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旧記雑録拾遺 著作史料集3の目録

暫定版です。原文との照合により、概要や文書の区切り等を修正する場合があります。

全556件中 301~400件・4 / 6ページ

  1. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:184 既出文書参照(諸家系図130の19号文書)

    本文が『諸家系図』130の19号文書と同一であるため、本項では全文を省略したことを示す編集注記。独立した新規本文はなく、参照先は本史料集内のw5:130-19である。

  2. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:185 既出文書参照(諸家系図130の20号文書)

    本文が『諸家系図』130の20号文書と同一であるため、本項では全文を省略したことを示す編集注記。独立した新規本文はなく、参照先は本史料集内のw5:130-20である。

  3. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:186 既出文書参照(諸家系図130の3号文書)

    本文が『諸家系図』130の3号文書と同一であるため、本項では全文を省略したことを示す編集注記。独立した新規本文はなく、参照先は本史料集内のw5:130-3である。

  4. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:187 既出文書参照(諸家系図130の5号文書)

    本文が『諸家系図』130の5号文書と同一であるため、本項では全文を省略したことを示す編集注記。独立した新規本文はなく、参照先は本史料集内のw5:130-5である。

  5. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188 蒲地四郎左衛門家系図文書写(表題)

    『蒲地四郎左衛門家系図文書写』と掲げ、後続する蒲地氏の系図・由緒書および家蔵文書写のまとまりを開始する中表紙。独立した本文・年月日・発給者・宛先は記さない。

  6. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-1 蒲地四郎左衛門家系図文書写

    蒲地五郎左衛門を祖として、伊作市之瀬での戦死と墓所から、伊賀(後号甫心)以下の子孫・婚姻・養子・早世・没年・法名・葬地を系線で記す。伊賀は十三歳から八十三歳まで日新・島津義久に奉仕し、義久出家時に甫心の名を賜り大隅国安妙軒に葬られたとする。帯刀長を国分観音寺、貞隆を福昌寺内花舞軒、貞直らを浄光明寺内…

  7. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-2 蒲地伊賀(甫心)家由緒書

    蒲地仲右衛門が、祖先蒲地伊賀(甫心)の奉公と家の移動をまとめた由緒書。伊賀は十三歳から日新・島津義久に仕え、高崎大炊助の妹を妻とし、八十三歳で義久の出家に伴って入道を命じられ甫心の名を賜ったという。太閤下向時には泰平寺へ向かう龍伯を追参し、京勢に道を塞がれると切腹を申し出て通手形を得たこと、伊作で大…

  8. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-3 蒲地家伝来文書写の校合注記

    蒲地仲右衛門の提出書と、同族の蒲地八左衛門の提出書を照合した編集注記。両本の本文は同文だが、八左衛門本の末尾に相違があるため、その異文を『左之通写置』として次項188-4に書き留めることを示す。

  9. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-4 蒲地家由緒・島津家久詠歌および庄内弓戦覚書

    蒲地八左衛門本だけにある末尾異文で、蒲地家の由緒と庄内弓戦中の討物を二条記す。第一条は、曾祖父蒲地四郎左衛門の嫡子八左衛門が、甫心の代に庭の梅が満開の折、島津家久から梅の枝に短冊を付けた詠歌『とりあへす年をふれし雪の木すへの梅香に/一首侍ぬちとせの春をかさしてそ見る』を与えられ、短冊を現に所持すると…

  10. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-5 蒲地伊賀の法体・甫心号拝領覚書

    寛保元年八月十六日、蒲地八左衛門貞利が、既出記事と同じ内容を異なる文体で書き留めた家伝覚書。島津義久(龍伯)が法体となった際、蒲地伊賀にも法体となるよう命があり、伊賀が出家して『甫心』の名を拝領したと伝える。

  11. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-6 島津家久の八重梅・七夕詠歌短冊由緒

    寛保元年八月十六日、蒲地八左衛門尉貞利が、国分滞在中の島津家久と蒲地家に伝わる短冊二枚の由緒を記した覚書。家久は、納戸役を勤める蒲地四郎左衛門邸の八重梅が満開と聞いて庭で腰を掛け、梅枝を取り寄せて梅香の歌を短冊に記し、枝へ結び付けて帰ったという。四郎左衛門が短冊の表具を願い出ると、一枚では寂しいとし…

  12. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-7 青山六郎左衛門蒲地家由緒覚書

    元禄十五年正月、青山六郎左衛門が蒲地七左衛門の照会に答え、蒲地家の縁戚・軍役・移住を四条にまとめた覚書。第一条は、母の妹が喜入摂津守の奥方で、本人が国分から摂津守に伴われ、十一歳から十九歳まで祖母のもとに居たこと、外祖母が大口春田に隠居し、兄蒲地八左衛門らも同所に居たことを記す。第二条は、福山坂で女…

  13. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-8 加世田浄福寺蒲地氏墓所調査記録

    宝暦十一年、蒲地四郎左衛門貞留が、焼失した加世田浄福寺の再建に普請検者として赴いた際、同寺にある蒲地氏先祖の墓を調査した記録。浄福寺の戦亡帳を借り、蒲地帯刀・蒲地左衛門四郎・蒲地新三郎・蒲地越中の四名を確認し、暖土持十兵衛から忠国公下馬札後方の塚について聞き取った。本田用右衛門家が蒲地先祖の墓として…

  14. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-9 七月廿九日薩州小狩行事書状

    七月二十九日、薩州小狩行事が蒲地伊賀入道へ、狩場の統制と野山封鎖を命じた書状。御狩蔵へ近づく行為は猪行事の落度になるため下々へ厳重に申し渡し、猪行事の下知に背く者は両国で身分を問わず処罰するよう命じる。御馬が近日到着し、上様も下向する見込みであるため、三久保・白平の野山を固く封鎖するよう薩摩総行事へ…

  15. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-10 十一月六日町田入道存松書状

    十一月六日、町田入道存松が蒲地伊賀入道・大野将右衛門へ、城屋敷の移転・配当について伝えた書状。山城入道が城屋敷へ移ったかを尋ね、麓人が当分不在であるため城屋敷を進上する意向を示す一方、先に両人から申し越された城屋敷配当については、今しばらく控え、後日あらためて談合するよう求めている。

  16. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-11 二月廿六日町田羽入久倍存松書状

    二月二十六日、町田羽入久倍(存松)が大野将右衛門尉・蒲地伊賀入道へ、太守の田布施下向、出米、京上船、人別銭について指示した書状。太守は来月二日に田布施へ下向し、三、四日間は当地の八幡宮へ社参する予定なので心得ること、石見九兵衛尉へ命じて処理させることを伝える。出米について一石につき二升および一升五合…

  17. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-12 五月十八日三清書状

    五月十八日、本田親貞の被官三清が蒲地伊賀入道へ、公儀の用務がない者の上洛規制、談合への出頭、家名帳の作成を命じた書状。無用の上洛は曲事とし、特別に談合すべき事情があるため、蒲地本人が参上できなければ所衆二人を今月二十四日までに当地へ到着させるよう求め、できれば本人の出頭を望む。さらに所衆のうち十石未…

  18. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-13 正月晦日町田羽入存松書状

    正月晦日、町田羽入久倍(存松)が大野将右衛門・蒲地伊賀入道へ、奥に召し仕える『きりつほの下女』という呼称は御格護に紛らわしく不適切なので、兄の名字に従い『玉利名字之下女』とするよう指示した書状。併せて、所持させている『枯穂之帳』には門屋敷・浮免の持合人がなく、現地沙汰人と談合し、判明分を早々に付記し…

  19. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-14 四月十一日町田久政書状

    四月十一日、町田源左衛門久政が蒲地伊賀入道へ、移衆全員を公役に出すとの来札を了承し、ただちに申し渡すと回答した返書。当地から伊集院方面へ公役に出る者が多いため、当時伊作にいる公役人数を別紙に書き付けて持たせ、すでに解役された者は大野将右衛門来訪時に詳しく付け立てて渡したと伝える。追而書では、川辺の新…

  20. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-15 進藤久治の饗応礼状

    正月二十四日、進藤大蔵少輔久治が蒲地二郎四郎へ、前夜に訪ねられ種々懇切にもてなされたことを喜び、謝意を伝えた礼状。ひどく酔って正体を失ったため、本来なら参上して礼を述べるべきところ、かえって煩わせると考えて遠慮し、無沙汰のようになったことを詫びる。祝儀として五明二本を贈り、改めて参上して礼を述べると…

  21. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-16 〔文禄元年〕六月九日近衛前久書状

    (文禄元年)六月九日、近衛前久(署名『龍』)が龍伯(島津義久)へ、三月十八日付書状を六月三日に披見したことを告げ、唐入への奔走をねぎらった書状。義弘・久保が去る二月二十六日に渡唐したと聞き、遠い海路での陣労を察するとともに、義久が差し上げた息女について疎略なく世話し、京都では新造を伽に付けるので安心…

  22. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-17 建武元年六月廿六日観忍奉書

    建武元年六月二十六日、観忍が仰せを受けて千竈六郎左衛門入道へ、薩摩国河辺郡内黒島の郡司職を円覚に旧来どおり返付したので、その旨を承知するよう執達した奉書。本文は四行と注記され、冒頭に花押を掲げる。

  23. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-18 建武元年七月十七日島津貞久書下

    建武元年七月十七日、島津貞久が黒島郡司入道へ、京都から宛て給わった六月二十六日付書下に従い、薩摩国河辺郡黒島の郡司職を旧来どおり沙汰するよう命じた安堵の書下。本文は五行と注記され、島津貞久の花押を据える。

  24. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-19 興国二年十月廿二日奉書

    興国二年十月二十二日、仰せを受けた奉者不明の者が宛先不記載の相手へ、薩摩国河辺郡内の黒島・硫黄島郡司職が亀松丸に宛て給われたことを知らせ、早々に両所の年貢を先規に従って取り沙汰するよう執達した奉書。本文は四行と注記され、冒頭に花押を掲げる。

  25. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-20 応永五年六月廿日久家譲状

    応永五年(戊寅)六月二十日、久家が道通へ、筑後国三潴庄内一木村にある重阿弥陀仏名田一町を、久家の重代相伝の私領として打ち渡した事実を証した譲状。久家の子孫が同所について異議を申し立てることを禁じる。本文は五行と注記され、久家の花押を据える。

  26. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-21 応永九年十月廿三日直久安堵状

    応永九年十月二十三日、直久が蒲生左衛門次郎(『生』に傍注『池』)へ、今度の忠節により、蒲池郷本名内の蒲生十三町と瀬高五町を相違なく知行するよう安堵した文書。一家中のことは相応に振る舞い、今後の奔走では種々の命に従うよう求め、心を落ち着ければ目出たいと伝える。本文は六行と注記され、直久の花押を据える。

  27. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-22 文禄三年二月十三日町田存松領知目録

    文禄三年二月十三日、町田出羽入道存松が蒲地孫四郎へ示した薩州伊作内の領知目録。田尻名田代野門の三枚田・道上・楠木か丸・山の口・山神乃前・新山、大園・岩下・居屋敷・紺屋敷、祁答院塔之原内の浮免として東郷播磨先替地田・三嶋領くミ迫・養春院先名の木田、畠方のうるし畠・黒井堀を掲げる。田畠の合計は五町八反五…

  28. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-23 文禄五年十二月二日伊集院幸侃領知配分状

    文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が蒲地孫四郎へ、日向国諸県郡志布志の内之蔵村内『一作』十三石一斗一升九合と、姫城村内『寺見』二十六石八斗八升一合、合計四十石を示した領知配分状。このうち十三石一斗一升九合を加増として配分する。

  29. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:188-24 元和六年五月十三日川上伊予守名寄目録

    元和六年五月十三日、川上伊予守が喜入大炊助・蒲地四郎左衛門へ示した名寄目録。上小河院内で与三右衛門に関わる川添一反六畝内・下田一反一畝七分を掲げ、籾合計七俵二斗二升六合二勺、高にして二石六斗三升五合と算定する。編者注は、この文書を含む十八通の写しが蒲地四郎左衛門家にあると記す。

  30. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:189 蒲地氏系譜覚書

    修理大夫時房の没年である仁治元年から永享二年までを百九十一年と数え、その御判文書が重代として伝わることを述べた系譜覚書。本文表記の蒲池家と黒島家は同祖で、蒲池の祖を貞久とし、時房は先代の『正将軍』の孫、仁安三年生まれ・仁治元年没・七十五歳とする。貞久が黒島へ下向した時代の黒島郡司を行信とし、貞久は蒲…

  31. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:190 蒲地氏系譜覚書

    末行・満末を起点とし、満末が仁安三年八月九日に神崎庄惣政所を給されたこと、満末から八代の孫に当たる永行が法名を円覚と称したことを記す系譜覚書。永行は建武元年六月二十六日付の京都の書下により、薩摩国河辺郡惣政所について千竈六郎左衛門入道の加判を得て、黒島・和蛇(ママ)・平島を知行したとし、この由緒は高…

  32. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:191 蒲池休右衛門家系図焼失後の家伝覚書

    焼失した蒲池休右衛門家の系図に基づく家伝と、記主自身の考証を併記した覚書。筑後国蒲池城主の蒲池家は天正年間の合戦で敗れ、備中入道が天正十三年に島津義久へ属して千石を与えられたとする。備中入道の養子新助は山田民部入道性円の兄で小根占地頭、その嫡子が八郎左衛門で、記主は八郎左衛門の猶子だと述べる。備中入…

  33. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID 無番号_0002 分冊3巻扉(諸家系図文書)

    分冊3の巻扉で、中央に『諸家系図文書』との題字だけを掲げる。続く『諸家系図文書』第一巻以下への作品切替を示す補助頁である。

  34. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:1 琉球国中山王世系譜

    琉球国中山王の世系を説く冒頭序文。未生の初めを太極と称し、混沌から清濁・陰陽が分かれて天地と人物が生じたとする。大地の荒れた時に一男一女が化生し、男女の性に従って夫婦となり、三男二女をもうけた。長男を君王すなわち天孫氏の始め、次男を按司、三男を蒼生、長女を君君、次女を祝祝の始めとし、これによって五倫…

  35. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:2 琉球国中山王世譜

    琉球国中山王の王統を、舜天から尚敬王まで系線と歴代記事で示す長大な世譜。舜天を清和天皇の後裔・鎮西八郎為朝の子源尊敦とし、為朝が保元の乱後に伊豆大島へ流され、五島を攻略したのち琉球へ漂着したという由緒、尊敦が浦添で成長して逆臣利勇を討ち、按司らに推されて王位に就いた経緯を記す。舜馬順熙・義本に続いて…

  36. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:3 藤原姓菊池之末流志岐氏略譜

    藤原姓菊池氏の末流とする志岐氏の略譜。警固太郎経隆の嫡男経政を山鹿太夫兵藤四郎の嫡流とし、肥前国志岐六箇浦を領した重弘、志岐城主でのち入道麟泉と号した鎮経、親重へ系線をつなぐ。親重は天正十六年、加藤清正・小西行長に志岐城を攻められて降伏し、豊臣秀吉の命によって清正の従軍として肥後へ移り、文禄元年には…

  37. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:4 源姓後醍醐院氏正統系図

    後醍醐天皇を後宇多天皇の第二皇子として掲げ、護良・成良・恒良・尊良・宗良・懐良ら諸親王、後村上・長慶・後亀山の南朝皇統と諸王・法親王の系線を示す長大な正統系図。懐良親王については征西将軍として肥後菊池氏に迎えられ、菊池武光・武政らと大友・少弐勢を破り、大宰府を約九年間掌握したこと、明の返簡で『日本国…

  38. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:4-1 後醍醐天皇第六皇子征西将軍宮系図

    後醍醐天皇第六皇子・征西将軍宮懐良親王を祖とし、良純・良政・良方・良張・良音・良央らへ続くとする近世薩摩在住家の系図。各人の出生・死没・法号、実子・養子・婚姻、松熊八郎・喜兵衛・喜右衛門・勝三郎などの通称と改名を記し、江戸・国元での勤役、府城での太刀一腰・馬代の献上と拝謁、高崎地頭職、船奉行・供奉、…

  39. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:5 平姓秩父氏略系図

    桓武天皇から葛原親王・高見王・高望王を経る桓武平氏の系線を起点に、良文流、千葉氏・村岡氏などの分岐を示し、秩父武基・武綱から畠山重忠とその後裔へ続ける略系図。武綱が源義家の奥州征討に従って白旗を賜ったこと、重忠が源頼朝の挙兵以来諸戦に功を立てながら北条時政の後妻牧御方の讒言により武蔵国二俣川で一族・…

  40. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:5-1 平姓秩父氏系図

    前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志…

  41. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:6 秩父武蔵守将恒由緒

    従五位下・鎮守府将軍の秩父武蔵守将恒が七歳で初めて直垂を着た八月の祝儀に、季節外れの雪が白玉のように積もったという由緒。将恒が薄浅黄の直垂で庭に出ると雪が直垂上に降り、その跡が斑に残って言葉に尽くせない美しさを示したため、子孫がこれを『雪冠』の直垂文様として定めたと伝える。

  42. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:7 伊地知家庶流

    伊地知家の祖系から分かれた庶流十五系統を、分岐した代数・男子の出生順・祖の名や官途ごとに列挙する一覧。季随六男裳輪将野介流、季弘の二男左馬介・三男重貞・四男重春の各流、季豊三男重之流、持季流、小牟田小三郎流、重持二男左馬介流、重豊二男河内守流などを挙げ、後裔の伊地知姓称用、木工右衛門・刑部左衛門・淡…

  43. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:8 秩父氏二十四代又太郎重豊四男淡路守入道心岳系図

    秩父氏二十四代又太郎重豊の四男・淡路守入道心岳を祖とし、出羽守・淡路守重宗以下へ分かれる伊地知氏庶流の系図。重政は門川地頭として島津義久に仕え、天正十五年に豊後で戦死し、重張は朝鮮で戦死したと記すほか、種子島氏からの養子が義久・義弘・家久の三代に仕えたこと、各支流の官途・婚姻・養子・戦死を載せる。後…

  44. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:9 家嫡太郎左衛門尉重豊之二男河内守一流

    家嫡太郎左衛門尉重豊の二男・伊地知河内守を祖とし、越前守・刑部少輔以下へ分かれる系図。重位は朝鮮で戦死し、石原助兵衛の長子を実子として系統へ迎えたこと、重清は朝鮮役で功を立て蒲生で戦死したこと、重徳は日新公に仕えて蒲生で戦死したことを記す。重増は比志島河内守の二男を実子とし天正十四年に豊後で戦死、重…

  45. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:10 大平家之旧記

    天明元年に高岡士・牛屎源左衛門方で見いだされた大平家の旧記。文治二年、大平太郎大秦宿禰元光と弟・後平二元能が鎌倉へ参上し、薩摩国伊佐郡祁答院の牛屎院を本領として訴えたのに対し、大隅国菱刈郡大郎院の城主・北城八郎重道も菱刈家の本領であると証拠を添えて主張した。源頼朝が島津庄惣地頭・惟宗左兵衛尉忠久に両…

  46. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:10-1 文治三年五月三日源頼朝下文

    源頼朝が大秦元光に対し、薩摩国牛屎院を従前どおり安堵した文治三年五月三日付下文。小城八郎重道が証拠を有すると申し立てたため、島津庄惣地頭・惟宗左兵衛尉忠久を介して郡司・弁済使の処置がなされたが、重道には相伝の根拠がないとしてその沙汰を停止し、元光を本領へ復帰させる。一方で、牛屎院内では庄方・国衙方の…

  47. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:10-2 文治三年五月三日源頼朝御教書

    源頼朝が伊豆藤内に対し、薩摩国住人・大平基光と弟の後平二元能が鎌倉へ参上して見参に入ったので、両人を帰国させる旨を承知させるよう命じた文治三年五月三日付御教書。末尾に『盛時奉』とあり、盛時が頼朝の仰せを奉じて取り次いだことを示す。本文は大平の名を『基光』と記し、前項w6:10・10-1の『元光』表記…

  48. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:10-3 天和二年六月十四日弁官親盈副書

    弁官新右衛門親盈が淵辺弥兵衛へ、文治三年五月三日付頼朝判物の内容と伝来を説明し、希望に応じて写しを進覧した天和二年六月十四日付副書。判物は薩摩国住人・牛屎院司大秦元光代の下文で、牛屎家の嫡女である加藤金右衛門妻が男子を欠いたため系図・文書を所持し、当時は加藤辰之助家に伝わっていたとする。親盈はこの一…

  49. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:10-4 延文二年九月某覚書

    延文二年九月、畠山治部大夫直顕が日向国六笠城に籠城し、菊池肥後守武光がこれを攻めるとの風聞がある一方、島津左衛門尉師久が加治木へ出陣した状況を記す覚書。祁答院郡司の渋谷一族は直顕へ加勢すると称して一族を催し、九月晦日に加治木城へ攻め入り師久と合戦に及んだため、師久が左近将監高元へ合力を求めた書状を次…

  50. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:10-5 正平十二年十月五日島津師久書状

    加治木へ発向した島津師久が牛屎左近将監へ、渋谷一族が畠山直顕への合力を口実として当地の郡司・同族を誘い、前月晦日に城へ攻め入って現在も合戦中であると報じ、援軍を求めた正平十二年十月五日付書状。師久は合力が得られれば喜ばしいと述べ、詳細は東郷に申し含めたので聞き取るよう伝える。包紙には『正平十二/嶋津…

  51. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:10-6 四月十日島津元久書状

    島津元久が牛屎へ、七日付で平次郎方から届いた書状を確認し、牛屎が元久方の事情や相手方の籌策をたびたび知らせてくれることを喜んだ四月十日付返書。ある晩に聞いた件については、内々の穏当な者たちが折悪しく来なかったため、相談できしだい元久から改めて報告すると約し、こちらに関する疑問も引き続き知らせてほしい…

  52. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:10-7 二月廿日島津忠国書状

    島津忠国が牛屎へ、これまで幾度も情勢をめぐって疎隔していたが、近頃は懇切な連絡を受けていると述べ、出立が滞っていることを案じて早急な来訪を催促した二月二十日付書状。詳細は菱刈方から伝えるとし、先日のたびたびの音信に謝意を示したうえで、その後の談合がどうなったかを問い、今決断しなければ従来の厚意も無駄…

  53. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:10-8 天和三年十二月元鋪奥書

    元鋪が、右に掲げた諸文書の正文は加藤辰之助家に所蔵されているため、それに基づいて書写したと証した天和三年十二月付奥書。牛屎家から加藤家へ伝来した頼朝判物以下の文書群について、書写時点の正本所蔵者と写本作成の根拠を明記する。

  54. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:11 建久四年五月廿九日富士野御狩抜書

    富士野御狩について、横沢辺へ向かう命令、駿河国浮島原から富士山麓へ至る景観、諸国・諸氏から選抜された射手と騎馬の編成、狩猟当日の大群集を記した建久四年五月二十九日付抜書。五月十一日午刻に浮島原へ着き、同地を烈獵五年に湧出した希代の名所と説明し、東西南北の地勢や六王子宮居御座平を詳述する。十三日卯刻に…

  55. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:12 大平氏系図

    桓武天皇・葛原親王から高望王、貞盛、維衡以下へ続く桓武平氏の系線を起点に、平家諸流から大平氏・牛屎氏へ至る系譜を示す。清盛・重盛・頼盛・敦盛・宗盛・知盛らの系統を配し、元重・元真・元包・宗実・師盛以下では備中守・土佐守等の官途を記し、薩摩四郎を牛屎院の始祖として掲げる。元光については夢告によって大平…

  56. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:13 平姓淵辺家系図

    桓武天皇・葛原親王から高望王、国香、貞盛、維衡以下を経て淵辺家・牛屎氏へ至る平姓系図。牛屎院を薩摩国伊佐郡の牛山・羽月・山野・入山・平泉五か所、祁答院を入来・鶴田・佐司・山崎・宮城・大村・黒木等から成る地域と説明し、両者を『両院』と称して城号でもあるとする。系図上の信基に対応する記事は『信元』が保元…

  57. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:13-1 文治三年五月三日源頼朝下文(同文省略)

    前項の『頼朝公之御教書曰』を受けるが、『諸家系図文書』10の1号文書と同一であるため本文を省略した参照注記。参照先は文治三年五月三日、源頼朝が大秦元光へ牛屎院の本領を安堵し、庄方・国衙方の課役勤仕を命じた下文である。続いて元能を『後平二』と示し、鎌倉の公事奉行・平五盛時が鎮西守護・天野藤内遠景へ送っ…

  58. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:13-2 文治三年五月三日源頼朝御教書(同文省略)・大平氏庶流系譜

    冒頭は『諸家系図文書』10の2号文書と同一のため、源頼朝御教書本文を省略する。参照先は文治三年五月三日、大平基光と弟・後平二元能の見参後の帰国を伊豆藤内へ命じた御教書である。続いて、大平家から大平・牛屎・羽月・山野・鳥越・淵辺・太田・青木・入山・屋代・入田の十一家が分かれ、羽月・山野・太田・青木・入…

  59. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:13-3 正平十二年十月五日島津師久書状(同文省略)・牛屎氏軍歴

    冒頭は『諸家系図文書』10の5号文書と同一のため、正平十二年十月五日付島津師久書状を省略する。参照先は加治木合戦中の師久が牛屎左近将監へ援軍を求めた書状である。続いて康安元年九月二十六日、牛屎左近将監高元が一族、和泉下司諸太郎兵衛尉政保、隅州馬越藤四郎行家、肥州芦北七浦等の一族と同心し、官領武州の合…

  60. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:13-4 四月十日島津元久書状(同文省略)

    『諸家系図文書』10の6号文書と同一であるため、四月十日付島津元久書状の本文を省略した参照注記。参照先は元久が牛屎へ、平次郎方からの七日付書状を受領し、相手方の籌策に関する報告へ謝意を示して、内々の者との相談後に追報すると答えた返書である。本項には系線だけを続け、元秀が牛屎近江守を称し、法名を省忠と…

  61. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:13-5 島津忠国書状(同文省略)・牛屎淵辺家系譜

    冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代…

  62. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:13-6 八月十七日高崎宗右衛門書状

    高崎宗右衛門が淵辺量右衛門へ、御記録方が高麗人に関して尋ねたい事項があるため、鎌田蔵人の伝言に従い、その日のうちに平田清右衛門宅へ出向くよう通知した八月十七日付書状。返事の際に詳細を聞くよう伝え、徒歩での出頭が困難なら乗物を手配させるとの配慮も記す。

  63. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:13-7 万治二年八月十八日平田清右衛門覚書・淵辺家系譜

    冒頭に『高麗人諸事問条記一通、但十五ヶ条』と掲げ、平田清右衛門が淵辺量右衛門へ、ほかにも覚えている事柄を詳しく書き付けて提出するよう求めた万治二年八月十八日付覚書。御記録方で使用するための聞取であり、朝鮮軍記の提出控えは別紙にあると注記する。続いて元貞以下の淵辺家系譜を収め、元貞が寛文元年に七十九歳…

  64. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14 平姓指宿氏系図

    桓武天皇・葛原親王・高望王から国香・貞盛らを経て指宿氏へ至る平姓の長大系図。良時(伊佐平次)が武蔵国から薩摩へ下向し、阿多郡領を与えられた由緒を記し、三浦平大夫為通、鎌倉・三浦諸流との系譜を介して薩摩の諸家へ展開する。各系線には鎮守府将軍、伊予守・駿河守・隠岐守などの官途とともに、指宿本地頭、頴娃本…

  65. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-1 七月廿七日北条泰時書状

    北条泰時が豊後四郎左衛門尉へ、薩摩国御家人・指宿平四郎忠秀と頴娃平太忠継が争っている開門神領について、豊後三郎左衛門尉と共同で両当事者を召して裁決し、双方の主張と処置を注進するよう命じた七月二十七日付書状。本文後には指宿氏系譜を続け、忠成が郡司・小次郎を称し、法名を了心としたことを記す。

  66. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-2 文暦二年八月廿八日関東下知状

    鎌倉幕府が、指宿平四郎忠秀とその親類・所従らの殺害事件および遺領争いを審理し、忠秀の弟・小次郎忠成と養子・平次郎重秀に、指宿郡司職、蕨野、九所大明神宮、秋富名の田畠・名主職等を各半分ずつ領知させた文暦二年八月二十八日付関東下知状。指宿郡地頭・豊後四郎左衛門尉忠綱は、殺害は自分の下知ではなく、下手人を…

  67. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-3 文永九年十一月十二日平忠成譲状

    平忠成が嫡男・又二郎宗忠へ、先祖相伝の指宿郡司職、田畠・山野・河海、および開門神宮宮司職を譲った文永九年十一月十二日付譲状。関係証文を添え、所領の様体を書き記して譲与するもので、将来にわたり他から妨げられず知行するよう定める。本文後の系譜には女子から重秀・忠直へ続く線と、忠篤が幼名彦鶴丸、指宿郡司彦…

  68. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-4 正応六年五月廿四日平忠連譲状

    平忠連が子息・彦鶴丸へ、先祖相伝の薩摩国指宿郡司職、田畠・山野・河海および開門新宮宮司職等を永代譲与した正応六年五月二十四日付譲状。関係する調度・証文類を添えて両職以下の所職・所領を引き渡し、以後は他者が妨げてはならないと定める。

  69. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-5 元弘三年七月十三日沙弥成栄着到状

    薩摩国指宿郡司彦次郎入道成栄(沙弥成栄)が御奉行所へ、元弘三年七月十三日に味方へ馳せ参じたことを届け、その旨を披露するよう求めた着到状。文書冒頭には『御袖判』とあり、袖判を伴う文書として収録されている。

  70. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-6 文和三年十月十三日島津貞久書下

    島津貞久が指宿郡司入道へ、島津庄日向方の富山七郎左衛門尉義道が訴えた島津院住人らの追捕・狼藉について、添付訴状に基づき土持掃部左衛門入道とともに現地を検分するよう命じた文和三年十月十三日付書下。当事者を参上させて事情を明らかにし、請文を提出させ、難渋する者には起請の文言を載せて申し開かせるよう指示す…

  71. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-7 建武三年三月五日足利尊氏軍勢催促状

    足利尊氏が指宿一族へ、菊池武敏以下の『凶徒』を誅伐し、軍忠を尽くすよう命じた建武三年三月五日付軍勢催促状。短文ながら、九州での敵対勢力を名指しして指宿一族単位の参戦を催促する。

  72. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-8 建武三年四月廿五日沙弥成栄着到状

    薩摩国御家人・指宿郡司入道成栄(沙弥成栄)が御奉行所へ、肝付八郎兼重とその与党の討伐に際して軍忠を尽くすため馳せ参じたことを届け、披露を求めた建武三年四月二十五日付着到状。末尾には奉行所側の『承了』と御判があり、参陣申告が受理されたことを示す。

  73. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-9 延元二年五月廿六日三条泰季御教書

    三条侍従(三条泰季)の仰せを受け、左近将監高家が指宿郡司入道へ、薩摩国指宿郡内秋益名跡を上裁決着まで道鑑法師に預け置くことを伝えた延元二年五月二十六日付御教書。甲乙人による乱妨を止め、同名跡を静穏に支配させるよう命じ、文書冒頭には『御袖判』を記す。

  74. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-10 延元二年十月指宿成栄代高野宗栄軍忠状

    薩摩国指宿彦次郎入道成栄の代官・高野淡路房宗栄が、九月二十日、島津孫三郎頼久以下の『凶徒』を討つため大将が市来院へ発向した際に馳せ参じ、軍忠を尽くして敵一人を分取したと申告する延元二年十月付軍忠状。有間平次郎・山角平三郎入道・栗下宰相房の三名が戦功を見知った証人として挙げられ、宗栄はこれを根拠に恩賞…

  75. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-11 延元三年二月五日指宿成栄軍忠状

    指宿彦次郎入道成栄が、前年二月十七日に薩州御大将・三条侍従が下向した際、綸旨に従って最前に馳せ参じ、以後数十度の合戦に参加した軍忠を申告する延元三年二月五日付軍忠状。島津上総入道道鑑一族、大隅五郎兵衛尉子息孫六・頴娃三郎らに言及し、成栄の子息次郎をはじめ一族・親類・若党数人が戦死したこと、市来院後巻…

  76. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-12 正平十八年二月十七日沙弥成栄譲状

    沙弥成栄が恩賞として拝領し、征夷将軍の令旨で権利が明白な大隅国種子島を、三人の子へ分割相続させた正平十八年二月十七日付譲状。嫡子忠勝に二分の一、残る二分の一を左京亮忠元・掃部助忠平に共同で与えて各四分の一とし、代々由緒ある土地として三人が相談して分割し、子々孫々まで相違なく知行するよう定める。

  77. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-13 建徳元年十一月廿一日征西将軍宮令旨

    征西将軍宮の令旨を前中納言が指宿能登守へ伝え、知覧美濃権守忠泰に、亡父忠平の譲状どおり薩摩国知覧院および河辺郡を支配させるよう命じた建徳元年十一月二十一日付文書。指宿能登守は鮫島下野守と現地へ赴いて忠泰へ下地を引き渡し、異論があれば起請の文言を記して注進するよう求められた。

  78. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-14 明徳四年十月十一日今川了俊安堵状

    今川了俊が指宿殿へ、薩摩国指宿郡内の山河・鳴河を相伝の旨に任せて知行し、権利に相違があってはならないと認めた明徳四年十月十一日付安堵状。短文ながら、指宿氏が同郡内二か所を相伝所領として保持したことを具体的に示す。

  79. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-15 天授二年七月廿五日指宿能登守忠勝譲状

    指宿能登守忠勝が、多年の軍忠により安堵の令旨を受け、自ら知行していた薩摩国指宿郡惣地頭職を、嫡子正忠へ永代譲与した天授二年七月二十五日付譲状。正忠は以後、安堵状の趣旨を守って知行し、相違があってはならないと定める。併載系図には忠合(指宿郡司・近江守)・頼忠らを掲げるが、譲状本文の譲受人は正忠一人であ…

  80. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-16 応永十六年二月十八日指宿近江守忠合譲状

    指宿近江守忠合が子息・平頼忠へ、薩摩国指宿郡五ヶ名を重代相伝の所領として譲った応永十六年二月十八日付譲状。父・能登守忠勝の公方御教書や代々の本証文を根拠に、指宿郡一円の知行と正忠・忠合へ至る相続経緯を述べ、父祖代々の証文が明白であるとして頼忠への譲与を定める。後続系譜には、永吉城・新納院高城・日州庄…

  81. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-17 慶長五年十月十日島津惟新感状

    島津惟新が指宿清左衛門尉へ、美濃国関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国途上も片時も側を離れず奉公したことを賞して、知行百石を宛行った慶長五年十月十日付感状。後続系譜には、出水の八重尾因幡守家、蒲生の野村九右衛門家への婚姻、福山居住、忠易夫妻の出水での没年・法名などを記す。

  82. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:14-18 二月廿九日片山次兵衛尉重次書状

    片山次兵衛尉重次が薩摩様配下の指宿内蔵助へ、前日に城中で初めて対面して見た働きは筆舌に尽くしがたいほど比類なく、敵二人の首級を挙げた手柄に驚いたと伝えた二月二十九日付書状。重次自身も首級を拾ったが、今になって思えば拾うべきではなかったと述懐し、薩州衆の前日の働きについても重ねて言及する。後続系譜には…

  83. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:15-1 島津家歴代犬追物平田家手組記録・平田氏後続系譜

    島津氏久・忠国・立久・忠昌ら歴代当主の時代から、至徳元年十一月二十六日以降に行われた犬追物について、実施日、飫肥・福島・志布志・鹿屋・江戸王子などの会場、平田氏と伊地知・島津・北郷・本田・種子島氏らの手組を年代順に列挙し、慶安元年九月二十八日までを記録する。平田家が本名字『小松』を称さなかった事情、…

  84. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID 無番号_0003 諸家系図文書二巻扉・平姓平田氏系図(印刷番号15)

    『諸家系図文書 二』の巻扉・収録諸氏一覧に続き、印刷番号15として平姓平田氏の系図と家伝を収める。桓武天皇―平宗盛―宗正―大炊助信宗に始まる系線、源平合戦後に佐能宗が一族を薩州草院へ隠したという由緒、信宗以来の帖佐・平田への移住、島津氏久・元久への奉公を記す。さらに寺社・城郭をめぐる討捕、川遊・狩猟…

  85. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:16 帖佐太郎系図

    大納言・従三位高棟を祖とし、信考から親良・親将・親直へ続く系線、高親―国成、家成―周防大夫判官―成忠・成助、光守・阿多平四郎の諸流を示す帖佐太郎系図。友清から良西(肥後房)を経て信宗(帖佐太郎)、宗光(平左近)へ至る線を掲げ、帖佐氏と税所・阿多系諸人物を同一の高棟流平氏系譜に位置づける。

  86. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:17 日新様以来御奉公之次第

    日新公以来の平田家一族の奉公を人物別に列挙した家伝。谷山倉良城主・平田備中守宗秀が蒲生岩剣の陣で形見の刀を宿元へ送り、主従とともに戦死したこと、弟の田布施城主・豊前守宗貞が高城籠城中に城内へ忍び入り、敵中三里を切り抜けて情報を伝えたことを中心に記す。さらに安房介・新左衛門・次郎四郎重辰・宮内少宗鑑・…

  87. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:18 帖佐良西流系図

    隅州帖佐郷地頭・良西(肥後房)から、子の信宗(太郎・大炊介)、宗光・宗弘・宗平・宗信へ続く系譜。信宗は父良西が帖佐郷地頭であったため初め帖佐を称したが、良西が地頭職を退いた後に薩州日置郡へ移住し、居所の平田を名字とした由緒を記す。平田家の小名字として寺師・松元・鍋倉・餅田・甑・平松・平山・長瀬を挙げ…

  88. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:19 平田狩野之助先祖之次第

    平田重宗から分かれたと伝える狩野之助家の系譜・軍歴・知行記録。筑前守宗勝は日州福島で戦死し、日置美濃守久遂の二男・出羽守宗仍は末吉地頭として居住した後、貴久に召し出され先代同様に家老職を務め、永禄元年三月十九日の肝付勢との宮ヶ原合戦で子の虎五郎と家人六名とともに戦死した。弘治二年生まれの平次郎狩野之…

  89. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:20 平姓庶流平田氏系図

    桓武天皇―葛原親王―高望王から貞盛・維衡・正度・忠盛・清盛を経て、小松内大臣重盛の後裔を平田氏諸流へつなぐ庶流系図。平田安房助悦山を加世田龍徳院に葬ったこと、谷山吉幸城主・平田民部少輔宗秀が隅州平松の岩剣合戦で戦死したことを記し、宗貞・宗祐・宗位・宗如らの官途・没年・法名へ続く。宗清は天文六年八月七…

  90. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:20-1 諏訪大明神御祭会勤役書上

    慶長五年・七年の諏訪大明神祭会について、御頭屋・御頭人、左右の居頭、初献・二献・三献、相伴、御幣、敷皮などの勤役者を列挙した書上。高城・寺山・国分・新納・平田・加治木・本田・猿渡らの人名と、嫡子・二男・内衆などの続柄や立場を具体的に記す。後半は平田氏の後続系図で、伊東肥後守祐辰女を妻とした人物の没年…

  91. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:21 藤原姓平田氏純貞系図

    『藤原姓平田氏純貞系図 他見無用』と題し、『平田清右衛門殿系図』と記す中表紙。系譜本文や具体的な事績はこの頁にはなく、次項以下に続く平田純貞・清右衛門家関係史料群の表題と、他見を禁じる取扱注記を示す。

  92. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:21-1 平田純正序

    元禄十三年秋、藤原純音が藤原姓平田氏の由来と純貞以下の履歴を記した序・系図。家は古く薩摩国牛屎院と大隅国太良院の境に住み、平良氏から平田氏へ改姓した藤原姓の家であって、平姓平田氏とは別系統だと口碑に基づいて論じるが、旧記が失われたため純貞以前の祖名は不明とする。純貞は島津貴久に仕え、貴久が元亀二年六…

  93. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:21-2 島津久元・喜入忠政連署知行宛行状

    寛永六年八月十五日、島津摂津守久元と喜入下野守忠政が、地下・旅とも格別に奉公した平田盛右衛門尉へ新地五十石を宛行い、異議なく支配させるよう御支配奉行衆へ命じた連署状。末尾に、寛永十二年十二月十五日にも加増地五十石を拝領したとの追記があり、合計百石へ増えた経過が分かる。『旧記雑録後編』五一五二号文書と…

  94. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:21-3 島津久慶外二名連署知行宛行状

    寛永十二年十二月十五日、三原左衛門佐重庸・鎌田出雲守政統・島津弾正大弼久慶が平田盛右衛門尉へ五十石を加増し、山田民部少輔有栄・新納加賀守忠清に支配させるよう命じた連署状。後半は平田純正による島津家家譜編纂の由来を記す。家久が病床で起き上がれなくなった際、純正は命により江戸へ赴き、宝刀吉・腹巻・鉄砲三…

  95. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:21-4 島津久通・鎌田政昭連署証状

    明暦三年正月十五日、島津図書頭久通と鎌田筑後守政昭が平田清右衛門尉へ発給した、家譜編纂褒賞と百石加増の証状。将軍徳川家光が諸家系図を官庫へ収めた後、島津光久が高祖以来の綸旨・感状を編集し、正統から枝葉までの系譜の誤りを正すよう清右衛門へ命じたところ、日夜怠らず多年勤労したことが光久に聞こえたため、別…

  96. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:21-5 加増高書上

    平田清右衛門尉に加増された高百石について、国分松木村の津留園屋敷二十九石余、水引新田村の三垣園屋敷四十六石余、飯野池島村の井手之平門明二十三石余、横川上之名村および水引新田村の浮免二石余を列挙した名寄内訳。加増高百石のうち一石九斗二升余が金山御用地となって返地されたこと、総高百石の名寄は別紙にあるこ…

  97. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:21-6 鎌田政昭書状

    明暦三年正月十五日、鎌田筑後守政昭が平田清右衛門尉へ送った返書。清右衛門が多年にわたり昼夜家の記録編纂に精励したことを重く評価する一方、当時は藩の借銀が多く十分な褒美を与えられないため、褒美のしるしとして加増高百石を与えるので早々に拝領し、御礼を申し上げるよう伝える。あわせて同族の平田九郎右衛門を『…

  98. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:21-7 平田純正辞世

    寛文二年十月十七日に八十歳で没した平田盛右衛門尉藤原純正の辞世と、純直・純音以下の後続系譜。純正は『今年今月今日今時今刻』と死の時を明記して歌を残し、法名を天心又玄庵主とする。孫の純直は外祖父壱岐加賀守幸則の養子となり、正保二年冬、遠流途中で谷山正泉寺に宿泊した島津大和守久章の警護を新納仁右衛門と担…

  99. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:22 酒匂氏家譜序略

    宝永七年秋、酒匂氏の由緒と散逸した家譜の復元方針を記した序。酒匂氏を桓武平氏の流れとし、梶原権大夫景道―景久・刑部丞朝景へつなぎ、朝景が源頼朝から相州酒匂荘を賜って酒匂を称し、島津忠久に仕えて薩摩・大隅・日向守護職補任に伴い文治二年八月一日に薩州山門院へ下向、子景貞も従ったとする。豊州宇佐八幡宮参詣…

  100. 旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:22-1 酒匂氏系図

    桓武天皇―葛原親王―高見王―高望王から良望・良将・良孫・良文へ分かれ、村岡忠道、三浦為道、鎌倉景名、梶原権大夫景道・鎌倉権守景時を経て、梶原太郎景久・刑部丞朝景へつなぐ系図。朝景を酒匂形部丞、子景貞を左衛門尉・酒匂とし、資長・忠影・盛景・資房・宗景・資泰・貞資・資盛・資行・資景・景秀・氏景らの諸流と…