島津元久安堵状
応永七年三月十七日 / 冊子 194頁
島津元久が町田飛騨守へ、大隅国大祢寝内の本給分について相違なく、引き続き領知することを認めた安堵状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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応永七年三月十七日 / 冊子 194頁
島津元久が町田飛騨守へ、大隅国大祢寝内の本給分について相違なく、引き続き領知することを認めた安堵状。
(応永二十六年)八月五日 / 冊子 86頁
渋川道鎮が町田飛騨守に、唐津・博多へ着岸予定の南蛮船が海上を恐れて相手方の地に逗留しているとの注進を受けて送った書状。京都へ報告済みであり、助力して早急に船を送ること、迎船を出し、津々浦々の警固を固めることを求める。
(寛永四年)二月廿四日 / 冊子 31~32頁
伊勢貞昌が、年末に当地へ赴いて越年するよう命じられた旨を寺田与左衛門方の内儀から聞き、急な出立に備えるよう早打で知らせる。老中にも書状を送り、又三郎・又十郎の息災と御姫様の出産後の状況も報じる。
(応永二十六年)十月廿三日 / 冊子 534頁
南蛮船の件で芥河愛阿を派遣し、詳しい事情を伝えさせたうえで、島津方にも申し入れているので、船を早急に回航し無沙汰のないよう求めた渋川義俊書状。
(応永二十六年)十月廿三日 / 冊子 534頁
南蛮船がなお逗留しているため、京都から二度にわたり兵庫津へ送るよう命じられたことを伝え、重ねて使者を派遣して早急な回航を督促した書状。先の返答は京都へ進達したとも記す。
(応永二十七年)二月十七日 / 冊子 534頁
南蛮船の回航に奔走したことを喜びつつ、なお遅延しているのは不適当であり、島津方の使者にも伝えたので、早急にこちらへ回航するよう重ねて求めた渋川義俊書状。
(応永二十七年)二月廿三日 / 冊子 535頁
南蛮船の件で芥河愛阿が越国し、町田方が奔走したことを喜ぶ。島津氏の使者からも詳しい報告を得たので、船を早急に回航させるよう求めた宗寿書状。
(応永二十七年)三月廿二日 / 冊子 535頁
島津方の使者から、南蛮船は先月十五日に出船する予定との知らせが届いたことを喜ぶ一方、その後音信がなく不安なので、なお遅延しているなら回航実現へ奔走するよう飛脚を立てて督促した渋川義俊書状。
応永十八年八月廿二日 / 冊子 248~249頁
了元が町田飛騨守に、薩摩国阿多郡を祈所として宛行い、先例に任せて知行するよう命じた宛行状。花押について伊集院頼久のものに似るとの注記がある。
(慶長三年正月) / 冊子 182~184頁
島津義弘が朝鮮から送ったとされる仮名書状。唐人が約十里先まで進んだとの急報を受けて物見を出し、事実なら出撃する覚悟を述べる。蔚山では敵が夜襲して二の丸まで攻め上り、浅野左京大夫・太田飛騨守らが本丸に籠もり、加藤清正も西生浦方面から少人数で入城したと報告する。義弘父子も救援に赴く一方、留守勢を残して城を固めることや、使者・便船の手配を伝える。
年月日未詳 / 冊子 589頁
慶長五年十月、太田飛騨守の豊後の居城へ関東方が攻め寄せるとの情報を得たため、島津忠恒(家久)が多野村狩野介・本田新介に歩卒数十人を付けて使者として派遣した際の書付と考えられる、と本田親孚が記す。
(慶長五年)十月九日 / 冊子 590頁
島津義弘(惟新)が少将殿こと島津忠恒(家久)側へ、龍伯こと島津義久へ申し上げるべきことがあるため喜入大炊助を召し連れるよう求め、差し支えがあれば別人を選ぶよう指示する。翌日の来訪を早朝に待つとし、太田飛騨守方の使者や日向からの来訪者もいるので相談したいとして、比志島国貞・伊勢兵部少輔・桂太郎兵衛尉・喜入大炊助の同道を求める。
年月日未詳 / 冊子 600-601頁
豊後の居城にいた太田飛騨守・美作守が関東方諸将の先陣に迫られたとの報を受け、島津忠恒(家久)が野村符野介と本田新介に数十人の歩卒を付けて派遣した。両名は太田氏らの往還を安全にし、復命するとともに太田父子の返書を持ち帰った。
年月日未詳 / 冊子 658-659頁
関ヶ原敗戦後、大坂で囲われた御前様・御懐様・宰相様について、真言宗僧の仙秀坊が奉行所へ働きかけ、御免書を得て下向の準備を整えた。立花飛騨守の助力で九月十九日夜に出船する予定のところ、堺へ到着した島津義弘(惟新)から川口で待つよう連絡があり、立花も同行して川口へ下り、義弘の船へ乗り移って帰国した。
(寛永四年)五月 / 冊子 35~36頁
島津家久が自ら記した条書。自身の心持ち、又八郎や実寿院の知行、又八郎の上洛、跡継ぎの相談、奥方や家臣団への配慮など、家中と身辺に関する複数の懸案を列挙し、三原飛騨守を使者として伝える。
二月廿九日 / 冊子 340~342頁
伊勢貞昌が、朝鮮からの撤兵時に小西行長の籠る城が漢南・高麗勢に包囲された際の救援と海戦を報告した書状。立花飛騨守・宗対馬守・高橋主膳らとの協議、島津方の番船・迎船、敵の火攻めによる船の焼失、負傷・戦死、漂流者の救助、退路確保と乗船の混乱を述べ、帰国後も国政に油断なく励むよう求める。
年月日未詳 / 冊子 766~767頁
天文七年十二月二十八日、忠良・貴久・忠将の父子三人が雪中に加世田へ出陣し、道中で垂れた蜘蛛の糸を三人そろって見たことや、夜半の鐘声を記す。忠将を大手口の大将として攻め、敵の反撃を受けながら諸将が救援し、新城では未明までの激戦の末に城兵を討ち取って落城させた経過を伝える貴久公記。
年月日未詳 / 冊子 188頁
『島津豊久譜』から、明軍が蔚山城の外郭を破り本城を危機に陥れたため、島津豊久が泗川から船で救援に向かい、三日で蔚山へ着いた記事。到着時には敵が退いていたが城兵はまだ知らず、豊久は単騎で諸軍に先駆け、敵首二級を得て鞍輪に結び付けた。左耳の下に傷を負っても退かず、その後に加藤左馬頭・黒田甲斐守・鍋島信濃守らが到着し、豊久は先駆けの働きを浅野左京大夫・加藤主計頭から賞賛された。
(慶長三年)十二月五日 / 冊子 303頁
太田一吉が、久しく見舞いの書状を送らなかったことを詫びたうえで、多数の明軍を相手に挙げた島津家久の手柄と無事の帰朝を祝う。まず使者を遣わしたとし、まっすぐ国元へ通過するなら坂の関辺で知らせてほしいこと、対面の折に詳しく話したいことを伝える。
(慶長四年)十二月廿一日 / 冊子 478~479頁
太田一吉が羽少将の側近へ、前日二十日に内府徳川家康へ拝謁し、少将の軍功について格別に懇ろな言葉を得たので安心するよう伝える。勘兵衛が道中でも丁重に扱われた事情を語り、山口勘兵衛が家康の意向を少将へ伝えるはずなので、山口と親しく相談して適切に返答するよう求める。寺沢・兵庫にも相談し、源二郎へ家康から命じた件を早急に協議して、その返事を山口と謀り合わせて上申するよう促す。返書は美作を介して臼杵まで早船で届ければ、滞りなく取り次ぐと約する。
(慶長五年)正月九日 / 冊子 496~497頁
太田一吉が羽柴少将の側近へ、当地は静謐だが北国方面はまだ決着していないと知らせる。前年十二月八日の味方の損害を案じて尋ねたところ、損害は小者身分の者だったと聞いたという。本田源右衛門から詳しい事情を聞くよう促し、自身も翌月下向する予定とする。急用の飛脚は臼杵へ送るよう指示し、兵庫が息災で内府徳川家康から懇意に扱われていることを喜ぶ。
(慶長五年)十月廿三日 / 冊子 601頁
太田友一・一吉が、島津忠恒からの見舞いと野村符野介・本田新介らの派遣に謝意を示し、先手が首級二百四十余を挙げ、残敵を海へ追い入れた戦果を報告する。詳細は使者の口上を聴取するよう求める。
(寛永六年)九月廿二日 / 冊子 113頁
永井白元が、公方の機嫌と尾張大納言の登城・御成の様子、数寄屋で供をした諸大名、代替わりの祝儀、翌月に予定される水戸殿の御成などを島津下野守へ報じた書状。
(寛永十一年)五月廿九日 / 冊子 429頁
酒井忠世・忠勝が、唐船への伴天連乗船、日本人の海外渡航と海外在住日本人の帰国を禁じ、外国船の生糸は長崎で値段を決めた後に領内で売買させるよう伝えた奉書。
(寛永十二年)十月七日 / 冊子 500頁
榊原職直・仙石久隆が、鹿籠浦・泊浦の船頭・水手を先月二十日に討罰したとの報告と別紙を受け取ったことを了承し、遠路の使者をねぎらった書状。
(寛永十二年)十月十二日 / 冊子 503頁
榊原職直・仙石久隆が、ある村の山中に潜伏していた伴天連とその妻が山狩りの際に逃亡したため、領内へ入った場合は捕縛するよう各地へ命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 372~373頁
京都で将軍をはじめ本多上野守・山口勘兵衛尉・片桐市正・福島左衛門太夫らへ贈る馬・太刀・生紙・銀子・緞子・袷・生絹帷子などの品目と数量、馬代を受取人別に記した島津氏の進物注文。
年月日未詳 / 冊子 446~447頁
松平肥前守の隠居に伴う知行配分、城普請を担当する大名・旗本と加増高、城の石垣修築、諸大名が普請用に献上する材木・銅・漆・石材・板などの数量を列挙した諸覚。
寛文六年七月廿五日 / 冊子 518頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1157
久世広之が島津光久へ、将軍が息災であること、島津飛騨守の縁辺が願いどおり許可され、謝礼使を差し越したことを伝えた書状。
元禄十一年正月十七日 / 冊子 55頁/整理ID 178
綱貴公御子の女子として於莵・於榮の名を掲げ、元禄十一年正月十七日に武州芝第で、江田氏を母に出生したと記す系譜記事。松平飛騨守定英に嫁ぎ、一男を生んだ後に離別した。同一女子の別名列として扱い、二人の女子や実際の兎の記述とはしない。
宝暦五年六月十五日 / 冊子 539頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1620
宝暦五年六月十五日、家重が重年の病気を再び尋ね、使者の阿部飛騨守正因を芝邸へ遣わした記事。正因には御奏者衆との元注が付く。重年は懇篤な上意を受け、「鮮干鱸」一箱を賜った。家治も見舞いの懇旨を示し、島津淡路守久柄が重年に代わって恩旨への謝礼を勤めた。松平越中守定賢も老中各邸へ赴き、重年のために謝恩した。出典は重年公御譜。
天正16年 / 冊子 207頁/原整理番号 123の3
天正16年、寺沢志摩守・藤堂佐渡守が長崎の地を預けられ、鍋島飛騨守に代わって代官を命じられた経緯を記す短い記事。
寛永十五年二月三日 / 冊子 58~60頁/原整理番号 88
川上久国・三原重庸が山田有栄・島津久元へ、黄門様の快方と薩州様の着船遅延を報じる。天草番手・兵糧の措置、富岡で没収された物資の扱い、百石につき三人の軍役、鍋島・飛騨守からの書状、山川から来た琉球船の米二百六十石・上布・焼酎を出水へ回す手配を伝える。追而書では阿久根の宿泊・休息割を指示する。
年月日未詳 / 冊子 85頁/原整理番号 140
伊地知季安の記事。七日、立花飛騨守が島原へ着陣したと記す。目録年月日欄は空欄のため、本文の日付をB列へ補入しない。
二月九日 / 冊子 109頁/原整理番号 173
川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、六日付書状への回答として立花飛騨守・有馬玄蕃頭らに関する照会と弟子丸治左衛門への早急な返答を求める。追而書では井伊掃部頭の下向の有無を尋ね、下向なら城攻めが決し大勢を率いるはずとして後便の報告を求める。
年月日未詳 / 冊子 216~218頁/原整理番号 332
『寛明日記』の二月二十七日条。翌二十八日の総攻めを評議するため諸将が戸田左門の陣へ集まり、巳の下刻、濃茶を飲んでいたところ、物見が鍋島勢の攻撃開始を告げた。鍋島信州は自軍が法を背いて軽率に出丸へ攻め込んだことを嘆く。鍋島安芸が出丸に敵がいないのを見て乗り込み、榊原飛騨守ら諸勢が続き、城内各所で戦闘となった。黒田右衛門忠之の攻撃では黒田美作の進言・指揮を経て城へ乗り込み、上下二百十三人が討死したとする。細川勢も鍋島勢に続いて海手から諸郭へ入り、詰の丸東端へ九曜旗を立て、手負・死人は数百人に及んだと記す。占領地を鍋島先手へ渡して後陣を引き取るよう松平伊豆守信綱が命じ、水野作州父子は従い、有馬蔵人は当初拒んだが七、八度の下知ののち寺沢後陣へ退いた。諸勢は二の丸・三の丸まで攻め入り、夜を明かした。
二月廿七日 / 冊子 226~227頁/原整理番号 333-10
二月二十七日未刻、細川越中守忠利・立花飛騨守宗茂が川勝丹波守・佐々権兵衛へ早打で戦況を報じた連署書状。三の丸の塀を取り、城内へ押し入って二の丸際まで押し詰めたと伝える。急ぎのため両手の戦況だけを記し、諸手については上使衆から伝えるとする。追而書では、二の丸際へ柵・竹束を付け、討ち取った切支丹の人数も報告すると述べ、書状を作成している間に二の丸まで乗り取ったと追報する。
年月日未詳 / 冊子 430頁/原整理番号 542
『続長崎鑑』は、寛永十八年にオランダ人を平戸から長崎へ移して出島に置いたこと、その時の奉行が山崎権八・馬場三郎左衛門であり、貞享四年まで四十七年になると記す。また出島の築造は寛永十三年で、奉行榊原飛騨守・馬場三郎左衛門の代に完成したとする。目録年月日は空欄のため、記事中の年次をB列へ補入しない。
天正十三年九月十八日・十九日 / 冊子 272頁/原整理番号 24の24
『上井覚兼日記』天正十三年九月十八日・十九日条から、筑後表より堀切柵攻略の報告があり、江之浦方が身上を助ければ城を明け渡すと申し出たこと、両城の守備や人質を協議したことを抄出する。肥前守・越前守・越中が筑後攻めの総主取で、鍋島飛騨守への伝達にも関わったことを考証する。
三月四日 / 冊子 364頁/原整理番号 428-4
長岡佐渡守興長・有吉頼母英貴が、伊豆守の命により、捨て置かれた首を一か所に掛けるよう各陣へ申し渡し、道奉行を差し出すよう求めた廻状。差出側も道奉行を出すとし、鍋島・松平・有馬・立花・寺沢各家老中へ回覧・判形を求める。
元禄十三年正月十二日・同年三月十五日 / 冊子 186頁/整理ID 664
北郷久竜譜中。権十郎忠置が元禄十三年正月十二日に綱貴の参勤へ一族供として従い、家老川上太郎左衛門尉久隆と与力細江武左衛門が同行したと記す。同月二十二日に出水脇元で伊豆の名を賜る。三月十五日に大樹綱吉公へ拝謁して太刀一腰・馬代銀・小袖六を献上し、阿部飛騨守正喬が取り次いだ。
宝暦八年十二月五日 / 冊子 707頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2117
十二月五日、家重が使番三好勝之助長倚を芝邸へ遣わし、鷹が捕らえた鶴一隻を重豪に賜り、重豪が老中各邸へ礼を述べた。別段では、伊勢兵部貞短の父貞起が死去した後の相続と、貞昌以来の将軍家督継承時の拝謁先例を記し、宝暦六年の重豪の願いは許されなかったが、今年四月に重豪の初拝謁が済んだ後、十二月五日の再願で老中奉書を受けたとする。十五日、貞短が登城し、白書院で家重へ太刀一腰・馬代銀一枚・紗綾二巻、家治へ太刀一腰・馬代銀一枚を献じ、永井伊賀守直陳の奏達で両公に拝謁した。退城後は西城へ赴き、阿部飛騨守正因に礼を述べて拝謁し、退出した。
明和二年(月日未詳) / 冊子 68~70頁/原整理番号 181の27/整理ID 181-27
日光法会の本使・副使が参着後に勤める届出・見廻り、贈物、太刀奉納と出立の手続を列記する。本使・副使同道で松平右近将監に参着を届け、寺社奉行酒井飛騨守・土岐美濃守、大目付筒井大和守、目付夏目藤四郎・新庄織部・松平縫殿頭へ届出・見廻りの口上を述べる。日光奉行神尾若狭守・浅野美作守には副使が出向いて届出・見廻りを勤め、日光門主へは本使・副使同道、若君の名代井伊掃部頭・酒井備前守へは副使が参上する。包昆布二種の記載があり、朱書には当家から日光門主へ両肴・干菓子一箱を贈ること、名代方への使者は当家の記録では見当たらない旨などを補う。御家格に応じた贈物として、御宮別当大楽院へ白銀五枚を白木台で、上野執当覚王院へ同五枚、日光宿坊信解院へ三枚、上野宿坊へ白銀二枚と国物一種を掲げる。朱書には当家の先例として、東叡山執当二人へ各金子五百疋、本坊留守居と日光目代へ各白銀三枚、日光在役の徒目付二人へ各金子三百疋を記す。太刀は奉納刻限の前夜に右近将監へ預け、奉納後は口上で届け、翌朝出立する旨も申し達する。付属の三月・東郷源五名の記録は、各役方への届出・見廻りの使者を相談して定めたとし、太刀奉納時の案内、役人の旅宿案内、日光滞在中の世話に対する先例も記す。朱書には遊戯院同宿への二百疋、町人平四郎への三百疋、武井岡右衛門家来への百疋などが掲げられる。
明和二年三月二十三日 / 冊子 71~73頁/原整理番号 181の32/整理ID 181-32
東照宮百五十回忌の日光法会に際し、御使番が三月二十三日、使者の参着後の挨拶、贈物、奉納・出立の手続を伺う。松平右近将監には家老衆が留守居の案内で到着届と見廻りを行い、諸事の指図を頼むことを問う。寺社奉行酒井飛騨守・土岐美濃守、大目付筒井大和守、目付夏目藤四郎・新庄織部・松平縫殿頭、日光奉行神尾若狭守・浅野美作守には、留守居が到着を届け、使者を出して見廻る案を掲げる。日光奉行への見廻りは先例が見えないとも記す。日光門主には留守居案内の家老使者が干菓子一箱・干椎茸一捲を贈る案を示し、当家古帳の一種に対して年番廻状と一統の相談では二種であるため、その扱いを問う。若君名代の井伊掃部頭・酒井備前守、若御年寄小出信濃守、御側衆田沼主殿頭への挨拶は、年番廻状の本使見廻りと当家先例を吟味して留守居の使者とする案。長坂の警固に赴く酒井修理大夫には留守居付を差し遣わし、勘定・作事奉行には留守居の使者、日光目代には留守居付から御用人への口達を問う。大楽院へ銀五枚、覚王院・信解院へ各三枚、遊戯院へ五枚を掲げ、信解院の贈物は旧例と年番廻状の相違を宿坊への照会や現地の位付に応じて取り計らうよう朱書が補う。日光目代・龍光院・光樹院・徒目付には旧来の贈物があるが、一統で不要との廻状により贈らない場合の不都合を懸念し、指図を求める。太刀奉納前夜と奉納後の届出、翌朝出立の口達を右近将監へ行う案、宿亭主や滞在中の世話人への謝礼を留守居の現地判断で定める案も伺う。末尾は年番廻状と古帳の先例を吟味し、他の事項は留守居と相談する趣旨。朱書には三月二十五日の御意と、二十九日に吟味どおり命じる旨を御使番・首尾懸へ申し渡した記録がある。
宝暦十二年十二月四日辰上刻(本文。年は関連文書による) / 冊子 941~943頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2746
十二月四日辰上刻、保姫が刑部卿の屋敷表門から発輿し、八代洲河岸・日比谷御門・新橋・西之久保八幡・赤羽橋・諏訪安藝守屋敷前を経て東御門へ入る次第を定める。道筋の辻には馬廻二人・歩行二人・硯箱と料紙を持つ足軽四人を配置し、東御門と中門の左右に立番八人、先行女中の案内に奥附士一人・足軽四人を置く。輿渡の田沼能登守と貝桶渡の末吉善左衛門を迎え、新奥への案内と酒井飛騨守への接遇を整え、輿は島津左中、貝桶は主鈴が受け取る。乗物は奥附士十六人が扱い、鎖口からは内奥大番六人が輿を通し、高橋縫殿が輿に添い、刀・弓・長刀・日傘・建輿・袱紗箱・茶と弁当などの受渡し、後続女中の下乗、惣供の南御門からの引取りを役別に定め、行列は別紙によるとする。
享和元年7月23日生、明治9年7月17日卒(本文) / 冊子 196頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0629
御系図中。図に斉興・男女六人・女子を並べ、女子は祀姫・随姫・随眞院、島津飛騨守忠徹夫人と記す。享和元年7月23日生、母は操姫と同じ、実母は忠公と同じとの注。明治9年7月17日卒、法名随眞院殿圓諦妙觀大姉を記す。図の斉興を父と読み替えず、母の参照注と生卒・夫名・院号を分ける。
享和2年5月15日武五郎生、5月20日於美壽生、7月18日於長生(本文。後年注あり) / 冊子 204~205頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0661
御系図中。図に斉興・男女7人と武五郎及び女子2名を並べる。武五郎は享和2年壬戌5月15日生、母島津仲久達女(建カ注)。文化6年己巳、先に島津若狭忠寛の嗣子としていたが、この6月に帰す命があったとの近秘野帥注を伴う。文化9年壬申2月22日早世、2月20日を忌日とする記載を保持し、法名霊含院殿義相理演大禅童子。女子の於美壽は享和2年5月20日生、母林安右衛門昌世妹、9月17日死亡、法名瑞光院殿月心秋桂大禅童女。女子の於長は長姫・苗姫・聰姫・聰徳院の名を連記し、阿部飛騨守正篤夫人とする。享和2年7月18日生、母は操姫と同じ、実母青木休右衛門盛晏女。明治5年8月29日卒、法名聰徳院殿光蓮社永譽壽妙貞行大禅祥大尼。図の斉興を父に読み替えず、各子女の母、生卒と忌日、養子注と別系譜662を区別する。
享和2年7月18日生(文化元年との異説注)、文化10~文政10年改名・許嫁・婚姻(本文) / 冊子 205頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0662
近秘野帥の斉宣公御子・女子於長の系譜。長姫・聰姫・苗姫・聰姫と名を連記し、阿部飛騨守正篤夫人、小字房丸とする。享和2年壬戌7月18日府城生(阿部氏は文化元年とする注)、母丹羽氏蓮亭夫人、実母青木休右衛門盛晏女・名琴。文化10年より前に島津太郎次郎へ許嫁、この12月に命により取りやめ長姫へ改名。11年2月聰姫へ改名、8月27日に啓之助君と府城を発ち、11月6日江戸着。12年11月に苗姫へ改名、14日に水野周防守忠篤(上総鶴牧1万5千石)へ許嫁、12日結納と記し、13年7月8日に忠篤卒・心喪3旬。文政2年6月に立花伯耆守(筑後柳川11万9千6百石)へ許嫁、3年10月11日に婚約を解く。6年12月阿部房丸へ許嫁し聰姫へ改名、27日に阿部氏へ適く。房丸の年齢について22と20の異説、出生を文化元年7月17日とする注があり、文政10年7月に聰姫へ改唱したと記す。複数の許嫁・解約と実際の入家、改名時点、結納と許嫁の日付の逆順、出生異説を原記載のまま分ける。
文化15年(編纂前置、月日なし。所収先例は寛政10年・文化7年・寛政8年・天明7年) / 冊子 526~528頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1600-1
御記録所の問合書留。白木八番箱二十一番、文化十五年の前置を持ち、産穢・忌服中の代参を江戸留守居経験者に照会し、返答を引札に記す。朱張紙は、産穢中の代参は流れ、御正統方年回法事で穢明け後の代参を命じる場合は祭主のない事として区別する。忌中の法事は延期も申し付けないが、芳蓮院等格別の年回は法事延期の筋、慎中の仏事は不苦とする。御宮・神前代参は紅葉山が流れ、日光は延期例があり、首途の神祇服忌令は伊勢・山王と同様。名代や前文差立・東照宮祭式神事の問いには、代参・供物をせず流れる場合と、穢明け後の聖堂春秋祭式を区別する。先例は寛政十年大樹寺道幹(徳川広忠)二百五十回忌で三月六日産穢中につき八日松平伊賀忠済が代参。文化七年六月十二日惇信院五十回法事は大納言忌中で名代なし、七月十二日は松平能登守を名代とし忌中を後らせ香奠を用意。六月十五日の山王代参祭礼を十三日の大奥女中安産で延期した例は寛政八年、七月廿三日高井飛騨守を名代とし供物は例通り。天明七年正月二日の伊勢・日光名代は服中につきなし、十月朔日の服明けには命じた。聖堂代参が流れる例も度々あるとし、類例を認拔置く。慈光院法事の照会文は次の1600-2へ連結し、本件の編纂年と篠原書状の発給日を区別する。
正月廿七日 / 冊子 16~17頁/原整理番号 17
川上久国が島津久元らへ、黄門様は脈がやや和らいだものの、横になれず、物にもたれると息を引き、強い発作時には顔が畳につくほどで難儀していると詳報する。伊豆守が野州老・左衛門佐へ帰宅を命じたことを伝え、天草の騒動終結後の軍勢帰還と番手・大将の体制を協議するよう求める。琢庵の書状を届け、越中守・飛騨守・玄蕃・鍋島らの下向が確実か、他国の動向も聞いて報告するよう頼む書状。