島津光久吉書
寛永十六年正月十一日 / 冊子 1頁
島津光久が年頭の吉書として、神社・仏閣の修理興行、農事の奨励、年貢納入の励行を三か条で示し、その趣旨に従って沙汰するよう命じたもの。
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寛永十六年正月十一日 / 冊子 1頁
島津光久が年頭の吉書として、神社・仏閣の修理興行、農事の奨励、年貢納入の励行を三か条で示し、その趣旨に従って沙汰するよう命じたもの。
年月日未詳 / 冊子 1頁
毎年正月十一日に対面所で行う吉書始めの式について、右筆が吉書を書き、太守が花押を加えて下知する手順を記す。この年の吉書は島津光久が家督を継いで最初の年頭のもので、明治二十五年まで二百五十四年を経たとの伊地知季通の注記を伴う。
寛永十六年正月十二日 / 冊子 1頁
新納忠清が二之宮伊與に、高一石五斗を飛諏訪の祭田として知行に付置き、祭祀を堅固に執り行い、諸出物なども怠りなく処理するよう命じた宛行状。正文は大口郷の二之宮氏に伝来したとの注記がある。
寛永十六年正月十二日 / 冊子 1~2頁
原田村川くぼの田地について、下田四畦十五歩、金助に関わる籾高などを掲げ、外略分を合わせて籾・大豆四俵四升、高一石五斗とする知行目録。これを飛諏訪の祭田として二之宮伊與の知行に付置き、祭祀と諸出物を怠りなく勤めるよう新納忠清が命じている。
年月日未詳 / 冊子 2頁
里村の麓御城内から未の方にある飛諏訪大明神の祭由緒を記す。大口が島津家の領分となる以前、新納武蔵が市山城を攻め取って在城した際、城外から諏訪の鎌一つが飛来したため飛諏訪として崇め、以来代々信仰して毎年七月二十五日に祭礼を行ったという。新納氏に伝わる写しで、本文は永禄十年頃の箇所に記載があるとの小字注記を伴う。
正月廿八日 / 冊子 2~3頁
新納忠清が伊勢貞昌に、島津光久の参府に供奉する息子刑部の指導を頼むとともに、自身の知行・加増問題で外聞を失い、奉公を続けにくい窮状を訴えた書状。昨秋以来返答のない件について、他の重臣やその子が加増地を保持する例を挙げ、大口国境の衆中を預かる立場から、明確な沙汰と取り成しを求めている。
年月日未詳 / 冊子 3頁
北郷久直が島津家久の位牌を龍泉寺に安置し、香華料として高三十石を寄進したことを記す譜記事。
二月四日 / 冊子 3~4頁
伊勢貞昌と島津久元が、島津光久の初入国を祝うため幕府から上使が派遣されるとの酒井忠勝の内意を、光久に供奉する老中衆へ急報した書状。上使との行き違いを避けるため、大坂で三日ほど待って参会し、到着しない場合は道中で会えるよう出船と旅程を調整するよう求めている。
寛永十六年二月八日 / 冊子 4~5頁
琉球国司尚豊が、薩摩への奉公、とりわけ中国貿易の処理が疎略になったことを認め、渡唐銀の運用、買物の不首尾、役人の処罰などを条々に整理した覚書。琉球が島津家の支配下で受けた歴代の恩義を忘れず奉公すべきことを確認し、金武按司上国時に命じられた銀千貫目規模の貿易が実現しなかった事情などを、両使から説明させるとしている。
寛永十六年二月九日 / 冊子 5~7頁
金武朝貞と勝連良継が、薩摩から託された銀による中国貿易について、銀三百貫目や隠銀の取扱い、買物糸・巻物の品質と価格、銀の差替え、船の遅延、役人の違背と処罰などを詳細に報告した覚書。銀千貫目の貿易命令が首尾を得なかった事情や、中城・野村大学助らの銀運用上の問題を条項ごとに述べ、自分たちの責任と経緯を弁明している。
寛永十六年二月九日 / 冊子 7~8頁
金武朝貞と勝連良継が、中国貿易用の御物銀と糸代銀について、残銀、差替え、商人への過分な支払い、役人間の役割分担と処分を追加報告した覚書。中城の主取としての責任や、福治官舎・与那城官舎らの取扱い、残銀をめぐる違背と処罰を挙げ、関係者の主張の食い違いも含めて経緯を説明している。
「寛永十六年」二月十一日 / 冊子 8~9頁
琉球国司尚豊が島津光久へ、光久が三州の太守職に任じられたことを祝うとともに、琉球側の従来の不忠・怠慢を詫びた書状。軍事的に防戦できない琉球が島津家の保護を受けてきた厚恩を述べ、今後は先例に従って国政を改め、薩摩への奉公を怠らないと誓い、引き続き庇護するよう願っている。
寛永十六年二月十一日 / 冊子 9~11頁
琉球国司尚豊が、島津光久の三州太守就任を受け、光久の下知に随い、琉球国の奉公に不忠・怠慢がないことを神仏に誓った起請文。誓約に背けば自身と子孫が梵天・帝釈、八幡、熊野、琉球の諸神など多数の神罰を受けるとする、広範な神名を列挙した厳重な誓詞である。
「寛永十六年」二月十一日 / 冊子 11頁
琉球国司尚豊が、島津光久の三州太守就任を祝賀し、薩摩・琉球両国の安泰と光久の長久を祈った書状。祝儀として黄金、琉香三種、樽十荷、茶二壺などを進上し、詳細は派遣した両使に説明させるとしている。
「寛永十六年」三月九日 / 冊子 12頁
伊勢貞昌が川上久国へ、立野をめぐる寺院・宗旨の扱いについて回答した書状。種子島では他宗がなく祈念にも支障があること、先人の内意や故人の意思を踏まえるべきことを述べ、法華宗で取り扱う場合は関係者が互いに争わず相談して処理し、必要なら内談のうえ後日返答すると伝えている。
「寛永十六年」三月十二日 / 冊子 12~14頁
出典見出し「御文庫拾九番箱中」「光久公御譜中三在り」の連署書状。島津久元(下野守)と伊勢貞昌(伊勢兵部少輔)が国元重臣へ、相良某に与えられていた米之津の屋敷の処置について協議を求めた。相良の上洛時に設けられた屋敷について、返還または預置の可否、屋敷守・商人の往来・隠し置かれた物品、国元と江戸双方の用向きを検討し、相良へ問い合わせたうえで返答するよう求めている。
「十六年」三月十六日 / 冊子 14頁
松平信綱と阿部忠秋が島津光久へ、佐々権兵衛が上使に任じられ、将軍の鷹狩で得た鶴も下賜されることを伝えた奉書。派遣された使者が御前へ召し出され、用向きを滞りなく果たしたことを知らせ、詳しくは口上で述べるとしている。
年月日未詳 / 冊子 14頁
寛永十六年四月九日、汾陽理心の家臣とされる横山豊前が殉死したことを記す『殉国名藪』の記事。
寛永十六年四月廿日 / 冊子 14~16頁
江戸の幕府評定所で琉球の貿易事情を尋ねられた際、伊勢貞昌が持参した覚書。琉球の渡唐進貢船に積む銀、芭蕉、上布・白布、扇、筆、食料・香辛料、織物、薬種、器物などを列挙し、太刀・長刀・鎧類など、以前は渡来したが現在は法度によって停止されている品々を区別して記している。
「寛永十六年」四月廿四日 / 冊子 16頁
島津光久が弾正大弼へ、吉利織部佑への用向きに心を配るよう頼み、現地の若輩者にも助言してほしいと求めた書状。あわせて宛先の病状を尋ね、少し快方に向かったと聞いて満足しているので、十分に養生するよう気遣っている。
年月日未詳 / 冊子 17頁
児玉利昌が寛永十六年五月二十日に六十七歳で病没し、興国寺に葬られ、法号を寿山源量居士としたことを記す譜記事。生前に画工へ自画像を描かせ、東郷重位に画像へ添える歌を求めたとも伝えている。
年月日未詳 / 冊子 17頁
児玉家に伝来した掛軸に記された児玉利昌の詠草。天地を吹き分ける風と露を題材に、色を変えないものに寄せて変わらぬ心を詠んだ和歌で、寿山源量居士の名が添えられている。
「寛永十六年」五月廿日 / 冊子 17頁
東郷重位が児玉利昌の死を悼み、茶を持たせて送った書状。重位は利昌を頼みにしていたのに自分より先に亡くなったため力を落とし、今後誰を頼ればよいのか心細いと嘆き、遺族と思われる「御懐様」の悲嘆を察して心遣いを求めている。
年月日未詳 / 冊子 17頁
寛永十六年四月二十九日、阿部忠秋が上使として島津光久へ時服百領・白銀などを伝達し、光久が江戸城で徳川家光に謝意を表して馬一匹を拝領したことを記す。光久は五月七日に江戸を発ち、大坂から船で六月十六日に鹿児島へ帰着し、伊勢貞昌が供奉した。さらに北郷久加を江戸へ遣わして帰国許可への礼を述べ、肴・琉球酒・絹を献上した。
年月日未詳 / 冊子 17頁
島津光久が家督後初めて帰国を許された際、北郷久加が礼使として江戸城へ赴き、単衣四領を拝領して帰国したことを記す譜記事。久加は江戸滞在中に伊集院地頭職へ補任され、北郷吉左衛門忠盈が随行した。
寛永十六年六月廿四日 / 冊子 18頁
島津光久が聖護院門跡の許可に基づき、薩摩・大隅・日向諸県郡の年行事職を飯隈山仙光坊へ安堵した公帖。毎年の大峯修行を中断せず、島津家のための祈念を丹精に勤めるよう命じている。
「寛永十六年」六月廿四日 / 冊子 18頁
琉球国司尚豊が島津光久の家督相続を祝賀し、太刀一腰・馬一疋と別紙目録の祝物を進上した書状。詳しい口上は北谷按司に述べさせるとしている。
年月日未詳 / 冊子 18頁
No.27の祝賀書状に伴う琉球国司尚豊の進上物目録。香餅一箱、寿帯香一箱、玉蘭香一箱、焼酎二壺、漬物二壺を列挙する。正文は文庫にあるとの注記を伴う。
寛永十六年六月吉祥日 / 冊子 18~21頁
蓮光院が主君とその一族への奉仕に際し、私意や偽りをもって療治・助言を曲げず、自身や子らの処置を隠さず、呪詛・邪術や悪意を行わないことなどを誓った起請文。梵天・帝釈、八幡、熊野、国内の諸神仏を広く勧請し、違背すれば自身と子孫が神罰・仏罰を受けるとする厳重な誓詞である。
寛永十六年七月朔日 / 冊子 21~22頁
島津光久が家督後初めて帰国した際に示した条書。将軍の直命を受けて国中の奢侈を戒め、先代以来の国政を守り、キリシタン宗門を厳禁し、江戸の法度に従うことを命じる。さらに軍役・武具馬鞍の備え、酒色の節制、知行への出物・未進の整理を求め、衣服・武具・身分秩序などに関する江戸条書の規定も掲げて、違背者を厳しく処罰するとしたもの。
「寛永十六年」七月三日 / 冊子 22~23頁
島津久元が国元の重臣らへ、太田備中守資宗の長崎派遣に伴う応接、細川越中守忠利から受けた照会、九州諸国の城郭・門・矢倉道具や船舶に関する幕府側の関心を報告した書状。長崎での対応に遺漏がないよう、関係する事情を取りまとめて披露・相談することを求めている。
「寛永十六年」七月五日 / 冊子 23~24頁
島津久元が弾正大弼へ、御前様の病状が快方に向かっていることを知らせるとともに、太田備中守資宗の長崎下向に際する家老派遣や九州での応接、細川忠利からの照会、外国船の来航と取締りなどを報告した書状。関係する条書の写しを送り、国元でも対応を整えるよう求めている。
「寛永十六年」七月五日 / 冊子 25~26頁
細川忠利が伊勢貞昌へ、将軍の安泰を伝え、太田備中守の長崎派遣と九州諸大名への条書伝達、唐船・外国船をめぐる幕府の処置など、江戸で承知した長崎関係の動向を知らせた書状。島津家側の対応の参考となるよう、内々の情報をまとめて伝えている。
寛永十六年七月五日 / 冊子 26頁
幕府老中らが連署して示したキリシタン禁制の条書。日本国内で禁じられたキリシタン宗門を弘めたり信徒をかくまったりする行為を処罰し、宣教師・同宗旨の者や外国船の渡来を厳しく取り締まり、違反者と関係船を速やかに処置するよう命じている。
寛永十六年七月五日 / 冊子 26~27頁
幕府老中三名が連署した沿岸警戒の条書。宣教師を運ぶ外国船の着岸を禁じ、領内の浦々に監視役を置いて不審船を改め、異国船が着岸した場合は乗員を上陸させず長崎へ送ること、不審者や密かな上陸を通報・捕縛した者には褒賞を与えることを命じている。
寛永十六年七月八日 / 冊子 27~28頁
島津久慶ら六名が新納加賀守へ示した、蔵入と諸役人の算用に関する条書。押米・押銀などの上納物を算用のうえで滞りなく納め、役人の用捨や抑留によって御物を損なわないよう、関係者へ厳しく申し渡すことを命じている。
寛永十六年七月十一日 / 冊子 28頁
伊勢貞昌・三原重種・山田有栄が、御荷内所から銀子を借り受けた者には利足三割を付けさせるとの命令を、担当者へ堅く申し渡した文書。
「寛永十六年」七月十四日 / 冊子 28頁
島津光久が下野守へ、物奉行関係の支出を精査して不要な入用をなくし、役人の怠慢や物資の抑留を防ぎ、御物を損なわないよう厳正に処理することを命じた書状。用捨やえこひいきをせず、役人へ申し聞かせるよう求めている。
「寛永十六年」七月廿六日 / 冊子 28~29頁
酒井忠勝が島津光久へ、海路を無事に帰国し家督後初めて入国したことを祝った書状。島津家から進上された国元の肴・琉球酒・巻物を阿部対馬守重次が披露し、将軍も機嫌よく受け取ったと伝えている。
「十六年」七月廿日 / 冊子 29頁
伊東某が琉球へ渡る使者に示した覚書。中国貿易に用いる銀子の取扱い、琉球国司への進上物、米・野菜・薪・味噌など滞在中の入用、船の手配と出帆、現地役人との協議について条項ごとに指示し、渡唐関係の用向きを遅滞なく処理するよう求めている。
年月日未詳 / 冊子 29~30頁
太田備中守資宗が長崎へ到着し、外国人の渡航禁止に関する幕府の厳令を示して九州諸家の家老を召集したことを記す島津光久の譜記事。島津家からは家老川上久国と使役鎌田政有が長崎へ赴き、禁制の趣旨を承った。
「寛永十六年」八月六日 / 冊子 30~31頁
川上久国が国元の重臣らへ、八重山の波照間島へ小舟で漂着した二人を琉球で取り調べる件を報告した書状。漂着船の形状や乗員、前年に琉球へ来た南蛮人、呂宋方面から琉球を足掛かりに宗旨を広める懸念などを鎌田政有と相談し、幕府側へ説明した経緯を伝えている。
年月日未詳 / 冊子 31頁
寛永十六年八月十一日に江戸城本丸で火災が発生し、島津光久が家老川上久国を走らせ、幕府へ鉄砲袋二百などの品を献上したことを記す譜記事。
「寛永十六年」八月十日 / 冊子 31~32頁
島津久元が国元の重臣らへ、ポルトガル船や黒船が領内へ来航した場合の処置を報告した書状。港に番を置き、長崎奉行らへ知らせ、江戸へ急報し、抵抗する船には石火矢を用いて徹底して対処するよう幕府から命じられたと伝える。あわせて姫君の祝言日程と兼松弥五左衛門尉の長崎派遣を知らせている。
「寛永十六年」八月十一日 / 冊子 32~33頁
島津久元が国元の重臣らへ、江戸城で早朝に火災が起こり、本丸天守は残ったものの二の丸などが焼失した状況を急報した書状。酒井忠勝・松平信綱らに出向いて事情を確認し、島津家からの見舞い・献上について相談し、必要なら材木などを用意する案を伝えて指示を求めている。
「寛永十六年」八月十二日 / 冊子 33頁
出典見出し「御文庫拾九番箱三拾九巻中」「光久公御譜中二在り」の細川忠利書状。細川忠利(越中守)が島津光久へ、八月十一日の江戸城本丸火災で天守だけが残り、将軍が西の丸へ移ったこと、下々の者まで無事であることを知らせた。進物等について申し入れたので、早々に使者を下して礼を述べるよう伝えている。
「寛永十六年」八月十二日 / 冊子 33~34頁
出典見出し「御文庫拾九番箱三拾四巻中」「光久公御譜中二在り」の島津久元書状。島津久元(下野守)が国元重臣へ、江戸城本丸火災の焼失範囲、将軍の西の丸移動、姫君らの避難と無事を報告した。松平伊豆守・松平薩摩守の留守居衆らと、火災見舞いの登城・御目見や進物を相談し、御成蔵の品や材木などの候補を検討して国元の意向を求めている。
「寛永十六年」八月十五日 / 冊子 35~36頁
川上久国が、八重山の波照間島へ漂着した小舟と乗員二人について幕府側へ説明した経緯を報告した書状。船の図や道具から呂宋船との関係が疑われ、乗員を差し出して琉球側で詳しく取り調べること、南蛮人が琉球を足掛かりにキリシタン宗旨を広める可能性を警戒することなどを述べている。
「寛永十六年」八月十五日 / 冊子 37~38頁
島津久元が江戸城火災に伴う島津家からの進上品について、細川三斎らと相談した経緯を報告した書状。あわせて国元へ帰る大廻船が伊豆下田近海で大風に遭い、薩摩船や松平隠岐守の荷物船などが沖へ吹き流された状況と、その後の船・荷物の処置を伝えている。
「寛永十六年」八月十七日 / 冊子 38頁
土井利勝が伊勢兵部へ、八月十一日の江戸城本丸火災を報告した書状。御殿は焼失したが将軍・姫君は無事で、名物の道具類も運び出され、人的被害もなかったと伝える。自身は古河から夜通し江戸へ戻り、諸大名が寝具類などを火災見舞いとして進上した状況も知らせている。