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HP-1944巻5:85-86注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

川田国鏡

異名・検索語:川田国鏡/川田大膳亮国鏡/大膳亮/善八郎/国鏡

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:養父名は国鏡条と直前の駿河守の見出しを照合し、義則と読む。旧説明の義朗を訂正した。/天正十三年九月十二日の城名は堀切と読めるが、旧説明の隈切との差を留保し、本文説明では城名を省いた。/穆佐居地頭の年数は廿一にイ二の異注があるため、一つの在任年数へ確定しない。/灰塚は妻の墓ではない。法号末尾は庵主ではなく居士。没日・享年は本文に明記されない。

DESCRIPTION

本文内容説明

川田大膳亮国鏡、通称善八郎は、比志島宮内少輔義貞の二男で、川田駿河守義則の養子となった。天正八年十月十五日の矢崎城攻め、十三年閏八月十三日の堅志田崩し、同年九月十二日の城攻めに従軍。十四年七月の岩屋城攻めでは鉄砲傷を負い、そのほかにも軍功があったという。のち日向穆佐の居地頭を務め、慶長五年、伊東方の家臣稲津掃部が穆佐へ攻め寄せた際にも功を立てた。元和六年、穆佐で死去。法号は竜山光金居士。墓は川田大川寺、灰塚は穆佐悟性寺にあると記される。

系譜・人物関係

比志島宮内少輔義貞の二男。川田駿河守義則の養子。国鏡条と直前条見出しの字形を照合して旧義朗を訂正。

奉公・役職

日州穆佐居地頭。在任年数の廿一にイ二の異注があり断定しない。

軍役・事績

天正8年10月15日矢崎城攻め、13年閏8月13日堅志田崩し、同年9月12日城攻め。14年7月岩屋城攻めで鉄砲傷。慶長5年伊東方稲津掃部の穆佐来攻に軍功。9月の城名仮読は堀切、旧隈切との差は留保。

生没・法名等

元和6年穆佐で卒。竜山光金居士。墓は川田大川寺、灰塚は穆佐悟性寺。妻の墓という旧説明を撤回。没日享年は明記なし。

統合人物ID
HP-1944
原人物ID群
05-085-06-02
氏・分類
川田
掲載巻頁
巻5:85-86
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
比志島宮内少輔義貞の二男。川田駿河守義則の養子。国鏡条と直前条見出しの字形を照合して旧義朗を訂正。
検索キーワード
天正/文禄/慶長/元和/地頭/軍配/合戦/肥後/島原/岩屋/八代/二男/子/母/養子/女/卒/法名/歳/家系・役職・奉公
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
通常AI各全2頁・原冊85~86頁・拡大・修復候補全頁確認済。
公開判定根拠
養父名・法号末尾・灰塚の誤読を訂正。城名と在任年数の異注を留保して公開する。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界修復
本文境界判定
冊子85頁下段末の〇川田大膳亮国鏡から86頁上段冒頭の軍役・穆佐居地頭・没地と法号墓灰塚注まで。第1頁右端123pt、第2頁左端426ptへ調整して前後別条の字片を除いた。国鏡の見出しと小注は保持。次の一川田丹波守国豊は別条。新規IDなし。
判読保留
養父名は国鏡条と直前の駿河守の見出しを照合し、義則と読む。旧説明の義朗を訂正した。/天正十三年九月十二日の城名は堀切と読めるが、旧説明の隈切との差を留保し、本文説明では城名を省いた。/穆佐居地頭の年数は廿一にイ二の異注があるため、一つの在任年数へ確定しない。/灰塚は妻の墓ではない。法号末尾は庵主ではなく居士。没日・享年は本文に明記されない。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』