某覚書
(寛永五年)四月十六日 / 冊子 60~61頁
出水を預かる椛山美濃守の休息、亀山家の次男・三男と藤野への知行給付、種子島にいる人物と比志島国隆との接触禁止、平田太郎左衛門の子の所在調査、七島、高岡の御蔵入、水引城付村の扱いなどを列挙した行政覚書。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
103 件 (全巻)/ 1–50件を表示
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(寛永五年)四月十六日 / 冊子 60~61頁
出水を預かる椛山美濃守の休息、亀山家の次男・三男と藤野への知行給付、種子島にいる人物と比志島国隆との接触禁止、平田太郎左衛門の子の所在調査、七島、高岡の御蔵入、水引城付村の扱いなどを列挙した行政覚書。
享保四年三月十五日 / 冊子 408頁/整理ID 1054
享保四年三月十五日、将軍吉宗の第三男子が江戸城で誕生したことを記す短い記事。
(寛永五年)四月十七日 / 冊子 61頁
亀山家の兄弟に五十石・三十石、藤野に五十石を与え、町田勘解由次官は加増して計三百石とする。弟子丸越後入道を真幸吉田へ移して五十石、村田刑部少輔を穆佐へ移して旧知行から三百石を返付するなど、知行配分と移住を定める条書。
安永四年未五月(日の記載なし) / 冊子 461頁/原整理番号 1273/整理ID 1273
以前から二男・三男などを他家へ養子に出した後、本家の跡相続の男子が死去又は病身となり、ほかの男子も幼稚で相続が難しい場合、願いにより養子に出した男子の本家帰を許してきたことを述べる。しかしその家に籠居の男子がいるなら、幼稚であってもその男子に相続させるべきところ、本家帰を願い出て相続させるのは自由ヶ間敷筋合だとする。今後、相続できる男子がいる場合には、本家帰を許さないと伝える。男子がいても病身などで相続が難しく、ほかに男子がいない場合には、以前の通り本家帰を許す旨が江戸から届いたので、与中・支配中・諸外城へ漏れなく申し渡すよう命ずる。末尾は安永四年未五月、仲、朱記の雑抄中を出典とする。幼稚の男子がいる場合と、病身で相続困難かつほかに男子がいない場合を分け、すべての養子の本家帰を禁止したとはしない。個別の許可例や年月日は記さない。
年月日明記なし(535一件内) / 冊子 167頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0033
二男を丈夫として届けた後に病死し、その後生まれた男子を三男と届けるか、男上りとして届けるかを問う。貼紙回答は三男のまま届けてよいとし、三男以下の末子も同断とする。次に、嫡子を届けた後、二男が虚弱または家中養子となり未届のまま、後の三男を届ける方法を問う。貼紙は虚弱な二男を届出に入れず三男を丈夫として届けられること、二男について問われれば虚弱である旨を口達回答してよいこと、養子へ遣わした場合も相応に扱うことを記す。問いと朱書貼紙回答を分け、未届の子と届けた子の順序を区別する。
3月(月署のみ。朱貼紙に未年3月23日) / 冊子 168頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0036
嫡子が亡くなるか養子に遣わす際、二男を嫡子に願うことや、家柄により三男以下を男上りさせる願いはあったが、今後は生まれの通りに扱い、二男を末子に至るまで男上りさせないと命じる。二男が御目見前に亡くなれば三男は三男の形で御目見を命じ、進上物も三男通りとする。一方、何男でも嫡子に願うことは従来通りとし、格式変更を漏れなく申し渡すよう求める。3月勘解由署。朱貼紙は本文を奥表役人へ通達し、高輪側用人その他関係先へ伝える取扱いと、未3月23日・取次島津七十郎を記す。男上りの停止と嫡子願の存続を区別する。
寛政11年4月(保管注)、同月9日使便差越(注) / 冊子 169~170頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0039
従前の男子届出は一定せず、届出済みの子だけで届順を数え、夭亡等の子を抜いたため、二男大膳太夫、三男雄五郎、四男時之丞、名のない五男、六男為次郎、七男乗之助、蓬之進という順になったと列記する。未届で亡くなった子は公的届順と系図が異なるため、他所へ照会した結果、届の有無と実際の順位をそのまま書き出してよいとする。このたび生まれた男子は三男届が相当とし、沙汰次第に従うと記す。末の朱注は右2通を寛政11年未4月に江戸の勘解由殿から本田休兵衛へ渡し、同月9日に使便で送ったので、後年の見合せ用にここへ留め置き、本書2通は下へ貼付したと説明する。本文の届順説明と二通の受渡・保管情報を分ける。
8月(本文年記なし。目録文化3年) / 冊子 267頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0864
嶋津因幡殿について、二男以下の家号が未定だったところ、今節三男が出生したので家号を見合わせて拝領を命じられたいと願い出た。今後は二男以下が右に掲げる和泉の家号を拝領することを命じるので、その旨を帳面へ記置くよう通知する。因幡に忠厚、将監に島津久泰の注、8月・将監署、御記録奉行宛、白木御文書七番箱中26番。年は目録の文化3年による。三男出生を契機とした願いと、二男以下にわたる家号の決定を分け、三男だけの命名に狭めない。
文化11年正月(年は目録。日なし) / 冊子 436頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1360
白木御文書8番箱中2番。嶋津安藝殿(忠厚・今和泉家注)の三男和泉隼之介(久武注)について、島津の称号が免許され「二男家ニ被相立」と記す。分地を別立する件は追って願い出るよう命じられているので、この旨を帳面に記し置くよう御記録奉行へ指示する。正月、安房署、久備と文化11年は目録による。原文の三男という人物順位と二男家という家の表現を保持し、分地の実施済・石高確定とはしない。許可された称号・家成立、今後の願出、帳面への記録指示を分ける。
9月会計局/9月知政所(朱注明治3年) / 冊子 760頁/原整理番号 978の6/整理ID 978-6
当地士族の持高の多少に応じる俸禄の支給方について、「高直」を願い出る際、五拾石以上または五拾石以下への出入がある場合は、本人だけでなく二男・三男・末子まで何の奉公に勤めているかを書いて申し出るよう定める。高直の免許に関する書付は、米穀掛出納奉行が会計局へ出し、不正な取扱いを防ぐ。何秋から所務米を受け取るかも書き、諸郷や貳拾五石以上・以下の出入も同様に扱う但書がある。九月会計局、九月知政所の周知文を伴う。明治三年の朱注がある。「高直」は原語で、その制度の詳細は留保する。
寛政12年10月4日(朱注) / 冊子 183頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0590
寛二郎様の三男としての届出が済んだ祝儀として、宜寿次親方を介し中将様へ太刀1腰・馬代白銀50両および目録通りの品々を差し上げた件は、江府到着後に披露され御満悦だったと伝え、伝達を求める。公的な三男の届出と、次591の出生・命名祝儀を別用件として整理する。高橋縫殿・伊勢播磨・菱刈大炊・川上久馬の四名連署・各実名判、義村王子・三司官宛。出典は全上。
文政元年12月19日(年は朱書) / 冊子 544~545頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1646
出典は全上。国王の書状を拝見し、去歳に御前様が安産で男子を生み、諸之助と称し、三男の届けも済んだことへの祝儀として、国王から大御隠居へ宮平親方を通じ太刀一腰・馬代白銀百両と目録を差し上げたと記す。江府で披露したところ満悦であったと伝え、この旨を洩れなく伝達するよう求める。文政元年の朱書、十二月十九日、鎌田典膳・新納内蔵・島津安房・川上右近の各實名判、宜野灣王子・三司官宛。御前様の実名、出生の日付、届先は本文から確定しない。白銀百両は馬代の贈品額である。
年月日未詳 / 冊子 120頁
山田聖栄の自記。信濃国には忠義の三男・大炊介高久が住国し、この人物が中沼殿であると伝える短い系譜記事。
宝暦十一年十一月二十五日 / 冊子 863~865頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2562
題に十一月二十五日と記す諸士御膳進上の次第で、門内外の番・床棚の飾りを先例どおりとし、五ツ半時に対面所へ出座して、備中・周防・因幡の相伴役、島津杢・家老・若年寄・大御目付らの着座、礼、役別の服装を定める。茶と熨斗、能三番を経て、孝行の間での菓子・染物・茶、巻物の拝領と中西長兵衛・有川仁平太の楽屋での受領、能方への青銅百疋ずつの下賜を規定する。中入には書院で二汁三菜の膳を出し、家老の引肴、吸物、銚子三篇目の島台と相伴の肴・御流、湯・菓子・濃茶・薄茶を供し、次の対面所出座では進上の折を披露し、能終了後に膳と肴を拝領した礼を述べる。近習役所での礼、休息所への退出、玄蕃・大身分・部屋柄への膳、寄合以上の二男三男らと城内勤めの筆者・小役人の能見物の場所まで定め、末尾には宝暦十一年九月の朱書を伴う。
文化10年6月5日(朱年注) / 冊子 401~402頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1262
重豪公御譜中・寫正文在文庫。下賜一覧を掲げる。諸大身分寄合並以上は紗綾2巻ずつ・吸物酒、妻女も紗綾2巻、右70歳以上・100歳以上は銀2枚ずつの表示。二男三男は太平布2反、直触以上は酒肴。奥表役人は芭蕉布2反・酒肴、右70歳以上・100歳以上は銀1枚。小番新番は銀3両、婦人2両。御小姓與は銀2両、婦人1両。諸與與力は銀2両、婦人共。郷士は銀1両、婦人共、右80歳以上・100歳以上は銀5両。寺社は格式により銀2両・1両又は青銅50疋・30疋、右80歳以上・100歳以上は銀5両・青銅100疋。足軽・町人・浦濱・百姓は青銅30疋、右90歳以上・100歳以上は青銅100疋。諸向家来末は100歳以上に青銅100疋。一門・大奥女中も取調べるよう付記。大御隠居下国時に老年者を祝い寿命により人年が異なること、御下りの時期未定なので当分倹約ゆえ少分とし、先年より減少したことを説明する。後に取調べの指示があるので時節の措置を家老へ申し出るよう命ずる。三頁を連結し文化10年6月5日、伊集院隼衛(兼当注)署、綱道・直高の注を伴う二宛。各一覧の右という年齢表示と対象範囲は一律に拡張せず、数量・単位を保持する。
延享四年十一一月 / 冊子 305~307頁/原整理番号 1
「諸旧記文書」の冒頭で喜入家の来歴を述べる家譜記事。喜入家六代式部太輔久道に男子がなく、義弘の子万千代丸を養子に迎えたことや、久道・久亮らの系譜と改名、島津家への奉公を記す。
宝永五年三月十七日 / 冊子 322~323頁/原整理番号 33
比志島氏の由緒についての連署調書。藤右衛門の祖先と村上氏・源氏との関係を系図や文書に照らして述べ、「比志島」の名乗り、家格や相続をめぐる説明を記す。宝永五年三月十七日付。
年月日未詳 / 冊子 301頁
二渡氏伝が、伊地知伯耆守の三男が二渡家の養子となり、二渡次兵衛を称したことを記す。朝鮮出陣前、五百石相当の軍役を自力で勤めれば帰国時に五百石を与えるとの命を受け、養父が取り立てて軍役を負担させ、次兵衛は渡海して軍功を立てた。その後、兵具奉行に任命されて勤務したとする。
年月日未詳 / 冊子 511頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1136
綱久公御譜中の同胞系図で、綱久と久記を横列に置き、男女二十人と注記する。久記は千代徳丸、寛文五年十一月三日生まれ、母は家の女房で、異本には濱田勘左衛門純昌女とある。元禄十四年十一月十四日、兄久明の例により四男へ進めたと記す。小字注には久記一流系で光久の十三男、母濱田とすること等を掲げる。
元禄十七年 / 冊子 472–473頁/整理ID 1638
陽和院が薩摩守綱貴へ、又八郎(綱貴三男と注)ともどもの大坂到着を喜び、こちらも皆無事と知らせる。桃の節句の祝儀と、お亀の方(綱貴二女と注)および四女側からの目録記載品に謝し、謝意の伝達を頼む。吉貴の使者が早速到着したことも喜び、旅中多忙として別紙を省く。
宝暦十一年十一月 / 冊子 887頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2603
圖書が十一月、二十五日の諸士相中による膳進上と能の御覧に際し、月次御礼に出る者は熨斗目・半上下を着けて五ツ時に登城し、家督の者には昼一度の賄いを下すと申し渡す。寄合以上の二男・三男と寄合並の嫡子には能見物を許し、半上下で登城させる。城内勤めの筆者と小役人にも見物を許し、半上下を着用させる。表方へ伝達し、側方と勝手方には写しで知らせるよう命じる。
安永八年四月(本文四月、包紙は安永八年己亥四月十七日) / 冊子 568頁/原整理番号 1605/整理ID 1605
嫡子が死亡し、又は養子へ遣わす際、二男を嫡子に願い出、それに準じて三男以下の男上りも願うこと、二男以下を同じように扱う場合の男上りを免じることがあったとして、今後の格式を定める。嫡子にする願いは従来どおりとするが、三男以下の男上りは認めない。ただし御支族又は差立家筋で、二男・三男の男上りがあり家格進上物等の格式が相応である家柄は、これまでどおり男上りを願い出るものとする。家格進上物等に関わらない家筋は、嫡子にする場合以外の男上りを願い出ず、生のまま置く。家格進上物等に関わらない嫡子・養子が違変で立ち帰ったときは本家の長子として置き、その後別立を願えば諸事はその家の二男の格式とし、男上りは前条どおりとする。二男以下の養子が立ち帰った場合は本生の次第に入来する。嫡子以下の進上物等の格式が相応で、養子先で男上りした者が違変で帰った場合は、元の姿には戻さず本家内で末子の格式に置き、別立の願いも諸事その家の末子と同様とする。ただし二男・三男に男上りした者がない場合は、違変の後、二男又は三男の場に置くことを認める。以上を帳面に記録し、今後の願いは前条に照らして申し出るようにし、記録奉行へも伝え、承知すべき面々へ申し渡すよう命じる。四月、帯刀。小注は小松清香とし、包紙には安永八年己亥四月十七日と八十五の記載がある。
年月日明記なし(535一件内の別紙) / 冊子 167~168頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0034
男子の届出は以前一定しておらず、届出済みの子だけで届順を数え、夭亡等の子は抜いて扱ってきたと説明する。朱注は、養子に遣わした未届の子は表向きの子として数えられず、内々の実際の順位と公的届順を分ける趣旨を記す。列記は二男大膳太夫(昌高)、三男雄五郎(忠厚)、四男時之丞(久照)、五男は名なし、六男為次郎、七男乗之助、蓬之進。届出のない亡児は系図面と異なり、他所へ先例を問うた結果、届の有無と実際の順位をそのまま書き出してよいとの回答を得たとする。このたび生まれた男子なら三男届が相当とし、最終は沙汰に従う。説明・人物注・回答を分け、実際出生順を公的届順に転用しない。
天明八年十二月二十一日(年次朱書) / 冊子 1023頁/原整理番号 2766/整理ID 2766
雄五郎を三男とする届出が済んだ祝儀として、喜屋武親方を通じ中将へ太刀一腰・馬代白銀百両および目録に記す品が差し上げられ、江戸に届いたので披露したところ、大いに喜ばれた旨を伝える。市田勘解由が三司官へ、この旨を伝達するよう求める。十二月二十一日付、実名判。
明治6年7月22日太政大臣三条実美 / 冊子 929頁/原整理番号 1163/整理ID 1163
明治六年一月二十八日布告の華族・士族家督相続規則について、第一章を改正し一章を追加する。総領男子を原則としつつ、死亡・廃篤疾等の場合の次男・三男・女子・養子への相続、婦女子が相続した後の夫または養子への承継、血統者への相続等を定める。
年月日未詳 / 冊子 165~166頁/原整理番号 45
日奉姓の小川氏を日野宰相宗頼の末流とする系図。宗頼の流れが武蔵国へ移り、武蔵国内の西小川に居住したため小川を号したと由緒を記す。小川小太郎季能は宇治合戦の功によって甑島を与えられ、季直は甑島へ下向した。季有―季久―公季、久季―高季―久季、公季―季安―忠季、有季―尚常などの系線を掲げ、遠江守・前美濃守・伊勢守・越前守・中務大輔等の官途・通称を添える。忠季の妻を吉利下総女、有季の妻を島津義虎女とし、尚常については伊勢内記三男を実父とする養子関係を記す。
応安6年、天正6年 / 冊子 172頁/原整理番号 52
肥後庄右衛門家の系図。清盛の二男基盛の末孫とする六郎左衛門信等を掲げ、信家には『肥後守信基三男』とする異伝注を付し、正信へ続ける。六郎左衛門信盛―中務少輔正盛―大和守盛久の系線では、応安六年に日州で戦死したことを記す。ほかに時盛、氏盛―盛家―長盛、盛寿―盛次―盛昌の系線を掲げ、盛昌は天正六年の大友合戦で功があったとする。後半は盛満―早世した盛次、六郎左衛門盛等―勘解由・左衛門盛広―播磨守盛明、又右衛門盛利―内膳正盛政―市左衛門盛張の諸系線を示す。
明応9年11月11日(久逸戦死時との注)、天文7年、寛永11年 / 冊子 178頁/原整理番号 58
伊東作太夫家の系図。祐康は井尻を号し源兵衛を称し、祐能は孫右衛門として伊作久逸に仕え、加世田で戦死したと記す。傍注はその時を久逸が戦死した明応九年庚申十一月十一日であろうとする。祐秀は四郎左衛門で間瀬川に戦死。祐貞は伊賀守として日新公に仕え、天文七年戊戌に日州日知屋へ移って地頭となった。別系の祐盛は伊賀守で功があり、祐盈は太郎四郎を称して京都で没した。末尾の祐義は伊左衛門、寛永十一年生まれで母を仁礼蔵人の女とし、養子で実は喜入休右衛門久守の三男、伊東へ改号したと記す。島津光久の江戸下向時に平戸で没した。
年月日未詳 / 冊子 383頁/原整理番号 1
琉球国中山王の世系を説く冒頭序文。未生の初めを太極と称し、混沌から清濁・陰陽が分かれて天地と人物が生じたとする。大地の荒れた時に一男一女が化生し、男女の性に従って夫婦となり、三男二女をもうけた。長男を君王すなわち天孫氏の始め、次男を按司、三男を蒼生、長女を君君、次女を祝祝の始めとし、これによって五倫が備わり大道が開かれ、淳朴・端懿な風俗のもとに神が現れたと述べる。末尾は『是為君真物』以下を略す。
年月日不記(天文九年・天正十四年・文明十七年は系図内記事) / 冊子 653頁/原整理番号 120-2
鎌田氏政年流の系図で、政年から子の政広へ続く。同三男家と注記し、政広は天文九年生まれ、山田蔵人有親の娘を母とすると記す。天正十四年の九州合戦時には和睦の使いとして上洛し、太刀と衣服を拝領したという。末尾では、鎌田氏正統に文明十七年、日州櫛間の牟田迫で戦死した尾張守政年がいるものの、その人物は政広の父・政年ではないと、同名の二人を明確に区別する。
安永八年十一月(本文今茲冬十一月・目録年記) / 冊子 586~587頁/原整理番号 1650/整理ID 1650
重豪公御譜中の記事。揖宿郡指宿郷拾貳町村の浦人兵右衛門に、佐左衛門・善藏・兵左衛門の三人の男子と四人の女子があり、皆が力を尽くして父母に仕え、佐左衛門の妻もよく従って奉仕したと記す。父は老いて病み、手足が不仁であったため、出入りや起居では互いに助け、代わる代わる抱き支えた。指宿郷には温泉があり、背負ったり肩輿に乗せたりして入浴させたという。兵右衛門の子孫は男女十六人に及び、皆がその気風を習って和睦し、郷党も孝順を称えた。今冬十一月、官に命じて佐左衛門夫妻へ廩米十五苞を与え、善藏・兵左衛門と女子四人には各々青銅二千を与えて賞したとする。青銅の数量単位は原文に「貳千匹」と記す。米十五苞は夫妻に対する記載であり、一人ずつ十五苞へ増やさない。結尾の「賞之焉」は次頁冒頭に続く。
安永八年十二月九日(朱年注・自己月日) / 冊子 589頁/原整理番号 1657/整理ID 1657
松平薩摩守が届けた損失の覚。先に申し上げた私領大隅国大隅郡の桜島が燃えたことによる損亡に加え、同国の囎唹郡・肝属郡および日向国諸県郡の諸所の損失を掲げる。損失高は二万三千五百六十二石余で、内訳を永損一万五百二十石余、当損一万三千四十一石余と記す。潰家五百軒、堂社十一宇、寺二軒、米雑穀七万石余、小船十二艘、死人百五十三人、内男七十九人・女七十四人、死馬二百八十五足を列挙し、右のとおりなので届けると結ぶ。十二月九日、松平薩摩守の署があり、朱注は安永八年、扣正文在右筆所とする出典注がある。高の総額と永損・当損はそれぞれ原記載を保持し、石の数量は余付き、死馬の単位は原文の足を保つ。死者数は他の桜島記録の人数へ統一せず、被害が桜島だけでなく周辺三郡にも及ぶ覚として扱う。
年月日未詳 / 冊子 123頁
山田聖栄の自記。信州中沼殿は忠義の三男・大炊助豊久の子孫であると伝える短い系譜記事。
文保二年三月十五日 / 冊子 464頁
島津道義が三男三郎左衛門尉忠光分として日向国新納院を譲与し、先例どおり知行させるとした文書。本文疑文書との注記がある。
年月日未詳 / 冊子 71頁
島津伊久の三男久照について、幼名を生黒丸、別称を北殿・又三郎、法名を道音と記した一流系図。
年月日未詳 / 冊子 183頁
島津恕翁公譜の記事として、三州が平穏となったのち、応永六年夏に国中で疑念が広がった経緯を記す。元久が伊久の三男黒殿を養子として久照と名乗らせ鹿児島に屋形を設けたこと、その近臣配置をめぐる風評と処罰が政情不安へ発展したことを載せる。
年月日未詳 / 冊子 185頁
田代清久譜の記事として、島津元久が伊久の三男久照を養子として鹿児島の北殿に置いたのち国中が騒乱し、肥後・石井らを下大隅で討ったことを記す。清久兄弟が誓状を差し出し、月末に元久が誓書で応じた経過を載せる。
年月日未詳 / 冊子 278頁
豊州家元祖の島津季久について、応永二十年に久豊の三男として生まれ、母は上原氏の女で、のち修理亮・豊後守・越後守を称し、帖佐瓜生野に居住したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 373頁
五月二十五日に西郷出雲守宗貞が六十一歳で戦死し、宗貞の三男・三郎宗伴も同じ戦いで二十三歳で戦死したこと、上井四郎光秋が島津持久とともに鹿児島で戦死したことなどを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 388頁
伊作島津久逸の出生と伊作家継承を記す系譜記事。久逸は永享十二年に島津忠国の三男として生まれ、母は新納近江守忠臣の娘。伊作家の大安丸が早世したため、忠国の意向で久逸が迎えられ、大安丸の妹を妻として伊作家を継いだ。
年月日未詳 / 冊子 489頁
豊州島津系図として、島津久豊の三男秀久の出生、帖佐瓜生野での居住、文明九年八月六日の死去と法号などを記す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 59頁
北郷久尋の三男・源三郎兵部敦久について、高城木崎口の地頭職を務め、永禄元年三月十九日に恒吉宮ヶ原で討死したことを記す系図抄。
元亀二年六月廿九日 / 冊子 247~248頁
貴久没後二十九日の荼毘に際し、三男島津歳久が日新寺で捧げた祭文。貴久を三州中興の大賢として、孔孟の学、軍略、民の撫育、父子への忠孝、寺院建立・僧侶済度などをたたえる。歳久自身も軍旅で愛憐を受けたことを回想し、突然の死と父との永別を嘆く。
天正十二年八月頃 / 冊子 922~923頁
三原昌安書状に基づき、幼少の伊作久逸(亀房)と岩切氏の関係を記す。伊作家の後継が絶えたため、鎌田氏が忠国の三男亀房を無断で連れ出して伊作家へ迎えた際、岩切氏が生涯供奉すると申し出て忠国・御簾中を安心させた。以後、岩切氏は久逸に最初に仕えた家臣として重んじられた。
年月日未詳 / 冊子 387頁
島津忠将の一流を記す系図で、右馬頭以久の三男である忠興について、字を堯舜房、官途を右馬頭とする。忠興は慶長四年五月廿九日に種子島で生まれ、母は松木貞右衛門尉の姉であったと記す。
年月日未詳 / 冊子 299頁
島津久信譜の記事。慶長十五年四月に祖父島津以久が伏見で没し、将軍家から忠仍へ遺領が与えられたが、龍伯の病気と忠仍の母の高齢を理由に辞退し、本宗家への帰属を願ったこと、以久の三男尭舜房忠興が佐土原へ置かれたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 427頁
北郷忠亮の死後、島津家久が三男久直を忠亮の姉に配して後嗣としたこと、家久が暇を得て江戸から上洛する際の動向や久元の召し寄せを記す。
(寛永十三年)五月十五日 / 冊子 542~543頁
家臣・役人の合議、公平な人事と賞罰、家中の監督、倹約、忠孝、薩州と北郷家双方への偏りのない配慮など、家久が三男北郷久直へ統治上の心得を説いた条書。
(寛永十三年)十二月十三日 / 冊子 568~569頁
家久の病状を案じつつ、紀伊国大納言の三男・修理大夫の死去に際する使者や飛脚の出し方を相談された件に答える。軽い使者を宿老中まで遣わすのがよく、自身は香典を出さないと述べ、国中巡行のため返報が遅れたことを詫びた書状。
年月日未詳 / 冊子 686頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1757
市正忠広譜中に、忠広が初め御屋地の養子となり豊州家の二男家として一家を立てた後、延宝六年二月十六日に光久の命で豊州家を辞し宗室の庶流へ復帰して、平兵庫忠朗の次弟として三男家に準じ一家を立てたと記す。延宝七年四月六日に家老職を辞し、元禄十六年八月三日に死去する。