加増高書上
年月日未詳 / 冊子 493頁/原整理番号 21-5
平田清右衛門尉に加増された高百石について、国分松木村の津留園屋敷二十九石余、水引新田村の三垣園屋敷四十六石余、飯野池島村の井手之平門明二十三石余、横川上之名村および水引新田村の浮免二石余を列挙した名寄内訳。加増高百石のうち一石九斗二升余が金山御用地となって返地されたこと、総高百石の名寄は別紙にあることを注記し、本書に二つの押札が付されている。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 493頁/原整理番号 21-5
平田清右衛門尉に加増された高百石について、国分松木村の津留園屋敷二十九石余、水引新田村の三垣園屋敷四十六石余、飯野池島村の井手之平門明二十三石余、横川上之名村および水引新田村の浮免二石余を列挙した名寄内訳。加増高百石のうち一石九斗二升余が金山御用地となって返地されたこと、総高百石の名寄は別紙にあることを注記し、本書に二つの押札が付されている。
宝永七年四月六日 / 冊子 897頁/整理ID 2930
島津吉貴が南泉院権僧正智周へ、東照宮再興に伴う南泉院の修造所として、鹿児島郡鹿児島郷下伊敷村の九十石と始羅郡帖佐郷平松村の四百十石、計五百石を寄附すると伝える。村名・石高を明記した寄附状。
宝永七年四月六日 / 冊子 897–898頁/整理ID 2931
肝付主殿ら四名が南泉院権僧正智周へ、東照宮再興と南泉院修造のため吉貴が寄附した計五百石の内訳を示す。下伊敷村の萩原門・福地門・米蔵門など、平松村の追屋敷・折口門・曲迫門・深田屋敷などを門・屋敷ごとの石高まで列記し、修造所の寄附を確実に伝える。
享保三年七月三日 / 冊子 350頁/整理ID 930
島津吉貴が南泉院僧正智周へ、伊敷村・平松村の寄附地を替え、鹿児島郡増田村に合わせて五百石を寄進する旨を記した文書。七月三日付。
享保三年七月三日 / 冊子 350~352頁/整理ID 931
南泉院へ寄附した五百石の領地について、鹿児島郡伊敷村・増田村・大隅国始羅郡の村々と各門の高を列挙し、替地と収納の扱いを四名の連署で示した目録。七月三日付。
享保三年七月廿六日 / 冊子 352~353頁/整理ID 935
吉祥院に寄附された高百石の知行地として、薩摩州大口・串木野、隅州帖佐・始良・山田の地名を記し、今度の替地を示す五名連署の目録。七月二十六日付。
享保三年七月廿六日 / 冊子 353頁/整理ID 936
実相院に寄附された高百石の知行地として、薩摩州大口・市来、隅州帖佐・始良・山田の地名を記し、今度の替地を示す五名連署の目録。七月二十六日付。
享保三年七月廿六日 / 冊子 353~354頁/整理ID 937
観樹院に寄附された高百石の知行地として、薩摩州大口・串木野、隅州帖佐・始良・山田の地名を記し、今度の替地を示す五名連署の目録。七月二十六日付。
享保六年二月二十七日 / 冊子 457頁/整理ID 1227
島津吉貴が大隅正八幡宮別当寺の彌勒院へ高二百石の社領を寄附し、その所領を認める書付。
天明五年十二月二十八日 / 冊子 845頁/原整理番号 2327/整理ID 2327
家筋を重んじ、伊集院郡・河辺郡山田上山田村・曽木永野村・大村北方村の浮免などの内から知行百石を亀山長太夫に与える。名寄帳は別冊とし、宮主膳ら五名が連署する。
天明五年十二月二十八日 / 冊子 845~846頁/原整理番号 2328/整理ID 2328
家筋を重んじ、谷山下福元村・伊集院下谷山村・河辺郡山田中山田村・曽木永野村などの内から知行百石を山田八郎右衛門に与える。名寄帳は別冊とし、宮主膳ら五名が連署する。
文政2年5月(朱書。6月19日は下渡・納置記録) / 冊子 557頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1681
出典は全上、正文は文庫、太守の御筆とする。先年の普請御用金を借入等で補ったが返金の手当が整わず、家老の願により重出米を三年間出した。期限が満ちても返金を全部備えられず、さらに二年間同様に願ったという。国中が続けて困窮するため、重豪は心配して吟味したが、他の手段で埋め合わせる見通しがなく、事情を考慮して今二年間願どおり命じ、その他も別紙どおり引き受け、続料から別段五百石をさらに二年間差し出す意向を示したとする。その趣意を一統が深く承り、下知どおり間違いなく返金を取り計らうよう命じる。この二つの事で老年の重豪を煩わせ、始終安心できないため、従来の趣法に加え朝暮油断なく精密に吟味し、一端でもその尊慮を慰めるよう心掛けることを求める。朱文政二年五月、家老中に。白木御文書八番箱二十八番にあり、六月十九日に安房殿から平山五右衛門へ下渡し納めたとする。本文の五月と下渡・納置日を区別し、返金済みや別紙の具体的内容を推測しない。
9月6日但馬;当日向井新兵衛取次注 / 冊子 386頁/原整理番号 548の2/整理ID 548-1
桂右衛門を大目附へ役替えし、役料二百石を与え、席順は島津主殿の次とする九月六日但馬の通知。表方・奥掛御勝手方へ知らせるよう求め、当日向井新兵衛取次の記載を持つ。原注は桂右衛門を久武、島津主殿を久光の男とする。任命、役料の規定と席順の指示を別に示し、実支給済額や実際の在任期間は記されない。
明治2年四月16日知政所(年は朱書) / 冊子 662頁/原整理番号 859の2/整理ID 859-2
徴士または御雇によって朝廷の諸官を命じられた者には資給の俸があるが、人によって家内の経営が難渋する向きもあるだろうと述べる。そのため世禄百石以下の者には今後家族養料米を三十俵ずつ与える旨を、向々へ知らせるよう求める。朱明治二年己四月十六日、知政所。家内困難は達の見立てとして記し、百石の資格条件と三十俵の養料を別に保持する。支給周期・家族一人当たりの量・受給者総数や実支給完了は補わない。
明治2年六月5日知政所(年は朱書)/当七月限の引結届、先行一昨卯年言及 / 冊子 675頁/原整理番号 877の8/整理ID 877-8
軍役高割は一昨卯年に定め、現一所持高は従来通りとした上で、吟味により領地高以外に買い求めた諸士散高を相対で売り払うよう定める。一所の地に附された散高は従来通りとする。場所の善悪があっても一石二百貫文を売払の限度とし、百石以上持高の者は売高が片付くまで買求を禁じる。百石以下の高を求める者も百石以上を求めてはならず、親類縁者間の売買も禁じ、違反者は吟味の上その高を取り上げるとする。但し伊勢雅楽・鎌田仙十郎の持切在分以外の諸士散高は同様に売払う旨を付す。当七月までに引結届を求める。朱明治二年己六月五日、知政所。価格・高の条件と例外を原の区分で保持し、百石の買求条件を未記載の保有総高計算に置き換えず、実売払件数・総額や取上完了は補わない。
明治2年八月17日知政所 / 冊子 691~692頁/原整理番号 905/整理ID 905
通達留。勅命により従来の家格を廃し士族と称することとし、別段の会釈として島津珍彦殿から種子島弾正までの群に世禄千五百石を下賜する。川上東馬から続く名簿群には三百石限を定める。嶋津織之介等の群と川上勘解由等の群は三百石限に加え、祖先勲功の取扱いにより高百石の蔵米を年々与えるとする。次の嶋津一二と読める名から相良治部までの群は二百石限と定め、関係先へ伝える。明治二巳八月十七日、知政所。各群の氏名は原画像通読の台帳に保持し、字形が不確かな名は留保する。世禄本体・限度と祖先勲功米を区分し、役称や注の姓名を現代名へ統一せず、受給総額・実支給人数や支給完了を補わない。
明治2年八月22日・九月14日の系図記事 / 冊子 695頁/原整理番号 909/整理ID 909
御系図・忠義公。明治二年八月二十二日、賞典奉還を勅許しなかったが再三願い出たことに至誠を認め、不作と庶民の飢えによる救荒の資として本年賞秩の半額を徴収し充て、位の返上は認めないという詔を記す。九月十四日には、己巳の春の軍功を賞して高一万石を三年賜うとし、蝦地での出兵・箱館等の戦功を評価する太政官の宣旨を載せる。さらに春日艦兵へ高三千三百石を三年賜うという別の賞も記す。原「流賊」等の相手評価と戦功評価は系図・詔に帰属させる。二つの日、半額本年と二つの三年賞、対象者を区分し、六月の永世十万石と合算せず、実返納量・配給完了や死亡者数は補わない。
明治2年己巳九月(日不記、二年に枠・朱イ注) / 冊子 700頁/原整理番号 917の1/整理ID 917-1
海陸兵の軍功により、従三位源朝臣忠義に高一万三千三百石を三年間下賜する旨を記す。明治二年己巳九月、二年に枠と朱イ注。旧御番所御文書四番箱中、包紙には島津従三位忠義とあり、広紙一通との注がある。石高・期限・包紙・保管注を区分し、日付や発給者を補わず、No.917の2・4の石高と重ねて合計しない。
己巳九月太政官/御履歴中の以上三通九月14日下賜注 / 冊子 700頁/原整理番号 917の4/整理ID 917-4
春日艦が己巳春の追討命を奉じ奥海・蝦地で戦い函館へ至ったことを戦功と評価し、嶋津従三位忠義に高三千三百石を三年間下賜し、艦長をはじめそれぞれへ分与するよう求める。己巳九月、太政官。以上三通は九月十四日に下賜されたと御履歴中にあるとの末注を保持する。流賊・巣窟等は原評価とし、各人が三千三百石を受ける扱いやNo.917の1との重複合算、分与完了は補わない。
明治2年十月12日知政所(年は朱書) / 冊子 705頁/原整理番号 922の4/整理ID 922-4
諸郷軍役高は百石限としていたが、常備兵の設置に際し無高の者も少なくないため再吟味したと述べ、諸郷の土着を踏まえて、以後諸郷一同を五十石限と定める。過上高のある者は一石二百貫文の直成で、それぞれの郷内で相対売買を混雑なく扱うよう地頭へ命じ、会計局等へ周知する。但し当秋収納を済ませてから本文の通り取り計らう。朱明治二巳十月十二日、知政所。限度・売買単価・郷内・収納後の条件を区分し、実売買総高・収益や即時施行完了は補わない。
天文十一年十二月十五日 / 冊子 808頁
新納家の衰微を嘆いた安千代丸が、家の再興を神明に祈り、所領の米百石を神徳安千代丸へ分けて進献することなどを願い誓った願文。
(元亀元年以後) / 冊子 237頁
雪辱和尚が琉球国使僧を無事に勤めて帰朝した忠賞として、高百石を与えられたとする広済寺由緒。雪辱はこれを隠居領とし善福寺へ移り、弟子永果に寺とともに付嘱して没したが、永果が所領を雪辱の縁者である甥へ与えたため、当時は寺領として残っていなかったという。住職継承は代々弟子譲りで続いた。
天正20年3月5日 / 冊子 537頁
島津義弘が渡唐に向けて名護屋へ出陣するにあたり、神慮によって武運を得て面目を失わず、島津家が長久し、無事帰国できるよう祈った願状。帰国がかなったなら、愛宕へ八木百石ずつを七年間奉納すると誓い、祈念を願っている。
天正20年12月20日 / 冊子 619頁
隅州正八幡領のうちから二百石を樺山入道へ宛行い、別紙目録に従って確実に領知するよう命じる。 まとまった石高を明記した島津竜伯の知行宛行書状で、朝鮮出兵期の家臣処遇を示す。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関する算用として、百石を田中源介へ遣わすことを入来院重時が認めた知行宛行状。 同日付の三通のうち最大の石高で、給付対象と数量を明記した家中の配分文書。
(文禄2年)7月27日 / 冊子 716~717頁
唐島の城に置く二千人規模の兵と、侍従・小姓・武具・飯米などの内訳を列挙し、合計二千三百石の兵糧を蔵へ積むよう命じる。 帰朝まで十か月分として保管し、余剰が出ても勝手に使用せず城内へ残すよう厳命した、在番兵力と補給計画を具体的に示す朱印状。
文禄3年正月25日 / 冊子 762頁
豊臣秀吉が、島津方で建造した五百石船五艘を青木紀伊守へ、三百石船五艘を寺沢志摩守へ引き渡すよう命じる。水夫は両人から割り当てるため、諸道具を揃えて確実に受け渡せと指示する。 朝鮮出兵の海上輸送に用いる大型船十艘の配属を具体的に定めた朱印状。
文禄3年6月 / 冊子 793頁
文禄三年六月、島津義弘が朝鮮から国元へ伝えた覚書の一節。国元の軍役を百石につき五人と定め、全員を渡海させるとの話を前年春以来聞いていたと記す。 しかし現在まで一人も渡海せず、軍役を実行する手はずさえ整っていないと厳しく批判する。朝鮮在陣軍の兵力不足と、領国側の動員命令が実行されなかった状況を数量基準とともに示す史料である。
文禄3年8月5日 / 冊子 803~804頁
義弘が前年以来の在陣者のうち帰朝者・病死者・病人が相次ぎ、新たに参陣する者もないため手元が極端な人手不足になったと訴える。国元では百石につき五人の軍役と聞いていたが、実際には渡海していないと批判する。 伊集院忠棟・比志島国貞らが連れてきた者以外はほとんど役に立たず、帰国した兵を再派遣するよう石田三成側へ求める。朝鮮在陣軍の消耗と補充停滞を義弘自身が具体的に告発した重要書状。
文禄3年8月5日 / 冊子 805頁
義弘は国元から「百石につき五人」の軍役を出すと聞き、兵員到着を待っていたが、実際には在国の者が一人も渡海していないと訴える。伊集院忠棟・比志島国貞・又八郎らの供衆だけが名護屋まで来たものの、先へ渡海せず、手元が無人同然である窮状を記す。 石田三成宛書状の一部を抜き出した抄録で、朝鮮在陣軍への補充が約束どおり進まず、義弘が深刻な兵力不足に直面していたことを示す。
文禄3年8月21日 / 冊子 807頁
増田長盛は、義弘方の城米について陸路・船便で引き渡しを進め、到着した米は各城の扶持方へ配分すると伝える。義弘分千五百石のうち千石は上杉景勝の船で送る一方、現地の蔵が未整備との報告を受け、残りの輸送方法を石田三成とも相談するよう求める。 米の数量、船便、各城への配分を調整した書状で、諸大名間の輸送網と蔵の整備状況まで見える朝鮮在陣の兵站史料。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が源七郎へ、薩州鹿籠内の別府村百六十石九斗九升を含む合計五百石の加増を示した目録。太閤の命による分国検地・改易で旧領を離れることへの配慮として、知行について龍伯・武庫と相談し、特に念を入れて取り計らうと伝える。
文禄五年二月三日 / 冊子 6頁
龍伯が園田頭へ、薩摩郡東郷、伊集院竹山村、河辺郡田部田村・長田村・平山村、日向国諸県郡野々前田村内の所領を列記し、合計一万石のうち七千百石を加増として宛行った文書。当時の役務に報いるもので、今後いっそう奉公に励むよう求める。
(慶長元年)二月六日 / 冊子 6~7頁
龍伯が島津又八郎へ、在陣衆への加増は十石程度を基本として百石に及ぶ者があるか尋ね、過分な約束を戒めた。幸侃からの加増案は又八郎の帰朝を待って決めるとし、当家の存続や武庫上洛前の国元処理より当面の京都での勤めを優先するよう説く。武庫側近や伊勢孫九郎への百~二百石の宛行、田数帳を渡海後に渡すこと、替衆を早く派遣することなどを指示した書状。
(慶長元年)三月二日 / 冊子 10頁
石田三成が島津又八郎へ、又八郎の弟の知行について二百石を与え、今回の割当ても十分に取り計らったと伝えた。なお不足を感じる場合には相手を煩わせてでもよく配慮し、又八郎も心得るよう求めた書状。
文禄五年十二月二日 / 冊子 55頁
文禄五年十二月二日、公儀が児玉主水佑に隅州西俣村および河原村の土地を与え、国老伊集院幸侃が裁許して目録を授けたことを記す児玉氏譜の記事。記載高は合計五十三石八升で、従来分と合わせ百石とした経緯を述べる。
文禄五年十二月廿一日 / 冊子 62~63頁
川上肱枕・新納旅庵・上井神五郎兼政が連署し、桂藤五郎へ薩州市来の大里和田之門などの土地を、名屋敷・加増分を含め合計百石充行った領知目録。
(慶長三年)三月廿二日 / 冊子 200~201頁
新納為舟忠元が上井神五郎へ、上洛したと聞いて書き送った書状。吉田の内にある冨森九介・嶋田弥五右衛門尉の各三百石余の役口について、そのうち一口の取成しと知行方の配当を頼み、国境へ移るには少数でも役立つ人衆を伴わなければ困難だと訴える。また返地として上申した蔵野の内約五百五十石について、岡松が未検地なので検地後に帳面を提出するとし、岡松から京都・高麗へ夫丸を立てる件の差止めと、孫の二郎兵衛尉を上洛させる際の支援も依頼する。
(慶長三年)九月十六日 / 冊子 237~238頁
島津義久(竜伯)が島津忠恒に、大峯先達から島津義弘は護摩の効験で間もなく平癒すると聞いたこと、石田三成から義弘・忠恒父子は国元へ直ちに帰朝してよいとの意向を得たので相談して好機を選ぶことを伝えた書状。宰相の暇は伊集院幸侃を通じて交渉すること、買い入れた八木七千石のうち七百石しか上っていないため甚五郎の怠慢を責めること、相良新右衛門の奉公任命、在番三交替の調整についても述べる。
年月日未詳 / 冊子 301頁
国分氏伝が、朝鮮出陣前に「自力で五百石相当の軍役を勤めれば、帰朝時に高五百石を与える」と諸士へ約束されたことを記す。国分左京は自力でその軍役を負担して渡海し、出陣前に二百五十石を受けた。帰国後に残額を願い出たが、国分氏が夫満宮の社領八町を領して社領を失わせていることを理由に、既給分の石高で相当と裁定された。
年月日未詳 / 冊子 301頁
鮫島氏伝が、鮫島筑右衛門が五百石相当の軍役で朝鮮へ出陣し、出陣前に二百石、唐島で五代少左衛門らと奉公した褒美に百石を受けた経緯を記す。帰朝後に残り二百石を願ったが、もとは田二段を持つ身であるとして給付を抑える裁定が示された。あわせて、過去に渋谷家または伊東方として敵対した二渡・壱岐両氏も二百五十石を相当とする鎌田政近の口達を載せる。
年月日未詳 / 冊子 301頁
二渡氏伝が、伊地知伯耆守の三男が二渡家の養子となり、二渡次兵衛を称したことを記す。朝鮮出陣前、五百石相当の軍役を自力で勤めれば帰国時に五百石を与えるとの命を受け、養父が取り立てて軍役を負担させ、次兵衛は渡海して軍功を立てた。その後、兵具奉行に任命されて勤務したとする。
年月日未詳 / 冊子 353~354頁
上原氏二代目の源右衛門は国分で島津義久に近侍し、平田狩野らと兵具方を勤めたため、他の者が高麗へ出陣して加増を受けた際にも義久のそばに留め置かれた。忠恒への代替わりに際して墨色の「あめの御旗」を持つ使者を務め、その加増として五十石を与えられ、義久は本来百石を与える意向であったと伝える。
慶長四年三月五日 / 冊子 356頁
島津忠恒が右馬頭以久に、種子島の繰替えに対する返地として所領を宛行い、そのうち一千六百八十七石を加増分とする。以後も先例に従い、一千七百石を無役、残る九千九百八十七石を役儀負担として勤めるよう命じる。正文は向島衆萩原右京に伝来したと注記する。
慶長四年三月七日 / 冊子 356頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺宮下村二百八十七石余と柏原内中別府村四百十二石余、合計七百石を宛行う。このうち五百石は加増、二百石は先年の配当時に知行不足のため上地した分の返地とする。
慶長四年五月吉日 / 冊子 386頁
大隅国桑原郡中津河村の高千百十二石九斗六升、清水内湊村の高四百九十五石四斗七升、網船・網一帖・塩屋一間を合わせ、高千六百十一石七斗六升を記す宛行状である。このうち加増分を三百石とする。
年月日未詳 / 冊子 386~387頁
慶長八年に母堂御平が死去すると、島津忠栄は義久の命により、御平の遺領である大隅国桑原郡中津川村の知行高千二百石と、付属する家人六十余人を相添えて拝領した。忠栄の旧来の知行は五百石で、相続を伝えた使者は伊集院伴右衛門尉久共であったと記す。
(慶長四年十二月十六日) / 冊子 476頁
島津義弘が、年始の留守居衆・諸寺への祝言、出水城普請、江南馬、ばはん船の荷物とろそん船の壺改め、武具・兵具の上納、在京衆、飫嶋での唐船遠見、番所の茶四十石、蔵の御物、上方で請け取る八木二千四百石のうち約四百石の未進、夫丸替、魚塩、出水からの上納、浮土貢、仕上米について処理事項を列挙した覚書。
慶長十五年七月十日 / 冊子 550頁
滝聞伝右衛門尉と渡辺市左衛門尉が連署し、高二百石に対する七分出銀と殿役分を受け取ったことを証する請取状。鳥目四十六貫八百三十三文、銀子二百八十一匁を、定日外のため倍算用とし、七分・殿役とも皆済したことを記す。
(慶長五年)十月二日 / 冊子 587頁
島津義弘(惟新)が、数年の辛労に加え、今回大坂で残番の人数に加わった働きを神妙と賞する。今後も東表で奉公する形を整え、一層忠貞を尽くすよう求め、まず知行百石を与える。