島津元久宛行状
応永六年十二月廿七日 / 冊子 187頁
島津元久が得丸但馬守へ、島津庄大隅方姶良庄内の得丸名一円を給分として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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応永六年十二月廿七日 / 冊子 187頁
島津元久が得丸但馬守へ、島津庄大隅方姶良庄内の得丸名一円を給分として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。
(天文十五年)八月廿九日 / 冊子 838頁
半松斎宗養が阿多但馬守に、新詠の送付を喜び、春成兵庫助下国の際の贈物を謝し、今後も詠歌を送るよう求めた書状。
永禄六年二月廿八日 / 冊子 122頁
日向国櫛間湊の天神丸船頭・日高但馬守が琉球へ渡海することを島津貴久が認め、朱印を据えた航海許可状。
(寛永三年)八月廿二日 / 冊子 17頁
島津家久が浅野但馬へ、前日に御城へ召し出され中納言に任ぜられたこと、早速祝賀の使札を受け取ったことへの礼を述べた書状案。詳しい礼は面会のうえ申し上げるとする。
八月廿九日 / 冊子 323頁
半松斎宗養が阿多但馬守に、当年の新詠を送ってほしいと求める。春成兵庫助の下国時に書状を託して返書を得たこと、新作の詠歌を都で写し留め後世の教訓としたことを述べ、奥書への礼として贈られた沈香三斤および別に受領した二斤に謝意を表し、詳事は春成兵庫助に託した書状。
(文禄元年)6月18日 / 冊子 571頁
豊臣秀吉が、朝鮮渡海の遅れに不満を抱いた梅北国兼が佐敷辺で一揆を起こしたため、義久からの報告と首を討つ旨の命令を受け、現地諸将へ即時の成敗を指示した朱印状。 島津兵庫頭の不安を除くよう申し聞かせることも命じ、梅北一揆を島津家だけでなく豊臣政権の軍事命令として鎮圧したことを示す。
天正五年十二月 / 冊子 524~525頁
伊東義祐の暴政に反発した福永丹波守・野村但馬守らが蜂起し、民家への放火を合図に島津方へ内応したため、義祐が豊後へ逃れた経緯を叙述する。上原尚近が報告すると、正八幡宮参詣中の義弘は直ちに野尻へ進み、評議後に本城へ迫って日向諸城へ番兵を置いた。
年月日未詳 / 冊子 658頁
一之瀬付近の戦いで丸田但馬と川原与介が深入りし、相良方の騎馬五騎に追われた。下人早左衛門が『逃げても死ぬなら首一つ取って死のう』と但馬の鉄砲を手にして踏みとどまり、但馬も小山に忍んで先頭の騎馬を撃ち落としたため、敵が伏兵を疑い味方が退却できたという逸話。
年月日未詳 / 冊子 571頁
義弘父子の朝鮮渡海途上、平戸に滞在した梅北国兼・田尻但馬守父子らが変心して一揆を起こし、国兼が佐敷城へ入り、田尻父子が松波瀬で放火した経過を記す。 松浦筑前らが田尻但馬・荒次郎・荒五郎以下百余人を討ち、国兼の一党も赤松太郎や球磨・彦北の兵に殲滅されたとして、梅北一揆の発生から鎮圧までを島津義弘譜にまとめる。
年月日未詳 / 冊子 583~585頁
島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡る途中だった梅北国兼・田尻但馬守らが平戸付近で変心し、佐敷城を占拠して八代方面へ兵を出した梅北一揆の全経過を詳述する。田尻勢の放火、松浦筑前らによる迎撃、赤松太郎や球磨・彦北勢の追討、国兼の妻子・一族の捕縛と処刑、諸将からの報告と秀吉方の処置までを収める。一揆発生から鎮圧後の残党処分までを島津義久譜から通覧でき、朝鮮出兵に伴う家中統制の崩れと豊臣政権の介入を示す重要記事である。
十一月廿八日 / 冊子 37~38頁
高岡の小田原源右衛門が、豊臣秀吉が川内泰平寺へ下向した際、龍伯(島津義久)の指図により祖父但馬と父源太兵衛が御輿を廻して奉公し、その忠節により高五石を賜った由緒を、名寄を紛失したため古書物に基づいて申し立てた上書。
4月(日・年不記) / 冊子 293頁/原整理番号 412の3/整理ID 412-3
第一の公義通知は、将軍の上洛・二条城着と参内に対する祝儀を在国在邑者や隠居が和泉守の旅館へ飛札で送るとの先の指示を改め、留守老中へ送るよう命じる。還御に際しては拾万石以上の在国在邑者が後豊前守・和泉守宅へ使札を送り、それ以下は飛札とし、隠居は月番老中へ送るよう指示する。第二は公義の別紙を表方へ通達し、奥掛・勝手方にも伝えるよう求める四月但馬の副書。伊地知壮之丞取次注がある。十万石の区分と使札・飛札を区別し、実際の発送や将軍の帰着をこの指示だけから認定しない。
正文9月/外包:元治元年子11月6日収納注 / 冊子 386~387頁/原整理番号 549/整理ID 549
松平修理大夫に宛て、長藩の士の暴挙に際して速やかに人数を出し凶徒を追い退けたことを「叡感不斜」と評価し、移鞍一具を賜うとする九月の勅書。別紙には鞍橋・四緒手・刀革・轡・鐙・切附・表敷・面頬類・手綱・腹帯・面掛・胸掛・尻掛・立間・差縄・引差縄・平鈴・髪結糸・鞍覆・四手・鞭・背布團などの馬具を列挙する。外包には元治元年子十一月六日、但馬から渡され大切に護置する旨を伊藤整之介が承知し、白木御文書十一番箱に納めたとの注がある。賞賜本文の九月と収納注の十一月六日を分け、功績の評価は勅書の叙述として示す。
辰二月23日内田から伊勢様、本文に昨22日の提出・今日代理勤務を記す / 冊子 522頁/原整理番号 680の2/整理ID 680-2
親征の太守供奉に関する御供列の届一通を私の名前で出すという表示を掲げ、昨二十二日に二条城太政官代へ出て松尾但馬に面会・演説の上差し出し、申上げる旨を聞いたと報じる。自分たちの差支えで留守居付役勤永山左内が勤めたとして、辰二月二十三日に内田仲之助が伊勢様へ知らせる。追記では、供列の内百人ほどを残して残りを先供として出輦二、三日前に大坂へ下すこと、五百人の内で太守御供百人ほどを残すという意味を承知したと述べる。近習十人・手廻り十五人までの扱いも軍務局から聞いたとして伝える。
文明十三年六月一日 / 冊子 497頁
木場但馬守重著が、志への謝意として私領の小原内の水田などを種田圖書へ譲り、今後も奉公に励むよう述べた譲状。
享保十四年十一月十七日 / 冊子 958頁/整理ID 2415
島津但馬守が竹姫入輿後の祝儀と親類の儀礼について、御広敷への参上や祝儀物の差上げを伝える。
元文六年正月二十五日 / 冊子 632頁/整理ID 1603
島津但馬守は、自領への唐船漂着を別紙で届け出る。参勤が迫るため、漂着船への対応を松平大隅守継豊の国元家老に頼み、以後の届出を継豊から行う旨を知らせる。継豊側が二月二十三日に提出した写しを収録する。
延享二年七月廿八日以降 / 冊子 817頁/整理ID 2154
七月二十八日以降、上使の興津帯刀を通じて継豊が拝領を受けた。継豊は病気であったため、島津但馬守忠就が代わって執政らの邸を訪れ、謝礼を述べたと記す。
延享三年四月十九日 / 冊子 911頁/整理ID 2445
島津但馬守が、先祖以来、用事の節には松平大隅守が国元にいるときに参上してきた慣例を述べる。自身はまだ同じ取扱いを許されていないため、今後用事があって国元へ参る際にも従前のように仕えたいと願う。御代替に際してその希望を申し上げた四月十九日付の覚。病気による登城辞退の届ではない。
延享三年四月十九日 / 冊子 911頁/整理ID 2446
松平大隅守が、島津但馬守の先祖以来、用事があるときに大隅守の国元へ参上した先例を説明する。但馬守から、御代替後も同様の手続を取りたいとの願いがあったため、今後も従前どおり参上を許したい旨を申し上げる。No.2445の但馬守自身の願書と対になる四月十九日付の覚。
延享三年五月朔日 / 冊子 916頁/整理ID 2456
島津但馬守が従来どおり大隅守の国元へ用事の際に参上できるかについて、御代替後の取扱いを報告する。以前の先例と先月十九日に差し出した書付を引き、相手方から受けた連絡を整理して、今後の使者・取次の方法を島津左衛門へ五月朔日付で知らせる。No.2445・2446の願いに続く文書で、献上馬の取次ではない。
天明七年正月十八日(年は朱書) / 冊子 921頁/原整理番号 2530/整理ID 2530
島津但馬守は持病の疝積と足痛により去々巳年五月に隠居を命じられたが、今も病状が快方に向かわないと述べる。島津淡路守が願い出たとおり、但馬守を在所へ遣わして保養させることを許可してほしいと願う。正月十八日付で、署名位置は「御名」と記す。
5月(改称通知);5月廿五日(祝儀指示・取次);改称は去る12日、登城は明廿二日と記す / 冊子 260頁/原整理番号 359/整理ID 359
雑集中の二つの申渡。第一は京都の近衛からの申進により、久光が去る十二日に三郎へ改名したとの報が届いたので承知し、表方・奥掛・御勝手方・諸郷私領へ周知する。五月但馬、本文五月廿五日二階堂源太夫取次注。第二は同じ改名について、一門方と月次御礼の者へ「明廿二日四時」の登城を指示し、その席で太守・三郎へ祝儀を述べ、当日は大奥にも祝儀を伝え、精進日間の祝儀を申し上げるよう命じる。五月廿五日但馬。廿五日の指示と明廿二日の前後疑義は原字を保持する。
6月(本文年日不記);勅使出立は先月中旬の報 / 冊子 262頁/原整理番号 362/整理ID 362
雑集中の但馬申渡。先月中旬に大原三位が勅使として関東へ出立することに伴い、同日に三郎久光も当地を発駕して出府する旨を近衛から承知したという到来報を、関係者へ伝えるよう命じる。六月、但馬。近衛への返信や勅ヶ条書そのものではなく、発駕・出府に関する伝達記事として扱う。
年月日未詳 / 冊子 291頁
給黎を領する伊集院頼久を討つため、島津久豊が吉田・蒲生以下の軍勢を率いて陣営を構え、伊集院方の救援・反撃と交戦した記事。伊作・川邊勢の働き、本田・税所・吉田・加治屋らの戦死、城兵の夜間退去を記す。
三月 / 冊子 237~238頁
養子・相続人の家格や持高、分地願、屋敷・地面の売買・質入れ、借銀、奉公・家業などの取扱いを定め、願い出や許可の手続、家中での争論防止と統制について寄合衆以下へ示した通達写。
元文五年十二月九日 / 冊子 18頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の10)
比志嶋隼人が十二月九日、島津但馬守へ、源氏へ復したいとの意向を樺山典膳からの連絡と本人の書状で承知し、使者によって願う旨も承知したと伝える。当座は記録方へ伝えてあるので、願いを出す時節について、但馬守から先に指図してほしいと頼む。
元文五年十二月二十五日 / 冊子 18~19頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の11)
比志嶋隼人が十二月二十五日、島津但馬守へ、源氏復姓願の時節を記録方に伝え、別紙の申し出を受けたと知らせる。姓の変更は勅命によらなければならず、現在これを願う機会は見当たらないため、萬壽丸の初官の際に口宣の姓を正すよう願うのがよいと述べる。家の姓について林大学頭から問い合わせがあれば別紙の通り江戸の家老へ伝えるが、今すぐ願う内意はなく、家督側の家老も使者による願いは不要としたことを伝える。将来に関わる事柄なので、別紙一通を参考として差し上げると結ぶ。
宝暦九年四月二十七日 / 冊子 723~724頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2183
継豊の四月二十七日付書状控は、公方と大納言の健勝を喜び、自身の病気がなお回復しないため、薩摩守重豪を通じて当年から巳年まで三年間、国元で養生したいと願った旨を述べる。願いのとおり許可されたとの申し渡しを承知し、ありがたく思うと謝意を伝える。老中五人の人々御中と、大納言御方の秋元但馬守の人々に宛てる。
宝暦十一年十二月二十一日 / 冊子 891頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2619
重豪が十二月二十一日、酒井左衛門尉・松平右近将監・秋元但馬守・井上河内守へ、公方の健勝を喜び、領知判物拝領の礼を述べる。十月二十二日に名代の嶋津淡路守が御前へ召し出され、上意により判物を賜り、早速国許へ届いて頂戴したことをありがたく思うと伝える。礼使として種子嶋蔵人を差し立て、詳しくは口上で申し上げるとする。松平右京大夫への書状では、種子嶋蔵人が御礼を申し上げる旨の文面とし、側御用人板倉佐渡守へも同案とする。
宝暦十三年四月二十二日 / 冊子 980頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2794
重豪が四月二十二日、帰国の暇を得たが男子がいないため、在国中に不測のことが起きた場合は、国元にいる島津杢(久峯、当年三十二歳)へ相続させ、跡職を変わりなく認めてほしいと願う。酒井左衛門尉・松平右近将監・秋元但馬守・松平右京大夫の四名に差し出す。包紙の注は、連名の書付と奉書を折綱で付けた封の取扱いを記し、本文の四月二十二日と別に、二十一日に御用番酒井へ留守居を通じて差し出した旨を記す。
明和三年八月二日 / 冊子 137頁/原整理番号 321/整理ID 321
今日、上使安部平吉を通じ、公方から松平薩摩守が御鷹の雲雀を拝領してありがたく思うが、薩摩守は積気のため、名代の島津又吉郎が御礼を申し上げる口上書。八月二日付で、年は朱注の明和三年。老中四人へは墨書のとおり、西丸老中秋元但馬守へは朱書のとおりとする注がある。朱追記では、上使来訪時には太守自身が出迎えて頂戴したが、その後積気となったため、両御丸老中への礼に又吉郎が廻勤したとする。新番二階堂千太夫が付き従い、滞りなく名代の廻勤が済んだ旨を帰って申し出たことを、御使番が報告したと記す。
文政9年3月5日書状・4月4日返書(朱注) / 冊子 749頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2111
重豪寿像を不斷光院山内に神殿を造って安置する願いについて、北郷内記が伝えた許可と三家老連署返書の対応を収録する。源寿院当住持が、不斷光院・増上寺宿坊の双方から願い、願いどおり許されたため、諸人の拝礼と寄進物を勝手次第とすることを認めた。重豪の沙汰を別紙に示して送るので、印を許した場所で取扱いを整えるよう求める。三月五日北郷内記と四月四日の朱注を分け、掲載署名は但馬・久馬、目録は久風外二名とする。
〔天保九年〕十二月六日(本文戌年、年は目録による) / 冊子 24頁/原整理番号 34の1/整理ID 34-1
猪飼央(目録は尚敏)が島津但馬・伊勢、菱刈安房へ、斉興の転任に伴う達しの内容を伝えた書状。白書院の縁頬に老中が列座し、用番太田備後守から伝えられた書取写しを添え、別紙の内容を役人へ申し渡すよう沙汰されたと知らせる。国元での申渡は宛先側で取り計らうよう求め、御記録奉行には別に伝えてあると付す。戌年十二月六日付。
〔天保九年〕十二月廿九日(本文戌年、年は目録による) / 冊子 26~27頁/原整理番号 35の4/整理ID 35-4
猪飼央(目録は尚敏)が島津但馬・伊勢、菱刈安房へ、斉興の転任後の祝儀・勤向について太田備後守から受けた指図を伝えた書状。例書を添えて伺ったところ、朱書のとおり書取で申し渡されたとし、年頭・五節句・八朔・月次の式向も別紙写し三通のとおり伝えられたと知らせる。内容を承知して取り計らうよう求め、御記録奉行にも伝えてあることを付す。戌年十二月二十九日付。
〔天保十年〕正月三日(本文亥年、年は蓋紙・目録による) / 冊子 33頁/原整理番号 40の2/整理ID 40-2
猪飼央が島津但馬・伊勢、菱刈安房へ、斉興の白綾着用についての指図を伝えた書状。転任に伴って白綾を用いたいと内意で伺ったところ、用番太田備後守が前年十二月二十九日に、別紙写しの朱書のとおり着用して差し支えないと書取で伝えたと知らせる。承知して取り計らい、御記録奉行などへも伝えるよう求める。亥年正月三日付。
〔天保十年〕二月廿二日(本文亥年、年は目録による) / 冊子 34頁/原整理番号 44/整理ID 44
調所笑左衛門が島津但馬・伊勢、菱刈安房へ、斉興の帰国の暇に伴う登城礼の扱いを伝えた書状。帰国の暇を許されたことと礼を述べた経過は別紙で知らせたが、以前は月次の席である白書院で礼をしたのに対し、今回は黒書院へ引き上げて礼をしたと説明する。これは前年冬の宰相任官による重い扱いであると留守居から聞いたため、御記録奉行にも伝えたとし、国元の記録奉行などへも知らせるよう求める。亥年二月二十二日付。
〔天保十一年〕十一月五日(本文子年)。到来朱注は十二月十九日 / 冊子 42頁/原整理番号 59の2/整理ID 59-2
島津主計が、島津但馬・石見、菱刈安房、猪飼央へ、中将斉宣の位階昇進に関する達しを伝えた書状。白書院の縁頬に老中が列座し、太田備後守から太守斉興へ別紙書取写しのとおり伝えられたため、江戸側の役人へ申し渡したとし、国元の役人への申渡も取り計らうよう求める。御記録奉行には別に伝えてあると付す。正文は子年十一月五日付だが、同件の昇進記事は十二月四日で日付にずれがある。朱注は十二月十九日に急飛脚で到来したとし、外包は十二月四日の昇進関係書付を平田助之進へ渡して帳面へ写し、本書を町田二郎四郎へ差し出した経過を記す。
申9月19日(本文);10月廿二日到来注;外包:万延元年申10月廿八日 / 冊子 230~231頁/原整理番号 315の4/整理ID 315-3
斉興の大圓寺石塔建立に関する川上式部の書状。天璋院の篤い内沙汰と特別な評合で進め、石塔・玉垣等が完成し、拙者と御役人が拝見したところ石柄も申し分なく、去る十五日に点眼供養を済ませたと報告する。天璋院から御筆の梵経等を石櫃へ納める旨が伝えられ、姫等の別紙名列分も二箱に整え、櫃蓋裏の経緯記載と別紙どおりの彫刻を命じる。差し掛けのことなので順聖院の例を記録奉行に調べさせ直ちに取り計らい、建立経緯の記録も整えるよう求める。入目の別紙ができ、拙者・御側御用人・御側役・大奥女中の灯籠献備も石塔脇に成ったと伝える。申九月十九日、左衛門・筑後・伯耆・攝津・但馬・登の六名宛。朱書に十月廿二日到来・急便の表示があり、外包に万延元年申十月廿八日とある。
天保3年3月20日(本書)/4月16日(小字返答・朱注) / 冊子 899頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2525
三位様こと島津重豪の八十八歳の祝儀について、猪飼が三月二十日付で五名へ照会した本書と、その行間の小字返答を収録する。本書は十五日の年賀に伴う月次礼、重豪本人・両殿・若殿・諸士からの祝儀、大奥関係の祝儀、佐土原・中山王・近親への通知と使番による内輪の取扱いを尋ね、御内證へ伝えるよう求める。返答は祝儀を伝達済みとし、中山王への通知を琉球館聞役へ指示したこと、佐土原は仮屋守へ伝えた一方、隣国への通知は不要としたことなどを記し、重豪に滞りなく届いたことを喜ぶ。日付は朱注の四月十六日。京都・大坂へは三月二十日の便で伝えたと記す。本書の猪飼署と五宛、小字返答の方向・日付を分ける。
天保5年8月2日 / 冊子 995~996頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2733
重豪公御譜中、家老座に控正文を置く猪飼央尚敏の書状。前年二月に瑞聖寺へ寺納した御祠堂金二百両の取扱いを定め、月七分の利足を金十六両三歩と三匁と算定する。内訳として大信院の年中祭料六両を設け、毎朝の酒水・茶湯・仏餉、御霊屋僧の回向、忌日の菓子四盆・上供六味、祥月の菓子六盆・上供六味と住持焼香・大衆誦経に充てる。正月・七月の寺納分は屋敷に預けて積金し、年回法事料へ回す。享和三年の寺納金に由来する毎年七月十一日の御施餓鬼料について、日々の供養、御霊前の菓子十盆・上供八味、住持焼香・大衆誦経の手当を示し、文化十三年以後の加増分と合わせて大施餓鬼料を構成する。さらに大信院御仏前の年中花香料、御霊屋附年中僧料を含め、総額のうち金六両二歩は年回法事料として屋敷に積み置き、残る金十両一歩と三匁を盆暮二度に分けて渡すよう定める。瑞聖寺からの申出を享和三年の先例で吟味し、寺とも内談して了承を得たため、施餓鬼が迫る中で中将へ達して処理し、四人へ貴聞に達するよう求める。天保五年八月二日付。基金二百両、利足、祭料・施餓鬼料・花香料・僧料、積金と盆暮支払を分けて整理する。
〔天保十二年〕二月三日(本文丑年)。口裏朱注は二月廿七日到来 / 冊子 43~44頁/原整理番号 62/整理ID 62
斉宣の位階昇進に伴う位記・口宣の受領経過を、島津主計が家老らへ伝えた書状。使者の物頭川上拾郎左衛門を京都へ遣わし、先月五日に徳大寺の邸へ官物を納めて口宣等を受け、献上物も済ませたと記す。通常は江戸で願い出た日に宣下されるが、今回は触穢中のため同じ扱いにできず、先月四日の叙位となったと説明する。近衛への目見、所司代牧野備前守や両御丸老中への伝達、川上からの礼と女房奉書の受領、御三殿への祝儀、国元からの使者の派遣についての取計らいも記す。取込中でありながら滞りなく受領できたことへの喜びを述べ、叙位日などを御記録奉行へ伝えるよう求める。丑年二月三日付、朱注は二月二十七日に到来した旨を示す。
月日しれず(原注);去ル24日の赤間関沖来船への言及 / 冊子 329~330頁/原整理番号 466の1/整理ID 466-1
七名連署の書状。修理太夫の安否を尋ね、去る廿四日に赤間関沖へ外国船一艘が来て合図を打ったが、船が無沙汰に夜入って砲臺前へ寄り急襲と考えて砲撃したと述べる。出張者の注進と、取扱いについての風説の中に薩摩の御手船だったという話があるため、真偽を確かめたいとする。もし誤りなら極めて重大なので一人を遣わして相談し、飛札で返答を聞いてほしいと求める。署名四名が第一頁、三名が次頁に続き、薩摩側五家老へ宛てる。月日しれずとの原注を保持し、実際の船籍や誤認の成否をこの依頼だけから確定しない。
元文六年正月二十五日 / 冊子 633頁/整理ID 1604
島津但馬守は、日向国那珂郡徳之淵浦沖へ漂着した唐船の経過を詳報する。正月二十日から荒天で接近できず、二十一日に乗組員四十四人、二十三日に二十人を救助して小屋で介抱・警護した。通事を呼んで六十四人乗りの船が暴風で帆を失ったと確認し、長崎奉行へ知らせた。
宝暦八年五月廿一日 / 冊子 684頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2038
秋元但馬守凉朝が五月二十一日、松平大隅守継豊へ、公方と大納言の機嫌がよいことを伝える。三月十八日、竹姫君が西丸へ入る際に初めて召し連れた菊が、大納言と御簾中への御目見を許され、拝領物もあったことについて、継豊の感謝を受け止める。書面の趣旨を承知したと返答する。
宝暦八年六月二十二日 / 冊子 694~695頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2069
秋元但馬守凉朝が六月二十二日、松平大隅守継豊へ、酷暑の折に公方・大納言の機嫌を尋ねた書状を受け、両者は安泰なので安心するよう伝える。献上された鰹節一箱を披露し、一段の御仕合であると知らせる。
宝暦八年六月二十二日 / 冊子 695頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2071
秋元但馬守凉朝が六月二十二日、松平薩摩守重豪へ、今朝献上した琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺を披露したと伝える。一段の御仕合であると知らせる。
宝暦八年八月四日 / 冊子 699頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2088
秋元但馬守凉朝が八月四日、松平薩摩守重豪へ、八朔の祝儀として使者を通じて献上された太刀一腰と御馬代黄金十両を披露したと伝える。一段の御仕合であると知らせる。
宝暦八年九月十三日 / 冊子 702頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2101
秋元但馬守凉朝が九月十三日、松平大隅守継豊へ、公方・大納言の機嫌を尋ねた礼状を受け、両者は健勝なので安心するよう伝える。献上された干鯛一箱を披露したと知らせる。一段の御仕合であると伝える。
12月(関所・出入通知群)/3月但馬副書・甲子3月2日市来次十郎伝達注 / 冊子 323~324頁/原整理番号 458/整理ID 458
三内容の通知群。御上洛の留守中は関所と江戸の出入口・宿・番所での確認を厳重にし、来る正月十日までの遠国からの出府者に限って、主人・領主等の調印書付により日限・怪しい事情や説明を確認するとする。次の詳告は来る廿五日から、万石以上の家来往来に月日・人数を明記した調印書付を求め、本道以外の通行や強引な通行を取り締まる。代官・手代、寺社家来、主人不在の小給所等にも発行主体と確認条件を定め、万石以下も相応の書付で扱う。御供・御付を名乗る不急の出府を戒め、印鑑三十枚ほどを来る七日までに日付を付して出入口宿番所へ返すとする。最後は別紙貳通を表方・奥掛・勝手方へ伝える三月但馬副書と、甲子三月二日市来次十郎の伝達注。期限の月や年を推定で揃えない。