近衛前久書状
年月日未詳 / 冊子 519頁
近衛前久が義久に、前年の薩摩下向時の厚遇を謝し、海陸の難路を経て二月末に帰洛したことを報じる。織田信長から使者・助成を受け、小姓の元服も主殿で執行された。約束の鞍鐙を用意したが路次不通で送れず、後便を求め、詳細は伊勢貞知から伝えるとした。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 519頁
近衛前久が義久に、前年の薩摩下向時の厚遇を謝し、海陸の難路を経て二月末に帰洛したことを報じる。織田信長から使者・助成を受け、小姓の元服も主殿で執行された。約束の鞍鐙を用意したが路次不通で送れず、後便を求め、詳細は伊勢貞知から伝えるとした。
(慶長二年)二月廿二日 / 冊子 89頁
石田三成が羽兵方へ、忠恒が着陣すれば長陣中の羽兵は帰朝するのがよいとし、上方から差し渡す諸勢は五月中旬から六月上旬に高麗へ着く予定だと伝えた書状。帰朝後は国元で支配を整え、京都へ上洛して秀吉に礼を述べること、小姓衆の扱いなどを指示する。
二月廿二日 / 冊子 89~90頁
石田三成が忠恒へ、二月中の渡海を勧め、上方から差し渡す諸勢は五月中旬から六月上旬に高麗へ着く予定だと伝えた書状。長陣後は小姓衆を連れて帰朝し、国元へ戻ったうえで上洛して秀吉へ御目見するか、国元の用務があれば先に帰国してから上洛するよう指示する。No.200本文内に島津義久の実名・法号はない。
(慶長二年)二月廿三日 / 冊子 90頁
安宅秀安が羽兵方へ、正月十五日付書状が二月二十二日に伏見へ届いたと報じた書状。忠恒の渡海後、五月中旬から六月上旬に諸勢が着陣するまでの間、長陣の羽兵は帰朝し、小姓衆を伴って上洛して秀吉へ御目見するか、国元の用務を済ませてから上洛するよう三成の意向を伝える。
(慶長三年)十二月五日 / 冊子 301~302頁
舟越景直が(慶長三年)十二月五日付で島津忠恒へ、自身の小姓を国元で召し使うよう推薦した書状。小姓は番船を奪取した際に一番乗りし、首級を挙げて船を捕らえ、さらに別船へ乗り移って働いたと述べ、掃部助らもその戦功を知っているとする。処罰を受けるような者ではなく、詳しい事情は伊勢弥九郎へ伝えたとして、島津義弘にも取り計らいを求める。
(元和元年)六月十六日 / 冊子 593頁
藤堂高虎が島津家久に宛て、前日に徳川家康が参内し、自身も供奉したこと、家康が機嫌よく安堵してよいことを伝える。徳川秀忠への目見えがまだ実現しないのは軽い咳気のためだろうと推察し、家久の出京を待って近日中に十分に語り合いたいこと、小姓衆による能興行を予定していること、詳細は対面で伝える旨を記した書状。
(寛永九年)七月廿八日 / 冊子 300頁
江田兼吉が、小姓一人を奉公に出すことの可否を伺い、騎士一人に付属させる鎧・鉄砲・弓矢・指物、夫丸・小姓・馬取、鞍道具・馬などの装備と供廻りを列記した差出。
天明七年二月(年は朱書) / 冊子 941頁/原整理番号 2569/整理ID 2569
太守が近く隠居して侍従へ政務を譲るとの仰せについて、矢野男吏が趣旨を伝えたが、老年でないため詳しい事情が理解できず不安が残ったので、岩下佐次右衛門も派遣され、家老中も特に深意を承知したと記す。早い時期に家の長久を考え隠居を決意した厚い配慮に感謝して安心し、その意図をくみ取るよう支配下へ伝えることを求める。請けは支配頭から申し出ることを、大番頭・御小姓頭番頭へ申し渡すよう命じる。二月付で安房・頼母・仲・主膳の四名が連署する。
2月(日不記、年不記);去ル申年の申渡への言及 / 冊子 284頁/原整理番号 396の1/整理ID 396-1
雑集中。外国船来航時の心得は去る申年にも申し渡したが、今回別冊のとおり改めて命じるとする。早鐘等の合図が鳴った時は各自定められた持場へ早く集まり、御小姓与番頭へ内馳出しを届けることを求める。合図がなくても定められた場所へ至り、自分の判断で他所へ功を求めに行けば処罰の対象になると戒め、大番頭・御小姓与番頭から組中・侍長等へ厳重に伝えるよう命じる。病気等で急変時に出役できない者は、その理由を速やかに軍賦役へ届ける。二月、但馬。「去ル申年」の年号は補わず、本文の船名表記「呉國船」は冊末目録の「異国船」と分けて疑義を残す。
8月五署;9月9日支配からの伝達注 / 冊子 383頁/原整理番号 543/整理ID 543
長州征討では先陣惣督が先に出軍し、後続軍も出馬する考えだが、兵糧・玉薬の海陸輸送と先陣への援軍を急ぎ、敵の動きによって後隊も繰り出すと伝える通知。外国事件も定まらず国元は厳重に備え、当分出陣しない者や遊兵も同じ軍法に従って備えるよう求める。軽挙せず忠節を尽くし、先陣以外の者が勝手に先へ加わる行為を禁じ、違反は先陣惣督から帰らせ軍律による罪科を科すという。若者には父兄・親族・朋友が教え、大番頭・小姓与番頭へも周知する。八月、摂津・帯刀・龍衛・但馬・式部の五署、九月九日に支配から伝達して承知したとの注。出軍・備えの方針と規律の命令で、実輸送量・処分実績は記されない。
天明六年閏十月 / 冊子 888頁/原整理番号 2467/整理ID 2467
宮之原通直は、今後、奥小姓の中から小納戸見習を命じられた者の座席を奥小姓の上席とし、格式は従前のままで六人分の賄料まで支給するとの仰せ出しを、関係者へ申し渡すよう命じる。
2月(申渡、年不記);末注:亥2月15日九州路差立 / 冊子 282~283頁/原整理番号 394/整理ID 394
雑集中。侍長として村田源右衛門・平田五兵衛・大迫新藏・右松十郎太を挙げ、続いて和田孫右衛門・種子島六郎・長崎早太・伊地知宗助を列記する。これらの者を三郎の上京に伴う供奉役に命じ、当分の勤方を申し渡すとする。二月、筑後、注は川上久封。末注は亥二月十五日に九州路へ差し立て、ほかに三重中小姓六十人も一緒に差し越し、伏見で三郎の上京を待ち受けるよう命じたと記す。列記八名と六十人は別に扱い、この日を三郎本人の出発日や伏見到着日として認定しない。
明治2年六月27日知政所(年は朱書) / 冊子 681頁/原整理番号 885の2/整理ID 885-2
従来は御小姓衆以上の初めての御目見等が済んだ後、それぞれ年輩により角入や前髪取の願いを申し出ていたが、今後はその願いを不要とする。奉公を勤める年輩となった者は、そのことを伝事方へ申し出るよう定め、関係先への周知を求める。朱明治二年己六月廿七日、知政所。角入・前髪取は原語のまま保持し、願いの不要と年輩到達の届を区分する。年齢の数字・現代の成人制度・髪型全般の自由や実届出人数は補わない。
寛政10年午9月8日(本文。年は前706の6帳留注による) / 冊子 219~220頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0055
706の7朱書。右のとおり申し出たところ、裏書に左のとおり仰せ渡されたとする。表の帳面直し方等も例のとおり申し渡すよう幡磨殿の差図があった旨を伝える。午9月8日、岡元千右衛門印、定好の注。宛先は本文末の勘定奉行衆・小姓興番頭衆に加え、次頁上段右端の町奉行衆・広敷用人まで続く。寛政10年午9月の帳留写706の6に続く首尾書として年を区別する。幡磨殿は差図者で、宛先に置き換えない。
嘉永五年八月三日・同月廿四日 / 冊子 132頁/原整理番号 195/整理ID 195
或日誌から三項を抄録する。嘉永五年八月三日、米穀払底で普段の取続もできないほど困難な者へ、特別な救済として三盃入り一俵ずつの賑米を与える旨を記す。豊後殿から御小姓與番頭へ、ありがたく承知するよう伝達を求める。八月二十四日は勧業・風俗・衣服・軍役等について御書取を渡し、来年の帰国時までに趣旨が行き届くよう命じ、前日二十三日に参勤したとの注記を付す。本日、御小姓與番頭宅へ小與頭を召し、小與中人を別宅へ呼び出すよう伝えた記事も続く。
宝暦十一年二月二十一日 / 冊子 834~835頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2495
重豪が二月二十一日の召しに応じて登城し、家治が大広間に出御して大名の拝謁を受けた。老中が上意による法令を伝え、中奥小姓が条令書を中段に置き、儒者林内記が読み上げた。重豪は拝聴して退出し、西丸へ赴いて政令を祝った。
宝暦十一年十一月三日 / 冊子 880~881頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2589
家督後初めて帰国した重豪が十一月三日に稲荷社へ参詣する次第を定め、初穂として金子二百疋を納める。神前で神楽を奏し、別当寶持院が幣を差し上げ、諏方神主が詰めて祈願するよう指定する。盛塩は御小姓から差し上げると定める。
宝暦十一年十二月十九日 / 冊子 890頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2617
家督後初帰国した重豪の、十二月十九日の小城権現参詣の次第を定める。膝着として白銀一枚を進納し、別当善聚院が幣を差し上げて祈願する。盛塩は小姓が差し上げるよう指定する。
宝暦十一年十二月十九日 / 冊子 890~891頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2618
家督後初帰国した重豪の十二月十九日の福ヶ迫誠方社参詣では、膝着として金子二百疋を納め、小姓が盛塩、普賢院が幣を差し上げ、本田出羽守の勤めは先例どおりとする。本地堂に参詣して青銅百疋を納め、小姓が盛塩を差し上げ、普賢院書院で菓子・茶・たばこ盆を受ける。普賢院を御目見させ、膳部二汁三菜を進上させて白銀一枚を与え、家老を相伴させる。神職井上左膳は神酒瓶子一双と菓子一折を進上し、左膳の御目見と青銅百疋の拝領は普賢院で行う。
明和四年十二月(朱十六日、首途式十九日) / 冊子 181~182~183頁/原整理番号 450/整理ID 450
十二月十九日の首途式について、対面所から出て城下吉野橋筋を行列し、請笠・竪笠・鉄炮二挺・弓台二肩・旗竿・鎧一領・道具四本を伴い、四時に諏方へ参詣する次第を定める。山伏金藏院が先に控えて海陸の安全を祈り、安養院が供し、祇園前から召船に乗る。供の家老は羽織袴で乗馬、用人以下は駕籠廻りを勤め、馬廻新番・歩行・筆者・小役人も羽織袴とする。用人以上は長柄の手鎗を持ち、馬廻新番は持たない。諏方社の御膝着青銅百足、諏方・祇園両社の神楽料青銅各六十足、安養院からの盛塩と三献を記す。供の御側小姓は二人で一人を御名字下から勤めさせ、安養院へ先に入る。住持の一束一本進上と御目見、奏者番の麻上下・進物番の羽織袴、安養院への引次拝領青銅百足、大乘院坊中が取り次ぐ五ヶ寺の御目見を定める。吸物・挾肴・盃・銚子・茶の供し方、安養院への吸物等の拝領青銅二十足も記す。終えて祇園へ参詣し、伊集院覚左衛門屋敷前を通って召船に乗る。家老・用人には小早を各一艘渡し、築地御普請方脇の波戸で着船、江戸橋金藏前・御蔵下辻番脇筋から帰館する。その他の供は上築地通・琉球假屋前新橋・御普請方前小路で控えて帰館の供を勤め、町田源左衛門屋敷角から清水馬場筋への繰入れも指示する。帰館後は本丸で御處斗・茶・吸物・銚子・御差味・平皿・菓子等を供し、供の諸役にも酒を下す。出御・帰館とも役を平日どおり勤め、近習番所で祝儀を申し上げる。担当役と供の面々へ伝達・申渡しを命じる。伊織・仲の署に諱注、関山新左衛門の取次記載を備える。年は明和四年朱注、本文は十二月、末尾に亥十二月十六日の朱注がある。扣正文は家老座にある。
安永九年十一月 / 冊子 605~606頁/原整理番号 1717/整理ID 1717
御鷹頂戴時の屋敷内儀礼を定めた次第。遠見を置いて御鷹到着を報告し、張番所には寄物頭一人と肝煎同心を配し、道具飾や服装を先例どおりとする。本門上番所には中小姓二人、本門内には手桶を置き、使者がある場合は内玄関へ回して小番二、三人が取り次ぐ。御鷹だけを本門から通し、随行者は小門を通す。太守の御座所・頂戴時に家老・御側御用人・御側役を詰めさせ、御鷹方に携わる御側廻の服装も定める。安永九年十一月、島津久金の指示。細部の一部は印刷欠損のため留保する。
天明四年六月晦日・九月二十四日(文中日付) / 冊子 753~754頁/原整理番号 2122/整理ID 2122
島津重豪の在府中に坊主部屋を借り受け、登城の際に挟箱を城内の所定の口まで通し、御小納戸奥御小姓を付ける手続について、安永四年の疱瘡後に弁当を持参した先例を参照して御目付側へ届けようとした経緯を記す。六月晦日に山川下総守方の用人海老原平左衛門へ先例を説明したが、近年は取扱いが変わり担当も交替しているため照合が難航した。九月二十四日、根元政右衛門が渋谷五郎右衛門宛書付を添えて申出を行い、挟箱の持込みを取りやめる場合にも山川下総守へ届ける旨を確認し、伊賀が承知した。
3月19日(本文、文化5年記事群) / 冊子 295~296頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0075
留守に置く家来が退役し、代わりの者の御目見を願う件は正徳の先例があると承知したが、その後も同じ例があるか調べるよう求める手控書1通を掲げる。照会は松平薩摩守名で、御用番松平伊豆守の用人新藤善八郎へ向けられる。続く桑山仲太夫の首尾書は、右の達しにより今日中に1人出頭するよう用人の切紙が届き、自分が出たところ、翌朝までに回答を申し出るよう重ねて命じられたと記す。何とか返答をもらいたいので、この手控書を櫻田詰中の小姓を通じて差し上げたと報告する。3月19日、桑山仲太夫、安房宛。照会内容と用人への出頭・回答期限・手控書送付の経過を分け、御目見許可の通知とはしない。
3月廿一日(本文、文化5年記事群) / 冊子 296~297頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0078
添付内訳として書付1通と例書2通を掲げる。書付は当地留守の市田出雲退役により代わりの家老を差し越すための御目見と、公方様・大納言様への自分献上物に関するもの。例書2通の内1通はその御目見時の献上物品書、もう1通は正徳年中に家老を代わりとして当地へ遣わした先例である。伊豆守用人關屋斧右衛門の切紙で今日中に1人出頭するよう命じられ、仲太夫が出たところ、願いのほかに後例がないため御目見不許可と聞き、差し出した書付をすべて返された。これを櫻田詰中小姓に託して送る。さらに西丸老中安藤對馬守の取次野田源五左衛門へ参上し、市田退役後の家老御代差越しと大納言様への自分献上物の先例も、ほかの例がないため御目見不許可として返されたことを伝えた。今夕の御用番からの申し渡しと同じであることを取次が確認し、追って説明するとした。追書は牧野備前守へ願いの趣旨を内見してもらうため勝手へ出て用人槙十右衛門に渡したが、御用番と会って説明したところ追って伝えるとの返事を受けたと記す。3月廿一日、桑山仲太夫、安房宛。添付物は願書案2通ではなく書付1通・例書2通として訂正し、返却・御用番と西丸双方の不許可・内見再照会を分ける。
寛政5年5月11日(許可朱注。賀品表本文は日付なし) / 冊子 55~56頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0184
長寿祝いの賀品を、身分・男女・特例に分けて列挙する目録。大身分以上の諸役人には吸物・酒、同身分の妻女等には紗綾二巻ずつ・真綿三把を記し、吸物・酒の引合せに関する但書を伴う。小番・新番は男に金子二百疋ずつ、女に百疋ずつ、御小姓組は男女とも金子百疋ずつとする。諸与の郷士・与力は男女とも銀三両ずつ、御城下の社家・足軽・町人・百姓・浦浜人は男女とも青銅百疋ずつ。100歳以上の郷士女性一人には真綿三把・金子二百疋、同じく百姓・浦人の男女五人には真綿二端ずつ・青銅二百疋ずつを記す。甑嶋移地頭三崎治部には参上時に紗綾二巻、平寺の出家には金子百疋ずつの項を置く。朱注は5月11日に本文の伺いどおり適宜取り計らうよう申し渡されたと記す。品目・数量・対象区分を別々に示し、金子・銀・青銅の異なる表記は換算せず保持する。
文化6年正月(朱年注)。包紙文化6年己3月(日字判読留保) / 冊子 310頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0981
若い者は学問・武芸を第一に励むべきで、造士館・演武館もそのために設け、油断なく修練するよう命じてあると述べる。ところが、かねて懇意の者同士で夜会を企て、私的な寄集まりの中で講読や武術の稽古を行っていると聞いたので、国中一統でこれを厳しく停止する。夜会だけでなく、自宅へ人を集めることも一切行わず、師家へ常に出向いて励むよう命じる。師家を自宅へ招いて教えを受けることもその趣旨に含むとして、造士館・演武館の掛と各師家が稽古を油断なく取り計らい、門人を教導して出精させるよう求める。違背者には厳しい咎目を命じ、取締りについて家老中で協議し、大目付・大番頭・小姓組番頭へ詳しく指示して行き届かせる。家老中宛、文化6年正月朱注、重豪公御譜中、正文在文庫。包紙は文化6年己3月に将監から相良甚大夫へ渡し、白木御文書七番箱に納め置いたことと朱41番を記す。本文末尾と包紙は981に、続く982見出しは別件に属することを通常AI・原本で確認した。包紙の日字は朔日候補として留保し、日付を断定転記しない。
文化12年(末尾朱年注。独立月日なし) / 冊子 459~462頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1426
重豪公御譜中・扣正文在家老座。近衛左大臣の高輪邸招請次第を定める。西御門から入り供目付が先に案内、南坂御門外で伊集院隼衛が先立ち、茶屋の輿臺で下乗、大御隠居が迎えて座敷へ導く。熨斗・茶・たばこ盆の後、諸大夫の案内順で大御隠居、太守・御隠居、大膳大夫・肥前守が挨拶する。染帷子・十徳/半袴の着服注、進物の差出と次の間への置き方、医師方の御逢と召替を記す。湯漬、庭・居間・入側や座向の見物を経て能見物所へ案内し、給仕は近習、手長は奥小姓とする。茶・椀菓子・吸物・盃・酒・肴・坪物、白木三方と銚子を列記。舞臺正面脇に浪形簾障子を立て、子様方とおふき方お千佐・初瀬・勝澤が都合により御逢又は御目見する。中入に座敷へ戻り三汁七菜、本膳上下と大御隠居の位置、臺引・引肴・吸物・盃・土器等、盃事の取次と湯・茶菓子・後菓子・薄茶を規定し、再び能見物へ戻す。茶・菓子・名酒盆上・小皿物、檜重1組と青籠1個の進上、能が済んだ後の挨拶、夜食二汁五菜・後段・吸物・盃・酒から立ち際の送りへ続く。医師の取持、出入御城坊主と初馳走方・付添役人の召呼及び能見物を許すこと、帰館後は家老使者で礼を伝え翌日大御隠居が旅館へ参上することを定める。末尾朱文化12年のみ、月日・署名・独立宛名なし。呼称を実名へ一律置換せず、次第の手順を実施済の記事としない。末頁の1427見出し全上の混入を除いた新通常AI各六頁を全読した。
文化12年5月(末尾朱注。日なし) / 冊子 462~465頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1427
全上・扣正文在家老座。近衛左大臣の高輪邸招請手当を箇条で申渡す。参向・滞留中の招請希望を家老使者で伝え、期日回答があれば即日御請、入邸前日に留守居が御用番・西丸老中へ届出、当朝は用人使者等で御臺へ伝える。早朝から留守居付役・足軽を旅館へ派し出立を遠見して亀甲茶屋・御殿へ注進する。式臺・茶屋門内の飾り、屏風、門の節桶と幕、番所担当を指定。火消1組、夜入四時まで門留、上番・中番の平伏、屋敷内外清掃、庭・環江照明、大丸挑灯籠・札渡所の徒目付等を定める。西辻番所から馬頭観音下で迎え、供目付1人と付役1人で供人・道具を案内し、西門の先番5~6人が亀甲玄関へ導く。小人8人計、中小姓詰5人・中番2人、取次番1人、留守居付役1人の記載を部所別に採録。前日から時計を玄関に置き、入邸前夜八時から明け六時まで時觸を行う。供廻や入来者の膳・給仕、医師の足軽案内、城坊主・役者の召呼、座敷床棚飾・照明を担当別に指示する。家老以下与力まで染帷子半袴、羽織袴の着服注を分ける。半切桶・柄杓を玄関・馬場木屋前三箇所、木屋後用所脇、見物前場等に備え、不締り箇所の不寝番を置く。勤務の難迚、人数書・詰所・食事や賤所も担当別に扱う。帰館後は家老使者で礼を伝え、立後の座敷・亀甲・稲荷脇木屋・仕出所の火元と不寝番を目付・兵具方等が見締める。別紙次第書の通りとも命じ、末に典膳署、朱文化12年5月、日・独立宛名なし。手当の指示を実施済・実員総数へ変えず、冒頭見出しを回復した新通常AI各七頁を全読した。
文化12年(末尾朱年注。独立月日なし) / 冊子 469~470頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1430
全上・扣正文在家老座。甘露寺前大納言を高輪邸に招く次第。表門から入り玄関前の中門で下乗し、伊集院隼衛が玄関薄縁へ案内する。太刀取は小姓、櫻井半藏・圖師崎良助・田原喜左衛門・吉井源七郎は取次番として罷り出、留守居付役一人は環江見物下の先立・門外の送迎、供目付は門内から先導する。大御隠居が出迎え座敷へ案内、甘露寺は客居に着座し、大御隠居は主居の向座から少し下がる。贈物への礼、白木三方の熨斗、茶、たばこ盆を出し、小姓が半袴で給仕。大膳太夫・肥前守も半袴で挨拶し退座する。先方への贈物は目録で披露し、取持医師方衆への品は旅館へ回す。掛盆と白木三方で吸物を出し、酒・中皿・肴・土器の盃などを順次供する。「御盆事可被為在」との記載、夜食二汁五菜・香物・本膳と御二御三の付記、塗盆、皿菓子、薄茶へ続く。医師方が相伴し、大御隠居の相伴辞退は書院雑掌で伝える。召替後に庭を見、大奥休息所で子様方、お富貴ほか女中が目見、子様方への贈物も記す。椀菓子・名酒盆、吸物・小皿・重・後段の掛盆等を列記し、大御隠居・大膳太夫・肥前守が寄合、取持医師方が相伴する。退出は両人が玄関まで送り、役々は初め同様に罷り出る。医師方取持、出入城坊主の召呼、その他手当は別紙による。末朱文化12年、料理の個別献立や実施日時は示さない。
天保4年2月20日夜・24日(年次目録、月日本文、時系列留保) / 冊子 956頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2688
重豪公御譜中の、江戸からの凶報と領国での発喪の記事。本文は「二月二十日夜」、江戸から飛報が届いて重豪の凶信を伝えたと記す。その夜に家老・若年寄・大目付と家老座書吏等が登城し、翌日発喪して国中で密八音を奏した。二十四日、斉興の生母を江戸へ遣わすため、広敷番の頭田尻小次郎種常を派遣したと記す。一門・一族、家老・若年寄・大目付・一所持・一所持格・寄合・寄合並・諸有司へは、目付裁許掛の近藤彦左衛門正為を遣わし、本文注ではその行を馬廻が代行したとする。諸士の相中へは中小姓廻新蔵政備を遣わし、各門で斉興、老君溪山と庶子等の哀悼を伝えた。月日の本文記載を保持するが、後続する二月十二日付書状の通知到着記事などとの前後関係は疑義として留保する。推測で二月を正月に置き換えない。
〔弘化五年〕正月(本文年記載なし、収載順による) / 冊子 93~94頁/原整理番号 136/整理ID 136
諸芸を練熟して召し出された家と、その子孫の奉公の取り扱いを定める通達。芸を請け継ぐ子孫がその道で役立つよう求め、芸道家筋の者は三代目までは芸を御用に役立て、四代目には請け継ぐことを求めず、御小姓興等の役に並んで奉公するよう命じる。三代目までは芸道を務め、家業などで役立たない場合にも「本之俗生通」の取り扱いを認めるとする。三代目でも依願外で奉公している者の子孫や、現在家業を続けて役立っている者、その後の代の者の扱いも挙げ、自身一代は家業の取り止めに及ばないと記す。家業を役立てる者には特別な思し召しがあり、精勤して御用に立つよう命じ、末尾でその旨を伝達するよう求める。正月付で笑左衛門を記す。
2月21日(申渡、年不記);昨19日召出しへの言及 / 冊子 283頁/原整理番号 395の1/整理ID 395-1
雑集中の五名連署申渡。昨十九日、若年寄・大目付・大番頭・御小姓与番頭・側御用人・側役・軍役奉行・御休息所を召し出し、非常の時世の改革について沙汰があり、別紙のとおり御筆を示されたと記す。臣下を思う配慮に感じ入り、各自が職掌を尽くして改革の成功を図るよう求める。目前の外国船来航にも重大な時機として慎重に趣旨を守り、支配下役へも伝えるよう命じる。二月廿一日、筑後・大藏・帯刀・但馬・式部の五名。別紙の文久二年十月書付を今回の申渡年月へ書き換えない。
首途9月6・12日巳刻併記/発駕9月16日/亥8月晦日・9月2・9日取次注 / 冊子 319頁/原整理番号 450の1~4/整理ID 450-1
原冊の1~4を一行に収める。第一は首途の九月六日巳刻・十二日巳刻を併記し、三郎の発駕を九月十六日に召し替える式部通知で、亥八月晦日松岡十太夫取次注。第二は供・守衛方の人数を召し列し、従来扶持米を下された者の定役・助役の勤方と「無掃跡御扶持米」の指示を伝える九月式部通知。第三は中小姓・重山小姓・守衛の役務補助について、役向により十二ヶ月または六ヶ月の勤務、交代、勤績・守衛の勤続月を調べ、御用済みの帰着者等は残月だけ勤め、継続か別人への交代を吟味して申し出るよう求める。亥九月二日市来次十郎取次注。第四は上京守衛の一組を備組と同様に扱い、道中の人馬賦以外を都合よく準備して物主等へ伝える九月但馬の通知、亥九月九日嶋津柯馬取次注。日程・役務・給付と交代判断を分け、指示を実行完了として数えない。
朱記:慶応4辰六月(日不記)、備後署 / 冊子 584頁/原整理番号 759の2/整理ID 759-2
御側役一人・小納戸二人・小姓二人・医師一人・草履取二人・笠持一人の供列を掲げる。京都で官武一途の供列を定めたので、今後の五社参詣その他の特別な時もこのとおり召し連れ、長柄まで持つ扱いにすると伝える。但し先払横目四人または押二人を召し連れるとし、行列の立て方は別冊どおりとする。末は朱慶応四辰六月、備後の署。
明治2年四月8日知政所(年は朱書) / 冊子 660頁/原整理番号 855の4/整理ID 855-4
芸道により小姓衆等へ召し出された者と郷養子の家筋は、従来三・四代まで分地別立や高上り等を命じない扱いであったと述べる。今後は芸道と郷養子の家筋も区別なく常式諸士同様に分地別立・高上りを命じる旨を、向々へ知らせるよう求める。朱明治二年己四月八日、知政所。家筋の旧制と今後の扱いを分け、具体的な分地面積・高増額や実手続完了は補わない。
明治2年九月29日知政所(年は朱書) / 冊子 702頁/原整理番号 919の3/整理ID 919-3
衆中から御小姓與への養子について双方の往来を許し、嫡庶の別と血統連続を考えて選ぶよう既に伝えていたと述べる。一同が士族となり区別がないと受け止められ、鹿児島士族を希望して続等不正の者を継目養子等に願う向きもあるとして、家統連続を重要とする原の判断から、以後は嫡庶・血統連続が明白な者を認める旨を再度周知する。朱明治二巳九月廿九日、知政所。不正等は達の評価・規範へ帰属し、実許可件数や現代制度は補わない。
天明五年(転任祝儀、本文日付なし) / 冊子 786~789頁/原整理番号 2195の3/整理ID 2195-3
老中・若年寄・奏者番・諸役の出迎え、芙蓉之間から大書院への案内、座・刀の取扱いを指定。白木具三汁十菜の本膳、初能、銚子・盃・肴・吸物の順、上席老中からの盃受渡し、家老・御取持・坊主等の役割を詳記する。湯水・菓子・濃薄茶、能見物所・仕切屏風、退出の挨拶・贈物、不参老中等への茶・檜重・肴の贈送を定める。担当は島津伊賀、川上頼母、関山紀、村上静馬、種子嶋雲治、矢野清右衛門、面高善右衛門、渋谷五郎右衛門。
天明五年(転任祝儀、本文日付なし) / 冊子 789~791頁/原整理番号 2195の4/整理ID 2195-4
勝手へ出る客を内玄関から通し、座之間を経て勝手之間辺の側用人の案内で揃える。三汁十菜・白木具の本膳、盃・銚子・肴・吸物、茶菓、書院での相伴と能見物、退出挨拶を定める。四品以上は鏡板、その他は拭縁に待ち、末家方・家老・側詰・若年寄・大目付格らの供食場所と担当を分ける。台引・引肴・挟肴の役目と留守居の取扱いを記す。
天明五年(三月四日・六日、本文に四日・六日) / 冊子 793~796頁/原整理番号 2195の8/整理ID 2195-8
後日・後々日の客の招宴次第。四品以上の出迎え、刀、拭縁獅子杉戸溜、大書院への案内・着座を定める。初番・二番・三番・四番の供食、盃・肴・銚子・吸物、三汁十菜の料理、能見物と仕切屏風・中入・退出を指定。万石以上/以下、上客と他の客、四日と六日の主居を区別する。末家方・御取持・家老等の供食場所と手当も記す。
天明六年十月 / 冊子 880頁/原整理番号 2437/整理ID 2437
喜入久福は、小姓頭取と側目付を新設したことを申し渡す。小姓頭取は御馬預に次ぐ格式で十人賄料を受け、奥表御小姓・御近習番御小姓を統率して関係書付を取り次ぐ。側目付は御小納戸より上の格式で六人賄料を受け、奥向をはじめ諸事の監督を担う。
寛政10年午9月6日(朱注・帳留写);本問合せ8月15日とは別 / 冊子 219頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0054
706の6、朱注は寛政10年午9月・帳留写。鹿児島下中町名頭青木嘉右衛門の女子、札名きくとを、思召によって奥医師永田閑龍の養女に仰せ付け、今日大奥の小姓に召し抱えたので承知し、諸向へ渡達等するよう求める。午9月6日、広敷用人連名、記録奉行本田孫九郎殿宛の朱注。「ここ」は朱線の消印との説明を伴う。同面の8月15日付問合せと、その亥8月16日朱返答とは別の過去の帳留写であり、年度・日付・任用と養女命令を分ける。
宝暦十二年十二月四日(婚姻当日。本文中に「来月四日」) / 冊子 947~952頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2749
保姫の婚姻当日、淨岸院への料理、松平越前守方の見送使者・家老の来訪、各室の座飾りを定め、近習役・年寄から事前に料理の進上を伝える。熨斗・茶・雑煮・吸物・盃を進め、太守の盃の取替え、年寄・若年寄への雑煮と酒肴、意向に応じた三汁八菜、附用人・医師・用達・台所頭・同朋衆への二汁六菜、中臈・小姓・表使・部屋子などへの二汁三菜、半下への一汁三菜と水菓子・せんし茶、小間遣などへの一汁二菜を記す。本文で「来月四日」と記す入輿の見送役酒井與惣左衛門を玄関から鳩之間へ迎えて用人・留守居・家老が挨拶し、副使にも同室末で屏風を設けて茶・煙草盆・酒肴を供する。表書院、新奥の各室、中奥、休息所の掛物・筆者・立花・香具・歌書などを列挙し、末尾に諸大名・家臣名と「御断」「御勝手」の注記を載せる。
宝暦十二年十二月四日(本文。年は目録) / 冊子 952~955頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2750
十二月四日の保姫入輿に際し、門・辻の立番、火消し、小番・大番の警備、家老の子持筋嘉珍熨斗目・長袴、用人・近習役の長袴、納殿役人の半袴など役別の衣装を定める。婚姻日と祝物を一門へ伝え、附使者を鴈之間で二汁五菜でもてなし、松平民部大輔を招き、一橋へ赴く時宜により若櫻田屋敷へ来訪する場合の吸物・菓子・案内も用意する。小姓が腰物を預かり、阿部豊前守が書院へ案内して三汁八菜・引物・土器と肴を取り扱い、松平大藏大輔の帰りを見送り、貝桶渡しを済ませた田沼能登守・末吉善左衛門にも奥から表へ案内して酒肴を供する。勝手方・坊主衆の料理、城坊主の供賄、家老の御守殿への祝儀、留守居を使者とする御用番への婚姻届、諸役人・諸士の祝儀と当日または後日の精進日の帳付けまで記す。
明和三年十月(来る五日の招請を対象とする次第) / 冊子 141~142~143~144~145~146頁/原整理番号 338/整理ID 338
来る五日の民部卿招請について、準備から送迎・贈答・料理・供衆の手当までを定める次第。明和三年十月付、高橋此面の名と種寿の注がある。招請日を内々に定めた後、家老の使で表立って通知し、夫人の年寄・局が一橋へ赴く折に奥へも伝え、機会がなければ使を立てる。前日に来訪を再確認し、当日は出迎え役、門前・道中の立番、下乗、太守の玄関・式台での迎接と書院の座を定める。家老・用人・近習役・留守居等は長裃、田沼能登守・末吉善左衛門は麻上下など、着用と御目見の扱いを指定する。 三献の杯・銚子・肴の順と、一橋小姓及び薩摩側小姓の給仕分担を記す。民部卿から太守へ太刀・金馬代・縮緬五巻・二種一荷、太守から民部卿へ太刀・金馬代・縮緬五巻・三種一荷を示す。贈答目録は留守居から善左衛門、さらに能登守を通して披露し、品を用意するに及ばないという但書を付す。鎌三郎・金次郎との干鯛各一箱の贈答も定める。奥では夫人と対面し、民部卿から夫人への縮緬五巻・二種一荷、淨岸院から老女の使で届ける檜重一組や菓子を記す。夫人側からの進物は奥で渡すとする。 本膳は三汁十菜・白木具とし、引物、八寸、吸物、島台、菓子、濃茶・薄茶を順次記す。機嫌次第で茶屋へ、又は休息所へ案内し、重一組・吸物・銚子などを出す。帰る際は表に再着座せず、太守が玄関板の間まで送り、帰着確認や夜間なら翌日の見舞い・御礼の使を定める。供衆には、家老・番頭・用人へ二汁六菜と見合吸物・酒肴五種、小姓・近習番・医師へ二汁五菜と酒肴三種、そのほかの役組へ一汁二菜と酒肴二種を出し、下位の道具持・駕籠・中間・馬口付・馬飼等には赤飯を出す。給仕は広間小姓又は足軽、御目付の受込、兵具所肝煎の挨拶まで指定し、首尾掛へ申し渡す。 朱注は当日に変わった箇所を直したものと明記する。能登守が御座の間での盃を辞退し書院で御目見とし、善左衛門も同様としたこと、帰殿後の善左衛門の使による挨拶、伊織の返答取次、夜陰のため当日の使者勤めをせず翌六日に勤めたことを補う。扣正文は江戸家老座にあるとする。
明和八年五月(祝儀予定二十一日、五月付仲署を含む) / 冊子 279~280~281~282~283~284頁/原整理番号 749/整理ID 749
家治自筆画二幅一対の拝領に伴う五月二十一日の祝儀の手順と手当てを定める。画は左太公望、右「傳説」で表具なしと記す。序の書付は四月二十八日に一橋の老女松島が持ち下り、民部卿から田沼能登守をもって二十九日に届けられたこと、右近将監・田沼主殿頭へ留守居使者で内々に知らせ、五月三日登城前に見廻って礼を述べたこと、別に伺った内証の勤めは不要との指図と松平陸奥守の先例を記す。 客方へ使者で知らせ、門前立番・物頭張番等は家督初めの鷹の鳥拝領祝の例とする。正客と四品以上の客の到着を見計らい、家老・留守居以上が玄関練石まで迎える。太守は表書院角の間辺で迎え、小姓一人を玄関薄へりに置いて刀・腰物を受け、他の客の腰物は表書院三之間で札を付けて受ける。太守・諸役・番人は麻上下、十徳を用いる者は十徳とする。座之間の床へ画を掛け同朋頭へ予め申し込み、大書院は家督初めの飾りに従うが、床の掛物を客着座前には掛けず着座後に拝見させる。勝手之間・表書院の客への伝達案内、御側用人・城坊主による案内を分ける。 熨斗・茶・たばこ盆・本膳、二汁七菜の居付膳と引物、鉢の替え、八寸の引盃、銚子、引肴の順を示す。両側の席について客居を淡路守、主居を太守または式部とする注がある。吸物二の膳へ替え、白木三方の土器・肴を正客と四品以上の客へ、その他にも同様に出す。太守が出て土器・肴を遣わし、返盃、膳下げ、湯・菓子・濃茶・後菓子・薄茶の順を記し、土器を取り上げる時は舞・囃子を用意する。茶菓子・茶碗を替え下げる。酒井雅楽頭には勝手之間で別立てながら大書院同様の料理を出す。二篇目は太守・淡路守の引肴を分け、土器・肴・銚子・盃、湯・菓子・茶を続ける。三篇目は両側の家老二人または小姓二人の給仕を定め、正客が立つ前に太守が挨拶し玄関まで見送り、他の役人も出る。客退出後、表書院二之間の城坊主へ料理三篇目の土器・肴と、留守居・茶菓子・濃茶・後菓子・薄茶の手当てを命じる。 供の用係の家老には塗三方で盃・肴を、用人・近習役・留守居・納戸奉行・使番には切足八寸で出し、御座之間末襖付から横畳込み三枚目までに通す。御側用人が伝達し、諸役人から家老へ首尾を報告する。五月付仲署で諸事を例どおり手当てするよう命じる。 五月二十一日の名簿は御一門・御心安の人々を大書院・勝手之間・表書院等に列記する。松平越前守・左兵衛督・壱岐守・大膳太夫・左近将監・左兵衛佐、酒井修理大夫・播磨守、鳥井播磨守、本多伊勢守・若狭守、田沼能登守、京極兵部、小川玄達、柳生能登守、青山但馬守等には「御断」の注がある。名簿を全員の出席実績として扱わない。眞含院へ肴一折を表方使者で進め、浄岸院には表客同様の料理を御守殿奥で進め、側用人または奥の年寄が届けることを記す。末は拝領経過を記録方へ記すよう家老衆から渡した書付を後続に示す旨で、正文は文庫にある。
安永二年五月二十日 / 冊子 374~375頁/原整理番号 1047/整理ID 1047
御一門が登城する際、敷舞臺入口の杉戸辺までは刀を帯び、表坊主が刀を受け取る。家老座へ通る場合は刀を座まで持ち、御近習へ通る時には鳴子之間で表御小姓へ渡す等の扱いを記す。刀番は以前から二人で勤めていたが、刀を坊主が取る際には刀番の仕向けがないので、二人を連ねて召し、一人は城内を先行し、一人は脇に付いて来るよう示す。刀は高欄や上板敷に置かず控えること、取り次ぎの用事で刀持ちが内へ入ってしまわないよう心得ることを求める。御一門方に殿中その他で諸人が参集する際は、差し控えるか殿勤めで平伏する扱いを指示し、寺方もこの二ヶ条に準じるとする。本丸前通りで御一門方の先供が立つことは差し支えなく、「鎚ハ伏セ」とする付記がある。末尾は安永二年巳五月二十日、嶋津仲。刀の取次場所、刀番二人の役割、参集時の作法と先供の扱いを記した申渡。
安永二年(朱)、墨「己九月廿二日」、朱九月・十一月十五日・明後十七日等の書入 / 冊子 395~396~397~398~399頁/原整理番号 1109/整理ID 1109
中城王子らを招いて料理と能見物を行う次第を定め、墨「己九月廿二日」と、九月・十一月十五日・明後十七日等の朱書を含む。朝六ツ打後の登城を記し、御能「拝見」を「見物」に直す一方、太守が自身同席するなら「拝見」と書くべきと注する。読谷山らへ通知し、唐門内で御目付が迎え、家老が出会う。大番十五人を虎之間に置き、松・虎・杉・対面・梅・菊・樋・縁頬・書院などの席と、張番・押番・横目等の詰所を割り付ける。掛物二幅対、三具足、左右の立花、御棚・押板、小砂物・台子、煙草盆二盆、手水など各室の床飾と道具を先例に従って整える。王子の轎、読谷山の乗物、宮平以下の琉冠服と路次楽、下轎・下乗の位置、御目付二人の迎え、役方の服装と案内を定める。王子は上段敷居から下客方三枚目、読谷山は一枚目、宮平は二枚目とし、親雲上の席を中段末の縁頬などに分ける。御礼と茶の後に能を始め、菓子・薄茶等を配る。能三番が済むと王子を杉から書院の席へ移し、家老二人が陪席する。王子・読谷山・宮平には原記「五く三」の料理、続いて四汁十三菜の引替、吸物二出などを供する。御盃は王子、返盃・肴、読谷山へ進め、宮平・譜久山へ流下させる。山川・伊江ほか親方格には両銚子、親雲上以下には五銚子とする。吸物・湯・菓子・濃茶・後菓子・薄茶の順や、料理半ばをゆっくり進める通知を記す。配膳する側小姓は半袴、側医二人は末席で待機する。梅之間の山川・譜久山・伊江は琉球方御用人が陪席し、書院に召して王子の膳の右半を供する。杉・菊の親雲上以下には三汁十一菜を二度供し、寄御小姓が給仕する。再び対面席で能を見物した後、主要三人と親方格には二汁八菜の湯漬、惣人数には一汁七菜の湯漬を供し、吸物・菓子・茶、御礼を経て退座する。川田伊織が陪し家老が取り合う。翌日の御礼は側用人の迎え、杉での待機、対面中段の家老との対応を定める。早く済むよう変更する旨を表方・仮屋守へ伝え、大野多宮を通じて手配する。後段では太守の出座は思召次第とし、能の初めと二番、書院での料理・吸物・銚子・茶・盃、さらに能二番後の吸物・菓子・御礼・退座の順を記す。末に安永二年の朱注。席・人数・料理・盃の順序と複数の変更書入を含む計画書である。
安永五年三月(日記載なし、年は朱)、宝暦八寅年の先規に言及 / 冊子 488~489~490頁/原整理番号 1354/整理ID 1354
下馬より下乗橋まで召し連れる人数を身分別に示す。四品および十万石以上、国持の嫡子は侍六人・草履取一人・挟箱持二人・六尺四人、雨天は傘持一人。一万石以上は侍五人または四人を分限に応じて召し連れ、草履取一人・挟箱持一人・六尺四人、雨天は傘持一人とする。下乗より内では、四品・十万石以上と国持の嫡子は侍三人。一万石以上は嫡子も侍二人、幼少の場合は別に介添一人を加えることを勝手次第とし、草履取一人・挟箱持一人、雨天は傘持一人とするが、挟箱は中御門外に残す。番頭・諸物頭・布衣以上の役人、中奥小姓衆、三千石以上の寄合は侍二人・草履取一人・挟箱持一人、雨天は笠持一人。三千石以下の寄合・布衣以下の役人・中奥番衆・惣御番衆は侍一人・草履取一人・挟箱持一人、雨天は笠持一人。医師は侍・草履取・挟箱持・薬箱持各一人、雨天は笠持一人。城に部屋のない者も挟箱を中御門外に残し、御役人はこれまで通りとする注を保つ。江戸の往還は小勢とし、国持でも騎馬一騎または二騎、供鎗二本または三本以内。侍は九千~五千石で七人または八人、四千~三千石で六人または七人、二千~千石で四人または五人、九百~三百石で二人または三人、二百石で一人または二人。押足軽は五千石以上二人、三千石より四千石まで一人、三千石以下は無用とする原区分を保ち、境界の三千石を一方へ補正しない。番頭・芙蓉之間の役人は押一人。軽輩の長柄傘は無用とし、陪臣もこの人数に準じて小勢にする。供の風俗を目立たせず、道を片付けて通行を妨げないよう命じる。先年の供廻規定がおろそかになったとして、宝暦八寅年に伝えた規定を堅く守るよう改めて示す。大名往還の先供・駕籠脇は一万石以上十三人または十四人、五万石以上十七人または十八人、十万石以上二十人まで。分限に応じ、国持も含めて先供・駕籠脇を二十四人または二十五人以内とし、徒歩の者だけでなく挟箱ほかの供の行列にも、およそ五、六尺ずつの間隔を置く。登城・御曲輪内の往来では騎馬供を無用とする。国持・溜詰・御三家庶流の従来の騎馬供は御曲輪外で一行を離して召し連れることを勝手次第とするが、一騎または二騎以内、鎗もその騎馬の者が持つ数とし、ほかに供馬を率いることは無用とする。前々から供馬・供鎗がある国持・溜詰・御三家庶流は別格とする一方、近来これを増やした場合は無用とする。旧来の者にも四品被仰付・大広間席不相成以前という条件で向後無用とする条項があり、この原条件を保って一律に許可されたとはしない。その他の供もこの規定に準じて小勢とし、登城・御曲輪内で混雑する際、快晴なら一行の合羽籠などを見計らって最寄りの途中に置くよう命じる。末尾は安永五年三月。場面別・身分別・雨天時・旧例の条件を保持し、人数を合算して実参加人数にしたり、尺を現代距離へ換算したりしない。
安永九年庚子正月九日発駕~三月朔日(本文)、賜鶴は正月十八日・頂戴は二月朔日 / 冊子 591~592頁/原整理番号 1665/整理ID 1665
御譜の記事。安永九年庚子春正月九日、重豪は本府を発って江戸へ向かい、家老島津仲久健、側用人川上頼母久品、近習役市田勘解由盛常ら諸司が供奉した。九州の驛路を通り、二十日に豊前大里へ着き、翌日に長州赤間関へ渡り、中国路を取って晦日に備前片上驛へ着いた。先に正月十八日、大樹家治公が宿次奉書をもって御鷹の鶴一隻を重豪へ賜い、月直老中松平右京大夫輝高が家臣矢野清右衛門清香を召して鶴・奉書・宿次証文を託し、新番中島直八利容と中小姓亀澤八兵衛安村を護送に遣わしたと記す。附足軽二人の注がある。利容・安村はその夜に芝邸を発ち、東海道を取って二月朔日に片上驛へ到着し、重豪は同日の客舎で頂戴した。直ちに足軽二人に礼の返書と宿次証文を持たせて江府へ向かわせ、謝恩使の番頭赤松造酒も遣わしたが、当時は大坂にいたとの注がある。十一日に足軽二人が江府へ着き、宿次証文等を芝邸へ届け、留守居が月直老中板倉佐渡守勝清の宅へ行って礼の返書と証文を呈した。利容らは大坂から東海道を通って十二日に江戸芝邸へ着き、孝恭院殿の中陰法事に当たったため、十五日に勝清の邸へ行って趣旨を述べ、連署等を呈したとする。重豪は二月五日に片上驛から大坂へ至り、翌日に枚方筋を取って伏見へ行き、東海道の驛路を通り、十八日に江府の芝邸へ入った。直ちに留守居を勝清へ遣わして参府を報じ、翌十九日には重豪自身が勝清を訪ねて大家の安否を問い、他の老中にも同様に述べた。二十九日、上使阿部豊後守正允が芝邸へ来て労問し、諸老中もそれぞれ礼を述べたという。この年の朝覲が早いのは前年に予め請うたことによるもので、七年の朝覲の例に従ったとする。三月朔日には勝清が留守居を召し、重豪はすでに朝覲しているので賜鶴の礼使は大家へ拝謁するに及ばず、奉書も下されないと伝えたという。正月十八日の宿次奉書による賜鶴と、二月朔日の旅中頂戴、その後の証文返納・謝恩使、二月の参府と三月の礼使取扱いを分けて示す。
天明五年四月二十二日(翌二十三日の準備) / 冊子 805~806頁/原整理番号 2208/整理ID 2208
四月二十二日、翌二十三日の御鷹頂戴に備える二通の手順を記す。遠見を置いて鷹の到着を知らせ、張番所・本門・玄関には物頭、中小姓、小番らを配置する。使者の取次ぎ、床飾り、家老・大目付格・側表御用人・留守居・使番・目付の出迎え、御座敷での受領と謝礼、鷹を受けた後の扱いを順に定める。別紙では鷹匠頭・鷹匠と鷹の出座順、上段の座敷への進み方を記す。末尾の注は二通の文書の収納先を白木御文書六番箱四号とし、江戸詰記録方添役黒田嘉右衛門が四月二十三日の使便で送り、五月十四日に納めたと記す。