を待っていること、宮古島方面から来た船の乗員を同行させる計画などを報告した書状。
慶長十六年二月十一日 / 冊子 324頁
慶長十六年二月十一日、樺山久高・比志島国貞が連署した領内統治の条目。奉公人・百姓の規律、祭礼・耕作・婚姻、人口移動、役人配置、刑罰、召使、酒造、隠田などを定め、違反者の処罰と相互監督を命じる。
慶長十六年三月十五日 / 冊子 328頁
慶長十六年三月十五日、樺山久高・比志島国貞が、前年に琉球の池城が遣唐使として渡海した際、船主が無事帰朝させた働きを賞し、今後いっそう忠勤するよう命じた連署状。
慶長十六年九月十日 / 冊子 342~343頁
慶長十六年九月十日、琉球の各島から毎年納めるべき上布・下布・芭蕉布・綿・莚・皮などの品目と数量を列記し、樺山久高らが連署した納物目録。
慶長十六年九月十九日 / 冊子 344~345頁
慶長十六年九月十九日、樺山久高らが連署した琉球統制の条目。唐江交易、由緒不明者・女性・私的従属、寺家、琉球人売買、日本人との渡海、京判外の商船、法令違反者の処罰などを定める。
年月日未詳 / 冊子 823頁
寛永元年十一月、島津家久が息子忠元・久直と夫人を伴って江戸参勤へ出発し、獅子島に船をつないで吉日と順風を待ったことを記す。この時、樺山久高が美濃守に任じられて武具を賜り、息子休太郎も安芸守に任じられたとする樺山久高譜の記事。
(寛永四年)四月十三日 / 冊子 33頁
樺山久高が伊藤壱岐守の書状と条書を送り、朝鮮方面で多数の人々が乗船・退避した折の働きを詳述する。指宿らが船を着岸させ、人員を残さず収容した奉公を賞し、当時の褒美について働きかけるよう求める。
(寛永四年)八月廿七日 / 冊子 42頁
樺山久高が、朝鮮方面からの帰帆時に指宿拾郎右衛門が迎えの二艘を率いて着船し、後続十一艘や乗り遅れた者まで確認して全員を乗せ、船団を無事に出航させた働きを賞する。知行などの褒美がなければ申し出るよう勧める。
(寛永五年)十二月朔日 / 冊子 73~75頁
樺山久高が、自家と父祖の軍役・知行・返地・加増の経緯を列挙し、右馬頭戦死後の処置、敷根境目の御座、春毛村・濱村などの領地、親族の奉公や処罰をめぐる事情を申し立てる。旧来の奉公と知行処分を根拠に、家の処遇を再考するよう求める長文申状。
寛永六年九月廿一日 / 冊子 111~113頁
樺山久高が、かつて差し出して蔵入となった所領や、その後の上地・返地・加増・移封の経緯を述べ、他家と同様の旧領返還を求めた申状。出水への召移し、二百石・八百石の加増、鹿児島への移住なども説明する。
正月元日 / 冊子 52頁
樺山久高が新年を祝し、川幡新左衛門への知行四百石の目録を月末に下すという旧冬の内意を伝えた書状。在所は現住地に置き、名については五大村の望みに応じて処置するよう指示する。
正月元日 / 冊子 106(本文はNo.237・冊子頁94参照)頁
樺山久高が権執印に宛てた書状。本文はNo.237と同文として省略されている。参照先によれば、京都の不慮の錯乱で諸士が頼る先を失うなか、匠作への使札と援助を依頼し、詳細を進藤筑後守に託す内容である。
七月廿八日 / 冊子 113頁
樺山久高の覚書。普請、竹尻・板城戸、諸口番衆、弓・鉄炮、城屋敷、鹿屋周防介が担当する八木、富隈御蔵米、秋月殿の財部への移転、福島周辺の諸事など、領内の軍事・普請・配置・蔵米関係の懸案を箇条書きにする。
十月六日 / 冊子 186頁
筑後へ派遣した者が帰着し、幕府上使が二日に柳河、三日に高瀬へ到着し、当日は佐敷付近まで進み翌日には当地へ着く見込みだと知らせた急報書状。
天正四年八月十九日 / 冊子 489頁
天正四年八月十九日の高原城合戦に従軍・軍労した者を、竹崎表・霧島越山路などの大将と各地域別に列挙する交名。北郷時久、新納忠実、上井覚兼、樺山久高、柏原勝監らの名を載せ、後の戦死地などを注記する。
天正四年八月 / 冊子 500~502頁
竹崎の白坂式部丞の内応を契機とする高原城攻めを記す。島津軍は諸口で激戦し、新納忠実が先駆け、樺山久高は落合豊後介に助命された。多くの戦死者を出したが、夜日詰めと断水で城兵を降伏させ、三山・温水・小林・須木も帰属、上原尚近を高原地頭とした。
年月日未詳 / 冊子 99~100頁
島津義弘の八代出陣後、堅志田城攻めに参加した樺山久高(紹剣)が自らの戦闘を記す。城際へ進んで敵武者と太刀を交え、相手の刀を押さえて討ち取り、城門・堀際で逃げる敵を追撃した。配下の働き、打物や太刀の扱い、負傷・討取りの瞬間まで細かく述べ、武将個人の近接戦闘を臨場感豊かに伝える自記である。
(慶長五年)十一月十五日 / 冊子 615-616頁
島津義弘(惟新)が樺山久高に対し、出水境の普請を油断なく進めるよう命じる。水俣までは黒田如水・加藤主計頭が兵を出しているが、出水は堅固に備えさせているので安心するよう伝え、しばらく音信がないため見回りの使者を送り、現地の様子を詳しく知らせるよう求める。
慶長七年六月三日 / 冊子 818頁
島津忠長・鎌田政近・比志島国貞・樺山久高が連署し、薩摩国川辺郡田部田村・鹿籠村内の諸地、合計百四十三石余を加増として宛行った目録。