伊集院幸侃・本田三清連署証状
文禄4年9月28日 / 冊子 915頁
薩摩国菱刈本城内の南浦村・荒田原内町屋敷などについて、各地の石高を示して東郷源七郎へ給与する。 新知分の数量を列挙し、加増時は両名の判断で配分するとした、検地後の知行宛行を具体的に示す連署証状。
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文禄4年9月28日 / 冊子 915頁
薩摩国菱刈本城内の南浦村・荒田原内町屋敷などについて、各地の石高を示して東郷源七郎へ給与する。 新知分の数量を列挙し、加増時は両名の判断で配分するとした、検地後の知行宛行を具体的に示す連署証状。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が源七郎へ、薩州鹿籠内の別府村百六十石九斗九升を含む合計五百石の加増を示した目録。太閤の命による分国検地・改易で旧領を離れることへの配慮として、知行について龍伯・武庫と相談し、特に念を入れて取り計らうと伝える。
文禄五年十二月二日 / 冊子 56~57頁
伊集院幸侃が源七郎に、日州諸県郡田尻村内の土地を名寄・石高別に充行った領知目録。
慶長五年十月卅日 / 冊子 607頁
島津忠長ら四名が源七郎へ、薩州鹿籠の別府村百六十石六斗九升と、庄内末吉の深川村三百三十九石三斗一升、合計五百石を加増として宛行う。
元和六年三月廿七日 / 冊子 727~728頁
桑原郡内の知行七十四石を、領国内の改配分に伴って源七郎へ宛行い、その領有を認めた島津久元ら五名の連署知行目録。
元和六年五月十三日 / 冊子 732頁
曽於郡松永村内の知行百石を、布袋絵讃を進上した褒美として源七郎へ宛行い、その領有を認めた島津久元ら五名の連署知行目録。
(慶長元年)四月十三日 / 冊子 16~17頁
島津忠恒が三名へ、近く軍事行動を命じる朱印状が出たため、油断なく準備するよう伝える。島津義弘が渡海すれば、自身は上洛して国元検地を命じられた礼と私用を申し述べ、石田三成の命により義弘の渡海次第ただちに帰朝する覚悟であるとして、三名にもこちらからの連絡を待つよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 846頁
天文十六年、伊東義祐方と北郷忠直・源七郎方が日向山東、清水城、姫木城などをめぐって戦った経過を記す。各城への攻撃・救援、北郷方と本田董親らの進退、諸将の討死を追い、城の帰属変化と敗兵の退却までをまとめる。
(慶長四年)十二月朔日 / 冊子 470~471頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、尊札を拝受した礼を述べる。志和地の堀川が二日で成り、高城表から出た敵を追い入れて多数を討ち取り、麓まで放火した勝利を喜ぶ。天神山の陣取・普請が整い、近日あいの垣まで命じたことから、志和地もほどなく入手できると見込む。上方は変わりなく、山田の様子や病気で在陣中に帰った源七郎についても問い、龍様への取り成しを頼む。配置した人数は必要時に夜中でも参上させると伝える。
年月日未詳 / 冊子 666-667頁
日州飫肥の稲津掃部が佐土原城を攻めたという知らせを受け、御上様・宰相殿は八代へ直行し、義弘は佐土原を見舞った。佐土原では島津源七郎が出迎え、八代で一宿した夜には宿の近くの放火者を討ち取った。語り手は父と暇を賜って真幸海道を進み、義弘は浜之市へ向かい、義久に対面するため出立し、帖佐へ着いたと記す。語り手らも帖佐へ到着し、村岡掃部左衛門の客屋にしばらく滞在した後、家作屋敷を与えられた。
年月日未詳 / 冊子 845~846頁
天文十六年、飫肥・清水城などの戦闘で討死した北郷忠直ら島津方の武士を日付・戦場とともに列記する。
年月日未詳 / 冊子 960頁
島津忠直譜は、兄豊久が戦死して継子がなかったため、慶長九年に忠直が太守の命で後嗣となったと記す。しかし病で狂心となり、長女を喜入摂津守の長子へ嫁がせて兄の家を継がせ、自身は千石を領して三代堂村に隠居した。
天明四年三月二十二日 / 冊子 739頁/原整理番号 2084/整理ID 2084
松平薩摩守は持病で下半身が冷えるため、病状が出た際の足袋使用を御用番田沼主殿頭へ伺い、許可を得た旨を届ける。三月二十二日付で「御名」と記した書付は、同日、留守居本城源七郎を通じて西丸御老中鳥居丹波守へ差し出された。前件の伺い・許可を受けた届書である。
天明四年十月二十日 / 冊子 767頁/原整理番号 2148/整理ID 2148
薩摩・大隅・日向の領内で六月二十五日と七月の大風洪水により生じた損失を届ける。被害高は九万一千二百五十六石余で、当損九万五百九十九石余・永損六百五十六石余を内訳とする。潰家四百十四軒、堤三万七千九百三十三間、井手四百七十七か所、道三千九百九十七間、橋百七十六か所、小船二艘、死者一人、死馬五疋を列記する。十月二十日、留守居本城源七郎が御用番田沼主殿頭へ提出し、取次榊原安兵衛から受領を知らされた。
年月日未詳 / 冊子 846~848頁
『島津国史』が、天文十七年の清水城をめぐる戦争を諸系譜の記事と照合して記す。島津貴久・北郷忠相方と、本田董親・伊東義祐方の救援、夜襲、落城を追い、北郷源七郎らの働きによって城を奪回し守備を再建した経過をまとめる。
宝暦九年七月朔日 / 冊子 727頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2198
宝暦九年七月朔日付の加冠仮名書出は、嶋津大八郎の加冠に際し、源七と称するよう定める。本文に「御判」と記す。
年月日未詳 / 冊子 765頁
天文七年、北郷忠相が梅北城を攻めて掌中に収め、安楽・末吉・志布志方面へ戦線を広げた経過を記す。諸城の陥落、戦死者、豊州や新納忠勝らの移動も記録する。
文禄4年6月3日 / 冊子 887~888頁
義弘は、知行方の詳しい処理は石田三成に相談し、図書や旧来の名簿を整えて関係者へ割り付けるよう家久へ指示する。 出船する船と城米の徴収、悪天候時の対応にも触れ、針や薬など珍しい品を贈るとして、領地実務・兵站・贈答を一通で伝える。
(慶長元年)正月廿六日 / 冊子 4~5頁
島津義弘が又八郎へ年賀を述べ、前年十二月十九日に帖佐を出発して同月二十七日に大坂へ着いたこと、諸大名の目見えが翌月朔日に延期され、太閤秀吉が大坂で越年したことを知らせた。又八郎ら番手の辛労をねぎらい、国元では竜伯・伊集院幸侃による支配整理と諸侍の公役替えを見込み、加増は後日の処置とする旨を伝える。さらに又八郎のため高野山の求聞持修行などの祈念を行わせたこと、伏見の女房衆の無事、山帰りの大鷹、薬種の調合について報告した書状。
寛永廿一年四月四日 / 冊子 235頁/原整理番号 172-7
四月四日付の廻状。沢原野御馬追を四月十六日に行う予定で、御奉行衆も当日に着くと伝える。先の廻状の内容を早急に関係各所へ知らせ、参集に支障が出ないよう求める。
(元禄九年)八月四日 / 冊子 965頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2661
高砂覚に、松平修理大夫・源七らの名を掲げ、六日四時前に揃うこと、家来二人ずつを城内楽屋へ伴うこと、当日の献上物は不要であること、翌七日に登城して御礼をすることなどを列記する。当日遅く終わった場合の御礼や翌日の退出時の扱いも示す。
天明二年十月二十一日 / 冊子 676頁/原整理番号 1907/整理ID 1907
例年十二月に桜島蜜柑と炙鮎を献上してきたが、桜島の火災で柑木が損傷し、煙も続いて蜜柑の産出が少なく、先例どおりの献上が難しいと重豪が述べる。国産の代替品も見当たらないため、当面は炙鮎一種のみの献上を伺う。十月二十一日付。付札は蜜柑が再び出来るまで炙鮎一種の献上を認める。続く附記は、十月十八日に有川勇馬が田沼意次方へ書付を持参し、二十一日に本城源七郎が提出したこと、二十六日に用人を介して呼出し・相談を受けたことなどを記す。1906は同じ問題を要約した別記事。
天明三年三月九日 / 冊子 688頁/原整理番号 1942/整理ID 1942
島津重豪が国元への暇を与えられたのを受け、伏見から西之宮まで山崎道を通人馬で旅行したいと伺った。付札には「勝手次第」と回答された。天明三年三月九日、留守居有川勇馬が御用番松平周防守へ伺書を差し出し、同日呼出しを受けて本城源七郎が出向き、付札で回答を受けたことを注記する。
天明三年四月十二日 / 冊子 690頁/原整理番号 1950/整理ID 1950
重豪は国元への暇を与えられたが、脚痛により長途の旅行が難しいため、しばらく保養し、快復したら早速出発すると届けた。天明三年四月十二日付。注記によれば、同日、留守居本城源七郎を通じて御用番田沼主殿頭へ提出した。
天明三年四月廿七日 / 冊子 691頁/原整理番号 1954/整理ID 1954
重豪は帰国の暇を与えられたが脚痛で出発できず、養生しても全快しないため、歩行を試す目的で下屋敷へ移ることを願った。天明三年四月廿七日付。付札には願いの通りと許可され、注記は同日矢野清右衛門を通じて田沼主殿頭へ提出し、呼出しに応じた留守居本城源七郎が付紙の回答を受けた経過を記す。
天明三年五月十六日 / 冊子 691~692頁/原整理番号 1957/整理ID 1957
重豪は三月に帰国の暇を与えられたが脚痛で出発を延期し、下屋敷で歩行を試して養生しても回復しなかった。医師も暑中の長旅は無覚束ないとしたため、秋まで滞府して療養し、途中で快復すれば早速出発すると願った。天明三年五月十六日付。本城源七郎を通じ久世大和守へ提出し、同廿一日、矢野清右衛門が出向いて願いどおり滞府してよいとの付紙回答を受けたと注記する。
天明三年八月廿日 / 冊子 701頁/原整理番号 1975/整理ID 1975
重豪は脚痛のため秋まで江戸に滞在することを許されていたが、少し快方に向かったので近日出発すると届けた。天明三年八月廿日付。注記によれば、同日、留守居本城源七郎を通じて御用番久世大和守へ提出した。
天明四年十二月(文中二十二日・二十四日) / 冊子 776頁/原整理番号 2171/整理ID 2171
二月二日・五日・七日・十一日・十六日を障日として挙げる。朱書は、本城源七郎が書付二通を土方宇源太の用人中村半助へ渡し、御用番の登城前に提出するよう頼んだこと、十二月二十二日に宇源太から御用番代牧野越中守へ提出して受領されたこと、二十四日に牧野が留守居を呼び出して次の書付を渡した経緯を記す。
天明五年正月三日 / 冊子 780~781頁/原整理番号 2182/整理ID 2182
黒書院で御礼するよう命じられたことを受け、来る七日に登城して若菜祝儀を申し上げたいと伺う正月三日付伺書で、付札に不及此儀候と記される。注記によれば、三日に留守居渋谷五郎右衛門が御用番田沼主殿頭方へ持参し、御側御用人三浦庄二を介して先に内見を受けた。表向きに提出するよう伝えられたため、取次長嶋庄太夫へ取り合って差し出し受理された。翌日留守居が呼び出され、本城源七郎が出向いて付紙による返答を受けた。
天明五年二月二十五日 / 冊子 784頁/原整理番号 2192/整理ID 2192
孝恭院七回忌法事の香奠銀十枚を、使者種子嶋雲治が上野本坊へ献納した経過を報告する。門主が出て、献納の付紙を台理閣の内横畳三畳目で役僧から取り扱い、二畳目で使者の礼を執当から披露した。老中牧野越中守、寺社奉行松平伯耆守その他の役人が出席したと記す。今朝献納を済ませ、自ら使者案内を勤めた首尾を、二月二十五日付で留守居本城源七郎が安房へ申し上げる。
天明五年四月二十一日・二十三日(記事) / 冊子 805頁/原整理番号 2207/整理ID 2207
四月二十一日、家治が重豪に俊鷹二羽を与えた。二十三日、側役市田勘解由教国、留守居本城源七郎輝承、鷹匠頭肥後藤右衛門と鷹匠二人を吹上役所へ遣わした。幕府側の戸田五助と組頭水谷善兵衛が鷹二羽を渡し、一同はこれを受けて芝邸へ戻った。記事末尾の「其儀如左」は次のNo2208の受領作法書へ続く。
天明五年六月二日 / 冊子 812頁/原整理番号 2224/整理ID 2224
重豪は国元への帰国の暇を得たが、体調不良で出発できず、養生しても全快しないため、歩行を試すべく下屋敷へ移ることを願う。六月二日付の願書は留守居本城源七郎から御用番水野出羽守へ提出され、同日呼び出しのうえ、付札で願いの通り許された。
天明六年四月二十七日 / 冊子 860頁/原整理番号 2374/整理ID 2374
重豪は、病中のため参勤御礼の献上物を使者に託し、家来二人を登城させて献上させる伺いについて、水野忠友から許可を受けた旨を承知したと届ける。書付は留守居本城源七郎が西丸老中鳥居忠意へ提出し、承知された。
天明六年九月四日 / 冊子 874頁/原整理番号 2420/整理ID 2420
重豪は将軍の風気に際し、山王社で平癒祈禱を行い、御札守と箱肴一種を献上したいと伺う。幕府は祈禱は差し支えないが軽く取り計らい、御札・肴の献上は不要と回答した。書付は御用番松平康福の取次へ留守居本城源七郎が提出した。
天明六年九月十二日 / 冊子 877頁/原整理番号 2428/整理ID 2428
重豪は将軍の代替わりに伴い誓詞を差し上げたいと伺う。九月十二日、留守居本城源七郎が御用番松平康福へ提出し、御用人宮木新左衛門から受理したとの返答を受ける。
天明六年九月十八日~二十六日 / 冊子 879頁/原整理番号 2434/整理ID 2434
重豪は由緒ある間柄を理由に、家治の出棺の際、葬送路へ出て見送りたいと伺う。九月十八日付の伺書を留守居本城源七郎から御葬送掛牧野越中守へ提出し、二十六日に『この儀には及ばない』との付紙回答を受けた。
天明六年十月朔日~十日 / 冊子 879~880頁/原整理番号 2436/整理ID 2436
重豪は家治の新葬法事中、機嫌伺いとして菓子類を献上したいと申請する。十月朔日付の伺書を留守居から提出し、十日に御用番水野忠友が留守居本城源七郎を呼び出し、御用人五十川武左衛門を介して、伺いどおり献上してよいとの付札回答を伝えた。
天明六年十一月十九日 / 冊子 904頁/原整理番号 2481/整理ID 2481
松平薩摩守は、領内の大風洪水による損失を既に届け出ていたが、それ以前にも虫害等があったため再調査したと報告する。調査前までの損高に十四万五千石余を加え、合計三十九万八千石余になったと国元の家来から知らせがあったため、追加して届け出る。朱書注記によれば、この届書は御用番鳥居丹波守へ留守居本城源七郎から差し出され、受領された旨を取次の三村元次郎を通じて聞いた。
寛政2年5月(年次は朱注) / 冊子 9頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0024
馬一疋を内々に献上する首尾を記した書付。毛附書付一通・立具附一通を添え、馬預見習の西郷八郎次と留守居の本城源七郎が同道して、本丸御馬預の諏訪部文九郎宅へ赴いた。井伊兵部少輔が差図した献上馬であることを長谷川藤太郎から伝え、馬見分のうえ受け取られたと報告する。同日、源七郎が松平越中守(定信)宅へ目録一通を持参し、朝五時に諏訪部文九郎・八十郎が出会って受け取り、取次へ献上首尾を伝えたとする。目録は献上が済んでから差し出すよう、前晩の伺いの際に申し聞かされたとの注記を伴う。
天明七年七月二十六日(年は朱書) / 冊子 992頁/原整理番号 2669/整理ID 2669
今大路内蔵権頭から、今回の関東下向では島津家の屋敷内に滞在できれば都合がよいと、留守居を通じて内談があったことを報告する。この件に伴う滞在である以上、いずれかの屋敷内に宿泊させなければ島津家側から世話をすることも難しいとして、桜田屋敷の留守居付役宿を整えて滞在させるのがよいか、本城源七郎に検討させたという。手配の件は江戸にも伝えたので、事情を承知してほしいと知らせる。七月二十六日付、島津伊賀から市田勘解由への書状である。
文化12年(末尾朱年注。独立月日なし) / 冊子 469~470頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1430
全上・扣正文在家老座。甘露寺前大納言を高輪邸に招く次第。表門から入り玄関前の中門で下乗し、伊集院隼衛が玄関薄縁へ案内する。太刀取は小姓、櫻井半藏・圖師崎良助・田原喜左衛門・吉井源七郎は取次番として罷り出、留守居付役一人は環江見物下の先立・門外の送迎、供目付は門内から先導する。大御隠居が出迎え座敷へ案内、甘露寺は客居に着座し、大御隠居は主居の向座から少し下がる。贈物への礼、白木三方の熨斗、茶、たばこ盆を出し、小姓が半袴で給仕。大膳太夫・肥前守も半袴で挨拶し退座する。先方への贈物は目録で披露し、取持医師方衆への品は旅館へ回す。掛盆と白木三方で吸物を出し、酒・中皿・肴・土器の盃などを順次供する。「御盆事可被為在」との記載、夜食二汁五菜・香物・本膳と御二御三の付記、塗盆、皿菓子、薄茶へ続く。医師方が相伴し、大御隠居の相伴辞退は書院雑掌で伝える。召替後に庭を見、大奥休息所で子様方、お富貴ほか女中が目見、子様方への贈物も記す。椀菓子・名酒盆、吸物・小皿・重・後段の掛盆等を列記し、大御隠居・大膳太夫・肥前守が寄合、取持医師方が相伴する。退出は両人が玄関まで送り、役々は初め同様に罷り出る。医師方取持、出入城坊主の召呼、その他手当は別紙による。末朱文化12年、料理の個別献立や実施日時は示さない。
文政2年4月21日(本文。目録は4月11日) / 冊子 553頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1674
白木御文書八番箱中二十九番。天罰霊社起請文の前書として、若輩の自分が去歳三司官役を仰付けられた恩に深く感じ、国許への奉公を入念に勤めると記す。5条は、御二殿・若殿への疎意を毛頭抱かないこと、国許から下された諸事の条書を堅く守り悪意・邪な企てをする者を披露すること、国王に別心なく忠勤すること、国中の掟や諸事を貴賤・親疎に左右されず沙汰すること、以上を偽りなく申し上げることからなる。神文は略すと明記する。本文は文政二年己卯四月二十一日、玉城親方盛林判。目録の四月十一日と異なり、日付の差異を留保する。外包は朱二十九、三司官玉城親方誓詞。六月十七日に安房殿から木場源七へ渡し、白木御文書八番箱に納めたとする。拝命日は本文に示さず、四月の誓詞と六月の引渡・収納を区別する。
文政3年11月(年は包紙朱書。本文は「十一月」) / 冊子 589~590頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1770
白木御文書八番箱中三十九号にある、監物から渡された御書付の写。珍之助の死去に付き、公辺へ忌服の届を申し上げた際の続柄を記す。珍之助には斉興男の注、普之進には久光の注がある。内実は五男で、普之進の舎弟に当たるが、普之進にはまだ公辺への届などがないため、別段の思召によって四男として届けた旨が申し来たとする。この経緯を記録奉行へ伝えるよう、然るべき向へ申し渡す。本文は十一月、監物と記し、監物には町田久視の注がある。包紙の朱書三十九号にも、珍之助の忌服書を普之進の兄の続柄で届けた件として、この書付の通りと記す。さらに文政三年辰11月8日、高橋峠からの申付を木場源七が承知し、白木御文書八番箱へ納置したことを記す。本文の月と包紙の納置日を区別し、実際の五男という記載と届出上の四男という扱いをともに保持する。本文の「舎弟」と包紙の「御兄」は異なる記載として保持し、続柄の対応は留保する。
文政3年(包紙朱書。本文に年月日なし) / 冊子 590頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1771-3
松平豊後守へ、朝望その他の登城の際、大廊下の「下之休息所」にいるよう命じる。松平加賀守・松平越前守の方には、この趣旨を心得として伝えておく旨の但書があり、右一通とする。三通の包紙に、文政三年辰11月12日、監物から木場源七へ渡し、白木御文書八番箱へ納置した旨を記す。三通はNo.1771-1~1771-3に対応し、礼席の場所、礼の手順、休息場所の指示をそれぞれ独立して保持する。本文には年月日を示さず、包紙の引渡し・納置日を指図そのものの日付へ補わない。
寛永11年3月 / 冊子 217~220頁/原整理番号 148
切支丹宗旨との関係を疑われた大迫吉之丞が、郷田源七左衛門や有馬主馬之允との往来、寺僧・船・宿泊等の事情を列挙して関与を否定し、証拠書物を提出した口上覚。
年月日不記(天正二年・文禄二年・慶長五年などは各代の記事) / 冊子 649~652頁/原整理番号 119
藤原姓本城氏の系図。源七郎忠仍は世継ぎのない東郷重尚の養子となって東郷氏を称し、朝鮮出兵に従った後、本姓に復したと記す。島津豊久が関ヶ原で戦死すると、家久の命で忠直が後継に定められたが、忠直の病と家の断絶を受け、女子と喜入家の男子との縁組で豊久の家をつなごうとした経緯を載せる。子孫には東郷家と本城家のいずれに属するかをめぐる議論があり、忠頼は祖父忠直の隠居地・父忠清の出生地を由緒として東郷を改め、菱刈本城を称したという。佐土原・菱刈本城などの居住、島津光久への太刀献上、女子の婚姻や家督の継承も記す。
天明五年六月二十三日 / 冊子 814頁/原整理番号 2230/整理ID 2230
重豪は国元への帰国の暇を得ながら脚痛と持病の疝積で出発できず、下屋敷で歩行を試して養生しても回復しないと述べる。療治中の河野仙寿院は暑中の長旅を避けるよう進言しており、秋までの養生を願い、先に快復すれば出発すると申し出る。六月二十三日に御用番牧野越中守へ提出され、二十五日に付札による回答が伝えられた。
天明六年九月十六日 / 冊子 878–879頁/原整理番号 2431/整理ID 2431
二階堂行旦・関山金輝は、大納言家斉が登城者に謁し、老中から今後は家斉を『上様』と称して一層精勤するよう命じられた経過を報じる。欠席した同席大名へも通達するよう命があり、松平伊予守と連名で松平加賀守へ伝達したことを記し、国元でも同様に申し渡すよう求める。
天明三年六月五日 / 冊子 692頁/原整理番号 1958/整理ID 1958
重豪が御縁女様の六月十八日の誕生日祝儀として鯛一折を以後献上したいと願い、在府・在国とも年中の献上物と同じ手続きでよいかを伺った。天明三年六月五日付。付紙は伺いの通りと許可し、注記は本城源七郎を通じ松平周防守へ提出した後、同九日に矢野清右衛門が出向いて回答を受けた経過を記す。
天明四年三月二十一日 / 冊子 738~739頁/原整理番号 2083/整理ID 2083
松平薩摩守は病気で冷えがあるため、夏秋でも足袋を用いる旨を伺う。三月二十一日付の伺書に「足袋用可被申候」との許可が付く。附書には、留守居渋谷五郎右衛門が田沼主殿頭の用人山崎藤五郎へ書付を差し出し、主殿頭からの仰せで本城源七郎と武田織右衛門を介して許可が伝えられた経緯を記す。