近衛竜山前久書状
(慶長三年)二月十四日 / 冊子 194頁
近衛前久が龍伯(島津義久)の便宜を通じて島津又八郎へ送り、長い在陣の苦労を察して無事を尋ねた書状。伏見の女房衆は何事もなく安心してよいと知らせ、忠恒のめでたい帰朝を待っていること、龍伯とは折々会っていることを伝える。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(慶長三年)二月十四日 / 冊子 194頁
近衛前久が龍伯(島津義久)の便宜を通じて島津又八郎へ送り、長い在陣の苦労を察して無事を尋ねた書状。伏見の女房衆は何事もなく安心してよいと知らせ、忠恒のめでたい帰朝を待っていること、龍伯とは折々会っていることを伝える。
年月日未詳 / 冊子 629-630頁
井尻弥五助が島津方の書状と孔雀の尾羽二羽を徳川家康へ届け、良い返事を得た。帰路、水口で厳重な検問を予想して書状を焼き判だけを隠したが、不審者として二十日間拘留された。伊勢参詣と島津義弘(兵庫頭・惟新)の家臣松岡勝兵衛との関係を説明して釈放され、拘留に耐えた奉公を賞され、のち伏見城攻撃でも働いた。
七月廿三日 / 冊子 46頁
有馬純房が、伏見城をめぐる戦況と自身の奉公について知らせた書状。内府の内衆が籠城する伏見城を諸軍が昼夜攻撃し、惟新以下が戦う中、自身も大坂から召されて城際に配置され、鉄砲による負傷者が出たことを報告し、千代丸兄弟の養育も依頼する。
十月廿八日 / 冊子 508頁
大坂の唐物屋伏見屋作兵衛・金兵衛が所持していた、朝鮮での軍功に関する豊臣秀吉政権五奉行の感状らしき文書を譲り受けた経緯を記す。島津家の重宝になるとして内見を経て御記録所へ納めるよう命じた島津帯刀覚書。
(慶長5年8月19日) / 冊子 96頁/原整理番号 66
惟新が伏見少将へ、春以来求めた伏見留守番の人衆が一人も上京していないことを嘆き、予定された在京人数七千人の半分、三千五百人を急送するよう重ねて求める。鹿嶋太郎兵衛尉を介した伝達にも触れ、他の九州勢が秀頼に奉公していることを挙げ、他国並みの軍役を果たすよう強く催促する。
享保十四年七月二十八日 / 冊子 894頁/整理ID 2292
七月二十八日、上使伏見総部が芝屋敷に来て、継豊に雲雀を下賜した。継豊はこれに謝し、丹羽式部少輔を介して将軍への礼を伝えたうえ、西城へ登って謝礼を述べた。
正文年月日・署名不記(徳川・会津・桑名の下坂探索報告) / 冊子 432~433頁/原整理番号 608の1/整理ID 608-1
徳川・会津・桑名の下坂について伏見に探索を出し、別紙の申越しと聞取りを報告する。徳川・会津が夜五ツ時過ぎに鳥羽街道から淀へ出て枚方方面へ向かい、主従徒歩、多数の供を伴い小銃八面を持参、大砲は不明という。旗本、若州・伊豫・松山・膳所本多、会津三百人程と大砲五丁、桑名などの通行、人員、騎馬と徒歩、武器の聞取りを条ごとに記す。伏見船番所の会津藩七~八人、旗本百人程と騎馬十人程、梅原九助の鳥羽方面の探索、船役人の回答も収める。桑名・板倉など未詳の点を明記し、探索員が戻ったので報告すると結ぶ。人数・時刻・武器は各聞取りに属し、確定した総兵力として合算しない。
正月右衛門署、辰2月7日通達承知の付記 / 冊子 477頁/原整理番号 644/整理ID 644
伏見その他の場所で戦死した者について、追って申渡しがあるまでの間、役料米等を従来どおり給付するよう関係先へ命じる。正月右衛門と署し、辰二月七日に通達を承知したと付記する。給付継続の指示と承知日を区別し、恒久的な給付権・受給人数・金額や実際の支給完了を補わない。
慶応4年三月24日、桂右衛門、取次御側御用人細瀧権八 / 冊子 545~546頁/原整理番号 705/整理ID 705
京都の事情と太守の心中を聞いた時姫が力を添えたいと願うが、書付は「御女子様之御事」として直接の助力はでき兼ねると説明し、身廻りその他を至極質素にし、召し遣う者を減らす沙汰を伝える。諸士が御両殿への奉公で身命を忘れて伏見で戦い、太守に喜ばれたことを述べる一方、戦死者への深い憐れみを表し、せめて水・茶でも手向けたいので名前を認めて差し出すよう求める。戦死人数・姓名書を提出し、時姫の沙汰と謝意を父子兄弟、地頭・領主にも知らせるよう命じる。慶応四年三月二十四日に桂右衛門が伝え、取次は御側御用人細瀧権八と表示する。
文久3年癸亥3月14日(伏見での仰渡注) / 冊子 288頁/原整理番号 404/整理ID 404
執事方帳留の久光公の記事。第408号の文書と同文として本文を省略し、文久三年癸亥三月十四日に伏見で供中へ仰せ渡したと注記する。参照記載は「四〇八の号」で枝番号の数字がない。今回精読した第408号の2は三郎が京都で仰せ出た御筆写であり内容の参照先候補として対応するが、枝番号欠記を補って完全な同文照合済みとはしない。
十一月十六日 / 冊子 357~358頁/原整理番号 120
島津惟新の書状抄。伏見の留守番のため上方へ送るべき人数が出されていないことを案じ、上方情勢の変化に備え、鹿島太郎兵衛を使者として国元の対応を促す。
二月十一日 / 冊子 104頁
臺明寺衆徒の訴えについて、天皇の意向を伝え、関係者へ事実確認と処置を命じた綸旨。
年月日未詳 / 冊子 388頁
永仁六年から正安元年にかけ、後伏見天皇の践祚、改元、幕府命令や島津忠宗の事績を年次順に掲げた『島津国史』の記事。
年月日未詳 / 冊子 422頁
徳治元年への改元、後伏見天皇の動向、島津忠宗在世期の出来事などを年次順に記した『島津国史』の記事。
「寛永廿一年」十月朔日 / 冊子 357頁
北郷久加・新納久詮の連署書状。江戸城西丸作事に伴い、薩摩から材木二千五十本を進上することを阿部忠秋へ目録で届けたと報告する。代銀約六十六貫目が必要だが蔵銀がないため、商人伏見屋又兵衛と相談し、その手前から立て替えて上納させるよう手配した。
(明暦三年)四月廿三日 / 冊子 335~336頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0722
久茂が国元役人六人へ、伊角に節約の意を伝えて返詞をさせること、伏見院息女の城中輿入、大猷院七年忌法事と将軍の正忌参詣を報じる。在国大名の機嫌伺使者の頻度を相談し、薩州様の誕生に伴う血忌と法事参詣の差合いを伝える。類火した伊角への縮緬等、太守の実名がなく名乗のみの書状への注意、久世息女への祝儀、老中取次への年例巻物辞退、土持段右衛門の到着と奉書・帰国の取扱いも述べる。
(明暦三年)十月二日 / 冊子 356~357頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0755
久茂が国元役人七人へ、鎌田左京の気色は変わらず草臥れていると報じる。稲葉美濃守家老役就任の祝儀使者を、御供衆の騎馬または小荷駄衆から早急に差し遣わすよう求める。紀伊宰相光貞と伏見院姫安宮の縁組を祝う井の家の使者も稲葉方への使者で取り計らい、留守居に相談する意を伝える。十月二日付。封面には十月十三日に飛脚が持ち下ったと記す。
享保十六年 / 冊子 139頁/整理ID 283
伏見宮邦永親王の姫君比宮と徳川家重の婚約・婚礼に際し、島津吉貴が祝儀を献上した経過を記す。
明治14年5月27日 / 冊子 986頁/原整理番号 1282/整理ID 1282
島津忠義が参内し、鹿児島県士族西幸吉の薩摩琵琶と天吹・柴笛の演奏を天皇が聴いた。忠義は自作の天吹を献上し、求めに応じて一曲を奏し、御酒肴と御手自らの盃を賜って深夜に帰邸した。
〈寛延元年〉十一月十四日~十九日(伏見到着十九日) / 冊子 111頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0329
宗信が寛延元年十一月十四日に坂越を出て、陸路で尼ヶ崎へ行き、大坂港で琉球使節の船と会った経過を記す。龜井隠岐守茲胤・松平周防守康福・松浦肥前守誠信が台命を受け、河船三艘と小艇四十艘を用意し、輸送と船の警護に当たった。宗信は大坂の仮館で三日休み、注には島津加賀守忠雅の仮亭に泊まったことを記す。十八日に宗信が使節・従者を率いて大坂を出て淀川を遡り、その夜は枚方に泊まり、翌十九日に伏見の仮館へ着いた。伏見では二日休み、諸有司の船が前例どおり警護した。
元禄十年三月二十一日~四月十日 / 冊子 18頁/整理ID 56
島津綱貴が三月二十一日に大坂へ着船し、同二十四日に河舟で大坂を発った後、霖雨による増水のため同二十五日に伏見へ着き、同二十七日に伏見を発って四月九日に参府し、翌十日に上使阿部正武の慰労を受けた経過を記す記事。
正徳四年十一月四日 / 冊子 168頁/整理ID 407
島津吉貴は琉球使者を伴って伏見に到着し、船を出すための手配と命令が行われた。
正徳四年十一月七日 / 冊子 168頁/整理ID 409
島津吉貴は琉球使者を伴って伏見を発ち、近江・美濃・東海の駅路に向かった。琉球使者に駅馬二百匹、担夫千人が支給された。
享保三年閏十月十四日 / 冊子 364頁/整理ID 977
吉貴が琉球使節とともに大坂を発ち、翌十五日に伏見へ着き、随行の船や使節の警衛を記した記事。
享保三年閏十月十八日 / 冊子 365頁/整理ID 980
吉貴が琉球使節を率いて伏見駅を出発し、江州・濃州・東海道を経る道中で駅馬百匹と担夫四百五十人を手配したことを記す記事。
〈寛延元年〉十一月二十二日 / 冊子 112頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0333
宗信公御譜は、宗信が琉球使節を率い、十一月二十二日に伏見の宿所を出て江州・濃州を経る東海道を東へ進んだと記す。道中のため伝馬百匹と担夫六百二十四人を給された。
〈宝暦二年〉十一月八日~十一月九日 / 冊子 374頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1133
宝暦二年壬申十一月八日、重年が琉球使と従者を率いて大坂の仮館を出発し、川をさかのぼってその夜は枚方に泊まり、翌九日に城州伏見の仮館へ着いた記事。諸役人が船を出して河流に沿って配置し、琉球使の船を警衛させる扱いは先の行程と同じであった。重年は伏見の仮館で二日滞在した。
〈宝暦二年〉十一月十二日 / 冊子 378頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1146
同年十一月十二日、重年が伏見の仮館を出発し、江州・濃州を経て東海道の駅路を進んだ記事。通行のため伝馬百匹と担夫六百五人が与えられた。朱書は、寛延元年の担夫が六百二十四人であったことと、今回は請いにより十九人を減らしたことを補記する。出典は重年公御譜。
天明元年三月六日 / 冊子 613頁/原整理番号 1742/整理ID 1742
国元への暇を許された島津重豪が、伏見から西宮まで通人馬で山崎道を通行したいと伺った書付。天明元年三月六日付。同日、留守居を介して御用番松平右京大夫へ提出し、付紙によって願いどおり許可された。
天明三年三月九日 / 冊子 688頁/原整理番号 1942/整理ID 1942
島津重豪が国元への暇を与えられたのを受け、伏見から西之宮まで山崎道を通人馬で旅行したいと伺った。付札には「勝手次第」と回答された。天明三年三月九日、留守居有川勇馬が御用番松平周防守へ伺書を差し出し、同日呼出しを受けて本城源七郎が出向き、付札で回答を受けたことを注記する。
天明七年四月二十四日(年は朱書) / 冊子 965~966頁/原整理番号 2614/整理ID 2614
同氏上総介が国元で入湯し、相応の時期に休暇中でも御国廻りをして参府したいという希望は、願いどおり認められていると記す。その際、西宮から伏見まで通しの人馬を用い、山崎を通って旅行したい旨を上総介が伝えてきたので、この件を伺う。四月二十四日付、松平豊後守の名を記す。
天保九年二月九日~三月廿七日 / 冊子 12頁/原整理番号 19/整理ID 19
天保九年二月九日に島津斉興が鹿児島を発ち、三月二十七日に江戸へ着いた記事。参府の途中で徳川家慶から宿次奉書により御鷹の鶴を賜り、伏見の宿駅で受け取ったことを記す。
文久2年4月廿三日 / 冊子 251頁/原整理番号 349の1/整理ID 349
雑集中の印刷の1。鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・森岡善助・奈良原喜八郎・道嶋五郎兵衛・大山格之助・江夏仲左衛門・山口金之進の八人を年齢付きで列記し、勇右衛門には深手、五郎兵衛には即死の注を付す。今日伏見で身命を投げ出して比類ない働きと誠忠を示したことを喜び、各人に切米十石ずつを宛行い精勤を求める同文を載せる。文久二年四月廿三日、御名乗御判とするが発給者の実名は記さない。八人と八通の発給を同一視しない。
文久2年戌4月廿三日暁(記事の日時) / 冊子 252頁/原整理番号 349の3/整理ID 349-2
印刷の3は有馬新七・弟子丸龍助・田中謙助・橋口傳藏・橋口壮助・西田直五郎・柴山愛次郎・森山新五右衛門の八人を年齢付きで掲げる雑集記事。八人が大坂から伏見へ抜け駆けして浪人に組し、申諭を聞き入れなかったため、前件の鈴木勇右衛門の列へ討手を命じ、文久二年戌四月廿三日暁に伏見の高道儀兵衛宅で討ち留め、皆即死したという記録。年齢には三十八九・二十六七など二数を並べた原表記があるので確定年齢に直さない。討留と即死は記事の記載として扱う。
2月(申渡、年不記);末注:亥2月15日九州路差立 / 冊子 282~283頁/原整理番号 394/整理ID 394
雑集中。侍長として村田源右衛門・平田五兵衛・大迫新藏・右松十郎太を挙げ、続いて和田孫右衛門・種子島六郎・長崎早太・伊地知宗助を列記する。これらの者を三郎の上京に伴う供奉役に命じ、当分の勤方を申し渡すとする。二月、筑後、注は川上久封。末注は亥二月十五日に九州路へ差し立て、ほかに三重中小姓六十人も一緒に差し越し、伏見で三郎の上京を待ち受けるよう命じたと記す。列記八名と六十人は別に扱い、この日を三郎本人の出発日や伏見到着日として認定しない。
慶応3年丁卯9~12月履歴記事/12月9日任命、同14日聖諭、18・21日巡邏命令 / 冊子 410~412頁/原整理番号 588/整理ID 588
御履歴の記事。慶応三年丁卯九月に茂久が一大隊を京都へ派遣し邸内に屯させ、十月に慶喜が政権を奉還して朝廷が允容したとする。十二月九日の議定任命と九門警衛の命、同十四日と記す聖諭を収め、新政の基礎、大政返上・将軍職辞退、摂関・幕府等の廃絶と総裁・議定・参与の三職、太政官の整備、礼式改革を掲げる。摶紳武弁・堂上地下の別なく公議し、言路を開いて人材を登用、物価騰貴と富者貧者の格差や政令の弊への献言を求める。十四日夜に慶喜が二条城を出て大坂へ向かったとの記事に続き、十八日の洛中洛外巡邏命令は町奉行所の当分の兼務、山城國中と市中の取締、六藩ほかの見廻担当を分ける。廿一日の伏見巡邏命令は人心不安・狼藉の鎮静を求め、取締は田宮如雲にも兼務させ、巡邏は長州・土州・藝州と同様に担うとする。同日小銃三隊・臼炮半隊を伏見へ遣わし異事がなかったとの結び。履歴の報告と引用命令を区分し、九月一大隊と十二月の派遣を合算しない。
卯12月21日参与役所の御用達(末は内田の首尾書に関する記録) / 冊子 436頁/原整理番号 611/整理ID 611
改革の多端に乗じ伏見で狼藉者が横行し人心不安であるとの聞得を理由に、厳重な巡邏・鎮定を求める朝廷沙汰を収める。伏見市在の取締は田宮如雲が兼勤し、長州・土州・藝州にも同様に巡邏を命じたと注記する。卯十二月二十一日に参与役所から至急の御用達があり、留守居付役永山左内が出席して非藏人葉室播磨から受領し、請書差出しを求められて差し上げたという。内田仲之助から佐次右衛門へこの首尾書があると記す。聞得、巡邏命令、受領と請書差出しを分ける。
12月27日認、岩下佐次右衛門署(十二日以降の動向報告) / 冊子 438~440頁/原整理番号 615/整理ID 615
十二日までの報告に続け、徳川内府・会桑の下坂、淀・伏見への人数繰出し、尾越両侯の仲介、慶喜への辞職・政務用途分の領地収納と公議による処置の沙汰を伝える。期限を七日として返答を求めるが、朝命への恭順が明確でないと述べる。西郷・大久保・自分の参与任命と諸藩の交名、宮門警衛の平常化、伏見の歩兵増員と乱妨の聞得、土藝の巡邏、奉行屋敷へ入った千人余の兵と当分の対陣、三條卿・宇和島侯の議定等を報告する。朝廷勤務が朝四ツから夜まで続くため小松の早い上京を望み、諸藩の異論で薩摩を孤立させる意図があるとの見方、乾退助らの引出しや津田側の尊幕論への懸念も述べる。近く飛脚を立てて大坂の形勢を知らせるとして、十二月二十七日に岩下佐次右衛門が桂・小松へ送る。
慶応4年戊辰正月(日不記) / 冊子 453頁/原整理番号 621の1/整理ID 621
大坂兵の出張が容易ならぬ事態だとの度々の言上を受け、薩州に伏見方面の防禦へ十分尽力し、早く人数を増して厳重に警衛するよう命じる。慶応四年戊辰正月と記し、追って長・土・藝にも同様に命じたと注記する。本文は薩摩国元の家老衆への添書末にあるとの表示があり、命令の対象・伝達の記録と実際の増員実績を分ける。
辰正月3日仰渡 / 冊子 453頁/原整理番号 621の5/整理ID 621-4
昨日至今晩に至る大坂兵の伏見出張は容易ならぬ事態で、そのままにはできないと述べる。一方で前から仲介の筋もあるため、まず人数を早く引き揚げさせるよう尾張大納言・越前大藏大輔へ求める。命に従わなければやむを得ず朝敵として処置するとの条件を示し、辰正月三日に仰せ渡したと記す。引揚げの交渉と不奉命を条件とする処置を区別し、この文書だけで引揚げや討伐が実行されたとはしない。
慶応4年辰正月6日、九ツ時着船 / 冊子 453~454頁/原整理番号 622/整理ID 622
去年十二月二十三日の江戸城西丸の出火、二十五日に幕人が芝邸へ踏み込み幼少者まで殺害し、先に出立した定府以外の残留者が戦闘で半ばになったとの報告を収め、櫻田・小山の邸も同様との聞得を記す。翔鳳丸が品川で定府乗船のため廻船した際の幕船との砲戦と小損傷、二日の平運丸への二度の砲撃と士官部屋損傷を報告する。三日夜に春日丸が兵庫で幕船五艘を認め、翌四日の出帆で一艘に追われて相互に砲撃したこと、翔鳳丸・平運丸も痛んで廻船し平運丸は瀬戸内へ向かったことを記す。伏見方面の出火も認めたとし、春日丸が今日到着して判明した内容として、慶応四年辰正月六日に乗頭井上新右衛門が記す。殺害・損害等は報告に帰属し、絶対人数や確定勝敗を補わない。
系図記事:明治元年戊辰正月・二月・五月、征討は翌二年まで / 冊子 454~455頁/原整理番号 624/整理ID 624
玉里久光公の系図記事として、明治元年戊辰正月、当藩兵が詔を奉じ長州等と鳥羽・伏見で慶喜側の兵を退け、慶喜が江戸へ敗走したと記す。同月に勅諭を受けて九州諸侯へ使者を遣わし順逆を問うたが異状はなく、二月には東征の詔により関東へ出兵したという。東北諸道の抵抗に対し多くの兵を送り、最後に函館の拠点を取り、翌二年まで征討が続いたと述べる。五月には辺陲の全安の功を奏したとして、詳しい経緯は忠義譜にあると二度参照する。軍功や敵対者への評価は系図記事の叙述に属する。
系図記事:明治元年戊辰正月3~29日 / 冊子 455~456頁/原整理番号 625/整理ID 625
忠義公系図の記事として、明治元年戊辰正月三日の鳥羽・伏見での戦闘に至る慶喜の辞職、会津・桑名等の下坂と奉行所滞在、諸藩警衛を記す。当藩の小隊・大砲隊・遊撃隊について鳥羽と伏見の配置、増援、四日の進撃、五・六日の追撃と淀・橋本方面の動き、七日の楠葉進出と諸隊の大坂下り・京都帰還を日ごとに列挙する。慶喜の江戸逃走、九日の大坂城火災、十日の仁和寺宮入坂を続ける。十二日に茂久が召されて参朝し、引用勅書で軍功を賞され、剣一口と陣亡者への金五百圓などを賜ったと記す。十五日の天皇元服とその翌日の茂久の参賀、太刀一腰・御馬代銀二十枚の献上、十八日の海陸軍務惣督任命と辞任、十九日の姫路征伐・二十一日の明石到着と姫路降伏、二十二日の帰還、二十五日の金二万両、二十九日の松平姓から本氏島津への復姓と忠義への改名を収める。評価と勝利叙述は記事に帰属し、隊番号・隊数・賜物の対象と原単位を分ける。
家譜記事:四年正月3日~二月朔日(任命17日・金24日を原で保持) / 冊子 457~458頁/原整理番号 627/整理ID 627
島津氏家譜の記事として、四年正月三日に大坂から伏見・鳥羽へ進んだ徳川側を当藩兵が朝命で止め、退く意志がないため両道で戦い、淀・八幡・大坂へ追い、慶喜が海路で関東へ退いたと述べる。姫路への征討、十二日の茂久の参朝と剣・勅書、戦死者の忠魂への金五百両を記す。十六日の元服奉賀で太刀と御馬代銀二十枚を献じ、十七日の海陸軍総督任命に対して十八日に若年・不材と職責の重さを理由に辞表を出したとして文言を引用する。二十四日の朝命と金二万両、二月朔日の本姓復帰の命を続け、松平を除いて島津に復し名を忠義に改めたと記す。軍功・勝敗の評価と日付は家譜記事に属し、他の系図・履歴の記事とは区別する。
本文二月(日不記、予定28・29日)、交付注:辰二月26日 / 冊子 523頁/原整理番号 682の2/整理ID 682-2
第一は、仏・蘭両公使が来る二十八日に上京し伏見駅に宿泊することに伴い、薩州へ警衛と御用取扱いを命じ、詳しくは外国掛へ問い合わせるよう求める。第二は、来る二十九日に両人が上京し相国寺が滞留所となるため、同所と途中の警衛を薩州へ命じる。各通末は二月。二十六日に軍防局から呼び出され、隈元敬一郎が出て非蔵人から二通を渡された旨の、内田仲之助から伊勢様への首尾書が添うと記す。
明治2年三月10日知政所(本文に二月28日~三月2日の旅程) / 冊子 648~649頁/原整理番号 837の1/整理ID 837-1
通達留。中将は機嫌よく、先月28日九ツ過ぎに大坂川口へ着船、翌29日午刻に上陸し、中一日滞在したと伝える。去る朔日から川を上り、伏見に一泊、翌2日巳下刻に京都二本松屋敷へ到着したとの報が届いたので、向々へ周知するよう求める。明治二年己三月十日、知政所。通知日と旅程の各日を区別し、原時刻を現代時刻へ換算せず、中将の姓名は本条のみで補わない。
目録年月日記載なし / 冊子 86~89頁/原整理番号 121
山田為正は順聖院様の御行実編輯にあたり、御記録所や家蔵の古記録・日記・系図を借りて調べる方法を論じる。史料所有者の意向、書写や書入の許し、編輯に用いる際の扱いを慎重に確認し、書面への意見を求める。
状一二八慶長十七年十二月廿六日 / 冊子 368~372頁/原整理番号 128
本多正信が羽柴陸奥守に宛てた書状。北郷讃岐守を通じて嶋津菊袈裟の交替を披露し、菊袈裟の帰路、将軍の意向および当地屋敷の普請への配慮を伝える。慶長十七年十二月二十六日付。後段には関連する諸書状・記録の書出が続く。
慶長十四年十一月六日 / 冊子 396~397頁/原整理番号 151
伊集院忠真の書状。幸侃の処分後の自身と家中の立場、庄内をめぐる交渉、惟新・龍伯らとの行き違いを説明し、公平な取次ぎを求める。慶長十四年十一月六日付、平野源右衛門尉宛て。
安永二年正月八日~二月二十四日の送葬記事 / 冊子 352頁/原整理番号 985/整理ID 985
重豪公御譜中に記された浄岸院の送葬と埋葬の記事。安永二年癸巳正月八日に遺骸が伏見へ着き、十日に大坂へ到着、一日滞在して十二日に大坂を発し、二月四日に豊前州大里へ到着した。先に派遣された一族島津左衛門久健と寺社奉行伊勢兵部貞矩が藩府から大里へ出向いて棺を迎え、両名が随行した。同月十五日に薩州出水へ着き、十九日未刻に領内の福昌寺へ入り、輿を御所の間へ安置した。二十日夜に入棺し、二十四日夜に葬礼を行い、棺を客殿へ移して法筵を開いた。懿親の島津備前貴儔が重豪に代わって焼香し、その後霊柩を葬場へ出し、貴儔が神主を奉じて、儀礼を整えた。玉龍山上へ葬り、廟を建て、その壮麗さは他の廟に比べようがないと結ぶ。到着・安置・入棺・葬礼・埋葬を、それぞれの記事の日付に沿って記録する。