島津忠恒家久害状
(慶長二年)二月十一日 / 冊子 77~79頁
島津忠恒が武庫に、使者を釜山浦へ送ったこと、対馬・釜山間の船の動き、兵糧や武器の輸送、航路上の支障を詳しく報告した書状。渡海人数と船の確保、現地からの指図を待つ状況も伝える。
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(慶長二年)二月十一日 / 冊子 77~79頁
島津忠恒が武庫に、使者を釜山浦へ送ったこと、対馬・釜山間の船の動き、兵糧や武器の輸送、航路上の支障を詳しく報告した書状。渡海人数と船の確保、現地からの指図を待つ状況も伝える。
慶長三年十一月十日 / 冊子 274頁
『征韓録』の記事。十一月十日を、順天の諸将が先に釜山浦へ到着して撤収する期日とし、その間に物資を運送し、あらかじめ引き揚げ時の規定を定めたと記す。
年月日未詳 / 冊子 285頁
『島津家久譜』の記事。釜山浦の諸将が吉日を選んで一斉に帰朝する約束を結んだ後、島津義弘・忠恒父子は救出した将兵とともに十一月廿一日夜半に巨済を発し、昌原・安骨浦・加徳島を経て釜山へ向かったとする。到着すると諸将は約束を破ってすでに帰国しており、明・朝鮮の大船団を恐れず待っていた島津豊久だけが父子を迎えた。父子は廿四日に釜山浦を出帆した。
年月日未詳 / 冊子 514~517頁/原整理番号 327-1
佐多久英の覚書。豊臣秀吉の朝鮮出兵に際する島津家の軍役、龍伯・惟新らの動き、出兵の準備や褒賞に関する経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 527頁
島津義弘が文禄元年三月二十七日に栗野を発ち、肥前名護屋へ到着したのち、四月十二日に諸将と名護屋を出船し、五月三日に朝鮮慶尚道の釜山浦岸へ着いた経過を記す。領国出発から渡海までの日付と経路を追える、文禄の役初動の記事。
年月日未詳 / 冊子 529~530頁
島津忠辰が秀吉の厳命で朝鮮へ渡海した後、釜山浦で病を得て軍務に就けず、密かに帰帆しようとして暴風で漂流した経緯を記す。帰国を断念して朝鮮へ戻ったものの、病状が悪化し、八月二十七日に異国の島で四十一歳で死去したという忠辰最期の記事。
年月日未詳 / 冊子 533頁
新納旅庵長住が島津義弘・久保父子に従い、二月十二日に栗野を発って肥前名護屋へ着き、壱岐・対馬を経て五月朔日に釜山浦へ上陸した行程を記す。その後、朝鮮国内を進んで江原道金化城に至り越年しており、島津勢の渡海・進軍経路を日付とともに追える。
年月日未詳 / 冊子 540頁
秀吉の朝鮮出兵に伴い、日本軍が肥前名護屋から壱岐・対馬を経て朝鮮へ渡る航路、港間の距離、船団・軍勢の規模を記した日記。釜山浦への上陸までの行程と、加藤清正・小西行長・島津義弘ら諸将の配置を列挙し、渡海作戦の全体像を示す。
年月日未詳 / 冊子 554~555頁
四月二十八日に日本軍船団が順風を得て釜山浦へ渡り、上陸後に釜山城・東萊城を攻略した経過を詳述する義弘譜の記事。 鉄砲射撃、秘密の進路を使った包囲、守備兵との激戦を経て、小西行長らが忠州方面へ進撃するまでを描き、侵攻初期の戦術と損害が分かる。
年月日未詳 / 冊子 563~564頁
文禄元年五月、秀吉が肥前名護屋へ下向した後、島津義久も鹿児島を発ち、伊集院・串木野を経て移動した日程を記す。十八日には朝鮮から串木野へ帰着した船が、義弘・久保父子が無事に釜山浦へ到着したと報告した。その後も船の帰着・出航、風向、寄港、乗員や荷物の動きを日ごとに追い、国元と朝鮮戦線を結ぶ海上交通と情報伝達を具体的に伝える。
(文禄元年)11月朔日 / 冊子 611頁
黒田孝高が島津義弘へ、久しく連絡していなかったことを断り、自身の渡海後の移動と、釜山浦で数日滞留した事情を報告する。 軍勢の到着が遅れ、思うように進めず、国元の者が京都へ遅参して外聞・面目を失うとの懸念にも触れる。黒田勢の渡海・集結が計画どおり進まなかったことを伝える近況書状である。
(文禄2年)3月16日 / 冊子 678頁
公儀の使者である山城小才次・美濃部四郎三郎が釜山浦まで来ており、東方の各所を確認してから義弘方へ向かう予定だと知らせる。現地衆が番替で帰朝するため、使者はまず脇坂の陣所へ来て指示を伝えるという。 向かい風のため到着が遅れ、夜船か翌日になる見込みを報告した、使者の移動予定と海上交通事情が分かる書状。
年月日未詳 / 冊子 684~685頁
明使沈惟敬の開城到着を受け、日本軍の釜山浦退却、朝鮮領の割譲、明皇女との婚姻、王子・重臣の人質などを含む講和条件を諸将が評議した経緯を詳述する。 兵粮不足から撤兵を唱える意見に対し、島津義弘は占領地を捨てれば明軍に追撃される危険があるとして強く反対し、釜山浦への段階的退却と警戒を主張した。文禄の役の講和交渉と日本軍内部の対立を伝える重要記事。
年月日未詳 / 冊子 686~687頁
王城から釜山浦へ退く講和局面で、島津義弘が大友吉統らの性急な撤兵を批判し、武門の名誉と占領地維持を重視して徹底抗戦も辞さない姿勢を示したことを記す。 一方で兵粮欠乏と諸将の撤退により釜山浦へ移り、明使沈惟敬との交渉に備えて加藤清正らと守備を固めたという。義弘の戦略観と秀吉への忠節を顕彰する長文の家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 687頁
文禄二年初夏、沈惟敬の講和提案に三奉行が同意したため、島津義弘・久保父子が金化から釜山浦へ退いたことを記す。 同年七月、秀吉の命で義弘が巨済城へ移ると北郷三久も従い、その後三年間にわたって同城の警衛を務めたという、三久の朝鮮在陣経歴を伝える家譜記事。
(文禄2年)5月24日 / 冊子 698~699頁
釜山浦・加徳島・東莱・竹島などに蓄えた城米が古米にならないよう、各隊の手前兵粮と入れ替え、元の員数を正確に積み置くよう命じる。 福島正則・毛利高政を奉行として派遣し、各軍の人数に応じて城米を割り振り直させた、朝鮮在陣地の大規模な備蓄更新を指示する朱印状。
文禄2年8月22日 / 冊子 724頁
名護屋から秀吉朱印が届いたので内容を確認した後に返送し、兵糧米や諸道具を受け取る奉行人を急いで釜山浦へ派遣するよう命じる。 大谷吉継・石田三成が島津義弘・豊久ら四将へ連署で伝えた、朱印の回覧と補給物資受領の実務指示。
年月日未詳 / 冊子 756頁
島津義弘が、釜山浦へ番船百余艘が押し寄せて鉄砲戦となり、さらに島付近に数百艘が集まっているとの報告を伝える。大軍の来襲を警戒し、日本勢の撤収や防備を急ぐ状況を説明する。 忠恒には迎船を送るまで不用意に渡海せず、国元で普請を整えて待つよう厳命した追而書。
文禄3年6月1日 / 冊子 786頁
寺沢正成が、先に朱印で手配された石火矢と玉薬が夜前に釜山浦へ到着したと知らせる。受領書を持たせ、直ちに受け取るよう義弘方へ求める。 朝鮮在陣中の火器・弾薬輸送と受領手続を具体的に示す短い兵站書状。
文禄3年8月19日 / 冊子 807頁
増田長盛は、義弘方の城米を受け取る奉行を派遣し、船で三百八十石を送るので受領書を出すよう求める。勘定は後日精算するとし、義弘方の蔵米が用意できていないため、以後は八木を船で送らないと通知する。 釜山浦で受け取って保管している米は自方の蔵へ入れ、順次取り寄せるよう指示する。朝鮮在陣中の米輸送・受領・算用の手順が具体的に分かる兵站文書。
文禄3年10月2日 / 冊子 812頁
島津義弘家臣の帖佐彦左衛門尉が、釜山浦で城米四百五十四石四斗五升四合を受け取ったことを証明する請取状。 受領場所・米の数量・受取人が明記されており、朝鮮在陣中の島津軍へ供給された兵糧米の規模と受領実務を具体的に確認できる。
文禄3年10月3日 / 冊子 813頁
義弘は、忠恒がすでに渡海したとの情報を確かめつつ、九月二十九日以来、唐島周辺に敵の番船が出続けているため、現地へ直接渡るのは危険だと警告する。 まず釜山浦へ着船し、そこから段階的に航路の情報を聞き合わせ、安全を確認して唐島へ向かうよう命じる。父義弘が忠恒の初渡海に際し、敵船を避ける具体的な航路を指示した書状。
文禄3年10月5日 / 冊子 813頁
義弘は忠恒が名護屋へ到着したと聞いて迎船と使者白浜七介を送ったが、すでに対馬へ渡ったとの風聞を得て強く心配する。九月二十九日以来、敵の番船が各陣の港へ毎日侵入し、火矢などで襲撃しているため、単独で唐島へ直航してはならないと戒める。 釜山浦で敵情を確かめ、諸船団と連携して安全な時機に進むよう繰り返し指示する。忠恒の渡海をめぐる父義弘の焦りと、海上警戒の切迫感が伝わる長文書状。
文禄3年10月9日 / 冊子 818~819頁
義弘は敵の番船によって日本船の出入りと唐島への航路が遮断され、多数の船が釜山浦などで足止めされている状況を詳報する。陣中の古米を新米に替えることもできず、兵糧が尽きれば在陣継続が困難になるため、国元から年内に米と船を確実に送るよう強く求める。 又八郎忠恒の渡海、国元検地、義久・幸侃らの対応にも触れ、連絡不足と準備の遅れを厳しく戒める。海上封鎖が島津軍の兵站と家中統制を同時に圧迫したことを示す長文書状。
年月日未詳 / 冊子 820~821頁
忠恒は十月十四日に壱岐勝本を出帆し、強風を受けながら対馬府中へ到着して池田紀伊介の宿に入った。二十六日に対馬皇浦を発ち、同日夜に釜山浦へ着くと、翌日には白浜次郎五郎らを早舟で唐島へ送り、到着を義弘側へ報告した。 二十八日には唐島から樺山権左衛門・喜入摂津守らが迎えに来た。忠恒の朝鮮渡海を日付・風向・宿泊地・使者・迎船まで詳しく記す航海記事。
年月日未詳 / 冊子 823頁
北郷宗次郎は十月二十九日、唐島から釜山浦に着き、辰刻に方浦を経て金海川口へ至った。降雪と強風のため船を追ったが乗員数を把握できず、巨済岸に帰着した経過を記す。 加徳島の水主らを船内で捕え、船上の綱などを接収したという。冬の朝鮮沿岸における船舶追跡と捕縛の実情が分かる。
文禄3年12月20日 / 冊子 830頁
豊臣秀吉は島津義弘に、長期の在番と普請をねぎらい、寒中の養生と健康維持を命じる。軍勢のうち、大人数の隊は三分の一、小人数の隊は半分を陣に残し、国元の人員と交代させるよう指示した。 春には早く船と兵糧米を渡海させ、釜山浦・山中・浅茅野の配置を正すよう求める。朝鮮在陣軍の交代比率と春の補給計画を具体的に示す重要な朱印状。
年月日未詳 / 冊子 865頁
明の神宗が豊臣秀吉を日本国王に封じるため、国王印・冠服・冊封詔書を用意し、李宗城を正使、楊方亨を副使として日本へ派遣した経緯を記す。沈惟敬も同行した。 使節は日本軍が釜山浦など朝鮮諸城から撤兵するのを待って進む計画だった。文禄・慶長の役における講和交渉と冊封使節の構想を伝える重要記事。
文禄4年3月18日 / 冊子 870~871頁
城の兵糧として米二千石を博多で渡し、山中山城守・石川紀伊守が受け取って蔵へ納めるよう命じる。船頭の飯米は百石につき四石と定める。 釜山浦の貯蔵兵糧も各城へ配分し、寺沢志摩守の指示で蔵へ保管すること、非常時以外の流用を禁じる。朝鮮在陣軍の兵站管理を数量と担当者まで示す重要命令。
(慶長元年)七月二日 / 冊子 30頁
浅野平右衛門尉長吉が羽柴薩摩侍従方へ、釜山浦の城米は自ら渡す予定だったが、志戸守へ用務を命じたため代理一人を遣わすので、奉行を定めて確実に受け取るよう求めた。官人の道具を載せて日本へ戻る船を急がせ、増田右衛門尉・早川主馬頭の使者を唐へ渡すよう手配することも伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 85~87頁
豊臣秀吉が高麗再度の陣立として、先手・備ごとに加藤清正、小西行長、黒田長政、島津義弘ら諸将と人数を割り当てた文書。総勢を組ごとに集計し、釜山浦周辺の諸城に置く守備人数と担当武将も定める。
七月廿六日 / 冊子 121頁
小西行長・寺沢正成が島津又八郎に、在陣衆へ伝えるべき内容の朱印状が下されたので、書状到着次第、早々に釜山浦へ出向き、諸将と相談するよう求めた連署状。
正月十五日 / 冊子 187頁
島津義弘が加藤主計頭へ、明軍約二十万が攻め寄せ、小早川勢が正月六日に敗れて黒田甲斐守の陣所まで退いたとの報を伝えた書状。義弘は奥陣の「つなぎ」として当地に置かれているため動きにくいと述べ、在朝鮮軍が急に引き取る事態を憂慮する。加藤側が退陣を考えているのか、蔚山方面から釜山浦へ通じる直道を使うのかなど、具体的な撤退方針を尋ねる。
(慶長三年)八月七日 / 冊子 227頁
寺沢正成(広高)が島津忠恒に、豊臣秀吉は重い病にかかったが快気し、諸将の不安を解くため朱印を発したと伝えた書状。朱印を携えた使者が申刻に釜山浦へ到着したので直ちに送ること、上方からの使者を城に留めているため、請取状を整えてこの使者に渡すことを求める。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 230頁
豊臣政権が「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。加藤主計頭・小西摂津守・島津兵庫頭・黒田甲斐守らを複数組に編成し、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くこと、在番外の一部諸将は帰朝して御目見することを命じる。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 231頁
豊臣秀吉が、「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。小西摂津守・島津兵庫頭の組、加藤主計頭らの組、黒田甲斐守・鍋島加賀守の組を置き、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くことを命じる。
八月廿五日 / 冊子 232~233頁
豊臣氏奉行衆が連署した朝鮮撤収に関する覚書。朝鮮王子が来れば諸城を残らず引き払い、調物で決着して朝鮮官人を対馬まで渡す場合も撤収すること、官人の来航が実現しない場合は釜山浦一城を当面残すことを定める。その他の未決事項は、交渉担当者の判断で処理するとする。
年月日未詳 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、順天・泗川方面の瀬戸口で行われた水戦と帰陣を記す記録。兵船を揃えた翌朝に明の兵船が攻めかかり、双方で多数の船を焼失した。樺山權左衛門らが島へ追い上げられたものの、潮時を得て釜山浦へ退き、日本帰陣のため諸手が合流した。島津の船団は全軍の殿を務めたとする。
(慶長三年)十一月三日 / 冊子 272頁
毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・前田利家・徳川家康の五大老が(慶長三年)十一月三日付で島津義弘・忠恒へ出した連署状。泗川で明軍二十万騎と江南大将九人を相手に大勝し、晋州河際まで追撃した父子と家中の働きを比類ないと称賛する。蔚山・順天の敵も敗退する見込みとし、敵が撤退した場合は諸将で協議して各城から釜山浦へ引き取り、そこから帰朝するよう命じる。
(慶長三年)十一月三日 / 冊子 273頁
長束正家・増田長盛・前田玄以ら奉行衆が(慶長三年)十一月三日付で島津義弘・忠恒へ出した連署状。泗川で明軍約二十万騎を追い崩し、父子自身も敵を討ち取った戦功を詳しく称える。蔚山・順天の戦況を踏まえて、毛利秀元・浅野長政・石田三成、四国・豊後勢、九鬼・脇坂ら舟手や鉄砲衆の渡海準備を伝え、敵が退けば諸城を釜山浦へ集約して帰朝するよう改めて命じる。
年月日未詳 / 冊子 279頁
『島津義弘譜』の記事。慶長三年、日本から渡海した上使の徳永法印式部卿・宮木長次郎が、在陣諸将へ十一月十五日を期限として一斉に帰帆するよう命じた経緯を記す。ところが順天城の小西行長らは明・朝鮮の大軍に海陸から包囲されて退去できず、和議を結び、人質を行長に渡させたことで、諸将とともに順天を離れて釜山浦へ退いたとする。
年月日未詳 / 冊子 281~282頁
『島津家久譜』の記事。十一月十八日の海戦後、乗船を焼かれて南海島に取り残された騎歩約五百人の救出経緯を記す。伊勢貞昌らが島津義弘・忠恒父子へ急報し、樺山忠征・島津久高・吉田大蔵・竹内兵部らが、生死をともにする覚悟で釜山浦へ救船を求めた。寺沢正成の提案を受け、小西・松浦・大村各氏が船を出し、敵中に孤立した将兵を収容した功労を称える。
年月日未詳 / 冊子 293~295頁
島津義弘譜が、講和後の朝鮮撤収時に起きた露梁海戦を記す。順天城の小西行長を救出するため義弘らが水軍を進めると、陳璘・鄧子龍・李舜臣らの明・朝鮮水軍が多数の艦船で攻撃し、砲火と接舷戦が続いた。島津勢をはじめ日本側に多数の戦死者・沈没船を出す一方、敵将も戦死し、義弘らは包囲を突破して小西勢の撤退を助け、釜山浦・牧島方面へ帰着した経過と家臣の戦功・損害を列記する。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
樺山久高譜が朝鮮撤収時の救援行動を記す。退陣期限が示された後、小西行長が順天で包囲され、義弘の救援船団も激戦に入った。島に残された五百余人を救うには釜山へ援船を求める者が必要だとして、久高は吉田大蔵少輔・竹内兵部少輔らと小舟で包囲を抜け、夜間に釜山へ到達する。援船を導いて残留者を収容し、自身らも無事釜山浦へ帰着して、その経過を義弘・忠恒へ報告したとする。
(慶長三年)十一月廿五日 / 冊子 297~298頁
豊臣政権の五大老が九州諸将へ、朝鮮に明軍と番船が現れたため藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣していれば現地の船手衆が相談して応戦し、報告に応じ九州に待機させた船手・兵員を急派するとする。敵が退散した場合は徳永寿昌・宮木長次への先命どおり諸城を引き払い、釜山浦へ集結して帰朝し、全般を藤堂の指図に従うよう命じる。
(慶長三年)十一月廿五日 / 冊子 298頁
豊臣政権の五大老が島津義弘・忠恒へ、明軍と番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したと伝える。敵がなお在陣する場合は在番の船手衆と相談して応戦し、島津側の報告により九州待機の船手・兵員を差し向けるとする。敵が退散した場合は諸城を早急に釜山浦へ引き取り、藤堂の指示に従って帰朝するよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 298頁
豊臣氏奉行衆が伊東民部大輔・相良宮内大輔・高橋九郎・秋月三郎・島津又七郎(島津豊久)の九州諸将へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したことを通知した連署状。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、退散後は諸城を釜山浦へ集めて帰朝し、藤堂の指揮に従うよう命じる。
〔慶長三年〕十一月廿五日 / 冊子 299頁
豊臣氏奉行衆が九州諸将の陣所へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、報告に応じ九州から船手・兵員を送るとし、退散後は諸城を釜山浦へ引き取って帰朝するよう命じる。No.595と同じ撤収方針を、島津忠豊ら九州諸将へ伝えた文書である。
年月日未詳 / 冊子 302頁
島津豊久譜が、日本軍に帰朝命令が下ったのを受け、慶長三年十二月に釜山浦を出帆した経過を記す。海路無事に筑前へ着いたところで豊臣秀吉の訃報を聞き、涙して喪に服した。その後ふたたび出帆して伏見へ上り、同地で越年した。
年月日未詳 / 冊子 302~303頁
島津忠長譜が、慶長三年十二月上旬に釜山浦から博多へ帰着し、帰朝軍勢の到着を待った経過を記す。義弘・忠恒は石田三成から豊臣秀吉の訃報を聞いて一座とともに哀悼し、朝鮮での戦功を称賛された。義弘が軍忠は忠長の働きによると述べると、浅野長政も忠長の手を取って異国での名誉を賞した。忠長は義弘父子に従い十二月廿七日に大坂へ着き、伏見で龍伯らと会した席でも諸士の中で戦功を称えられ、吉道の宝刀を賜った。