天正十三年覚書
天正13年 / 冊子 1頁
天正13年の出来事として、花山陣、撃隈庄の凶徒討伐と甲佐・堅志田などの攻略、阿蘇氏の降参を三項目で掲げる短い記事。肥後中央部で軍事拠点の制圧と阿蘇勢力の服属が進んだ局面を、年次記事の冒頭で簡潔にまとめている。
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天正13年 / 冊子 1頁
天正13年の出来事として、花山陣、撃隈庄の凶徒討伐と甲佐・堅志田などの攻略、阿蘇氏の降参を三項目で掲げる短い記事。肥後中央部で軍事拠点の制圧と阿蘇勢力の服属が進んだ局面を、年次記事の冒頭で簡潔にまとめている。
年月日未詳 / 冊子 1頁
島津忠将一流系図のうち久信の項。久信は守右衛門尉彰久の子で、初名を忠仍といい、又四郎・相模守を称した。天正13年に生まれ、母は太守島津義久の第二女であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 1頁
新春の祝意に続き、前年冬の高瀬乗陣時に豊州衆の帰陣を申し入れ、相手も承諾したのに、今なお高良山に滞在しているのは不届きだと秋月殿へ伝える。高良山座主・蒲池・黒木から連日内通があることを挙げ、機会が到来して三家を味方に組み入れられれば、今後いっそう緊密に協議したいと申し送る書状案。筑後方面の調略と豊州衆への警戒が具体的に分かる。
年月日未詳 / 冊子 1頁
新春の祝意と、長く音信を通じなかったことへの遺憾を述べる。前年冬に高瀬境から豊州衆の帰陣を申し入れたにもかかわらず、今なお高良山に滞留しているのは不当だとし、この方面について龍造寺氏と秋月氏が同心して協議するなら、今後も末永く緊密に連絡したいと両津江殿へ伝える書状案。同文二通が作成され、豊州衆の動向をめぐる複数方面への働きかけがうかがえる。
(天正13年)正月19日 / 冊子 2頁
龍造寺氏をめぐる事情から、秋月殿がたびたび島津の幕下に入りたいと懇望してきたことを受け、親交がいよいよ深まったと伝える。今回の祝意として甲冑が届いたことを喜び、今後も変わらぬ関係を約して、返礼の印に馬一疋を贈った島津義久の書状案。九州諸勢力の服属交渉が、武具と馬の贈答を伴って進められたことが分かる。
(天正13年) / 冊子 2頁
新春の祝意を述べ、長く連絡が途絶えていたことを不本意とする。前年冬に高瀬境から豊州衆の帰陣を強く申し入れたのに、なお高良山に滞在しているのは不当だとし、この方面について龍造寺氏と秋月氏が同心して協議するなら、今後も末永く連絡を取りたいと両津江殿へ伝える書状案。同文二通で、豊州衆の撤収をめぐる外交調整を図っている。
天正13年正月11日 / 冊子 2頁
島津氏老臣が宮成殿・時枝殿へ同文二通を送り、新春の祝意と、前年冬の高瀬乗陣時に忠平から受けた懇書を今も重く受け止めていることを伝える。豊州衆に陣払いを申し入れたにもかかわらず、なお高良山に居続けているのは意外だとし、その方面の情勢を油断なく相談して対処するよう求めた書状案。差出人を島津義久と断定できないため、目録表題どおり島津氏老臣の書状案として整理した。
(天正13年)4月10日 / 冊子 2頁
島津義久が賀恵九郎へ、元服について丁重な使節が訪れたことを大いに喜び、申し出のとおり承認すると伝える。元服の祝儀として馬一疋を贈り、まずは祝意を示した書状案。「隈本三人へ」の御書案として収録され、使節による元服承認と馬の贈答を伴う武家儀礼が簡潔に記されている。
年月日未詳 / 冊子 2頁
龍造寺氏は長年島津方と親交していたが、相良氏が離反した際に同調したため、島津方が高来方面へ軍勢を渡して戦い、龍造寺隆信を討ち取った経緯を述べる。その後、秋月氏が強く懇望して島津の幕下に入り、神名血判を取り交わして服属関係を定めたにもかかわらず、再び変心したとして、その表裏ある振る舞いへの警戒を促す。宛先の相手が秋月氏を成敗するなら、島津方はその国の用務に協力すると約し、追って使節を派遣すると結ぶ書状案。沖田畷合戦後の九州諸勢力の服属交渉と相互不信を示す。
(天正13年)正月 / 冊子 3頁
新春の祝意に続き、前年冬の高瀬乗陣時に豊州衆の陣払いを申し入れ、承諾を得たのに、今なお高良山に滞在しているのは極めて不届きだと秋月殿へ伝える。高良山座主・蒲池・黒木から連日内通があり、肝要な約束を忘れていないとしたうえで、機会を捉えて三家を味方に組み入れられれば、今後いっそう緊密に協議したいと申し送る島津氏老臣の書状案。筑後方面の調略構想が具体的に分かる。
(天正13年)2月6日 / 冊子 3頁
伊集院忠棟が、忠平を名代に定める内談について、極秘に意見と経過を報告した書状。忠平の名代就任を争う者はいないため神意を問う籤は不要との異論がある一方、伊作八幡は忠平の産土神でもあるとして、社参して籤を引き、神慮がかなえば忠平を八代へ移して肥後方面を見回らせる構想を伝える。情報漏洩を恐れ、飛脚の用件を「馬の薬の所望」と偽装し、鹿児島では危険なので使者を寄越さないこと、書状を火中に投じることまで指示する。島津家内部の名代選定と八代配置をめぐる緊張、神籤による正当化、厳重な秘密保持の実態が分かる重要史料。
年月日未詳 / 冊子 4~5頁
天正十三年二月六日から十八日を中心に、島津義久が諸方の使者や上使を迎えた際の応接を日次で記す。宇都氏・土持弾正忠・北郷弾正忠らから賀札や贈物が届き、毛利殿の使僧五戒房が上使の到着を予告した。上使柳沢新右衛門尉元政の摩島往復、宿所の手配、義久との対面、席次をめぐる礼譲、太刀・段子・馬などの贈答、伊集院忠棟ら家臣の陪席までを詳述する。戦況報告ではなく、島津家が外来使節を迎える際の儀礼・座次・饗応・贈答の実務を具体的に伝える記録である。
年月日未詳 / 冊子 5頁
天正十三年二月二十日以降、島津義久が毛利氏の使僧五戒房、有馬氏・大村氏の使者らと対面した際の外交儀礼を記す。五戒房は先に摩島へ到着した上使の案内役で、龍造寺政家との和平に関する祝意を携えており、義久側と布・太刀などを贈答した。有馬氏の使者には太刀・甲冑を授けて三献を進め、大村氏の使節とも馬・甲冑等を交換する。さらに有馬方の官途・諱字をめぐる依頼と義字の授与にも触れ、九州諸氏との関係調整が、饗応・武具贈答・偏諱を通じて進められたことが分かる。
天正13年3月2日 / 冊子 6頁
天正十三年三月二日、羽月郷大島村の若宮社殿造営に際して掲げられた棟札。若宮の由緒と造営の趣旨を記し、島津義久をはじめ島津忠明・新納忠武ら関係者の名を伝える。地域寺社の修造に島津家中がどのように関与したかを確認できる建築・信仰史料である。
天正13年3月15日 / 冊子 6頁
安国寺恵瓊が鳴津へ、遠隔地のため自ら持参せず、休庵の飛脚を通じて一札と羽筑の書状を届けた書状。公家への奉公中という当時の事情を踏まえて内容を分別し、返報するよう求める。欄外記事によれば、毛利・小早川方の動向や豊州との和睦をめぐり、恵瓊が上方・筑州・豊州の間で書状と使者を仲介した経緯に関わる。鳴津が京都へ戻った際には安国寺へ用件を申し上げるよう頼んでおり、恵瓊の外交仲介の実務が分かる。
年月日未詳 / 冊子 7~21頁
上井覚兼が天正十三年正月朔日から二十八日まで、年始の礼式と日々の政務・交際を克明に記した日記。寺社参詣、家中や僧侶・使者の来訪、連日の酒宴、太刀・馬・酒肴などの贈答、狩猟、書状の往来を日付順に追える。単なる儀礼記録にとどまらず、家臣同士の相談、役人・医師・芸能者との接触、検地帳や公役関係文書の閲覧、向島の境界問題をめぐる協議など、島津領国の日常統治も具体的に記す。二十六日以降には本田刑部少輔らとの境論、伊集院・山田・稲富・長谷場らの来訪と談合、荒神への参詣も現れ、戦国大名家の正月が信仰・饗応・行政実務の重なる場であったことを示す。
年月日未詳 / 冊子 22頁
町田羽州と伊地知伯州の両名を「然るべし」とし、ある役目または処置の担当として適任である旨を決定した短い記事。『島津義久譜』の抄録で前後が省略されているため、何の人選であったかは本文だけでは確定できない。
年月日未詳 / 冊子 22~37頁
上井覚兼が天正十三年三月のほぼ一か月を日次で記した日記。寺社参詣や勤行、島津義久への出仕、家臣・僧侶・使者の来訪、書状と贈物の往来に加え、所領・境界争論の聴取、訴訟関係者の召喚、家中の談合など行政実務を詳しく伝える。一方で茶湯、連歌・酒宴、花や香を取り出して優劣を論じる遊興、酔客の振る舞い、病人への薬や医師の対応までが同じ日々の中に記される。月後半にも来客の饗応、武州・吉利殿らとの会談、荒神参詣、贈答が続き、覚兼が政務・信仰・情報収集・人的交際を絶えず調整していた実像が見える。戦国期島津家中の日常生活と裁許の双方を追える貴重な記録。
年月日未詳 / 冊子 37~46頁
上井覚兼が天正十三年五月朔日から二十五日までを中心に記した日記。養子・相続をめぐる訴訟や刑罰の相談、家臣間の申次、書状・使者の往来を扱う一方、柳沢殿や毛利方使僧の来着、肥後・筑前方面の情報、兵船・武庫・軍記に関する話題も記録する。伊集院・新納・本田・平田ら家中諸氏との談合、島津義久への出仕、寺社参詣、病気見舞い、贈答、茶湯・酒宴が連日交錯する。月末には武庫で白彦に御内儀を申し、戦記を読ませたこと、勝軍地蔵の着経、普請や材木の差配なども現れ、北部九州への軍事対応と領国内の裁許・宗教・生活実務が一体で進む様子を示す。
年月日未詳 / 冊子 47~48頁
天正十三年、忠平(島津義弘)を守護代として花山に置いた後、甲斐宗運の次子相模守ら阿蘇勢が花山を攻め、政虎・祐昌らが戦死した。報を受けた島津義久は数万を率いて八代へ進み、隈庄で二百余の首級を挙げ、甲佐・堅志田方面を攻略する。さらに甲斐親乗・満永宗甫らの離反、伊集院久春の不在を突いた津守城の失陥、新納忠元らによる翌年の奪還までを記す。肥後制圧が一進一退の城郭戦と在地勢力の去就によって進んだことを示す戦況記事。
年月日未詳 / 冊子 48~49頁
新納忠元の肥後方面における軍功と恩賞をまとめた記事。大口周辺の配置に続き、忠元が軍勢を率いて城攻めに加わり、敵の籠る横島方面を攻撃して戦功を重ねた経緯を記す。高森城・津守城をめぐる攻防にも関わり、長期在陣ののち十二月六日に感状を受け、三船地頭職を与えられた。戦闘の経過だけでなく、軍功が感状や地頭職という形で評価・処遇されたことを具体的に伝える勲功記である。
(天正13年)4月10日 / 冊子 49頁
賀恵九郎が使者を通じて元服の儀を丁寧に申し入れたことを島津義久が喜び、その祝意として月毛の馬一疋と「一文字」を贈った書状。元服という人生儀礼に対し、馬と品物を下賜して関係を確認する武家社会の贈答慣行が分かる。
年月日未詳 / 冊子 49頁
「義久公御譜中」に案文があることを示すが、「天正文書一二四号文書と同文につき省略」とされ、本文は収録されていない。 ここでいう一二四号は本ExcelのNo.124ではなく、別に編成された「天正文書」の文書番号を指す。日付・宛先・具体的用件はこの頁だけでは確定できず、天正文書第124号との照合が必要である。
年月日未詳 / 冊子 49頁
久基が若年であるため、本田讃岐入道が諸事の下知に心を尽くしていることを島津義久が評価し、境目の重要案件では一層賢慮と才覚を働かせるよう求めた書状案。若年当主を補佐する現地有力者に、境界地域の実務と判断を託したことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 49頁
「義久公御譜中」に書状が存在したことを示すが、「天正文書一三三号文書と同文につき省略」とされ、本文は収録されていない。 一三三号は本ExcelのNo.133ではなく、別に編成された「天正文書」の文書番号を指す。日付・宛先・用件はこの頁だけでは確定できず、天正文書第133号との照合が必要である。
(天正13年)4月 / 冊子 49頁
No.34と同文につき本文を省略した参照記事。参照先No.34は、豊州をめぐる上意と度重なる協議、柳沢殿の書状への謝意、言上時期を内評のうえ決めること、諸家の助力を望み詳細を伊集院忠棟から説明させることを述べた島津義久書状案である。
〔天正13年〕4月13日 / 冊子 49頁
No.35と同文につき本文を省略した参照記事。上書には、天正十三年に貞方右衛門佐を使者として宇久方へ送った際の返答案とある。参照先No.35は、肥州での勝利と静謐を祝し、使僧・太刀・馬などの贈物に礼を述べ、関係継続を誓う島津義久書状案で、末尾に義久の名がある。
年月日未詳 / 冊子 49頁
「中原藤兵衛蔵」と伝来元を掲げ、『旧記雑録前編』所収の同文文書を参照して本文を省略した記事。 この頁には日付・宛先・具体的用件がなく、従来の四月十九日という推定は根拠を確認できない。内容の確定には『旧記雑録前編』の参照先との照合が必要である。
年月日未詳 / 冊子 50頁
天正十三年四月二十四日、島津義久は町田出羽守・伊地知伯耆守を使者とし、上井伊勢守・鎌田出雲守・山田新介らを介して忠平へ命令を伝えた。前年春から忠平を義久の名代として八代へ移し、国政裁判を担わせようとしていたが、忠平は固辞を続けていたため、二十六日に重臣五名へ書状を託して再度説得させる。肥後支配を担う人事が、忠平の辞退と家臣団の仲介を経て進められたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 50頁
天正十三年四月、島津義久が忠平を守護代に任じ、肥後八代へ移って国政を裁判するよう、島津図書頭忠長・町田出羽守久倍・伊地知伯耆守を通じて命じた記事。忠平は重任に耐えないとして再三辞退したが、義久は受諾を強く求め、忠平は八代へ赴任した。肥後の警衛を絶やさぬため役務を分担させ、田賦を定めたことにも触れ、守護代任命と現地統治の制度化を伝える。
(天正13年)4月26日 / 冊子 50頁
前年九月四日付の御内書が二月十五日に到着し、太刀一腰・鞍一口も受領したことへの礼を述べる島津義久書状。柳沢殿が入洛を計画していると聞いて長久の慶賀を表し、遠国にあっても忠節を尽くし、命令に従って働く意思を伝える。中央の取次役との関係を、贈答への謝礼と奉公の誓約によって維持しようとした文書。
(天正13年)4月26日 / 冊子 50~51頁
久しく音信が途絶えていたところへ御内書を受け、島津義久が丁重に拝領の礼を述べた返書。入洛の企てを祝し、遠国のため力は限られるが、命令に従って忠勤を尽くすので、諸事の取り次ぎを依頼したいと伝える。返礼として打刀一腰と沈香三十斤を贈っており、中央の仲介者との関係を贈答によって固めたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 51頁
豊州への対応について、内々に検討中との返答を受け、九州の大守とする公方様の御判が調う見込みを伝える。 芸州に早期の働きかけを求め、兵船その他の支援を期待する島津義久の返札案で、中央交渉と軍事支援の結び付きが分かる。
(天正13年)4月 / 冊子 51頁
豊州をめぐる上意と度重なる協議、柳沢殿の書状に謝意を示し、言上の時期は内評のうえ決めると伝える島津義久書状案。 諸家の助力を望み、詳細は伊集院忠棟から説明させるとして、中央折衝の実務を重臣に託している。
〔天正13年〕4月13日 / 冊子 51頁
肥州方面で前年に勝利し、地域の過半が静謐となったことへの祝意と、使僧・太刀・馬などの贈物に礼を述べる島津義久書状案。今後も疎遠にならぬことを神仏に誓い、自らも太刀などを返贈して関係の継続を図る。宛所は宇久大和守殿で、末尾に義久の名がある。
(天正13年)4月 / 冊子 51~52頁
豊州問題での懇切な上意と協議に礼を述べ、宇久大和守へ今後も取り成しを続けるよう求める島津義久書状案。 太刀・鞍などの贈答を添え、中央への働きかけを人的関係によって確保しようとした外交文書である。
(天正13年)4月 / 冊子 52頁
前年九月の御内書と太刀などの拝領に礼を述べ、一色駿河守の入洛を祝う島津義久書状案。 義久への忠節を求められたことに応じ、生糸十斤と黄金十両を進上して支援の意思を具体化している。
(天正13年)4月 日 / 冊子 52頁
入洛をめぐる取り成しと義久への変わらぬ忠節に謝意を示し、御内書・助宗の太刀一腰・縮五端を拝領したことを喜ぶ返札案。 返礼として黄金十両を進上し、さらに沈香百両・手火矢三丁を贈って披露を頼む。中央との交渉を支えた真木島殿・一色殿への具体的な贈答内容が分かる。
年月日未詳 / 冊子 52頁
島津尚久を祖とする一流について、子孫の実名・通称・官途などを掲げて系統を示す系図記事。 島津一族内の分流と人物の位置関係を確認する基礎資料で、同名・通称の識別にも役立つ。
年月日未詳 / 冊子 53頁
天正十三年四月二十九日、帰京する上使柳沢新右衛門尉に黄金百両・馬三疋・鷹一連を贈り、五月二日には琉球使僧の船が到着した。七日、肥州大野氏から、豊後軍が筑後の城島を攻めたものの二百人を失って退却したとの軍報が届く。八日には琉球国使僧天王寺と対面し、琉球産の織物・香・器物など多数の献上品を受け、返礼と酒宴を行った。中央使節の送別、九州戦況、琉球外交を連続して記す記事。
(天正12年)万暦12年12月23日 / 冊子 53頁
目録表題に従い、中山王尚寧が近年の敵勢掃討と天下平定を祝い、その喜びを伝えるため使僧の天王祖庭和尚を派遣した書状として整理する。軽微ながら土産を別紙のとおり贈ると述べ、欄外注記から上井伊勢守覚兼に関係する書状と分かる。琉球王府と島津家臣との外交連絡を示す。
(天正13年)5月19日 / 冊子 53頁
遠国のため門跡との音信が絶えていることを詫び、宇智院義昭大僧正をめぐる件について井関殿の取り成しを求める島津義久書状案。 生糸を献上し、詳細は宗誉に説明させるとして、京都の宗教者・取次を介した交渉を進めている。
(天正13年)5月 / 冊子 54頁
京都で必要な事柄をたびたび調えてきた宗誉の働きに謝意を示し、今後の待遇について約束した島津義久書状案。 短文ながら、島津方が京都での用務を担う宗教者・取次の功績に報い、継続的な奉仕関係を結ぼうとする内容である。
年月日未詳 / 冊子 54頁
龍造寺との和睦が長年の懇望にもかかわらず変転したことに触れ、高木方面で思いがけない勝利を得たとの風聞を彦山座主へ伝える島津義久書状案。 座主の仲介と贈物に礼を述べ、年寄から詳細を伝えさせるとして、和戦両面の交渉を続けている。
天正13年6月3日 / 冊子 54~56頁
天正十三年六月三日、島津義久・伊集院忠棟ら多数が参加した長篇の「賦何人連歌」。梅雨の雲と川、水辺の月、松、旅人、秋風、紅葉、雪、春の花など、季節と場所を移しながら句を連ね、百韻規模の文芸世界を形づくる。忠長・忠辰・宗運・可丹・賀雲・久茂・正信ら家中の武将や連歌参加者の名が各句に残り、軍事行動の続く時期にも、連歌が身分を越えた交流・教養・結束の場として機能していたことが分かる。
天正13年6月 / 冊子 57頁
島津義久が琉球国の安泰を祝い、国王の使僧から伝えられた厚意と琉球産の献上品に謝意を表した書状案。近年、薩摩・大隅・日向の三国が島津の支配下となり、国内が安定した近況を伝え、天運と神明の加護によるものと位置づける。返礼品を贈り、今後も琉球国王との関係を保つ意思を示した、島津氏の領国認識と対琉球外交を併せて伝える文書。
年月日未詳 / 冊子 57頁
肥後の花之山で鎌田左京亮らとともに戦死した木脇祐昌が、敵も味方も同じく現世の夢を見終えるという趣旨を詠んだ辞世。 激戦の最期を背景に、討つ者と討たれる者を等しく無常の中に置く武将の死生観が表れた、印象的な一首である。
6月14日 / 冊子 57~58頁
新納忠元が、伊集院忠棟から届いた書状を文箱に収めて送り、内容を確認したうえで御所へ届けるよう平田濃州の一行に依頼した書状。肥前秋月から来た使僧は東禅寺へ取り次ぐよう指示し、先に秋月へ遣わした八田に関する書状の返送も求める。文箱、寺院、使僧、家臣を組み合わせた書状伝達の具体的な経路が分かる。
(天正13年)6月16日 / 冊子 58頁
上井覚兼が武庫様(島津義弘)に対し、家督相続後も子孫に至るまで変わらず崇敬し、世情が変転しても忠誠を守ると誓った起請文前書案。讒言によって訴えられた場合には、直ちに処断せず本人の弁明を聞いたうえで裁断すること、子孫・親類との関係も損なわないことを求める。家臣側の忠誠誓約とともに、公正な聴聞を主君へ条件として示した点が重要である。
天正13年6月16日 / 冊子 58頁
島津忠平(義弘)が上井覚兼に対し、家督相続をめぐって結んだ親交を子孫の代まで変えず、覚兼の奉公を粗略に扱わないと神文で誓った起請文。境目での軍事奉公についても、覚兼の事情を踏まえて取り扱うことを約束する。No.49の覚兼側の誓約に対応し、主君側も親類・子孫を含む関係維持と公正な処遇を保証した相互誓約である。