島津忠朝書状
(大永二年)二月廿八日 / 冊子 639~640頁
島津忠朝が本庄伊賀守に、北郷と山田・野々美谷をめぐる争い、伊東尹祐による調停の経過を述べ、引き続き仲介するよう求めた書状。
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(大永二年)二月廿八日 / 冊子 639~640頁
島津忠朝が本庄伊賀守に、北郷と山田・野々美谷をめぐる争い、伊東尹祐による調停の経過を述べ、引き続き仲介するよう求めた書状。
(大永三年)二月廿八日 / 冊子 642頁
島津忠朝が本庄伊賀守に、国中の弓矢・紛乱と旧冬以来の調停について述べ、早期に和平が成立するよう尽力を求めた書状。
(寛永十二年)三月廿三日 / 冊子 476頁
島津家久が本田伊賀守へ、上洛後は好天が続いたので無事に到着しただろうと述べ、美作守が急病となり医師理心の薬で養生していること、自身も二度見舞い、脈は良いため回復を期待して続報を送ることを伝えた書状。
十一月六日 / 冊子 35~36頁
町田久倍が、山城入道の居所と城屋敷の配当について蒲地伊賀入道・大野将右衛門尉へ伝えた書状。山城入道が城屋敷へ移ったかを尋ね、麓に人がいないため城屋敷へ移す方針を述べる一方、配当については当面差し控え、あらためて相談するよう求める。
五月十八日 / 冊子 36頁
本田親貞が、公儀の用務に関する人員招集と家名帳の作成を蒲地伊賀入道へ命じた書状。公儀の許可なく上洛することを禁じ、蒲地本人または所衆二人を今月二十四日までに出頭させること、二十石以下の者は敬称を除いて家名を帳面に記すことを求める。
四月十一日 / 冊子 37~38頁
町田久政が、公役人員の名簿と門前屋敷をめぐる処理について蒲地伊賀入道へ回答した書状。別紙の人数書付を送り、新城にいる山田藤内左衛門への連絡を求めるとともに、門前屋敷の持合や旧来の墨付をめぐる問題は、存松の帰着後に協議する方針を示す。
応永十八年十月九日 / 冊子 253頁
樺山道春が、日向国宮崎郡内の戸次丹後守跡三分一、樺山北方・南方の田島、仲牟礼・浦牧野の村など四か所を譲与し、教宗の下知に従って諸役を勤めるよう定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 720~721頁
鹿児島方面の合戦で新納勢が敗北し、敵方諸将が処刑・戦死した経過を箕輪伊賀が記す。相州家の危急を訴え、梅岳君・勝久らの動向を述べる一方、討伐された者の子が後年に召し出され、父祖の奉公を考慮して恩賞を受けた戦後処遇までを伝える。
年月日未詳 / 冊子 859~861頁
箕輪伊賀が天文十七年の清水城・姫木城争乱を記した覚書。本田紀伊守・北原方と島津貴久・伊集院忠朗方の出陣、城への攻撃と救援、周辺への放火、軍勢の進退を日を追って述べ、大隅の複数城を連動させた戦線の推移を伝える。
年月日未詳 / 冊子 881~882頁
箕輪伊賀の覚書が、加治木攻めで伊集院忠朗方が黒川崎に陣を構えた戦況を記す。敵方との矢戦、民家・陣所への放火、陣幕が焼失する混乱の中での応戦を追い、島津貴久方・北郷方・本田方の兵が各持場で攻防した経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 921~922頁
箕輪伊賀の覚書が、天文二十三年九月十三日以後、貴久方が平松から帖佐・岩剣方面へ軍を進めた経過を記す。陣取り、斥候・使者の往来、城方との矢戦、民家への放火、討死・負傷者の発生を日を追って述べ、長期化した攻城戦の実態を伝える。
元亀三年三月中旬 / 冊子 263~264頁
伊東・肝付・伊地知方が小禰寝へ出兵して浜城を落とし、本城麓へ放火した。園見城から喜入図書助・弟小四郎が加世田勢を率いて奮戦したが、多勢に敗れて兄弟とも戦死した。続く岩瀬戸口の追撃戦では猿渡越中守・井尻伊賀守・喜入摂津守・平田新左衛門らが働き、敵も損害を出したものの、この戦いは伊東・肝付方が小利を得て退陣したとする。
元亀二年十一月廿日以後 / 冊子 310頁
瀧水合戦後、平田美濃守が従軍者を伴って鹿児島へ参上し、島津義久から異例の武運を賞賛された。伊地知方使僧の証言により、白檀磨きの鎧武者は老臣伊地知伊賀守、戦死者は馬場玄蕃・田上助左衛門と判明した。勝部与左衛門の鉄砲技量や田上兄弟の武名、のち禰寝重武が帰順して逃走者の姿を証言したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 800-801頁
天文十一年三月、樺山安藝守の隅州小濱の城へ南方勢が攻め寄せたため、日新公・貴久方が援軍を発し、北原方と対陣した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 802頁
種子島父子の争いに際し、貴久が新納伊勢守を大将として二百余騎を船で派遣したことを記す。交渉で父子を和解させ、軍勢は無事帰帆した。
年月日未詳 / 冊子 878頁
天文十八年三月十一日、清水から飫肥へ出陣し、四月三日に伊東方の攻撃を受けて多数を討ち取ったのち、陣を引き払った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 47~48頁
菱刈勢が蒲生を救援して北村表に陣を構えたため、弘治三年四月十五日に島津軍が攻め破った経過を回想する。忠平が荒平に陣を進めて蒲生城を攻め、蒲生方が降伏・退城した後の地頭配置まで記す。
年月日未詳 / 冊子 75頁
永禄二年秋、伊東義祐が飫肥の島津忠親の城へ攻め寄せたため、忠平が救援を願い出た経過を記す。貴久・義久が当初制止したが、忠平は忠親との親子の契約を理由に、兵三百を率いて飫肥へ向かった。
年月日未詳 / 冊子 77~78頁
永禄三年夏頃、伊集院忠純の家臣の言動を発端に肝付兼続が島津貴久を怨み、鹿児島を去った経緯を詳述する。兼続方は廻伊豆守の城を奇襲して奪い、伊豆守を討ち、兼続自身も廻城へ入って島津方と対立した。
永禄九年十月十五日~廿六日 / 冊子 155~156頁
飯野防衛のため小林三之山城を攻めた経過を、各軍の進路と将兵の働きに即して記す。義弘勢が二之丸、歳久勢が二重城戸へ迫り、田尻荒兵衛らが奮戦したが、義弘が負傷して兵が動揺したため、義久の命で順次退却し、追撃兵を伏兵で討って飯野へ引き上げた。
永禄十年八月~十一月廿五日 / 冊子 174~175頁
菱刈方の野心を察した島津方が、小林出勢と披露して軍勢を横川へ通しながら、実際には軍路を変えて永禄十年十一月二十四日早朝に馬越城を急襲した経過を記す。義弘らが井手籠父子を討って城を落とすと九城が一日で退去し、菱刈方は大口城へ籠った。相良頼房は球磨・八代・葦北勢を動員して大口城へ援軍を入れた。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 178頁
永禄十年十二月二十九日、市山口の足軽が無評議で大口城麓へ近づいたところ、球磨・大口勢が大軍で出撃したことを記す。市来家利・平田加賀守・伊集院久慶は西原川口で戦ったが討死し、敵は市山まで追撃したものの鉄砲で大きな損害を受けて大口へ退いた。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 190~191頁
永禄十一年正月二十日の大口・羽作瀬合戦を詳述する。川上久朗が飛田瀬で敵を支え、義弘は弓で応戦しながら殿を務め、難所の大河を渡った。追撃兵に囲まれた義弘は甲に多数の鑓を受け、家臣に助けられて渡河し、長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉らが戦死したが、義久・貴久の援軍到着により敵は退いた。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194~195頁
小苗代原へ出た新納忠元が薬師堂を拝み、堂の板へ歌を書こうとしている間に敵が迫り、家臣久保筑左衛門・尾崎能登に引き下ろされたことを記す。忠元は白坂口で八代の的場五藤兵衛と太刀で戦って顔にも傷を負い、春成外記が弓で敵を射伏せた。求麻方の東藤左衛門・愛甲助三郎らが突入したが、鎌田壱岐守らが討ち取り、寄手は退いた。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 195頁
小苗代原合戦の別方面で、馬越・加治木・市来・伊集院・川辺勢が敵二千余騎を受け止め、肝付兼寛が軍配を執ったことを記す。新納久継が負傷する一方、鎌田政年が敵味方の間を駆けて指揮し、面高真連坊が鉄砲で八代の牧野次郎左衛門を倒し、田実右京亮がその首を取った。日暮れに双方が退いた。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 196~197頁
永禄十一年三月二十三日、相良・菱刈・入来院・東郷・祁答院勢が曽木城を攻めた際、宮原景種・越中守と佐多山城守らが防戦したことを記す。敵は攻めあぐねて市山城へ転じたが、手傷を負っていた新納忠元が白坂口へ出て迎撃し、永福寺口でも本田掃部兵衛・河野玄蕃允らが戦ったため退いた。
永禄十一年五月上旬 / 冊子 198頁
永禄十一年五月上旬、山野・羽月・平泉の番替えが行われる時機を狙い、大口城から野伏が仕掛けられたことを記す簡潔な覚書。
永禄十一年八月十九日 / 冊子 201~202頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が深水三河守を大将として堂崎に陣を取り、伊東勢も桶比良へ進出した。義弘は飯野へ戻り、菱刈表から援兵が送られたが、大雨で誘引・伏撃策は実行できなかった。大口方は馬越・田中河内で番替え部隊を襲い、川上丹波守・堀之内二郎左衛門と是枝大膳坊が戦死した。日新は長陣と損耗を避けるため山野を相良方へ譲って一時和睦するよう勧め、感応寺和尚の仲介で和議が成立した。
天正19年3月吉日 / 冊子 316~318頁
城攻めの際に城内外で戦った武士を、一番から五番までの組、門・櫓・城壁などの持ち場ごとに列挙した覚書。鉄砲・刀・槍による戦闘、誰が討死・負傷したか、敵がどこから侵入したかを細かく記す。守備隊の編成と攻城戦の現場を人名単位で復元できる長大な実戦記録である。
年月日未詳 / 冊子 267頁
応永十九年九月十五日の山東曾井城合戦で高木左馬助家近江守が戦死し、ほかにも多数の死傷者が出たことを記す。樺山伊賀守興久の戦死に関する異説も付記する。
年月日未詳 / 冊子 294~295頁
応永二十三年正月、柳田大膳の策で小田原弾正が輪千手堂坊へ誘い出され、自害したことから家臣同士の戦闘となり、本田伊賀守ら多数が死んだ事件を記す。久豊の対応、伊集院方との関係、遺族・家臣団の動向も続けて叙述する。
年月日未詳 / 冊子 295頁
応永二十三年正月十三日、千手堂で久世方の侍中太郎らが自害・殉死し、本田伊賀守、小田原弾正、天辰助次郎らを含む二十一人が殉死したと伝える戦死者名記事。姓名不詳者がいることも注記する。
年月日未詳 / 冊子 535~536頁
祁答院某が使者を鹿児島へ送り、飫肥出陣への謝意と今後の奉公を島津忠昌へ申し入れた経過を記す『文明記』。梅吉・伊賀守ら老名衆を介して処遇を交渉し、太守の命に従って本領を退去し福島へ移る条件が整えられた。代替として吉松を給付することで降伏・帰属を確定しようとした。
(大永三年)三月廿八日 / 冊子 643頁
大友親敦が島津忠朝に、和平が整ったことを喜び、今後の連絡と本庄伊賀守への伝達を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 683頁
町田氏の支流について、石谷高久から左京亮頼本・伊賀守梅吉・忠榮・八郎左衛門尉らへ続く系統と法名を記す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 233頁
七月十四日、吉利下総守が三城から宮崎へ至り、国境に異変がない旨を上井伊勢守へ報じたこと、井尻伊賀守が八代から封物を携えてきたことを記す。さらに長寿院・大善坊を京都へ遣わし、前年に鎌田刑部左衛門尉を介して関白へ伝えた件を再度説明しようとしたが、鎌田の病で果たせなかったという。国境情報と京都外交の連絡経路を併記した記事である。
年月日未詳 / 冊子 592-593頁
十月三日、島津忠倍らは海陸から進み佐敷浦へ船を出したが、加藤方の井口伊賀が十八艘の兵船で襲来した。竹内備前守実康父子の小舟一艘と合力して戦い、忠倍は名と年齢を記した矢を放って敵二人を倒したが、忠倍をかばった蒲尾勘解由貞清が鉄砲で討死し、ほかにも負傷者が出た。夕刻に双方が退き、十二月には忠倍父子が宮城へ移った。
年月日未詳 / 冊子 628-629頁
国元から島津義弘(惟新)の陣へ後詰衆が多数到着した際、河田源兵衛と野村弥次郎が曽根の先手で敵を誘い出して交戦し、源兵衛が目立つ騎馬武者を鉄砲で射落とした。本田伊賀守も加勢し、翌朝、石田三成は若年の源兵衛の手柄を賞して腰物を与え、義弘も本田伊賀守へ腰物を与えた。
慶長十六年正月十七日 / 冊子 310~311頁
慶長十六年正月十七日、蒲池休右衛門尉・本田伊賀守が島嶼検地の組頭へ出した連署達書。飯米・薪・酒・米・船頭食・油などの支給基準、現地調達の手順、百姓への寄付・人夫徴発を不当に行わないことを細かく定める。
(慶長十九年)八月十二日 / 冊子 544頁
有馬辺の様子を案じて本田伊賀守を現地に置く意向への返書。急に軍勢を入れる必要はないと見込み、必要時は山口直友・三原諸右衛門尉と相談して報告するため、本田をひとまず帰宅させるよう述べる。
(慶長十九年)八月十三日 / 冊子 545頁
本田伊賀守らが見回りのため当地へ派遣されたことを報告する。先便のとおり当面は軍勢を必要とせず、本田にはひとまず帰るよう伝え、必要になれば遅滞なく要請すると回答する。
四月廿二日 / 冊子 157~158頁
島津久元と伊勢貞昌が川上将監・弾正大輔に、甑島は海を隔てた一所で旅人が集まるため、奉行格の者を常置して統制すべきだと命じた連署書状。伊賀守を地頭兼申老者として琉球へ派遣した事情や、市来八左衛門らによる統治を踏まえ、無届の移動や他人への奉公を禁じる従来の法度を改めて徹底させる。
年月日未詳 / 冊子 293~294頁
河邊・伊作勢との和睦と久豊の帰還をめぐる交渉の後、輪千手堂坊を舞台に家臣団の謀議と自害・討死が続いたことを記す。久世の調停が進まないなか、本田・小田原・柳田らを含む近臣の対立が深まり、多数の死者を出した経過を叙述する。
(慶長九年) / 冊子 944-945頁
島津義弘が、呂宋渡海船について山口直友へ照会し心配不要との返答を得たと報じる。海路・京都滞在中に家臣の狼籍がなく、所司代板倉勝重からも薩摩衆の宿取りを称賛されたとして、阿久根で定めた法度の効果を喜んだ。
年月日未詳 / 冊子 693頁
薩摩西方の諸島では支配者不在のため他国からの逃亡者や商人が集まり、農漁業・魚塩交易が広がっていたことから、家久が島々の住民・土地・産物などを調査し、明細帳を作るよう命じた経緯を記す。
貞応二年八月六日 / 冊子 137頁
関東が伊賀国守護使による長田庄への乱入を停止した下知状。前守護の時から使者不入の庄であるとの地頭の申立てを認め、大番役・謀反・殺害の沙汰を除き、守護使の入部を禁じる。
貞応二年十二月八日 / 冊子 138頁
伊賀国長田庄地頭の解状を受けた関東御教書。守護所使の狼藉について入部停止の下知が済んでいることを確認し、追捕された物は調査のうえ返付するよう武蔵守へ命じる。
嘉永六年十二月十四日・十七日ほか。正月三日夜到来の朱注(翌年とみられる) / 冊子 146~147頁/原整理番号 212の6/整理ID 211-2
道中で鉄砲十挺を携行する伺い一件の後半。「の6」は半田嘉藤次が用番松平伊賀守の取次飯塚勝之助へ書附を持参し、演説して差し出したところ落手したと伝える十二月十四日の報告で、箱根その他の関所へ許可の趣旨を通達するよう求める。「の7」の書附は、近海の外国船警衛に伴い一万石以上の者が領内に鉄砲を備える触達を受け、道中上下でも十挺を持ちたいと願ってきた経過を述べる。九月十五日付伺いと阿部伊勢守への内見、用番松平和泉守の吟味、留守居への御付札、国許で正式に申し上げるよう求めたこと、十四日に伊賀守へ関所通達依頼を提出し落手したことを記す。朱注には正月三日夜到来・極々急飛脚便とある。末尾の嘉永六年十二月十七日付家老問合書は、島津右門久福・末川近江久平から豊後・筑後・石見・伊織へ宛て、留守居首尾書等六通を添え、願済みであれば表方の使者で御請して往返日程を調整するよう求める。右一冊終レリで一件を閉じる。
卯12月慶喜署(城中拝見・大目付から渡された奏聞書) / 冊子 436~437頁/原整理番号 612の2/整理ID 612-2
卯十二月に城中で板倉伊賀守が拝見を命じ、大目付松平大隅守から渡された慶喜の奏聞書を収める。慶喜は政権を一つにして天下の公議を尽くすため政権を奉帰し、諸藩の意見を求め将軍職辞退も申し上げたと述べる。一方、召された諸侯とともに協力する意思を示したのに、関東の全領を前提とする沙汰、列藩の衆議を経ない改革、兵による宮闕立入り、摂政の停職、宮堂上方や公卿に関する処置等があったと批判する。自分の奉忠は理解されず改革の経緯が疑わしく、乱階・財政や皇統・外交への危惧があると主張する。その上で聖意の沙汰と公論に従い、公明で正大な速やかな処置を望み、正邪の混同や好悪による扱いを避け、万民の安堵を図るよう願う。政治評価と事件叙述は慶喜の主張に帰属する。
二月十五日 / 冊子 142頁/原整理番号 240
松平伊豆守の命として本田伊賀守へ、前年冬に切支丹へ与同し各地へ放火して富岡城を攻めた天草百姓について、松平主税助・伊東大和守・寺沢兵庫頭と薩摩勢が合同で糺明し、難渋する者を処罰し、逃散者を捕らえ、村へ戻して治定するよう求めた書状。本田久左衛門尉へ渡された。