羽柴秀吉直書
(天正13年)(十四)10月2日 / 冊子 112~113頁
羽柴秀吉が島津義久へ、九州の国郡境界をめぐる争いを停止し、双方の言い分を京都で審理して裁定すると命じた直書。使者を上洛させて「天下静謐」の方針に従うよう求め、命令を受け入れなければ処罰する意向も示す。豊臣政権が九州停戦・国分裁定へ直接介入し、島津氏へ服属を迫る段階を示す重要文書である。
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(天正13年)(十四)10月2日 / 冊子 112~113頁
羽柴秀吉が島津義久へ、九州の国郡境界をめぐる争いを停止し、双方の言い分を京都で審理して裁定すると命じた直書。使者を上洛させて「天下静謐」の方針に従うよう求め、命令を受け入れなければ処罰する意向も示す。豊臣政権が九州停戦・国分裁定へ直接介入し、島津氏へ服属を迫る段階を示す重要文書である。
正月十一日 / 冊子 142頁
羽柴秀吉が関白として九州の戦乱停止を命じ、島津方が従わなければ討伐すると通告した書状を、上井覚兼の日記から採録した文書。島津義久は正月十一日付で返答し、豊薩和睦への姿勢を述べながら、現状では命令を受け入れ難い事情を説明した。秀吉の九州停戦令と島津氏の抵抗が正面から現れる、九州征伐直前の重要史料である。
天正十年六月 / 冊子 713頁
天正十年六月、明智光秀が本能寺で織田信長を弑し、十三日に羽柴秀吉が小栗栖で光秀を討って復仇したと記す。京都滞在中の日向長持寺僧が近衛前久を訪ねたため、前久は同僧を帰国させ、伊集院忠棟への書状を持たせた。
天正十年八月八日 / 冊子 716頁
新納忠元が伊集院忠棟へ、近衛前久の書状を持って帰国する長持寺僧を熊本から大口経由で安全に同行させるよう依頼した書状。僧が京都情勢を直説するとし、羽柴秀吉が中国方と和談して明智方を討ち、信長の仏事を行ったと報じる。一方、細川藤孝戦死の風聞を惜しみ、秋の出勢について吉利忠澄の進言も伝える。
天正十一年二月廿日 / 冊子 749~750頁
近衛前久が島津義久へ、本能寺の変後に明智方への加担を疑われて醍醐山へ退いた事情と、織田信孝・羽柴秀吉をめぐる内紛、徳川家康の助力による上洛・弁明の見通しを詳述した書状。疑いが晴れなければ島津を頼って下向する意向を示し、忠節を尽くした持明院・安養坊や堀池父子への厚遇、領知問題の取次を依頼する。
(天正十一年)十月五日 / 冊子 760~761頁
近衛前久が島津義久へ、徳川家康の取り成しによって疑いが解け、前年八月に出立して九月に上洛したこと、羽柴秀吉側の処置を受けたものの万事不如意であることを伝えた書状。家康が鷹を好むため若鷹を贈るよう頼み、馬の調達も求めるとともに、以前約束された日向の領知、肥後の相良旧領、十町の未進分を早く渡すよう要請した。
天正十二年二月十四日 / 冊子 842頁
天正十二年二月十四日、日向宮崎城にいた上井覚兼のもとへ善哉坊真連房頼俊が訪れ、前年に公方家の上使として下向した布施治部少輔からの書付を示した記事。羽柴秀吉の尽力で足利義昭の当春帰洛が確実となったため、島津に一層の協力を求め、年内に春日局を先に上洛させたと伝える。
天正十二年二月十四日頃 / 冊子 842頁
足利義昭が島津義久へ、前年に伝えたとおり羽柴秀吉の尽力によって当春の入洛が確実となったので、引き続き忠節を尽くすよう求め、先に春日局を年内に上洛させたと伝えた御内書。上井覚兼日記中に写される。
年月日未詳 / 冊子 142頁
天正十四年正月、島津方が豊後の護摩所へ攻め入り、肥後・日向口で軍事行動を進めたことを記す島津義久譜。正月二十三日には羽柴秀吉から新年の書状が届き、義久が細川兵部大輔入道を通じて返書した。豊後侵攻と中央政権への外交が並行していたことを示す。
年月日未詳 / 冊子 161頁
天正十四年三月、近衛信尹から島津義弘へ使者と書状が届き、京都の諸事情が伝えられた島津義弘譜の記事。使者の古川宗心は、羽柴秀吉が近衛家の猶子となったうえで関白に任じられた経緯にも言及した。島津方が公家との連絡網を通じて秀吉の政権掌握を把握していたことを示す重要な記事である。
年月日未詳 / 冊子 168~169頁
天正十四年五月一日、京都から帰着した鎌田刑部左衛門尉が、羽柴秀吉の九州国分・和平案を島津方へ報告した島津義久譜の記事。肥後半国・豊前半国・筑後一国を大友氏、肥前一国を毛利氏、筑前一国を京都方の知行とし、その他を島津領として和平を成立させるという構想が示された。秀吉が九州諸国を再配分して戦争を終結させようとした段階の重要な情報である。
年月日未詳 / 冊子 238頁
鎌田政近を介して羽柴秀吉に九州の処置を求めたところ、秀吉は島津領を薩摩・大隅・日向・肥後半国などに限り、豊後を大友、筑前を公領、肥前を毛利領とする案を示した。島津義久は「九州すべてを島津の土地とするならよいが、そうでなければ兵革は止められない」と応じ、軍勢を増強して豊後侵攻へ踏み切った。九州国分案と島津側の拒絶を伝える重要史料である。
年月日未詳 / 冊子 254~255頁
別の『日向記』は、高城敗北後に圧迫された大友宗麟が上洛して羽柴秀吉に救援を求め、秀吉が中国・四国勢を豊後へ送った背景から説き起こす。宇喜多・毛利・小早川・仙石・長宗我部らの軍勢が進む一方、島津家久勢がこれを迎撃し、河原・城郭での戦闘、敗走、討死・捕虜の発生へ至る。九州征伐前夜の豊臣方援軍と島津軍の衝突をまとめた記事である。
天正15年正月朔日 / 冊子 274~275頁
羽柴秀吉の九州出兵に従う諸隊を、正月・二月・三月の出陣日ごとに分け、羽柴一門、毛利・宇喜多勢、前備・後備などの配置と兵数を列挙した軍勢一覧。各大名・家臣ごとの人数を細かく掲げ、最後に御馬廻衆を除く旨と大きな合計数を記す。数値には誇張・伝聞の可能性があるが、島津側が把握した豊臣軍の編成と圧倒的規模を知る史料である。
年月日未詳 / 冊子 277頁
天正十五年正月二十六日、島津義弘が球珠郡野上城へ陣を移し、周辺諸城の多くを降伏させた記事。なお抵抗する城に川上久信・町田久倍・新納忠元らを向け、外郭と二の丸を破り、五日後に本丸を陥落させた。続いて北里・小国方面も降伏したが、二月には羽柴秀吉の大軍接近が記され、豊後・肥後戦線が攻勢から対豊臣防衛へ転じる局面を示す。
(天正14年)7月 / 冊子 184頁
島津義久が毛利右馬頭へ、大坂に派遣した使節が関白殿との対談と懇ろな承諾を得たことを喜び、毛利方の取り成しに謝意を示した書状案。今後も関係を疎略にせず、細部は五戒房が説明すると伝える。秀吉政権との交渉を毛利氏の仲介で継続しようとする外交文書である。
年月日未詳 / 冊子 234頁
島津義久が石田治部少輔へ、前年春に鎌田刑部左衛門尉を上洛させ、関白への取次を頼んだ経緯を述べた書状案。上意への返答を急ぐべきところ、夏以来の肥後・筑前境の混乱に妨げられて遅延したのは本意ではないと釈明し、今後も仲介を求める。九州の軍事情勢が中央政権との外交実務を直接遅らせたことを示す。
(天正14年)9月27日 / 冊子 235頁
島津義久が羽柴美濃守へ、前年春に鎌田刑部左衛門尉を通じて申し入れた後、連絡が途絶えた事情を述べる。肥後・筑前方面への軍事対応で返書が遅れたが、関白の命令に従う意向を示し、取次を改めて依頼した。軽い贈物として生糸三十斤を送っており、軍事的緊張のなかで中央との外交関係をつなぎ直そうとした書状案である。
(天正14年)6月16日 / 冊子 183~184頁
島津家久が入田殿へ、大友宗麟下向の風聞を踏まえ、志賀氏一党との「入魂」を固めて豊後国内の味方をまとめるよう求める。京都に置いた使者や鹿児島への照会で返答が遅れた事情を説明し、近日中に加勢を三城表まで差し寄せ、高知尾へ逐次注進するよう促した。豊後国衆の調略と出兵準備を結ぶ書状である。
(天正14年)9月27日 / 冊子 235頁
No.188と同文のため、本文を省略して掲げた島津義久書状案。鎌田政近を介した上洛交渉、肥後・筑前方面の軍務による返答遅延、関白への取次依頼、生糸三十斤の贈答を内容とする。同内容が別の文書群にも伝わったことを示す異本・伝来資料である。
(天正14年)9月27日 / 冊子 233~234頁
島津義久が鎌田刑部左衛門尉政近を上洛させ、九州境目の事情と島津方の立場を関白へ説明しようとした書状案。 大友氏との対立が続くなか、戦争回避と領国保全を中央政権に訴える外交文書である。
(天正14年)9月27日 / 冊子 234頁
島津義久が、前年春に派遣した使節が到着しなかった事情を述べ、京都との連絡が滞ったことへの釈明と今後の取次を関白へ求めた書状案。 九州情勢を中央へ報告しようとする一方、使者・交通の不確実さが外交を左右したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 113~114頁
天正十三年十月七日、島津義久が家久・忠長・伊集院忠棟・北郷一雲・上井覚兼ら重臣を召集し、豊後征伐と羽柴秀吉の九州下向への対応を評議した記事。評議後の饗膳では義久を中座に、左右へ重臣を配置した座次を具体的に列挙する。対豊後・対秀吉の軍事方針と、島津家中の序列・意思決定構造を同時に伝える重要な譜記事である。
年月日未詳 / 冊子 114~121頁
天正十三年十月、上井覚兼が豊後・肥後の軍事情勢と羽柴秀吉の九州介入への対応を連日記録した長大な日記区間。入田氏救援、城番・兵船・宿所・人質・帰服者の処置を協議し、島津家中の重臣らと秘密書状や京都使節の取次ぎを進める。秀吉の停戦・国分要求をめぐる情報、阿蘇・豊後方との折衝、諸将への返書が続く一方、寺社参詣、連歌、茶・酒宴、贈答、病気見舞いも詳しい。九州戦局と中央政局へ同時対応する島津家の緊張した実務を示す。
年月日未詳 / 冊子 139~142頁
天正十四年正月、上井覚兼が新年儀礼と豊後戦線への対応を連日記録した日記区間。新納忠元らによる諸城攻略、人質・城郭の処置、高知尾・入田氏との交渉、使者・書状の往来を報告し、軍勢・兵糧・宿所を調整する。羽柴秀吉からの停戦要求や中央情勢も意識される一方、年始の参会、祈祷、寺社参詣、酒宴、連歌、贈答が続く。正月の華やかな儀礼と豊後侵攻の緊張が同じ日程に重なる島津家中の戦時の日常を示す。
年月日未詳 / 冊子 147~153頁
天正十四年二月から三月にかけて、上井覚兼が島津家中の参会・贈答・酒宴・連歌・祈祷と、豊後・肥後方面の軍事・外交を日々記録した長大な日記区間。羽柴秀吉の停戦命令への返答、細川・近衛家や京都との書状往来、諸将の出陣・帰陣、城郭・人質・兵糧の処置を協議する。入田氏、高知尾、志賀道益らをめぐる豊後情勢を追い、日向・肥後口の作戦も調整した。年始から春の儀礼生活と九州征伐前夜の政治的緊張が同時進行する島津家中の実像を伝える。
年月日未詳 / 冊子 155~161頁
天正十四年三月上旬から四月初旬、上井覚兼が狩猟・花見・寺社参詣・酒宴・連歌・贈答を続けながら、豊後・肥後・日向・筑紫方面の使者往来と軍事相談を連日記録した日記区間。羽柴秀吉や近衛家からの書状、九州停戦命令への返答、入田氏・高知尾衆との交渉、諸将の出陣と城郭・兵糧の処置を協議する。返書の遅延や情報不足への焦燥も記され、儀礼的な家中生活の裏で中央政権への対応と豊後戦線の判断が絶えず迫られていたことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 164~168頁
天正十四年四月から五月にかけて、上井覚兼が豊後方面への出陣準備、入田氏・志賀氏・高知尾衆との連絡、軍勢・兵糧・船・使者の手配を記録した長大な日記区間。近衛家・京都からの書状や羽柴秀吉方への返答をめぐる相談が続き、使者の遅延、情報不足、家中の意見の食い違いに覚兼が苛立つ場面も見える。寺社参詣、法華経講、狩猟、酒宴、贈答、病気見舞いなどの日常と、九州停戦令への外交対応・豊後侵攻の実務が同時進行する。
年月日未詳 / 冊子 170~174頁
天正十四年五月から六月、上井覚兼が雨天の軍議、豊後・筑前への使者派遣、志賀道益・入田氏・高知尾衆との書状往来を連日記録した日記区間。近衛家・京都からの返書や羽柴秀吉方への対応を協議し、諸将の出陣、軍勢・船・兵糧の準備、祈祷や調伏の実施を進める。一方で連歌・酒宴・贈答・寺社参詣が続き、覚兼自身の病気や疲労、使者遅延への苛立ちも記される。筑前・豊後作戦が本格化する直前の兵站・情報連絡と家中の日常を同時に追える。
年月日未詳 / 冊子 214頁
立花宗虎が降伏を拒んだのち、島津方が立花城を攻めようとする一方、秋月種実が羽柴秀吉の九州進出を警戒した情勢を記す。 蒲池氏の帰順や筑紫上野介の動向も交え、筑前攻略と中央政権への対応が同時進行したことが分かる。
(天正15年)「14カ」12月4日 / 冊子 266頁
足利義昭が島津義久へ、秀吉と島津氏が武力対立していることを憂え、ぜひ和睦するよう求めた御内書。仲介のため一色駿河守を派遣するので、交渉を成立させるよう促しており、豊臣・島津間の和平を旧将軍が取り持とうとした文書である。
(天正15年)12月4日 / 冊子 266頁
足利義昭が伊集院忠棟へ、秀吉との争いを憂え、和睦実現のため尽力するよう求めた御内書。一色駿河守を派遣するので、主君島津義久への進言と交渉成立を期待しており、島津家中の重臣を直接動かそうとした和平工作である。
(天正14年)12月4日 / 冊子 266頁
足利義昭が島津義弘へ、秀吉との武力対立を憂え、和睦成立に尽力するよう求めた御内書。一色駿河守の派遣を知らせ、島津軍の中心人物である義弘からも主君へ働きかけることを期待しており、豊臣の九州出兵直前に行われた多方面の和平工作を示す。
(天正14年)12月4日 / 冊子 267頁
足利義昭が島津家久へ、秀吉との武力対立を憂え、和睦成立のため島津義久へ進言するよう求めた御内書。一色駿河守を派遣するので交渉をまとめるよう促す。義久・義弘・伊集院忠棟らへの文書と一組で、島津一門・重臣を個別に説得した和平工作の一環である。
文禄3年2月10日 / 冊子 766~767頁
後陽成天皇が大閤・豊臣秀吉へ、近衛信尹(前左府)が高麗への渡海を志しているとの話を聞き、摂家の家統が絶えかねないと案じて、思い止まらせるのがよいのではないかと意向を示した宸翰。 末尾には、この件によって信尹が勅勘を蒙り、配流にまで及んだとの注記がある。朝鮮出兵期における天皇・秀吉・近衛信尹の緊張関係を伝える史料である。
文禄3年7月16日 / 冊子 799頁
「本文書は一三四九号文書と同文につき省略」と注記された豊臣秀吉朱印状。一反を五間×六十間とし、畦・井溝を除外したうえで、村・在所・田畠・屋敷の区分ごとに斗代を定める。 島津領の石高算定基準を豊臣政権が公定した検地法令であり、具体的な本文はNo.1349を参照する。
文禄4年4月12日 / 冊子 875頁
薩摩国の知行割と仕置を命じるため、島津義弘へ朝鮮から早急に帰朝するよう命じた豊臣秀吉の朱印状。在番軍は又八郎忠恒と家老衆へ託して出船し、遅延しないことを求める。 詳細は石田三成から伝えるとし、朝鮮軍務の引継ぎと太閤検地後の領国再編を同時に進める命令である。
文禄3年7月16日 / 冊子 796~797頁
秀吉が島津領の検地に際し、侍・百姓以下で他国へ逃散した者がいれば、先例を調べたうえで捜索・拘束し、元の領主へ引き渡すよう命じる。どの領内で発見しても、その地の領主同士で連絡して処理すると定める。 検地による人別・土地把握と逃散者の還住を結び付け、領境を越えた捜索と身柄移送を制度化した朱印状。No.1348は本書と同文のため省略されている。
文禄3年7月16日 / 冊子 797頁
秀吉が島津分国の検地基準を定め、一反を五間×六十間とし、畦や井溝を面積から除くよう命じる。上・中・下の村と在所、田・畠・屋敷などの区分ごとに、一反当たりの斗代を具体的に列挙する。 No.1345の斗代注文と対応し、島津領の石高算定基準を豊臣政権の朱印によって公定した検地法令。
文禄3年7月16日 / 冊子 799頁
秀吉が島津領の検地に際し、侍・百姓以下で他国へ逃散した者がいれば、先例を調べたうえで捜索・拘束し、元の領主へ引き渡すよう命じる。どの領内で発見しても、その地の領主同士で連絡して処理すると定める。 検地による人別・土地把握と逃散者の還住を結び付け、領境を越えた捜索と身柄移送を制度化した朱印状。No.1348は本書と同文のため省略されている。
文禄4年6月29日 / 冊子 892~894頁
大隅国始羅郡、隅州・日州の諸村について、村ごとの石高を細かく列挙し、石田三成知行分や伊集院幸侃入道知行分などの区分を示す。 木田村・高井田村・帖佐村など多数の村名と端数まで記し、太閤検地後の領地編成を地名単位で復元できる目録。
天正15年4月 日 / 冊子 316頁
豊臣秀吉が薩摩国長嶋で百姓への乱妨、無断の伐採、敵対行為などを禁じ、違反者を厳科に処すと定めた定書。九州征伐下で進駐軍と住民双方の行動を統制し、地域秩序を維持するための具体的な禁止条項が並ぶ。
天正15年5月9日 / 冊子 328頁
豊臣秀吉が島津修理大夫(義弘)に対し、前年に定めた九州国分に従わず勝手な行動をしたため征伐したこと、義久が一命を捨てて降伏したので赦免したことを述べる。そのうえで薩摩一国を義弘に宛行い、今後は秀吉の掟を守って忠功を尽くすよう命じた朱印状。九州征伐後の島津領国処分を直接示す重要文書。
天正15年5月 / 冊子 328頁
本文はNo.309の豊臣秀吉禁制と同文であるため省略されている。鹿児島における軍勢の乱妨狼藉や放火などを禁じ、違反者を処罰して戦後の秩序を維持する趣旨の文書である。
天正15年5月 日 / 冊子 328~329頁
薩摩国鹿児島において、軍勢による乱妨狼藉と放火、地下人への不当な言い掛かりを禁止し、違反者は直ちに厳罰に処すと定めた豊臣秀吉の朱印禁制。豊臣軍の進駐下で住民を保護し、戦後秩序を回復するための具体的な軍紀を示す。
天正15年5月 日 / 冊子 329頁
薩摩国内において、軍勢の乱妨狼藉・放火・地下人への不当な言い掛かりを禁じ、違反者を厳科に処すとした豊臣秀吉の朱印禁制。No.309と同趣旨ながら掲示先を薩摩国全体とし、占領後の軍紀と住民保護を広域に徹底する文書である。
天正15年5月 日 / 冊子 331頁
日向国において、軍勢による乱妨狼藉と放火、地下人への不当な言い掛かりを禁止し、違反者は厳罰に処すと定めた豊臣秀吉の朱印禁制。九州征伐後、日向へ進駐した軍勢の行動を規制して住民を保護するための基本的な軍紀を示す。
〔天正15年〕5月19日 / 冊子 334頁
豊臣秀吉が大口方面への陣替えを前に、鹿児島への途中で花道院城へ二、三夜宿営する計画を伝えた朱印状。先手衆が宿営を迷惑だと申し立てたため、伊集院右衛門大夫・石田治部少輔・木食上人に現地へ赴いて説得させ、返答次第では処罰すると告げる。島津義久にも重ねて事情を説明するよう命じ、豊臣軍の移動・宿営を強く徹底した文書。
天正15年5月25日 / 冊子 337頁
豊臣秀吉が九州の領国を改め、島津兵庫頭(義弘)へ新恩として大隅国を宛行い、今後の奉公を命じた朱印状。ただし肝付一郡は以前からの命令どおり伊集院右衛門大夫へ渡すよう明記する。九州征伐後の大隅国処分と、島津一門・重臣間の知行配分を直接示す重要文書。
天正15年5月25日 / 冊子 337頁
豊臣秀吉が島津又一郎(久保)へ、日向国真幸院に付属する一郡を宛行い、完全に領知することを認めた朱印状。今後は忠勤を尽くすよう命じており、人質として秀吉に従った久保を個別に豊臣政権下の領主として位置付ける知行文書である。