HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
浜田経重
異名・検索語:浜田経重/浜田民部左衛門経重/民部左衛門/経重/入道栄臨/栄臨/鏡山栄臨居士
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
未確定事項:冒頭は村田越前守経定の附来衆、後文は栄臨ハ村田越前守事ニテとする。本文の両記述を残し、経重と経定を同一人物と断定しない。/見出し脇の子孫注には浜田栄右衛門、浜田佐渡守重好三男也とあるが、係り先は留保。従来の経重の父は重好という断定を撤回する。初名小注の細字も確読を留保。
DESCRIPTION
本文内容説明
浜田経重は民部左衛門、入道栄臨。村田越前守経定の附来衆で、軍功により竜伯から鹿児島へ召し出された。秀吉の九州来征時に面会し、御手鑓と五百石を拝領。知行は一年分を収納した後、竜伯へ返上し、持高は百石と記す。敵中・城中へ忍び入る働きでも功を立てたという。慶長16年2月20日、竜伯の葬儀に際して福昌寺で殉死、78歳。法名は鏡山栄臨居士。殉死者15人の一人で、第11号の地蔵塔と記す。子の主水重昌については、白杵での斬功、押川公近と伏見城に忍び入ったこと、朝鮮・島原での働きを別に載せる。本文には栄臨を村田越前守とする異なる記述もあり、同定は留保。重好三男との小注も本人の父子関係とは断定しない。
系譜・人物関係
子は主水重昌。子孫注の浜田栄右衛門・浜田佐渡守重好三男也は対応を留保し、重好を経重の父と断定しない。冒頭の経定附来と後文の栄臨=村田越前守の記述は食い違いを注記する。
奉公・役職
冒頭は村田越前守経定の附来衆。諸所軍功により竜伯が鹿児島へ召出。秀吉九州来征時に拝謁・御手鑓と五百石拝領。一年収納後竜伯へ返上。持高百石。旧使者・槍役の任命という補足を除く。
軍役・事績
本人は貴久から義久の代に敵中・城中へ忍び入り武功。和歌二首を載せる。子主水重昌は天正14年白杵合戦で敵一人を斬り、伏見攻めで押川強兵衛公近と忍入、高麗陣で軍功、寛永14年島原の乱で諸将に従って起軍。子の事績を本人へ混入しない。
生没・法名等
竜伯の死去は慶長16年正月21日。経重本人は同年2月20日御茶毘の際に福昌寺で殉死78歳、鏡山栄臨居士。殉死15人の一人、第11号の地蔵塔と記す。本人の生年月日は不記載。
- 統合人物ID
- HP-1507
- 原人物ID群
- 02-023-01
- 氏・分類
- 浜田経重
- 掲載巻頁
- 巻二:23
- 主題・活動
- 軍功・忍び入り・殉死
- 人物関係要約
- 子は主水重昌。子孫注の浜田栄右衛門・浜田佐渡守重好三男也は対応を留保し、重好を経重の父と断定しない。冒頭の経定附来と後文の栄臨=村田越前守の記述は食い違いを注記する。
- 検索キーワード
- 浜田経重/栄臨/村田越前守経定/附来/竜伯/貴久/義久/秀吉/九州/御手鑓/五百石/返上/百石/福昌寺/慶長十六年/二月二十日/七十八歳/鏡山栄臨居士/地蔵塔/忍入/主水重昌/押川公近/伏見/白杵/高麗/島原
- 公開区分
- 注記付き公開可
- 精読・確認状況
- AI・通常全2頁と原冊上下段確認。父子の軍功を分離。本文内の村田越前守との同定・父子小注を留保。
- 公開判定根拠
- 来仕・槍と所領の拝領返上・殉死年月日と法名を確認。父子軍功を区別し本文内の不整合を注記して公開可。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
- 本文境界判定
- AI・通常各全2頁を原冊23頁上下段と照合。上段の経重見出し・子孫注・来仕褒賞・殉死法名・和歌・軍功を確認。栄臨ノ子主水重昌以下は子の関連軍功であり、上段末押から下段頭川へ続き、押川強兵衛公近と伏見城忍入、島原起軍まで同記事。次の畠山頼国の独立見出しを含まない。新人物紹介への切替ではなく明示された子の補足なので新規採番不要。PDF修復不要。
- 判読保留
- 冒頭は村田越前守経定の附来衆、後文は栄臨ハ村田越前守事ニテとする。本文の両記述を残し、経重と経定を同一人物と断定しない。/見出し脇の子孫注には浜田栄右衛門、浜田佐渡守重好三男也とあるが、係り先は留保。従来の経重の父は重好という断定を撤回する。初名小注の細字も確読を留保。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』