← 『本藩人物誌』人物検索へ戻る
HP-1472巻12:224公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

比志島紀伊守国貞

異名・検索語:比志島国貞/比志島紀伊守国貞/紀伊守/彦四郎/宮内少輔

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

DESCRIPTION

本文内容説明

比志島紀伊守国貞は彦四郎・宮内少輔とも称し、国真の子。天文十四年生と記す。天正年間に市来地頭を務め、六年の大友勢の日向侵入に際して高城を援けた。十年には弟彦八郎と肥前有馬へ使者に赴き、十四年の岩屋攻めに供奉して八代に在陣。十五年の白坂、翌年の義久の初上洛にも従った。慶長元年に義久の家老となり、五年には高岡地頭を命じられた。十五年、中山王を伴う家久の駿府・江戸行きに供奉家老として同行し、秀忠への目見えなどを無事に済ませた。元和六年四月三日没。本文は七十一歳とするが、生年とは一致しない。墓は南林寺内にあり、寛永五年には家久の命で国貞のために源舜庵が建てられたと記す。

系譜・人物関係

国真の子、彦四郎・宮内少輔・紀伊守。弟彦八郎と肥前有馬へ使者に赴く。実子国隆の独立見出しは既存12-224-03-02へ分離済みで、本PDFには含まれない。別項国隆の軍役・配流を国貞へ混入しない。

奉公・役職

天正年中市来地頭。慶長元年義久家老職、五年高岡外城建立時に高岡地頭。慶長十五年五月二日、家久が中山王を伴って駿河・江戸へ参勤する際の供奉家老。八月六日駿府着・御目見、二十五日江戸着、九月十二日登城し秀忠へ御目見、首尾能相済と記す。琉球侵攻自体への参加とは読み替えない。

軍役・事績

天正六年、大友勢の日向侵入で高城加勢。十年弟彦八郎と肥前有馬へ使者。十四年岩屋城攻に供奉し八代在陣。十五年四月十七日白坂供奉。十六年竜伯(義久)の初上洛に供奉。朝鮮出兵の具体的記載はこの本文にはない。

生没・法名等

天文十四年生、元和六年四月三日卒、本文享年七十一。記載年から数えれば七十六に当たるため不整合を保持し、本文の年齢を勝手に補正しない。没地は不記載。墓は南林寺中。寛永五年、家久の命により国貞のため源舜庵建立。法号の冒頭字は判読保留し公開文へ採らない。

統合人物ID
HP-1472
原人物ID群
12-224-03
氏・分類
比志島
掲載巻頁
巻12:224
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
国真の子、彦四郎・宮内少輔・紀伊守。弟彦八郎と肥前有馬へ使者に赴く。実子国隆の独立見出しは既存12-224-03-02へ分離済みで、本PDFには含まれない。別項国隆の軍役・配流を国貞へ混入しない。
検索キーワード
比志島国貞/紀伊守/彦四郎/宮内少輔/国真/市来地頭/高岡地頭/義久家老/高城加勢/肥前有馬使者/岩屋/八代/白坂/義久初上洛/家久/中山王/供奉家老/駿府/江戸/秀忠/元和六年四月三日/享年七十一/生年不整合/南林寺/源舜庵
公開区分
公開可
精読・確認状況
従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
公開判定根拠
従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
説明作成区分
AI用PDF全頁精読
本文境界判定
AI全1頁を視読。国貞見出しから軍役・家老・地頭・参勤供奉・没記事・庵建立・褒賞和歌までを保持し、既存分離された国隆見出しの混入なし。褒賞と和歌は付載記事で独立した新人物紹介ではないが、その年次と国貞没年との関係は保留。PDF変更・新規採番なし。
判読保留
生年天文十四年と元和六年没七十一歳は不整合。法号冒頭字を留保。末尾に寛永十一年十二月晦日・黄門公忠義の老臣五人褒賞と国貞の和歌を載せるが、没年後であり同人への帰属経緯・年次解釈を保留し公開文の生前事績に加えない。源舜庵・南林寺墓所と確定した軍役、役職、参勤供奉で公開可とする。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』