関東御教書
年月日未詳 / 冊子 219~220頁
法橋栄尊の建長五年七月十日付譲状に基づき、太郎佐範に五ヶ所の名主職を領掌させることを認めた関東御教書。比志嶋・河田・西俣などの配分先を確認し、後日の改易を避けるため御判を求めた経緯を含む。
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年月日未詳 / 冊子 219~220頁
法橋栄尊の建長五年七月十日付譲状に基づき、太郎佐範に五ヶ所の名主職を領掌させることを認めた関東御教書。比志嶋・河田・西俣などの配分先を確認し、後日の改易を避けるため御判を求めた経緯を含む。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 687~688頁
高麗在番衆と各使者に、大友吉統が小西行長の守る拠点を十分に援助せず、敵情を確かめないまま退却したことを「臆病」として厳しく告知した覚書。豊臣秀吉が、九州征伐時にも大友氏救援のため自ら出馬した経緯を挙げ、吉統の所領没収と毛利輝元への預け置きを命じる一方、その子には扶持を与えて加藤清正の配下に置く方針を示す。朝鮮出兵中の軍紀維持と、大友氏改易の処分過程を具体的に伝える重要史料。
文禄五年正月十四日 / 冊子 1頁
島津忠恒が伊集院下野入道へ、国元の改易と諸侍の知行支配には自分が不案内であるため、在国する龍伯・武庫が判断すると伝えた。両者が同意しない場合にも忠恒が取り成して知行を宛行うと約し、引き続き忠節を尽くすよう求めた証状。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が源七郎へ、薩州鹿籠内の別府村百六十石九斗九升を含む合計五百石の加増を示した目録。太閤の命による分国検地・改易で旧領を離れることへの配慮として、知行について龍伯・武庫と相談し、特に念を入れて取り計らうと伝える。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が入来院又六へ、改易によって代々相伝の領地を離れ、打ち上げた田数にも不足があって迷惑であろうと述べた。知行については龍伯・武庫と相談して特に念を入れて処置するため、心配しないよう伝えた証状。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が喜入摂津守へ、改易によって代々相伝の領地を離れ、打ち上げた田数にも不足があって迷惑であろうと述べた。知行については龍伯・武庫と相談して特に念を入れて処置するため、心配しないよう伝えた証状。
文禄五年正月廿二日 / 冊子 3頁
島津忠恒が新納五郎右衛門尉へ、国元の改易と諸侍の知行支配には自分が不案内であるため龍伯・武庫と相談すると述べ、これまで示してきた誠実な奉公を忘れていないので、特に念を入れて知行を宛行うと約し、なお忠節を尽くすよう求めた証状。
文禄五年五月二日 / 冊子 22頁
島津忠恒が新納武蔵入道へ、国元の改易に伴う諸侍の知行支配は自分には案内がなく不審もあるが、龍伯(島津義久)と相談して処理すると伝える。新納の長年の忠節を評価し、油断があっても両殿の前で申し調えて身上・進退が安泰となるよう必ず取り計らうと保証した証状。
年月日未詳 / 冊子 305頁
得能氏記録。越後堀家で堀忠俊と家臣堀直寄・堀監物らの間に権威争いと讒言が生じ、家中統制が崩れた経緯を記す。幕府の裁定、改易・追放、関係者の処分や後日の消息を詳述し、家臣の忠節と主家統治を論じる。
慶長十六年六月十六日 / 冊子 339頁
慶長十六年六月十六日、平田宗親が忠誠誓約に先立って記した起請文前書。太郎左衛門の違背、親類・庄内衆との関係、過去の書状・改易、赦免や忠節の条件を詳述する。
(慶長十八年)十一月十六日 / 冊子 427頁
慶長十八年十一月十六日、稲葉典通が羽柴陸奥守へ、高橋右近の法度違反による入城・改易、家財・知行の調査、領民への年貢賦課と兵糧支給について報じ、近辺での協力を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 695頁
福島正則の城郭修築が幕府の糾問を受け、いったん弁明が認められたものの疑念が残り、家久が伊勢貞昌を通じて本多正純へ事情を伝え、その後秀忠が正則を改易して出羽へ移した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 785頁
島津家久が九月に鹿児島城を発して江戸へ赴き、江戸で越年したことを記す。紀伊中納言・越前宰相や本多正純をめぐる風説に続き、徳川秀忠の日光社参帰途に宇都宮城で企てが露見し、本多正純が処罰・改易され、その所領が功臣に与えられた経緯を述べる島津家久譜の記事。
(寛永七年)九月廿四日 / 冊子 171~172頁
比志島宮内の改易前後に、反抗・野心を疑われた者たちから同心を求められたが、道理に合わないため一貫して拒んだと述べる弁明の覚書。鹿児島の人数、町への配置、上洛時の進言、密事の注進、船での逃亡情報など複数の案件を列挙し、自身の忠節を説明する。
年月日未詳 / 冊子 273頁
寛永九年、肥後侯加藤忠広の処分と改易をめぐり流言が多発し、島津家久が兵を備えようとしたため、伊勢貞昌に事状を察させ、貞昌が過大な兵力動員を控えるよう上申したことを記す児玉利昌譜の記事。
(寛永九年)六月二日 / 冊子 273~274頁
島津久元と伊勢貞昌が、加藤忠広父子の糾問・配謫と肥後国改易の経緯を国元に報じ、肥後国内の騒動に乗じた掠奪や往還を厳禁し、肥後からの逃亡者を受け入れないよう指示した。また山田民部少輔を出水に在宿させ、地頭不在の大口へ鹿児島から見回役を遣わすよう求めた連署書状。
寛永九年六月廿一日 / 冊子 286頁
加藤忠広父子の改易・配謫と肥後引継ぎに関する覚書。加藤右馬頭の早打、忠広父子への処分申渡し、忠広の出羽庄内・豊後守の飛騨への移送、幕府上使・目付衆の江戸出立、熊本・八代等の城番や案内役の配置を列記し、細川忠利が署判して喜入摂津守・樺山美濃守へ送ったもの。
寛永九年八月十四日 / 冊子 303頁
喜入忠続が琉球三司官へ示した条書。家久の江戸在府と将軍家での首尾、前年に新納・最上を介して行った唐交易交渉、借銀返済のための銀子送付、返済不調時の知行召上げ、冠船渡海、鹿二十頭の送付、加藤忠広父子の改易・流罪を伝えた。
寛永十八年二月廿四日 / 冊子 149~150頁
島津光久が留守中の火災対応と江戸への注進方法を定めた条書。火災時には門外へ人を出さず、屋根に見張りを置き、延焼が近づけば家財を搬出すること、奥方では混乱の有無に応じて女子衆を整然と避難させることを命じる。江戸の様子は年六度ほど報告し、将軍からの命令や緊急の注進は随時伝え、城内で誕生があればその夜から急報する一方、未確定の雑説は報告せず、改易など落着した事実に限るよう定め、新納右衛門佐久詮と相談して処理させている。
年月日未詳 / 冊子 3~4頁/原整理番号 4
『元寛日記』六月四日条は、加藤忠広改易に至る風聞と、謀叛を疑わせる書状をめぐる詮議の経過を記す。あわせて肥後の城受取・警固のため酒井忠勝ら上使と黒田・鍋島をはじめとする諸大名を派遣する態勢を列挙する。
6月21日 / 冊子 13頁/原整理番号 12
谷口重成・西田時通が、加藤肥後守改易に伴い必要時には薩摩からも人数を出すとの命を若衆中へ伝え、伊東祐慶に求めた馬の手配状況を報告する。肥後・球磨では商人から異変を聞かないものの、人吉で橋普請材木を日々引いているとし、新情報があれば直ちに注進すると五代友光へ申し送る。
(寛永9年)6月21日 / 冊子 13~14頁/原整理番号 13
江戸を六月四日に出立した右馬頭の早打が十六日に佐土原へ着いたこと、加藤肥後守父子の改易が五月二十九日に酒井雅楽頭の屋敷で申し渡されたことを記す。肥後守は酒井宮内預けで出羽庄内へ、豊後守は金森出雲守預けで飛騨へとする。上使・目付の六月十日江戸出立を町の伝聞として伝え、加藤右馬頭の案内と、隈本・八代の城番予定者も列挙する情報覚書。
寛永9年6月22日 / 冊子 14~15頁/原整理番号 14
将軍の政道と出馬覚悟、関ヶ原・大坂陣以来の加藤・前田家に関する風聞、加藤忠広改易を受けた薩摩側の対応を列記する。乗馬・供人数を知行高別に定め、武具指出・検分、外城衆への鉄砲玉薬支給、馬印提出などを整え、諸士の軍役を公平にするよう求める。
7月14日 / 冊子 17頁/原整理番号 18
五代友光が、加藤肥後守改易後の熊本城受取に江戸から大名十人ほど・二、三万人が下向すると伝え、三原重庸の下向と加久藤の警戒を報じる。指物改定に必要な鶏羽を在郷から集めて上送するよう依頼し、鎌・鉈の調達も重ねて求める。
年月日未詳 / 冊子 37~38頁/原整理番号 40
『寛明日記』十二月条。忠長の改易と上州高崎への配流、朝倉筑後守の和州郡山・奥津河内守の奥州由利への配所を記す。駿府は番城とし、朝倉の旧居遠州掛川を永井信濃守・本多下総守・丹羽式部少輔が請け取り、郎従妻子は四方に分散したという。駿州田中城は松平忠重拝領と伝える。季安の按語は、同年六月二十二日条の国替えに関する江戸町説も参照するよう述べる。
4月14日 / 冊子 213頁/原整理番号 137
切支丹として改易された原主水・小笠原権之丞らが名字・姿を変えて潜伏しないよう、領内での取締りを求める連署書状。
年月日未詳 / 冊子 370頁/原整理番号 451
『藤掛集書』は、原城落去・破却後、諸将が三月中旬に帰陣し、松平伊豆守信綱・戸田左門氏鉄が天草・長崎を仕置して肥前・筑前・豊前を巡見し、小倉へ九州諸将を召集したと記す。島原一揆を招いた領国統治の責任から松倉家を改易し父子・兄弟を諸家預けとし、寺沢兵庫頭から天草四万石を召し上げた。さらに軍法に背いた城乗込みをめぐり鍋島信州と梶原父子らを江戸で吟味し、閉門後に赦免した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 530頁
島津義久が、忠辰は天下に不忠を尽くし、西征で一矢の戦功もなく、かえって外城を狙う謀りをしたため罪を容赦できないと断じた記事。絶家後は子・孫にも再興させないと述べ、忠辰家断絶を正当化する島津家側の論理を示す。
(慶長十八年)十一月十一日 / 冊子 423頁
慶長十八年十一月十一日、島津家久が相良左兵衛佐へ、高橋右近が法度に背いたため、稲葉彦六らとその居城・知行・家財を改め、関係者を領内へ入れて詳しい状況を報告するよう求めた書状案。
年月日未詳 / 冊子 273頁
六月朔日、在府の諸大名が登営し、加藤忠広の子・豊後守の不臣謀略と父子に対する糾問結果が告げられたことを記す。子は死一等を減じて金森出雲守に預けられ飛騨国へ配謫され、父忠広は肥後国を没収され、羽州庄内で酒井宮内大輔に預けられて一万石を賜った。さらに家久に薩摩・肥後国境の妨行を禁ずる命令が下ったとする家久譜の記事。
(寛永九年)六月五日 / 冊子 275頁
島津家久が、島津光久の男子誕生祝いに使者と太刀一腰・馬一匹が届いたことを喜び、加藤忠広父子の『無分別之企』による罪科と、父の出羽国、子の飛騨国への配謫を報じ、詳細は帰国時に直接話すと述べた書状。
(寛永九年)六月六日 / 冊子 276頁
島津家久が仮名書きで、受取人側の繁栄と息災を喜び、使者への満足を述べた。また、加藤氏の一件についていろいろと心を配ったが事態が決着して安堵したこと、母・妹にも同様に伝えること、近く帰国して話すと述べた書状。
(寛永九年)六月十三日 / 冊子 285頁
水野勝成ら五名が島津家久に、加藤忠広の領国召上げに伴い加藤家中の者が退去するため、彼らが薩摩領内へ来た場合には宿を貸して休ませても差し支えない旨を伝えた連署書状。追而書では家久父子の無事を承知したことも述べる。
寛永九年六月十六日 / 冊子 285~286頁
細川忠利が島津家久に、加藤忠広旧領への入国命令を受けて江戸を発つ予定、城の受取り・掃除・上使到着・国境警備等の手配を報じた。また加藤忠広が出羽庄内で酒井宮内大輔預け、その子豊後守が飛騨で金森出雲守預けとなったこと、幕府上使・目付衆の出立予定や肥後国内の引継ぎ要員を詳報した書状。
(寛永九年)十一月十五日 / 冊子 324~325頁
島津久元・伊勢貞昌が、駿河大納言徳川忠長の処分について報じた連署書状。忠長が高崎へ移され、付属の者五人が同行し、家臣の知行・屋敷が召し上げられたことなどを伝え、今後の処置と世上の評判を案じた。
三月廿八日 / 冊子 42頁
鎌田政近と比志島国貞が、熊嶽に対する諸所からの勧進・寄進の継続を保証した連署証状。領国内の制度改定以来、寄進が途絶えた所があるとの申し立てを受け、旧来どおり復活させ、異議を差し挟まないことを認める。
6月17日 / 冊子 12~13頁/原整理番号 11
白坂篤豊が、薩摩の麦作が良好との報を喜ぶ一方、上方では五月中旬以来の日照りで田畠が枯れたと伝える。加藤肥後守父子の預け先と肥後へ下る上使を報じ、帰国後の軍装用意や鎌田源八から届いた書状・鹿皮への謝意を谷口重成・西田時通へ申し送る。
天正16年(1588)・文禄元年(1592)・寛永9年(1632) / 冊子 389~390頁/原整理番号 3
藤原姓菊池氏の末流とする志岐氏の略譜。警固太郎経隆の嫡男経政を山鹿太夫兵藤四郎の嫡流とし、肥前国志岐六箇浦を領した重弘、志岐城主でのち入道麟泉と号した鎮経、親重へ系線をつなぐ。親重は天正十六年、加藤清正・小西行長に志岐城を攻められて降伏し、豊臣秀吉の命によって清正の従軍として肥後へ移り、文禄元年には清正に従って朝鮮・高麗へ渡海し、清正から四百二十石を与えられた。親重の子親益・親昌は島津義虎の娘を母とし、寛永九年に清正嫡男の肥後守が没落すると、親昌は肥後を去って薩摩へ来住し家臣となった。
天正十四年~元和二年(高橋元種主要記事)、慶長十二年~宝永年間(後続系譜) / 冊子 501~506頁/原整理番号 23
高橋氏の出自を漢高祖・後漢霊帝の後裔から大蔵春実へつなぐ伝承で説き、筑前諸郡を領した大蔵姓高橋家に秋月氏から種時を迎え、顕種・元種へ続く系譜と軍歴を記す。顕種は大友方の攻撃を受けた筑前宝満城を守り、後に和睦した。元種は幼少で秋月種実の養子となり、天正十四年の島津勢による筑前攻略では父とともに大友勢を破り、七月二十七日の岩屋城落城・高橋紹運討死後、宝満城などをめぐる軍事行動に関与した。慶長四年、島津忠恒が伊集院忠真を都城で攻めた際には徳川家康から救援準備を命じられ、翌関ヶ原では当初西軍に属したが、福原・垣見・熊谷・木村らの処置をめぐり秋月種長・相良頼房らと共謀し、垣見・熊谷・木村の首を家康へ献じて本領安堵を得たとする。しかし同年冬、秀忠の命で領地を没収され奥州棚倉へ移り、元和二年十月九日に三十七歳で没した。後継の種直は慶長十二年に日州臼杵郡縣城で生まれ、旧臣の助力を受けて日州縣・高岡などに住み、光久の恩許により高橋姓を復した。以後の種長・種次・種栄・種良らについて、婚姻、知行、江戸勤仕、地頭職、没年・法名を宝永期まで載せる。
永仁五年七月日 / 冊子 382頁
安楽寺領日向国馬関田の定補預所職に左兵衛尉惟宗友時を補任し、庄務を執行して寺役以下の年貢公事を納め、違失があれば改易すると定めた下文。
永仁七年二月一日 / 冊子 388頁
島津庄大隅方鹿屋院の弁済使職に沙弥観阿を補任し、年貢以下の恒例・臨時公事を納め、背けば改易すると定めた島津庄預所下文。
(文禄2年)6月20日 / 冊子 708頁
豊後国が秀吉の蔵入地となった直後、百姓が逃散していることを重大な違反とし、直ちに元の村へ還住させるよう命じる。 帰村しない百姓だけでなく、逃散者を匿う村や領主も処罰するとして、分領内へ厳しく触れさせた、改易後の豊後支配と農民統制を示す朱印状。
慶長九年十一月廿七日 / 冊子 944頁
島津忠恒と惟新義弘が連署し、天下統一後の改易・勘落で大伽藍の修理が困難になった妙円寺を惟新の菩提所と定め、知行五百石を付し、将来も変更せず役儀を免除すると証した。
(寛永九年)六月廿五日 / 冊子 289~291頁
新納忠清が、加藤忠広改易後の肥後情勢を探るため現地へ人を遣わし、熊本城受取衆が未確定であること、竹中采女正の使者、城内の掃除・普請、蔵米、加藤右馬允や城明渡しをめぐる風説、隣国からの偵察、情報収集者への日当銀などを逐条報告し、調査費用の銀子支給を求めた書状。
(寛永九年)七月廿六日 / 冊子 298~299頁
島津久元と伊勢貞昌が、加藤忠広改易後の熊本城受渡しと上使到着、相良・加藤右馬頭・大口・山野・出水・綾・高岡等からの注進を確認し、早打への礼を命じた。また肥後へ向かう諸勢への兵糧米貸与、山川・頴娃方面に着岸した唐船への対応、喜入久正没後の国分地頭職と喜入久右衛門尉の鹿児島移転などを指示した連署書状。
年月日未詳 / 冊子 214~215頁
島津忠栄の譜記事。天正二年に忠清の弟として生まれ、豊臣秀吉の西征時に人質となって細川幽斎に預けられ、小倉に滞在した。忠辰改易後は佐土原で島津豊久を頼り、その姉を妻としたが、関ヶ原後の家臣一揆を逃れて国府へ移り、龍伯公から母の領地を与えられた。高原・飯野・牛根などの地頭を務め、寛永十九年九月晦日に牛根で六十九歳で没した。
(寛文七年)七月十六日・十七日 / 冊子 537頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1218
島津図書が豊臣譜の誤記を指摘する覚書二通。島津又七郎忠豊と島津又太郎忠辰を区別し、出水領主忠辰の父系・朱印と、義弘弟家久の子忠豊の佐土原領・朝鮮戦功・関ヶ原戦死・安芸久雄相続を挙げる。又七改易という誤記の訂正を弘文院へ求めるが、南浦文集等に基づき旧板で世間に流布したものは直せないとの事情があり、今後板本を改めるよう求める。朝鮮感状と太閤朱印写など三通を渡す。七月十六日・十七日付。末尾には二通の正本が江戸上屋敷評定所にあるとの注と、九月八日に持ち下された覚書二通の内との付記がある。
(寛文十年)八月廿三日 / 冊子 567~568頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1344
島津久通が、日本通鑑編纂に際して林春斎に示した島津家関係記事の訂正意見を記した覚書。源頼朝から薩摩・大隅・日向を与えられたとの家伝、太平記にみえる鎌倉で新田義貞方へ降参した島津四郎の比定、朝鮮で軍振るわず改易された島津又太郎を豊臣譜が島津又七郎とした誤りの三点について、誤記が通鑑に残れば島津家の悪名となるため訂正を求めた。
年月日未詳 / 冊子 18頁/原整理番号 無番号
川上氏略系図は、久林から久如・久盛へ続く系譜と、久盛の生年・家督事情を記す。兄久如の死後、幼少の千徳丸に代わって久盛が踊地頭職の番代となり、加藤忠広改易に伴う肥後出兵のため鹿児島で軍勢を催した経緯を載せる。
年月日未詳 / 冊子 19~20頁/原整理番号 23
伊地知季安が、志岐氏・甲斐氏らが加藤家に仕えた後、加藤忠広改易を契機に薩摩へ来住して島津家・新納家・伊地知家へ仕えた由緒を考証する。肥後が治まった後も薩摩側が軍勢賦を怠らなかったことを、季安自身に連なる家臣系譜と結び付けて記す。