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HP-1753巻9:173注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

木脇祐昌

異名・検索語:木脇祐昌/木脇刑部左衛門祐昌/刑部左衛門/祐昌

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:生年欄の年数は十八/十六の判読と干支『丁未』との整合を留保し、概要では天文年間生とする。干支から逆算して本文の年数を確定しない。/八月十日は包囲記事の日付で、戦死日の独立記載ではない。小注の引用記録名、鎌山左京亮の諱等の細字には追加校合の余地がある。

DESCRIPTION

本文内容説明

木脇刑部左衛門。正徹の嫡子で、母は町田丹後守の娘。天文年間生。永禄九年十月十五日、三山城で軍功を挙げた。天正十三年、肥後花山の築城に伴って地頭となり、阿蘇家の押さえを命じられた。同年八月十日、三船城主甲斐相模守らが花山城を包囲。球磨・八代の兵で防戦したが、敵が多く数か所を負傷し、辞世を詠んで敵中へ駆け入り戦死した。大手口で戦死したという小注もある。在番の鎌山左京亮ら三十余人も死亡したと記す。法名・墓所は記載されない。生年の年数と干支には疑義があり、八月十日を戦死日とは断定しない。

系譜・人物関係

正徹の嫡子。母は町田丹後守の娘。隣接条に祐貞(見出しに吉の表記)が祐昌の嫡子、祐秀が祐貞の嫡子とあり、祐秀は祐昌の孫に当たる。

奉公・役職

天正十三年、肥後花山の築城に伴い地頭として阿蘇家の押さえを命じられた。命令した主君名はこの条に明記されないため外部知識で補わない。

軍役・事績

永禄九年十月十五日の三山城軍功。天正十三年花山城を甲斐相模守らに包囲され、球磨・八代の兵で防戦。負傷後に辞世を詠み敵中に入って戦死。

生没・法名等

天正十三年、肥後花山城の戦いで死去。小注では大手口で戦死という。八月十日は包囲の開始として記すが戦死日を独立には記さない。法名・墓所・享年は本人条に記載を確認できない。

統合人物ID
HP-1753
原人物ID群
09-173-04
氏・分類
木脇
掲載巻頁
巻9:173
主題・活動
三山城軍功・花山城地頭・籠城・辞世・戦死
人物関係要約
正徹の嫡子。母は町田丹後守の娘。隣接条に祐貞(見出しに吉の表記)が祐昌の嫡子、祐秀が祐貞の嫡子とあり、祐秀は祐昌の孫に当たる。
検索キーワード
木脇祐昌/刑部左衛門/正徹嫡子/町田丹後守女/祐貞/祐秀/三山城/肥後花山城/地頭/阿蘇/三船/甲斐相模守/球磨/八代/戦死/辞世/大手口/鎌山左京亮/天文年間/永禄九年/天正十三年
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
AI用PDF・通常PDF各全3頁、原冊173頁と拡大画像を追加照合済。生年・小注細字留保。
公開判定根拠
三山城の軍功、花山地頭と防戦・戦死を本人条から整理。生年と日付・小注の疑義を明示して検索案内を維持する。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
本文境界判定
現行通常AI各3頁は祐昌条の見出し・軍功・地頭任命・戦死本文と小注で連続する。甲斐相模守・鎌山左京亮は関係人物で独立見出しなし。次の○木脇三右衛門祐貞吉を含まない。今回の追加分割・PDF修復は不要。
判読保留
生年欄の年数は十八/十六の判読と干支『丁未』との整合を留保し、概要では天文年間生とする。干支から逆算して本文の年数を確定しない。/八月十日は包囲記事の日付で、戦死日の独立記載ではない。小注の引用記録名、鎌山左京亮の諱等の細字には追加校合の余地がある。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』