HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
山田有信
異名・検索語:山田越前守有信/入道理安/初名新助
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
未確定事項:本文は天文十三年生・慶長十四年没とするが、享年は六十一歳と記す。生没年からの数え年六十六とは一致せず、旧説明の六十六を本文の記載に改めた。/没記事は六月十四日。続く義久追悼文は十月十四日と記す一方、文末は同年六月廿九日であり、没月の異記を留保する。/母方の父名・地頭職の細字は留保。墓所は原冊で国分龍門寺と確認し、旧龍昌寺を訂正。墓所を没地とは断定しない。
DESCRIPTION
本文内容説明
山田越前守有信(入道理安)は天文十三年生、母は町田又七忠林の娘。幼少から島津貴久に仕え、日置・串木野・新納院高城・高原・福山などの地頭を務めた。天正六年、大友軍に包囲された高城を島津家久らと守って軍功を挙げ、その後も水俣・八代・有馬・三池・筑紫・岩屋・豊後に転戦。岩屋城では二番乗りして石打で負傷した。天正十五年、豊臣秀長軍に包囲され、義久の命で子有栄を人質に開城して剃髪。のち千五百石を領し、庄内の乱でも出兵した。義久の病の身代わりを祈ったが、慶長十四年六月十四日病没、本文の享年は六十一(生年と不整合)。法名利安慶哲居士、墓は国分龍門寺。
系譜・人物関係
母は町田又七忠林の娘。子有栄を豊臣秀長への人質とした。島津貴久・義久・家久・義弘に仕える。
奉公・役職
日置・串木野・阪之城・高江・新納院高城・高原・宮之城・福山などの地頭。のち千石、さらに五百石加増。
軍役・事績
高城籠城、水俣・八代・有馬・三池・筑紫・岩屋・豊後の諸戦。岩屋城で二番乗りして負傷。庄内の乱にも出兵。
生没・法名等
本文は天文十三年生、慶長十四年六月十四日病死、六十一歳。生没年による数え年六十六と不整合。法名利安慶哲居士、墓は国分龍門寺。追悼文の没月十月と文末六月廿九日は整合せず留保。没地は断定しない。
- 統合人物ID
- HP-0621
- 原人物ID群
- 07-122-01
- 氏・分類
- 山田
- 掲載巻頁
- 巻7:122~123
- 主題・活動
- 系譜・奉公・役職・軍役・生没
- 人物関係要約
- 母は町田又七忠林の娘。子有栄を豊臣秀長への人質とした。島津貴久・義久・家久・義弘に仕える。
- 検索キーワード
- 天文/慶長/地頭/合戦/戦死/攻落/攻取/籠城/豊後/肥後/大坂/島原/高城/岩屋/根白坂/子/母/女/卒/法名/墓/享年/歳/軍役・由緒・役職
- 公開区分
- 注記付き公開可
- 精読・確認状況
- 現行AI全4頁再読・没記事原冊拡大照合済。
- 公開判定根拠
- 軍歴・高城開城を確認し、享年の計算値との不整合と没月異記を明記。墓所寺名を訂正し注記付きで検索公開。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
- 本文境界判定
- 現行AI全4頁確認。山田有信の軍歴・高城開城・知行と役職・病没に続く義久追悼文は本人に関する引用。家久や有栄らの行為を本人と区別。追悼文末の署名は独立人物伝としない。次の山田有栄見出しは範囲外で、境界変更・新番号は不要。
- 判読保留
- 本文は天文十三年生・慶長十四年没とするが、享年は六十一歳と記す。生没年からの数え年六十六とは一致せず、旧説明の六十六を本文の記載に改めた。/没記事は六月十四日。続く義久追悼文は十月十四日と記す一方、文末は同年六月廿九日であり、没月の異記を留保する。/母方の父名・地頭職の細字は留保。墓所は原冊で国分龍門寺と確認し、旧龍昌寺を訂正。墓所を没地とは断定しない。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』