HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
市来家繁
異名・検索語:市来家繁/市来八左衛門尉/市来掃部介/市来備前守
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
DESCRIPTION
本文内容説明
市来家繁は市来軍助の子で、八左衛門尉、初め掃部介・備前守を称した。御使役、蒲生・伊作などの地頭を務め、朝鮮へ供奉して渡海した。慶長七年、忠恒の大坂到着時に家康はすでに関東へ戻っていたため、福島正則・山口直友の相談を経て関東への使者に選ばれた。本田佐渡守に忠恒の到着を伝え、家康に拝謁して十一月九日付の返書を受けた。慶長十四年の琉球出兵では与頭として三十一人を率いて渡海。帰国後、江戸で家久から又八郎忠朗付きを命じられ、加治木へ移って七百十二石を領した。寛永十三年五月没。生年・没地・法名は本文に明記されない。
系譜・人物関係
市来軍助の子。市来八左衛門尉家繁、初掃部介・備前守。見出し小注は友ト云と読めるが、姓名を補って別名を作らない。家久から又八郎忠朗付きに任じられる。末尾の其子は後継付記の書き出しのみで子の名や事績が続かず、独立人物としない。
奉公・役職
御使役、蒲生・伊作等地頭。元和・寛永の頃と記す。蒲生近くの寛永六、伊作に続く元和六の小注は版面上の対応を内部記録に留め、公開文に任命年を補わない。琉球から帰国以後、江戸において家久から又八郎忠朗付きに任命され、加治木へ移る。知行七百十二石は七百と次列十二石の接続による。
軍役・事績
朝鮮御供ニテ渡海とあるが、この句に主君名・渡海年はない。関ヶ原乱後、慶長七年に忠恒が上洛し大坂到着、内府は去る十月二日に関東へ還御。福島正則・山口直友の相談により注進し、八左衛門が忠恒の御使に選ばれる。本田佐渡守へ上着の趣を言上し、家康に御目見、十一月九日の御内書を受ける。本田氏の者を同行させたとの旧解釈は採らない。慶長十四年琉球入で与頭として渡海。軍役十人・外二十一人・合三十一人の小注を列の接続で確認。帰国以後於江戸は琉球出兵後の忠朗付き任命に係り、慶長七年の使行直後に江戸から帰国したと補わない。
生没・法名等
寛永十三年五月廿の後に、次列頭の損傷した日字が続き、日卒其子と記す。没年月を公開し日付は保留。生年・享年・没地・法名・墓所は本記事に明記されない。
- 統合人物ID
- HP-0654
- 原人物ID群
- 01-015-03
- 氏・分類
- 市来
- 掲載巻頁
- 巻1:15
- 主題・活動
- 系譜・奉公・役職・軍役・生没
- 人物関係要約
- 市来軍助の子。市来八左衛門尉家繁、初掃部介・備前守。見出し小注は友ト云と読めるが、姓名を補って別名を作らない。家久から又八郎忠朗付きに任じられる。末尾の其子は後継付記の書き出しのみで子の名や事績が続かず、独立人物としない。
- 検索キーワード
- 市来家繁/八左衛門尉/掃部介/備前守/市来軍助子/御使役/蒲生/伊作/地頭/朝鮮供奉/慶長七年/忠恒/大坂/福島正則/山口直友/関東使者/本田佐渡守/家康拝謁/十一月九日御内書/慶長十四年/琉球出兵/与頭/三十一人/家久/又八郎忠朗/加治木/七百十二石/寛永十三年五月没
- 公開区分
- 公開可
- 精読・確認状況
- 従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
- 公開判定根拠
- 従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁精読
- 本文境界判定
- 旧AI全2頁を400dpiで確認。第2頁は白紙。原冊15頁・第1分冊26頁を照合し、市来家繁見出しから末尾の其子までを1頁に切り出し直した。見出し小注と知行・没年の左端を含め、右隣の市来軍助記事は除外。通常PDF・AI用PDF各1頁の全頁表示を確認してバックアップ後に差し替え。末尾其子に独立人物の見出し・名・本文はなく新規採番しない。
- 判読保留
- 没日の廿に続く字は傷みがあり断定しない。公開文は寛永十三年五月まで。友ト云の小注、地頭年次注は過剰な補完をせず内部記録に留める。本田佐渡守は言上先で、同行者とする旧説明を撤回。軍役小注は十人に外二十一人を加え合三十一人、知行は七百十二石。其子のみから新規人物を作らない。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』