黒書院御礼後の嘉祥出仕の要否を伺う
天明六年六月十二日 / 冊子 861頁/原整理番号 2378/整理ID 2378
重豪は、黒書院での御礼を命じられたことに伴い、嘉祥の日に出仕すべきか伺う。牧野貞長へ留守居渋谷五郎右衛門が提出し、嘉祥の節には登城不要との付札回答を受けた。
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天明六年六月十二日 / 冊子 861頁/原整理番号 2378/整理ID 2378
重豪は、黒書院での御礼を命じられたことに伴い、嘉祥の日に出仕すべきか伺う。牧野貞長へ留守居渋谷五郎右衛門が提出し、嘉祥の節には登城不要との付札回答を受けた。
天明四年九月二十三日 / 冊子 753頁/原整理番号 2121/整理ID 2121
島津重豪が、浄岸院の十三回忌法事を十二月五日に国許の福昌寺で執行する旨を届ける。九月二十三日付で、朱書により御用番牧野越中守へ留守居渋谷五郎右衛門を介して提出したことが分かる。
天明六年六月二十三日 / 冊子 863頁/原整理番号 2384/整理ID 2384
在府中の重豪は、嫡子又三郎の初御目見に伴い、由緒により年頭・五節句・八朔には白書院、月次には黒書院で礼をし、大廊下下の休息所に詰める自分と同様の扱いを又三郎にも与えるよう内意を申し上げた。六月二十六日に同様の扱いを認める付札回答を受けた。
天明六年七月二十七日 / 冊子 869頁/原整理番号 2401/整理ID 2401
重豪は、又三郎忠堯の御目見が仰せ付けられたので、翌二十八日五時に同道して登城し、自身も表御礼を申し上げるよう命じられたことを承知し、畏み奉ると回答する。
天明七年正月四日・廿九日(記事中の出来事) / 冊子 926頁/原整理番号 2543/整理ID 2543
天明七年正月四日、柳生但馬守俊則・倉橋三左衛門久雄が重豪に代わって登城し、致仕を願ったと記す。廿九日には重豪が登城し、牧野越中守貞長を介して願いの許可を伝えられたと述べる。
三月廿四日 / 冊子 402頁/原整理番号 516
伊勢貞長は伊地知重政へ、札改めで加久藤に潜伏していると判明した走者を至急返すよう重ねて求める。一人は貞長が召し使った時は八介と称し、名を変えて隠れている者で、ほかにもう一人いるため両人を送ることとする。本文前段では三日以内に昼夜を問わず送るよう命じ、後段では鹿児島へ三月中に送り、拒めば縛って送るよう指示する。走者は今回の札改めで全員調べ出して元主へ返すべきであり、貞長自身の在江戸・上洛前に済ませたいとして一刻も急ぐよう迫る。
天明六年七月二十七日 / 冊子 869頁/原整理番号 2402/整理ID 2402
重豪は、家来一人の御目見が仰せ付けられ、その者を召し連れるよう命じられたことを了承する。前後資料から、この家来は又三郎忠堯を指す。
天明八年四月十九日(年次朱書) / 冊子 1013頁/原整理番号 2732/整理ID 2732
結納の祝儀として使者をもって目録のとおり献上された品を披露したところ、一段の御仕合であった旨を、牧野貞長が松平上総介へ伝える。四月十九日付、貞長判。
天明八年六月十九日(年次朱書) / 冊子 1016頁/原整理番号 2741/整理ID 2741
当朝に献上された鰹節一箱を披露したところ、一段の御仕合であった旨を、牧野貞長が松平上総介へ伝える。六月十九日付、貞長判。
天明八年十二月二十五日(年次朱書) / 冊子 1024・1025頁/原整理番号 2771/整理ID 2771
姫君の婚礼に際して重一組を献上されたことについて、各々相談して上聞に達した旨を、牧野備後守貞長が松平上総介へ伝える。十二月二十五日付、貞長判。
天明九年正月七日(年次朱書) / 冊子 1026頁/原整理番号 2776/整理ID 2776
若菜の祝儀として鯛一折を献上されたので披露したところ、一段の御仕合であった旨を、牧野備後守貞長が松平上総介へ伝える。正月七日付、貞長判。
天明九年正月十一日(年次朱書) / 冊子 1027頁/原整理番号 2778/整理ID 2778
年頭の祝儀として使者により太刀一腰・馬代黄金十両を献上されたので披露したところ、一段の御仕合であった旨を、牧野備後守貞長が松平上総介へ伝える。正月十一日付、貞長判。
天明八年二月二十六日 / 冊子 1009頁/原整理番号 2721/整理ID 2721
牧野備後守が松平上総介へ、歳暮の御内書を渡すので、翌日五半時に家来を御城へ差し出すよう求めた書状。二月二十六日付で、天明八年の年次は朱書による。
天明四年九月十五日・十月一日 / 冊子 751頁/原整理番号 2115/整理ID 2115
九月十五日、島津重豪が江戸城大広間へ登城した際、老中牧野越中守貞長が大目付久松筑前守定愷を介して、今後は毎月の朔望その他の登城日に大廊下下の休息所を用いるよう命を伝えた。重豪は休息所に入った後、老中らに謝意を表し、西丸でも老中鳥居丹波守忠意に謝した。十月一日には、年始と五節供の登城時にも朔望と同様に同休息所を用いるよう改めて命じられた。
天明四年十月二十二日 / 冊子 767頁/原整理番号 2149/整理ID 2149
重陽の御内書を渡すので、翌日五半時に家来を江戸城へ遣わすよう松平薩摩守へ命じる、十月二十二日付牧野越中守貞長書状。
天明五年四月十六日・十八日以後(記事) / 冊子 804頁/原整理番号 2204/整理ID 2204
四月十六日、家治は老中牧野貞長を芝邸に遣わして重豪に帰国の暇を許し、恩賜は先例どおりとした。家斉も西丸老中鳥居忠意を遣わし紗綾二十巻を与えた。重豪は島津忠持を大老・老中邸への謝恩に遣わし、若年寄邸へは留守居、側衆邸へは表方使者を遣わした。十八日に老中奉書で翌日の登城が告げられ、重豪は黒書院で家治・家斉に謝恩した。松平乗保が奏者、水野忠友が月番老中として取り持ち、家治は懇篤の言葉と馬一匹を賜った。重豪は西丸へも登り鳥居忠意に礼を述べた。その後の病気で自ら諸邸へ謝恩できず、番頭使者・留守居・表方使者に代行させた。同日、守邸家老二階堂行旦が本丸・西丸に登り、それぞれ品物を献じて両公に拝謁した。
天明五年六月十八日 / 冊子 813~814頁/原整理番号 2228/整理ID 2228
牧野越中守貞長は、今朝献上された琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺を披露したところ、一段の御仕合せであると重豪に伝える。天明五年六月十八日付の書状。
天明五年七月六日 / 冊子 817頁/原整理番号 2237/整理ID 2237
重豪の生見玉の祝儀として黄金十両を献じた件は披露され、よい仕合であると伝える。朱書は天明五年七月六日で、水野出羽守忠友・牧野越中守貞長・田沼主殿頭意次・松平周防守康福の四名が判を据える。
天明五年八月四日 / 冊子 819頁/原整理番号 2244/整理ID 2244
重豪が八朔の祝儀として使者を立て、太刀一腰と馬代の黄金十両を献じた件を披露し、よい仕合であると伝える。天明五年八月四日付で、水野忠友・牧野貞長・田沼意次・松平康福の四名が判を据え、「松平薩摩守殿」と宛てる。
天明五年八月二十九日 / 冊子 822~823頁/原整理番号 2253/整理ID 2253
御用があるため、重豪が翌月朔日の五つ半時に登城するよう求める。天明五年八月二十九日付で、水野出羽守忠友・牧野越中守貞長・田沼主殿頭意次・松平周防守康福が連署し、松平薩摩守殿に宛てる。
天明六年正月十一日 / 冊子 849頁/原整理番号 2337/整理ID 2337
松平康福・牧野貞長・水野忠友は、重豪が使者を通じて年頭の祝儀として太刀一腰と馬代黄金十両を献上し、これを披露したと連署して知らせる。
天明六年二月三日 / 冊子 852頁/原整理番号 2345/整理ID 2345
牧野貞長は、重豪が今朝献上した御鷹肴を披露し、まことに結構なことであると知らせる。天明六年二月三日付。
天明六年六月十八日 / 冊子 862頁/原整理番号 2382/整理ID 2382
牧野貞長は、重豪が献上した馬一疋を披露し、まことに結構なことであると知らせる。天明六年六月十八日付。
天明六年六月二十七日 / 冊子 864頁/原整理番号 2387/整理ID 2387
牧野貞長は、重豪が献上した琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺を披露し、まことに結構なことであると知らせる。
天明七年正月七日(年は朱書) / 冊子 919頁/原整理番号 2525/整理ID 2525
若菜の祝儀として献上された鯛一折について、披露したところ大いに喜ばれた旨を伝える。正月七日付で貞長が松平薩摩守へ宛て、裏書に牧野越中守貞長と記す。
天明七年正月十一日(年は朱書) / 冊子 919頁/原整理番号 2527/整理ID 2527
年頭の祝儀として使者をもって献上された太刀一腰と馬代の黄金十両について、披露したところ大いに喜ばれた旨を伝える。正月十一日付で貞長が松平薩摩守へ宛て、裏書には牧野越中守貞長と記す。
天明四年九月二十三日・十月一日(朱書追記) / 冊子 752頁/原整理番号 2117/整理ID 2117
田沼主殿頭の用人大竹三左衛門から切紙で呼び出された渋谷五郎右衛門が、朔望・二十八日などの登城時に大廊下下の休息所内で障子際へ控え、場所は大目付・目付に問い合わせること、年始・五節句にも同じ休息所を用いることを口達された。渋谷が礼勤めの要否を尋ねると、先の命令を補う達しであるため表向きの謝礼は不要と説明された。九月二十三日の申出に、十月一日の登城時、牧野越中守が大目付衆からの書付を重豪へ直接渡したとの朱書を加える。
天明四年十一月(文中九月十五日・二十三日) / 冊子 768頁/原整理番号 2150/整理ID 2150
九月十五日の登城時に、大目付久松筑前守を介して大廊下下休息所の使用を伝えられ、本丸・西丸で礼を述べた経緯を記録させる。九月二十三日には田沼主殿頭から留守居へ、休息所から桜之間内の障子際に控えること、場所は大目付・目付に問い合わせることが伝えられた。先達では年始・五節句を従来どおりとしていたが、追加口達ではこれらの日も同じ休息所を用いるよう改められた。十一月、島津久健が帳面へ記録するよう命じる。
天明四年十二月(文中二十二日・二十四日) / 冊子 776頁/原整理番号 2171/整理ID 2171
二月二日・五日・七日・十一日・十六日を障日として挙げる。朱書は、本城源七郎が書付二通を土方宇源太の用人中村半助へ渡し、御用番の登城前に提出するよう頼んだこと、十二月二十二日に宇源太から御用番代牧野越中守へ提出して受領されたこと、二十四日に牧野が留守居を呼び出して次の書付を渡した経緯を記す。
天明五年四月十八日 / 冊子 804~805頁/原整理番号 2205/整理ID 2205
四月十八日付の老中四名の連署状。松平薩摩守へ、翌日五半時に登城し、帰国の暇を賜った礼を申し上げるよう命じる。署名は水野出羽守、牧野越中守、田沼主殿頭、松平周防守の順。No2204の記事に記す老中奉書の具体文面にあたる。
天明六年二月二十六日 / 冊子 853頁/原整理番号 2349/整理ID 2349
重豪は、前年春に国元への暇を許されたが病気のため江戸に滞在して養生しており、参勤の時期となっても痞積・気痛が治らず出立できないため、さらに滞府して療養することを願い出る。留守居渋谷五郎右衛門が牧野越中守方へ提出した。
天明六年二月二十九日 / 冊子 853頁/原整理番号 2350/整理ID 2350
重豪は、御年賀の祝儀として献上品を差し上げたいと伺う。御附紙は、鮮鯛一折を表向から差し上げてよいと回答する。留守居が翌三月朔日に御用番方へ提出した経緯を朱書する。
天明七年二月二十三日 / 冊子 866頁/原整理番号 2392/整理ID 2392
老中六名は中山王の書簡を披見し、将軍が安泰であることを伝える。近年の凶作と飢饉に際し、松平薩摩守が願った米金の拝借が認められ、伊野波親方が薩州へ到着して目録の品を献上した件について、重豪の書簡と献品を将軍へ披露し、喜ばれたと回答する。詳細は松平豊後守から申し述べるとする。
天明六年七月二十七日 / 冊子 868~869頁/原整理番号 2399/整理ID 2399
老中四名は、又三郎忠堯の御目見が仰せ付けられたので、翌二十八日五時に重豪が同道して登城し、重豪自身も表御礼を申し上げるよう命じる。
宝暦九年(日付不記・記事) / 冊子 736~737頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2241
重豪は九月十一日、老中松平輝高・秋元凉朝、若年寄松平忠恒・水野忠見、奏者阿部正因・牧野貞長らを招き、盛宴と猿楽で饗応した。十三日・十八日にも知己・親戚を招いて襲封を祝い、官位昇進の祝いとして二十三日には義敏・勝長・勝當・重賢・重廣らを芝邸に招き、宴と猿楽で饗応した。二十二日に前髪を除く許可を得て二十八日に除き、同日に女使を通じて家重・家治へ鯛一折を献じた。薩府の継豊へ「一種三百匹」を送り、継豊からも同じ品を贈られたと記す。
天明七年正月十八日・廿八日・翌日(本文の経過日付) / 冊子 921頁/原整理番号 2531/整理ID 2531
正月十八日に重豪が隠居して国を斉宣へ伝える願書を出したと記す。二十八日に老中奉書を受け、翌日に斉宣と本多豊後守助受が登城し、白書院で大老・老中から斉宣の継封と重豪の隠居を許す命を受け、牧野越中守貞長がこれを伝えたとする。助受が重豪に代わって命を聴き、同日、大老井伊直幸と老中松平康福・牧野貞長・水野忠友・鳥居忠意の各邸へ謝礼に赴き、番頭を若年寄各邸へ、表方使者を御側衆各邸へ遣わしたと記す。
天明七年正月十八日・廿八日・廿九日(本文の経過日付) / 冊子 921~922頁/原整理番号 2533/整理ID 2533
正月十八日に父重豪が隠居して国を斉宣へ伝えることを幕府に願い、二十八日に老中奉書を受け、翌二十九日に斉宣が本多豊後守助受と登城したと記す。白書院で大老・老中が重豪の隠居と斉宣の継封を許し、牧野越中守貞長が命を伝えた。斉宣と助受は受命後、大老・老中各邸に謝礼し、番頭と表方使者を若年寄・御側衆各邸へ遣わした。帰邸後は家老以下が祝い、袖判の書を側役に読ませて家老に渡し、父から家伝の譜牒と重器を譲られたと述べる。斉宣の実年齢は十五歳、幕府への申告は十九歳とし、若年のため重豪が従来どおり国政を執ることを幕府へ告げたと付記する。
天明七年四月二十二日(年は朱書) / 冊子 965頁/原整理番号 2612/整理ID 2612
将軍宣下が済んだ祝儀として、重豪が使者をもって太刀と馬代を献上したことを披露したところ、ひとしお喜ばしいことであったと伝える。四月二十二日付で阿部正倫・鳥居忠意・水野忠友・牧野貞長・松平康福の五名が連署し、松平上総介に宛てる。
天明七年五月十三日(年は朱書) / 冊子 967頁/原整理番号 2621/整理ID 2621
重豪の礼状を拝見し、公方の機嫌がますますよいこと、将軍宣下・任槐が済んだことをめでたく思う旨を了承する。そのため使者を差し越した件と書状の趣旨を、各々相談して将軍へ申し上げたと伝える。五月十三日付、牧野貞長から松平上総介への書状である。
天明七年五月二十二日(年は朱書) / 冊子 967~968頁/原整理番号 2623/整理ID 2623
重豪の礼状を拝見し、公方の機嫌がますますよいこと、将軍宣下の御礼が済んだことをめでたく思う旨を了承する。そのために使者を差し越した件と書状の趣旨を、各々相談して将軍へ申し上げたと伝える。五月二十二日付、牧野貞長から松平上総介への書状である。
天明七年六月晦日(年は朱書) / 冊子 968頁/原整理番号 2626/整理ID 2626
重豪の礼状を拝見し、公方の機嫌がますますよいことへの喜びを了承する。将軍宣下の祝儀として四月二十三日に重豪と同氏豊後守が上使を通じて拝領物を受けたことへの謝意を承知する。その御礼に使者を差し越した件と書状の趣旨を、各々相談して将軍へ申し上げたと伝える。六月晦日付、牧野貞長から松平上総介への書状である。
天明七年七月六日(年は朱書) / 冊子 982頁/原整理番号 2659/整理ID 2659
生身玉の祝儀として黄金十両を献上したことを披露したところ、まことに結構なことであったと伝える。七月六日付、阿部正倫・鳥居忠意・水野忠友・牧野貞長・松平康福・松平定信の六名が松平上総介へ宛てた連署返書である。
天明七年八月六日(年は朱書) / 冊子 994・995頁/原整理番号 2674/整理ID 2674
重豪の書状を拝見し、公方の機嫌を喜ぶ趣旨と、今回御暇を与えられ、羽織も拝領したことを重ねてありがたく思う旨を了承する。国元到着の御礼として、島津矢柄を通じて縮緬五巻と樽肴を献上したことを披露したところ、御前へ召し出され、念の入った心遣いを将軍が喜んだと伝える。八月六日付、阿部正倫・鳥居忠意・水野忠友・牧野貞長・松平康福・松平定信の六名が連署して松平上総介へ返した書状である。
天明七年十月七日(年は朱書) / 冊子 1001頁/原整理番号 2693/整理ID 2693
重豪の書状を拝見し、公方の機嫌がよいこと、心観院の十七回忌法事が東叡山で行われ、八月二十日に霊前へ参詣したことを聞いて喜ぶ旨を了承する。書状の趣旨について各々申し談じ、将軍へ申し上げたと伝える。十月七日付、牧野貞長から松平上総介への返書である。
天明八年十二月五日(記事) / 冊子 1024頁/原整理番号 2770/整理ID 2770
翌春二月に大家と茂姫の婚儀が行われることになり、親戚の侯伯があらかじめ命を受けて婚礼調度を献じたと記す。戊申十二月五日、斉宣は食籠五荷、重豪は重一組を、それぞれ留守居を本丸へ登らせ、老中牧野備後守貞長・奏者土屋能登守泰直を介して茂姫へ献じた。また斉宣は綢紗五巻、重豪は綢紗十巻を女使によって宮中へ献じたという。
己酉二月(見出し)、十二月五日(記事中の献上日) / 冊子 1028頁/原整理番号 2783/整理ID 2783
己酉二月の見出しに続き、幕府が茂姫の婚儀を調えようとして親戚の侯伯に婚礼調度の献上を命じたと記す。十二月五日、斉宣は留守居を本丸へ登らせ、老中牧野備後守貞長・奏者土屋能登守泰直を介して茂姫へ食籠一荷を献じ、女使によって茂姫の閨閤へ綢紗五巻を献じたという。
天明五年九月朔日(本文末尾) / 冊子 823頁/原整理番号 2254/整理ID 2254
重豪の領分である琉球国の連年凶作と大風雨により飢餓の恐れがあるとして願い出た手当てについて、幕府が米一万石・金一万両の拝借を命じたことを伝える。末尾に「右九月朔日」、登城時に白書院の縁側で、老中の名代から書付を渡されたと記す。
天明五年十月五日 / 冊子 828頁/原整理番号 2270/整理ID 2270
琉球の飢饉に伴う米・金拝借への礼として中山王が公方様・大納言様に継使者を通じ献上することになったため、重豪は御縁女様にも献上物を出せるか伺う。十月五日の伺書に対し、十七日に付札でその必要はないと伝えられた。
天明六年二月 / 冊子 854頁/原整理番号 2353/整理ID 2353
重豪は、領内の凶作、屋敷類焼、浄岸院遺骸の国元移送、桜島噴火による数万石の損毛、琉球国の大凶作への救米・金米拝借などで財政が窮迫したと説明し、借用金米の返済年限中は幕府役人への贈物を減らし、献上物などは従来どおりとすることを願う。
天明七年正月廿三日(年は朱書) / 冊子 922~923頁/原整理番号 2534/整理ID 2534
隠居・家督願の案文を十五日に留守居澁谷五郎右衛門が用番牧野越中守ほか老中へ持参し、内見を求めたと報告する。異存がなければ十八日の客対日に先例どおり親類方へ先手衆を添えて提出したいと申し入れ、随意にするよう回答を得た。用番と松平周防守には十八日に願書を出し、廿九日か晦日に隠居・家督の命が下ることを希望する内意も伝えたという。十八日に用番宅で願書が滞りなく受け取られ、大いに喜ばれたとの連絡を受け、倉橋三左衛門らへ挨拶し、一門などへの通知を指示した。願書受領は当地の詰合へ即日伝え、京・大坂へは本日便で知らせるとし、願書写しを添える。明姫・女中方への伝達と、そちらから佐土原へ知らせるよう依頼する。正月廿三日付、関山糺・市田勘解由・二階堂主計から四名に宛てる。