島津義弘書状
(慶長四年)八月六日 / 冊子 420~421頁
島津義弘が伊集院源次郎に、内府使者寺沢志摩守の下向が予定されているので熟慮するよう求める。幸侃が悪心ゆえ成敗されたことはやむを得ないが、源次郎の進退は保障すると龍伯・少将が繰り返し伝えているのに、なお籠城していると指摘する。家中や加治木・吉田の者に神文血判どおり城を出て奉公させ、主人への加勢、親子夫婦間の悪事、食物・通用などを禁じて家中を統制し、山口勘兵衛尉を通じた和談に応じるよう諭す。
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(慶長四年)八月六日 / 冊子 420~421頁
島津義弘が伊集院源次郎に、内府使者寺沢志摩守の下向が予定されているので熟慮するよう求める。幸侃が悪心ゆえ成敗されたことはやむを得ないが、源次郎の進退は保障すると龍伯・少将が繰り返し伝えているのに、なお籠城していると指摘する。家中や加治木・吉田の者に神文血判どおり城を出て奉公させ、主人への加勢、親子夫婦間の悪事、食物・通用などを禁じて家中を統制し、山口勘兵衛尉を通じた和談に応じるよう諭す。
文禄3年3月10日 / 冊子 770~771頁
義弘が、又八郎の秀吉への謁見が済んだかを尋ね、石田三成の後押しにより近日中に実現することを待ち望む。謁見後は高麗へ渡る予定で、若輩の在陣を支える供衆の手配も頼む。 又八郎は生来の下戸なので、座興を損ねても酒を一切口にさせないよう強く依頼する。源次郎の健康にも触れた、父親としての細かな心遣いが際立つ書状。
(慶長元年)四月五日 / 冊子 15頁
島津義弘が宰相殿へ、新正八幡の屋根葺板について雨露に濡れないよう手配を求め、祈念の札などへの礼、又八郎の帰朝を喜んで酒樽一荷を贈ることを伝えた。伊集院源介の上洛と、帰朝する又八郎を迎えるため國部ぬいを派遣したことを報告する。さらに安住三州から義弘の娘を庄内へ遣わすよう求められた件は、義弘が留守で源次郎も上洛中のため、義弘自身の下向後に対応するとした。父子の星供成就と高麗・京都のため、般若寺別当坊に不動護摩を七日修行させたことも喜んだ書状。
慶長三年十月一日 / 冊子 250頁
慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文。鹿島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八千七百十七とする。これとは別に、戦場で切り捨てた者の数は不明であると付記する。
慶長三年十月一日 / 冊子 255頁
慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文の異本。鹿児島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八百十七とする。首数が他本より少ないものの、参考のため収載したと注記する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 272頁
慶長三年十月朔日の泗川表における討捕首数を隊別に記した注文。鹿児島方一万百八、帖佐方九千五百二十、富隈方八千三百六十、伊集院源次郎手六千五百六十、北郷作左衛門手四千百四十六とし、合計欄には三万八千七百十七、ほかに切捨は数知れずと記す。なお、記載された内訳の算術合計は三万八千六百九十四となる。
年月日未詳 / 冊子 398頁
『島津家久譜』は、伊集院源次郎がなお降参せず楯籠しているため、徳川家康が誅罰の意向を示し、状況見分のため山口勘兵衛尉を薩摩へ下したと記す。あわせて、島津義弘がこの件を告げる書状を発したとして、その書状を次に掲げる導入記事である。
(慶長四年)七月五日 / 冊子 398頁
島津義弘が又八郎に、伊集院源次郎がなお楯籠し、内府徳川家康は従わなければ成敗する意向であると知らせる。現地の状況を聞くため山口勘兵衛尉が派遣されたので、宿所など格別にもてなし、喜入大炊助の案内を受けて応接するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 398~399頁
『島津家久譜』は、伊集院源次郎の楯籠に際し、島津忠恒が内大臣徳川家康から書状・使節と縮・帷子・矢根などを受け、伊那図書頭の奉書に従って謹んで拝受したことを記す。これは忠恒一身の誉れにとどまらず、他国にも聞こえる名誉であると評価する。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399頁
徳川家康が薩摩少将に、帰国後しばらく書状を送らなかったため使者を遣わすと述べる。伊集院源次郎がなお城を抱えていると聞き、譜代家人として自由な振る舞いであるから早急に成敗すべきだとしつつ、軍勢に手違いがないよう慎重な処置を求め、委細は使者の口上に託す。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399頁
伊那令成が薩摩少将方に、帰国後の見舞いに対する使札と、縮百端・帷子百・矢根二千の音信を受けた旨を述べる。伊集院源次郎がなお城に楯籠していることを内府徳川家康が懸念しており、下城しなければ早々に成敗すること、必要なら軍勢を随時出すことを伝え、委細は山口勘兵衛尉の口上に託す。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399頁
『嶋津氏文書』所収の徳川家康書状について、本文巻六のNo.789と同文であるため本文を省略した旨を記す。御譜中を用いて写した二通であり、重複になるとの注記を付す。内容は、伊集院源次郎の籠城を早急に成敗し、軍勢の扱いに手違いがないよう求める書状である。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399頁
伊那令成の書状について、本文巻六のNo.790と同文であるため本文を省略した旨を記す。内容は、縮百端・帷子百・矢根二千の音信を受け、伊集院源次郎が下城しなければ成敗すること、必要に応じて軍勢を出すことを伝えた書状である。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399頁
徳川家康が伊東豊後守に、伊集院源次郎がなお居城を抱えていると聞いたため、島津父子への見廻使者を派遣したと知らせる。龍伯父子の指示に従い、伊東自身も現地で奔走することが肝要だと求め、後便を期す。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399~400頁
寺沢正成が薩摩少将方に、伊集院源次郎がなお楯籠しているため、内府徳川家康が見廻として山口勘兵衛を派遣したと知らせ、使者到着後に現地事情を説明するよう求める。自身も下向する意向を述べ、源次郎の弟たちは近日佐竹方へ送られる予定で、兵庫殿とも相談したと伝える。
(慶長四年)七月十日 / 冊子 400~401頁
島津義久が羽柴左近太夫に、度々の使書への返礼が遅れたことを詫び、又八郎と相談して書状を送る。伊集院源次郎がなお楯籠しているため行動に移る覚悟だが、島津方で対処できるので援軍は当面見合わせてよいと伝え、京都での支援を求める。委細は忠恒に報告させるとし、銀子二枚を贈る。
(慶長四年)七月十六日 / 冊子 403頁
徳川家康が薩摩少将に、六月二十四日付の書状を受け、源次郎方の先手が楯籠した城を即時に攻め破り、数百人を討ち取った戦果を称賛する。引き続き油断なく行動し、源次郎の居城攻略も近いと見込みつつ、味方の人数を損なわないよう慎重に進めることを求める。
(慶長四年)七月十六日 / 冊子 403~405頁
島津義弘が少将に、伊集院源次郎の兄弟と母を佐竹方へ預け、近日中に関東へ送る予定を知らせる。山田城攻略や高原境・都之城周辺での勝利と多数の討取を称え、源次郎への対処を論じる一方、国元の情勢、兵糧・年貢収納、使者派遣、関係者の処遇などを詳しく指示し、今後も油断なく処置するよう求める。
(慶長四年)七月廿四日 / 冊子 405~406頁
立花親成が薩摩少将に、使僧への厚遇に謝意を示す。伊集院源次郎の楯籠に対して少人数を率いて出陣する意向を度々申し入れたが制止されたため、島津方が城中を徐々に弱らせて自落させる方針を尊重すると述べる。内府の見廻使者派遣にも触れ、必要時にはいつでも支援すると伝える。
(慶長四年)七月 / 冊子 408頁
島津義久が毛利輝元に、度々の使札に謝意を示し、伊集院源次郎がなお楯籠しているため一挙に攻める予定だったが諸事情で見合わせ、八月には行動する覚悟だと伝える。内府の使者が下向した機会に相談して処置する意向を述べ、国元について心配は不要だとする。
(慶長四年)七月 / 冊子 409頁
島津義久書状案について、本文巻六のNo.813と同文であるため本文を省略した旨を記す。内容は、源次郎の楯籠への軍事行動を一時見合わせ、内府使者の下向を機に処置を相談することを毛利輝元へ伝える書状である。
年月日未詳 / 冊子 415頁
島津義久譜は、内大臣徳川家康が山口勘兵衛尉直友を当地へ派遣して和睦を仲介させたが、伊集院源次郎には偽言が多く信義が不足していたため成立しなかったと記す。その経緯を家康へ報告すると返書が与えられたとし、九月晦日付の返書は後文に収録すると注記する。
年月日未詳 / 冊子 415~416頁
上野隼人は、伊集院幸侃の成敗後、源次郎が庄内十二城に籠もって島津家に反したため、慶長四年六月に軍勢が催された経過を回想する。須木を発して村尾源左衛門入道・長介が幟を整え、上野隼人と逆瀬川豊前が二組を率い、夜道で高崎から庄内へ入り、楠牟礼口・津間霧島などで戦った。火矢・鉄砲・濃霧・風雨のなか敵城へ攻め込み、負傷者を出しつつ戦い、のち志和地城に対して塀・堀などを構えて長期に備えたという。
(慶長四年)八月一日 / 冊子 417頁
島津義久が兵庫入に、庄内へ一挙に対処するつもりだったところ内府の使者が下向し、まず諸城の下城を源次郎へ命じたと伝える。上方の威光によって各方が承知し和睦の見込みはあるが、相手方はたびたび主張を変えるため結着を疑い、近日中に決着すれば早使いで知らせるとする。京都の情勢への配慮を求め、少量の贈物を添える。
(慶長四年)八月十日 / 冊子 425頁
島津義久が小西殿に、高麗から引き続き在京し、このほど帰国した長年の辛労をねぎらう。源次郎の楯籠に関して度々の書状と瀧七右衛門の二度の派遣に謝し、討伐を企図したところ内府の使者が下着し、まず下城を勧告するよう命じられたと説明する。源次郎側も上方を恐れて申し出た現状なので、国元について心配はいらないと伝える。
(慶長四年)八月十九日 / 冊子 428頁
島津義久が筑紫上水正に、芳書への謝意を示し、京都で対談できたことは今も本望であると述べる。源次郎の楯籠について内府の使者が派遣され、現在は調停の最中であり、きっと円満に成り行くであろうから国元のことは心配に及ばないと伝え、詳細を使者に託す。
(慶長四年)八月廿日 / 冊子 428頁
徳川家康が伊東氏部太夫に、先にも書状を送ったが、源次郎が今なお下城しないのは不届きであると伝える。このため寺沢方を差し下したので相談し、自身も出陣して討伐を進めるよう求め、詳細は使者の口上に託す。
(慶長四年)八月廿六日 / 冊子 431頁
島津義久が、庄内との往来を断つよう改めて求める。庄内側から何らかの申し分があったかを尋ね、源次郎から相手へ送られた封書を封じたまま転送してくれたことを重要な配慮として謝す。内容を披見したうえで相談し、福島衆や椛山権右衛門との間でも疎意なく誓紙を交わしているので、今後も連携するよう伝える書状案である。
(慶長四年)九月廿九日 / 冊子 446頁
昭高院如雪道澄が羽柴少将に、当地の様子を詳しく承知して喜び、伊集院源次郎が内府の使者の意向に従い下城へ同意したことを祝う。その後に再び違変があったかを案じつつ、事態が早く望みどおり収まることを願い、当月の祈念巻数と守を進上する。
年月日未詳 / 冊子 447頁
徳川家康が使者の山口勘兵衛尉直友を遠く薩摩へ下して和睦の仲介をさせたが、伊集院源次郎は偽りが多く誠意に乏しかったため和睦が成立しなかった。山口がその事情を家康へ報告し、家康が返書を与えた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 449頁
伊集院源次郎が偽りの心を抱き誠実さに欠けたため、山口勘兵衛尉直友による和睦仲介は成立せず、山口は帰京した。税所越前入道休心と市来織部佑家政を海陸の護衛として付け、遠来した山口への謝礼の言葉を託したと記す。
年月日未詳 / 冊子 450頁
山口直友の勧めにより伊集院源次郎はいったん降参を承諾したが、再び翻意したため、山口は京へ戻って経緯を報告した。内府はこれを不快とし、増田長盛を通じて源次郎と母らに死罪を示して威圧したため、源次郎方は城を下りて親族の命を保つ方向へ傾き、長盛が島津方へ書状を送ったと記す。
(慶長四年)十月朔日 / 冊子 450頁
増田長盛が羽柴薩摩少将に、見舞の連絡が遅れたことを詫び、小袖五領を贈る。内府の使者に源次郎がいったん了承しながら翻意したことは遺憾だが、兄弟や妻子が迷惑するため、使者の仲介どおり事態を収め、源次郎が下城するなら赦免するのがよいと述べる。
年月日未詳 / 冊子 470頁
内大臣徳川家康が、命令に応じない伊集院源次郎忠真を責めるため、使者の山口勘兵衛尉直友を再び薩摩へ下向させた記事。その際、島津忠恒に衣服一領を与え、続いてその書状を掲げると記す。
(慶長四年)十二月晦日 / 冊子 480頁
新納旅庵長住が伊勢兵部少輔の側近へ、山口勘兵衛が再び庄内へ下向することを知らせる。源次郎が事情に反して軽率な返答をすれば本人のためにならないため、一人を派遣して様子を申したいとの意向が織田之母から伊集院図書へ伝えられ、山口と受取方の双方へ書状が付されたという。旅庵は伊集院図書からも連絡するよう求められ、急な使者の下向に合わせて大坂から書状を送るので、この事情を心得るよう伝える。
(慶長五年)正月十七日 / 冊子 498~499頁
島津義久(龍伯)が又八郎に、山口勘兵衛が十三日に庄内へ赴き、十五日夜に帰宅したと知らせる。山口が源次郎へ上意を伝え、源次郎は異議なく従うと答えたという。山口が又八郎のもとへ向かうのをいったん引き留めたため、又八郎自身が来て事情を聞くよう求め、来なければ山口を派遣するとする。併せて境目の用心と相の垣への備え、必要に応じて利安前図書頭と相談することを命じる。
元禄十四年八月廿三日 / 冊子 499頁
児玉利言が、慶長四年の島津忠恒による庄内出陣の際、先祖の児玉筑後守が供を務め、伊集院源次郎の家臣渡辺茂右衛門を槍で討ち取ったこと、そのほかにも軍功を重ねたと伝承される旨を申し立てた申状。
年月日未詳 / 冊子 536頁
慶長五年六月十七日、徳川家康が上杉景勝追討のため伏見から出陣するに際し、鞍馬にいた伊集院源次郎の母と弟を引き渡すよう命令があり、これを受けて両名を薩摩へ下したことを記す。
五月五日 / 冊子 540~541頁
福崎重親が、長寿老の着船と伏見到着、自身の五月中の下向予定を知らせる一方、当地で疫病が流行し同行の夫丸も病んでいると報じる。源次郎母の身柄を当地に留めるか帰国させるかは将来の首尾を考えて十分相談するよう求め、処罰者への取りなし、寺家の面目、神五郎の籠居などについて、罪の軽重と遠近を慎重に判断するよう諭す。
年月日未詳 / 冊子 551頁
No.1096と同文の記事であるため本文を省略する。内容は、徳川家康が上杉景勝追討のため伏見から出陣する際、鞍馬にいた伊集院源次郎の母と弟を引き渡すよう命じ、両名を薩摩へ下したというもの。
年月日未詳 / 冊子 612頁
島津義弘(惟新)の家臣鹿屋三右衛門が、関ヶ原から肥後路を経て帰国した経験と現地庄屋との旧交を生かし、八代方面に集結した黒田・加藤・龍造寺・立花らの兵数・軍法を探る。庄屋から、現地兵が少ないこと、伊集院源次郎が密使を送って船を求めたこと、海岸警備の必要、開戦時には肥後兵の多くが薩摩方へ属し得るとの情報を得て川上三河へ報告する。
年月日未詳 / 冊子 836頁
旧記は、慶長七年八月十七日に伊集院源次郎忠真が島津忠恒の命で成敗されたことを簡潔に記す。
(慶長七年)九月五日 / 冊子 845-846頁
島津惟新が忠恒へ、伊集院忠真成敗の事情を京都へ報告する使者として旅庵を立てる案を検討する。和久某や富隈衆が旅庵の過去の不首尾を理由に反対する一方、伊集院源次郎成敗の様子をよく知る旅庵が適任とも述べ、別人選も含め慎重に定めるよう進言した。
二月十日 / 冊子 375~376頁
近衛前久が伯老(龍伯)に、往復書状が届いていない事情を確かめ、使者永文の扱い、上京後の返書、幸侃・源次郎・又八郎をめぐる相談などについて指示と見解を伝えた書状。
七月四日 / 冊子 376頁
近衛信尹が、三月中旬以来音信が途絶えていることを述べ、幸侃の内儀・後家・子らや北郷與右衛門尉の言い分、源次郎・又八郎への対応をめぐる対立について事情と判断を伝えた書状。
三月十五日 / 冊子 36頁
薩摩からの注進を早く知って喜び、伊集院源次郎の望みに関わる身上も無事であることを島津義弘の手柄と評価し、近日の帰国を期待した書状。
延徳二年三月廿二日 / 冊子 548頁
延徳二年三月二十二日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者名と各人の疋数を列挙した記録。
慶長三年十月一日 / 冊子 255頁
慶長三年十月一日付の泗川表討捕首注文。本冊では本文がNo.489の文書と同文であるため省略されており、鹿島・帖佐・富隈の各方衆などによる討捕首数と合計三万八千七百十七を記す同注文を参照する。
(慶長四年)七月十六日 / 冊子 402~403頁
島津義久が寺沢志摩守・小西摂津守に、長期の在洛をねぎらい、庄内の件で度々使書を受けたことに謝意を示す。来月には行動を起こす覚悟である一方、近隣諸勢から申し出のあった人数の合力は当面見合わせるよう求め、島津方で対処できるので心配には及ばないと伝える。
(慶長四年)九月朔日 / 冊子 431~433頁
島津義弘(惟新)が又八郎(忠恒)へ、庄内出陣が長引けば肥後・筑後の風説と重なり危険となるため、内府の調停も見極めて慎重に対処するよう諭した書状。愛宕へ大百味を奉納して祈念・占いを行い、敵方が当月放火するとの占いにも警戒を促す。前年五島へ着船した唐人に関わる大明からの使者船が、日本人・唐人約百五十人の海賊に襲われ、唐人約四十人が殺され、残りが島へ置き去りにされた事件を述べる。生存者の訴えを踏まえ、船と海賊頭領を引き渡せば明へ帰還して日本の法度を伝え、翌年以降の商売往来につながるとの見通しを内府へ報告した。