島津義弘書状
(慶長元年)九月十五日 / 冊子 45~46頁
島津義弘が忠恒へ、朝鮮国中だけでなく大明からも多数の番船が出ることを見越し、海陸の備えを厳重にするよう指示した書状。鹿徳島では長陣を覚悟し、大鉄砲・石火矢などを備え、国元から渡海させる人数や兵糧を早く整えるよう求めている。
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(慶長元年)九月十五日 / 冊子 45~46頁
島津義弘が忠恒へ、朝鮮国中だけでなく大明からも多数の番船が出ることを見越し、海陸の備えを厳重にするよう指示した書状。鹿徳島では長陣を覚悟し、大鉄砲・石火矢などを備え、国元から渡海させる人数や兵糧を早く整えるよう求めている。
(慶長二年)三月廿八日 / 冊子 95~96頁
石田三成が羽兵に年頭の使札と銀子三枚への礼を述べ、番船が敵船に遭遇しながら十分に働かず早々に引き退いた件について、寺沢志摩守を通じて厳しく申し付けると伝えた書状。油断を禁じ、羽兵の着陣後に上洛するよう求める。
(慶長三年)十月廿日 / 冊子 266~267頁
宗義智(羽柴対馬守吉智)が(慶長三年)十月廿日付で島津又八郎忠恒らへ出した書状。頻繁な使者による懇意に謝し、十七日夜に順天から「扱之唐人」が出たとの報を受け、西堂・下野も順天を退出したが別条はないと伝える。番船が出ないため遠見役を置いて警戒し、疑わしい動きがあれば直ちに注進すると述べ、詳報は使者に託す。
(慶長三年)十一月廿日 / 冊子 284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月廿日付で伊勢弥九郎へ出した書状。順天方面の番船と交戦して味方の船も出たとの知らせを受け、家中の負傷者や現地の様子を案じる。加藤主計頭・黒田氏・鍋島氏が当地へ来たものの急迫した様子ではないと伝え、使者を送れないため、詳しい状況を返信で知らせるよう求める。
(慶長三年)十一月廿日 / 冊子 284頁
伊東祐兵が(慶長三年)十一月廿日付で島津忠恒へ出した書状。順天方面で先手衆が番船と交戦したと聞き、戦況を案じて詳しい様子を尋ねる。自身の在所では前日から唐人が城近辺まで進出したが、実際の行動はなく心配無用とし、見舞いの使者を送ったことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 53頁/原整理番号 76
『寛明日記』二日条。松平伊豆守の指示で長崎からオランダ船一艘・日本船三艘を呼び、海上から原城へ大筒を放ったところ、城内の鉄砲で唐人二人が討たれたため、残る唐人を長崎へ帰した。日本丸と黒田・細川の番船は従来どおり砲撃を続けた。
巻五/冊子 73~77頁
慶長二年、義弘・忠恒父子が朝鮮沿岸の敵船団を攻撃し、続いて南原城を攻略した経過を記す。巨済付近で日本軍の往来を遮断していた朝鮮水軍に対し、夜襲で百六十余艘を焼き、多数を海際まで追撃したとする。この戦果に秀吉は朱印状で賞し、明軍が進出した場合は軽挙せず対陣して注進せよと命じた。八月、諸将が南原城を包囲すると、義弘は久保を失った経験から忠恒に血気の勇を戒めるが、自ら三首を得たことで忠恒も単騎で城へ突入し、敵が退いた後に戻る。島津勢は首四百二十一を得て鼻を切り、日本へ捷報とともに送ったとされ、秀吉から再び賞状を受ける。その後、父子は泗川の旧館城・新城へ移る。後半には秀吉政権の在番・講和方針を示す朱印状、諸城から釜山浦へ兵粮・鉄砲・玉薬を集める命令、朝鮮王子や貢物を条件とする撤兵案、徳永寿昌・宮木長次の起請文などを収める。海戦・南原攻略の武功と、戦争終結を見据えた講和・撤兵の実務が併記された記事である。
文禄2年8月23日 / 冊子 724頁
島津勢の扶持米を蔵米で賄い後日精算すること、番船の火矢を避けて小屋や船を陸へ上げること、蔵を増設することを指示する。 家中船による刈田・乱妨を禁じ、船の帰国・再招集、普請人員や大豆の扱いまで列挙した、朝鮮在陣の兵站・軍紀に関する石田三成の覚書。
年月日未詳 / 冊子 756頁
島津義弘が、釜山浦へ番船百余艘が押し寄せて鉄砲戦となり、さらに島付近に数百艘が集まっているとの報告を伝える。大軍の来襲を警戒し、日本勢の撤収や防備を急ぐ状況を説明する。 忠恒には迎船を送るまで不用意に渡海せず、国元で普請を整えて待つよう厳命した追而書。
文禄3年3月5日 / 冊子 770頁
昭高院如雪が重ねて届いた懇書への感謝を述べ、新春の祝儀として品を贈る。現地で少数の番船が現れたものの、羽柴侍従の働きで早々に退いたと聞き、その手柄を称える。 日々祈祷を怠らず、必要があれば隔意なく申し付けてほしいと伝え、詳しい口上は友林斎に託した書状。
文禄3年10月1日 / 冊子 812頁
黒田長政は、島津方の海域へ敵の番船が出たと聞き、状況を案じて見舞いの使者として本竺次右衛門尉を派遣する。現地の様子を詳しく知らせるよう求める。 福島正則・蜂須賀家政ら年寄衆とも相談し、諸事に落ち度がないよう対処することが肝要だと助言する。敵船出現を受けた諸大名間の警戒連絡と共同対応を示す書状。
文禄3年10月1日 / 冊子 812頁
毛利元清ら四名は、島津方の海域へ敵の番船が出たと聞き、心配して見舞いの書状を送った。今後も多数の敵船が現れるようなら知らせてほしいと求め、引き続き連絡を取り合う意向を伝える。 唐島周辺で朝鮮水軍の活動が活発化するなか、毛利方が島津方の警戒状況を共有しようとした連署状。
文禄3年10月3日 / 冊子 813頁
義弘は、忠恒がすでに渡海したとの情報を確かめつつ、九月二十九日以来、唐島周辺に敵の番船が出続けているため、現地へ直接渡るのは危険だと警告する。 まず釜山浦へ着船し、そこから段階的に航路の情報を聞き合わせ、安全を確認して唐島へ向かうよう命じる。父義弘が忠恒の初渡海に際し、敵船を避ける具体的な航路を指示した書状。
文禄3年10月5日 / 冊子 813頁
義弘は忠恒が名護屋へ到着したと聞いて迎船と使者白浜七介を送ったが、すでに対馬へ渡ったとの風聞を得て強く心配する。九月二十九日以来、敵の番船が各陣の港へ毎日侵入し、火矢などで襲撃しているため、単独で唐島へ直航してはならないと戒める。 釜山浦で敵情を確かめ、諸船団と連携して安全な時機に進むよう繰り返し指示する。忠恒の渡海をめぐる父義弘の焦りと、海上警戒の切迫感が伝わる長文書状。
文禄3年10月7日 / 冊子 816頁
福島正則は、周辺を警戒していた敵の番船がその夜、五、六里先の竹島まで退いたと義弘へ知らせ、ひとまず安心するよう伝える。 今後も変化があれば随時連絡すると約束する。唐島周辺で敵船の位置情報を諸大名が即時共有していたことが分かる短い海上警戒報告。
文禄3年10月9日 / 冊子 818~819頁
義弘は敵の番船によって日本船の出入りと唐島への航路が遮断され、多数の船が釜山浦などで足止めされている状況を詳報する。陣中の古米を新米に替えることもできず、兵糧が尽きれば在陣継続が困難になるため、国元から年内に米と船を確実に送るよう強く求める。 又八郎忠恒の渡海、国元検地、義久・幸侃らの対応にも触れ、連絡不足と準備の遅れを厳しく戒める。海上封鎖が島津軍の兵站と家中統制を同時に圧迫したことを示す長文書状。
文禄3年10月9日 / 冊子 819頁
義弘は敵の番船が九月二十九日から十月七日まで海上を押さえ、八日に六、七里ほど退いたと竜伯義久へ報告するよう長寿院・幸侃へ求める。春になれば敵番船が再び活動し、唐島への日本船航路が完全に塞がれる恐れがあると警告する。 兵糧が届かなければ陣の維持はできないため、年内に国元から米を送るよう重ねて催促する。石田三成らへの書状も使者に託した、海上封鎖と補給危機への緊急要請。
文禄4年5月2日 / 冊子 878~879頁
如雪は、二月二十一日付の書状と贈物を受け取った礼を述べ、長期在番の労苦をねぎらう。 番船を出して敵人数を討ち取り即時に退かせた戦功を喜び、祈念を怠らないこと、近日の便で改めて詳報することを伝える。
文禄4年6月19日 / 冊子 891頁
小西行長は、家久側の番船が出動したものの成果なく引き取ったとの報告を受け、事情を確認する。 前日にも使者を送っており、今後も続報を伝えるとして、朝鮮沿岸での番船行動をめぐる連絡を行う。
文禄4年6月20日 / 冊子 891頁
加藤清正は、竹島から家久側の番船出動を知らされ、状況が分からず心配しているため詳しい返報を求める。 一方、自らが守る境目には変化がないので安心するよう伝え、詳細は使者の口上に託す。
文禄4年9月15日 / 冊子 913~915頁
秀安は唐島での番船捕獲や、明軍が籠る朝鮮の城を島津勢が攻めて多数を討ち取った戦功を祝う。 弓次郎の高麗出陣、伏見での留守役、軍役人数と知行、上洛・国元での処遇などを詳しく論じ、朝鮮戦役と家臣の軍役負担を結ぶ長文書状。
(慶長元年)五月二日 / 冊子 22頁
伊勢如貴が島津又八郎(忠恒)へ、三月二十一日付書状と段子一巻を受け取り、御門へ礼を述べて披露したことを伝える。忠恒の番船での働きと手柄をたたえ、帰朝を命じる朱印が届いたことを重ねて喜び、伏見で到着を待って対面したいと述べた書状。
(慶長元年)九月十一日 / 冊子 43~44頁
島津義弘が忠恒へ、番船の出動に備えて薩隅諸県から約千五百人を直ちに鹿徳島へ渡し、城普請、兵糧、大鉄砲・石火矢・鉄砲・玉薬を整えるよう命じた書状。明勅使との対面後、朝鮮王子が来朝しなかったため再出兵が見込まれるとして、国元から人数を渡海させる準備も急がせている。
(慶長二年)二月十日 / 冊子 76頁
寺沢正成と小西行長が連署し、番船の出動と牧島方面の動きを島津又八郎の陣所へ知らせ、対応の相談を求めた書状。
(慶長二年)二月十日 / 冊子 77頁
小西行長が島津又八郎に、今晩、番船が動いて牧島へ向かったことを報じ、事態が定まり次第あらためて知らせるとした書状。
(慶長二年)三月十七日 / 冊子 93頁
島津義久が忠恒へ、長陣の軍労をねぎらい、義弘が渡海したので満足であろうと述べた書状。石田治部少輔から忠恒を速やかに帰朝させるよう命じられたと聞き、早々に上京するのを待っているとし、番船出動の風聞にも注意するよう伝える。
(慶長二年)四月八日 / 冊子 96頁
小西行長が島津又八郎方に、番船について諸将が注進した結果、朱印状が下され、寺沢志摩守の使者が持参したことを報じた書状。当年の軍役書立も各城へ届いたとし、石田治部少輔から兵庫頭への通知を踏まえて又八郎の判断を尋ねる。
(慶長二年)四月十日 / 冊子 96頁
島津忠恒が小西行長に、先日の番船出動を諸将が注進したことで朱印状が下された件を受け、寺沢志摩守へ懇切な礼状を送る意向を伝えた書状。行長からも寺沢へ書状を遣わすよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 122~123頁
『朝鮮日々記』から、加徳島前へ繰り返し現れた敵船を日本側の番船・諸隊が追撃した経過を記す。海上と陸路に分かれて敵を追い、射撃・接舷・上陸を交えた戦闘、首級や損害、各隊の動きを日次で述べる。
年月日未詳 / 冊子 123頁
『朝鮮日々記』から、七月十三日に唐島と加徳島の瀬戸口で敵の番船五十余艘と交戦した記事。日本側の船が敵船を破り、島津義弘ら諸将が陸上から援護・進撃したこと、陣替え後の配置までを記す。
(慶長二年)八月九日 / 冊子 126~127頁
増田長盛・長束正家が、七月十六日付の注進状を伏見で披露したところ、番船を根切りにした諸将の手柄を秀吉が賞し、各人へ朱印を与えたと伝える副状。今後は陸地での働きを諸将と相談し、過失なく進めるよう求める。
八月九日 / 冊子 127頁
豊臣秀吉が島津忠恒に、唐島沖で敵の番船百六十余艘を攻めた際、自ら敵船へ乗り込み三番目の船の兵を討ち取り、捕獲船を日本へ送った働きを賞した朱印状。帰朝時に褒美を加えると約し、徳善院玄以らからも申し伝えさせる。
(慶長二年)八月九日 / 冊子 127頁
豊臣秀吉が七月十六日付の注進状を八月九日に披見し、唐島・釜山海表で日本の通路を妨げていた敵番船百六十余艘を打ち捕らえ、唐人数千人を討ち、沿岸十六・七里の船をことごとく焼き払った戦果を賞した朱印状。寺沢の働きを特に無類と称賛し、帰朝後に関係者へ褒美を与えると約した。
(慶長二年)八月九日 / 冊子 127~128頁
豊臣秀吉が七月十六日付の注進状を八月九日に披見し、島津義弘へ、唐島・釜山海表で日本の通路を妨げていた敵番船百六十余艘を打ち捕らえ、唐人数千人を討ち、沿岸十六・七里の船をことごとく焼き払った戦果を賞した朱印状。寺沢の働きを特に無類と称賛し、帰朝後に関係者へ褒美を与えると約した。
(慶長二年)八月九日 / 冊子 128頁
本文はNo.282・283と同文であるため省略されている。唐島・釜山海表での番船壊滅と敵兵討取りを賞し、島津義弘・忠恒へ帰朝後の褒美を約する朱印状の重複写し。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 136頁
豊臣秀吉が八月十六日付の注進を披見し、南原城を十三日に包囲して十五日夜に落城させ、島津義弘勢が首級四百二十一を得た戦功を賞した朱印状。先の番船捕獲にも触れ、今後も諸将と相談して堅固に軍務を進めるよう命じる。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 136頁
豊臣秀吉が島津豊久の八月十六日付注進を披見し、南原城攻めで首級十三を得たことと、先の番船捕獲を賞した朱印状。引き続き諸将と協議し、確実に軍務を遂行するよう求める。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 138頁
近衛前久が、長く便がなく書状を送れなかったと断ったうえで、島津忠恒が朝鮮人百人を討ち捕り番船を切り取った比類ない戦功を祝した書状。早い帰陣を待ち、在陣中にも音信を寄せてほしいと伝える。
九月十三日 / 冊子 143頁
本文はNo.306と同文のため省略されている。近衛前久が島津忠恒による朝鮮人百人の討取りと番船捕獲を祝い、早い帰陣と在陣中の音信を求めた書状の重複写し。
(慶長三年)二月二日 / 冊子 193頁
近衛信輔が島津又八郎へ、前年に番船などで挙げた数々の手柄が世間に広く伝わっているとして祝意を表した書状。信輔は在国中には折々書状を交わしたが、上洛後は多忙で便りを出せず本意ではなかったと詫び、今年は忠恒が帰朝できるよう願っているので、引き続き吉報を聞きたいと伝える。
(慶長三年)九月廿二日 / 冊子 238頁
島津義弘が、順天へ多数の鉄砲が送られ番船も次々に来るとの情報や、敵が古館付近を偵察して翌日に攻撃するとの見通しを伝えた書状。家中で私的に神文を取り交わした件を重大な不届きとして、家臣同士の神文・徒党を禁じる法度を早急に出すよう求める。また蔵米の不調により石田三成のもとへ上井甚五郎が召し上げられた件を案じ、番船が迫るため船を急ぎ出すと述べる。
(慶長三年)十月十四日 / 冊子 258~259頁
島津義弘が(慶長三年)十月十四日付で石田治部少輔らへ出した書状。泗川で明軍を討ち大勝した後は敵が現れず、順天の番船や蔚山方面の敵も退いたこと、又八郎忠恒が数万騎を討った手柄を報告する。忠恒の帰国と自身の上洛、上洛時に率いる人数について指示を求め、明側使者龍淵と寺沢正成・小西行長による和平交渉の状況も伝える。
(慶長三年)十一月十七日 / 冊子 280頁
秋月種長が(慶長三年)十一月十七日付で島津忠恒へ出した書状。順天方面へ番船が出動したと聞いて案じ、現地の様子を確認するため使者を送ったと伝える。自身の在所には変事がなく、安心するよう告げ、対面の機会を期す。
(慶長三年)十一月十八日 / 冊子 283~284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月十八日付で伊勢弥九郎へ出した書状。蔚山・西生浦の勢が十七日に撤収して無事到着し、この日に出船したこと、竹島・昌原も前日に引き払ったと伝える。順天方面の番船が追い払われたとの風聞を喜び、自身の在所には異変がない一方、見舞いの使者を出せない事情を説明する。
年月日未詳 / 冊子 285頁
『旧伝集』の記事。朝鮮での番船との戦いで木脇休作が負傷して海へ落ち、浮かんでいたところ、島津義弘の命を受けた小鷹丸船頭東太郎左衛門が帆柱を下ろして引き上げたとする。休作は当時二十二歳の大男で黒具足を着けており、義弘の膝前で自ら療養を受けて傷が平癒し、その後に追腹したと伝える。
(慶長三年)十一月廿五日 / 冊子 297~298頁
豊臣政権の五大老が九州諸将へ、朝鮮に明軍と番船が現れたため藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣していれば現地の船手衆が相談して応戦し、報告に応じ九州に待機させた船手・兵員を急派するとする。敵が退散した場合は徳永寿昌・宮木長次への先命どおり諸城を引き払い、釜山浦へ集結して帰朝し、全般を藤堂の指図に従うよう命じる。
(慶長三年)十一月廿五日 / 冊子 298頁
豊臣政権の五大老が島津義弘・忠恒へ、明軍と番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したと伝える。敵がなお在陣する場合は在番の船手衆と相談して応戦し、島津側の報告により九州待機の船手・兵員を差し向けるとする。敵が退散した場合は諸城を早急に釜山浦へ引き取り、藤堂の指示に従って帰朝するよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 298頁
豊臣氏奉行衆が伊東民部大輔・相良宮内大輔・高橋九郎・秋月三郎・島津又七郎(島津豊久)の九州諸将へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したことを通知した連署状。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、退散後は諸城を釜山浦へ集めて帰朝し、藤堂の指揮に従うよう命じる。
〔慶長三年〕十一月廿五日 / 冊子 299頁
豊臣氏奉行衆が九州諸将の陣所へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、報告に応じ九州から船手・兵員を送るとし、退散後は諸城を釜山浦へ引き取って帰朝するよう命じる。No.595と同じ撤収方針を、島津忠豊ら九州諸将へ伝えた文書である。
(慶長三年)十二月五日 / 冊子 301~302頁
舟越景直が(慶長三年)十二月五日付で島津忠恒へ、自身の小姓を国元で召し使うよう推薦した書状。小姓は番船を奪取した際に一番乗りし、首級を挙げて船を捕らえ、さらに別船へ乗り移って働いたと述べ、掃部助らもその戦功を知っているとする。処罰を受けるような者ではなく、詳しい事情は伊勢弥九郎へ伝えたとして、島津義弘にも取り計らいを求める。