豊臣秀吉朱印状
(天正20年)5月3日 / 冊子 557頁
豊臣秀吉が、端午の祝儀として生絹三疋・染物二点・帷子五領を受け取ったことに礼を述べた朱印状。詳しい返答は石田三成から伝えるとしており、野村備中守から秀吉への季節贈答と取次関係が分かる。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
175 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 4
(天正20年)5月3日 / 冊子 557頁
豊臣秀吉が、端午の祝儀として生絹三疋・染物二点・帷子五領を受け取ったことに礼を述べた朱印状。詳しい返答は石田三成から伝えるとしており、野村備中守から秀吉への季節贈答と取次関係が分かる。
六月廿四日 / 冊子 18頁
島津忠嘉が、帖佐衆中の安楽五郎左衛門尉と伊地知丹波守との入組を処理するよう求めた書状。両者は以前にも公儀へ事情を申し上げ、再び参上したので、事情を知る相手方から当奉行衆へ相談し、解決に導くよう頼む。
年月日未詳 / 冊子 433頁
家久の慶長十九年正月の案文中に、上床藤右衛門入道・曽木五兵衛尉・上井次郎左衛門尉・蒲地備中守を宛所とする案文があることを記した雑抄。
(慶長十九年) / 冊子 520頁
家久の妹が現地へ無事に到着したことを喜び、道中で尽力したことを賞するとともに、以後も諸事を怠りなく取り計らい、女房衆への配慮を続けるよう求めた書状案。
(寛永十四年)十一月八日 / 冊子 688頁
肥前松倉領で切支丹宗門の者が蜂起し、城下に放火して有馬の城へ四、五千人が籠ったとの報告を伝える。確実な情報が届いていない可能性があるため内々に知らせ、武具・道具を携行しないよう心得を求めた四名連署の回状写。
巳11月7日(伺);伝来の過去:応永17年6月・慶長年鑑以前 / 冊子 194頁/原整理番号 272の6/整理ID 271-5
巳十一月七日に堀田備中守へ差し出した伺書と伝来の趣の書取。御臺様の入城・婚姻が整った謝礼として、薩摩守が伝来の大小と拵付小サ刀を献上したいと願い、許された品が国元から届いたので、次第に従って鮮鯛一折とともに献上したいと伺う。半田嘉藤次の記載を伴う。刀は備前国信房作、長二尺六寸二分半で、応永十七年六月に陸奥守元久が上洛した際に将軍義持から拝領したと説明する。脇指は越中国國次作、長九寸四分で、慶長年鑑以前からの伝来とする。小サ刀は備前国長義作、長一尺七寸八分半で、中納言家久が朝鮮へ持ち越した秘蔵の指料と述べる。各伝来説明は本書の主張として記す。
年月日未詳 / 冊子 773頁
島津貴久が上之山へ出陣し、紫原で谷山勢と戦った経過を樺山玄佐が記す。平田備中守・阿多源太左衛門らが敵を敗走させ、夜中に城を攻撃した。神前への守備指示、伊集院大和守との交渉、使者派遣を通じて翌段階の攻城準備を進めた。
二月廿七日 / 冊子 708頁/整理ID 2400
横田備中守が松平薩摩守らへ、天真院殿の逝去により当日から二十九日まで鳴物を停止するよう触れた書付。普請は差し支えないとし、折井淡路守・安藤筑後守・仙石丹波守ら複数の宛先を列記する。
文久3年亥12月21日(証状);永正6年3月7日在判の記載 / 冊子 309頁/原整理番号 437/整理ID 437
「同上」の出典表示に続く馬具の証状。「兩咲之鐙」、宮備中守時道、正作、永正六年三月七日・在判と記し、代金貳拾五枚とする。文久三亥年十二月廿一日、辻山城政恒判。本文に記す鑑定と代金を整理し、実物の真贋・取引や現代価格を独自に認定しない。
文久3年亥12月21日 / 冊子 309~310頁/原整理番号 438/整理ID 438
「同上」の出典表示に続く証状。「海有之鞍」、宮備中守時道、正作とし、「紋軍配」の記載を伴う。代金貳拾五枚、文久三亥年十二月廿一日、辻山城政恒判と記す。文字と原単位を保持し、同日の第437号と同一物や同一取引にまとめず、実物鑑定・支払済みとはしない。
文明十六年三月九日 / 冊子 507頁
文明十六年三月九日の犬追物について、第一の手組に属する射手と各人の持足数を列記した手組。
永禄十年十一月廿四日ほか / 冊子 170~171頁
永禄十年十一月二十四日の馬越城攻めを中心に、同月二十五日・二十九日などの戦闘で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。辻大蔵左衛門尉、有馬軍弥左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、市来家利、伊集院久慶らの名と戦死・負傷等の注記を載せる。
天正十一年十月六日~二十七日 / 冊子 761~762頁
天正十一年十月六日から二十七日までの堅志田方面の軍事記事。大雨の中で諸口から進軍して村々を焼き敵を討ち、八日には宇都勢が隈荘で敗れて四十余人が戦死した。龍造寺和平案と宇都氏の敗戦報告を八代で協議し、二十七日には堅志田口の花山に陣地を定め、軍神勧請・鍬初めを行って柵と陣営を築いた。
(元和六年)閏十二月廿九日 / 冊子 739~740頁
喜入忠政・伊勢貞昌が国元の重臣に、出水・長島から百姓二十余人が逃散した件、風水害後の収納・荒地・移住・開発を調査し、良地悪地を区別して御蔵入の後年負担を避けるよう協議を求めた連署状。
四月十八日 / 冊子 156頁
島津久元と三原重種が本田源右衛門に、蒲生御城米の究帳を早急に差し出すよう命じた連署書状。算用奉行衆から度々催促があり、今月中に算用を済ませる必要があるため、これ以上の延引がないよう厳命する。
天保八年五月十八日 / 冊子 7頁/原整理番号 10の8/整理ID 10-8
島津斉興が松平豊後守の名で御判を付した起請文前書。将軍に表裏なく忠勤を尽くすこと、一門・公家・親類縁者その他に野心を抱く者がいればすぐに言上して加担しないこと、代替わりに際して公義の仕置をいっそう守ることを誓う。違背した場合には日本の神々の罰を受けるとし、井伊掃部頭と老中松平和泉守を宛名に記す。張紙には水野越前守・太田備中守を記し、神尾豊後守の名は越前守の邸で書き加えたとの説明がある。井伊掃部頭の人物注は「直弼」とするが、同定は留保する。
天保十二年六月 / 冊子 59~60頁/原整理番号 25
川上久国は、島津家の系図を太田備中守に差し出す予定だったが、若君誕生による混雑で延期し、八月二十一日に持参したと報告する。林道春親子が系図と古文書を点検し、近代の事績を書き加えるよう求めたため、江戸と国元で照会を重ねて清書を進めたいと述べる。寛永十八年八月二十七日付の書状。
年月日未詳 / 冊子 60~61頁/原整理番号 26
伊地知季安は、川上久国の書状を受け、提出した島津家系図には近代の事績の追記が求められ、清書本は翌寛永十九年三月に太田備中守へ出されたと記す。一方、急いで作成した系図の親子関係・系統には誤りが残り、後に新井白石らから批判されたと指摘する。その後に平田清右衛門が記録編集を命じられたと考え、寛永初年からの従事説に疑問を呈して平田家文書を引く。
八月廿七日 / 冊子 213頁
林春斎が川上久国へ、前日に備中守邸で初めて面会できたことを喜び、贈られた琉球上布三疋への礼を述べた書状。詳細な謝意は後日対面して申し述べるとしている。
天明三年十一月 / 冊子 712頁/原整理番号 2014/整理ID 2014
福昌寺が公辺の独礼乗輿の格式を許されて出府し、先月十五日に登城したことを伝える。御白書院に公方様・大納言様が出御し、二束一巻と官香五把ずつを献上し、奏者牧野備前守を介して御目見を許された。朱網代乗輿は願いにより当住一代限り許され、その旨を阿部備中守から申し渡されたとの報告を受け、寺社奉行へ伝え、承知すべき者にも申し渡すよう命じる。十一月付、主馬署名で喜入久福と注記する申渡書。白木御文書五番箱所収の写し。
天明三年十二月 / 冊子 712頁/原整理番号 2015/整理ID 2015
福昌寺が寺社奉行阿部備中守の指示により十月十九日に登城し、柳之間で御用番田沼主殿頭から御暇と拝領物を申し渡されたことを伝える。奏者松平右近将監から拝領物を受け取り、同月廿七日に江府を出立したとの報告を受け、寺社奉行へ伝え、承知すべき者にも申し渡すよう命じる。御時服三の記載を伴う。十二月付、主馬署名の申渡書。白木御文書五番箱所収の写し。
文政5年12月20日(年は親一件表紙による) / 冊子 645頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0123
野崎良右衛門が帯刀へ、阿部備中守から備前守へ桃次郎と同道して翌二十一日四時に登城するよう奉書が届いた旨を報告する。桃次郎が風邪のため、名代を差し出してよいか備前守が相談したところ、名代は不要との指図があり、その旨を備前守の留守居から知らせてきたという。十二月二十日付。左右の届書が御譜中にもあるため、この箇所では省略したとの編者注を伴う。登城予定と名代不要の通知を記す文書で、翌日の登城や許可の実施報告とは区別される。
寛政5年5月2日(年次は朱注) / 冊子 55頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0181
徳川家斉が重豪から端午の祝儀として届いた帷子・単物を喜び、詳しくは太田備中守が述べると伝える御内書。5月2日付で、家斉公墨印の表示を伴い、松平上総介殿に宛てる。年次は朱注による。本文に衣類の数量や太田からの説明の具体的な内容は記されない。
寛政5年10月29日(年次は朱注) / 冊子 70頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0230
老中四名が重豪へ、明朔日の五時に登城し、参府の御礼を申し上げるよう通知した連署状。10月29日付で、安藤對馬守・太田備中守・戸田采女正・松平伊豆守の四名を列記し、松平上総介殿へ宛てる。寛政5年の年次は朱注による。日時指定は本文の「明朔日五時」を保持し、現代時刻へ推測換算しない。目録の代表人名は松平信明とし、本文の署名は官途名で記されている。
寛政6年9月7日(年次は朱注) / 冊子 79頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0262
家斉が重豪へ、重陽の祝儀として到来した小袖一重を喜んで受け取ったと伝える御内書。詳しいことは太田備中守が述べると記す。9月7日付、家斉公の墨印、松平上総介殿宛で、寛政6年の年次は朱注による。太田は委曲を伝える文中人物で、御内書の宛先ではない。
寛政6年10月20日(年次は朱注) / 冊子 81頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0269
太田備中守が重豪へ、重陽の御内書を渡すため、翌日の五半時に御城へ家来を差し出すよう通知した書状。10月20日付、太田備中守の官途署名、松平上総介殿宛、年次は寛政6年の朱注による。目録では太田資愛書状とする。御内書交付のための家来登城通知であり、御内書自体の本文や重豪本人の御目見は記さない。
寛政8年5月2日(本文。年次は朱注) / 冊子 123~124頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0379
端午祝儀として帷子・単物が到来し歓覧したと伝える家斉の御内書。委曲は太田備中守が述べると記す。5月2日付、寛政8年朱注、家斉公墨印、次頁に松平上総介殿宛と島津重豪の人物注を伴う。太田備中守は詳しい説明をする人物で、御内書の差出人ではない。品目は帷子・単物、数量は記さない。
寛政8年6月24日(本文。年次は朱注) / 冊子 130頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0389
端午の御内書を渡すので、明日五半時に家来を御城へ差し出すよう太田備中守が上総介へ通知する短い書状。6月24日付、寛政8年朱注、太田備中守署名、松平上総介宛。御内書の受取方法の通知であり、御内書そのものの差出人を太田として置換しない。原五半時を保持し、端午祝儀の品目・数量をここへ補わない。
寛政9年6月24日(本文。年次は朱注) / 冊子 147~148頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0460
端午の御内書を渡すので明日五半時に家来を御城へ差し出すよう、太田備中守が上総介へ知らせる。6月24日付、寛政9年朱注、太田備中守署名と宛名は次頁へ続く。御内書の受取方法の通知と、御内書そのものを区別し、品目数量は補わない。旧信成・6月27日の属性を次461と分離する。
寛政11年2月26日(朱注。翌日五半時の差出通知) / 冊子 165頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0527
歳暮の御内書を渡すので、明日の五半時に御城へ家来を差し出すよう求める通知。差出人は太田備中守、宛名は上総介殿、朱注は寛政11年2月26日。目録は太田資愛書状。出典は重豪公御譜中、正文在文庫。通知日と翌日の受取指定を分け、次528の斉宣帰国記事を本書へ転用しない。
寛政12年6月24日(朱注。翌日五半時の差出通知) / 冊子 179頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0577
端午の御内書を渡すので、明日の五半時に御城へ家来を差し出すよう求める通知。寛政12年6月24日の朱注、太田備中守署名。目録は太田資愛書状。出典は重豪公御譜中、正文在文庫。本件に独立宛名は印刷されていないため、他の受取通知から上総介宛を補わない。
文化14年12月27日(年は朱書) / 冊子 526頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1599
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。歳暮の祝儀として小袖一重が到来したことを喜び、詳しいことは阿部備中守から述べる旨を伝える。文化十四年の朱書、十二月廿七日、家斉公墨印、松平榮翁宛。本文の贈品数量は小袖一重。委曲を述べる阿部備中守の実名は本書に記されていないため補わない。先の重陽祝儀書状とは日付と祝儀の種類を区別する。
文化15年2月20日(年は朱書) / 冊子 531頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1606
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。歳暮の御内書を渡すので、明日五半時に御城へ家来を差し出すよう求める。文化十五年の朱書、二月廿日、阿部備中守署、松平榮翁宛。差出者の実名正精は目録による。上段の出典と下段の本文・署宛を一通として確認した。歳暮という用件名を本書の日付二月二十日と区別し、十二月へ置き換えない。家来を派遣するよう求める案内で、御内書の受取済み報告ではない。
文化15年2月28日(年は目録・同件、本文二月廿八日) / 冊子 532頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1609-3
書附一通・御付札あり。当年参勤で西宮から伏見まで人馬を用い山崎道を通行する届の表示があり、同一通右同と続く。付記では甘露寺の参向に際し、江戸逗留中に高輪・白金両屋敷へ招請する件を、差出者名で当番阿部備中守方の用人町野多膳へ達したとする。今日中に差出す旨の切紙が用人から届き、出向いたところ、書付への付札が用人をもって渡されたので差し上げると述べる。今晩私が勤めた旨を報告する。二月廿八日、早川渡殿、内蔵様宛。追書は国元で承知のうえ私共御使者をもって御受を達せられると存じる旨を記す。三通の包紙には御願書并御續書とあり、本文の報告・通行表示・書類取次の付記を区別して採録する。
文政2年1月7日(年は朱書) / 冊子 547頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1655
出典は全上。若菜の祝儀として鯛一折が献じられ、披露したところ一段の御仕合であると伝える。文政二年の朱書、正月七日、正精判、松平榮翁宛。口裏に阿部備中守正精とある旨の朱注を伴う。同日付の1654は乘保から、本書は正精からの報告で、それぞれ鯛一折と記す。二通の記載を一件の贈品二折という数量にはしない。
文政2年1月11日(年は朱書) / 冊子 547~548頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1657
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。年頭の祝儀として使者によって太刀一腰・馬代黄金十両が献じられ、披露したところ一段の御仕合であると伝える。文政二年の朱書、正月十一日、正精判、松平榮翁宛。口裏に阿部備中守正精とある旨の朱注を伴う。太刀の数量一腰、馬代の黄金十両をそれぞれ記し、若菜祝儀の鯛一折とは名目・品目・日付を区別する。
文政2年6月26日(朱注。5月28日の本文日付を併記) / 冊子 558頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1685
出典は重豪公御譜中、扣正文は家老座にあるとする。去る十六日、水野出羽守が留守居を呼び出し、重豪が快復していれば御序をもって御目見を申し出るよう、御用人を通じ伝えたと記す。承知のうえ受けた礼を伝え、別紙の案文による御目見願を水野出羽守が内見し、御用番阿部備中守へ留守居が持参して、受取済みと知らされた。願が済んで御目見が実施されれば、その段をさらに知らせるとする。先に伝えられた内容を承知し恐悦・同意する旨を結ぶ。末尾は五月二十八日、上町田監物・下川上右近、朱六月二十六日、三名殿の記載を伴う。久芳は目録による。上下の各通と日付署宛の対応は1684の留保を継続し、同じ原本範囲の文脈付き参照とする。願書の受取済みと、御目見の実施予定・後続報告を区別する。
文政2年9月7日(年は山括弧補記) / 冊子 567頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1705
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。重陽の祝儀として小袖一重が到来したことを喜び、詳しいことは阿部備中守が述べると伝える。年は山括弧の文政二年、九月七日、家斉公墨印、松平榮翁宛。受領を伝える御内書で、小袖は一重と記す。重陽の贈品であり、端午の帷子・単物や歳暮の小袖へ置き換えない。
文政2年10月22日(年は朱書) / 冊子 568頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1709
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。重陽の御内書を渡すので、明日五半時に御城へ家来を差し出すよう求める。朱書の文政二年、十月廿二日、阿部備中守署、松平榮翁宛。正精の実名は目録による。重陽は交付する御内書の用件で、書状の日付は十月二十二日である。御内書を受け取る家来の登城案内であり、本人登城や受取済みの報告としては扱わない。
文政3年(配列による。本文は「月」のみ) / 冊子 581~582頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1751-2
斉興が、榮翁の国政介助辞退と今後の心添えを届ける文書。榮翁が天明七年未に隠居を願い、国政筋は病中に介助する心得を申し上げ、その後溪山へ政事を任せた経緯を述べる。文化六年巳に溪山が隠居して斉興へ家督を命じられてからも、榮翁は介助を続けた。次第に気力が衰え近年は病身となり、これ以上の介助が思い通りにならないとする。昨年の御目見時の重い上意を恐れ入って承るが、行き届かないため今回介助を辞退し、重要な事柄にはなお心添えすると述べているので、その旨を聞き置くよう求める。末尾は「月」のみ、松平豊後守署に斉興の注を付す。前の包にあるとの注がある。添えられた朱書は、両通を8月10日に留守居早川千竃が阿部備中守の勝手へ持参し、用人阿部小助を通じて先例のない届として内見・吟味を求め、先預りとなった経緯を記す。13日の呼出しでは太守の届書も添えるよう求められ、同日附で差し出すよう内分に伝えて取計い、備中守の落手を小助から聞いたとする。本文の日付と朱書の提出経緯を分け、次のNo.1752の首尾書も併読する。
文政3年8月13日(年は目録) / 冊子 582~583頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1752
白木御文書八番箱中三十八番にある御書附二通の提出経緯を、早川千竃が長門へ報告する。内訳は、大御隠居の介助辞退届一通と、それに付く太守の届一通。去る10日に御用番阿部備中守の勝手へ持参し、用人阿部小助と面会した。先例のない事柄なので心得を尋ね、まず内見を求めたところ、備中守の聞届の上で得と吟味し追って通知するとして、書付は先預りとなったと小助から聞いた。今夕、用人中からの切紙で自分ほか一人が勝手へ呼び出され、小助と面会した。先に預けた書付へ太守の届書も添えて差し出すよう備中守の意向を伝えられ、日付を取り直して直に勝手へ提出するよう内分に指示された。その通り取計って差し出し、備中守が受け取った旨を小助から聞いたので、今夕の出向と首尾を申し上げるとする。8月13日付、早川千竃署、次頁に長門様宛。追而書では、大御隠居からの届書を返納したと記す。二通の内訳、10日の先預り、13日の追加提出・落手、重豪の届書の返納を区別する。目録の早川兼備と本文署名の千竃を併記する。
文政4年5月2日(年は朱書) / 冊子 601頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1799
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。端午の祝儀として帷子・単物が到来したことを喜んで覧たと榮翁へ伝え、詳しいことは阿部備中守が述べる旨を記す。朱書に文政四年、5月2日付、家斉公の墨印、松平榮翁宛。品名は帷子と単物で、本文に数量は示さない。
文政4年6月22日(年は朱注) / 冊子 603頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1805
阿部備中守正精から松平榮翁(島津重豪)への書状。今朝、鰹一箱を献上した件を将軍に披露したところ、一段の御仕合せであったと伝え、謹言で結ぶ。日付は六月二十二日で、文政四年は朱注。正精の判、朱記「在口裏」と官名・実名を伴う。重豪公御譜中に収め、正文は文庫にあるとの所在注を持つ。同日付のNo.1806は松平乗保による別の披露通知であり、この一箱と合わせて二箱献上したとは扱わない。
文政4年6月24日(年は朱注) / 冊子 603頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1807
阿部備中守から松平榮翁(島津重豪)への通知。端午の御内書を渡すので、明日の五半時に家来を江戸城へ差し出すよう求める。六月二十四日付で、文政四年は朱注。署名は官名の阿部備中守のみで、正精の名は目録題名による。重豪公御譜中に収め、正文は文庫にあるとの所在注を持つ。御内書を渡す予定と家来の登城指示を記す通知であり、受領の実施や御内書本文・贈答品の数量は補わない。入力表題の「日阿部正精書状」は目録画像で「阿部正精書状」と確認し、余分な日字を除く。
文政5年12月27日(年は朱注) / 冊子 646頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1900
歳暮の祝儀として小袖一重が到来し、喜んで見た旨を松平榮翁へ伝える御内書。詳しい事情は阿部備中守が述べるとする。十二月二十七日付で、文政五年は朱注、家斉公の墨印を示す円形の表示がある。出典は重豪公御譜中、正文は文庫所在。
文政6年2月22日(朱注) / 冊子 656頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1917
阿部備中守から松平榮翁への書状。歳暮の御内書を渡すため、翌日五半時に家来を城へ差し出すよう知らせる。署名は阿部備中守、宛名は松平榮翁。朱書の日付は文政六年二月二十二日で、本文の「明日」は二月二十三日を指すが、実際に家来が登城したことまでは記さない。「歳暮」と二月の組合せは原文どおり保持し、理由は確定しない。重豪公御譜中、正文在文庫の表示を伴う。
安政4年1月28日出発・3月18日江府着・3月28日伝命・4月1日使者献物 / 冊子 172~173頁/原整理番号 240/整理ID 240
斉興公御譜の抄録。安政四年正月二十八日に鹿児島の玉里邸を出発し、三月十八日に江府へ到着する。三月二十八日、大家が上使堀田備中守を通じて斉興の参府を慰労する命を伝える。四月朔日、斉興は参府の礼を述べようとしたが病気で登城できず、使者によって例格に従う献物を行った。
本文年月日不記;回顧:天保9年西丸普請上納・天保10年12月拝領 / 冊子 193頁/原整理番号 272の4/整理ID 271-3
松平大隅守の家督中、天保九年の西丸普請に上納金を納め、翌天保十年十二月に拝領物を命じられた際の御礼勤の先例。当時在国中だったため、国許で承知してから礼勤方法を伺ったところ、掃部頭・老中・伯耆守・備中守へ名代を差し出すよう命じられ、名代によって御礼を申し上げたと記す。一通の例書で、作成日の記載はない。
元治元年甲子2月(朱書) / 冊子 340~341頁/原整理番号 485/整理ID 485
「同上」の覚として九品目を列記する御道具目録。浪に碇・千鳥模様の御鞍一背は宮備中守時道作とし、塗御鞍同前の御鐙一足も同人作とする。御手網は晒染一筋、手鋤は紅糸一掛、押掛は紫守山一掛、御紋附の御馬衣は花色絹一疋分、御紋附の轡は十文字一間、泥障は熊一刺、切附は一口と記す。元治元年甲子二月と、包紙の御道具目録の表示を朱書で収める。品名・材質・模様と数量単位をそれぞれ示す史料で、時道作の記載は目録の表示である。押掛の材質等の難読原語は留保する。
元治元年子6月朔日(保管書付);当子2月22日将軍賞賜の説明 / 冊子 369~370頁/原整理番号 529/整理ID 529
玉里への現書引譲のうち白木十一番箱二十一番の御馬道具書付。浪に碇・千鳥模様の宮備中守時道作の鞍一背、同じ塗りで同人作の鐙一足、晒染手綱一筋、紅糸手鋤一掛、紫守山の押掛一掛、紋附華色絹の馬衣一疋分、紋附十文字轡一間、熊の泥障一刺、切附一口を列記する。中将が国家に尽力したことを将軍家が称え、当子二月廿二日に賜った御馬道具のうちとして受け入れ、後年に紛れないよう記録する旨を記す。元治元年子六月朔日の式部久美・但馬久連・龍衛久齡・摂津久高四署、御馬預宛。二月の賞賜説明と六月の管理記録を区別する。宮備中守時道作は書付の表示で、現物の真贋・現在の所在は確定しない。