樺山久高覚書
寛永六年八月廿四日 / 冊子 103~105頁
樺山美濃久道が、過去の合戦・境目警固での働き、帖佐春毛村などの所領処置、敷根氏らへの返地・配分、加増・替地・兵粮扶持・役料等の経緯を列挙し、未決の扱いを明確に裁定するよう求めた長文覚書。自身が老齢で後に尋ねられる者がいなくなるため、今回の機会に返答を得たいと述べる。本文署名は寛永八年八月二十四日、樺山美濃久道。
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寛永六年八月廿四日 / 冊子 103~105頁
樺山美濃久道が、過去の合戦・境目警固での働き、帖佐春毛村などの所領処置、敷根氏らへの返地・配分、加増・替地・兵粮扶持・役料等の経緯を列挙し、未決の扱いを明確に裁定するよう求めた長文覚書。自身が老齢で後に尋ねられる者がいなくなるため、今回の機会に返答を得たいと述べる。本文署名は寛永八年八月二十四日、樺山美濃久道。
(寛永八年)九月十一日 / 冊子 232~233頁
松平薩摩守が寛永八年四月朔日に四位侍従へ任じられたものの口宣の手続が延引しているため、同年月日付で口宣を整えるよう侍奏へ申し入れてほしいと依頼した三名連署書状の写。
年月日未詳 / 冊子 133頁
島津久元が寛永七年正月に島津家久の参勤に随行して出発し、翌寛永八年七月に帰国したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 187頁
寛永八年正月三日、家久が年頭の拝礼のため将軍家光の広間出御に参上し、太刀を献じたことを記す。酒井阿波守忠行が取次ぎ、諸侯も席次に従って拝謁した。
年月日未詳 / 冊子 187頁
島津光久の女子が寛永八年正月六日に生まれ、ほどなく死亡したことを記す光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 199頁
寛永八年四月一日、光久が江戸城で元服し、家光から松平姓と「光」の一字を賜って松平薩摩守光久と称し、侍従・従四位下に任じられたことを記す。父家久が従三位中納言であるため五位を経ず直ちに従四位下へ進み、前年の従五位下文書は官位順序を整えるため追給されたものと説明する。
年月日未詳 / 冊子 202頁
忠紀は元和八年、島津忠清の娘を母として生まれ、早世して継子のなかった又四郎久敏の猶子となった家久の実子である。寛永八年四月一日、光久の任官時に玄蕃頭・諸大夫従五位下となり、秀忠・家光から刀剣を拝領し、太刀・銀・衣服を献上した。
年月日未詳 / 冊子 202頁
寛永八年四月一日、家久嫡子又三郎の元服に際し、島津久元が理髪役を務めたことを記す。元服後、家久は久元と伊勢貞昌に刀を与え、二人は太刀・銀・衣服を献上して謝意を表した。
年月日未詳 / 冊子 207頁
寛永八年四月一日、光久が江戸城で元服し、松平氏と将軍家光の「光」の字を賜って松平薩摩守光久と称したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 223頁
北郷久根は又五郎・蔵人・主膳と称し、高城地頭を長く務め、慶長十五年に都城へ移って家老職に約十九年就いた。寛永八年八月に再び家老に任じられ、腰物を拝領し、中尾口地頭、のち鷹尾口地頭を兼帯して寛永十七年に及んだと記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 227頁
寛永八年六月、家久が二人の公子を伴って江戸から帰国した際、児玉利昌が随行した。六月二日に江戸を発ち、七月五日に鹿児島城へ到着したことを記す児玉利昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 240頁
寛永八年十月二十八日、翌春に明国王の冊封使が琉球へ渡来するとの知らせを受け、島津家久が必要な用務のため新納忠清と最上義時を琉球へ派遣したことを記す家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 241~242頁
琉球在番の初代・二代の担当者と、寛永八年以降に那覇へ入津・出帆または琉球へ派遣された武士・町人・医師らの氏名、役目、在番時期を列記した注文。
年月日未詳 / 冊子 252頁
寛永八年閏十月、坊津の村裏で捕らえた黄鷹を島津家久が中江主水に飼養させ、土井利勝への書状を添えて徳川秀忠へ献上し、十二月十八日に秀忠から喜びを示す返書があったことを記す家久譜の記事。
元文五年十二月四日 / 冊子 19~21頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の13)
記録方の日高甚兵衛・吉田用右衛門・安藤佐平次と記録奉行の川上平右衛門が十二月四日、島津但馬守の源姓使用願を受け、林大学頭による姓の照会に備えて家系と復姓の先例を調べた覚書。島津本家は元祖忠久が源姓で、近衛基通との関係から藤原姓を用い、光久が寛永八年の初叙任時から源姓へ復した経緯を挙げる。佐土原家は豊久の死後、以久への所領授与、忠仍の辞退、忠興の継承を経ており、本家から分立した二男家として藤原姓を用いてきたと論じる。本家の復姓を新たな勅命による改姓とは区別し、但馬守家も同じ源姓へ復してよいと考えつつ、口宣・系図・霊屋や石燈籠の銘を吟味し、源姓を命じられることに支障があるかは林家へ確認すべきだと述べる。
元文五年十二月十七日 / 冊子 22頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の14)
記録方の日高甚兵衛・吉田用右衛門・安藤佐平次と記録奉行の川上平右衛門が十二月十七日、前の吟味に添える引札を記す。忠興以来の但馬守家の口宣は藤原姓で、以久は叙任せず佐土原城を拝領したため口宣がなく、忠興の元和四年、久雄の慶安元年の叙任も本家の復姓より前であったと説明する。本家は寛永八年に源姓へ復し、但馬守家は引き続き藤原姓を用いたので、口宣を根拠に今改めて本家と同じ源姓を用いられるか吟味し、当座は現状に据え置く。萬壽丸の叙任の際には口宣に源姓を記してもらうよう願い、林家の問い合わせにもこの方針で答えるのがよいと結ぶ。
九月廿五日 / 冊子 372~373頁/原整理番号 129
寛永八年九月二十五日、紹嘉宅で紅葉を題に家久らが詠んだ和歌を集めたもの。家久の歌に続き、豊後守久賀、喜入紹嘉、新納久徳ら召された人々の歌を列記する。
寛永十七年九月二十二日か / 冊子 72~73頁/原整理番号 27
新城が伊勢兵部少輔へ、子の相模守久倍をめぐる寺領の話、寛永八年の屋敷侵入事件と家臣処分、相模守の不審な死の噂、孫の大和守久章の出奔、知行と菊千代丸の扶助を訴える。文中の寛永八年十月二十五日は屋敷侵入の年次であり、書状末尾は辰九月二十二日。
巻八/冊子 114~117頁
寛永八年、家久の大隅守任官と嫡子忠元の元服・光久改名、将軍による旧領安堵を記す。秀忠は家久を大隅守に任じ、忠元に松平氏と「光」の偏諱を与えて松平薩摩守光久とし、侍従・従四位下に叙した。弟たちも式部大輔・玄蕃頭に任じられ、父子兄弟は秀忠・家光から国綱・左文字・長光などの刀剣を拝領する。これに対する謝礼として、家久・光久・弟たちが将軍家・大御所および酒井・土井・永井・内藤ら幕閣へ贈った太刀・小袖・銀の明細を列記する。秀忠死去後の寛永十一年、島津家は薩摩・大隅・日向諸県郡・琉球諸島を合わせ七十三万二千余石とする領地目録を提出し、家光は旧朱印を改め、薩摩・大隅・諸県郡六十万五千石余と琉球十二万三千七百石の領有を認める朱印状を与えた。光久への代替わり準備と、幕府公認の島津領域・石高を示す記事である。
(寛永八年)正月八日 / 冊子 187~188頁
祈念の品として贈られた小袖一重を喜び、寒さの続く江戸で着用すると述べる。互いの無事や兄弟が懐かしがっていること、松千代からも文が届いたことを伝え、住まいの移転・整備らしき事柄にも触れた島津家久の仮名書状案。
寛永八年二月十日 / 冊子 188~189頁
命じられた意向を誠実に守り秘密を漏らさないこと、主家・領国に逆心する者が親子親類であっても同心せず報告することを誓った伊東祐昌の起請文。天罰霊社起請事として多数の仏神を勧請し、違背すれば子孫まで神罰を受けるとする。
(寛永八年)二月廿六日 / 冊子 190~191頁
曹洞宗法度に背く私意による出世を戒め、妙高庵の輪次職と色衣許可を説明する。福昌寺を三州の曹洞宗宗録とし、江湖興行・首座任命・本寺登山瑞世の手順を守らせ、違反僧には処罰を加えるよう求めた四庵主連署の書状案。
(寛永八年)二月 / 冊子 191頁
蔵人が下向した折に迎えたこと、ある人物が近ごろ体調を崩していること、自身は元気であることなどを伝え、相手を気遣った島津家久とみられる仮名書状案。
(寛永八年) / 冊子 191頁
ある役目を引き受ける件は少しも差し支えないので安心するよう伝え、上様の体調が良いことにも触れた島津家久の短い仮名書状案。
(寛永八年)三月七日 / 冊子 192頁
使者を迎え、ほどなく自分も下向して慰めたいと述べる。新造の娘たちの寂しさ、長い旅と老いへの心情を詠歌を交えて語り、幼い者たちを案じ、弾正や袋へも伝言した島津家久の仮名書状案。
(寛永八年)三月十日 / 冊子 192頁
改年の祝儀として遠路から使者を寄越したことを喜び、相手方が無事であることを重ねて祝い、自身も変わりなく過ごしているので安心するよう伝えた島津家久の書状。
(寛永八年)三月十七日 / 冊子 192頁
北郷讃岐守忠能が死去したとの早打ちの知らせに驚き、長く患っていたとの知らせもなかったため不慮の出来事であるとして、北郷出雲守の落胆を察し弔意を伝えた島津家久の書状。
(寛永八年)三月廿八日 / 冊子 193~194頁
北郷出雲守忠亮への使者となる両名に、家久の意向を伝えるよう命じた久元・貞昌の連署状。若年の忠亮による家督相続を認めつつ、忠能代の家臣殺害・追放や悪政を戒め、家老・役人の意見を聞き、悪行者を処罰して家を安定させるよう諭す手順を詳述する。
寛永八年三月廿八日 / 冊子 195~196頁
北郷忠亮に、聖賢の道を学び賞罰を明らかにして家を長く保つこと、北郷家が島津家にとって重要であることを説く。忠能代の悪行に加担した者の追放・処罰、死罪・知行没収時の鹿児島への報告、鹿児島屋敷への移住などを命じた家久袖判の条書写。
(寛永八年)三月廿八日 / 冊子 196~197頁
相手の体調がまだ十分でないことを案じ、検校に祈念を頼み、薬と併せて回復を祈る。又三郎・又十郎・越後守の任官が決まったこと、まもなく暇を得て帰国する見込みも伝えた島津家久の仮名書状案。
(寛永八年) / 冊子 197~198頁
四月に暇が出れば五月には帰国すると伝え、帰国後の犬追物に備えて犬を用意し、三十日ほど稽古させるよう求めた書状案。子どもたちは初めてなので馬の扱いが難しいとして、弾正にも準備を伝えるよう指示する。
(寛永八年)四月一日 / 冊子 199~200頁
従五位下源光久を侍従に任ずる旨を記した口宣案。上卿を西園寺中納言とし、蔵人左中弁藤原俊完が奉じた。
(寛永八年)四月一日 / 冊子 200頁
従五位下源光久を従四位下に叙する旨を記した口宣案。上卿を中院大納言とし、蔵人左中弁藤原俊完が奉じた。
(寛永八年)四月一日 / 冊子 200頁
従五位下薩摩守源朝臣光久を侍従に任ずるよう命じた明正天皇の宣旨。正二位行権大納言源朝臣通村が宣し、中原師生が奉じた。
(寛永八年)四月一日 / 冊子 200~201頁
源光久を従四位下に叙した位記。中務卿智忠親王の宣、小槻孝亮の奉行に続き、公家・官人を列記し、中原師生・藤原共綱らが制書を施行したことを記す。
(寛永八年)四月三日 / 冊子 202~203頁
光久の元服が前年から延期されていたが、大御所秀忠の内意により四月一日に江戸城本丸で実現したと報告する。光久が薩摩守・四位侍従、家久が大隅守、忠直が式部大輔、忠紀が玄蕃頭となり、刀剣を拝領した慶事を国元へ知らせた連署書状。
(寛永八年)四月三日 / 冊子 203~204頁
加治木大隅守と川上式部太夫について、家久の意向に従い旧名・官名を改めるよう求める。国中の飢饉に際して米価の高騰で民衆が苦しまないよう値段を抑え、命令に背いて高値で売る者を処罰する方針も伝えた。
(寛永八年)四月三日 / 冊子 204頁
むもしの病について占いを行い、霊魂の障りがあるとの結果を受けて祈念を申し付けたと伝える。毘沙門などへの祈りで再発しないよう願い、弾正にも詳しく伝えて安心するよう諭した仮名書状案。
(寛永八年)四月四日 / 冊子 204~205頁
母の病を聞いて驚いたが、すでに快復したことを喜び、家中の者も無事であると伝える。詳しいことは上方へ赴いた際に申し上げるとした家久の返書で、本文には寛永六年とする朱書注記がある。
(寛永八年)四月十一日 / 冊子 205~207頁
光久付きの駕籠舁・挟箱持の選定と上京、子どもや岩崎姫の健康、琉球関係の京都借銀、書籍の損傷、国境争論など多数の案件を報告・指示する。寺院住持の選定、遊行上人への対応、帖佐長右衛門夫妻の帰国奉公についても命じた連署書状。
(寛永八年)四月十六日 / 冊子 207頁
光久が江戸城で元服し、薩摩守と家光の偏諱を拝領したことを祝う。併せて島津家で代々用いる通字について「家」「久」のどちらと考えるべきか検討を求められ、別紙に所見を書き付けて送った崇伝の書状。
(寛永八年)四月廿八日 / 冊子 207~208頁
翌晩の伺候を求められたことに答え、養生に努めているが病状がまだはっきり回復していないため出席できず、伊勢兵部にも事情を伝えたと述べる。後日改めて召し寄せられた際に伺う意向を示した酒井忠行の書状。
(寛永八年)四月廿九日 / 冊子 208頁
きくもしの体調不良を案じ、油断せず祈念を続けるよう求め、母や妹にも伝えるよう頼む。むもしの健康を喜ぶ一方、家久自身も病んでいたが前日から少し良くなったと知らせた仮名書状。
(寛永八年)四月廿九日 / 冊子 208~209頁
先に相談された一件について最上土佐守へ申し入れたが確答がなく、康心へ善鏡坊を介して内談し、和解・合点に向けて調整するよう勧める。追而書では家久・光久兄弟と忠直・忠紀の受領・任官を祝し、祝儀の様子にも触れる。
寛永八年四月下旬 / 冊子 209~210頁
報恩・孝行を儒仏共通の教えとして説き、時宗開祖一遍の出自と修行、熊野での霊告を記す。遊行上人が家久の許可を得て薩摩・大隅・日向を巡行し、末寺・堂客殿・道路・橋を再興した功徳を後代へ伝えるため書き残した伝書。
(寛永八年)五月七日 / 冊子 210頁
せいゑもんから国元が無事と聞いて安心し、病気が流行しているので薬を怠らないよう勧める。母や家族へよろしく伝えるよう頼み、夏中にも暇を得て帰国したい意向を述べた仮名書状。
(寛永八年)五月八日 / 冊子 210~211頁
四月二十日付の書状が五月八日に届いたことを述べ、きくもしがたびたび訪ねていること、翌九日の振舞と十一日の能の後に暇が出る見込みを伝える。妹と又五郎の病気を案じ、近日中に詳しい知らせを送るとした仮名書状。
(寛永八年)五月八日 / 冊子 211頁
琉球人から進上させる品として、練芭蕉布百端、中華尺・大尺各五、竹心香五脚、香箱類百袋、珍しい貝鳥、伽羅、巻物、蘇鉄などを列記する。蘇鉄は大きな鉢に植え、日光へ献上し後代まで残るものとするよう求め、高麗由来の品も進上候補とした注文。
(寛永八年)五月九日 / 冊子 211~213頁
琉球・唐との取引奉行を務めた川上忠通と、航海中に公銀を救出した町田勘解由へ各知行百石を加増し、留守奥方に勤める東郷肥前守へ年米三十石を与えるよう伝える。父子で奉公する家々への扶持、上知行に伴う知行米半減の共通扱いも指示した伊勢貞昌の書状。
(寛永八年)五月十一日 / 冊子 213頁
庄内北郷氏について、年頭礼や公儀への連絡の遅延、祝儀使者の手配不足、内之浦の殿役未履行などを列挙する。公儀と領内を別扱いし、仁礼蔵人の妻の祈祷を頼む使者を善財坊へ取り次がなかった事例などを挙げ、北郷領の役人・統治慣行を問題視した覚書。