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旧記雑録拾遺 著作史料集3の目録
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旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:22-2 酒匂氏左衛門尉系図
酒匂氏左衛門尉家の系譜・軍歴・伝来什物の家例を記す。新左衛門尉から治部少輔へ続き、日州目白坂で戦死した人物を置く。源左衛門尉は鎌田尾張守政年とも称し、島津義久に仕え、伊集院忠朗・島津忠将の移動に従った後、永禄四年七月十二日の竹原山合戦で忠将とともに戦死し、配下三十余人も討死した。景宗は義久から正嫡と…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:23 高橋氏系図
高橋氏の出自を漢高祖・後漢霊帝の後裔から大蔵春実へつなぐ伝承で説き、筑前諸郡を領した大蔵姓高橋家に秋月氏から種時を迎え、顕種・元種へ続く系譜と軍歴を記す。顕種は大友方の攻撃を受けた筑前宝満城を守り、後に和睦した。元種は幼少で秋月種実の養子となり、天正十四年の島津勢による筑前攻略では父とともに大友勢を…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:24 高橋氏系図
漢恵帝・呂后から少帝・劉建・孝建・孝倫へつなぐ渡来伝承を経て、大蔵姓の祖から原田・秋月・江上・高橋・田尻の各氏へ分岐する系図。原田太郎種臣を筑前三笠郡原田城、秋月二郎種信を弥須郡古所山城、江上三郎種光を筑後三潴郡江上城、多記四郎長種を筑後三原郡高橋城、田尻五郎種保を生葉の居住者として、名字と城・所領…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:24-1 本朝列侯伝
『本朝列侯伝』から原田氏・秋月氏の起源説を抄出した記事。前漢高祖の無道の二皇子が舟で流され、兄の舟は筑前志摩郡へ着き、住民から崇められて守護となり、その荘を高祖と称して後裔が原田を名乗ったとする。弟の舟は明石大蔵谷へ着いて同地を領し、明石へ行幸した帝の秋月遊覧に随行して酒掃を務めたことから綸旨を受け…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:24-2 高橋氏系図
阿智王子から高貴王・春実・種弘へ続く祖系を掲げ、春実に対馬守・太宰大監の官職を注記した高橋氏系図。種弘以下を六つの系統に分け、種賢―種生―種直―種雄の系には長門守および『筑前秋月城へ遷居』、種宗―種春―種信―種恒の系には『大垣城に籠る』と記す。ほかに種幸―種家―種頼―種資、種貞―種高―種顕―種道、種…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:25-1 佐多家系図
祢寝家のうち佐多家の系譜として、頼親から親助(小大夫)・親清(権大夫)・親吉(新大夫)へ続き、親吉の子に親秀(建二郎)と親時を掲げる。頼親には文永3年7月18日死去との注記がある。河野六兵衛通古は、この系図を『祢寝家小松氏の嫡流ではない』と考証し、貞享4年6月9日に由緒書の端へ押札しておいたため、そ…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:25-2 禰寝家系図
清盛から基盛・重盛・宗盛へ分かれ、重盛―惟盛以下の系統から禰寝家へ至る系図。惟盛は元暦元年に27歳で入水したとし、その六代後の人物が建仁3年に薩摩国南俣院を給され、禰寝郡司を称して入道後は清重法師と号した由緒を記す。清重の系から清忠・清綱・行西を、別系として資盛―実盛―国盛―時盛および宗実を掲げる。…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:26 建部姓田代氏正統系譜
桓武天皇―葛原親王―高見親王―高望親王から平氏諸流を展開し、良望・良将・良兼・良繁・良文の系、忠頼・将常以下の各地の祖、北条四郎大夫時家から時綱・時兼・時政・義時・泰時・時氏らへ続く北条系、惟衡―正度―正衡―正盛以下の伊勢平氏系を並記した系図。忠盛には三十三間堂建立、清盛には太政大臣・厳島再興、維盛…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:26-1 島津元久書状
島津元久が田代殿へ、総国の大将軍として探題方へ馳せ参じるよう先日命じたのに辞退するのは分別がないと叱り、家格・人物・分限のいずれにも支障はないので早々に出立せよ、阿積谷殿を副将軍とすると命じた極月2日付書状。後半には田代氏の後続系譜を収め、元久代に河辺で36歳にて討死した人物と法名浄久、その子清玄以…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:27 建部姓弟子丸氏正統系譜
建部姓弟子丸氏について、大隅国の弟子丸名・智尾村などを領した将軍家御家人で、大隅国宮内正宮の田所検校職を務めたため同社旧記に多く見え、祢寝氏も同類であると述べる系譜序文。家伝は宗房を元祖とするが確証が乏しいため、建久9年の『大隅国御家人交名注文』に建部宗房が載り、弟子丸名を領したことが明白で家伝と文…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:27-1 大隅国注進御家人交名
建久9年3月12日、大隅国の御家人を上覧に供するため、国方・宮方に分けて氏名と職掌を注進した交名。国方には税所篤用、曽野郡司篤守、加治木郡司吉平、執行清俊、河俣新大夫篤頼、弥三郎大夫近延、木房紀太郎良房を挙げ、宮方には田所宗房、小河郡司宗房、帖佐郡司高助、東郷郡司時房、佐多新大夫高清、祢寝郡司、西郷…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:27-2 宮内社家隈元氏文書抜書
大隅国宮内社家隈元氏の文書から、建久9年3月12日当時の建部宗房に関する記載を抜き写したもの。『弟子丸五町』『廻村弟子丸五町』を田所建部宗房および大田所建部宗房の所知として掲げ、宗房の職掌を田所検校と記す。末尾に、右の記事が隈元氏文書の内にあるため今回抜写したと明記する。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:27-3 島津氏久安堵状
康暦3年5月20日、島津氏久(玄久)が弟子丸若徳丸へ、大隅国曽於郡内の智尾名は由緒ある所領であり、先に宛行った文書を紛失したという事情を改めて勘案し、先例どおり沙汰するよう安堵した文書。本文は『旧記雑録前編二』四一四号文書と同文である。後世の編者は康暦3年から明応7年まで118年隔たることから、若徳…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:27-4 郡智尾権現社家丸氏系図
大隅国郡智尾権現の社家・丸氏について、明応7年の智尾権現上棟文に見える建部弟子丸宗弘(治部左衛門尉)を起点とし、宗元・源次・宗益・宗辰・宗重・宗武・弘之・弘中・弘充・宗方・宗時・宗意・宗茂・宗信・宗祐・宗門・宗安・盈隆らへ続く系譜。備前守らが島津忠隆・貴久期の志布志城・蒲生城などの戦いで討死したこと…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:28 執印家之古系図
惟宗氏の宗大納言・紀中納言から忠方(若狭守)・知国へ続き、友兼・国光(筑前介)・成光(山城介)・国広(筑前介)の諸流へ分かれる執印家の古系図。国広系は忠友(民部大夫)―忠康(橋口右衛門尉)―忠久(豊後守)―忠時(大隅前司)へ続き、忠広(上総前司)・忠秀(兵衛尉)も掲げる。友兼系からは友広・友家・友久…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:29 惟宗姓市来氏系図
醍醐天皇の皇子保明親王・慶頼王の系統から保頼・頼房らへ続き、承平6年に惟宗姓を賜ったとする市来氏の系図。頼明・師貞・師行・時賢・行賢・国賢・天養・順賢・行直らの位階・官途を列記し、行直が大隅国宮執印に補され、順賢が姶良庄預所職に補任されたことなどを記す。教親・孝言・基言・広言へ続く古系図について、子…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:29-1 市来氏系図・家伝
惟宗姓市来氏について、政家・家房から近世の政香・政武らへ至る系譜と家伝を収めた長大な記録。冒頭で市来院郡司・郡司職、母方の大蔵氏、国分・河上・橋口・角・河俣など諸流との関係を示す一方、政家の出自や市来院郡司職の伝承は諸家系図・注進文書だけでは確証できないとして異説を検討する。元弘3年には家親が渋谷・…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:30 市来清十郎所持惟宗氏市来家系図
市来清十郎所持本として、倶漢―正邦―孝親―孝言―忠方へ続く惟宗氏祖系と、宗大納言・友兼・広言・康友らから市来氏諸流へ至る系線を図示した異本系図。広言には薩摩国鹿児島郡司・新田宮執印・藤内右馬丞、康友には島津豊後前司忠久とする注記があり、忠久―忠季―忠経の系、国分寺別当・国分太郎・市来院名主などの職掌…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:31 市来家六八郎流系図
市来家六八郎流として、六八郎・軍助を称し法名を一学、道号を道貫とする家満から、家繁・家秀と女子三人へ分かれる系図。家満は日州高城で江豊後衆が来着して陣を構えた際に戦死したと記す。家繁は八郎・八左衛門・備前守を称し、法名は徹岳、道号は宗見で、市来八左衛門家に結び付ける。家繁の系に僧一人の慶長2年10月…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:32 観応三年二月廿八日尾張義冬書下
観応3年2月28日、左馬助(欄外に尾張義冬と注記)が莫祢郡司へ、菱刈平良彦太郎重任以下が上総入道(字不知)に同心して敵対したため、重任の住宅に発向して誅伐せよと命じた書下。差出名の下に花押があり、欄外は『旧記雑録前編一』2401号文書と同文と記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:33 正平七年三月八日一色範氏書下
正平7年3月8日、沙弥(一色範氏)が莫祢兵衛尉(政真)へ、直冬・頼尚以下の凶徒を退治するため綸旨・御教書などが発せられたので、日を置かず馳参して忠を尽くせと命じた書下。差出の下に花押があり、欄外は『旧記雑録前編一』2398号文書と同文と記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:34 建武三年三月廿八日足利尊氏御教書
建武3年3月28日、左馬(傍注に足利尊氏)が莫祢兵衛五郎入道と大平平次郎へ、肝付八郎兼重以下の凶徒を討伐するため守護の催促に随い、抜きんでて軍功を立てよと命じた御教書。差出の下に花押があり、欄外に『旧記雑録前編一』1813号文書と同文と記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:35 暦応五年九月廿日島津貞久書下
暦応5年9月20日、沙弥(傍注に島津貞久)が大平左衛門三郎へ、在国司四郎入道は凶徒の一員で誅伐を命じられたため、速やかに馳せ参じて抜きんでた軍忠を尽くせと命じた書下。差出には御判があり、欄外に『旧記雑録前編一』2162号文書と同文と記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:36 建武三年三月十五日足利直義感状
建武3年3月15日、足利直義が大平平次郎へ、筑前国筥崎合戦で忠功を致し、その手の者を討死させたことをとくに神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。直義の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編一』1794号文書と同文と記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:37 〔文明十二年〕四月廿二日藤原久範契状
藤原久範が、相手から再び懇切な書状を受けたことに応え、今後は相手の大事を自分の大事とみなし、公方のことは力が及ばないが、そのほかのことに異意はなく同心すると約束した契状。もし違背するなら正八幡の神罰を受けると誓う。日付は卯月22日で、文明12年は編者の補い。宛先の人名部分は切断されて判読できず、欄外…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:38 二月五日義宗書状
義宗が大平左京へ、今度の国中の乱について別して相談し、辻同名式部少輔を長く在府させて日夜奔走させたこと、敵陣が各所で敗北したことを伝え、今後も親密に協力するよう求めた書状。2月5日付で年記はない。本文末尾に義宗の花押があり、欄外に『旧記雑録附録一』426号文書と同文と記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:39 文和二年六月廿一日畠山直顕書下
修理亮(傍注で畠山直顕)が、宛先を記さない書下で、大隅国の小濱十郎氏純以下の凶徒へ日を置かず馳せ向かって退治するよう命じた。さらに、その跡は兵粮料として所々に預け置くので領掌し、軍忠を尽くすよう指示する。文和2年6月21日付、修理亮の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編一』2486号文書と同文と記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:40 八月七日島津常陸証状
島津常陸が大平藤太・梅田八千へ、天草越前の押領に際して難所を渡海し、早速に注進した働きは言語に絶する重い忠節だと認め、後日に恩賞を与えると約した証状。8月7日付で年記はなく、『島津常陸判』と記す。本文は冊子549頁で始まり、550頁冒頭の宛名で終わる。欄外に『旧記雑録附録一』427号文書と同文と記す…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:41 建武四年八月日莫祢成助軍忠状
薩摩国御家人莫祢平次郎成助が酒匂殿へ、建武4年8月14日の市来院赤崎合戦で軍忠を尽くしたことを申し立て、同じ場所で戦った甑嶋地頭小川小太郎・武光伴三郎入道・宮里三郎次郎らがその働きを見知していると述べる。弓箭の面目を施すため早く軍忠を御注進いただきたいと求める軍忠状で、日付は建武4年8月日。末尾に『…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:42 建武四年十月日大平成助軍忠状
薩摩国御家人大平平次郎成助が、建武4年9月17日に市来城へ馳せ向かって昼夜合戦し、莫祢太郎二郎・甑嶋地頭小川小太郎と同小三郎・国分平次郎らが見知したことを申告する。同30日には後巻として馳せ向かい激しく戦い、その働きを守護代官酒匂兵衛二郎・石塚弥八らが知るという。さらに月名を欠く25日以来の守護所警…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID 無番号_0004 諸家系図文書 三 巻扉・鹿屋氏文書中表紙
『諸家系図文書 三』の巻扉と『鹿屋氏文書』の中表紙。巻扉には三番箱・伊進上の注記と、鹿屋氏文書系図(伴姓)、諸家古文書雑集、肝付氏系図、前田氏系図(伴姓)の収録見出しを記す。中表紙には『此冊中ノ文書ハ旧記雑録補入スム』との注記があり、鹿屋氏文書が続くことを示す。中表紙は誤って前項w7:42の確認用画…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:43 鹿屋忠兼覚書
鹿屋周防入道(忠兼)が、大隅・薩摩・日向の三州に伴氏の流れが分かれた次第を、知る範囲で書き留めた覚書。大伴親王の後胤とする善男大納言が清和天皇の時に流罪となり、その末子兼貞が鵜戸参詣の途上で三俣院を通り、現地の『平たひけん』と仮名書される人物の家に逗留して娘を妻に迎えたという由緒を語る。兼貞の子とし…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:44 肝付郡弁済使尊阿見参料請取状
尊阿が、鹿屋院預所方の見参用途三貫文を宗兼の手から受け取ったことを証する請取状。文保元年6月9日付で花押があり、尊阿には肝付兼藤の傍注を付す。欄外に『旧記雑録前編一』1203号および『家わけ二』肝付文書208号との同文注記がある。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:45 十一月十六日某書状
差出人未詳の人物が、雲州へ渡る聞書の借用について相手の尽力を伝え聞き、喜ぶ書状。尋光院と庄内をめぐる欠字を含む事情に触れ、こちらから使者を出す予定と、雲州が出立する前にその聞書を送ってほしい旨を記す。日付は霜月16日で年記・宛所はなく、書名の一部や使者を出す時期には欠字・墨消しがある。本文は『送給』…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:46 七月廿八日祢寝久高覚書
祢寝久高と目録が掲げる権左衛門が、城と所領の管理事項を箇条書きにした覚書。御普請、竹の利用、諸口の番衆、板城戸、弓鉄砲を挙げ、城近くの山を切らないこと、城屋敷を荒らさないこと、番普請を怠らないことを記す。鹿屋周防介に関わる米と御蔵米、秋月殿が財部へ移る件、福嶋へ往還する者が諸事を慎む件にも及ぶ。日付…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:47 応永十四年三月八日惟忠契状
惟忠が鹿屋殿へ、今度の肝付方との諸事について一味に談合することを喜びつつ、肝付方が無理な沙汰をした場合は諫め、聞き入れなければ肝付方を捨てて鹿屋殿と一味に相談すると誓った契状。違背した場合は日本国の大小神祇に加え、伊勢天照大神宮・正八幡大菩薩・熊野三所大権現・諏訪上下大明神・天満大自在天神の罰を受け…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:48 嘉慶二年八月廿二日島津元久安堵状
陸奥守(傍注で島津元久)が鹿屋周防介へ、日向国三俣院北方弁分内の長田名は本領なので、先例に任せて知行するよう認めた安堵状。嘉慶2年8月22日付で陸奥守の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編二』470号文書と同文と記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:49 応永三年十一月七日島津元久宛行状
藤原(傍注で島津元久)が鹿屋周防介へ、山東で闕所が生じた時には三十町を給分として宛行うと約した文書。応永3年11月7日付で藤原の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編二』569号文書と同文と記す。三十町を既に引き渡したのではなく、闕所発生を条件とする将来の宛行である。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:50 応永七年正月廿五日島津元久宛行状
島津元久が鹿屋周防守へ、島津荘大隅方鹿屋院内の下村弁分・中村池上名弁分・田上名堀内を本領と認め、それらの地頭・領家職を一円に宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた文書。応永7年正月25日付で元久の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編二』644号文書と同文と記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:51 応永七年八月七日島津元久宛行状
陸奥守(傍注で島津元久)が鹿屋周防守(傍注で忠兼)へ、大隅国鹿屋院下村の地頭職を由緒により給分として宛行い、先例に任せて領知するよう認めた文書。応永7年8月7日付で陸奥守の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編二』660号文書と同文と記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:52 応永十九年十一月廿五日島津久豊書下
久豊(傍注で島津久豊)が鹿屋周防介へ、三ヶ国錯乱の際に格別の忠節を尽くしたことを認め、自身の本望が達成された時には鹿屋院の当給人らを立て替え、鹿屋院の本領を一円認めると約した書下。応永19年11月25日付で久豊の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編二』894号文書と同文と記す。実施は将来の『達本望時』と…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:53 九月廿一日島津久豊書状
久豊(傍注で島津久豊)が北郷・花山・山田・鹿屋の四人へ、長く諸事に尽力している労をねぎらい、野辺殿が肝付へ赴いたため用件が延びていることを残念がる。野辺殿からの返事が届き肝付方の返事も同様であるとして、まず鹿屋城の口へ具足を着けて出陣するよう求め、両方の老若へ伝達し、返答を踏まえて陣のことを再び相談…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:54 六月十五日島津久豊書状
久豊(傍注で島津久豊)が鹿屋殿へ、不審な点は北郷殿方へ詳しく申し伝えたので聞いたであろうと述べる。また、長らく音信していない西村方へ書状を出すため、煩わせるが鹿屋殿から届けてほしいと依頼し、返事は急がなくてよいと伝える。六月十五日付の久豊花押付き書状で、欄外に『旧記雑録前編二』878号文書と同文と記…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:55 建暦元年八月四日島津庄預所下文
島津庄預所の下文(目録標題)は、散位伴朝臣兼広から鹿屋院の弁済使職は相伝の職だとの申立てを受け、兼広をその職に補任する。鹿屋院の百姓らに補任を承知し、違失しないよう命じた。建暦元年8月4日付で、欄外に『旧記雑録前編一』1234号文書と『家わけ二』肝付文書186号文書との同文注記を付す。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:56 寛元二年八月二日島津庄預所下文
島津庄預所僧が、左馬允伴兼賢を鹿屋院の弁済使職に補任した下文。職は代々相伝してきたものと記し、兼賢に恒例・臨時の御公事を怠らず沙汰するよう命じるとともに、鹿屋院の土民らに補任を承知して違失しないよう命じた。寛元2年8月2日付で預所僧の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編一』423号文書と『家わけ二』肝付…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:57 弘長元年七月日島津庄預所下文
島津庄預所が鹿屋院の弁済使職について、兼賢の死後に次男兼世の願いを受けて一度は宛てたが、兼世は御年貢などの沙汰を怠り、収納使から訴えられたと記す。そこで嫡子実兼からの願いを認め、兼世の職を停止して実兼を補任し、実兼には恒例・臨時の御公事を怠らず沙汰するよう、土民らには補任を承知して違失しないよう命じ…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:58 弘長二年八月日島津庄預所下文
島津庄預所は、鹿屋院の弁済使職を兼賢が相伝してきた職とし、その嫡子である左馬允伴実兼を補任する。弘長2年8月の日付欠落の下文で、預所法眼和尚位の花押を据える。欄外に『旧記雑録前編一』640号文書と『家わけ二』肝付文書192号文書との同文注記があり、前年の57号にみえる兼世の職停止・実兼補任の詳しい経…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:59 文永七年八月日島津庄預所下文
島津庄預所は、鹿屋院の弁済使職を兼賢相伝の職とし、子息らの中から兼世を補任していたが、兼世は職務に忠実でなく庄家の事を沙汰しなかったと記す。兼世の職を停止して実兼を補任し、鹿屋院の土民らにこの交代を承知し違失しないよう命じた。文永7年8月の日付欠落の下文で、預所法眼和尚位の花押を据え、『旧記雑録前編…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:60 文永九年八月日島津庄預所下文
島津庄預所の下文は、右馬允伴実包を大隅方鹿屋院の弁済使職に補任し、恒例・臨時の御公事を怠らず沙汰するよう命じる。文永9年8月の日付欠落の文書で、法眼和尚位の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編一』741号文書と『家わけ二』肝付文書195号文書との同文注記を付す。直前の57~59号は兼世・実兼の職の交代を…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:61 弘安四年八月日島津庄預所下文
島津庄預所が左馬允伴実兼を大隅方鹿屋院の弁済使職に補任し、御年貢以下、恒例・臨時の御公事を怠らず沙汰するよう命じた下文。弘安4年8月の日付欠落の文書で、預所法眼和尚位の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編一』834号文書と『家わけ二』肝付文書198号文書との同文注記を付す。60号は伴実包への補任で年貢に…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:62 鹿屋氏系図
鹿屋氏を天智天皇・大友親王から伴姓の余那足・善名・善男へつなぎ、仲用・仲兼・兼遠・兼行以下の多くの枝を図示した系図。善男の嘉祥3年の流罪、兼永が高城で宮方の攻撃を受け兄弟らと討死した記事、兼雄の鹿屋院長谷山城での合戦、忠兼の島津殿惣奉行・鹿屋下城の奪取など、系線に軍事・奉公記事を添える。兼好の加治木…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:63 伴姓鹿屋氏系図
天智天皇・大友親王から伴姓の善名・善男を経て鹿屋氏に至る系線を掲げ、兼俊を肝付城高山の領主、兼任を萩原、俊貞を安楽、行俊を和泉、兼高を梅北とする諸分流を図示する。宗兼が父兼石から鹿屋院の弁済使職を譲られ、鹿屋を家号としたという名字の由来が中心記事で、日州三俣院の領主領阿との関係も記す。永和の乱に宮方…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:64 元禄五年九月廿三日伊地知重英書状
伊地知助右衛門重英が鹿屋権左衛門へ、同家の先祖鹿屋周防介が島津元久の家老職を務めたことについて、証書が多く、鹿屋家の系図にも載っていると述べ、後日の証拠とするため改めて尋ねた書状。元禄5年壬申9月23日付で重英の花押を据える。本文の末尾には『古文書雑集』と貼紙の注記があり、直前の鹿屋氏系図に記された…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:65 〔寛永十五年〕正月九日川上久国書状
川上久国が豊後守・下野守の両殿へ、今度の陣中では大将役二人が命じられ、さらに談合衆六人が加えられたと伝える。諸事は逐一こちらの意向を伺うには及ばず相談して調えるよう児玉筑後守を通じて命じられたとし、甲斐掃部助・有馬左近将監にも申し合わせて伝達するよう求めた。正月9日付の書状で、年次の寛永15年は本文…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:66 〔寛永十五年〕正月九日川上久国書状
川上久国が喜入摂津守・北郷佐渡守・渋谷石見守・山田民部少輔・三原左衛門佐・新納加賀守の六人へ、今回の陣中大将役を豊後守・下野守に命じ、談合衆を定めた旨を伝える。諸事をいちいちこちらへ伺えば遅れるため、相談して調えるよう児玉筑後守を通じて命じられたとし、甲斐掃部助・有馬左近将監にも詳しく伝えたので承知…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:67 〔寛永十五年〕正月十八日川上久国書状
川上久国が豊後守・喜入摂津守・北郷佐渡守・渋谷石見守・山田民部少輔・新納加賀守へ、今回の軍勢賦課を約二万人とする一方、軍勢と水手を合わせれば約三万人にもなり得るとの見積もりを伝える。手元の米はわずか五千石で、一か月分の兵糧に関わり、すでに二十日分を渡したと記す。兵数を抑えるか、肥前・肥後などから借用…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:68 〔寛永十五年〕正月十八日川上久国書状
川上久国が出水喧嘩衆中へ、松平伊豆守からの書出しを受け、長嶋で調える楯板を二、三千枚、長さ四尺四、五寸・幅三尺四、五寸・厚さ二寸内外で用意するよう伝える。枚数はでき次第順に調達し、急用なので板を削らないままでも差し支えないという。正月18日付で、寛永15年とする年次は本文外の『か』付き傍注にとどまる…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:69 慶長四年六月十八日伊集院忠真書状
伊集院源次郎忠真が肱枕老(川上忠智)へ、三月に石田治部少輔からの使者として下った桜木平右衛門尉が当地に滞留し、海路・陸路とも往来できず上洛が延びていたが、今回一人を添えて上洛させるので当地の様子を取り成してほしいと伝える。忠真は、武庫様の直書を拝見し自身の進退にも懇意を示された一方、幸侃が成敗された…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:70 慶長四年七月十三日島津惟新書状
島津惟新(義弘)が山田越前入道(理安)へ、国元に異変がないことを喜び、上方も一段と無事であると伝えたうえで、庄内の様子を尋ねる。時節柄の心配を述べ、若い少将殿には竜伯様から諸事を言い聞かせられるよう、山田が内々に親しく働きかけてくれればありがたいと依頼する。慶長4年7月13日付。本文冒頭の『正文本田…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:71 慶長四年八月六日島津惟新書状草案
島津惟新(義弘)が伊東豊後守へ、下向後に何度も書状を出したこと、上方は無事であることを伝え、国元と庄内の様子を問う書状草案。伊東の家中から庄内へ魚・塩などを送っているとの風聞に加え、庄内からの落人が多数いてその噂は事実だとの知らせが国元から届くため、事実なら一揆への同意と受け取られかねず伊東のために…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:72 慶長四年八月六日島津義弘書状
島津義弘(惟新)が伊集院源次郎忠真へ、忠真の6月17日・7月16日付書状を受け、幸侃が成敗された後も忠真の進退が定まらず庄内に籠る事態について、相互の言い分と自らの働きかけを詳しく伝える。義弘は、忠真が自分の家中の者一人に過ぎないと扱われれば名誉が傷つくとの懸念に理解を示す一方、竜伯様・少将殿への申…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:73 十月廿六日島津惟新書状
島津惟新が寺澤志摩守へ、今月2日に居所を発って薩摩へ下向したと聞き、たびたび届いた書状に礼を述べ、寒中の労をねぎらう。小摂が同心したかと問い、今月22日に又八郎が庄内へ到着したとの知らせを伝え、又八郎に適切な配慮をしてほしいと頼む。また、現地の様子を案じて飛脚を出すので事情を知らせてほしいという。1…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:74 慶長四年十一月六日伊集院忠真書状
伊集院源次郎忠真が平野源右衛門尉・高皇新蔵へ、幸侃の罪科を糺明しないまま成敗したことを迷惑だと訴え、忠真自身も三月以来取り籠められ、誠実な申し立てが非道と受け止められていると述べる。竜伯・兵庫頭と通じたなどの嫌疑は根拠がなく、忠真は今後も毛頭背くつもりはないとして、内府様に事情を申し上げる機会を求め…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:75 慶長四年島津義弘覚書
島津義弘の覚書として、先祖に関わる儀礼、殿中の作法、子ども・町人以下の扶持や食事などは竜伯が定めた方式を変えず、判断に迷う事柄は竜伯へ相談するよう列挙する。鹿児島・諸外城の居住や役人の配置、諸方からの用所への申出には早く対応し、無足衆の扶持・高麗への出物人数・京都への参詣や鹿児島への移住希望も扱う。…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:76 慶長四年島津義弘覚書
島津義弘の覚書として、竜伯が定めて置いた法度や内向きの作法を安易に捨てず、国元の用件が片づくまでは遊山・乱酒を控えるよう求める。留守中に諸事をよく尋ね、諸外城の無足衆に伝えるべきこと、元日の作法、鹿児島での神水と一向宗の法度、信心を捨てないことを箇条書きにする。さらに、やむを得ない殺害や国衆の成敗は…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:77 〔慶長四年〕八月十日島津龍伯書状
龍伯が武庫入道へ、息女を当家の人質として十三年間京都に置いた事情と、その世話を頼んだ夫婦たちについて述べる。息女のことを関係者に広く任せるのは外聞がよくないとして、又八郎と相談したい意向を示し、平田豊入、川東善右衛門、猿渡九郎左衛門尉らにも言及する。又八郎は神妙に見えると喜びつつ、酒を飲み過ぎないよ…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:78 〔慶長三年〕十一月六日島津龍伯書状
龍伯が羽兵庫頭・又八郎へ、防戦の大勝と二人が自ら働いて挙げた武功を、比類ない名誉として祝う。老中・奉行衆にも喜びを伝え、戦場に稲荷が現れたとの報告や野狐に関する前代未聞の出来事に触れ、鹿児島・富之隈・京都の稲荷に礼を申し祈念すると述べる。現地の様子を取り次いで早く知らせてほしいと求める。11月6日付…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:79 〔寛永十九年〕十月十七日島津久通外二名連署書状抄
島津久通ほか二名の連署書状から抜いた三項目。籠屋の現在地は悪いとして、郡本の野付近へ移すよう命じる。夏の火事に関わる折田勘解由・真連房・田中善九が当面寺領で籠っていると聞き、召し出すべきか指示を求める。沖長門守の罪科については書物を差し出し、今回年寄衆にも呈上したが、まだ処分の仰せがないと報告する。…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:80 〔寛永十九年〕七月十九日島津久通外二名連署書状抄
島津久通ほか二名の連署書状の抄録。松平新太郎の家臣森寺清左衛門尉が奉公を望み、能勢小十郎らを通じて上聞に達した際は、他国人は召し抱えないと返答された。ところが能勢小十郎が東禅寺から再度申し入れ、近年も他国人を少数召し抱えていることなどを理由に頼み込んだため、森寺の召抱えが認められたと伝える。松平新太…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:81 七月十二日島津家久書状
島津家久が下野守へ、虎寿丸を国分の御子として当家を相続させる件について、龍伯の意向にも違いがなく、相手も納得して喜んでいると伝える。話がまとまったので、来月の吉日を選んで虎寿丸を国分へ移し、祝儀を行うと決めたという。家久もかねて望んでいたことであり、詳しくは喜入摂津守・伊勢兵部少輔から伝えると記す。…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:82 寛永十三年三月十四日土井利勝外三名連署書状
土井大炊頭利勝・堀田加賀守正盛・阿部豊後守忠秋・酒井讃岐守忠勝が薩摩中納言の家中へ、大隅国の国府城に追手と裏口の門、城内に少人数の番人を置く番屋を建て、山下に薩摩守の屋敷を構えたいという絵図付きの申請を上聞に達した結果、申請どおり申し付けてよいと許可されたことを知らせる。寛永13年3月14日付で、城…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:83 〔寛永十三年〕六月十五日伊勢貞昌・川上久国連署書状
伊勢兵部少輔貞昌と川上左近将監久国が四人の宛先へ、薩州様が国分に居住したいと望み、酒井讃岐守を通じて披露したところ許可されたと伝える。連署の奉書が出され、黄門様が下国すればこの件も追って伝えられる見込みだという。詳しい事情は野州老から伝えるためここでは述べきれないとし、この段は承知してほしいと通知す…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:84 〔寛永十八年〕八月廿七日川上久国書状
川上因幡守久国が四人の宛先へ、御系図を太田備中守に今月初めに差し出すつもりだったが、若君誕生による多忙で延び、21日に持参した経過を報告する。太田から古書物は家の重宝なので写して差し出すよう求められ、久国は家系図をめぐり道春や右衛門佐とも相談し、頼朝の子忠久の系譜、北条家の判、人物・家名の記載につい…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:85 慶長十七年六月十六日起請文前書
起請文の誓約者たちが比志嶋紀伊守へ、国分御上様との間で親子の進退を内談したことはなく、国分から申し入れを受けたこともないと誓う。菊袈裟が国分御上様の養子になるとの風聞も、誰かと相談したことも否定し、今後もそのような内談をしないと約束する。奧州様に害となる企てをしないこと、これに類する不審な話を聞けば…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:86 起請文前書
差出人不記の起請文前書。竜伯様が又四郎殿を少将殿に替え、京都から朱印を取り寄せるとの話を聞きながら報告しなかったと疑われたため、差出人はそのような企てを全く承知していなかったと重ねて弁明する。疑いが解けたと受け止め、今後たとえ讒言があっても互いに疑心を残さず熟談し、御家の長久のために尽くして疎略にし…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:87 慶長七年八月十日島津惟新起請文前書
惟新(島津義弘)が竜伯尊老(島津義久)へ、今度の『調事』では企てに全く関与していないと申し上げ、その説明が余すところなく聞き入れられて安堵したと誓う。今後たとえ讒言で妨げられても隠さず申し上げ、互いに疑いを残さず熟談して御家の長久を図ると約束する。京都からの『御噯』については御家のためによいと述べた…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:88 〔天正十五年〕五月七日島津義珍書状
義珍が本田下野守へ、関白への差出をめぐる急な交渉を『一大事』と捉え、福智三河守・石田らを介した調整と十分な祈願を促す。忠棟が日州から船出したとの知らせを受け、その後の所在を尋ねる。入来院は重要な場所として典厩を籠めて固め、真幸は日州・菱刈をつなぐ通路で京衆が通るため強く応対し、祁答院には伊集院肥前守…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:89 文治五年十月三日源頼朝御教書
源頼朝の御教書として、北郷弥太郎兼秀が訴える弁済使職について事情を知らないため、まず解状を送るよう宗兵衛尉に命じる。兼秀の申立てに相違がなければ職を安堵すべきだとし、奥人の供をするなど奉公した者でもあると付言する。本文末は文治5年10月3日付、盛時奉。冒頭には『市来士北山新兵衛蔵』の所蔵注記と、『本…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:90 文治三年九月九日源頼朝下文
源頼朝の下文。藤内遠景が惣追捕使と称して下知し、使者を島津庄へ入れて庄家を侵害しているとの報告を受け、それが事実なら甚だ無道だとする。今後は遠景の使者の入部を停止し、庄目代忠久を押領使として庄の沙汰に当たらせるよう島津庄へ命じる。文治3年9月9日付で、遠景側の権限行使を止め忠久の役割を定める二段の処…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:91-1 〔慶長四年〕四月朔日豊臣氏五大老連署書状
前田利長・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・徳川家康の五人が、羽柴薩摩宰相と羽柴薩摩少将へ、時勢に乗じて法度に反する移動をする者を厳しく禁じるよう通達する。違反者を後で聞きつけた場合には本人だけでなく一類をことごとく成敗すると明記する。4月朔日付で、慶長4年は本文外の傍注。二名の宛所と五人全員の花押が…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:91-2 〔慶長四年五月十一日〕記事
編者が、宰相宛ての書状、家康の誓詞、五大老の御書二通以外は見当たらないと記す。一方で同じ慶長4年5月11日の書付に別の記録があるため、考証のために掲げ、連名の廻文本文は省略して対馬侍従・久留目侍従・薩摩侍従の三名だけを列挙する。傍注はそれぞれ宗義智・小早川秀包・島津豊久とする。廻文の具体的な用件はこ…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:92-1 種子島清時譜
種子島清時が忠節を賞され、島津元久から屋久島・恵良部島を与えられて種子島とあわせて領した由緒を記す。嫡子時長が早世したため弟の左近将監幡時が家を継ぎ、永享8年には七島のうち臥蛇島・平島も与えられた。清時の八代の孫久時入道一琢の代には文禄4年に種子島・屋久島・恵良部島から薩州知覧見院へ所領が替えられ、…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:92-2 天正八年十月五日島津義久証状
島津義久が種子島三郎次郎(久時)へ、島津家の『字』を使いたいとの願いは古今の例からみても容易に許せないとしつつ、先祖以来、海を越えて従事し戦いにも功が深いことに感じ、特に許可する。天正8年10月5日付で義久の判があり、前項92の1が所領の変遷を記すのに対し、本件は家名・字の使用を認めた証状である。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:93 渋谷氏鹿児島参仕座配書
島津忠隆の代に渋谷氏が鹿児島へ参上した際の座配を示す記録。『主居』には忠隆と入来院又五郎重朝・伊地知周坊入道・祁答院又次郎、『中居』には東郷弥次郎と椛山藝州入道長久を配し、続く『上下』には高城秋月・伊地知縫殿助などの名を記す。人物名を単純に一直線の序列として並べたものではなく、主居・中居など席の区分…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:94 〔応永四年〕参津時条々
参津に際し、公方・少弐・大友方への初度使、公方への御引出物役人と申事時の使、少弐・大友方への引出物使、大友・少弐両殿の家人や一族への使などを、伊地知・長野・椛山六郎・酒匂次郎・伊集院蔵人・伊地知彦六らに割り当てた条々。大刀は打ち返して持つこと、一族・家人を心落ちさせないこと、次郎三郎の申し出に背かな…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:95 延文元年十二月三日足利尊氏挙状
島津上総判官殿(傍注は師久)の『叙留所望事』について、公家へ申し入れたので承知するよう伝えた挙状。延文元年十二月三日付で『御判』と記され、目録は足利尊氏の文書とする。原文の『叙留』を、旧概要のように『叙位』と読み替えない。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:96 延文二年正月廿八日蔵人頭日野時光奉口宣案
上卿右衛門督(傍注は正親町忠季)の宣旨を、蔵人頭左中弁藤原時光(日野時光)が奉じ、従五位下の藤原師久を従前どおり検非違使とする口宣案。『宜如元為検非違使』という文言があり、単なる初任と異なることが分かる。延文二年正月二十八日付。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:97 延文二年正月廿八日蔵人頭日野時光奉口宣案
上卿右衛門督(傍注は正親町忠季)の宣旨を、蔵人頭左中弁藤原時光(日野時光)が奉じ、左衛門少尉藤原師久を従五位下に叙する口宣案。前項96と同じ延文二年正月二十八日付・同じ奉者だが、前項が検非違使を従前どおりとする命令なのに対し、本項は位階を定める。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:98 明徳四年六月十一日島津元久書状(目録標題・本文は明徳二年)
島津元久は参洛を命じられて用意していたが、前年に相国寺領三俣院について御教書が下され、その後に道行を妨げる事情が生じて延引したと説明する。この件が落着すれば早々に上洛すると伝え、酒匂新左衛門入道を使者として送り、詳細はその口頭説明に委ねた。宛所は志和左衛門佐執事・人々御中。本文末の日付は明徳二年六月…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:99 本田貞親書状
本田貞親は、市来・二階堂両家について、薩摩国の御家人として直接御奉公をする旨が京都からの返事で申し下されたと、市来筑前守殿御宿所の人々に伝える。忠久の下向や三州での奉公の儀を先に京都へ申し上げた経緯を述べ、先例に従って所領を保持することが肝要とする。年月日の記載はなく、二階堂家は本文の対象であって宛…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:100 伴姓肝付氏正統系図
伴家肝属氏の近代の家系を兼続以下の枝筋までたどり、子女・養子・婚姻、家督、官途・法名、所領、戦死や寺院関係を記した長大な系図。冒頭に宝永四年五月二十五日、改訂して御記録所へ差し出したと記し、兼続の弘治二年の口宣、良兼らの志布志大慈寺・日州の寺院や位牌をめぐる記事、兼長らの地頭職・知行、兼道らの島津家…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:101 伴家系図
前田茂右衛門の所蔵と記す伴家系図で、天智天皇・大友皇子から伴善男らを経て、肝付と号した兼後以下の諸流をつなぎ、家族関係・官職・法名・所領・軍功を併記する。兼藤の相模国鎌倉住、兼久の鹿屋・肝付殿番代、兼光の越前守、兼続の加治木城主・高山城落城後の入部、兼勝らの山城守・左右衛門尉などの系統をたどる。後半…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:102 前田茂右衛門家系図
加世田士前田茂右衛門家の系図。祖先の前田兵部左衛門尉兼政が加世田に住み、天正七年に日州飫肥へ召し移され、同十四年七月二十七日に飫肥で戦死したと伝える。家伝では三代前まで肝付を称したが、家が盛んでなかったため前田を名乗ったといい、兼政の弟兼定は谷山へ移り、弟兼長は加世田に住んだと分けて記す。後続の兼昌…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:103 前田宇兵衛家系図
前田兵部左衛門兼政の弟兼定を祖とする前田宇兵衛家の系図で、兼定が加世田から谷山へ召し移されたことを記す。家伝は、兼定が高麗出陣で本田六左衛門の手に付き、陣中に詰めて帰陣時に伏見へ上り、感状を受けたが、のち平田盛右衛門に文書を差し出して返却されたという。子孫の兼長・兼延・兼家・兼倍・兼貞・兼賢らには加…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:104 前田軍八家系図
加世田士前田軍八家の系図で、前田兵部左衛門兼政の三番目の弟兼長が加世田に住んだ系統をたどる。兼長の子兼高は主膳と称し、母を宮原吉兵衛の娘と記すほか、兼申・兼明・兼吉らの名乗り、正保二年の兼長と元禄六年の兼明の没年・法名を載せる。後代には医師となって元養と改名した兼周、兼貞・兼西・兼次郎らをつなぎ、河…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:105 前田七郎右衛門家系図
前田右近・大炊之助・太郎四郎以下をつなぐ前田七郎右衛門家の系図。兼門の条は、寛永年間に自宅から火を出して証書などを焼失したため、右近より前の祖先は分からないと明記する。兼次が宮里壹岐正親義方に召し出された際の養子関係や、兼治が佐藤諸左衛門信實の婿養子となったことを記し、兼浮・兼貞らの出生年月日、官途…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:106 前田諸左衛門家系図
庄内高城士前田諸左衛門家の短い系図。前田内記は『従是上世自不知出所』と祖先の出所が分からないとされ、薩州から召し移されて高城に住んだ。内記には男子がなかったため、瀬戸山丹波の次男を養子に迎えて兼行(諸左衛門)とし、その下に兼次(作左衛門)と、さらに兼次(諸左衛門)をつなぐ。同じ名の兼次が二代続くこと…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:107 紀姓宮里氏系図
紀姓宮里氏の系図で、孝元天皇・武内宿禰に連なる祖先伝承から宮里氏の諸流、近世の子孫までをつなぐ。表紙裏に『丸之内違鷹羽』という旗幕の紋を掲げ、歴代の神主・別当・僧などの職掌や官位、子女の婚姻・養子関係を記す。正賀の条には寛正三年に宮里が没落して一族が分散し、のち島津貴久に属したとあり、正宗の条にも宮…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:108 比志島源左衛門家略系図
比志島源左衛門家の略系図で、冒頭に比志島氏九代の河内守義重の二男とし、義信が父義重から満家院郡山内の横瀬・宇都・坂口・満枝など二十町を譲り受け、明応四年九月の譲状があると記す。義住の郡山城での死や、蒲生・菱刈方面の戦功による大村地頭職、蒲生落城後の蒲生地頭職、島津義弘の朝鮮出兵に供奉した国政、関ヶ原…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:109 藤原姓志岐氏略系図
藤原姓志岐氏略系図の掲載箇所。本文には『本系図ハ「諸家系図文書」三号文書ト同一文書ニツキ省略ス』とだけあり、系譜本文・人物・年代はこの箇所に再録されていない。