北郷久村譜
年月日未詳 / 冊子 1頁
文禄五年春、北郷久村が龍伯(島津義久)から肝属小原二千石を賜り、濱之市へ移住して奉仕したことを記す。久村は鹿児島に五年間在府し、鷹の飼育・調教に長じて御鷹を献じ、その働きが豊臣秀吉の耳にも達して賞されたという譜記事。
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年月日未詳 / 冊子 1頁
文禄五年春、北郷久村が龍伯(島津義久)から肝属小原二千石を賜り、濱之市へ移住して奉仕したことを記す。久村は鹿児島に五年間在府し、鷹の飼育・調教に長じて御鷹を献じ、その働きが豊臣秀吉の耳にも達して賞されたという譜記事。
(慶長元年)正月十日 / 冊子 1頁
石田三成が島津又八郎の書状を受け、相手方が無事であることを喜び、当地の仕置については上井甚五郎へ詳しく申し渡したため重ねては書かないと返答した書状。
年月日未詳 / 冊子 1頁
慶長元年正月、島津義弘が金翅山市中を出発し、同月十三日に摂津国大坂へ到着したことを記す。明の勅使が朝鮮へ来るとの報を受け、異国の使節に日本の威容を示すため諸侯を集め、騎馬を備えた事情を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 1頁
文禄四年十二月二十一日、新納旅庵長住が島津義久に従って帖佐を発し、陸路で筑前国秋月の金翅山市中に越年したのち、慶長元年正月十三日に船で大坂へ着いたことを記す。朝鮮へ来た明使との講和に関連して諸侯・騎馬を集める計画があったが、実施されずに終わったという譜記事。
文禄五年正月十四日 / 冊子 1頁
島津忠恒が伊集院下野入道へ、国元の改易と諸侍の知行支配には自分が不案内であるため、在国する龍伯・武庫が判断すると伝えた。両者が同意しない場合にも忠恒が取り成して知行を宛行うと約し、引き続き忠節を尽くすよう求めた証状。
(慶長元年)正月十五日 / 冊子 2頁
龍伯が島津又八郎へ、前年冬の二通を受け取り、相手方が無事であることを喜んだと返した。入国予定が延びるとの報告を承知したこと、聖門へ贈る手本が未完成で後便に回すこと、唐筆の扇子二本への礼と贈物について述べた書状。
(慶長元年)正月十六日 / 冊子 2頁
豊臣秀吉が島津又八郎の長期にわたる在番の辛労をねぎらい、小袖一領を下賜し、詳しいことは毛利豊前守・平野新八郎から伝えるとした朱印状。
年月日未詳 / 冊子 2頁
築山伴五郎が文禄五年正月十八日に朝鮮渡海中に戦死し、長峯伊予入道宗珍が同年二月二日に主を慕って殉死したことを記す『殉国名藪』の記事。
(慶長元年)正月廿日 / 冊子 2~3頁
龍伯が島津又八郎へ、これまでの書状が付状の形で届いているため、今後は直書に改めるよう求めた。宛名の付け方によって到着が遅れる事情を述べ、当地の様子を報告するよう促し、詳しい意向は上井甚五郎へ申し含めたと伝える書状。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が源七郎へ、薩州鹿籠内の別府村百六十石九斗九升を含む合計五百石の加増を示した目録。太閤の命による分国検地・改易で旧領を離れることへの配慮として、知行について龍伯・武庫と相談し、特に念を入れて取り計らうと伝える。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が入来院又六へ、改易によって代々相伝の領地を離れ、打ち上げた田数にも不足があって迷惑であろうと述べた。知行については龍伯・武庫と相談して特に念を入れて処置するため、心配しないよう伝えた証状。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が喜入摂津守へ、改易によって代々相伝の領地を離れ、打ち上げた田数にも不足があって迷惑であろうと述べた。知行については龍伯・武庫と相談して特に念を入れて処置するため、心配しないよう伝えた証状。
文禄五年正月廿二日 / 冊子 3頁
島津忠恒が新納五郎右衛門尉へ、国元の改易と諸侍の知行支配には自分が不案内であるため龍伯・武庫と相談すると述べ、これまで示してきた誠実な奉公を忘れていないので、特に念を入れて知行を宛行うと約し、なお忠節を尽くすよう求めた証状。
年月日未詳 / 冊子 4頁
慶長元年、京都・大坂で大地震が起こり、家屋が崩れて数万人が死亡したこと、同年七月六日に御衆が志布志から出船して帰洛したことを記す年代記記事。
(慶長元年)正月廿三日 / 冊子 4頁
島津竜伯が又八郎へ、京都が平穏で武庫も上着した頃とみられることを伝え、図書頭以下の長陣辛労をねぎらうよう求めた。家中で遺恨を抱いていた者たちが悪口を控えるようになった事情と奉公人の取扱いを述べ、その内容を図書頭・抱節・出雲守・紀伊守へ内々に伝えるよう指示する。さらに有馬次右衛門尉がもたらした八か条のうち浮地の分量と家中諸侍の帳について、伊集院幸侃を直接召し寄せて処理するよう求め、平田太郎左衛門尉が渡海・上京していないことも知らせた書状。
(慶長元年)正月廿六日 / 冊子 4~5頁
島津義弘が又八郎へ年賀を述べ、前年十二月十九日に帖佐を出発して同月二十七日に大坂へ着いたこと、諸大名の目見えが翌月朔日に延期され、太閤秀吉が大坂で越年したことを知らせた。又八郎ら番手の辛労をねぎらい、国元では竜伯・伊集院幸侃による支配整理と諸侍の公役替えを見込み、加増は後日の処置とする旨を伝える。さらに又八郎のため高野山の求聞持修行などの祈念を行わせたこと、伏見の女房衆の無事、山帰りの大鷹、薬種の調合について報告した書状。
(慶長元年)正月廿八日 / 冊子 5頁
龍伯が島津又八郎へ、先の書状では色紙がまだ出来ていないと伝えたが、その後さらに懇望して入手し、聖門様から持たせて送ると知らせた。詳しいことは川東善左衛門尉が伝えるとした書状。
年月日未詳 / 冊子 5~6頁
文禄五年正月二十八日、島津忠長が旧領および新恩の地を与えられ、その目録が作成されたことを記す譜記事。
文禄五年二月三日 / 冊子 6頁
龍伯が園田頭へ、薩摩郡東郷、伊集院竹山村、河辺郡田部田村・長田村・平山村、日向国諸県郡野々前田村内の所領を列記し、合計一万石のうち七千百石を加増として宛行った文書。当時の役務に報いるもので、今後いっそう奉公に励むよう求める。
(慶長元年)二月六日 / 冊子 6~7頁
龍伯が島津又八郎へ、在陣衆への加増は十石程度を基本として百石に及ぶ者があるか尋ね、過分な約束を戒めた。幸侃からの加増案は又八郎の帰朝を待って決めるとし、当家の存続や武庫上洛前の国元処理より当面の京都での勤めを優先するよう説く。武庫側近や伊勢孫九郎への百~二百石の宛行、田数帳を渡海後に渡すこと、替衆を早く派遣することなどを指示した書状。
(慶長元年)二月八日 / 冊子 7頁
島津義弘が又八郎へ新春の祝意を述べ、先に便宜を得て送った書状の到着を確かめるとともに、長陣の辛労をねぎらい、渡海の知らせが事実なら引陣も遠くないだろうと喜んだ。義弘自身は前年十二月十七日に大坂へ着き、前年十一月以来病気であった太閤秀吉が快復したこと、諸大名の目見得が正月十一日に延びたため大坂に滞在し、目見得後に伏見へ上る予定であることを報告する。さらに着物二重・帯二筋・筆二十対・杉原紙三十帖などを贈った書状。
文禄五年二月八日 / 冊子 7頁
伊集院幸侃が中河又十郎へ、薩州市来湯田村内の三石を与えた宛行状。先年、川内へ出向いた際に御輿を担いだ働きへの恩賞として知行を認めた。
文禄五年二月八日 / 冊子 8頁
伊集院幸侃が春口土佐守へ、薩州市来湯田村内の五石を与えた宛行状。先年、川内へ出向いた際に御輿を担いだ働きへの恩賞として知行を認めた。
文禄五年二月八日 / 冊子 8頁
No.23と同文の宛行状が外中馬十郎左衛門尉・市来豊前入道にも存在したことを記す雑抄記事。先年の川内出向時に御輿を担いだ働きに対する恩賞知行である。
(慶長元年)二月九日 / 冊子 8頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、浅野弾正少弼の派遣に伴い、船が揃い次第渡海するよう命じた。高麗にある船だけでなく領内各地からも船を集めて名護屋で引き渡し、一艘でも多く確保すること、部隊編成を整えること、兵糧の所持量を偽らず請目に記して供出することを指示し、渡海後の仕置は浅野が伝えるとした朱印状。
二月九日 / 冊子 8~9頁
豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従へ、浅野弾正少弼の派遣を伝え、船が揃い次第朝鮮へ渡海するよう命じた朱印状。高麗にある船を含む領内の船を名護屋へ集め、各組に奉行を添えて浅野の指揮下に置くこと、保有兵糧を虚偽なく申告して受け渡すこと、船到着後は直ちに渡海して現地の仕置に当たることを指示している。
(慶長元年)二月十八日 / 冊子 9頁
島津義久が古溪和尚へ、前年に古溪が当国へ下向したと聞いたものの、その時は義久が在京していたため会えなかったことを残念に思い、今も滞留中なら熟談したいと伝えた。京都の事情が整い、上洛の見込みがあるかと尋ね、今後も互いに音信を通わせたいとして贈物を送った書状案。
文禄五年二月廿三日 / 冊子 9頁
近衛信輔が龍伯へ、後世の人が惜しむ墨跡になるよう先に書き付けてほしいとの依頼を受け、和歌は不得手ながら古歌であるため染筆したと伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 9頁
文禄五年以前、坊津に謫居して書名の高かった近衛信輔に、児玉利昌が古画への賛を請うたことを記す。二月二十三日に信輔から尺牘を得て、七月に実相(児玉利昌)が朝鮮から帰った後、その尺牘等を与えられたとする譜記事。原文に島津義久の名はない。
文禄五年二月廿三日 / 冊子 9~10頁
川上肱枕忠智・新納旅庵長住・伊勢貞昌が井尻豊前房へ、大隅国帖佐の餅田村内にある上前薗・住吉村内浮免・實幸院野宮村内などの田畠を列記し、合計九十九石四斗九升を無親疎に配分するよう命じた領知目録。違乱する者があれば申し出るよう伝える。
(慶長元年)三月二日 / 冊子 10頁
石田三成が島津又八郎へ、又八郎の弟の知行について二百石を与え、今回の割当ても十分に取り計らったと伝えた。なお不足を感じる場合には相手を煩わせてでもよく配慮し、又八郎も心得るよう求めた書状。
(慶長元年)三月五日 / 冊子 10頁
龍伯が島津又八郎へ、便りがないことを案じ、先に聖護院へ依頼された手本について色紙を送り、さらに青蓮院から下された手本二点と油煙三挺を送ったと知らせた。また娘の暇願いについて、石田三成が京都に留める意向であるため、在京の覚悟をするよう伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 11頁
明の勅使が朝鮮へ来るのに備え、朝鮮在陣の諸将が各城に番兵を残し、各将自身は少数の騎馬・歩兵を率いて勅使の渡海を待つこと、渡海後は陣を解いて直ちに京都へ上り豊臣秀吉へ謁見することを命じられたと記す譜記事。石田三成がこの命令を島津義弘へ伝え、島津忠恒にも告知した。
(慶長元年)三月九日 / 冊子 11頁
島津義弘が又八郎へ、朝鮮在番衆の辛労をねぎらい、図書頭・石田治部少輔らの供奉、伊勢弥九郎の上洛、光明院・神徳院による渡海祈念について伝えた。さらに、明の勅使来朝に伴い、朝鮮在番衆の各主将は人数を残して帰朝すること、約七百人を伊集院抱節・比志島紀伊守・鎌田出雲守のもとに残し、又八郎らは直接京都へ上ることを指示した。船数を確実に整え、不足時は国元へ連絡すること、残番衆の士気や帰国用の船に配慮し、小西摂津守と相談することなども求めた書状。
(慶長元年)三月十日 / 冊子 11~12頁
島津義弘が又八郎へ年始の祝意を述べ、太刀一腰・馬一疋などの御礼と、聖門様・石田治部少輔・幽斎・安芸州・麻吉左右への祝物に対する返事を伝えた書状。大仏に住する聖門様が多忙なため手本の調製が遅れたが、完成したので待たせていた飛脚に持たせること、帰朝後に面会して詳しく話すことを述べている。
(慶長元年)三月十日 / 冊子 12頁
友枕斎如貴が伊勢弥九郎へ新年の祝意を述べ、帰朝命令が出て近日上洛する見込みを喜び、迎えに出て祝意を伝えたいとした。前年十二月二十三日付書状を受領し、在番中の無事を喜び、贈られた綸子一巻への礼を述べる。さらに聖門様への音信と依頼された手本を送ること、伏見にいる武庫が大閤から御殿を拝領したことを伝え、ゆかり二具・御筆五対を祝儀として進上した書状。
(慶長元年)三月十一日 / 冊子 12~13頁
島津義弘が又八郎へ、明勅使の渡海に伴う帰朝・上洛と朝鮮残留兵の編成を指示した書状。比志島紀伊守・伊集院抱節を主取として約七百人を残し、鎌田出雲守は帰朝させること、船数と出船時期を小西摂津守と相談すること、帰国用の船を残留衆へ残すこと、光明院・神徳院に渡海の祈念を依頼することなどを伝える。
年月日未詳 / 冊子 13頁
文禄五年三月十一日、京都御所の庭前で桜が盛りのころに酒宴が催され、帰国を申し出た島津忠元が近衛前久から和歌を拝領し、返歌を詠んだことを記す詠草記事。
(慶長元年)三月十一日 / 冊子 14頁
小西行長が島津又八郎からの書状を拝見し、相手方が無事であることを承知したと返答した。自分たちも無事であり、用件があれば申し付けるよう求め、近日中に参会して見舞うつもりだと伝えた書状。
(慶長元年)三月十九日 / 冊子 14頁
龍伯が島津又八郎へ、相良新右衛門尉・三原右衛門尉から伝えられた条々を承知し、とりわけ替衆を手配して送るつもりであると返答した。京都からの大事な命令のため少し遅れたが、油断せず間もなく渡海させること、細かな事情は両使者が説明すると伝えた書状。
文禄五年三月廿六日 / 冊子 14頁
島津又八郎(忠恒)が、薩摩船一艘に中乗五人・船頭一人・水夫十一人の計十七人を乗せて帰朝させるため、異議なく通行させるよう船改・御奉行衆へ命じた過所。
文禄五年三月廿七日 / 冊子 14頁
龍伯が島津又八郎へ、新年の祝儀のため使者を帰したことを伝え、前年冬から今春に送った書状がまだ届いていないのか、その後行き違いになったのだろうと案じた。当地の様子は川善左衛門尉の帰朝時に詳しく聞くとし、細部は鹿右衛門尉に申し含めた書状。
文禄五年三月卅日 / 冊子 14~15頁
伊集院幸侃が一乗院へ、薩州河辺郡平山村内で諸侍へ配分した残余のうち三十二石余を割り付け、加増として与えた署判領知目録。
(慶長元年)四月五日 / 冊子 15頁
島津義弘が宰相殿へ、新正八幡の屋根葺板について雨露に濡れないよう手配を求め、祈念の札などへの礼、又八郎の帰朝を喜んで酒樽一荷を贈ることを伝えた。伊集院源介の上洛と、帰朝する又八郎を迎えるため國部ぬいを派遣したことを報告する。さらに安住三州から義弘の娘を庄内へ遣わすよう求められた件は、義弘が留守で源次郎も上洛中のため、義弘自身の下向後に対応するとした。父子の星供成就と高麗・京都のため、般若寺別当坊に不動護摩を七日修行させたことも喜んだ書状。
(慶長元年四月) / 冊子 15~16頁
島津義弘の覚書。又八郎(忠恒)の帰朝後の再渡海・上洛などについて、渡海の安全、勢揃いと馬、供衆として図書頭・鎌田出雲守ら十騎または十五騎を召し連れること、伊集院抱節・比志島紀伊守が主取となる残番衆七百人の配置を指示する。在京中の用件は各人が国元へ直接申し送ること、公儀が加徳島に召し置いた御上米・諸道具、残番衆の乗船・兵糧米、同島にいる高麗人の扱いにも触れる。さらに又八郎の具足・馬面・馬鎧、鉄砲五十丁・鑓五十本の携行と、伊集院小傳次の帰朝などを列挙する。
(慶長元年)四月九日 / 冊子 16頁
龍伯(島津義久)が島津又八郎(忠恒)へ、二月七日付書状を四月六日に受け取り、当地も相手方も無事であることを述べる。先に送った手本が届き好みにかなったことを喜び、当地の様子は川東善左衛門の帰朝時に詳しく聞くとして、後便を期した書状。
(慶長元年)四月十二日 / 冊子 16頁
島津忠恒が毛利兵太へ、先日は見舞いのため訪れてもらいながら、十分なもてなしができず残念に思っていると詫びた。その後すぐ書状で礼を述べるべきところ延引したのは本意ではなく、自ら訪ねて申し入れたいが、当城の普請などを申し付けているためかなわないとして、後日の便りを期すと伝えた書状。
(慶長元年)四月十三日 / 冊子 16~17頁
島津忠恒が三名へ、近く軍事行動を命じる朱印状が出たため、油断なく準備するよう伝える。島津義弘が渡海すれば、自身は上洛して国元検地を命じられた礼と私用を申し述べ、石田三成の命により義弘の渡海次第ただちに帰朝する覚悟であるとして、三名にもこちらからの連絡を待つよう求めた書状。
(慶長元年)四月十五日 / 冊子 17頁
近衛前久が又八郎(島津忠恒)へ、帰朝するとの申し出を聞き、めでたく満足していると伝えた。変わったことは対面した際に述べるとして、急便のため一筆のみ送り、詳しくは友枕から申し伝えるとした書状。
(慶長元年)四月十六日 / 冊子 17頁
龍伯(島津義久)が島津又八郎(忠恒)へ、明使の上洛に伴って忠恒の帰朝が決まったことを喜ぶ。高麗に残す人数に対する交替衆を急ぎ渡海させること、手配に行き違いがあって少し遅れたが伊進分へ申し付けたことなどを伝え、帰朝準備を進めさせた書状。