池田貞安覚書
年月日未詳 / 冊子 411頁
池田貞安が、黄門様が初めて山田城へ布陣した際の出来事を記す。安永の中霧島で伏兵に遭い、手回りの者が多数討死して人数不足となったため、森田の陣にいた池田も山田へ召し寄せられて奉公したという。
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年月日未詳 / 冊子 411頁
池田貞安が、黄門様が初めて山田城へ布陣した際の出来事を記す。安永の中霧島で伏兵に遭い、手回りの者が多数討死して人数不足となったため、森田の陣にいた池田も山田へ召し寄せられて奉公したという。
年月日未詳 / 冊子 242~243頁
伊地知四郎兵衛尉が江戸から差し下した条書。相国の機嫌、流行した咳気と薩州様の療養、暴風で破損した中屋敷・芝屋敷の修築、当年の出銀督促を伝える。また、又八郎への知行に伴う衣裳・賄いを公儀の負担としないよう談合を求め、鍋島殿に誂えた青貝道具の完成と信州の喜び、黄門様への重ねての礼を指示する。
(寛永八年)十二月十九日 / 冊子 253頁
江戸から国元への連絡覚書。上洛時の供衆は騎馬二十~三十騎ほどとし、追加の駄乗馬衆を後から召し寄せる準備を指示する。牧野内匠の照会に対し、江戸に詰める夫婦・父子の証人衆と知行高を書き上げた経緯、高力摂津守の所望品、薩州から黄門様・兄弟への年頭の樽と肴、美々津への船配置ができないこと、能の際に縁へ敷く幅広の毛氈の送付を伝える。
(寛永九年)八月十一日 / 冊子 302~303頁
島津久元・伊勢貞昌が、前日十日に西之御丸で豊嶋和部殿が小姓衆と争い三人が死亡した事件を報じた連署書状。城が取り囲まれ、黄門様が乗物を降りて徒歩で入城した状況を伝え、異常な事態を嘆いた。
(寛永九年)八月晦日 / 冊子 316~318頁
島津久元・伊勢貞昌が、琉球の冠船参候に伴う黄門様の座席・贈答、琉球銀子の取扱い、種子島殿への知行加増と軍役、茶入・藤堂殿関係の品、種子島への蔵入四千斛の処置などを指示した連署書状。
(寛永十一年)七月十九日 / 冊子 436~438頁
中西長門守秀長が児玉筑州へ、七月二十四日の京都出立予定を知らせ、借銀増加に伴う諸士知行の上地・再配当をめぐる自身の処遇について内々の取成しを求めた書状。上伊集院・鹿児島衆への配当、荒地・上地の扱い、北山村三百八十石や残余七百石余の知行、伊敷を宮之浦の御蔵入と交換して伊敷を拙子へ与える案などを挙げ、他方の下手同然となることへの不満と、公儀・黄門様への申開き、知行確保を訴える。
(寛永十四年)十二月十七日 / 冊子 713~714頁
上使衆の早打に託された先月二十三日付の御状が今月十一日夜に酒井讃岐守から兵部少へ届いたことを述べる。上使は十二日夜半に到着し、翌朝御奥で対面して雑煮の寄合と七五三の振舞を受け、黄門様の胸や手の様子を見た。北郷式部大輔と孫庵が相伴し、上使は引き留められたが十三日夜に出立した。先行して注進した者は海道で上使に追い越され、船で進んだ黒葛原周右衛門・松田七左衛門は五日前に到着したとし、一連の順調な到着を神仏の加護として祝う。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十七日付。
八月十一日 / 冊子 53頁
島津久元・喜入忠政・川上久國が、野田感応寺の重物である絵二軸の管理について連署した書状。黄門様の御覧後に旧寺へ返されたため、他所へ出さず厳重に保管するよう住持へ申し渡すことを執印丹波守に命じる。
七月廿九日 / 冊子 63頁
喜入忠政(のち忠続)が、薩州様の息災、黄門様の江戸在府、若君様の成長、美作守の快気を喜び、帖佐長右衛門尉に薩州様への取次を頼んだ書状。本文は「喜入摂津守忠政」署名、巻末目録は改名後の「喜入忠続」名で掲げており、同一人物の改名前後名として整理した。
十一月廿日 / 冊子 64頁
島津久慶が帖佐長右衛門尉に、薩州様・虎寿様への使者派遣と黄門様の上洛予定などを知らせた書状。肩衣・袴一具を添えて送り、国元の無事を伝えつつ、上洛や在旅中の取次・奉公について配慮を求める。
八月二日 / 冊子 67頁
島津久慶と島津久元が、八朔に献上する太刀・馬の先後争いについて連署した書状。玄蕃頭との席次・進上順を黄門様が先例に基づいて裁定すること、双方が証文を提出し、東郷肥前守を介して決着させることを伝える。
十月朔日 / 冊子 69頁
島津久慶が新納仲左衛門尉に、家譜へ記載するため過去の贈答・拝領記録を捜すよう頼んだ書状。関ヶ原後の伏見で黄門様が拝謁した際の進上・拝領物、惟新様病中の上使と拝領物、医者三官関係の書物などを詳しく調査して書き付けるよう求める。
七月十二日 / 冊子 78頁
島津久元が新納仲左衛門尉に、又八郎様から五月二十三日付の書状を受け取り、当地が無事であるとの知らせを喜んだ書状。黄門様が長く患い、とりわけ近頃は衰弱していて心配であること、詳しくは本田新右衛門尉が口上で伝えることを述べる。
十一月廿七日 / 冊子 162~163頁
伊勢貞昌が敷三十らに、茶の進上と隠岐守・志摩守の来訪が首尾よく済んだことを喜んだ書状。初雪に際して黄門様が詠んだ歌と、それに和した漢詩を書き送り、慰みとして披露する。
八月十四日 / 冊子 166頁
伊勢貞昌が座主に、遠方から使僧を通じて届いた初物の松茸五本への礼を述べた書状。黄門様の参詣が満足に終わったことを祝い、当地への参府を期待し、弘法大師八百年忌に関する詩序の清書を進献すると伝える。
寛永十四年十二月五日 / 冊子 704~706頁
「覚」として、幕府が十一月二十六日付の奉書により肥後・薩摩勢へ天草一揆の鎮圧を命じたことを受け、有馬方面で一揆が起きた際の即応、一万人のうち動員できる兵数、川尻に進出した肥後勢との歩調、薩摩勢用の船の準備を問い合わせる。天草平定後の早急な報告、一揆勢の首級を目付衆に見せるため捨てないことも指示する。さらに松平隠岐守の条書、松平伊豆守らへの兵粮・音信、渋谷知兵衛尉の派遣、天草一揆が長引き上洛延期となる場合の報告に言及する。吉利織部祐が署名し、使者を川越三右衛門尉とする。寛永十四年十二月五日付。
(寛永十四年)十二月十六日 / 冊子 710~713頁
家久の年寄衆からの返書と二通の御状を受け、黄門へ進上した書状や幕府側の命令内容を照合し、長島・獅子島への兵配置と天草への即時渡海を協議する。肥後勢が十二月三日に三角瀬戸へ到着し、翌日天草へ押し寄せるとの注進を踏まえ、薩摩勢が遅れないよう準備を急がせた。薩摩から首取千人・鉄炮衆千人・馬乗三騎を天草へ遣わすとの取沙汰、山田民部少輔・新納賀州・仁礼左将を獅子島番手とすること、船の手当、本文を流布しないことを記す。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十六日付。
(寛永九年)二月十三日 / 冊子 258頁
島津光久が、前年の黄門様からの知行拝領を祝って刀を進上したところ、その礼として遠境まで早々に使者が遣わされ、太刀一腰・馬代などを受けたことへ謝意を述べ、詳細は伊勢兵部少輔が申すとした書状。
(寛永十五年)二月三日 / 冊子 749~751頁
阿久根宿泊に際し、地頭衆の滞在で不自由が予想されるため、四郎左衛門を帰すか地頭衆を戻すか相談するよう指示し、出水までの宿泊・昼休みの割付を別紙で送る。黄門様の容体がこの三日軽快していること、薩州様の船が大雨で遅れていること、迎えの者を順次派遣したことを伝える。天草在番衆に油断なく警戒させ、富岡の状況を詳しく注進するよう求める。軍衆の祈念として六十六本の御神舞を行ったこと、兵粮を積めないため二千余人を召し戻す相談、天草番手を五、六千人とし江戸から三千人を遣わす案、百石につき三人の軍役を記す。さらに琉球船が米二百六十石・上布・焼酎などを積んで山川へ来たため、出水へ回航するよう岩切六右衛門へ指示した。川上久国・三原重庸の連署で、山田民部少輔・島津下野守宛。寛永十五年二月三日付。
正月廿六日 / 冊子 8頁/原整理番号 3-8
島津久賀・喜入忠政が川上左近将監へ、黄門様の気色がなお回復しないと聞き、近ごろは食事も取れないのではないかと深く案じて早打を出したため、しかるべく取り次ぐよう求めた連署書状。
正月廿七日 / 冊子 16~17頁/原整理番号 17
川上久国が島津久元らへ、黄門様は脈がやや和らいだものの、横になれず、物にもたれると息を引き、強い発作時には顔が畳につくほどで難儀していると詳報する。伊豆守が野州老・左衛門佐へ帰宅を命じたことを伝え、天草の騒動終結後の軍勢帰還と番手・大将の体制を協議するよう求める。琢庵の書状を届け、越中守・飛騨守・玄蕃・鍋島らの下向が確実か、他国の動向も聞いて報告するよう頼む書状。
正月廿八日 / 冊子 19頁/原整理番号 25-2
川上久国が三原重庸・山田有栄・島津久元へ、本田帯刀長親秋が黄門様の見舞いに来て、児玉筑後守を介して披露されたと報告する。黄門様は二十一日に痰血を出して危急の容体だったが、前日から少し楽になったこと、詳しくは本田が述べるため書状では省くことを伝える返書。
正月廿八日 / 冊子 20頁/原整理番号 28
川上久国の覚。伊豆守の命により島津久元と三原重庸を帰陣させる件について、到着時は黄門様が重体だったため久元の帰宅を東郷肥前守らと相談したが、前日から容体と脈がやや回復したので、誰を陣に残すかは現地で協議し一人を帰すよう求める。仁礼主計助が下向した際の条書に関連し、獅子島へ出した人数を途中で引き取ったことに薩州様が今も強く怒っていると伝え、諸将の帰宅や後立人数の帰陣は慎重に協議すべきだとする。江戸では自国の加勢が目立つことを期待されており、他者の働きかけで不首尾に見えることを懸念している。
正月廿八日 / 冊子 20~21頁/原整理番号 29
川上久国が島津久賀ら四名へ、二十四日付書状を受け取ったと応じる。黄門様は二十一日以来ひどく重かったが前日から少し楽になり、なお非常に疲れているものの琢庵の薬がよく合っていると報告する。黄門様から松平主税助・伊東大和守へ出した書状を稲留軍介が受け取らなかったという件は出水へ照会するよう求める。兵糧不足には、出水・川内にいる八左衛門ら四名へ申し付けるよう指示し、依頼された紙も送る書状。
正月廿八日 / 冊子 21頁/原整理番号 30
川上久国が市来八左衛門尉宗友へ、岩切六右衛門・川上彦左衛門にも心得て軍勢を徴するよう急ぎ伝える。後立の三千人が当地に滞留しているため、帰陣について三老と十分相談し、陣へ向かう本田帯刀長にも伝えるよう求める。軍衆への兵糧支給を確認させ、天草から兵糧が来ないとの報告や、粗末な楯板を早く送る件を扱い、遅延すれば伊豆守が立腹すると警告する。富岡の松平主税助・伊東大和守宛て書状が未達のため調査を命じ、黄門様は二十一日から重かったが前日から少し楽になったものの疲労は甚だしいと報告する。本田を早く有馬へ送り、天草への使者に応じて届けを出すよう指示する書状。
正月廿八日 / 冊子 22頁/原整理番号 32
川上久国が島津久元・山田有栄へ、黄門様の機嫌を見舞うため使者を差し上げた件は、東郷肥前守を介して披露したと報告する。遠方から様子を尋ねたことに黄門様が満足したと伝え、詳しくは追って知らせるとする書状。
正月廿八日 / 冊子 22~23頁/原整理番号 35
川上久国が島津久元・山田有栄らへ、二十六日付書状と現地の様子を記した条書を受け取ったと応じる。馬場三郎左衛門尉から薩州様が下向すると聞いたことを黄門様も喜んでおり、変化があれば知らせるよう求める。黄門様の病状は大きく変わらず、前日は食事を残し、夜に二度痰が上がったが、薬・粥・茶・焼飯を少量取ると治まり、今朝は疲れた様子だと詳報する。三原重庸が帰宅するとの知らせについて、現地事情を詳しく聞かせるよう求める書状。
正月廿九日 / 冊子 24~25頁/原整理番号 39-2
三原重庸・川上久国が島津久元・山田有栄らへ、重庸が八ツ時分に帰宅し、松平信綱から託された黄門様の病気・養生への見舞いを児玉利昌を介して申し上げたところ、黄門様が大いに満足したと報じる。黄門様は日増しに衰え、喉の内外が腫れて狭まり、胸痛と摂食困難があり、前日の三度の膳も半分ほどしか取れず、服薬も進まないという。薩州様の下向は確実で、大坂からも急ぎ到着するとの知らせがあり、日向筋の出迎えを命じる一方、小倉方面を通る場合にも備えるよう求める。また薩州様が陣へ直着すれば乗馬・供衆が追いつかないため、現地の者が支度して迎えるのがよいとする書状。
正月廿九日 / 冊子 25頁/原整理番号 39-3
三原重庸・川上久国が天草の北郷久加・上入来院重国・喜入忠政・島津久賀へ、江戸にいる園田清左衛門尉を早々に出立させるよう児玉利昌を介して命令が出たため、急いで帰国するよう命じることを求める。薩州様は大坂から下向し近日到着する見込みだが、黄門様は二十一日以来食事が取れず日々衰弱していると知らせる。現地の番手人数を問い、狼藉がないよう十分に相談するよう求める書状。
正月廿九日 / 冊子 34頁/原整理番号 48
正月二十九日、川上久国・三原重庸が天草の北郷佐渡守・入来院石見守・喜入摂津守・豊後守へ送った連署書状。児玉筑後守を介して、江戸にいる園田清左衛門尉を早々に出立させるよう命令が出たため、急ぎ帰らせるよう指示する。薩州様が大坂から下向し日中に到着する見込みを伝える一方、黄門様は先日以来食事が進まず衰弱しているが、やがて快気するだろうとして続報を約す。宛所側に何程の番手が命じられたかを問い、狼藉がないよう談合することを求める。豊後守宛ては「次飛脚」と注記する。
正月廿九日 / 冊子 35~36頁/原整理番号 51
正月二十九日、川上久国・三原重庸が野州様と山田民部少の人々へ送った連署書状。左衛門佐が八つ時頃に帰宅したこと、黄門様の養生方針を伊豆守から聞き児玉筑後守を介して申し上げたところ満足されたことを報告する。一方、黄門様は日ごとに衰弱し、喉の内外が腫れて狭くなり、胸痛があり、膳は半分ほど、茶も一日一服を取れない状態だとして深く懸念し、変化があれば知らせるとする。さらに薩州様の下向が確実で、大坂から急ぎ到着するとの書状が来たため、日向筋へ迎えを命じ、小倉方面へ下向する可能性にも備えて情報収集を求める。野州様宛ての諸書状も送付し、乗馬の供が追いつかない場合に備えて当地衆を整え、迎えに出ることを提案する。
正月卅日 / 冊子 43~45頁/原整理番号 64
川上久国・三原重庸が伊勢兵部少輔に、薩州様が去る二十三日に大坂へ着き、その晩に出船するとの報せを喜ぶ。黄門様は気色が軽くなり、御正木を寄せて腰を掛け、旗・馬験などを見て納戸衆も驚嘆するほど回復し、御殿も東之丸に定められたと伝える。両名は途中まで伺候を申し出たが、陣の準備を整えるよう命じられたため実現しなかったとして、以上の披露を頼む。
二月二日 / 冊子 55頁/原整理番号 81
川上久国・三原重庸が仁礼蔵人頼景へ、薩州様着船の知らせを尋ねる。三日続きの大雨で日州に洪水が起きることを懸念し、渡船への注意を求めるとともに、黄門様の病状が軽くなり、薩州様の到着でさらに快復することを願う。
二月二日 / 冊子 55頁/原整理番号 82
川上久国・三原重庸が伊勢兵部少輔貞昌へ、薩州様の船は細島へ着く頃と思うが、三日間の大雨で日州の川が洪水になることを案じ、早い到着を待つと伝える。黄門様はこの三日ほど病状が軽く、脈も和らぎ食事も平常どおりと琢庵が述べたことを報じる。追而書では、出陣に伴う供衆・道具の手配等を申し添える。
二月二日 / 冊子 55~56頁/原整理番号 83
川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、鬼塚源太左衛門を介した去る二十九日付書状の内容を了承し、黄門様の病状が軽くなったことを報じる。薩州様の到着遅延と大雨による日州洪水を案じ、出陣の供衆・道具、天草渡海、兵糧、馬、石火矢事故、黒田勢の出陣、永井監物の披露状について連絡する。
二月二日 / 冊子 56~57頁/原整理番号 84
川上久国・三原重庸が米之津の市来八左衛門宗友へ、有馬から届いた文箱を同地へ送り返すこと、黄門様の快方、薩州様の着船遅延を伝える。薩州様出陣に備えて外城衆を長島に待機させ、供衆・船・兵糧・台所調物を川上彦左衛門、岩切六右衛門、松山六兵衛らと調整するよう指示する。
寛永十五年二月三日 / 冊子 58~60頁/原整理番号 88
川上久国・三原重庸が山田有栄・島津久元へ、黄門様の快方と薩州様の着船遅延を報じる。天草番手・兵糧の措置、富岡で没収された物資の扱い、百石につき三人の軍役、鍋島・飛騨守からの書状、山川から来た琉球船の米二百六十石・上布・焼酎を出水へ回す手配を伝える。追而書では阿久根の宿泊・休息割を指示する。
二月三日 / 冊子 60~61頁/原整理番号 90
川上久国・三原重庸が米津の市来八左衛門宗友へ、黄門様の快方と薩州様の着船遅延を報じる。出水へ向かう道筋は祁答院筋より宿泊・休息所を確保しやすい川内筋がよいとの相談、道・宿・船・兵糧・台所の準備、御供衆が一万四、五千人ほどになる場合の米の確保について協議を求める。
二月四日 / 冊子 63~64頁/原整理番号 98
川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、天草への兵糧輸送が船不足で滞ること、薩州様の渡海と参陣判断、陣屋道具の搬入を伝える。長期在陣者の帰陣、とくに病身の山田有栄について幕府上使に伺った経過、黄門様の咳と食事不振、薩州様の細島未入津、獅子島渡海後に松平伊豆守へ参陣の要否を尋ねる手順を報じる。
二月四日 / 冊子 64~65頁/原整理番号 99
川上久国・三原重庸が島津久賀・喜入忠政へ、鬼塚源太左衛門の上津浦到着と条書への返答を受けたこと、黄門様の病状、薩州様の細島未着を報じる。有馬渡海衆の扱い、天草番手の必要人数確定後の余員帰陣、米之津へ向かう兵糧米七百石の船が未着であるため出水からも順次送ることを回答する。
二月四日 / 冊子 66頁/原整理番号 102
川上久国・三原重庸が伊勢兵部少輔貞昌へ、阿久根での宿泊に備えて地頭・衆の退去を相談するよう追伸し、出水までの昼休み予定を別紙で送る。本状では薩州様の着船を案じ、黄門様の咳・脈・食事不振と日増しの衰弱を報告する。
二月四日 / 冊子 67頁/原整理番号 106
川上久国・三原重庸が伊勢兵部少輔貞昌へ、黄門様から薩州様への書状を持たせるので披露するよう求める。黄門様は気色が軽く食事も進み、薩州様の下向を喜んで到着を待っていると報じる。
二月五日 / 冊子 75頁/原整理番号 119
川上久国・三原重庸が伊勢貞昌の御道具衆二人へ、黄門様から薩州様宛の書状を持たせるので披露するよう頼む。有馬から、松平伊豆守信綱が薩州様の出陣は不要と命じたとの報告があり、有馬からの書状も次飛脚に持たせたと伝える。
二月五日 / 冊子 76~77頁/原整理番号 123
川上久国・三原重庸が島津久元へ、去る四日付書状への返答を多条で伝える。薩州様の有馬行きと陣場は不要で、渡海しても天草見廻りと黄門様の看病を優先すること、天候・着船・宿所の手配、黄門様の病状改善、上使衆が松平信綱の前で敵城絵図や仕寄の様子を示した件などを報告・照会する。
二月五日 / 冊子 77頁/原整理番号 124
川上久国・三原重庸が市来宗友へ、昨日の書状への返答として、有馬文箱の受領、薩州様の有馬渡海不要、日向への連絡、在陣・帰還衆の書立と後続衆の出発見合わせを伝える。兵糧配分、琉球米船五艘のうち三艘を山川から回す手配、船着・宿所、黄門様の病状改善、薩州様未着も報告し、文箱を有馬へ届けるよう追伸する。
二月五日 / 冊子 79頁/原整理番号 127
川上久国・三原重庸が伊勢貞昌へ、黄門様はこの十日ほどで最も気色が軽く、食事・脈も良いと医者衆が述べ、薩州様下向の知らせで心持ちも改善したと報告する。有馬表に変化はなく、同地から届いた書状を一覧のため添送する。
二月五日 / 冊子 79頁/原整理番号 128
三原重庸・川上久国が三原次郎左衛門尉・猿渡加左衛門尉へ、去る四日付の有馬書状が届き、松平信綱から島津久元へ薩州様の有馬行きは不要と伝えられたため写しを送ると知らせる。黄門様は食事・脈ともこの十日ほどで最も良いと医者衆が述べたとして、適宜披露を求める。
二月六日 / 冊子 82頁/原整理番号 135
川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、上之関の伊勢貞昌から薩州様が当地へ直接下るとの急報が届いたと知らせる。日向路を前提とした準備を急に変更し、道具は後送すると述べ、黄門様は三日来食事が進み脈も穏やかであるとの琢庵の診立ても報告する。
二月六日 / 冊子 83頁/原整理番号 136
川上久国・三原重庸が伊勢貞昌へ、薩州様の帰国を知った黄門様が喜び、食事量・脈とも改善したとの琢庵の診立てを伝える。追伸では、日向路へ迎えに出た役人が急な進路変更で戻らず、貞昌方への参着が遅れることを案じる。
二月七日 / 冊子 90~91頁/原整理番号 149
川上久国・三原重庸が伊勢貞昌へ、東郷肥前守を通じた黄門様の意向として、薩州様の有馬直行はもっともである一方、松平信綱の従前の指示どおり在陣は不要で軍法に従うべきことを伝える。黄門様の病状は二十五日以来やや軽快し食事も取るが、咳で横臥しにくいとも報じる。