病中につき将軍宣下祝儀を翌春の宗信参府時に延ばす伺い
延享二年十二月廿二日 / 冊子 861頁/整理ID 2301
継豊は将軍宣下の祝儀として関係者を招いて祝う意向があるが、病中のため直ちには行えないと述べる。翌春正月に同氏薩摩守宗信が参府した際に祝儀を勤めたいと伺う、十二月廿二日付の申上書。
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延享二年十二月廿二日 / 冊子 861頁/整理ID 2301
継豊は将軍宣下の祝儀として関係者を招いて祝う意向があるが、病中のため直ちには行えないと述べる。翌春正月に同氏薩摩守宗信が参府した際に祝儀を勤めたいと伺う、十二月廿二日付の申上書。
天明六年四月十五日 / 冊子 859頁/原整理番号 2369/整理ID 2369
佐土原城主島津忠持は、重豪の幸橋御門内屋敷長屋焼失に伴う差控の伺いに対し、差控不要との裁許を受けたことを謝す。重豪が病中であるため、自ら代わって御礼を申し上げる。
天明六年四月二十七日 / 冊子 860頁/原整理番号 2374/整理ID 2374
重豪は、病中のため参勤御礼の献上物を使者に託し、家来二人を登城させて献上させる伺いについて、水野忠友から許可を受けた旨を承知したと届ける。書付は留守居本城源七郎が西丸老中鳥居忠意へ提出し、承知された。
元文元年七月二十二日以後 / 冊子 397~398頁/整理ID 929
継豊が芝邸で病臥して将軍の命を親しく奉じられず、鳥居伊賀守忠胤が代勤し、七月二十二日以後に上使石丸藤蔵から御鷹所で捕えた雲雀を拝領したことを記す。
天明六年四月二十七日 / 冊子 860頁/原整理番号 2373/整理ID 2373
重豪は、二月に参勤時期となったが疝積・気痛が快癒せず、なお出勤できないため、参勤の御礼と献上物を使者に託し、先規どおり家来二人を登城させて献上させてよいか伺う。幕府は使者による献上を認め、前日の届出や家来の献上物の納戸納入方法を指示した。
天明七年九月朔日~十月以後(年は編年による。末尾の同四日の月は不記) / 冊子 997・998頁/原整理番号 2685/整理ID 2685
九月朔日、重豪が雄五郎を伴って本府を発ち江戸へ向かい、家老市田貞英・側用人矢野清香ほか諸役が同行したと記す。四日に出水米之津から乗船して肥州日奈久へ渡り、以後は九州の陸路を進んで十四日に豊前小倉、翌日に長州赤間関へ到着した。晴天で波も静かなため再び船に乗り、二十一日に播州室津へ至って一日滞在し、そこから中国の陸路を取り、二十八日に大坂へ着いて五日滞在した。十月三日に大坂から川を遡り、翌日伏見に着いて四日滞在、九日に出発して東海道を経て二十七日に江戸へ到着した。同日留守居を老中邸へ送り、重豪と雄五郎の到着を報じた。二十九日、将軍は阿部正倫を芝邸へ遣わして参府を労ったが、重豪に病気があったため斉宣が代わって送迎の礼を行った。同日には老中邸で謝礼し、さらに留守居を若年寄邸へ、表方使者を側衆邸へ遣わして謝礼した。晦日に老中奉書で翌日の登城と参府御礼を命じられたが、病気が癒えず登城できなかった。その後、本文に同四日と記す日に番頭島津矢柄久宅を本丸へ遣わし、太刀一腰・白銀三十枚・縮緬十巻を将軍へ献じて到着の御礼とした。
年月日未詳 / 冊子 423頁/整理ID 992
元文元年十二月十一日、継豊が参府後初めて登城し、病中の安否を尋ねられて黒書院で拝謁したこと、吉貴が幕府へ礼書を投じたことを記す。
延享三年十二月三日以後 / 冊子 954頁/整理ID 2549
十二月三日以後、上使が病中の継豊の邸を訪れ、将軍からの御鷹にかかわる鶴を届けた。継豊は病気のため直接応対しにくく、宗信が代理で受領の謝意を伝え、幕府の執政らにも礼を述べる。下賜品、病中の応接、宗信による代理の謝礼を記す記事。
延享四年 / 冊子 973~974頁/整理ID 2611
松平上総入道吉貴宛の返書。正月十八日付の書状を受け、三御所が健勝であることと、宗信の少将任官を喜ぶ。前年十二月十八日に少将を命じられたこと、病中の大隅守継豊に見舞いがあったことを述べ、吉貴の御礼の趣を伝えるよう求める。No.2609・2610と同趣だが別の返書。
延享三年三月廿一日 / 冊子 901頁/整理ID 2425
家重の官位叙任について、継豊は時機に病気で登城できなかった。そこで官服の使者を執政に遣わし、奉伸の賀詞を述べさせた。家重の昇進と島津家の祝いの手続を、継豊公御譜の記事として記す。
延享三年十一月 / 冊子 946頁/整理ID 2531
継豊公の譜の記事。継豊が享保年間に国元で病み養生していたため、宗信が代理として登城した先例を述べる。その後も将軍への祝儀と登城の代行が行われ、使者が太刀一腰と馬代金十両などを献じ、幕府役人を介して謝意を伝えた経過を記す。継豊の病気と宗信の代理という背景を示す記事で、単一の致仕願いではない。
天明四年三月二十一日 / 冊子 738~739頁/原整理番号 2083/整理ID 2083
松平薩摩守は病気で冷えがあるため、夏秋でも足袋を用いる旨を伺う。三月二十一日付の伺書に「足袋用可被申候」との許可が付く。附書には、留守居渋谷五郎右衛門が田沼主殿頭の用人山崎藤五郎へ書付を差し出し、主殿頭からの仰せで本城源七郎と武田織右衛門を介して許可が伝えられた経緯を記す。
天明七年十月十九日(年は朱書) / 冊子 1002頁/原整理番号 2698/整理ID 2698
同氏上総介の参府に際して上使が遣わされ、懇ろな上意を受けたことをありがたく思うと述べる。上総介が病気であるため、その名代として、また自分自身からも御礼を申し上げる。十月十九日付、松平豊後守の書状である。
正月11日召命・追書、正月12日当日の衣冠参朝命令 / 冊子 467頁/原整理番号 633の2/整理ID 633-1
正月十一日に御用のため明十二日午半刻の参朝を命じる。追書では別段の御用であるため、所労でも扶助を受けて押して参朝するよう求める。十二日当日には、今日午半刻の御用に衣冠で参朝するよう改めて命じる。召命と追書・当日命令を分け、実際の参朝記録や病状・診断をこの文書から補わない。
年月日未詳 / 冊子 279頁
盛香集の記事。山田越前こと夫利安慶哲居士の猛心・節義にまつわる逸話と、病中や露・葉を題にした和歌を収め、法印龍伯や新納忠元らの作を付す。
六月廿日 / 冊子 339頁
六月二十日、福島正則が島津家久に、龍伯義久の死去を聞いて驚き哀悼し、自身の病中のため直接見舞えない事情を述べ、比志島国貞・伊勢兵部にも弔意を伝えた書状。
(寛永十四年)二月九日 / 冊子 635~638頁
家久の病中に口頭だけでは伝達漏れが生じるとして、条書への回答を詳細に書き付けた書状。北郷・比志島・薩州関係者の知行や役付、加治木、縁組、家久・光久周辺の人事処置など、多数の案件について見解を述べる。
(寛永十四年)三月十五日 / 冊子 644頁
前年夏の江戸からの帰国祝いとして、琉球国主から使者と焼酎三壺・肴二壺を贈られたことに謝意を表し、江戸と国元が平穏であると伝える。病中のため印判を用いたとの追書を伴う書状。
(寛永十四年)七月十四日 / 冊子 667頁
家久が将軍へ琉球布を献上し、阿部豊後守が披露したところ首尾よく受納されたと伝える。利勝自身にも同布三端が贈られたことに礼を述べ、病中かつ遠路からの厚意を謝した書状。
(寛永十四年)十月十七日 / 冊子 682頁
八月二十四日付書状と沈香三斤の贈答に礼を述べ、家久の病状が夏頃より少し良くなったことを喜ぶ。将軍と薩摩守の無事を伝え、病中の返書の負担を避けて便りを控えていたこと、越中守からの使者や詳細は島津弾正大弼が伝えることを記した書状。
(寛永十四年)十二月二日 / 冊子 699~700頁
薩摩から将軍へ蜜柑を献上し、土井利勝にも五百入りの籠を贈ったことへの礼を述べる。遠路かつ病中にもかかわらず心を配ったことを特に感謝した。
(寛永十四年)十二月三日 / 冊子 701頁
島原・天草の切支丹一揆と薩摩勢派遣の幕命を伝え、速やかな出兵を勧める。松平信綱・戸田氏鉄が現地処置のため江戸を出発したこと、江戸は平穏であることを知らせ、病中の家久を気遣った。
元文元年七月二十六日 / 冊子 398~399頁/整理ID 930
継豊病中の登城・代理勤仕、上使応対、座席、献上物、御礼、家臣の名代・役付などについて、幕府側への照会と先例を島津久春ら三名が詳しく報告する。
元文二年閏十一月二十五日 / 冊子 484頁/整理ID 1165
将軍家から継豊の母へ女中使を通じて年々下される拝領物について、継豊が病中の年の礼式と取扱いを伺う。
元文四年八月五日 / 冊子 541頁/整理ID 1343
島津継豊は、嫡子又三郎が松平を名乗るよう命じられた礼として、将軍と大納言への献上物と謝礼の方法を伺う。継豊が病中のため名代で礼を述べたいこと、国元の吉貴も使札と献上で謝意を表したいことを記す。添えた品目表には太刀・馬代、巻物十や綿三十把などを挙げる。
元文五年八月 / 冊子 610~611頁/整理ID 1538
吉貴は、継豊が病中で江戸にいるため隠居後も国元の用務を聞いているが、軽い案件が上がらず用務が少ないことを懸念する。家老に諸事をおろそかにせず締まりを保つよう命じ、その趣旨を目付・勘定奉行・町奉行など諸役人へ伝えるよう指示した。
延享四年十二月二十三日(記事) / 冊子 51頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0159
延享四年十二月二十三日、上使山口勘兵衛を通じ、継豊に御鷹が捕らえた鶴を賜った。継豊は病中だったため、島津加賀守忠雅が継豊に代わって老中各邸を訪れ、謝礼を述べた記事。出典は継豊公御譜。
〈寛延元年〉十二月七日 / 冊子 115頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0345
継豊公御譜は、病中の継豊に将軍から御鷹所で捕らえた鶴が下賜されたと記す。将軍の使者は桜井監物で、水野肥前守忠見が継豊に代わり、執政らのもとへ赴いて謝意を伝えた。
〈寛延元年〉十二月十五日~十六日 / 冊子 120頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0357
十二月十五日、宗信が直垂を着し、琉球使節の具志川王子とともに登城した。平田掃部正輔・近習役・留守居らが従い、家重への拝謁は鳥居伊賀守忠胤が取り次いだ。松平右近将監武元が使節の遠来の労をねぎらい、具志川が中山王の献物を披露した。宗信も数品を献じ、井上遠江守正敦が奏達した。平田は太刀一腰・馬代白銀一枚を献じ、鳥居が奏達した。宗信は西城でも拝謁・謝礼し、稲葉丹後守正申の取次ぎを経て各執政にも礼を述べた。翌十六日、上使木下内匠が江戸芝邸に来て、鷹狩で得た鶴一隻を宗信に賜った。宗信は病中のため水野肥前守忠見が代わって拝領し、幕府の各執政に謝礼した。
〈寛延二年〉八月三日 / 冊子 180~182頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0512
寛延二年八月三日、嶋津主鈴久郷・矢柄久寛・主殿久柄が、樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、太守様(宗信)の病状悪化に伴う養子・家督相続の相談と願書提出の経緯を報告する。主殿が相続に関する書付を差し越し、姫君様への願いと菊姫様への申し進めについて村路を通じて取り次いだ。八月朔日夜、新御書院で荻原殿・お梅殿・岡田殿と差出人三人が会合し、療養を尽くしても効験が見えず衰弱が増すため、急変した際には当三月の下国前に仮養子として申し置いた嶋津兵庫の相続を願いたいこと、隅州様および一門の相談を経て願書を差し出したいことを伝え、姫君様・菊姫様も承知したと記す。関係者の名を列記し、柳生備前守は不快のため断ったと付記する。二日には芝屋敷で隅州様の相談について留守居を介して報告し、伊豫守・加賀守が養子願の案文を内見した。両者は万端の取計を引き受け、野村大右衛門にも伝え、大玄院病中の諸書付を見合わせて案文を整え、小笠原縫殿助・久世忠右衛門にも相談した。堀田相模守への内意照会では、病状の届はすでに二度上聞に達しているので改めて奉書を届けず、直接養子願を差し出すよう回答され、岩下佐次右衛門から春日井庄兵衛を通じて伝えられた。三日、願書を御用番本多伯耆守へ加賀守と小笠原縫殿助が提出し、若年でも不慮の事態を考慮して受け取る旨の返答を得た。加賀守は門外へ退出後に戻って受理の礼を述べ、櫻田の御守殿へ報告した。尾張様へは矢柄が使者として知らせ、嘉知姫様にも用人を介して伝達した。京・大坂の使番、関係する御方、御守殿付用人、近習役以上、家老座・諸役人・諸士への周知を記し、書付写五通を送って貴聞に達するよう求める。日付と周辺の宗信死去記事との前後関係には疑義がある。
〈寛延二年〉九月廿一日 / 冊子 204~205頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0569
堀田相模守正亮が松平大隅守継豊へ九月二十一日に返書を送る。宗信の病中、願いに従って医師平賀玄純を遣わしたことについて、ありがたいとの継豊の礼状を受け、その意を承知したと答える。本文の医師名には玄を元とする注がある。紙面の趣旨も読んだと記す。今後継豊を診察する許可ではなく、宗信病中の派遣への御礼に対する返答である。
〈寛延二年〉九月廿一日 / 冊子 205頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0571
西尾隠岐守忠尚が松平大隅守継豊へ九月二十一日に返書を送る。宗信の病中に医師平賀玄純を願いどおり遣わしたことについて、継豊からの御礼を承知したと伝え、紙面の趣旨も理解したと述べる。前の堀田・秋元書状と同じ医師派遣に対する返答で、忠尚の署名・判と大隅守宛所を持つ。
〈寛延二年〉九月廿七日 / 冊子 206頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0575
尾張中納言宗勝が松平大隅守継豊へ九月二十七日に返書を送る。宗信の病中、油断なく療養するよう宿次奉書で伝えられたことについて、継豊の書札と贈物一種を受け取ったと述べる。大御所・大納言からの御諚を記す奉書が届いた旨も承知し、心遣いをありがたく受け止めたと答える。宗勝の署名・判と御報注を持つ。
〈寛延二年〉九月廿八日 / 冊子 206頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0576
堀田相模守正亮が松平大隅守継豊へ九月二十八日に返書を送る。宗信の病中に上意を宿次奉書で伝え、大御所・大納言からも御諚を記す奉書が届いたことについて、継豊からの御礼を承知したと答える。使者の来訪に伴い、書札の趣旨を関係者と相談して上聞に達したと記す。宛先は継豊で、病人として記されるのは宗信である。
〈寛延二年〉九月廿八日 / 冊子 206頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0577
秋元但馬守凉朝が松平大隅守継豊へ九月二十八日に返書を送る。宗信の病中、上意を宿次奉書で伝え、大御所・大納言の御諚も奉書で知らせたことに対する継豊の御礼を承知する。使者の到来に伴い、継豊の紙面の趣旨を言上したと述べる。堀田の前書と同件だが、本書は凉朝の署名・判と大隅守宛所を持つ独立した返書である。宗信への上意・御諚の伝達に対する継豊の御礼を扱う。
〈寛延二年〉九月廿八日 / 冊子 206~207頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0578
西尾隠岐守忠尚が松平大隅守継豊へ九月二十八日に返書を送る。宗信の病中の宿次奉書、大御所・大納言からの御諚を伝える奉書に対して、継豊の謝意を承知したと答える。使者の来訪に伴って紙面の趣旨を言上したと記す。
〈寛延四年〉十月四日〔目録:九月二十八日〕 / 冊子 332~337頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0983
平田靭負正輔・市来左中政方が六家老へ、太守・隅州の有徳院遺物拝領後の御礼について、江戸での相談と書状・使札の提出経過を報告する。加賀守から名代御礼についての照会がないため、留守居を通じて御用番酒井左衛門尉へ申し上げ、山澤小左衛門を取次に遣わした。国元在住の拝領者には名代御礼の例がなく、上使の差図もないまま、有徳院の隠居祝いの拝領例だけで処理するのは不足があるとして、堀田相模守へ内談した。留守居が御用人浅井八兵衛から、御用番の出勤を待って礼使札を差し出す扱いを聞き、赤松甚右衛門にも申し合わせた。甚右衛門は病気で参上できず、小左衛門が佐久間源太夫へ事情を伝え、先月十五日に相模守へ内談する手はずを整えたが、浅井八兵衛の内用のため進まなかった。そこで倉次甚太夫にも相談し、十七日付の手紙と十九日の来訪を経て、御用番の差図どおり名代で勤めることになったと報告する。 名代が登城して御礼するのか、廻勤で済むのかについても堀田側と相談した。隅州が病中のため、在府の加賀守が両丸へ登城し、老中へ廻勤する扱いとし、似寄りの例書を添えるよう八兵衛から伝えられた。当分出勤しない酒井左衛門尉・秋元但馬守への御礼は差し控え、出勤後に改めて勤める。大納言への御礼も御用番へ申し上げて済ませるという。有徳院遺物の両殿への拝領について本多伯耆守へ提出した書付一通と例書一通、隅州から大納言への御礼についての書付一通と付紙の扱いを挙げる。加賀守父子の名代については先に願い、御用人を通じて登城を要しない廻勤の差図を受けた。先月二十五日の書状提出、翌二十六日の加賀守の老中・上使側への廻勤、若年寄への菱刈孫兵衛の使者、側衆への表方・隠居方それぞれの使者を記す。 太守・菊姫の遺物拝領に隅州から謝礼する連署書状一通について、本多への提出と受け取り、秋元宛書状が西丸用務のため登城しなかったこと、西尾隠岐守宛書状の提出、元で整えた連署書状と御右筆の案文を挙げる。太守・菊姫の拝領に対する奉書一通、隅州から大納言への謝礼に関する同一通、本丸の老女五人から隅州への返事六通も報告する。隅州の公方・大納言への御内証の御礼は名代使札で決めにくく、国元で文面を整えるよう伝えられた。八月二十一日付の御文と御案文、御礼文の八月九日・九日付、使札の八月二十一日付に相違があるため、御文を案文として扱い、双方を相談して調え直した。先月二十六日に御守殿から提出した御文はその日に返事が下り、女使の口上と春井の取次を経た。二十七日には春井から添文付きの御文六通を提出したという。 太守の御頂戴がまだ済んでいないため、七月十日の拝領として差し出す御礼文の扱いを佐々木に尋ね、差し支えないとの返答を得た。隅州の御礼文は御右筆が提出し、国元の御案文も添える。日付の異なる案文と調え直した文面を送って、国元の心得とする。京都諸司代・大坂城代への通知は、隠居祝いの拝領時の例に従って調えるよう使番へ申し渡したが、先例が見当たらないため、近衛その他への通知とあわせて相談する。日光宮・御三家・御一門への通知は、太守の御礼が済んだ時に使番へ申し渡すよう求める。隅州の御礼が済んだことも伝え、別紙九通を送るとして結ぶ。末尾に十月四日の朱記と、平田靭負・市来左中の名義、六家老宛名を掲げる。
宝暦五年十月四日 / 冊子 582頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1729
島津主鈴久郷・伊集院十蔵久東が十月四日、三家老へ重年の病中から家督相続までの御挨拶を報告する。継豊の意向を受け堀田相模守へ礼を伝え、八月十二日付朱書き返答を承知したのち、九月に水野肥前守へ挨拶し、肥前守が島津邸へ来た際の返答を述べる。堀田の来訪と、西尾隠岐守を通じて肥前守へ伝えた経過、御家老使者による御礼への応答も記す。これらの取次と挨拶が済んだことを国元へ報告する。
文政3年(配列による。本文・目録は「月」のみ) / 冊子 581頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1751-1
重豪公御譜中、白木御文書八番箱三十八号にもあるとする。天明七年未に隠居を願い、国政筋は病中に介助する心得を申し上げておいたと述べる。その後溪山へ政事を任せ、文化六年巳に溪山が隠居して豊後守へ家督を命じられてからも介助した。溪山には斉宣の傍注がある。老年で気力が衰え、近年は病身となり、これ以上の介助が思い通りにならないとする。昨年の御目見時に受けた重い上意は恐れ入って承るが、行き届かないため今回介助を断ると届ける。引き続き心添えはするので、その旨を聞き置くよう求める。末尾は「月」のみで、松平榮翁署、宛先は本文に示さない。文政三年は前後の配列による整理で、目録も「月」のみを記す。月数・日数を補わない。介助辞退と今後の心添えを区別して扱う。
文政3年(配列による。本文は「月」のみ) / 冊子 581~582頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1751-2
斉興が、榮翁の国政介助辞退と今後の心添えを届ける文書。榮翁が天明七年未に隠居を願い、国政筋は病中に介助する心得を申し上げ、その後溪山へ政事を任せた経緯を述べる。文化六年巳に溪山が隠居して斉興へ家督を命じられてからも、榮翁は介助を続けた。次第に気力が衰え近年は病身となり、これ以上の介助が思い通りにならないとする。昨年の御目見時の重い上意を恐れ入って承るが、行き届かないため今回介助を辞退し、重要な事柄にはなお心添えすると述べているので、その旨を聞き置くよう求める。末尾は「月」のみ、松平豊後守署に斉興の注を付す。前の包にあるとの注がある。添えられた朱書は、両通を8月10日に留守居早川千竃が阿部備中守の勝手へ持参し、用人阿部小助を通じて先例のない届として内見・吟味を求め、先預りとなった経緯を記す。13日の呼出しでは太守の届書も添えるよう求められ、同日附で差し出すよう内分に伝えて取計い、備中守の落手を小助から聞いたとする。本文の日付と朱書の提出経緯を分け、次のNo.1752の首尾書も併読する。
天保4年(朱書。月日記載なし) / 冊子 937頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2645
花町・梅溪・瀧山から松たいら栄翁様人々御中への連署消息。長寿を祝い、上様方の機嫌がよいことを知らせる。相手が高齢であることにより、思召をもって御納戸金の内から三百両を例年通り内々に贈ったと述べる。病中でもあるため慰めになるよう、例年より早く贈った旨を伝え、めでたく受け取ってほしいとして結ぶ。朱書天保四年、三名の署名と宛先を保持する。病状の詳報や投薬とは分け、贈金の原資としての御納戸金、三百両、例年通りの額と例年より早い時期を区別して記録する。
天保4年(朱書。月日記載なし) / 冊子 937~938頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2646
花町・梅溪・瀧山が松たいら栄翁様人々御中へ送った返事。手紙を受け取ったことと上様の機嫌がいよいよよいことを伝え、昨日、相手が高齢であるため御台様の思召により御納戸金の内から三百両が内々に贈られたことをありがたく思っていると述べる。病中につき厚い思召で例年より早く贈られたことを特にありがたく受け止め、手紙の通り礼を申し上げたと知らせる。朱書天保四年、三名の署名と栄翁宛を保持する。No.2645の贈金通知とは別に、御台様による三百両の贈金が昨日あったこと、例年より早い時期と礼の取次を記す。
朱明治2巳二月13日 / 冊子 627頁/原整理番号 807の5/整理ID 807-3
原807の五。中将はまだ病中で身体の屈伸も不自由だが、勅使の下向は容易ならぬ重要な役柄のため、病中の不敬となるところを重ねて断った上で、病体のまま津畑まで迎えに出る旨の沙汰があったと伝える。一統が承知するよう向々へ周知を命じる。朱明治二巳二月十三日、龍衛。病状は達に記された範囲で示し、診断名・予後や実際の出迎え完了を補わない。
明治2年三月(日不記)行政官(年は朱書) / 冊子 658~659頁/原整理番号 852/整理ID 852
「玉里ヨリ現書御引譲ノ内」。島津中将宛に、積年の勤王の勲労を慰めるため勅使を遣わしたところ、早速拝謝し病を押して登京参朝したことへの叡感を述べる。格別の配慮で別紙の品を賜い、一新の大業を助けて励むよう求める。「賛補」には補を輔カとする注がある。文末は朱書の明治二年と三月、行政官で、日を記さない。続く別紙は「御召古 御打柏一領」を下賜すると記す。勲労・病中参朝の評価は沙汰に帰属させ、本文と別紙を分け、他条の同賜与と数量を合算せず、衣服の現代名・価格や実引渡完了は補わない。
明治3年12月 / 冊子 774頁/原整理番号 992/整理ID 992
天皇の使者として岩倉大納言具視が来訪し、宸翰を賜った。久光は病中であったため、忠義が久光に代わって拝受した。明治三年十二月、御系図・玉里久光公。
明治6年5月9日・12日 / 冊子 916頁/原整理番号 1139の2/整理ID 1139-2
前年に従二位を宣下されたものの病中で受命の猶予を願っていた人物が、参内して天気を伺い、受命の御礼を済ませたため、今後は「従二位様」と称するよう御家令から通知し、県が布告する。
寛永十四年12月3日 / 冊子 443頁/原整理番号 419
松平定行が島津家久へ、天草・島原の一揆に際して薩摩兵を早く出すよう求める。寺沢家来の薩兵衛が先月十三日に一揆を討ったが再蜂起の情報があると述べ、家久が病中でも派遣兵への指示を確実にするよう頼む。松平信綱・戸田氏鉄が三日に当地を出て近く九州へ着く予定で、自身も西国への加勢を命じられたと知らせる。追伸では家久の療養を気遣い、城外へ出て気晴らしすることを勧める。
年月日未詳 / 冊子 197頁/原整理番号 319-3
評定所案文帳の保管・改装履歴を記した覚書。正月六日から二月二十六日までの一大冊で、島原の乱以来、家老座に保管されていた。延享三年十二月六日、元禄九年の御城火災(回禄)の焼け残りで、中納言様の病中の事柄も記すため記録所の照合に役立つか吟味して報告するよう、町田仲右衛門へ渡されたという。他に同類の冊子がないので裏打ちして保管し、後年の照合に用いる旨を右平太へ報告した。明和元年九月には四冊に分けて被紙を済ませ、『草案燼余』と改号し、根帳を消除したと記す。
寛永十五年三月一日 / 冊子 356~357頁/原整理番号 404
鍋島茂利が村尾源左衛門重候へ、病中にもかかわらず届いた書状を謝し、先の働きは書中で言い尽くせないと賞賛しつつ、体調がすぐれないと聞いたため養生を勧めた返書。追而書で、八日に相国を通る折には必ず立ち寄ってほしいと頼む。
年未詳11月26日 / 冊子 273~275頁/原整理番号 107-15
霜月二十六日、上原大蔵尚演が上原源兵衛へ、先日の来訪時は病中で十分相談できず残念だったと詫び、系図について税所次郎右衛門へ尋ねて改めて報告し、正月の再訪時に詳しく話したいと伝えた書状。尚演は病状が日増しに回復していることも喜んで報じる。朱書の季安按は、この書状と休兵衛自記に系図がないことから、上原氏に系図が伝わらず、藤原流への接続や古文書中の中原姓も後世の誤りではないかと疑い、曽於郡止上権現の社家に古系図が保存されていたものの、季安自身が十六、七歳頃に上原形部へ頼んで見た内容を覚えておらず、古文書との整合も直接再確認しなければ評価できないとする。付属系図は尚敷・尚盛・尚朝・尚治・尚輔らの家督、養子、婚姻を記し、寛永九年の伊豆守の食禄百五十一石、尚敷の百二十二石、万治二年十二月の百三十八石八升などを掲げる。