某覚書
(寛永九年)十一月二日 / 冊子 322頁
軍役・城備えに関する覚書。先手・二番手の主取、留守居、馬廻衆、船手主取、百石当たりの人役、要地への配置、出水・菱刈衆、法度、幟と鉄砲小指、乗馬数、加治木方人数、蔵入使、兵糧、町人への役負担、普請具の用意などの検討項目を列記した。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(寛永九年)十一月二日 / 冊子 322頁
軍役・城備えに関する覚書。先手・二番手の主取、留守居、馬廻衆、船手主取、百石当たりの人役、要地への配置、出水・菱刈衆、法度、幟と鉄砲小指、乗馬数、加治木方人数、蔵入使、兵糧、町人への役負担、普請具の用意などの検討項目を列記した。
宝暦十二年十二月四日辰上刻(本文。年は関連文書による) / 冊子 941~943頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2746
十二月四日辰上刻、保姫が刑部卿の屋敷表門から発輿し、八代洲河岸・日比谷御門・新橋・西之久保八幡・赤羽橋・諏訪安藝守屋敷前を経て東御門へ入る次第を定める。道筋の辻には馬廻二人・歩行二人・硯箱と料紙を持つ足軽四人を配置し、東御門と中門の左右に立番八人、先行女中の案内に奥附士一人・足軽四人を置く。輿渡の田沼能登守と貝桶渡の末吉善左衛門を迎え、新奥への案内と酒井飛騨守への接遇を整え、輿は島津左中、貝桶は主鈴が受け取る。乗物は奥附士十六人が扱い、鎖口からは内奥大番六人が輿を通し、高橋縫殿が輿に添い、刀・弓・長刀・日傘・建輿・袱紗箱・茶と弁当などの受渡し、後続女中の下乗、惣供の南御門からの引取りを役別に定め、行列は別紙によるとする。
安永四年五月二十六日(年は朱)、包紙も未五月二十六日 / 冊子 456~457頁/原整理番号 1266/整理ID 1266
高百五十石ずつ、浄國院・有邦院・慈德院・圓德院の菩提のため、それぞれの名で寄付し、その所務を年々福昌寺・浄光明寺へ相渡すことを述べる。各法号には吉貴・継豊・宗信・重年の注がある。また寛陽院・大玄院の寄付高も同前と仰せ付けられたとし、光久・綱貴の注を伴う。近日、御判物・御書付は大御目付の御使者によって各寺へ渡し、家老中の書付は御馬廻をもって同日に渡す予定を記す。この先例に従って首尾を整える旨を寺社奉行へ申し渡し、御記録奉行やほかの関係者にも漏れなく例の通り伝えるよう求める。ただし日限は追って申し渡すと付す。末尾は朱の安永四年五月二十六日、仲、重豪公御譜中の写で正文は文庫。包紙には朱の七十五、未五月二十六日、白木御文書五番箱へ郡山主右衛門が納め置いたとの注がある。文書の種類ごとの交付役と年々の所務を分け、交付日を五月二十六日と補ったり、五番箱を五箱の数量にしたりしない。有邦の原表記は先行の宥邦表記へ一律に改めない。
文化10年閏11月3日崩御・12月26日香奠(記事) / 冊子 429頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1334
重豪公御譜中。同年閏11月3日に仙洞が崩御し、謚を後櫻町院というと記す。12月26日、重豪も馬廻四本甚七兼方を仮に物頭として遣わし、泉涌寺の霊床前へ香奠銀3枚を献じた。これは大家が諸侯に来献を命じていたためとする。年は目録文化10年。崩御日・閏月と献奠日、使者の馬廻という本役・仮物頭の役割、銀3枚・献上先・大家の命令を区別し、数量を3両へ変えず葬送全般や個別参列を本文以上に補わない。
宝暦十二年十一月(次第施行朔日) / 冊子 935~937頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2736
十一月朔日、薩摩守側で結納祝儀使者を迎える取持次第で、表門から入れた品を馬廻が受け、四時に来着する御番頭衆を用人二人が迎えて書院三の間へ案内する。家老が口上を受け、二の間で酒肴を供し、上の間で薩摩守が対面して家老が太刀目録を披露し、盃を薩摩守へ納めて返答し、玄関まで見送り西門から退出する手順を定める。使者には縮緬三巻を贈り、隼之助・鎌三郎の使者にも鳰之間で口上を受けて酒肴・紗綾三巻を出し、随行者へ銀二枚・金子二百疋・青銅十二貫文などを配り、内玄関でも酒肴や赤飯・煮染を供する。保姫への小袖三重・帯二筋・末廣二本・塩鯛一折・鰹一折・昆布一折・樽五荷、刑部卿・豊之助への太刀と金馬代一枚、刑部卿への三種二荷・豊之助への二種一荷、隼之助・鎌三郎への箱肴二種ずつと、高橋縫殿らの使者役も記す。
明和四年十二月(朱十六日、首途式十九日) / 冊子 181~182~183頁/原整理番号 450/整理ID 450
十二月十九日の首途式について、対面所から出て城下吉野橋筋を行列し、請笠・竪笠・鉄炮二挺・弓台二肩・旗竿・鎧一領・道具四本を伴い、四時に諏方へ参詣する次第を定める。山伏金藏院が先に控えて海陸の安全を祈り、安養院が供し、祇園前から召船に乗る。供の家老は羽織袴で乗馬、用人以下は駕籠廻りを勤め、馬廻新番・歩行・筆者・小役人も羽織袴とする。用人以上は長柄の手鎗を持ち、馬廻新番は持たない。諏方社の御膝着青銅百足、諏方・祇園両社の神楽料青銅各六十足、安養院からの盛塩と三献を記す。供の御側小姓は二人で一人を御名字下から勤めさせ、安養院へ先に入る。住持の一束一本進上と御目見、奏者番の麻上下・進物番の羽織袴、安養院への引次拝領青銅百足、大乘院坊中が取り次ぐ五ヶ寺の御目見を定める。吸物・挾肴・盃・銚子・茶の供し方、安養院への吸物等の拝領青銅二十足も記す。終えて祇園へ参詣し、伊集院覚左衛門屋敷前を通って召船に乗る。家老・用人には小早を各一艘渡し、築地御普請方脇の波戸で着船、江戸橋金藏前・御蔵下辻番脇筋から帰館する。その他の供は上築地通・琉球假屋前新橋・御普請方前小路で控えて帰館の供を勤め、町田源左衛門屋敷角から清水馬場筋への繰入れも指示する。帰館後は本丸で御處斗・茶・吸物・銚子・御差味・平皿・菓子等を供し、供の諸役にも酒を下す。出御・帰館とも役を平日どおり勤め、近習番所で祝儀を申し上げる。担当役と供の面々へ伝達・申渡しを命じる。伊織・仲の署に諱注、関山新左衛門の取次記載を備える。年は明和四年朱注、本文は十二月、末尾に亥十二月十六日の朱注がある。扣正文は家老座にある。
明和七年五月(日無記載) / 冊子 260~261~262頁/原整理番号 694/整理ID 694
結納・婚姻に向けた警固、支度、室内飾り、食事、祝いの手順を定める。時触は例どおり、表門押番二人、張番所物頭一人、兵具所肝煎、小番・大番・打込番は麻上下、足軽は羽織袴とし、御勝手御書院の掛物・生花・棚飾を整える。見舞客のため五、六人前を御末の仕出しで用意し、付使者があれば鳩之間で二汁三菜、菓子、薄茶を出し、出入医師も同様とする。出座して見舞う馬廻二人を置き、物奉行は十人前を手当てする。使者の格式によって取次の間へ案内し、用人が返答、相手の格式に応じ甲用人・留守居が伝達し、広間詰小姓も適宜命じる。御中奥は寿老人の掛物・立松・棚飾・丁子風呂を整え、在土は原島津久柄室と注す葦殿へ参上するよう、先に年寄から文で伝える。中奥に太守様・御前様が着座し、熨斗は白木三方で、茶、式三献、雑煮、差味、塗三方の土器、挟肴、銚子、吸物・掛盃、簡の銚子を順に出す。夫妻は葦殿で相伴し、意次第で二汁五菜の料理、御肴の居付、銘々の盃、銚子、肴を出す。続いて吸物、島臺、挟肴、銚子、湯、菓子、濃茶、後菓子、薄茶、時節に応じた間の吸物・肴・菓子、意次第の後段を用意する。年寄・若年寄・表使・中臈・若女中へは吸物・銚子を、以下へは取肴・酒を下す。納殿役人は年寄と同様、葦殿供の年寄は若年寄と同様、供女中は取肴・銚子とする。表家老には中奥で吸物・取肴・酒を、御前様からは盃を戴いて肴を下し、側用人・表用人・近習・納戸奉行には近習の吸物・酒を配る。中奥の側用人・近習・納戸奉行・納殿役人にも同様に出し、側廻・奥勤の者には席で取肴・酒を、年寄・若年寄・表使・中臈・若女中には酒を通す。樽肴は太守様・御前様の年寄から浄岸院様へ内々に進める。御守殿その他へも祝いを伝え、役人の祝儀が済んだら家老へ挨拶し、諸士は当日または後日の精進日間に帳面へ記して退出する。末尾は明和七年の朱注、五月、左京の署で、手当てを命じ、日限は追って知らせるとする。
安政三年二月 / 冊子 169頁/原整理番号 235/整理ID 235
公辺が近年、学問武芸を第一に心掛け質素節倹を守るよう命じているとして、諸士一同に文武の修行をさらに厚く励ませる申渡。春の諸役人、馬廻・新番・横目・中小姓・諸座書役・諸士・郷士・与力等を順次名指しで呼び出し、前年冬に調べた武芸に加え学問・手跡の状況も吟味するよう求める。末々まで伝達を行き届かせ、勤めや遊歩等の外出は申し立て、参加しない場合もその都度調べること、平素の心掛けのよい士や文武練達者は支配頭が調べて早く名前を届けることを指示する。別紙御書取に基づき学問武芸・手跡の修行を徹底し、今後御試がある可能性も踏まえて御趣意を深く受け、修行を怠らず質素節倹を守るよう諭す。江戸での申渡が届いたため各方面へ漏れなく通達する旨を記す。安政三年二月の表示、嶋津下総・末川近江・新納の名と当時の国老であるとの注を伴う。
(寛永九年)六月十一日 / 冊子 279~281頁
島津久元と伊勢貞昌が、家中の乗馬を五百騎と定め、四百十一騎が有分、御蔵入から五十騎を仕立て、残る八十九騎の不足を補うことや、高二百石以上を常時乗馬とすることを示した条書。先備・二番備・三番備・左右備、馬廻・使番、外城小給人の配賦を定め、乗馬の差物・馬具・腹巻、軍役衆の船賦、琉球からの合力銀、御座船、弓、鉄砲百挺とその口径、召立衆、兵道粮の人数、幟の紋など、国元の軍役・出陣準備を具体的に整えるよう命じる。
〈寛延四年〉八月二十一日 / 冊子 322~324頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0951
八月二十一日、嶋津主殿・伊勢兵部・義岡相馬・嶋津主鈴・鎌田典膳・河野八郎左衛門の六家老が、平田靭負・市来左中へ、大御所の遺物を太守・隅州・菊姫が拝領した後の謝礼について返答する。上使小出信濃守への御礼を山澤小左衛門が酒井左衛門尉の御用人に取り次いだところ、名代で御礼するよう上使から伝えられたという。国元で聞き合わせた結果、名代御礼の筋は当初から定まっており、上使の有無によって変わるものではないとする。大御所の隠居祝いに慈徳院が腰物を授けた例と、延享二年十一月、病身の隅州に代わり嶋津加賀守が登城して謝礼した例を挙げる。この時は老中・上使側へ直接廻勤し、若年寄へは家老の使者、側衆・物頭へは使者を遣わした。在国の慈徳院遺物拝領では御用番に相談して使札を勤めたことも示す。 今回も先例に従い、上使への御礼を使札で勤めたい意向を伝える。小左衛門からの口伝と廻勤例書による説明だけでは不足があるとして、堀田相模守へ内談し、留守居と御用人浅井八兵衛を通じて詳しく調整するよう求める。使札の扱いが整わなくても名代御礼に差し障りがないようにし、老中・上使側への名代の廻勤、若年寄への家老使者、側衆・物頭への使者を先例に合わせて勤める。御書の案文は佐々木に差図し、国元で判紙を整える。 太守は当分忌中なので、忌明後に御礼を勤めることとする。隅州は忌明となり今日御頂戴し、名代御礼の首尾を申し越すよう求める。同日、日積を付けて加賀守へ依頼し、淡路守にも連絡する。国元では十一日付の判紙を整え、老中その他の役人への書状と、使札を勤める場合の使者を先格に従って準備する。大御所からの腰物拝領時に国元の馬廻を使者にした例を挙げ、今回も使札が整えば同様に取り計らう。御内証の謝礼、太守・隅州の御礼、菊姫の御手鑑拝領への謝礼は別紙朱書返答によって相談し、日光宮・御三家・御一門その他へ拝領を知らせる件も別紙で伝える。隅州の御礼が済んだ首尾と、太守の忌明後の御礼の扱いを報告するよう結ぶ。
〈宝暦三年〉八月二十一日 / 冊子 417頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1283
前年、琉球中山王尚穆が謝恩使今歸仁王子を江戸へ遣わし、使者は任務を終えて琉球へ帰った。そのため尚穆が湊川親方に幕府宛の書翰と献物を持たせて薩府へ送った記事。先例に従い、当年八月二十一日、重年は家臣の馬廻村田藤兵衛経芳を江戸へ急行させ、書翰と献物を幕府へ伝達・献納させた。出典は重年公御譜。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 445~446頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1366
一色周防守へ差し出した書付として、元木屋に置く役人・人員を列挙する。用人一人、用人格一人、留守居一人、本々役一人、目付一人、医師四人とし、外小役人、馬廻十二人、歩行士三十六人、足軽を掲げる。外小役人・足軽には本覚内で人数を記さない。末尾に右御場所へ差し出す分との説明があり、このほか惣奉行を始め国元から近く到来する者がいるとし、平田正輔の注を付ける。
文政5年3月2日昇任/3月9日献上(年は配列) / 冊子 614頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1841
重豪公御譜。三月二日、御臺様が従三位から従二位へ昇任し、御簾中が従三位に叙されたと記す。九日、重豪は物頭町田平實盈を本丸へ遣わし、大家へ二種・五百疋を献じた。物頭中村黑人義祇を西丸へ遣わして儲后へ同じ二種・五百疋、留守居助本田孫右衛門親惠を本丸へ遣わして御臺様へ二種・五百疋、留守居助町田孫太夫俊智を西丸へ遣わして御簾中へ二種・五百疋を献じた。實盈・義祇は使番、親惠・俊智は馬廻として江戸在勤中で、当日は仮の物頭・留守居助を務めたとの注を持つ。各位階を祝い、斉興・斉宣も献物に差があって各譜に載せると結ぶ。御臺様の位階はNo.1837の「従二位→従一位」と異なり、両方を残して留保する。入力の「従二位昇任」は本文の前後の位階を併記し、二種の品目や五百疋の単位を両へ換算して補わない。
天保4年正月26日(年次朱書、月日本文) / 冊子 944頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2659
猪飼央が四家老へ送った弔問・使者の取扱いについての書状。重豪の死去につき御内證様から見廻り等の使者を出すかについて、賢章院様(島津斉興室)が亡くなった際も使者が差し越されたため、そのように吟味して指示されたと述べる。圓徳院様の逝去時には寄合以上の相中使や馬廻などに小姓を付けて差し越し、一門方では自分の使者を出さず書状で申し上げたと説明する。今回も圓徳院様の先例通りに扱うよう指示を受けたとして、この内用の趣旨を伝え、逝去報の飛脚到着後に先例通り取り計らうよう求める。正月二十六日付、朱書天保四年、猪飼央署。使者・付添小姓・書状による弔問を分けて記録する。
天保4年2月20日夜・24日(年次目録、月日本文、時系列留保) / 冊子 956頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2688
重豪公御譜中の、江戸からの凶報と領国での発喪の記事。本文は「二月二十日夜」、江戸から飛報が届いて重豪の凶信を伝えたと記す。その夜に家老・若年寄・大目付と家老座書吏等が登城し、翌日発喪して国中で密八音を奏した。二十四日、斉興の生母を江戸へ遣わすため、広敷番の頭田尻小次郎種常を派遣したと記す。一門・一族、家老・若年寄・大目付・一所持・一所持格・寄合・寄合並・諸有司へは、目付裁許掛の近藤彦左衛門正為を遣わし、本文注ではその行を馬廻が代行したとする。諸士の相中へは中小姓廻新蔵政備を遣わし、各門で斉興、老君溪山と庶子等の哀悼を伝えた。月日の本文記載を保持するが、後続する二月十二日付書状の通知到着記事などとの前後関係は疑義として留保する。推測で二月を正月に置き換えない。
天保4年4月18日(年次朱書、月日本文) / 冊子 981頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2706
諏訪治部が調所笑左衛門へ送った、重豪への代香使者と香奠・謝礼の取扱いについての書状。奥平左衛門尉の使者黒瀬市兵衛は上下三十人で先月二十二日、松平美濃守の御番頭山内仁太夫は上下三十四人で去る四日に到着し、上町・下町会所に旅宿を付けて会釈等を先例通りに申し渡したと記す。八日の葬送では、奥平左衛門尉から香奠銀二枚、九八郎から同一枚、美濃守から同十枚を進め、代香を済ませた。太守の指示により馬廻の使者それぞれへ白銀十枚、そのほか幸領・足軽等にも先例による金子等を与えた。仁太夫は九日、市兵衛は翌十日に出立し、挨拶と途中の供奉に関する申渡を使番が行い、後便の取計らいも使番が書付を添えて連絡する旨を伝える。四月十八日付、朱書天保四年、諏訪治部武兼署。人数・到着・旅宿、香奠の二・一・十枚、謝礼の各白銀十枚とその他の金子、各使者の出立日を分ける。
八月廿六日 / 冊子 739頁
江戸桜田屋敷付近の火災を船中で聞いた北郷久直が飛脚を送った配慮に謝し、光久の近辺から出火して家財をほとんど運び出せず、正宗父子や馬廻衆も類焼したが、上下に死傷がなかったことを喜んだ島津光久書状。
寛永9年5月27日 / 冊子 1~2頁/原整理番号 2
伊勢貞昌が御近習中へ、加藤肥後守の処置について詳しく問い入れることを遠慮し、切腹の場合も定められた者が処理するので、御馬廻衆を出して世間を騒がせないよう述べる。相手の衆が来ても屋敷から一人も出ず下知を得ること、雅楽頭・伊井掃部の返書は人数出動を命じる趣旨ではないことを伝える。城受取などの命令がないまま出動せず、一人の切腹に大勢で城を囲むことは後世の嘲りを招くと戒める。
年月日未詳 / 冊子 455~456頁/原整理番号 569
伊東祐充の持高七百四十八石九斗二合二才に、百石につき三人役を適用した人数賦。馬廻二十人(本人を含め二十一人)、鉄砲足軽二人、小姓四人、手道具足軽四人、草履取一人、中間二人、鎧箱二人、弁当箱二人、挟箱二人、小荷付小姓一人、九人重みを合わせて総人数五十人とする。衆中二十人の内訳は持道具五人・鉄砲五人・弓十人である。
慶長11年正月19日ほか / 冊子 343~346頁/原整理番号 130-33
慶長十一年正月十九日付の切紙名寄帳抄。〔日か〕州久津良村の浮免坪付を省略し、合計一石四斗四合を衆中屋敷として返地したと記し、高岡御支配所印を据える。付随系譜の十四代忠辰は天正十三年生まれで、島津光久から三河守の名を賜り、家久の出馬に十八歳で馬廻として供奉し、寛永三年に上京した。光久の御題「春の雪」・菊・清見関の梅に応じた和歌を載せ、江戸で奏者番、日州代官役、与頭役を務め、寛文元年十二月十七日に七十七歳で没したとする。十五代久堅は元和六年生まれで光久の扈従となり、笹右衛門の名を賜って援役・与頭役を務め、元禄二年十一月十九日に七十歳で没し、子女・養子・婚姻・法名を列記する。十六代家寛は慶安三年生まれで、元禄八年に曾祖父忠宅が改めた源姓川上を上野守久尚へ返進して大蔵姓を再び継承し、援役・与頭役を務め、享保十一年正月二十四日に七十七歳で没したと記す。
宝暦十年十月七日~十一月朔日 / 冊子 794~795頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2432
十月七日、継豊の病気急変を知らせる飛脚が江戸へ続いて到着し、驚いた重豪は幕府の許可を得て官医村田寿菴を薩摩へ派遣した。八日に家臣税所小右衛門篤見、道役の歩行士十一人、軽卒十三人と出発したが、十二日に継豊の訃報が江戸へ届いたため、浜松宿へ早使を出して呼び戻し、寿菴は二十一日に江戸へ帰った。十月七日には家治と家重がそれぞれ継豊の病気を尋ねる奉書を下し、酒井忠寄に託して薩摩へ送った。細江弥右衛門直香・大山源右衛門、歩士二人・軽卒二人が夜に江戸を発ち、東海・山陽・西海の道を経て十一月朔日に鹿児島へ着いた。
天正15年正月朔日 / 冊子 274~275頁
羽柴秀吉の九州出兵に従う諸隊を、正月・二月・三月の出陣日ごとに分け、羽柴一門、毛利・宇喜多勢、前備・後備などの配置と兵数を列挙した軍勢一覧。各大名・家臣ごとの人数を細かく掲げ、最後に御馬廻衆を除く旨と大きな合計数を記す。数値には誇張・伝聞の可能性があるが、島津側が把握した豊臣軍の編成と圧倒的規模を知る史料である。
十一月五日~十二月十一日 / 冊子 763頁/整理ID 2581
肥前長崎に住み薩摩・大隅・日向三州を往来した僧形の道加が、宝永四年十一月五日、日向国諸県郡志布志に来て、自ら鬼利支丹宗であると称した。禁教であるため長崎奉行所の指示を受け、十二月十一日、用人向井市之丞友貞を監使、物頭村田伊左衛門経宅・馬廻町田勘左衛門久興らを添えて道加を長崎へ護送した。記事の宛先は設けない。
正徳五年正月十四日~十五日 / 冊子 187~189頁/整理ID 453
島津吉貴が登城許可を承知したうえで、継豊の供人数・馬廻り・献上品、奥向や月光院への進物などを先例と照合した経過を記す。
年・月・日未詳 / 冊子 397頁/整理ID 1037
越来王子が御目見と献上品の受納に謝し、使節の帰国に際する礼と馬廻りの新しい御番について願い出る。
〈寛延元年〉十二月二十一日 / 冊子 132~133頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0362
十二月二十一日、嶋津右平太・伊勢兵部が、嶋津左衛門・樺山主計・嶋津矢柄へ、隅州様による御鷹の鶴拝領と御礼の取扱いを知らせる。先例に従って準備したところ、去る七日、上使の櫻井監物が鶴を届け、名代の水野肥前守に伝えられたという。上使が出向いた際には御門の外まで出迎えて案内し、大御書院中段の頭に着座させた。上意は肥前守が承知し、鶴を受け取って御勝手へ運び、上使には休息を勧めた。礼を申し上げ、熨斗・茶・多葉粉盆を用意したが料理は辞退され、退出時も迎えた時と同様に送ったと述べる。 同日、老中方へ御礼の名代として肥前守を回し、若年寄方へは御番頭高橋七郎右衛門を使者に立て、御側衆にも表方を通じて使者を申し達した。上使には先例どおり御太刀と金馬代を贈り、同日使者を遣わしたことを記す。付記では、太守様が承知したうえで三御所へ使札による御礼をし、愛宕御馬廻の内から使者を立て、書状での御礼も済んだと伝える。隅州様から公方・大御所・大納言への内證の御礼と、公方への書状による御礼も先例に従って取り計らうとする。 拝領に伴い、姫君様から隅州様へ祝詞を贈り、当日勤務の役人にも帳面を添えて祝儀を申し上げさせるが、忌中の諸事は追って扱うと記す。末尾では、鶴の拝領を喜んでこの事情を知らせる旨を述べ、御女中にも伝えるよう求める。
〈寛延四年〉七月十日以降 / 冊子 313頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0925
寛延四年七月十日、上使若年寄小出信濃守英智が江戸芝邸へ来て、有徳院吉宗の遺物脇刀を継豊と重年へ各一腰賜った記事。継豊には尻懸則長作、長八寸三分半、護摩梵字、銘なし、代金二十枚、重年には信國作、長八寸七分半、剣・三鈷・梵字などの装飾、代金二十枚という元注が付く。両者は薩摩にいたため、島津加賀守忠雅が代わって上使を迎え、大書院で上旨を承り、薩摩で二刀を拝戴して謝恩する旨を上使へ述べた。忠雅は馬廻川上喜藤太親毗、新番荒武蔵右衛門祐壽、軽士・歩卒を遣わして刀を護送させ、一行は七月十六日に江戸を発ち、八月十三日に薩府へ着いた。二十一日に継豊が恩賜の宝刀を謹んで拝戴した。拝戴の日が延びたのは、継豊の女子が同月十一日に死去したためという注がある。九月二十六日にその報告が江戸へ届き、忠雅が継豊に代わって執政各位と上使英智の邸で謝礼し、番頭菱刈孫兵衛實詮も若年寄各位の邸で謝礼した。
〈寛延四年〉七月十日以降 / 冊子 313~314頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0926
七月十日、上使若年寄小出信濃守英智が芝邸へ来て、有徳院吉宗の遺物脇刀一腰を重年へ賜った記事。信國作、長八寸七分半、剣・三鈷・梵字などの装飾、代金二十枚の元注が付く。継豊には尻懸則長作、長八寸三分半、護摩梵字、銘なし、代金二十枚の脇刀一腰と九十賀和歌御手鑑一帖、菊姫には同じ手鑑一帖を賜った。島津加賀守忠雅が重年・継豊に代わって上使を接待し、大書院で上旨を承った。馬廻川上喜藤太親毗、新番荒武蔵右衛門祐壽、歩士・軽卒を遣わして刀を護送させ、一行は七月十六日に江戸を発ち、東海・山陽・西海路を経て八月十三日に薩府へ着いた。九月二日に重年が恩賜の宝刀を拝戴した。延期の理由は継豊の女子が八月十一日に死去したためと注記する。江戸では忠雅が重年に代わり、十月四日に執政各位と上使英智の邸で謝礼し、同日、家老市来左中政方も若年寄各位の邸で謝礼した。
〈寛延四年〉七月十六日 / 冊子 316~319頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0938
平田靭負正輔が七月十六日、主殿久柄・伊勢兵部貞起・義岡相馬久中・主鈴久郷・鎌田典膳政昌・河野八郎左衛門通興へ、有徳院の遺物拝領と謝礼について報告し、国元の指示を求める。十日に上使小出信濃守から、太守・隅州へ脇差各一腰、菊姫へ御手鑑一帖が授けられ、同日の飛脚で知らせた。刀の外箱を整え、御馬廻川上喜藤太、新番荒武蔵右衛門、御歩行五代喜左衛門、愛甲嘉兵衛、足軽八人を付け、護送に差し立てた。川々の渡しを慎重に扱い、佐屋経由では日数を定めず油断なく参着するよう申し合わせた。 両殿は在国のため、取次の小左衛門・長澤牛兵衛を通じ、加賀守忠雅の名代御礼と上使への礼使札を相談した。十日に小左衛門が参上し、上使の書状を受け取り、両殿の謝礼使者について加賀守が承知したと伝えたが、牛兵衛の説明に食い違いもあり、翌朝七時ごろに改めて確かめた。遠国在住の両殿へ上使が遺物を授ける例は家中になく、謝礼は今後の家格に関わるため、御一門から名代を頼み、老中・若年寄などへは名代が廻勤し、側衆・物頭へは使者で御礼すること、国元でも先に定めた名代御礼の筋を通すことを求める。留守居と星野久務に内談し、平田半之丞・赤松甚右衛門の連絡も挙げ、上使への挨拶で誤解を生じないよう相談する。 さらに、両殿の名代御礼の節に京都諸司代・大坂城代へ通知するか、長崎へ留守居の使者と書状を送るかを尋ねる。十一日に小左衛門を通じ、御用番酒井左衛門尉から太守・菊姫・隅州の御礼を記した御付紙を渡す旨を聞き、御付紙の銘と書付二通、留守居の首尾書一通、佐々木の案文二通を送る。菊姫の表立った謝礼は御用番へは不要とされたが、御留守居から申し出た扱いと松平右近将監・上使への謝礼を照会し、深姫にも言及する。日光宮・御三家・御一門その他へ拝領を知らせるため、使者を通じた通知と隣国への伝達を相談する。末尾に印鑑一枚と別紙五通を送ると記す。
〈宝暦二年〉九月十一日~十一月四日(別記は六月) / 冊子 373~374頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1130
宝暦二年の夏、中山王尚穆の襲封謝恩使今歸仁王子と副使小波津親方が薩府へ来ており、九月十一日に重年が琉球使正副と従者九十四人を伴って居城を発ち、江戸への参府に向かった記事。家老義岡相馬久中・島津主鈴久郷、側用人本田久米右衛門親房・二階堂林左衛門行通、福山平太夫安都、近習役河野安之右衛門通古らが従い、監琉使家老島津主殿久憑、表用人伊集院十蔵久東、近習役伊地知新太夫季周らも随行した。十二日に重年が向田仮館へ着き、琉球使も水引大小路へ着いた。十六日に重年は向田を発って九州を陸路で進み、十七日に琉球使と琉球人監官・諸役人は薩西京から大小二十艘で西海を航行した。重年は十月四日に豊前大里で乗船し、二十八日に播州坂越へ着船、翌日から山陽道を陸路で進んだ。十一月三日に尼ヶ崎で再び船に乗り、四日に大坂の河口へ着いた。河口では松平大膳大夫重就・細川越中守重賢・小笠原伊豫守忠総らが河船で出迎え、琉球使の旅員運送用に小艇三十八艘を給した。重年の乗船後は諸役人も小艇で指揮し、琉球使船を厳重に警衛した。琉球使らは重年より先に大坂へ入り、先例に従って島津加賀守忠雅の仮亭に泊まったとの元注があり、重年は大坂仮館で三日滞在した。別記は、前年六月の吉宗死去を琉球で知った中山王尚喜が榮野川親方に弔書を持たせ、当年六月に薩府へ届けた件を記す。先例により馬廻比志島孫左衛門國泰を使者として江戸へ送り、老中へ報書を呈した。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 446~447頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1369
島津主鈴久郷が治水手伝に当たり、元木屋・出張木屋に派遣する関係者へ門出入の手続きを申し渡す。役人・小役人が無札で外へ出る場合、御用又はやむを得ない理由を御用人へ届け、証文をもって御近習役から門通行を命じ、出発・帰着時にも報告する。支配に属する者、馬廻・新番・歩行士、役人家来・下人、国足軽・人足等は、それぞれ御用人・支配頭・主人を経て同様の届出・証文手続きを取る。出張木屋の者は名書を御門番へ渡しておく。身分・所属に応じて外出の届出経路を定める条書である。
〈宝暦五年〉正月五日(目録・原本主書末尾) / 冊子 511~512頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1552
平田靱負が正月五日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請の工程・検分と人員引取の首尾を報告する。一~四之手の追加目論見により工事が進み、二・三之手は旧臘二十三・二十四日に幕府役人立会いの検分を受け、完成した工事の小屋返却と人員引取を求める。油嶋から松之木村まで百九十間の水分切は指示がなく、油嶋側五百五十間・松之木側百五十間の築留には見積変更で約五十間を加え、大榑川二百六十五間の切り・洗堰も未決とし、石田・八神の石寄せを急ぐが難場では三月までかかり得ると述べる。江戸の御馬廻・新番・御歩行・足軽からの派遣について、現場では足軽約四十人が不足すると伝え、太田新田の小屋は返却して人員を元木屋へ引き取り、早春の小屋返却・人員引取を年内に申し渡したこと、引取人数の不要分を吟味して追って差し下す旨を報告する。
〈宝暦五年〉四月十一日 / 冊子 521頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1577
平田靱負が四月十一日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請の完成・内見と引き払いの見通しを報告する。一之手は三月二十七日完成、二十八・二十九日内見、二・三之手の大榑川切り等は二十八日完成し、定式・急破以外の手広工事も三月中の内見を見込み、四之手の油嶋等は十七日完成、十九日から四月六日まで内見を受け、油嶋・松之木の難場も予想以上に早く完成したと述べる。牧野織部・細井九助が四月七日江戸を出発し十五・十六日ごろ現地着の予定と聞き、見分に数日を要し、御徒目付から手広工事の指示も未着のため、引き払いは五月中旬以後になり得ると見込む。普請がすべて完成した際には、御馬廻・新番・御歩行のうち出来栄えの見分場所で勤務する人数を見合い、ほかの御用に不要な者を調べて順次差し立てる意向を伝える。
宝暦五年八月 / 冊子 552頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1660
忠洪が家督を命じられたため、家老その他の諸役人は従来どおり勤め、継豊方に勤める者も同様に継続するよう申し渡す。家老が諸役人へ直接伝え、国許へも知らせることを命じる。八月七日の御弘めについて旧案を書き抜き、近習役方の書抜を水善左衛門から提出して御家老衆へ直接命令を伝える手順を記す。奥の諸役人は大御書院三之間、表の諸役人は表御書院三之間に家老が出席して、二度に分けて右筆が読み上げる。御馬廻新番の者が両書院の用人出席時に御弘めを行い、鹿児島與頭宅の例に準じるという。
明和五年(正月十八日拝領、使者行程を含む) / 冊子 186~187頁/原整理番号 463/整理ID 463
前年十二月十九日、大樹家治公が宿次奉書をもって御鷹之鶴一隻を賜った件を記す。康福が家臣中村與太夫種曉へ鶴と奉書等を託し、新番本田甚右衛門親香・汾陽茂右衛門盛庸に歩行士二人・足軽六人を添えて薩府へ送った。親香・盛庸はその夜芝邸を発ち、東海・山陽・西海を経て、明和五年正月十八日に薩府へ到着し、重豪は対面所へ出迎えて賜りを受けた。同日、馬廻本田助之丞親就・新番平田孫次郎位勝に足軽六人を添え、拝復の書と宿次証文を江府へ送らせ、別に謝恩使入來院大和定救も鹿児島を発った。親就らは定救に先立ち二月十三日に江府へ着き、阿部正右宅へ書を呈し宿次証文を返した。定救は西海・山陽・東海を経て同月十九日に芝邸へ到着、二十一日に正右宅で旨を伝え連署等を呈した。三月朔日に召されて登営し、白書院で先例の品物を礼使として献じ家治公に御目見、さらに献物を上げ台顔を拝し、西営檜の間で勝清にも献物を奉って退出した。五日に再び登城すると、檜の間へ出た輝高から奉書を受け、将軍家から巻物を賜った。同日勝清宅へもその奉書を託した。事を先格どおりに勤め、芝邸へ戻って復命する。命があって定救は江府に留滞し、九月十五日に芝邸を発ち、十一月十四日に薩府へ帰着した。
明和九年辰三月十五日 / 冊子 320~321~322頁/原整理番号 881/整理ID 881
屋敷の替えや買取り後の移転、保有・分割、居住者と例外、検査の手続を定めた条目。元の屋敷の買手がなく自ら抱え持ったまま新居へ移る場合や、小身者が急に移れず持ち置く場合には、奉行まで事情を届けて期限を定めること、買取りから十二ヶ月を過ぎても移れない者の屋敷は法どおり取り上げ、やむを得ない理由による期限延長願は吟味のうえ延ばすことを定める。無御免のまま二ヶ所の屋敷を持つ者は一ヶ所を取り上げ、屋敷を取り替えた後に本人が移れず他人へ預け置くことは停止する。小身者の移転困難も届け出させ、その屋敷番をことごとく移すことを求める。親子・兄弟・家来などを置いて余地がなく屋敷が手狭な者は、近所の屋敷一ヶ所を取り添え、屋敷主を置き、内の境を取り除く扱いを認める。一ヶ所の内に境を立てること、百五十坪ほどの内を小割して売屋敷に出すことは停止する一方、小身者が居屋敷内で共に居住する場合、加勢を請う場合、屋敷内に別に置く場合、名字類を抱えて扶助し諸用に用いる場合など、内に境を立てる事情を記す。このような屋敷は内の境を見分して間敷を改めるとし、表向きの小路と一ヶ所の形に見えるようにし、小門も間敷に含める。門一つに支障があり願いによって認められたものは格別とする。近所の人へ屋敷内を取り添えさせ、境の跡に別の小屋敷を設けた場合にも、表向きが小路並みの小割と見えず、内の境を整える扱いを認める。諸座付・諸職人が預かる屋敷について、本人が住めず他人が住むことを停止する。諸士の二男に屋敷を与えた後、その者が養子となった場合は屋敷を差し上げ、買屋敷は格別とする。三百坪以上の屋敷で高百斛以上の者が住めない場合には、側方・諸奉行・無役の御馬廻などの勤めに応じ、願いによる免許を認める。それ以外の百石以下で三百坪以上の屋敷は、願いによって取り上げるが、以前から持つ者は格別とする。三百坪以上でも場所が悪い、屋敷内に重峯の岸や池などがある場合は、百石以下でも願いによる免許を認める。預屋敷・借屋敷を命じ置かれた者は、その趣旨を来る晦日までに勘定所へ申し出る。鹿児島中の屋敷改は来月初めから行う予定で、改人が来た際は屋敷主が出会い、他行中の者は近所の人などへ名代を頼んでおく。屋敷主が籠居中で土屋敷などが見えない場合や、買人が呼び置いた不相応な家作についても、見分に差し支えないよう整えることを求める。以上の定めを承知し、疑義は来る晦日までに勘定所へ申し出て、改めの際には屋敷の取揚げをめぐって申し出ることを禁じ、支配中へ知らせるよう命じる。明和九年辰三月十五日付、御家老座の印。雑抄中の朱注を伴う。
履歴記事(逝去は安永元年壬辰十二月五日、出棺は同月二十日) / 冊子 350頁/原整理番号 976の14/整理ID 976-14
浄岸院の出生から養姫・婚姻、家族の事蹟、逝去と葬送をまとめた履歴。宝永二年乙酉二月十九日、京都で千代姫として生まれ、実父は清閑寺前大納言熙定、母は「家之女房」で後に玉勝院と称した。四歳で江府へ下り、宝永五年戊子七月二十五日、御台の願いによって常憲院の養姫となり竹姫と称する。享保十四年己酉六月四日に継豊との縁組が命じられ、同年十二月十一日に婚姻が整った。嫡子盆之助を独子とし、享保十八年癸丑五月朔日に女子菊姫が出生、宝暦五年乙亥十二月七日に筑前国主の嫡松平修理大夫重政へ嫁いだと記す。続いて宝暦十一年辛巳十二月四日の女子屋世姫出生と、十一歳の明和八年辛卯八月十日の早世を記すが、この女子の母は明示しない。重政が宝暦十二年壬午七月十四日に死去した後、菊姫は髪を卸して真含院と称し、継豊が宝暦十年庚辰九月十日に死去した後、竹姫は髪を卸して浄岸院と称した。六十八歳の安永元年壬辰十二月五日辰刻、芝の御守殿で逝去し、法号を浄岸院殿信譽清仁祐光大禅定尼とする。同月二十日卯上刻に御守殿から出棺し、薩州福昌寺へ送葬する。供は家老島津左中、側用人西恰之助、近習役薬丸猪右衛門、留守居有川勇馬、使番大野清大夫、御守殿添用達川上頼兵衛、中通目付伊東三左衛門、表目付平田主右衛門ほか、鎖口添番・医師・馬廻・新番・歩行の者が段々に命じられた。公儀の留守居番織田図書も国元まで遣わされるよう命じられたと結ぶ。
文化13年4月2日(転任)・4月7日(朝賀)・4月16日(巻物返礼) / 冊子 491頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1489
重豪公御譜中。今夏四月二日、大樹家斉が内大臣から右大臣へ遷り、儲君家慶が右近衛大将に任じられ、大納言・従二位は従前どおりと記す。七日に諸侯の朝賀があり、斉興は賀儀を献じた。重豪は廣敷用人大窪源吾知紀(仮物頭注)を登城させ、檜の間で奏者松平伯耆守宗發を通して大家へ太刀一腰・馬代金一枚を献じた。蘇鉄の間でも同品を献じ中相公任官を賀したとの細注がある。記録奉行得能正助通貫(亦同知紀の注)は西城に登り、檜の間で奏者松平壱岐守定剛を通して亜相公へ太刀一腰・馬代金一枚を献じ、転任を賀したとの注を付す。また馬廻猿渡嘉左衛門直貞(仮留守居助の注)が御臺へ肴一箱を献じ、馬預見習田原正左衛門親貞(亦同直貞の注)が御簾中へ同品を献じ、大家・亜相を賀した。十六日、大家が奏者宗發を芝邸へ遣わして任官に対する巻物十端を賜い、亜相も奏者松平周防守康任により巻物五端を賜った。重豪には微恙があり、斉興が恩旨を代わって奉じ、老中各邸へ礼謝した。役職名と注の知紀・直貞等は原注として分け、各賀礼を単一の贈答総数へ合算しない。
文政5年2月27日/3月1日・5日・16日 / 冊子 613頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1838
重豪公御譜。二月二十七日に勅使広橋胤定・山科忠言、院使日野資慶が江府へ入り、三月朔日に家斉が従一位左大臣、家慶が正二位内大臣へ昇任した。五日、重豪は四本孫左衛門兼房を物頭として本丸へ遣わし、家斉の転任と家慶の任槐に各太刀一腰・馬代金一枚を献じた。同日、池田次郎兵衛貞眞を西丸へ遣わし、家慶の任槐へ同品を献じ、留守居助長孝を本丸、米良仲之丞則賓を西丸へ遣わして御臺様・御簾中へ各時鯛一箱を献じた。兼房は江府の物奉行、貞眞は右筆頭、長孝は能方、則賓は馬廻として在勤中で、当日は物頭・留守居助を仮に務めたとの各注を持つ。十六日、家斉は本多豊前守正意、家慶は森川紀伊守儀知を上使として芝邸へ遣わし、重豪へ結紬を各十巻・五巻賜った。遠山美濃守友壽が代受し、番頭を両上使の邸へ、留守居を若年寄・表方使者の御側衆邸へ遣わして謝礼した。斉興・斉宣の拝賜献品は各譜に載せると結ぶ。長孝の通称の前字は留保し、各贈答の数量を合算しない。
年月日未詳 / 冊子 51頁/原整理番号 49の7
二月下旬二十八日から三月一日の末吉・平波瀬・財部方面の軍勢を記す。御一家・御内の勢は千に足りず八百ほどで、月の軍勢を新納殿、杉の軍勢を本田重親が率い、別に二百ほどの氏久御馬廻を記す。両手が遅れた所へ横から入る相談と、旗役北原の進出に際して氏久が当日の下知を尋ね、重親が敵の後へ抜けるよう命じたと答えたことを記す。