島津義弘書状
(天正17年)4月19日 / 冊子 444~446頁
島津義弘が鎌田出雲守へ、帰国後の国元運営を見据え、屋形・借物・借銀・扶持・馬・進上物など多数の家政事項を一項ずつ指示した長文書状。 関白の意向や京都での交際費、国元の負担、家臣・奉公人の処遇を照合し、帳簿と口上によって遺恨なく精算するよう求める。豊臣政権下で在京を続ける義弘が、限られた財源を配分しながら島津家の儀礼・財務・人事を遠隔統制した実態を示す。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
174 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 4
(天正17年)4月19日 / 冊子 444~446頁
島津義弘が鎌田出雲守へ、帰国後の国元運営を見据え、屋形・借物・借銀・扶持・馬・進上物など多数の家政事項を一項ずつ指示した長文書状。 関白の意向や京都での交際費、国元の負担、家臣・奉公人の処遇を照合し、帳簿と口上によって遺恨なく精算するよう求める。豊臣政権下で在京を続ける義弘が、限られた財源を配分しながら島津家の儀礼・財務・人事を遠隔統制した実態を示す。
天正17年7月5日 / 冊子 449頁
島津義久(龍伯)が、鎌田出雲守が数年間にわたり境目の在宅勤務を務めた辛労をねぎらい、神文で忠誠を示したことを喜んだ書下。 国境地域での長期奉公を評価し、引き続き忠節を尽くすよう励ましている。
文禄4年2月28日 / 冊子 866頁
鎌田出雲守が三か条にわたり神前で示した深い決意を、島津家と義久らへの忠節として高く評価した感状。春日・八幡・天満天神の照覧を掲げる。 その同心・忠勤を決して忘れないと誓い、主従の結束を宗教的誓約によって確認している。
文禄五年六月廿四日 / 冊子 29頁
島津忠恒が鎌田出雲守へ、検地後の知行替えで従来の知行が減少し、生活が成り立ちにくい事情を踏まえて処遇方針を伝えた書下。龍伯・武庫に意向を伺い、諸侍を安堵させること、鎌田については特に知行を配慮し、国々の事情で多少は変わり得るものの、まず三千石ほどを与える内意であることを示し、家臣を抱えて忠儀を尽くすよう求めている。
寛永十年九月四日 / 冊子 383頁
喜入忠続が鎌田出雲守へ、江戸到着後に書状を届けたこと、家久への目通りや野州老・仁蔵らを介した取次、伊兵少老への嘆願、関係者の応対などを報告した書状。
九月一日 / 冊子 121~122頁
二人の使者から前線の様子を聞き、在国中に尽力した安宅三郎兵衛への謝意を示し、軍役の処置が定まらないため国中の軍勢を留め置いたことを伝え、鎌田出雲守に支援を求めた書状。
慶長六年二月八日 / 冊子 749頁
島津忠長が、祁答院・宮城は当時空城であるため、今回の軍事行動中に妻子を置き番を務めたいとの申出を認める。又吉との先約を踏まえ、求めがあればいつでも返上すると証した。
(慶長七年)五月朔日 / 冊子 816頁
本多正純が鎌田政近へ、前年以来の相談に礼を述べ、龍伯・少将の願いが御前で解決したことを報じる。龍伯の上洛を急ぐよう求め、佐渡守宛の硫黄五十斤を受領して届けると伝えた書状。
八月八日 / 冊子 27頁
本多正信が、伽羅二十両と唐の沈香を贈られたことへ謝意を述べた書状。当春の将軍上洛と陸奥守の供奉・逗留を祝い、誓詞以来の親交を確認する。証人衆を下すための使者や宿の手配、大久保相模守・土井大炊頭との相談、翌年の陸奥守下向予定を伝える。
(文禄2年)6月26日 / 冊子 711~712頁
島津竜伯が長寿院・町田出羽守・鎌田出雲守へ、鹿児島留守番のうち、奥の管理は納戸衆を中心とし、外城番衆への用件も納戸衆から申し付けるよう指示する。 田代入道は老齢のため夜番から外し、奥向きの女性一人だけに番を負わせないよう求める。川上日向が表方へ出た際は代役二人を選び、備後入道と相談して外城番衆の交替を明確にするなど、城内警固を油断なく整えるよう命じた書状である。
(寛永八年)三月十七日 / 冊子 192頁
北郷讃岐守忠能が死去したとの早打ちの知らせに驚き、長く患っていたとの知らせもなかったため不慮の出来事であるとして、北郷出雲守の落胆を察し弔意を伝えた島津家久の書状。
(寛永十一年)閏七月廿一日 / 冊子 439頁
焼酎壺二つを確かに受け取り、御蔵へ納め置いたことを記す三名連署の請取状。
(寛永十二年)七月十三日 / 冊子 485~486頁
島津久元・伊勢貞昌が、江戸屋敷火災後の家屋再建、被害・紛失物の吟味、女房衆の扱い、銀子や普請人員の手配などを国元の重臣へ指示した書状。
(寛永十二年)八月十九日 / 冊子 489~491頁
島津久元・伊勢貞昌が、江戸屋敷火災後の金銀盗難の吟味、被災者への扶助、屋敷再建、火災予防、祈祷、長崎助左衛門尉への給米など複数の処置を国元へ指示した書状。
(寛永十二年)九月廿七日 / 冊子 497~498頁
島津久元・伊勢貞昌が、全国一斉の南蛮宗改めを国元で徹底するため、村々、港、船、旅人、宿主などを調査し、出身国・氏名・滞在先を記録して疑わしい者を吟味するよう命じた書状。
「永正十七年」十一月十六日 / 冊子 626頁
細川高国が島津忠朝に、渡唐船について吉河出雲守を下向させたので、特別の事情なく受け入れて便宜を図るよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 305頁
豊臣秀吉の大軍下向によって九州諸勢が豊臣方へ属し、島津義久が日向から都於郡へ退いた後、重臣らが今後の方針を協議した記事。北郷一雲斎・伊集院下野入道・鎌田出雲守・本田下野入道・喜入氏父子らが談合し、北郷一雲斎は義久を庄内へ迎えて最後の一戦を行い、島津家の運を開くべきだと強く主張した。降伏か抗戦継続かをめぐる家中の緊張が分かる。
(天正17年)2月16日 / 冊子 441頁
島津義弘が屋形造営と旧来の借物返済、又一郎夫婦の在京費用を整理するため、鎌田出雲守を国元へ派遣すると伝えた書状。 関係者間で帳簿と負担を突き合わせ、双方に遺恨が残らないよう精算することを三名の奉行へ求めている。
年月日未詳 / 冊子 441頁
島津義弘が、京都で決めた国元の置目を引き続き協議し、鎌田出雲守の口上を聞いて実施するよう命じた書状。 諸地域の負担や入用を調べ、両人が相談して混乱なく処理することを求め、在京中の決定を国元行政へ落とし込む役割を託している。
(天正19年)2月16日 / 冊子 500頁
島津義弘が新納伊勢守へ、次郎四郎の暇乞いが石田三成の都合で遅れていること、伊達政宗の突然の上洛で京都が静謐となったことを知らせる。屋形造営、旧来の借物返済、又一郎夫妻の在京処置を鎌田出雲守と熟談し、栗野留守居にも配慮するよう求めた実務書状。
(天正19年)2月16日 / 冊子 500頁
島津義弘が、伊達政宗の上洛が遅れて討手派遣も取り沙汰されたが、四日に突然上洛したため京都は静謐になったと知らせる。屋形造営や諸懸案について鎌田出雲守と相談し、手抜かりなく処置するよう新納武蔵入道へ求めた書状。
(慶長元年)正月廿三日 / 冊子 4頁
島津竜伯が又八郎へ、京都が平穏で武庫も上着した頃とみられることを伝え、図書頭以下の長陣辛労をねぎらうよう求めた。家中で遺恨を抱いていた者たちが悪口を控えるようになった事情と奉公人の取扱いを述べ、その内容を図書頭・抱節・出雲守・紀伊守へ内々に伝えるよう指示する。さらに有馬次右衛門尉がもたらした八か条のうち浮地の分量と家中諸侍の帳について、伊集院幸侃を直接召し寄せて処理するよう求め、平田太郎左衛門尉が渡海・上京していないことも知らせた書状。
(慶長元年)三月九日 / 冊子 11頁
島津義弘が又八郎へ、朝鮮在番衆の辛労をねぎらい、図書頭・石田治部少輔らの供奉、伊勢弥九郎の上洛、光明院・神徳院による渡海祈念について伝えた。さらに、明の勅使来朝に伴い、朝鮮在番衆の各主将は人数を残して帰朝すること、約七百人を伊集院抱節・比志島紀伊守・鎌田出雲守のもとに残し、又八郎らは直接京都へ上ることを指示した。船数を確実に整え、不足時は国元へ連絡すること、残番衆の士気や帰国用の船に配慮し、小西摂津守と相談することなども求めた書状。
(慶長元年)三月十一日 / 冊子 12~13頁
島津義弘が又八郎へ、明勅使の渡海に伴う帰朝・上洛と朝鮮残留兵の編成を指示した書状。比志島紀伊守・伊集院抱節を主取として約七百人を残し、鎌田出雲守は帰朝させること、船数と出船時期を小西摂津守と相談すること、帰国用の船を残留衆へ残すこと、光明院・神徳院に渡海の祈念を依頼することなどを伝える。
(慶長元年四月) / 冊子 15~16頁
島津義弘の覚書。又八郎(忠恒)の帰朝後の再渡海・上洛などについて、渡海の安全、勢揃いと馬、供衆として図書頭・鎌田出雲守ら十騎または十五騎を召し連れること、伊集院抱節・比志島紀伊守が主取となる残番衆七百人の配置を指示する。在京中の用件は各人が国元へ直接申し送ること、公儀が加徳島に召し置いた御上米・諸道具、残番衆の乗船・兵糧米、同島にいる高麗人の扱いにも触れる。さらに又八郎の具足・馬面・馬鎧、鉄砲五十丁・鑓五十本の携行と、伊集院小傳次の帰朝などを列挙する。
(慶長元年)十一月廿四日 / 冊子 54頁
島津忠恒が本田六右衛門尉・相良新右衛門尉へ、鎌田出雲守(鎌雲)の談合所への出席を控えさせつつ、支配・配当の件は内談を尽くすよう命じた。支配は奉公の実績に基づき衆人のためとなるよう行い、配当衆・使者・筆者を分別して任命し、公儀を軽んじる者が出ないよう両人から各人へ申し聞かせることを求めた書状。
(慶長元年)十二月七日 / 冊子 60頁
島津忠恒が武庫へ、明春の奥入り命令を受け、渡海の段取りや国元の状況を相談した書状。先に洛着した者から国元の様子が不調との報告を受け、図書頭・鎌田出雲守らを帰朝させて分共を申し上げるとして、船の手配と取り成しを頼む。
(慶長元年)十二月廿一日 / 冊子 61~62頁
島津義弘が忠恒へ、八木民部左衛門尉が使者として帰朝し浜之市・帖佐を回って早く参陣したいと述べていること、図書頭・鎌田出雲守の報告で現地の無事を知ったことを伝えた書状。京からの番手衆や上洛の段取り、米・物資の差渡しについても指示する。
八月 / 冊子 287頁
大川平久兵衛が八月付で松下為右衛門へ出した書状。図書老・出雲守父子の命で高麗の軍記が編纂されていることを知り、高柳好左衛門行文に大川平源太左衛門の戦死記事を書いてもらった経緯を説明する。先の書状へ写して送るよう命じられたため、老眼で見苦しいながらも書写して送付すると述べる。
(慶長十年)八月八日 / 冊子 28~29頁
本多正信(佐渡守)が島津忠恒(羽柴陸奥守)に、当将軍の春の上洛に際して忠恒も上着し、首尾よく務めたことを祝した書状。先に鎌田出雲守と申し合わせた筋目について、双方が相違なく協議を続けることを喜ぶ。江戸御証人衆が当地へ下ることに伴う宿所などの準備について、大久保相模守・土肥大炊頭と相談するよう伝え、本多上野介との懇意に謝して引き続き力添えを求める。太刀一腰・馬代金子一枚の贈答にも礼を述べる。追而書では、伏見滞在中の造作の辛労を気遣い、来年の下向に先立つ諸準備を面談したいとする。
慶長十一年六月吉日 / 冊子 79頁
池田出雲守が、帖佐・山田・蒲生の支配経緯と年数を記した覚書。帖佐・山田が祁答院から、のち鹿児島から直接支配されたこと、蒲生の支配年数、平田氏が代々地頭職を務めたことを述べる。
寛永七年九月吉日 / 冊子 172頁
山川郷霧島神社の再興を記念した棟札。大檀那を藤原朝臣家久、地頭を鎌田出雲守とし、庄屋黒木主左衛門尉、願主・正祝有馬右近祐純直、権祝・大工・鍛冶らの名を列記する。
寛永七年十一月吉日 / 冊子 175頁
山川郷諏方大明神社の造営を記す棟札写。大檀那藤原朝臣家久の息災延命・武運長久を祈り、地頭鎌田出雲守、庄屋、願主・正祝、権祝、大工・鍛冶らを列記する。
(寛永八年)七月十一日 / 冊子 217~219頁
二人の使者が庄内へ赴いて御条書を北郷出雲守らに伝えた際の見聞を報告する。家中が意見を述べない状況、他地域・親類との往来制限、北郷源左衛門尉への権力集中、役人候補、讃州時代の成敗、出雲守の鹿児島移転、家中統制の誓紙などを列挙し、北郷領の閉鎖的な支配を問題視した覚書。
寛永八年八月七日 / 冊子 225~226頁
北郷源左衛門忠俊の罪状を列挙する。讃州の殺害・成敗への関与、鹿児島や外城との往来遮断、殿役の不履行、公儀への祝儀使者の遅延、家老を無視した専断、家中の言論統制、財部宗三の成敗、出雲守の鹿児島屋敷普請の妨害、山城殿への根拠のない毒害嫌疑などを挙げ、北郷家を危うくしたとして成敗を命じた覚書。
年月日未詳 / 冊子 273頁
六月朔日、在府の諸大名が登営し、加藤忠広の子・豊後守の不臣謀略と父子に対する糾問結果が告げられたことを記す。子は死一等を減じて金森出雲守に預けられ飛騨国へ配謫され、父忠広は肥後国を没収され、羽州庄内で酒井宮内大輔に預けられて一万石を賜った。さらに家久に薩摩・肥後国境の妨行を禁ずる命令が下ったとする家久譜の記事。
寛永九年六月十六日 / 冊子 285~286頁
細川忠利が島津家久に、加藤忠広旧領への入国命令を受けて江戸を発つ予定、城の受取り・掃除・上使到着・国境警備等の手配を報じた。また加藤忠広が出羽庄内で酒井宮内大輔預け、その子豊後守が飛騨で金森出雲守預けとなったこと、幕府上使・目付衆の出立予定や肥後国内の引継ぎ要員を詳報した書状。
(寛永十五年)九月廿一日 / 冊子 822~825頁
川上久国(左近将監)・三原左衛門佐・山田民部少輔・鎌田出雲守が、家中の政務上の懸案と処置方針を条書きした連署覚書。罪人の遠島・籠居・寺預け・召還・赦免、逃亡者や罪人を匿う者および親類への対応、南蛮宗の者の取締り、琉球への日本人の居付きの禁止、知行地・荒地の返還と代銀、役儀・土地回復などを扱う。寛永十五年九月二十一日付。
七月廿一日 / 冊子 46頁
新納忠元が、遠隔地の前田久右衛門尉から京都経由で届いた書状に返答したもの。喜入衆の多くが大坂へ参上し、残留者が二、三人しかいないことを問題とし、交替要員を上らせるよう求め、鎌田出雲守とも相談するよう伝える。
九月十三日 / 冊子 207頁
道澄が島津陸奥守に、龍伯の髪形・装束の吉例、軍陣で用いる赤房や祈禱巻数、鎌田出雲守への伝達などを述べた書状。八代滞在や義久との相談、出陣・兵糧・人夫の手配にも触れ、内密に処理するよう求める。
十一月廿日 / 冊子 81頁
京都での政治的処置と国元の置目を引き続き相談すべき時期として鎌田出雲守を下向させ、二人で熟談して諸地頭へ漏れなく申し渡すよう命じた書状。
二月十六日 / 冊子 109~110頁
屋形造営、借物返済、又一郎夫婦の在京処置を国元で相談させるため鎌田出雲守を下向させ、口上を聞いて老中とも熟談し、義弘自身の所務に不利益が出ないよう工夫することを求めた書状。
二月十六日 / 冊子 135頁
伊達政宗の上洛が遅れるとの見込みに反して四日に上洛し、京都は平穏だと報告した。屋形造営、年来の借財返済、又一郎夫婦の在京費用が整わないため鎌田出雲守を下向させ、熟談して解決し、栗野留守居にも配慮するよう新納忠元へ頼んだ書状。
年月日未詳 / 冊子 161~162頁
世上の騒ぎが続き、比志島紀伊守・鎌田出雲守らも出仕しないなか、伊集院久治は毎朝出仕しているものの相談相手がいないとして、とにかく油断なく対処するよう求めた書状。
十一月廿四日 / 冊子 164~165頁
奥入りに伴う知行支配について国書頭・鎌田出雲守と熟談し、長年忠勤した者や衆人の利益となるよう配分することを求めた。公儀を軽んずる者には後日申し開きできないと配当担当者へ厳告し、鎌田との内談を重ねるよう命じた書状。
二月十日 / 冊子 169頁
鎌田出雲守宅で龍伯と忠恒が振舞を受けた際、庭先へ鶯が来て鳴かずに通り過ぎたため、龍伯が『軒ちかくこと問ひきてもうぐひすの―』と詠むと、鶯がすぐ鳴いたという珍事を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 351~352頁
遠路から使者と肴を送られた厚意に謝し、当地は皆無事で、春には暇を得て帰国できるだろうと伝え、若い出雲守には折々に意見を加えて諸事を慎ませることが肝要だと求めた島津家久書状。
二月廿日 / 冊子 603頁
京都での政治的処置と国元の置目を相談する時期として鎌田出雲守を下向させ、二人で熟談して諸地頭へ漏れなく申し渡すよう命じた島津義弘書状。No.182と同文のため本文では省略される。
九月四日 / 冊子 744頁
先日の訪問でゆっくり話せたことを喜び、長い江戸滞在の疲れを早々に見舞われたことに謝する。上方の新しい情報を尋ね、鎌田出雲守が江戸から帰国したので関東・上方の様子を聞いたと伝えた島津家久書状。
文安三年十月廿日 / 冊子 416頁
神重兼が、亡父道光禅門の毎年九月十三日の忌日供養のため、曾小河内の敷称上檀行平田代一貫五百文を本文書とともに梶殿寺へ寄進した。本主が請け返す場合は本物四貫文などで代替地を求め、子孫も寄進の趣旨を守るよう定めた。