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旧記雑録拾遺 著作史料集3の目録
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旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:79 六月廿九日上原藤太夫書状
六月二十九日、上原藤太夫が伊地知小次郎へ、前日に依頼したとおり「系図地取之冊」を差し出したので、何卒順次調べておいてほしいと頼んだ書状。本来は参上して願うべきところ、まず大略を申し送り、詳しくは対面のうえで述べるとする。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:80 嘉暦三年十二月廿七日上原氏年貢請取状
嘉暦三年十二月二十七日、伊作田郡入山村の翌年分年貢として、合計五十九貫四百九文を納めたことを記す請取・算用状。内訳には絹四十二両の代銭二十八貫七百十文、うち二十両を値付けのまま鎌倉で受け取ったこと、絹二十二両を十三貫四百六十文で売り渡したことを掲げ、末尾に花押を据える。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:81 元徳三年十月十九日仲原尚友着到状
元徳三年十月十九日、仲原尚友が御奉行所へ、京都騒動に際して薩摩国御家人・日置一方領主の上原弥次郎が馳参したため、着到を付けたと報告し披露を求めた着到状。欄外注は、後醍醐天皇の笠置行幸、楠正成の挙兵、北条高時方による笠置攻撃に関わる騒動と説明する。清水郷士上原喜八家蔵本で、別に高岡の河上次郎左衛門家に…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:82 元徳三年十月十九日沙弥導乗着到状
元徳三年十月十九日、薩摩国市来院の河上又次郎入道導乗(沙弥導乗)が御奉行所へ、京都騒動を受けて馳参し、博多へ入って着到を遂げ、現在も津に滞在していることの披露を求めた着到状。鎮西探題北条英時が「承候了」と承認の花押を据える。伊地知季安はこの判形を前文書の上原弥次郎関係着到状と比較し、同文書で英時の判…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:83 建武三年四月十二日大前道貞着到状
建武三年四月十二日、薩摩国祁答院の富光九郎大前道貞が御奉行所へ、自らが早くから御方へ馳参した事実を披露し、その証明となる一行を得て後代の亀鑑としたいと願った着到状。高岡富満氏蔵本で、本文末に大前道貞の署名を掲げる。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:84 建武三年四月廿七日比志島貞範着到状
建武三年四月二十七日、肝付八郎兼重とその与党の誅伐に向けて発向中、薩摩国満家院の比志島孫太郎貞範が軍忠を抽んじるため馳参したことを、御奉行所へ披露するよう求めた着到状。貞範は「源貞範」と署名し、島津貞久が「承了」と記して判を据える。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:85 建武三年四月廿八日新田宮執印友雄着到状
建武三年四月二十八日、肝付八郎兼重とその与党の誅伐のため大隅国へ発向した際、薩摩国一宮新田宮の執印又三郎友雄が軍忠を抽んじるため馳参したことを、御奉行所へ披露するよう求めた着到状。友雄は「惟宗友雄」と署名し、島津貞久が「承了」と記して判を据える。伊地知季安は前後三通の署名例と元徳三年文書の仲原尚友を…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:86 島津義久供行列覚
公方の御成や歩行・騎馬時に島津義久が従える供の人数、配置、装束、武具を定めた行列覚。公方御成時の走衆を六人とし、小者・中間・雑色らの配置、太刀・小太刀・長刀・弓・傘袋・替馬などの担当、袴・肩衣の着用、徒歩と騎馬、近所と遠路による構成の違いを記す。騎馬時は狭い道で左方を先行させ、小太刀持ちの中間を馬前…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:87-1 三月廿五日島津義弘書状
三月二十五日、島津義弘が右馬頭へ、妙谷寺を通じて下された命令を使僧から伝えたところ、右馬頭が直ちに上洛すると聞いて案じ、上洛を延期して義弘側を上洛させるのが下知の趣旨であり、私意ではないと念を押した書状。右馬頭がすでに途中まで出立していても必ず留めるよう求め、太守の意向どおり重ねて堅く申し届ける。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:87-2 天正十七年正月卅日島津義弘書状案
天正十七年正月三十日、島津義弘が新納武蔵入道へ、右馬頭の下向について自分はまったく納得していないが、安宅三郎兵衛尉の奔走によって暇の件が決着し、右馬頭が直接御朱印を頂戴した以上は公儀に従うほかないと述べた書状案。附記は天正十七年から十九年の間に作成された草案の可能性を示し、本文が朱書で前文書の行間に…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:88 建武三年六月和泉道悟軍忠状
建武三年六月、薩摩国御家人の和泉杉三郎入道道悟が、軍忠の注進と恩賞を求めた軍忠状。五月七日の大隅国肝付郡加世田城大手城戸口合戦では子息らを率いて一番に先懸けし、堀口へ攻め寄せて逆迎えを切り払い、子息弥三郎保右が左股を射抜かれた。翌八日の合戦では旗差六郎丸が左小肘を射られ、島津六郎、山野彦四郎入道道井…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:89 建武三年九月廿日島津貞久宛行状
建武三年九月二十日、島津貞久(道鑑)が、菱刈郡田中村本名内の福原平寒水名主職を宛行った文書。受給者に、定められた所当米・済物・公事・課役を怠りなく沙汰するよう命じる。正本は川上東馬家に伝わり、季安は貞久自筆のため天保二年四月に川上家へ差し上げた際に写し取ったと記し、欄外注は当該地を後世の菱刈郡本城郷…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:90 建武四年四月和泉道悟軍忠状
建武四年四月、薩摩国の和泉杉三郎入道道悟が、大隅国加世田城・野崎城合戦で重ねた軍忠に対する恩賞を求めた軍忠状。前年三月、将軍家の鎮西下向に際して大宰府へ馳参し、肝付八郎兼重以下の凶徒誅伐を命じる御教書を受けて島津上総入道道鑑に属し、五月六日に加世田城へ押し寄せ、七日には子息らを率いて大手城戸口へ最前…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:91 観応二年十一月廿九日足利直冬下文
観応二年十一月二十九日、足利直冬(源朝臣)が伊作田兵部大夫道材へ、軍功の恩賞として薩摩国日置の弥勒寺名付若松三十町(宗太郎忠弘跡)と伊作田村惣地頭職(島津上総前司入道跡)を宛行った下文。道材に両所を早く領知し、先例を守って沙汰するよう命じる。正本は家蔵され、『旧記雑録前編二』三九〇号文書と同一と注記…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:92 〔明徳三年〕探題今川了俊条書
島津上総介・同又三郎の対治について沙汰してはならないこと、大隅・薩摩両国の地頭御家人らを召し出して忠節を促し、向背する者の名字と知行を書き上げて注進すること、当該一族の今度の馳参後の忠否を注進に基づいて用捨することを定めた三箇条の条書。伊地知季安は入来院氏文書の案文を引き、島津上総介・又三郎が凶徒と…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:93 応永九年七月廿五日島津元久宛行状
応永九年七月二十五日、沙弥が大隅国内の弥那尾村地頭職を新所として預け置き、先例に任せて知行するよう命じた宛行状。本文に受給者名はなく、署名部には二つの花押が掲げられて島津伊久・島津元久と傍注され、別注は元久の御判と推定する。『旧記雑録前編二』六八六号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:94 応永二十一年八月十九日島津久豊宛行状
応永二十一年八月十九日、島津久豊が、闕所となった重富跡を新所として処分し、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。頭注は菱刈郡本城郷に重富村があることを示し、本文には受給者名を記さない。『旧記雑録前編二』九三三号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:95 永享四年五月十三日守秀坪付
永享四年五月十三日、守秀が水田の所在地と面積を列記した坪付。郡山中村内の「はきあいの門」三町、鹿児島内荒田の浮免にある「さいくまち」一町、鹿児島小野内の「いわ下の門」六反卅、原良内の「おき」五反と同所「嶋めくり」二反、草牟田内の寺地三反、泉崎内五反を掲げ、合計を原文で「水田六町卅」と記す。附記は泉崎…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:96 永享十二年十一月廿五日島津持久契状
永享十二年十一月二十五日、島津持久が、天下の情勢がどのように転変しても相談して忠節を尽くすこと、以後も無二に申し談じ、相手の大事を自身の大綱と心得て支援することを誓った契状。不慮の讒言や凶害が生じても直ちに対面して事情を聞き、解決すると定め、条々に偽りがあれば伊勢天照大神・熊野三所大権現・八幡三所大…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:97 延徳二年三月廿日犬追物手組
延徳二年三月二十日、飫肥で二度目に催した犬追物の手組。番号付きの項目として「一 殿」二十三疋、「二 島津摂津守」十三疋、「三 島津次郎三郎」四疋、「四 島津左衛門尉」五疋を記し、ほかに島津安芸守三疋、島津次郎四郎十一疋、伊地知周防守九疋、加治木又八郎四疋、平田又九郎四疋、上原次郎右衛門尉二疋、平田右…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:98 延徳四年十一月十三日島津忠昌書状
延徳四年十一月十三日、島津忠昌が肝付をめぐる時儀について、前日に上原藤左衛門尉を遣わし、さらに伊地知周防守重貞を派遣したため、両人から詳細が伝えられるはずだと知らせた書状。当地の時宜を伝えるため相良方にも書状を送り、周防守が申し述べる趣旨に従って細部を伝えるよう求め、二度申し送ったので重言はしないと…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:99 文亀四年三月廿二日犬追物手組
文亀四年三月二十二日の犬追物手組。番号付きの項目として「一 島津備前守」九疋、「二 島津左馬助」十八疋、「三 渋谷藤次郎」五疋、「四 島津次郎四郎」五疋を記し、ほかに豊後守殿十四疋、梁瀬源五十一疋、島津治部少輔十疋、村田与次郎九疋、柏原助七郎十一疋、羽嶋新三郎三疋、羽嶋越前守三疋、上原又七六疋を割り…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:100 諸家大概記
『諸家大概記』所収の藤原姓上原氏由緒。観応頃に市来院伊作田を領した伊作田兵部太夫道材・中務丞尚経と足利直冬の御教書などを挙げる一方、伊作田から上原への称号変更が、一時的な名乗り替えを経たのか後に上原へ固定したのかは不詳とする。島津忠昌代に上原藤左衛門が奉公し、島津義久(龍伯)代に上原筑前守が兵具奉行…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:101 某覚書
正本家蔵の上原氏覚書。本名字を伊作田入道甫済と伝え、市来の伊作田名と同所の小原城に由来する名乗りだが、系図がないため何代目から上原を称したかは不明とする。源右衛門の名は三代が相伝し、二代目は国分にいた島津義久へ特に奉公し、平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門と兵具方を務めた。朝鮮出…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:102 上原氏系譜抄
『上原氏系譜抄』に収めた上原氏三名の軍功・戦死記事。上原兵部少輔は天正十五年四月の新納院高城援兵に加わり、上原勘解由兵衛尉尚弘は天正八年十一月二十三日の肥後合志城攻めで戦功を立て、上原内蔵介は同年十月十六日の肥後網田城攻めで戦死した。各人一条ずつを簡潔に列記し、系線や親子関係は示さない。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:103 上原氏法名書上
別紙として上原氏関係の石塔を調べ、法号・没年月日・俗名または親族関係を列記した書上。万治二年六月二日から天保七年正月八日までの年紀を含み、上原源右衛門尚益の法号「正岩祖覚居士」と、その妻「梅屋姓芳大姉」・妹「実峯妙相大姉」、尚治・尚清・尚伝・尚真・尚績・尚方ら本人および母・娘などの墓碑情報を収める。…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:104 上原氏日記抄
上原氏の日記・願留・継留から家督・改名・養子・初御目見などを抜き書きした別紙。年次を欠く卯年正月条では元日の礼儀、隅州様の御拝領と当地到着、翌月の御関狩に関する津留八左衛門からの通達を記し、二月二十八日には源蔵が家督御礼を命じられて源右衛門へ改名し、弟源之丞を諸差出書付の名代としたことを掲げる。明和…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:105 上原尚清流系図
別紙として上原尚清(源左衛門)から尚伝・尚続・尚方へ至る四代の系線と、家督・別立・隠居の記事をまとめた系図。尚伝は源蔵・源右衛門を称し、宝暦九年二月二十八日に家督を継ぎ、町田主計が奏者を務めた。女子のほか、原注で「ママ」とする尚正を掲げ、源左衛門二男の源之丞らしい者が別立した形跡はあるが年号不明で、…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:106 上原康基流系図
『系図抄』として上原康基を起点に、康忠・貞安・康時・惟康・康宗・尚康・尚宗・康続以下の諸流を縦系図で示し、各人の官位・官途・法名を付記する。康基は右衛門督・蔵人頭・従五位上、康忠は右兵衛督・長官・蔵人・従四位上、貞安は右兵衛督・従四位上とし、尚康を兵部少輔・従五位上・法名大全、尚宗を刑部大輔・従四位…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107 上原氏系譜
本文で『上原氏系譜地取』と題し、上原隼人佐・筑前守尚信の由緒二件を記す系譜。天正四年七月、近衛前久が麑府を去って京都へ帰る際、八月十六日に『箱崎八幡大菩薩』の七字を揮毫し、上原家へ与えたと伝え、今なお蔵する旨の傍注を伴う。天正八年閏三月には島津義久が尚信(記事では隼人佑)へ薩州加世田津貫名牧壇門の采…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-1 上原氏老臣連署坪付
天正八年閏三月吉日、伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞の老臣五名が上原隼人佑へ、薩摩国加世田の津貫名牧壇之門内にある、あまつこみ・谷の口・山の下・牟田・坪・宮田尻・陰俣・上公田・堀町などの田地を列記して与えた連署坪付。総量は九町二杖とされるが、伊地知季安は現存する坪付の記載だけでは九…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-2 島津忠長外四名連署坪付
天正二十年六月吉日、島津図書頭忠長・伊集院幸侃・町田久倍・平田歳宗・本田三清の五名が連署し、上原筑前守へ日州求仁院志布志の永泰寺先にある田地を与えた坪付。伊屋松門、大丸三反九畦、地蔵免一反五畦、山の口、山乃くち、松ヶ迫、北の迫とその同所分を列挙し、合計を二町七段八畦五歩とする。五名の花押と上原筑前守…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-3 町田久倍外二名連署知行目録
天正二十年十二月二十八日、比志島紀伊守国貞・鎌田出雲守政近・町田出羽守久倍の三名が連署し、上原筑前守へ薩州祁答院内の新知を示した領知目録。黒木名の『かミの園門村田先』にある田方二町七段五畦を掲げ、そのうち七反を寄替分とし、さらに畠方三段を付す。三名の花押と宛所を備え、『旧記雑録後編』二〇一二号文書と…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-4 長寿院盛淳外四名連署状断簡
天正二十年十二月二十九日、鎌田出雲守政近・伊集院下野入道抱節・比志島紀伊守国貞・町田出羽守久倍・長寿院盛淳の五名が連署し、上原筑前守へ宛てた文書の断簡。紙の接合部分が離れて上文を失い、下文だけが残ったとの注記があり、現存部分には年月日、五名の署名・花押、宛所しか残らないため、具体的な用件は判明しない…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-5 長寿院盛淳書状
年未詳六月十一日、長寿院盛淳(署名は長寿)が上原筑前守へ、ある人物は師匠以来奉公し、上様の祈念などを命じられてきたため、平僧並みでも通常の寺家でもなく、知行の配分を含む相応の処遇を受けるべきだと伝え、老衆らとの談合を求めた書状。対象者名や知行内容の一部は原文の空格・欠字により確定できない。付属する上…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-6 伊集院幸侃判物知行目録
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が上原源右衛門尉へ、薩州大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合の合計百石を配分した判物知行目録。そのうち四十九石九斗二升五合を加増分と明記し、幸侃の花押を据える。付属記事は同月二十二日、幸侃が上原尚…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-7 伊集院幸侃書状
年未詳十二月二十二日、伊集院右衛門入道幸侃が平田狩野介宗應と上原源右衛門尉尚氏へ、重久名の件が持合で未解決となり各所に難しい問題が生じているため、二人で談合して処理するよう求め、詳細は追って協議すると伝えた書状。付属する由緒記事は、慶長四年に島津義久(龍伯)が尚氏を兵具奉行とし、平田宗應・三原七左衛…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-8 上原氏由緒書
二代目上原源右衛門が、島津義久の国分在住期にとりわけ奉公し、初め平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門らと相役となって兵具方を務めた由緒書。源右衛門は義久の側近くに召し置かれたため高麗出兵に伴う加増を受けなかったが、島津家久(忠恒)への代替わりに際し、黒色の『雨の御旗』を奉持する使者…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-9 島津忠恒書状
慶長四年二月二十四日、島津忠恒が伊集院下野入道へ、高麗での大勝に対する褒賞として知行を拝領し、少将に任じられたことは面目であると述べた書状。忠恒は龍伯から二十日に『御重物』を渡され、慶事が続いたと報じる。国政について龍伯・武庫様と相談して種々指示しているなか、出水表は特に注意を要するため、出水地頭を…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-10 上原尚張書状
卯月十四日、上原尚張が上原源右衛門へ、尚張の留守中に当地の普請が止まって見苦しくなれば迷惑なので、よく見回り、何とか完成するよう尽力してほしいと頼んだ書状。あわせて、先年の日向国攻略で奉公した福永・野村両人に知行等が与えられた経緯を挙げ、子孫のためにも現地で事情を聞き合わせ、尚張自身の身上に関する相…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-11 島津忠長外三名連署加増目録
慶長六年二月三日、島津図書頭忠長・比志島紀伊守国貞・平田太郎兵衛尉増宗・鎌田出雲守政近の四名が上原源右衛門尉へ、隅州曽於郡敷根の小牧之門三十二斛五斗と、末吉・深川之内十八斛を加増として宛行った連署目録。個別高を合計すると五十斛五斗となるが、本文の『惣合』は五十一斛と記すため、この数量不一致を原文どお…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-12 兵具所達書
慶長六年十二月十三日、御兵具所が年越しに用いる供物・器具を列挙し、御代官所から山下助左衛門尉が奉行した達書。御甲・御鏡には各七重の餅と大折各七つ、御持道具には五重の餅と中折五つ、御長刀には三重の餅と中折三つ、具足には餅十七個と足付折敷十七枚、番具足五十両には小餅九十九個・平折敷十一枚、諸道具には小餅…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-13 御持具足之事
正月吉日付で、御持具足に伴って収納・携行する武具と入れ方を定めた指図。鑓二対と御手鑓一本の計五本、弓靫三つ(うち細靫一つ)、鉄炮一挺、長刀一振を挙げ、鉄炮を袋に入れて薬についても念を入れるよう求めるほか、打刀は御社参の時に入れるべきかと記す。本文左端には年次に関する判読不確実な傍記があるため、年は確…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-14 昌州書状
卯月七日、昌州(傍注では連歌師昌叱か)が某人へ、先日その地へ参上して宿所を訪ねたが留守だったと伝え、京都連歌の『御かし』を平田与進のもとへ送る件について、料紙をまだ用意できないため、まず自分の愚作を差し上げるので書写して返してほしいと頼んだ書状。付属記事は、慶長十六年正月に龍伯が没した後、上原尚氏が…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-15 上原尚演書状
霜月二十六日、上原大蔵尚演が上原源兵衛へ、先日の来訪時は病中で十分相談できず残念だったと詫び、系図について税所次郎右衛門へ尋ねて改めて報告し、正月の再訪時に詳しく話したいと伝えた書状。尚演は病状が日増しに回復していることも喜んで報じる。朱書の季安按は、この書状と休兵衛自記に系図がないことから、上原氏…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-16 上原休兵衛口上覚
辰年五月十五日、上原休兵衛が門司伊兵衛・肥後少三郎へ、自分は上原源右衛門の跡目を命じられて同家を相続したので、今度は国分刑部左衛門の弟・八郎左衛門を自身の猶子にしたいと内談している旨を申し述べ、そのとおり許可されるよう取り次ぎを願った口上覚。追記により、この願いは七月三日に伝達されたことが分かる。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-17 上原休兵衛覚書
三月二十七日、上原休兵衛が大峯彦兵衛へ、先代上原源右衛門は高麗渡海の際に島津義久の側へ召し置かれて渡海せず、帰朝後、渡海衆への加増とは別に『雨之御旗』に関する使者役の加増として五十石を与えられ、兵具方を勤めたとする家伝を伝え、由緒調査の際には関係文書を見せてほしいと求めた覚書。伊作田を上原氏の本名と…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-18 伊地知季安書状
申年八月十五日、伊地知小十郎季安が坂元喜兵衛へ、御記録所にある諸家系図帳や『高所之高系図』等を写し、位牌・墓銘・過去帳・古札改帳などと照合して近世の系譜を仕分け、古文書は許可を得たうえで写すよう求めた書状。季安は、校訂前に浄書したため現在の原稿は反古同然であるとし、坂元にもまず一通り写して各項を調査…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:108 上原丹後守流系図
上世不詳とする上原丹後守を祖とし、丹後守が日新公に仕えたのち中書家久に臣従し、日州佐土原で二百五十石を与えられたことから始まる上原氏系図。長野下総守の長男で上原家に入った佐太右衛門は慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で二十五歳で戦死し、法名を節義玄忠禅定門とする。尚辰は島津豊久に従って戦い、豊久戦死後に…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:109 都城臣上原甚左衛門系図
都城臣上原甚左衛門家について、上原宮内左衛門の父・長門守以来の北郷氏への奉公と近世の子孫をたどる系図。父祖は豊州家に仕えて飫肥へ移り、北郷忠親が豊州家を継いだ後に北郷氏へ臣従したと伝え、宮内左衛門は永禄元年三月十九日、北郷時久に従って肝付氏と恒吉宮ヶ浜で戦い死亡し、法名を長阿弥陀とする。宮内左衛門の…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:110 横川士上原氏系図
横川士上原氏の祖・上原少監物(のち奉膳兵衛か)から藤右衛門・藤左衛門へ続く系図。少監物は龍伯公が国分にいた時期に慶長高帳で食禄六十石、元和年間には七十五石七斗六升三合を食み、元和八年九月に東郷重位の秘訣書を受けたほか、龍伯がその宅を訪れて刀を与え、その刀を八幡宮へ寄進したと記す。藤右衛門は光久公から…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:111 上原氏軍功書上
元亀三年から天正十五年まで、上原長門守ら上原氏諸人の外交・地頭職・合戦での働きを年代順に列挙した軍功書上。元亀三年には禰寝方との和談使者を上原長門守・忠元・久治の三人が務め、同年三月中旬の伊地知方との合戦、天正元年三月十八日の肝付方との合戦では長門守が軍功を立て、天正四年には高原地頭を与えられた。天…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:112 源姓松本氏系図
源姓松本氏の系譜を、人皇五十六代清和天皇・貞純親王・源経基から源満仲・満快らを経て、伊那・林・芳美・松本などの諸支流へ展開して記す。松本氏部分では、行光・忠公・時光・満治・光家・光則・光信・貞行・光尚・景康・光後らの親子関係に、官途、居住地、法名、婚姻、養子、早世などを付記する。紀伊国雑賀庄湊の松本…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:113 三原氏系図
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:114 三原藤次流系図
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老とな…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:115 富山系図
神代を略し、藤原鎌足・淡海公から武智麻呂・房前へ分かれる系線のうち、房前・真楯・内麿以下を富山氏へつなぐ系図。義良・義行・義秀・義忠・義兼・義時・義光・義任らから多数の支流を派生させ、伊勢守・土佐助・玄蕃頭・左近将監・藤左衛門尉などの官途、法名、出生・婚姻を記す。義光は五郎太夫、号福殿と称し、寿永二…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:116 野辺盛仁一流系図
平清盛・重盛・維盛から資盛・清経・有盛・師盛・忠房・宗実らへ分かれる平氏系譜と、宗平・盛平・貞盛・盛行・盛綱、久盛・盛忠・政式・泰盛・盛久・盛在を経て野辺刑部大輔盛仁へ至る系線を示す。盛仁の名の『仁』字は斟酌を要したため、一条殿が改めて『良』字を与え、三位顕卿がその旨を書いたとする改名由緒を付す。長…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:117 平氏野辺家系図抄
野辺氏が別に伝えた系譜の中に秩父系図が載るとして、その古系図を抄録したもの。秩父別当武基から武家・武綱・小机六郎基家へ分かれ、武綱の流れを河崎平三大夫重家、重国、渋谷庄司光重、重助へ、秩父権守重綱の流れを重弘・重能・重忠、河越次郎大夫重隆、小山田別当有重、江戸四郎重継、稲毛三郎重成・榛谷四郎重朝へつ…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:118 比企氏系図抄
比企能員の子女を簡略に示す系図抄。能員の子として三郎・四郎・五郎と猶子の河原田次郎を掲げ、余一兵衛尉については母を渋河刑部丞の女と記す。三人の女子は、それぞれ笠原十郎左衛門尉親景、中山五郎為重、糟屋藤太兵衛尉有季の妻となったことを示す。現行確認用画像第2頁は次文書119『惟宗姓執印氏正統系譜』に付随…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119 惟宗姓執印氏正統系譜
醍醐天皇第五皇子保明親王の子慶頼王が承平六年(936)に惟宗姓を賜ったとの伝承から、具瞻・正邦・孝親・孝言・忠方・友国・国広らを経て康友へ至る系線と、陰陽頭・能登守・伊賀守・筑前守などの官職を示す執印氏正統系譜。康友を執印一代として薩摩国鹿児島郡司・弁済使に位置づけ、文治年間に新田宮執印職・五大院院…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-1 藤原某書状
承久三年七月二十日、藤原某(傍注は進士判官代隆邦かとする)が鹿児島藤内馬へ送った仮名書状。伊予攻めに参陣するとの申し出を受けたが、河野入道が降人として参上したため合戦はないと伝え、急ぎ上京して武蔵殿北条泰時・相模殿北条時房に謁見するよう勧める。上京途中に合戦があれば参陣したいとの藤内馬の意向を殊勝と…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-2 東鑑
『東鑑』承久三年六月二十八日条の抄録。伊予国住人河野入道が同国の勇士に従って合戦し、一方の張本となったため、武州が河野に与しない国中の者たちへ討伐を命じたことを記す。本文は朱書で前文書119-1の行間に記されていたと注記され、河野入道の降伏により伊予攻めがなくなったと伝える前文書の背景記事に当たる。…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-3 源頼朝御教書
文治五年十一月二十四日、源頼朝の袖判のもと、平盛時が奉じて伊豆藤内へ伝えた御教書。薩摩国鹿児島の藤内康友が頼朝の奥州下向に供奉したのち暇を与えられて帰国を命じられたこと、康友が鹿児島郡司職を以前から相違なく知行していると申したため、その旨を心得るよう命じる。国分氏伝来の古写で、『旧記雑録前編一』24…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-4 北条時政下文
建仁三年十二月九日、北条時政の御判のもと、景成が長沢左衛門尉へ執達した下文。藤内康友が島津庄内の鹿児島郡司職・弁済使職を訴えたため、相論する両当事者を召問して庄官らに理非を審理させ、提出文書の道理に基づいて裁定するよう当国守護所へ命じる。家蔵史料で、『旧記雑録前編一』207号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-5 薩摩国図田帳抄
薩摩国図田帳から前内舎人康友の所領と職掌を抜き出した抄録。牛屎院内の木崎十五町では名主、同国鹿児島内の府領社七町五段では下司、公領百九十七町では郡司として康友を掲げ、文治から建久頃に領主となったと記す。鹿児島の箇所には『郡』字脱落かとの傍注があり、『旧記雑録前編一』205号文書と同一とされる。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-6 北条時政下文
建仁三年十月二十六日、北条時政の御判のもとで惟宗康友へ下された下文。薩摩国新田宮執印職・五大院院主職と、それらの所職に付属する散在の名田畠等を相違なく領掌することを認める一方、御公事は先例に任せて勤めるよう命じる。古写を家蔵したもので、『旧記雑録前編一』202号文書と同一と注記される。現行確認用画像…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-7 関東御教書
貞永元年閏九月八日、武蔵守北条泰時・相模守北条時房が在判し、豊後三郎左衛門尉島津忠時へ下した関東御教書。鹿島中務允康兼の郡司職に関する訴状を受け、相論の対決のため矢上三郎盛澄を召し進めるよう命じる。前掲系譜は二代康村を康兼とも称し、鹿島太郎・中務允として鹿島郡司・弁済使職、新田宮執印職を担い、迎阿の…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-8 薩摩国分寺由緒
薩摩国高城郡国分寺は聖武天皇の天平年間に一国一寺として建立され、同所の天満宮は村上天皇の応和三年(963)に建立、文治・建久頃には薩摩国内百四町余が寺社領であったとする由緒と系譜。国分寺留守・天満宮別当を務めた友久以下を掲げ、友久の妻迎阿が友成・師久・康秀の三子を産み、のち執印康村へ再嫁し、康村没後…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-9 島津忠宗警固番役覆勘状
永仁二年七月三十日、島津忠宗が新田宮執印の代官へ発給した警固番役覆勘状。六月から七月までの警固役を勤仕し終えたことを認証して執達する。前文書119-8の系譜にみえる筥崎警固番役勤仕に関係する家蔵文書で、『旧記雑録前編一』992号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-10 島津忠宗警固番役覆勘状
永仁三年四月十六日、島津忠宗が新田宮執印へ発給した警固番役覆勘状。当年の春分の警固番役を代官によって勤仕し終えたことを認証して執達する。119-8の系譜にみえる筥崎警固番役勤仕に関係する家蔵文書で、『旧記雑録前編一』998号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-11 左衛門尉朝員奉書
永仁五年六月、左衛門尉朝員が執印三郎兵衛尉入道へ、関東御教書に基づき、薩摩国新田宮執印職・五大院院主職を重代相伝のとおり還補し、年貢を怠らず沙汰するよう命じた奉書。紙面に続く系譜は重友・忠兼・友郷・友雄を掲げ、忠兼には父重兼の永仁五年十一月十二日付譲状があること、友郷は新田宮執印職を相伝して社領の領…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-12 後醍醐天皇綸旨
元弘三年六月四日、後醍醐天皇の意向を兵部卿が左衛門督へ伝えた綸旨。薩摩国八幡新田宮の所司・神官らが申請した初任神拝応宣について、先例に従い遅滞なく処理するよう国司へ命じたので、その旨を承知するよう伝える。『旧記雑録前編一』1639号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-13 後醍醐天皇綸旨
元弘三年七月三日、後醍醐天皇の意向を式部少輔範国(岡崎範国)が伝えた綸旨。薩摩国新田宮執印職について、現在の知行者の権利に相違があってはならないとして安堵する。『旧記雑録前編一』1645号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-14 光明院口宣
暦応二年十一月二十一日、光明院が惟宗友雄を左衛門大夫に任じる旨を宣下し、大蔵卿高階雅仲が伝えた口宣。任官対象者・官職・宣下日・伝達者を簡潔に記し、『旧記雑録前編一』2069号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-15 島津宗久請文
暦応四年六月二十三日、左衛門少尉島津宗久が三月二十九日付奉書への回答として提出した請文。左衛門太夫惟宗友雄が領する薩摩国新田宮執印職・五大院院主職と散在名田畠・免田等について、現知行に相違がなく、権利を妨げる申立人の存在も知らないと保証する。虚偽であれば八幡大菩薩の罰を受けると誓い、その旨の披露を求…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-16 足利尊氏御教書
建武三年三月二十八日、足利尊氏(本文署判『高氏』)が新田宮執印又三郎へ発給した御教書。肝付八郎兼重以下の凶徒を討伐するため、守護の催促に従って出陣し、軍忠を尽くすよう命じる。『旧記雑録前編一』1820号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-17 新田宮執印友雄着到状
建武三年四月二十八日付の新田宮執印友雄着到状について、『諸家系図』85号文書と同一であるため本文を省略した参照項目。参照元85号では、肝付八郎兼重とその与党の誅伐のため大隅国へ発向した際、新田宮執印又三郎友雄が軍忠を尽くすため馳参したことを御奉行所へ届け、島津貞久が『承了』と認証している。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-18 足利直義軍勢催促状
建武四年二月十二日、足利直義が新田宮執印又三郎へ発給した軍勢催促状。度重なる合戦で本人と郎従らが負傷した働きを神妙と賞し、恩賞は追って沙汰すると約束したうえで、敦賀城の凶徒を誅伐するため島津孫三郎とともに戦場へ馳せ向かい、軍忠を尽くすよう命じる。『旧記雑録前編一』1899号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-19 尾張義冬書下
観応二年八月二十八日、尾張義冬(左馬助)が執印又三郎へ発給した書下。義冬自身が大隅・薩摩両国の凶徒退治へ馳せ向かうので、一族を急いで催促し、忠節を尽くすよう命じる。『旧記雑録前編一』2374号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-20 足利義詮軍勢催促状
観応三年六月五日、足利義詮が新田宮執印へ発給した軍勢催促状。将軍家御台所領の日向国穆佐院島津庄で、畠山修理亮直顕・伊東八郎以下の足利直冬方凶徒が城郭を構えて濫妨しているため、一色少輔太郎入道にその退治を命じたとして、新田宮執印にも合力するよう命じる。『旧記雑録前編一』2429号文書と同一と注記される…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-21 足利義詮御教書
文和二年三月十日、足利義詮が新田宮執印左衛門太夫へ発給した御教書。薩摩国で忠節を尽くしたことを島津判官が注進したとして、その働きを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう督励する。『旧記雑録前編一』2474号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-22 一色直氏軍勢催促状
文和二年四月二十六日、一色直氏(右京権大夫)が新田宮執印左衛門太夫へ発給した軍勢催促状。薩摩国の凶徒を誅伐するため、島津判官師久と相談して忠節を尽くし、その詳細を注進するよう命じる。『旧記雑録前編一』2477号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-23 一色範氏感状
文和三年七月十日、一色範氏(沙弥)が新田宮執印左衛門太夫へ与えた感状。薩摩国の凶徒退治に合力したことを島津上総入道が注進したとして、その忠節を神妙と賞し、引き続き注進すべき旨を伝える。『旧記雑録前編一』2542号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-24 一色直氏感状
文和三年八月二十九日、一色直氏(右京権大夫)が執印左衛門太夫へ与えた感状。薩摩国知色城の凶徒退治合戦で忠節を尽くしたことを島津判官師久が注進したとして、その働きを神妙と賞し、京都へ注進すると伝える。『旧記雑録前編一』2555号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-25 足利尊氏御教書
文和三年九月三日、足利尊氏が新田宮執印左衛門太夫へ発給した御教書。凶徒退治で忠節を尽くしたことを島津判官師久が注進したとして、その働きを神妙と賞し、今後さらに戦功を挙げるよう督励する。『旧記雑録前編一』2556号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-26 島津師久書状
文和四年三月三日、島津師久(左衛門少尉)が執印左衛門太夫へ送った書状。一色殿と大友氏時(刑部太輔)が肥後国へ攻め入り合戦を始めたため、合力のために出立すると知らせ、来る十五日以前に和泉城・山門院の間へ馳せ参じるよう命じる。『旧記雑録前編一』2578号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-27 島津氏久書状
文和五年六月十七日、島津氏久(修理亮)が執印へ送った書状。「此堺合戦」は今が「大綱」の時分で頼みにしていると述べ、執印が同心すれば本望であるとして、重ねて期待を示し、詳しい返事を求める。『旧記雑録前編一』2586号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-28 島津貞久施行状
文和五年二月二十二日、島津貞久(沙弥)が新田宮執印左衛門太夫へ発給した施行状。前年十一月十日付の将軍家御教書を受け、その命令どおり速やかに要害を構え、将軍家の発向を待つよう命じる。『旧記雑録前編一』2614号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-29 島津師久書状
九月十七日付(脇に二十七日と傍注)、島津師久が執印左衛門太夫へ送った書状。和泉庄の名主らが菊池方と結び、翌月一日に当地の城へ攻め寄せるとの風聞を伝え、その期限前に馳せ参じるよう求める。当国の安否はこの時にかかるとして、書状が届き次第、時を移さず出陣するよう重ねて催促する。『旧記雑録前編一』2615号…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-30 島津氏久安堵状
七月十六日付、島津氏久が執印左衛門太夫入道へ与えた安堵状。高城郡内にある重豊領分の半分について、執印の知行に相違がないと保証し、この件は本文表記の「且廷尉方」と相談するよう伝える。『旧記雑録前編一』2616号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-31 島津氏久契状
貞治七年二月三日、島津氏久が執印左衛門太夫入道へ与えた契状。氏久は伝聞で事情を聞いたものの信用せず直ちに申し届け、相手から契状を受け取ったことを喜び、今後知り得た事柄は何事も知らせると約束する。執印にも風聞を聞いた際は知らせてもらい、相互に確認して決着させるよう求め、虚偽を申し立てた場合は新田八幡宮…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-32 島津師久預ヶ状
貞治七年三月二十七日、島津師久が執印左衛門太夫入道へ与えた預ヶ状。執印が忠節を尽くしたため、別儀として薩摩郡内寄田村の牧を特別に預け置き、その趣旨を心得るよう伝える。『旧記雑録前編二』189号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-33 島津氏久書状
応安元年と比定される四月二日付、島津氏久が執印へ送った書状。先日約束した祈所の件は、相違があれば別途処置し、決して等閑にしないと保証し、寄田牧についても別儀として申し入れる。付随系譜は新田宮執印職の友弟(三郎、遠江守、法名願真)を掲げ、永徳二年に時宗専念寺が水引内大小路へ先祖代々の菩提所として建立さ…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-34 島津元久宛行状
応永十年十月九日、島津元久(陸奥守)が執印豊前守へ与えた宛行状。薩摩国阿多郡内五代院、同国指宿郡内石堂村、同国万徳上井入道跡について、今この時に忠節を尽くすならば、新所として相違なく保障すると伝える。付随系譜は新田宮執印職の友令(豊前守、法名義忠)を掲げ、応永二十年六月二十九日に父友弟の譲状があった…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-35 島津存忠(久豊)宛行状
応永二十八年八月二十三日、島津存忠(久豊)が執印豊前守へ与えた宛行状。薩摩郡で十町分を割り当て、先例を守って領知するよう命じる。付随系譜は、新田宮執印職の康令(左衛門大夫、法名義光)、文安三年十二月十三日に父康令の譲状を受けた康秀(三郎、法名賢趙)、同職の友秀(三郎、法名浄官)、永正十一年頃に同職を…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-36 村田経安・平田兼宗連署書状
五月十日、村田経安と平田兼宗が執印友秀に連署して、今度の相論を宥恕の扱いによって従前どおり差し置いたことを神妙とし、惣官職は従来の筋目に任せて執務すること、社司・神官らも先規どおり友秀の下知に従うこと、この趣旨に基づいて成敗することを伝えた書状。付随系譜は公友以下を掲げ、康舩が天文三年四月三日に水引…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:119-37 権執印外二名連署請文
寛文三年六月十九日、新田社家の権執印・大検校・千儀が肝付伴兵衛兼屋へ連署して提出した請文。執印休左衛門との相論で、休左衛門は新田社家の主取を前々から一人で務めてきたと主張し、三名は休左衛門と同役で諸事を勤めてきたと主張したが、双方の口上と古来所持する証文が吟味され、休左衛門に理があると裁許されたため…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:120-1 家房系図
市来郡司職を襲った家房と、その死後に剃髪して道阿弥陀仏と号し郡司の事を取り扱った妻勢至御前を起点とする系図。子の成家が早世すると、道阿弥は成家の妻であった禅師御前を養女とし、国分友成に再嫁させて政家・家忠を生ませた。家房に嗣子がなかったため、道阿弥は外孫の政家(千与熊)へ市来郡司職を譲り、寛元二年七…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:120-2 家忠譜
家忠について、別説では友光といい、幼字を熊二郎丸、橋口次郎と称し、入道名を道一としたと記す系譜補記。家忠は国分友成と禅師御前の子で、祖母道阿弥陀仏から市来院内河上名主職を継がされ、大蔵姓を継承して橋口氏を称したとする。一方、先に橋口右衛門尉忠康という人物がいたことを『執印系図』や羽島本系図の異同とと…
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:121 市来氏系図
市来氏を後漢霊帝の流れ・阿知王の苗裔とし、大蔵政房から維房・三郎太夫・家房へ続く祖系と、河原・川上・上下角・中村・来迎寺・田口・櫨村・川崎・山野田・南・厚地などの一族諸流を示す系図。大蔵政房は宝亀年間に薩州へ下向し、市来郡司として鍋ヶ城に居住したとする。家房に実子がなかったため国分友成の二男政宗を養…