松平下総守書状
十月八日 / 冊子 298頁
河口で不法を働いた薩摩出身者三人の処分について、国元へ送り返すよう使者に求めたが、使者は当地での成敗を強く望んだため、最終判断は家久の分別に任せるとした松平下総守書状。
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十月八日 / 冊子 298頁
河口で不法を働いた薩摩出身者三人の処分について、国元へ送り返すよう使者に求めたが、使者は当地での成敗を強く望んだため、最終判断は家久の分別に任せるとした松平下総守書状。
二月十六日 / 冊子 393頁
白椿を受け取り、数寄の手掛かりにできると喜ぶ。義弘が来訪中であることを伝え、二十日に向島で狩りを行い義久も参加するので、十八、九日ごろに来て一泊し、見物と相談をするよう招いた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 803~804頁
天文十一年七月四日、北郷忠相が志和池へ出兵し、三口に分かれて北原方と戦った経過を記す。白坂下総守や粟野地頭の滋谷兵庫頭ら諸将の配置・戦功を挙げる一方、各口で生じた多数の戦死者も列記し、志和池方面の合戦規模と北郷方の損害を伝える。
年月日未詳 / 冊子 804~806頁
北郷忠相が高城、忠親が都城を本営として伊東・北原方に備えた戦いを詳述する。敵情を探る斥候を出し、有田加賀・白坂下総守らの兵を伏せて敵を誘引した。激戦の末に北原方を退け、多数を討ち取り、両城の防衛に成功した。
永禄十一年八月九日 / 冊子 200頁
永禄十一年八月、伊東氏が相良氏と結び桶比良に陣を置いたため、島津義弘が飯野の守備を固めた。皆越六郎左衛門から伊東・相良両氏の加久藤・飯野攻略計画が遠矢下総守へ密告され、島津方は大明司へ虚報を流して対抗した。貴久は長雨のため桶比良攻撃を断念し、義弘は皆越夫妻を河原口で迎えて大川平を与え、九郎の後嗣として左近将監と改名させた。
元亀三年五月四日 / 冊子 274頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦に従軍した島津方の将兵を列記する。大口住人の久富伴五左衛門をはじめ、遠矢下総守・日高掃部左衛門・竹下又左衛門・瀬戸口八郎左衛門・五代右京亮友喜・川上三河守忠智・二階堂四郎左衛門入道秀綱・有川雅楽助貞員・鎌田刑部左衛門らを掲げ、個々の戦功注記を添える。
天正十二年十二月八日 / 冊子 958頁
十二月八日、小代下総守が鹿児島へ参上し、島津義久と対面して太刀・黄金などを献上した。義久も太刀・馬を与えてその帰属を賞し、隈部・辺春ら肥後諸氏の従属と進物を記す。
年月日未詳 / 冊子 233頁
七月十四日、吉利下総守が三城から宮崎へ至り、国境に異変がない旨を上井伊勢守へ報じたこと、井尻伊賀守が八代から封物を携えてきたことを記す。さらに長寿院・大善坊を京都へ遣わし、前年に鎌田刑部左衛門尉を介して関白へ伝えた件を再度説明しようとしたが、鎌田の病で果たせなかったという。国境情報と京都外交の連絡経路を併記した記事である。
年月日未詳 / 冊子 527頁
慶長十九年五月、広津下総守常久の家臣岩元孫兵衛が、木下藤吉左衛門と同じく主君に殉死したことを記す殉国者の記事。
(寛永七年)十一月廿八日 / 冊子 179頁
琉球へ派遣する川上又左衛門尉・菱刈伴右衛門尉に付ける人数、京都で調達する銀子、帖佐弥左衛門尉の知行召上げ、比志島宮内少の嫡子の屋久島での出家、種子島にいる宮内少の女性と子二人の移送、息女を吉利下総守へ預けることなどを指示した覚書条書。
(寛永九年)八月廿二日 / 冊子 312~314頁
島津久元・伊勢貞昌が、吉利下総守・新納右衛門佐を通じて伝えた国元軍役の談合状況を問い、武具兵具の調達、道具用意、知行高に応じた具足・馬・武具の賦課、御城の総高六拾万五千石を基準とする軍役などについて、早急な決定と報告を求めた連署書状。
十一月十五日 / 冊子 150~151頁
入来院重時が東助左衛門に、ある者へ持たせた一種の件は評判が悪いと聞くため差し置くよう伝え、自分に有利になるよう調法を依頼した書状。下総守の船が来た際に一札を預けたこと、遣わされた品への謝意、帰国時期が未定であること、木の子・舞茸の贈答、下総守・杢七郎の無事を喜ぶ旨を述べる。
八月三日 / 冊子 204~205頁
北郷某と土持某が、高城をめぐる過去の合戦について照会に答えた連署覚書。伊東・北原方の攻撃に対して城方と梶山・勝岡・山之口衆が迎撃し、敵数十人を討ち取ったこと、北原方の白坂下総守を討ち、志和池城麓まで追撃したことなどを記す。
六月九日 / 冊子 438頁
松平下総守の死去を知った島津光久が、将軍の機嫌を案じて使者を派遣したことについて、念の入った対応であると上聞に達した旨を伝えた松平信網・阿部忠秋連署奉書。
天正六年正月十八日 / 冊子 536~537頁
入来院市比野名内の水田・畠・屋敷などの坪付注文。かひくち・山下・とふち・三渡瀬・平木・井之牟礼脇などの田地と蒔高を列挙し、水田は合計八反、そのうち三渡瀬の一反は水損と記す。
六月十九日 / 冊子 146頁
島津常久が入来院三左衛門尉に、京都滞在中に石州から事情を聞き、先方が諸事に辛労していることを労った書状。留守中のことを特に心配しているが、下向の時期も近いと聞くので安心するよう伝え、詳しくは面談時に話すとする。
十一月十日 / 冊子 205~206頁
島津忠隣が阿多若州老に、いしん様への酒進上の意向、当地や紀州の情勢、中嶋から届いた兵糧夫役の件などを知らせた書状。兵糧・人夫の扱いは国の定めに従い、少数の私的な者だけで処理せず、内容を他言しないよう慎重な対応を求める。
(元禄九年)十月朔日 / 冊子 971頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2689
島津綱貴が諏方下総守の家臣らへ、家来の薬丸伊右衛門を当地に置くので、万事適切に指図してほしいと依頼した書状。
元禄十二年五月十三日 / 冊子 117頁/整理ID 420
島津綱貴が西丸留守居の庄田下総守へ、島津左京が願いどおり佐土原を城地として認められたことを報告し、相手の取り持ちで首尾よく済んだと謝した書状。目録どおりの礼品を贈る。
年月日未詳 / 冊子 780頁
天文八年閏六月十七日以降の島津貴久軍の市来方面作戦を記す。忠将・樺山玄佐・蒲生宮内少輔・伊集院大和守・三原下総守らの配置、城攻め、八月四日の再戦を追い、九月朔日に本城を奪取して守備兵を配置し、地域支配を固めた。
年月日未詳 / 冊子 781頁
天文八年閏六月十七日の市来方面の戦闘を中心に記す覚書。貴久の馬が射られる激戦の中、忠将・樺山玄佐・伊集院大和守・三原下総守・平田衆らが城を攻めた。敵の抵抗、八月四日の再戦、九月の本城奪取までを時系列で追う。
年月日未詳 / 冊子 69頁
天正十三年七月十三日以降、吉利下総守らが上井覚兼へ伝えた諸方の軍事情報をまとめた『島津義久譜』の記事。羽柴筑前守の軍勢が四国で戦い、七、八百人を失って敗れたとの風聞、甲斐宗運が病死したとの情報が届くが、謀略の可能性も疑っている。続いて島津図書頭忠長・伊集院忠棟らが宮崎・高知尾方面の作戦と兵器輸送を協議し、花山城をめぐって阿蘇・甲斐方の大軍と交戦した経過を記す。未確認情報を吟味しながら救援・守城策を組み立てる島津方の情報活動が分かる。
元亀三年五月四日 / 冊子 265~266頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦を記す。伊東方数千が飯野を越えて加久藤を攻めたため、島津義弘は四、五十騎で木崎原を遮り、久富・遠矢らと迎撃した。長峯氏や伊東文次郎・落合源左衛門らを討ち、田原陣・鬼塚原へ追撃して義弘自身も強敵二人を斬った。島津方にも鎌田大炊助らの戦死者を出したが、少数で伊東方の大軍を破った勝利を天助と評する。
天正二年正月~二月二日 / 冊子 331頁
天正二年正月、肝付氏への加勢として日向勢が出発してから帰還するまでの日程を列挙する。飫肥・櫛間・志布志・内城を経て禰寝へ進撃し、村々を焼き、禰寝勢を破って塩入城を攻め落としたのち、高城へ進み、二月二日に飫肥へ戻ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 158頁
慶長十三年春、喜入忠続が島津義久の使節として駿府・江戸へ赴き、島津常久と海路・陸路をともにしたことを記す系譜記事。
(寛永四年)十二月廿七日 / 冊子 49~50頁
寺領への居所移転、使者の人選、比志島宮内少輔のもとへ出入りする者の礼法・監視を指示する。また、度重なる命令不履行、訴訟で自説を押し立てること、他人と相談しないことなどを問題として、宮内少輔へ申し聞かせるよう命じる覚書。
天保九年十二月五日 / 冊子 30頁/原整理番号 39の4/整理ID 39-4
脇坂安董・太田資始・水野忠邦・松平乗寛が、京都所司代間部下総守へ出した連署状。中将であった松平大隅守島津斉興を今回宰相に任じる旨が出されたため、口宣などを整えるよう伝奏衆へ申し入れることを求める。天保九年十二月五日付で四名が署判する。
正月17日 / 冊子 732頁/原整理番号 769
軍衆と水手が合計三万近くになり、兵糧が続かず手持ちの米も少ない状況を伝える。先に二番立の者の帰還を検討し、後続人数を呼び留めるよう相談する一方、有馬城攻めが急に始まる場合への備えも必要とする。当面は城攻めの沙汰がないため先発人数を戻すことが重要と述べ、関係者間の協議を求める。正月十七日付。米数量などの欠字は補わない。
正月18日 / 冊子 749頁/原整理番号 785
兵糧が不足するため、別紙で示す外城衆を天草へ渡さず、出水に留め置くよう命じる。すでに渡海した分はやむを得ないが、まだ残っている者は留め、その様子を追って知らせるよう求める。正月十八日、出水の岩切六右衛門・川上彦左衛門宛。
年月日不記(石高一覧・書付と行列の話) / 冊子 317~318頁/原整理番号 449の2/整理ID 449-2
二内容の記事。石高欄は一橋中納言を十万石格、酒井雅楽頭を十五万石、加賀中納言を百二万石、戸澤惣介を六万八千石等として列記する。渡邊肥後守の三十四万石にはママの注があり、そのまま留保する。続く記事は上京する人員が昨廿日芝の通の湯屋へ出張し、銃筒七八十挺ずつを持って行列し松平下総守の通行に付く由、ほかに後から上京する者もあるだろうとする。江戸から書付が到来し写し置くと記す。石高を兵員数に換算せず、七八十の概数や伝聞を実際の総兵器数にしない。
天明四年六月晦日・九月二十四日(文中日付) / 冊子 753~754頁/原整理番号 2122/整理ID 2122
島津重豪の在府中に坊主部屋を借り受け、登城の際に挟箱を城内の所定の口まで通し、御小納戸奥御小姓を付ける手続について、安永四年の疱瘡後に弁当を持参した先例を参照して御目付側へ届けようとした経緯を記す。六月晦日に山川下総守方の用人海老原平左衛門へ先例を説明したが、近年は取扱いが変わり担当も交替しているため照合が難航した。九月二十四日、根元政右衛門が渋谷五郎右衛門宛書付を添えて申出を行い、挟箱の持込みを取りやめる場合にも山川下総守へ届ける旨を確認し、伊賀が承知した。
天明五年三月二十五日 / 冊子 802頁/原整理番号 2199/整理ID 2199
持病の下冷により出仕時の足袋使用を田沼主殿頭へ伺い、使用してよいとの指図を受けたため、使者を通じ同役中へ伝えておいてほしいと申し入れる三月二十五日の口上書。使者は四本長右衛門・山口佐左衛門。注記では御用の依頼先と使者を、目付山川下総守へ四本、末吉善左衛門へ山口と振り分け、二通を家老座で調えたことを記す。以後は留守居使番で吟味して同様に扱う旨を付記する。
〔天保八年〕十月(本文は酉年、年は目録による) / 冊子 10頁/原整理番号 13/整理ID 13
領知の御判物・御朱印を交付するに当たり、本多下総守と井上河内守が内容を調べることを定めた指図書。従来の判物・朱印を持つ者は本書に写しを添え、国郡郷村の高辻を書いた帳面を差し出すよう命じる。本書は両名が拝見し、写しを留め置く。朱印を持たない者は領知高と国郡郷村の詳細を記し、加増・所替え・朱印高の内の領知がある場合も両名へ事情を届けるとする。酉年十月付。包紙は天保八年十一月二十五日に安房殿から新納次郎四郎を取次として平川宗之進へ渡し、白木御文書九番箱へ納めたことを記す。
の1:安政6年9月25日;の2:今廿六日;の4:10月2日;外標:安政6年未12月 / 冊子 224~225頁/原整理番号 307の1~4/整理ID 306-1
印刷第307号の1~4を収める一件。の1は安政六年九月廿五日付武家諸法度を天保九年二月廿一日付と同文として略す注で、法度正文は載せない。の2は今廿六日、間部下総守が御條目写一通を家来へ渡し、御國持四品以上の各家へ順達するよう命じた旨の覚。受領した各家が銘々下総守へ使者を遣わして名面書どおりに順達し、この方へ返却されたら重役にも伝える。の3は相模守・大膳大夫以下、修理大夫・有馬中務大輔・細川左京大夫・南部美濃守等の名面書。の4は西筑右衛門の御名内宛報告で、先月廿六日に阿波守家来へ渡された御條目写一通が有馬中務大輔方から今日到来したため、国許の修理大夫へ知らせ承知のうえ御請を申し上げるとする。十月二日。外標は安政六年未十二月。
の5:未10月2日(前月25日仰出参照);の6:9月23日 / 冊子 225頁/原整理番号 307の5~6/整理ID 306-2
の5は手扣書一通を付した西筑右衛門の龍衛宛報告。先月廿五日仰出の法令写が阿波守家来へ渡され有馬中務大輔方から今日順達されたため、国許の太守へ知らせる旨の御受を、掛の老中間部下総守の取次田子百人へ持参して説明し差し出したと述べる。取次から追って申し聞かせると聞き、今夕の勤めと写しの到来を報告する。未十月二日。の6は太守が国許にいる場合は承知のうえ使者による御受を行い、嫡子が在府する家は附衆へ伝達する旨と、陸奥守・越中守が廻状と書付写一通を送った旨の廻状。九月廿三日、清田新兵衛・秋保清潔・橋本九八郎の名、修理大夫・有馬・南部の留守居宛を記す。
の7:9月23日;の8:9月(日不記) / 冊子 226頁/原整理番号 307の7~8/整理ID 306-3
の7は大目付の写で、間部下総守から渡された書付写一通を同列中と嫡子方へ漏れなく遅滞なく伝えるよう求める。回答は当面銘々の挨拶に及ばず、各自平賀駿河守方へ申し聞かせるとする。九月廿三日、陸奥守・越中守の留守居宛。の8は法令仰出に伴い病気・幼少で出仕しない者は掃部頭と老中水野出羽守宅へ使者を送り、在国・在邑者は聞き次第使札を差し越すよう知らせる大目付宛の写。隠居者はその手続に及ばないとする。九月の記載がある。
元和元年 / 冊子 206頁/原整理番号 70
祢寝山城坊の女子から亀山又兵衛妻へ至る関係と、岡村伊織家の由緒を記す系図・由緒書。女子は近衛信輔公の側に召し置かれ、上京に供奉したのち、岡村伊織との縁組を命じられたとする。伊織は元和元年に豊臣秀頼方へ味方し、落城後は牢人として籠居したが、のち松平下総守に召し仕えた。伊織の子は十六歳の時、国許にいた母を見舞うため岡村新左衛門を伴って下り、亀山又兵衛宅に滞在した。その後上方へ戻ったところ父伊織が死去したため、母を介抱する目的で再び国へ下って居住し、札改めの際には亀山家の預りとして親類札に登録されたという。系線には岡村新左衛門―岡村市兵衛も掲げる。
慶長5年9月15日、寛永15年1月13日・2月28日、貞享5年6月12日ほか / 冊子 277~278頁/原整理番号 108
上世不詳とする上原丹後守を祖とし、丹後守が日新公に仕えたのち中書家久に臣従し、日州佐土原で二百五十石を与えられたことから始まる上原氏系図。長野下総守の長男で上原家に入った佐太右衛門は慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で二十五歳で戦死し、法名を節義玄忠禅定門とする。尚辰は島津豊久に従って戦い、豊久戦死後に本城へ移り、寛永十五年正月十三日にわずか三人で米津へ至り、二月二十八日の島原で軍功を立てたと記す。後裔には傳左衛門尚堯、薬丸如水門下で示現流に関わり貞享五年六月十二日に能学寺で自殺した佐太右衛門尉、仁禮仁左衛門景治の二男である尚照らを掲げ、奉公・知行・戦死・養子の由緒を伝える。
正文年月日不記;文久3年亥正月15日拝見・19日借入写置 / 冊子 277~278頁/原整理番号 387/整理ID 387
雑集中の二本文と閲覧・借写注。漢文の勅書写は、柳営の改革新政を喜ぶ一方、天下の攘夷が一定せず人心不一致によって内乱を生じることを懸念し、攘夷決定を大小名へ布告して武臣が衆議で良策を定めるよう求める。続く「勅使持参御書付写」は、御書付壱通として攘夷決定・天下布告と国防武備を説き、来二月の上洛前に策略を早く差し出し、家来にも無謀な所行を慎ませるよう求める。先年水戸中納言へ渡した勅詔を井伊故掃部頭らが都合よく取り計らったことや、神奈川調印・使節等の経緯、軽率な取計と叡慮の不一致を述べ、改めて勅意奉承を求める。大樹公は賢明としつつ人心動揺・水戸尾張両家の慎みや宗室の罪状を懸念し、諸大名の衆議、国内治平、公武合体と徳川家の扶助、外夷への備えを求める。漢文末尾には既載部分を略す注がある。末注は文久三年亥正月十五日に御対面所で拝見、十九日に借りて写し置いたことを記す。政治評価は原文の見解として整理する。
寛永十三年十二月廿一日 / 冊子 569~570頁
川内新田村内の九斗五升余の土地について、江川久右衛門尉の居屋敷との関係から別の高の内へ給付され、二重に籠成となって寛永十二年以来不足しているため、今回支配するよう求めた覚書。
安永五年丙申七月十九日・二十一日・二十七日の経過 / 冊子 464~465~466頁/原整理番号 1275の8/整理ID 1275-8
安永五年丙申、太守が在府している七月十九日、登城して白書院で縁組の御書付を受けた。老中が列座し、板倉佐渡守から直に渡され、浄岸院が在世中に世話した、薩摩守の娘と豊千代の縁組について、その心得で取り扱うよう命じる内容で、宛所は松平薩摩守。御用番松平右京太夫は不快のため板倉が代わり、引進の目付は山川下総守とする。西丸へ登城して大広間で奏者番秋元摂津守に礼を述べ、老中方へ回勤した。於篤の名を公方から一橋を通じて拝領し、一橋からは壽賀宮の持つ品である緋襷・日傘を於篤へ進めた。帰館後、新庄が芝の屋敷へ来て、名の目録と緋襷・日傘の目録を渡し、於篤を即日より茂姫と称する旨を付す。続いて名の順として太守・茂姫・虎寿丸を掲げる。七月二十一日、茂姫の名拝領につき、内証から女使をもって公方・大納言・種姫へ太守の礼を述べた。七月二十七日は十九日の縁組仰出・名拝領の礼の贈答を記す。太守から比志嶋要人を使者とし、本丸檜間で秋元へ目録を差し上げ、御用番松平右京太夫へ口上を直に述べ、公方へ二種一荷を献じた。同件で茂姫からは市田喜内を使者として公方へ鯛一折を献じた。太守から比志嶋要人を使者として大納言へ一種一荷を献じ、茂姫から市田を使者として大納言へ鯛一折を献じた。太守から嶋津登を使者として西丸檜間で米倉丹後守へ目録を差し上げ、御用番阿部豊後守へ口上を述べ、大納言へ干鯛一箱を献じた。同件で茂姫から長野筑右衛門を使者として御献上を行ったとし、使者勤方も同断と記す。別項として名拝領の礼では、太守から嶋津登を使者として大納言へ鯛一折を献じ、茂姫から長野を使者とする御献上も同断と記す。さらに種姫の部屋へ太守と茂姫から肴一折ずつを献じ、礼を述べた。さらに、この日の内証から女使をもって公方・大納言へ太守の礼を述べ、種姫の部屋へは太守・茂姫からの献上に伴う礼を述べたと記す。末尾は、この縁組一巻を後年の記録に照合できるよう記しておき、江戸で直に仰せ付けられたため、家老座の帳から大綱を書き抜き、家老座の帳面には始末を詳しく記したので、国元の記録方へ送るよう山本傳蔵に命じ、送った帳によるとする。
安永五年七月十九日(年は朱) / 冊子 507~508頁/原整理番号 1408/整理ID 1408
七月十九日、白書院の縁かわに老中が列座する場で、当番の右京大夫が不快のため、その代わりに板倉佐渡守が別紙書付の通り申し渡し、書付も直接渡したと記す。その後西丸へ登城し、大広間で奏者番秋元摂津守に御礼を申し上げ、老中方を廻勤した。引進御目付として山川下総守貞幹を記す。御筆写・正文在文庫の表示がある。別紙の命令内容は別の指図書と対応させ、当番老中の不快とその代伝、書付を受けた行動を分ける。
天明七年三月四日・六日・十四日(年は末尾朱書) / 冊子 951~953頁/原整理番号 2591/整理ID 2591
三月四日、帰国に向けた首途として四時に供を揃え、熨斗目半袴で本行列を立てて神明宮へ参詣し、帰宅後に熨斗・茶で祝った。隠居後初めての首途に市田勘解由が供をしたので縁亭で盆を与え、大奥でも対面所の寄合盆で三ツ肴三献の祝儀を行った。豊後守から肴代二百疋・肴一折が届き、大奥からも同様に祝いを受けた。出立が間近のため豊後守・大奥の惣方から二汁三菜の餞別料理を対面所の寄合盆で振る舞われ、諸方からも餞別の品物が届いた。三月六日、留守中の豊後守への心添えを、かねて依頼していた松平加賀守・伊豫守・左兵衛督・出羽守、有馬中務大輔、松平安藝守へ留守居を通じて重ねて頼んだ。年寄衆の松平周防守・牧野越中守・鳥居丹波守にも厚く頼み、大屋遠江守・山川下総守・末吉善左衛門の明頭三人、石川榮阿彌、関長三、関林雪、片岡喜伯、石井榮庵にも同様に頼んだ。松平越前守・陸奥守・大膳大夫と立花左近将監には四月の参府時に申し込むよう命じ、越前守と大膳大夫には間柄ゆえ特に頼む旨を付す。出立に際して上様から内々に黒縮緬の御召羽織一領を拝領したことを記し、紋は菱・振袖と注記する。その経緯として、波江方の小野嶋が縁故を理由に羽織その他の拝領について大崎から取り成してもらうよう文で依頼し、表向から願うよう返答されたため十三日朝に願いの文を出したところ、同日小野嶋が呼び出され、登城の折に機嫌を伺うよう老女衆から伝えられたとする。同日、御縁女からも老女衆の文を介して内々に嶋織八丈十端を拝領した。三月十四日には羽織と嶋織八丈の礼状を出した。翌日の発足にあたり直勤する予定だったが不快のため大老・年寄衆へ使者で届け、豊後守からも側役の使者をもって留守中の万端について申し伝えた。
寛政7年2月28日生・天保5年4月8日卒(本文) / 冊子 87~88頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0288
御系図中から、操姫が本多下総守康禎の夫人であること、生年月日・母と実母・卒年月日・法名を抄録する記事。寛政7年乙卯2月28日生、母は丹羽加賀守長祥の妹、実母は須山和太夫則勝の娘と記す。天保5年甲午4月8日卒、法名は蓮臺院殿操譽西眞妙香大姉。系図の親字は斉興と印刷されているように読める一方、目録表題は斉宣系譜抄で、次のNo.289にも斉宣公御子とある。系図字を推測で斉宣へ置換せず、表記異同として留保する。母と実母の二つの記載を区別する。
寛政7年2月28日生・文化2年9月6日養子・文化6年2月15日出嫁/9月2日婚姻・天保5年4月8日卒(本文) / 冊子 88頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0289
近秘野帥の斉宣公御子の記事から、操姫の出生・養子・婚姻・年給・卒年を抄録する。操姫は江州膳所城主六万石の本多下総守康禎夫人で、寛政7年乙卯2月28日に芝邸で生まれたとする。母は丹羽加賀守長祥の妹、実母は須山和太夫則勝の娘で名は喜代との注を伴う。文化2年乙丑9月6日に夫人が己子として養い、文化6年己巳2月15日に南八町堀邸へ適き、9月2日に婚姻したと記す。年給金三百両を資とし、天保5年甲午4月8日に四十歳で卒した。法名は蓮臺院殿操譽西眞妙香大姉。No.288よりも出生地・養子日・婚姻経過・年給・卒年齢を詳しく記す系譜であり、重豪発給の書状ではない。
文化8年7月願・許可。9月15日江府発、10月有馬・京都、11月4日高輪帰着 / 冊子 372頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1164
重豪は近年江府で宿疾を患い、今茲秋7月、斉興が重豪のため摂州有馬温泉での湯治を願い、大家が許した。9月15日江府を発ち、21日信州善光寺に詣でる。10月7日大坂着、4日滞坂し、10日大坂を発って有馬に至り温泉に浴したが僅か5日と記す。14日有馬を去り翌日伏見、16日宇治萬福寺で拝礼、17日京都着、中馬利兵衛宅に主して憩い、19日近衛内大臣基前公を訪ねた。20日微行で綾小路前中納言俊資卿・堤三位廣長卿の家へ行く。21日京師を去り、大津石場から船で松湖を渡り、江州膳所城主本多下総守康禎の邸を過ぎ、東海道の各駅を経て11月4日江府高輪邸へ戻る。康禎の邸には瓦第・近侍に関する割書注がある。許可・出発・入湯・各参詣訪問・帰府を別々に記し、1161/1162の三廻御暇と本件僅五日入湯を黙って一致させない。
文化10年(出生正文・実出生注、文政・天保の経歴婚姻を併記) / 冊子 425頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1322
近秘野抄・斉興公御子。斉敏は初名久寧(ヤス)、小字治五郎、文之助と称し又伊予守に改む。出生正文は文化10年癸酉11月16日芝邸、実注は文化8年辛未4月8日、母同上とあり両日を並記する。次段に称治五郎の付記。文政9年丙戌4月文之助へ改名、10月2日松平上総介斉政(池田注)が自女を妻とする嗣子の養子願を出し公許(許可日の別記なし)、23日ともに大家へ謁し25日松平氏を称する命、12月4日大名小路邸へ入る。文政10年丁亥4月従四位侍従、12年己丑2月備前岡山31万5200石を襲封。女子順姫は本多隼人正康融夫人、康融は初千之助・文政6年隼人正へ改むとの注、膳所6万石の注。順姫は文化10年癸酉10月12日芝邸生、母同上・実関根氏女注。文化12年乙亥8月、本多千之助へ嫁すことの許を稟ける。康融は下総守康禎嫡子、母は溪山公女と記す。天保3年壬辰4月21日南八町堀邸へ入ることと、天保7年丙申2月25日の婚姻を別に採録する。母同上の上の参照先は留保し、斉敏の正文生辰と実注、順姫の婚約許可・入邸・婚姻を統合しない。1310の卒日法名は本件へ移さない。
文化10年12月6日(年は目録) / 冊子 434頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1348
重豪公御譜中。同年冬12月6日、大家が山口勘兵衛(實名闕注)を芝邸へ使者として遣わし、重豪に御鷹之鶴を賜ったと記す。続く「會有微志」のため、本多下総守康禎が代わって恩旨を奉じ、即日老中各邸へ赴いて礼謝したという。年は目録文化10年。原字は微志に見え、微恙の候補としても解釈を留保し、現代診断名や病状を断定しない。鶴の数量、山口の実名、本人の登城は記載がないため補わず、拝領・代受恩旨・代礼の各行為を分ける。
沙汰書本文に日付記載なし。追記は天保九年十二月十四日と翌十五日 / 冊子 30頁/原整理番号 39の3/整理ID 39-3
島津斉興の宰相昇進を今回限りの特例とする沙汰書写しと、その後の藩邸記録。正四位下中将からの昇進は本来難しいが、前年の慶事と縁柄・由緒、大御所の厚い意向によって特別に認め、今後の家格には影響しない旨を告げ、承知したと返答するよう求める。追記では奏者番本多下総守や大目付・目付を介して承知の返答を行い、大御所家斉、右大将家祥へも任官の礼をした経過を記す。口宣の受渡しについては、十二月十四日に老中から翌十五日五時の使者登城を命じられ、留守居半田嘉藤次が河野邊修徳を介して目付一色主水に到着を知らせ、躑躅之間の外で待った後、太田備後守から口宣御奉書を直接受け取ったとする。
9月19日(年は外包の安政6年から補);外包到来:10月19日 / 冊子 218~219頁/原整理番号 299/整理ID 299
公方はますます御機嫌がよいので安心するよう伝え、家督を受けて帰国した後も変わりなく過ごしているかを尋ね、肴一種を賜る旨の老中四名連署状。九月十九日、脇坂中務大輔安宅・内藤紀伊守信親・松平和泉守乘全・間部下総守詮勝の判、松平修理大夫殿宛を記す。原注で修理大夫は茂久とする。包紙は安政六年十月十九日に宿次で到来したため、駿河から格護を命じ、森喜藤太が承知した記録。書状の日付と到来・格護の日を区別する。