名護屋城普請次第
(天正19年) / 冊子 518頁
名護屋城普請で島津方に割り当てられた石垣・屋敷の寸法と数量を記した次第。石垣の横幅・高さ、大石崩所、屋敷の間数などを具体的に示し、朝鮮出兵の本営建設で島津氏が負担した普請量を数量的に確認できる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(天正19年) / 冊子 518頁
名護屋城普請で島津方に割り当てられた石垣・屋敷の寸法と数量を記した次第。石垣の横幅・高さ、大石崩所、屋敷の間数などを具体的に示し、朝鮮出兵の本営建設で島津氏が負担した普請量を数量的に確認できる。
十月朔日 / 冊子 93頁
石田三成が入来院又六の宿所へ送った書状。名護屋へ出陣せず人数も遅参していることを厳しく問題視し、島津氏への不届きはもちろん、唐入りの軍役を公儀の道理に反して怠れば上聞に達して身上を失いかねないとして、早急な着陣を命じている。
十月朔日 / 冊子 195頁
石田三成が入来院又六の宿所へ送った書状。名護屋へ出陣せず人数も遅参していることを厳しく問題視し、島津氏への不届きはもちろん、唐入りの軍役を公儀の道理に反して怠れば上聞に達して身上を失いかねないとして、早急な着陣を命じる。本文はNo.236と同文のため省略される。
年月日未詳 / 冊子 457頁
天正十八年の小田原陣に続き、天正十九年正月の貴明公の下向、同年九月の松齢公の伏見からの帰国と人質番組を列挙する。 さらに同年冬の高麗渡海命令、十二月に貞明公が名護屋へ加わったことを記し、豊臣政権下で島津家が相次いで軍事動員を受けた経過を簡潔にまとめた覚書である。
記事 / 冊子 494頁
天正十九年、九州衆が名護屋の普請に動員された際の樺山紹剣の自記。武庫様が高麗渡海の支度と普請を進めるなか、紹剣が先に奉公を果たし、帰国や今後の出仕をめぐって指示を受けた経過を記す。朝鮮出兵を目前にした築城・渡海準備と家臣の奉公調整を当事者の言葉で伝える。
年月日未詳 / 冊子 497頁
義久譜中に収載された覚書。又一郎夫妻の上洛、供衆・役人の酒宴、京都での辛労、名護屋への参着、隠居・墓所・国役・国替などの検討事項を列挙する。本文範囲内に義久の署名・実名はなく、差出人比定は収載位置に依存する。
年月日未詳 / 冊子 502頁
長谷場越前の自記。豊臣秀吉が高麗国王との取り決めが不首尾に終わったことへ憤り、和国の武兵を渡海させるよう命じたと記す。その船津として西国の肥前名護屋に石垣の城を築いた経緯を掲げ、朝鮮出兵前夜の対外認識と軍事拠点造成を伝える。
年月日未詳 / 冊子 505頁
天正十九年、豊臣秀吉が肥前名護屋城を築いた際、樺山規久も島津義弘に従い、築城・出兵準備に尽力したことを記す譜の記事。朝鮮出兵の拠点造成に島津家臣が動員されたことを簡潔に示す。
年月日未詳 / 冊子 516頁
豊臣秀吉が朝鮮国征伐のため肥前名護屋に本営を築き、西国諸将を現地へ赴かせたことを記す島津義久譜の記事。竜伯も名護屋へ向かうことになり、朝鮮出兵の拠点整備へ島津氏が組み込まれた経緯を示す。
天正19年9月下旬 / 冊子 516~517頁
豊臣秀吉が来春の唐土征伐に向け、日限を定めて肥前名護屋へ参集するよう命じた朱印状。武具・馬具・鉄砲・銀、兵粮などを準備し、上方からの軍勢に先んじて九州勢が渡海の用意を整えるよう指示する。朝鮮出兵直前の全国動員と兵站準備を伝える重要文書。
年月日未詳 / 冊子 517頁
豊臣秀吉が全国の軍勢を催し、朝鮮征伐のため肥前名護屋に本営を築いたことを記す島津忠長譜の記事。竜伯は京都を辞して帰国したが、忠長は島津方の人質として聚楽に残された。豊臣政権下での従属と人質政策を示す。
(天正19年)10月 / 冊子 518頁
義久譜中に案文として収載された書状。名護屋普請のため舟本へ赴き、順風を待つ間に虫気を発したこと、兵庫頭が不意に上洛して自身の遅参が本意に背くことを述べ、詳細を町田出羽守に託す。本文範囲内に差出人署名・義久の実名はなく、義久比定は収載位置に依存する。
(天正19年)11月 / 冊子 518~519頁
島津義久が中山王へ、直林寺書状の日付が六月十一日であることを確認し、寒中の労を気遣う。名護屋の普請場では京都での想定と違う事態が重なり、究明が難しいと伝え、普請衆の尽力を求める。さらに久保が栗野へ着いた際の養生や留守中の混乱、家中の取次にも触れ、琉球関係と普請・家中事情を併せて伝える書状案。
年月日未詳 / 冊子 521~522頁
新納旅庵長住の譜の記事。天正十九年十二月十七日に京都を発ち、名護屋へ使者として向かったことを記す。十二月二十九日に到着して島津方の命を細川幽斎・石田三成らへ伝え、諸国との連絡や唐入り準備に従事した経過が分かる。
(天正19年)12月 日 / 冊子 522頁
島津義久が、東国への二度の軍労をねぎらい、遠国ゆえ音信が途絶えたことを詫びる。名護屋へ向かう途中で虫気を発したため義弘と交替して上らせた事情を説明し、唐入りについては準備を怠らず奔走すると伝えた書状。
(天正19年)12月19日 / 冊子 522頁
島津義久が琉球国王へ、琉球船の遅滞について京都から重ねて厳しい催促があり、従来の疎略を看過できないとして早急な履行を求める。唐入りと名護屋普請はいずれも天下一統の国役で、九州・端島まで責任を負うべきだと諭し、詳細は新納伊勢守に申し含めた書状。豊臣政権の出兵・普請負担を琉球へ及ぼす内容。
年月日未詳 / 冊子 527頁
島津義弘が文禄元年三月二十七日に栗野を発ち、肥前名護屋へ到着したのち、四月十二日に諸将と名護屋を出船し、五月三日に朝鮮慶尚道の釜山浦岸へ着いた経過を記す。領国出発から渡海までの日付と経路を追える、文禄の役初動の記事。
(天正廿年)正月21日 / 冊子 530頁
石田三成と細川玄旨が、出水の扱いは朱印状により薩州と同様、島津方の一手として命じられたと伝える。琉球については、亀井茲矩への旧命があったものの島津方の取次と琉球国の礼参が上聞に達し、亀井には替地を与えて従来どおり島津方の手力とすると説明する。渡海人数を整え、名護屋で指示を受けるよう求めた連署状。
(文禄元年)正月26日 / 冊子 531頁
度重なる唐入り準備の命令を受けながら、遠島からの渡海で馬・武者などの仕立てが整わず、十分な軍備が難しい事情を記す。義久は不調法ながら義弘を出立させ、二郎夫婦を上洛させ、自身も秀吉の名護屋着座前に参着すると述べ、安宅・麻生両名に治部少輔・幽斎との取り成しを頼む。
年月日未詳 / 冊子 532~533頁
豊臣秀吉の朝鮮征伐命令を受け、軍勢・兵器・船の準備が整わないまま、島津久保が義弘とともに少人数で栗野を出立した経緯を記す。肥前名護屋・壱岐・対馬を経る航海では、船不足と強風による漂流、諸将の滞留、船団の分散が続き、朝鮮渡海初期の混乱と困窮を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 533頁
新納旅庵長住が島津義弘・久保父子に従い、二月十二日に栗野を発って肥前名護屋へ着き、壱岐・対馬を経て五月朔日に釜山浦へ上陸した行程を記す。その後、朝鮮国内を進んで江原道金化城に至り越年しており、島津勢の渡海・進軍経路を日付とともに追える。
2月 / 冊子 535頁
島津義久が唐入りに関する厚意へ礼を述べ、義弘が近日出立し、自身も名護屋へ赴いて直接相談すると伝えた書状案。名護屋の仮屋普請では人夫をすでに過半数集め、領国内の準備も遅滞なく進めていると報告する。
年月日未詳 / 冊子 536頁
文禄元年、秀吉が名護屋へ下向し、朝鮮へ出征するなかで、樺山紹剣が島津義弘・久保らの移動や各地での宿泊・歓待・贈答・詠歌を記した記事。船や宿の手配と歌の応酬から、渡海準備を支えた家臣団の実務と文化的交流が分かる。
年月日未詳 / 冊子 536~537頁
島津義弘・久保の出国と、翌日の島津義久出馬、肥前名護屋への参陣、船団の渡海を追った自記。壱岐・対馬を経る途中では風波に遭って船が離散・引き返し、朝鮮上陸後も軍勢の配分や補給に苦心する様子を記し、島津勢の出兵行程を実見に近い形で伝える。
天正20年3月5日 / 冊子 537頁
島津義弘が渡唐に向けて名護屋へ出陣するにあたり、神慮によって武運を得て面目を失わず、島津家が長久し、無事帰国できるよう祈った願状。帰国がかなったなら、愛宕へ八木百石ずつを七年間奉納すると誓い、祈念を願っている。
年月日未詳 / 冊子 540頁
秀吉の朝鮮出兵に伴い、日本軍が肥前名護屋から壱岐・対馬を経て朝鮮へ渡る航路、港間の距離、船団・軍勢の規模を記した日記。釜山浦への上陸までの行程と、加藤清正・小西行長・島津義弘ら諸将の配置を列挙し、渡海作戦の全体像を示す。
年月日未詳 / 冊子 542~543頁
秀吉が朝鮮征伐を決めて筑紫へ向かうにあたり、群臣の諫言に対して国内統一後の対外出兵の意図を述べた経緯を記す。朝廷での奏聞、石清水での秘楽・祈祷、京都出発と各地の見物、名護屋への兵粮下賜、四十八万余の大軍と水陸諸将の動員までを連ね、朝鮮出兵を正当化する政治・儀礼・軍事動員の叙述となっている。
年月日未詳 / 冊子 544頁
肥前名護屋で島津久保が樺山久高を召し出し、朝鮮従軍を命じるとともに「樺山権左衛門尉」と改名させ、知行を与えた経緯を記す。島津義弘・久保軍への編入と、出兵を契機とした家臣の登用・身分形成が具体的に分かる。
(天正20年)4月28日 / 冊子 552頁
豊臣秀吉が、名護屋に三十日ほど滞在して先に軍勢を渡海させ、その後に本隊を進めるよう命じた朱印状。 十分な軍勢と直轄船を整え、一方面二万人規模で高麗へ進む構想を示し、拙速な渡海を戒めている。
年月日未詳 / 冊子 553頁
豊臣秀吉は民間の出身ながら寛仁・勇猛で関白に昇り、四方の朝敵を討って天下を一統したが、なお満足せず明・朝鮮を掌中に収めようとしたと叙述する。肥前名護屋に陣営を築き、文禄元年春に二十余万の軍勢を集めたところまでを記し、島津豊久の従軍記事に先立つ朝鮮出兵の背景説明となっている。
(文禄元年)4月28日 / 冊子 553~554頁
秀吉が島津豊久へ、名護屋に三十日ほど滞在する間に先勢を渡海させ、その後に本隊を進める構想を伝えた朱印状。各自の船を慎奉行とともに名護屋へ差し上げ、兵力をまとめて一方面二万人ほどで高麗へ進み、準備や軍勢の状況を注進するよう命じ、拙速な渡海を戒めている。
年月日未詳 / 冊子 554頁
肥前名護屋で徳川家康が大病を患った際、島津義久が秘蔵の薬と処方を提供し、典薬らの診療を助けたという記事。 家康は薬を服用して回復し、義久に謝意を示したとされ、朝鮮出兵の本営で生じた大名間の医療交流を伝える珍しい逸話。
天正20年5月4日 / 冊子 557~558頁
島津義久が、義弘・久保父子の渡海後、自身も名護屋へ参陣するため、高麗への補給、名護屋在陣、京都での調達・執代を重臣たちに協議させた書下。 長年の在京で領国が困窮するなか、各担当が昼夜油断なく職務を果たし、留守中の国政を支えるよう命じる。
天正20年5月4日 / 冊子 558頁
前文書とほぼ同じく、義弘・久保の渡海と義久の名護屋参陣に伴い、高麗への見継ぎ、京都・名護屋での調達、領国内の執務を家臣団へ分担させた書下。 交付先を別の家臣群にした同文系統で、島津家が複数の重臣へ同時に留守国統制を命じたことが分かる。
(天正20年)5月4日 / 冊子 559~560頁
島津義弘が、国元から船が上らないため、名護屋から壱岐、対馬を経て借船を乗り継ぎ、供五・六人ほどで朝鮮の釜山海へ到着した経緯を妻の宰相殿へ知らせる。 船酔いと航海の苦労、船の破損や修理、同行者の動静を細かく記し、釜山周辺の広さや現地の様子にも触れる、朝鮮渡海直後の私信である。
年月日未詳 / 冊子 570頁
名護屋に徳川家康ら東国・北国・畿内の軍勢が集まり、秀吉の朝鮮出兵を支える一方、島津義久の家臣である比志島紀伊・伊集院下野・本田刑部・東郷安房らが召し出された経緯を記す。 梅北一揆への関与を疑われた島津側について、浅野弾正の取り成しや秀吉の吟味を経て処置が定まるまでを述べ、朝鮮役と島津家中事件が交差する記事である。
年月日未詳 / 冊子 570頁
島津義久が名護屋で、「千種咲く野辺の中でも、紫色の一株がひときわ親しく感じられる」と詠んだ和歌。 「子細あり」と注記され、紫の花に特定の人物や縁を重ねた可能性を感じさせる、朝鮮出兵期の名護屋滞在中の詠草である。
(文禄元年)7月 / 冊子 581頁
島津義久が、遠国のため便りを欠いたことを詫び、五月四日に鹿児島を出たものの逆風で停滞し、六月五日にようやく名護屋へ着いた行程を説明する書状案。 名護屋到着後に梅北一揆への対応を迫られ、秀吉の命と援助を受けて帰国・鎮圧へ向かった事情を述べ、朝鮮渡海の遅延が義久個人の怠慢ではないことを弁明している。
天正20年8月14日 / 冊子 600頁
豊臣秀吉が細川幽斎へ、邪答院氏の成敗と首級到着を賞し、梅北一揆残党の妻子まで捜し出して名護屋へ送り処刑するよう指示する。薩摩・出水・日向諸県郡の検地についても、名護屋帰陣後に処置するとした。 義久知行の売却地回収、蔵入・代官算用の精査、寺社領の内検地など六項目を列挙し、反乱処罰と領国支配の再編を一体で進める命令である。
(文禄元年)8月28日 / 冊子 601~602頁
石田正継が島津義久らへ、名護屋にいる木工を秀吉の御用に立てるよう求め、唐国に関する義久の報告が秀吉の関心を得たと伝える。 梅北一揆を早速鎮圧したことを称賛し、朝鮮の戦争も翌春には決着して静謐になることを期待して、義久の上京を待つと結ぶ。国内反乱の鎮圧と朝鮮・唐をめぐる政権中枢の見通しが交差する書状である。
(文禄元年)12月晦日 / 冊子 621頁
豊臣秀吉が薩州和泉の留守居衆へ、又太郎が渡海後も兵庫頭の一手に加わらず、高麗で目立った働きがないとの報告を受け、徹底して糺明するよう命じる。又太郎の母・妻と留守居の妻子を名護屋へ召し連れるよう要求し、遅参すれば処罰すると警告した、軍役不履行に対する厳しい朱印状である。
(文禄2年)正月3日 / 冊子 662頁
豊臣秀吉が島津豊久ら各地の留守居衆へ、高麗から私用のため帰航させた船に、船主の兵糧・荷物を期限までに積み、速やかに再渡海させるよう命じた朱印状。美濃部四郎三郎と松井藤介を奉行として派遣し、浦ごとの船数と兵糧量を案内者とともに調査・記録させ、空船には名護屋で米を支給すると定める。朝鮮出兵を支えた船舶・兵糧輸送の実務統制を具体的に示す史料。
年月日未詳 / 冊子 664頁
文禄二年正月十九日に細川幽斎が名護屋へ赴き、翌二十日には島津義久(竜伯)も鹿児島を出発したと記す。 義久は名護屋にしばらく滞在したのち帰国したとし、護国廟の碑文にもその経緯が見えるという。朝鮮出兵期の義久の移動日程を伝える譜記事。
(文禄2年)正月28日 / 冊子 667頁
前年九月二十八日付の書状を薩摩で受け取り、長期在陣の苦労を慰める。島津義久(竜伯)と細川幽斎が名護屋へ向かい、幽斎が天候のため八代に滞留した状況も知らせる。 薩摩・大隅の蔵入地と検地について、検地なしでは蔵入収入や諸奉公人の軍役を定められないと指摘し、石田三成との緊密な折衝を勧める。領国行政と朝鮮在陣を結ぶ具体的な政務書状。
(文禄2年)2月9日 / 冊子 670頁
船が揃い次第渡海するため、高麗にある船だけでなく各領地にも命じて船数を確保し、名護屋で引き渡すよう求める。船を組ごとに編成し、総奉行と弾正奉行を付けて差し出すことも指示する。 兵粮は実際の保有量を正確に申告させ、下々に無理な負担をかけず、受取証を出して便利な場所で集積するよう命じた、船舶・兵粮の総合的な渡海準備令。
年月日未詳 / 冊子 680~681頁
北郷時久(一雲斎)が名護屋在陣中の豊臣秀吉へ見舞いとして味噌百桶を献上し、その礼として朱印状を受けた経緯を記す。 直後のNo.1091に掲げる秀吉朱印状の由来を説明する家譜記事。
4月朔日 / 冊子 681頁
北郷時久(一雲斎)から見舞いとして味噌百桶が届いたことを豊臣秀吉が喜び、謝意を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田正澄(石田杢頭)が申し伝えるとしており、名護屋在陣中の秀吉への贈答と取次関係が分かる。
年月日未詳 / 冊子 717頁
朝鮮から名護屋へ来た岐阜中納言秀信が、浅野幸長の屋敷に入り秀吉へ拝謁した経過を記す。 秀吉は秀信を厚く接待し、浅野幸長の渡海との関係にも触れたうえで、秀信が岐阜へ帰るまでを伝える譜記事。
文禄2年8月22日 / 冊子 724頁
名護屋から秀吉朱印が届いたので内容を確認した後に返送し、兵糧米や諸道具を受け取る奉行人を急いで釜山浦へ派遣するよう命じる。 大谷吉継・石田三成が島津義弘・豊久ら四将へ連署で伝えた、朱印の回覧と補給物資受領の実務指示。
年月日未詳 / 冊子 736~738頁
久保死去後、石田三成の使者・吉岡蔵人が忠恒の上洛を促すと、竜伯は新納旅庵を京都へ派遣し、三成・細川幽斎へ家督問題を取り次がせた。 秀吉から忠恒の家督相続が認められるまでの交渉と、忠恒の名護屋・朝鮮方面への旅、旅庵がこれに随行して島津家の継承を支えた経過を詳しく記す。