島津義久書状案
年月日未詳 / 冊子 234頁
島津義久が石田治部少輔へ、前年春に鎌田刑部左衛門尉を上洛させ、関白への取次を頼んだ経緯を述べた書状案。上意への返答を急ぐべきところ、夏以来の肥後・筑前境の混乱に妨げられて遅延したのは本意ではないと釈明し、今後も仲介を求める。九州の軍事情勢が中央政権との外交実務を直接遅らせたことを示す。
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年月日未詳 / 冊子 234頁
島津義久が石田治部少輔へ、前年春に鎌田刑部左衛門尉を上洛させ、関白への取次を頼んだ経緯を述べた書状案。上意への返答を急ぐべきところ、夏以来の肥後・筑前境の混乱に妨げられて遅延したのは本意ではないと釈明し、今後も仲介を求める。九州の軍事情勢が中央政権との外交実務を直接遅らせたことを示す。
〔天正15年〕5月19日 / 冊子 334頁
豊臣秀吉が大口方面への陣替えを前に、鹿児島への途中で花道院城へ二、三夜宿営する計画を伝えた朱印状。先手衆が宿営を迷惑だと申し立てたため、伊集院右衛門大夫・石田治部少輔・木食上人に現地へ赴いて説得させ、返答次第では処罰すると告げる。島津義久にも重ねて事情を説明するよう命じ、豊臣軍の移動・宿営を強く徹底した文書。
文禄五年九月廿六日 / 冊子 47~48頁
長寿院盛淳・伊集院下野入道幸侃・鎌田出雲守政近が石田治部少輔へ、石火矢五挺を進上し、その内訳として払火矢一挺、幸侃より石火矢二挺、抱節より一挺と記した連署文書。
(慶長三年)十月十四日 / 冊子 258~259頁
島津義弘が(慶長三年)十月十四日付で石田治部少輔らへ出した書状。泗川で明軍を討ち大勝した後は敵が現れず、順天の番船や蔚山方面の敵も退いたこと、又八郎忠恒が数万騎を討った手柄を報告する。忠恒の帰国と自身の上洛、上洛時に率いる人数について指示を求め、明側使者龍淵と寺沢正成・小西行長による和平交渉の状況も伝える。
(慶長三年)十月十四日 / 冊子 259頁
『島津義久譜』所収の島津義弘書状末尾。独立番号の下に慶長三年十月十四日の日付、宛所「石田治部少輔様 人々御中」、島津義弘の署名・花押を掲げる。本文内容は直前のNo.521と同日に石田三成へ送った書状に対応する異本末尾資料として整理する。
十月廿七日 / 冊子 268頁
島津義久(竜伯)が十月廿七日付で石田三成(治部少輔)へ出した書状。高麗の陣所へ唐人が攻めかかったとの風聞を受け、現地の様子を聞き合わせたが、援軍・見次について何の知らせもないことを憂慮する。支援を急ぐとともに、無事すなわち講和の実現へ向けて早急に才覚するよう求め、この一紙は火中するよう命じる。
(慶長四年)閏三月朔日 / 冊子 363~364頁
竜伯が石田治部少輔の三月廿五日付書状に答え、幸侃成敗は急ぎ実行すべき意向によるものと思っていたが、実際は又八郎の短慮で、竜伯への相談もなく言語道断であると述べる。兵庫入道も関知しなかったといい、源二郎には下城を命じたものの、在所を動かず耕作に当たらせるよう石田から指示が来たため遠慮し、詳細は使節で伝えるとする。
閏三月七日 / 冊子 367頁
島津竜伯が、幸侃成敗の件で自身の意向との行き違いが生じたため、事情を詳しく口上で説明させる二人の使者を急ぎ上せたと伝える。あわせて銀子十枚を贈り、石田治部少輔に理解を求める。
元和六年四月十二日 / 冊子 728~729頁
阿多郡中津野村、始羅郡帖佐の餅田村内、諸県郡小林の北之西方村内を合わせた知行千四十八石を、領国内の改配分に伴って諏方治部少輔へ宛行った島津久元ら五名の連署知行目録。
十一月二日 / 冊子 307頁
島津忠治が本田治部少輔宗親に、綱津・京泊の知行をめぐる状況は国家を損ないかねないと憂慮し、日頃から談合して親交を深め、もし事態が生じた際には直ちに忠節を尽くすよう求めた書状。
(文禄元年)6月18日 / 冊子 571頁
豊臣秀吉が、朝鮮渡海の遅れに不満を抱いた梅北国兼が佐敷辺で一揆を起こしたため、義久からの報告と首を討つ旨の命令を受け、現地諸将へ即時の成敗を指示した朱印状。 島津兵庫頭の不安を除くよう申し聞かせることも命じ、梅北一揆を島津家だけでなく豊臣政権の軍事命令として鎮圧したことを示す。
「寛永十七年」二月廿日 / 冊子 101頁
北郷久加と山田有栄が、江戸から来た飛脚と下関で会い、上使が薩摩へ下向するとの書状を受け取ったため転送した連署書状。上使との行き違いを避けるため飛脚を陸路で下し、光久一行が大坂で数日待って参会できるよう、船中・道中の行程と受入れを関係重臣が相談するよう求めている。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 151~153頁
永禄九年十月二十六日の三山合戦で戦死した島津方将兵を多数列挙した交名抄。阿多中務允久宗、末弘又左衛門尉、本田治部少輔、本田興五郎、鮫島文左衛門宗明らをはじめ、各地・各家に属する人々の名と戦死注記を載せる。
元亀三年正月十九日 / 冊子 261~262頁
元亀三年正月十九日、肝付方の多数の兵船が小村を攻撃した。島津方は敵船二艘を奪い、岸良治部少輔以下二十四人を討ち取って撃退した。
元亀三年正月十九日~二月廿九日 / 冊子 263頁
壬申年の軍事記事として、正月十九日の小村で肝付方の兵船二艘を奪い岸良治部少輔以下約二十人を討ったこと、飯野・三山境で敵八人を討ったこと、二月二十日に廻・市成境の野伏で肝付越後守以下約二十人を討ち、同二十九日に境・二川を破却したことを列記する。本文の年号表記には矛盾がある。
天正十年十一月晦日 / 冊子 729頁
足利義昭が島津義久へ、日向産の大鷹を所望し、到来すれば喜ばしいと伝えた御内書。返礼に鐙を贈り、詳細は布施治部少輔に含め、真木島昭光・一色昭秀も説明するとする。
天正十一年 / 冊子 729頁
足利義昭の前年十一月晦日付御内書が、上使布施治部少輔によって島津義久のもとへ到着し、その内容が日向産の大鷹所望であったことを記す義久譜中記事。
天正十二年二月十四日 / 冊子 842頁
天正十二年二月十四日、日向宮崎城にいた上井覚兼のもとへ善哉坊真連房頼俊が訪れ、前年に公方家の上使として下向した布施治部少輔からの書付を示した記事。羽柴秀吉の尽力で足利義昭の当春帰洛が確実となったため、島津に一層の協力を求め、年内に春日局を先に上洛させたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 328頁
木食興山上人に上京を急かされた島津義久(龍伯)が、祇園会後の六月十五日に鹿児島を発ち、高良山・岩屋を経て博多へ向かった旅程を記す。博多では細川幽斎・石田治部少輔の訪問を受け、秀吉の旅殿へ出仕して饗応され、翌日には秀吉自ら点てた茶を賜った。下関では京都へ人質として送られる久保・彰久・忠長ら城将の子女一行と合流しており、降伏後の上京と人質移送の実態が分かる。
(天正15年)5月21日 / 冊子 336頁
島津義久(龍伯)が鹿児島老中へ、飫肥を伊東氏へ引き渡すよう度々命じたのに、なお処理されていないことを厳しく指摘する。遅延に細川幽斎・石田治部少輔が強く立腹し、飫肥で軍勢が集結したとの報告もあるため、長門父子の立場も危ういと警告。これ以上難渋すれば島津家のためにならないとして、長門入道へ即時引き渡しを命じるよう求めた書状。
(天正15年)5月24日 / 冊子 336頁
新納忠元が三名へ、籠城支援の厚意に謝しつつ、上意に背けず和議へ応じると報じた書状。秀吉軍は大口へ進み、先勢は五月二十四日に天堂尾へ着いたが洪水で渡河できなかった。忠元は菱刈本城で抗戦を決めていたものの、石田治部少輔・伊集院忠棟の交渉と、義久・義弘からの重ねての降伏命令、妻子らがすでに人質となった事情により出仕・開城を決断した。九州征伐末期の現地判断を具体的に伝える。
閏5月11日 / 冊子 392頁
上原長門入道に対し、治部少輔とともに早く上京し、前年以来の出入・争論を言上することが肝要だと龍伯が指示する。 国人らの訴えや処分に関する事情も記すが欠字が多く、具体的な争点と人名には判読上の不確実さが残る。
(天正16年)11月22日 / 冊子 422頁
島津義弘が伊地知伯耆入道へ、渡唐船の件を一途に決着させるよう、油断なく厳重に処置することを求める。あわせて琉球への使者を十分に整えず派遣するのは不適切で、白石治部少輔からもその旨を命じられたとして、細部まで調えるよう促した。 白濱次郎左衛門尉・谷少とも直接相談するため、これらの趣旨をしかるべく披露するよう頼んだ、渡海船と対琉球使節の実務書状。
(天正18年)5月2日 / 冊子 470頁
豊臣秀吉が端午の祝儀として帷子・生絹が届いたことを喜び、同じ品を北政所へも贈った心遣いを評価する。 石田治部少輔にも申し伝えるよう命じた、島津義弘の贈答に対する礼状。
(慶長元年)五月十日 / 冊子 24頁
小西行長が島津又八郎(忠恒)へ、寺沢志摩守が上着して目見えし、現地の方針は以前と変わらない旨が申し出られたこと、奉行衆から各人宛の書状が再び届いたため、寺沢の使者を添えて届けることを伝えた。また、御城番を厳重に命じ、勅使渡海の際のことは使者から詳しく申し入れるとした。追而書では石田治部少輔三成への書状も託し、石田および奉行衆への返書を使者に渡すよう求めた書状。
(慶長元年)十月廿三日 / 冊子 48~49頁
島津忠恒が安三州へ、段子二巻を贈ると述べ、国元の検地以来の石田治部少輔(三成)の配慮への謝意と今後の懇意を求めた。また、未加増の家臣を早急に処遇するよう龍伯(義久)・兵庫頭(義弘)へ伝えていること、両者の子らが少扶持で在陣・在京している事情、引陣の命がないため帰国後に相談できないことから、義弘の上洛後に協議して支配を整え、三成も納得するはずだと伝えた書状。
(慶長二年)三月十八日 / 冊子 94頁
島津義弘が又八郎に、川東善左衛門尉の京都からの帰着と、石田治部少輔が又八郎の帰朝を命じた旨を安国寺恵瓊の書状で知ったことを報じた書状。義弘は先月十一日から州内に移ったが船が整わず、数日中の出船を見込むとし、自身の着陣を待って帰朝を延ばさないよう求める。
(慶長二年)四月八日 / 冊子 96頁
小西行長が島津又八郎方に、番船について諸将が注進した結果、朱印状が下され、寺沢志摩守の使者が持参したことを報じた書状。当年の軍役書立も各城へ届いたとし、石田治部少輔から兵庫頭への通知を踏まえて又八郎の判断を尋ねる。
(慶長二年)四月十一日 / 冊子 96頁
島津義弘が又八郎に、自身は五日前に壱岐まで渡ったが順風がなく出船が遅れていると報じた書状。又八郎の帰朝について北郷宗次郎を介して指示したが、石田治部少輔から高麗で交替させる旨の早飛脚が来たため、帰朝時期は改めて知らせるので準備を怠らないよう求める。
(慶長二年)四月廿日 / 冊子 97頁
島津義弘が又八郎に、渡海の見舞いと使者派遣への礼を述べ、逆風のため津浦を漂い、ようやく対馬小浦へ着岸したと報じた書状。又八郎の帰朝を北郷宗次郎に指示したが、石田治部少輔から高麗で交替させる命令も届いたため判断に迷ったとし、小姓だけを帰朝させる案の検討を求める。
(慶長二年)七月十一日 / 冊子 114~115頁
島津義久が島津義弘に、軍勢加増の要請を受けて肥後勝兵衛尉を差し上せ、急用の道具を先に整えて渡海させ、残りは追って送ると報じた書状。軍事行動は八月と聞くため、石田治部少輔が又八郎の帰朝延期を了承したこと、渡海衆不足にも対処することを伝える。
(慶長二年)七月十一日 / 冊子 115頁
島津義久が又八郎の五月二十三日付書状を六月三日に受け、肥後勝兵衛尉を差し上せて急用の道具を先に整え、遅陣を避けるため渡海させると報じた書状。残りの人員・物資は追送し、八月の軍事行動と又八郎の帰朝延期について石田治部少輔が了承していることを伝える。
年月日未詳 / 冊子 200頁
徳川家康が島津義久の私宅を訪れ、朝五時から夜四時まで滞在して帰ったとの記事。続いて、慶長三年に義久が伏見にいた際、石田治部少輔と相談して島津家の雑事に関する法度条目を作成し、家臣らへ与えたことを記す。
(慶長三年)五月廿日 / 冊子 210~211頁
島津義久(竜伯)が島津又八郎に、帰朝には治部少輔の助力が得られる見込みを伝え、在京者同士の神文や茶の湯を介した結び付きに注意して判断するよう助言した書状。大和に現れた不思議な人物、東国馬の受領、家中の人手不足、阿多の者の帰国希望、有方の茶の湯による用務遅延など、京都・家中の近況も詳しく報じる。
年月日未詳 / 冊子 215~217頁
島津又八郎の上洛に伴い、京都で諸方へ進上した礼物と支出を列記した覚書。治部少輔・幽斎老ら武家、公家・寺社・家臣・職人など多数の相手ごとに、銀子、鉄砲、刀、鳥目、紙、扇、衣類、食品等の品目・数量・代銀を記し、饗応の振舞も含めて上洛時の贈答と費用を整理している。
慶長三年六月廿七日 / 冊子 217頁
本田正親が銀子四枚を受け取った請取状。石田治部少輔が肥前国へ下向したことに伴い、早打の使者を差し上せた際の祝物であると記す。
年月日未詳 / 冊子 283頁
『新納旅庵長住譜』の記事。慶長三年、浅野弾正少弼・石田治部少輔が筑前国博多へ下向して公領の勘定を行うことになり、新納旅庵が十一月十一日に帖佐を出発して博多へ赴いたとする。勘定を終えたのち、十二月に帰国した。
(慶長三年)十二月九日 / 冊子 305頁
島津義久(龍伯)が(慶長三年)十二月九日付で石田三成(治部少輔)らへ出した書状。番船との交戦で薩摩勢に多数の負傷者が出たとの風聞を心配して早打ちを出したところ、高麗の戦事が無事に済み諸将が帰朝すると聞いて喜んだことを伝える。まず書状を送り、宛先の人々も急ぎ上洛するであろうとして、その到着を待つ旨を述べる。
年月日未詳 / 冊子 354~355頁
慶長四年三月一日、伏見で島津忠恒が長千代丸を召し、庄内から祁答院へ移されたのは自身の意向ではなく、伊集院右衛門大夫が石田治部少輔と内々に計画したためなので恨まないよう諭し、近日中に庄内へ復帰させると約した。その証として宝刀正広を与え、長千代丸は家宝として敬い、同月に暇を得て祁答院へ下着したことを記す。
(慶長四年)三月廿五日 / 冊子 362頁
幸侃成敗を知らせる飛脚を早く上せるつもりであったが、庄内へ遣わした使僧の返報を待ったため遅れたと述べる。源二郎忠真には下城を命じたものの未解決で、決着後に改めて一人を上せること、石田治部少輔へ送る二通の書状を届けてほしいことを兵庫入道に伝える。
(慶長四年)三月廿五日 / 冊子 362~363頁
竜伯が又八郎に、大坂出船後の帰着、当所へ移す衆と屋敷配分、馬術に優れた入来院又六を当地に置く希望を伝える。荒地が多く当年の耕作が進まないこと、種子島左近大夫の知行を検地高五千二百余石と内検高八千五百石の中間である七千石(うち三百石加増)とする案、右馬頭の返地後に種子島を与える段取りを述べ、京都の息女の件を石田治部少輔や小西へ働きかけるよう依頼する。
(慶長四年)閏三月朔日 / 冊子 364頁
幸侃成敗の際に国許の衆が伏見へ差し上げた連署状。成敗を事前に届けなかったため石田治部少輔が立腹し、長谷寺へ移ったとの風聞に一同が驚いたと述べる。一方、幸侃の罪科は石田も以前から承知しているので事情を聞き分けて穏便に収まると期待し、吉報を早く知らせてほしいと伊勢兵部少輔へ求める。
閏三月朔日 / 冊子 364~365頁
本文はNo.696と同文のため省略されている。幸侃成敗を無届で行ったことに石田治部少輔が立腹して長谷寺へ移ったとの風聞を受け、国許の連署衆が驚きを伝え、石田は幸侃の罪科を承知しているので穏便な決着と早い吉報を期待すると伊勢兵部少輔へ申し送った文書である。
正月十四日 / 冊子 25頁
豊臣秀吉が、年頭の祝儀として太刀一腰と馬代銀子三枚を受け取ったことを喜び、詳しいことは石田治部少輔から伝えるとした朱印状。
十二月十八日 / 冊子 26頁
豊臣秀吉が、音信として紅糸三十斤が遠路から到来したことを喜び、詳しいことは石田治部少輔から伝えるとした朱印状。
十一月晦日 / 冊子 209頁
足利義昭が島津修理大夫に、日向衆に関する大儀の所望を承知し、到来すれば喜ばしいとして鑑を遣わした御内書。詳細は布施治部少輔に含め、昭光・昭秀からも説明させると伝える。
正月廿三日 / 冊子 304頁
島津忠昌が年始の祝意を述べ、旧年のことを重ねて祝うとともに、抑山田治部少輔の越境時には詳しく尋ねて対応するよう家中の人々へ伝えた書状。
十二月廿八日 / 冊子 7頁
歳暮の祝儀として呉服三点が到来したことを喜び、詳しくは石田治部少輔から伝えるとした朱印状。
(天正十五年)七月十日 / 冊子 7頁
領内百姓から刀・脇指を取り集めて多数を差し出したことを賞し、尽力を評価するとともに、詳細は石田治部少輔に申し含めた直書。
十二月十八日 / 冊子 11頁
鹿児島への無事到着を喜び、緞子二十巻と皮衣一領の遠路からの贈答に謝意を示し、詳細は石田治部少輔から伝えるとした直書。