伊勢如貴貞知書状
(慶長元年)三月十日 / 冊子 12頁
友枕斎如貴が伊勢弥九郎へ新年の祝意を述べ、帰朝命令が出て近日上洛する見込みを喜び、迎えに出て祝意を伝えたいとした。前年十二月二十三日付書状を受領し、在番中の無事を喜び、贈られた綸子一巻への礼を述べる。さらに聖門様への音信と依頼された手本を送ること、伏見にいる武庫が大閤から御殿を拝領したことを伝え、ゆかり二具・御筆五対を祝儀として進上した書状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
68 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
(慶長元年)三月十日 / 冊子 12頁
友枕斎如貴が伊勢弥九郎へ新年の祝意を述べ、帰朝命令が出て近日上洛する見込みを喜び、迎えに出て祝意を伝えたいとした。前年十二月二十三日付書状を受領し、在番中の無事を喜び、贈られた綸子一巻への礼を述べる。さらに聖門様への音信と依頼された手本を送ること、伏見にいる武庫が大閤から御殿を拝領したことを伝え、ゆかり二具・御筆五対を祝儀として進上した書状。
(慶長元年)六月二日 / 冊子 27頁
友松斎如貴が伊勢弥九郎へ、現地が無事に整い帰朝も近いと聞いて待ち望み、長期在陣の辛労とたびたびの手柄が太閤の耳に達したことを名誉と称えた。縮一端の進上と返礼品について伝え、途中の雨に備えて傘を怠らぬよう人々に申し含めること、銀子十両への礼を述べた。安元の様子は本田源右衛門が説明するとし、取り成しを頼んだ書状。
(慶長二年)二月六日 / 冊子 76頁
伊集院幸侃が伊勢弥九郎へ、忠恒の書状を拝見し、高麗奥への出張に備えて軍衆の渡海を進め、武庫の下向によって遅れていた人数も順次渡すと伝えた書状。返上米については京都での取決めどおり銀子を数量に合わせて上納することなど、軍役と財務の処理を指示する。
(慶長二年)三月十一日 / 冊子 93頁
了斎が伊勢弥九郎方へ、長期在陣の辛労を察し、無沙汰を詫びた書状。武庫が渡海する際に船元まで送り、無事に同道して帰朝することを願っていると伝え、軽微ながら裏袋一つを贈る。
(慶長二年)六月九日 / 冊子 107頁
伊勢如貴が伊勢弥九郎に、長く音信がなく、帰朝すると聞きながら実現していないため安否を案じた書状。武庫の無事の着船を尋ね、幸相が一昨日上洛したこと、自身も奉公を怠らないことを伝える。
(慶長二年)七月十三日 / 冊子 117頁
伊集院幸侃忠棟が伊勢弥九郎に、又八郎の書状を受け、赤国出勢の人数確保について答えた書状。在京衆や軍役免除者もいて二十万石分の人数を整えるのは困難で、小給人衆も千人ほど不足しているため、残る人数を差し渡すよう求める。
(慶長三年)九月十四日 / 冊子 236頁
友枕斎如貴(伊勢貞知)が伊勢弥九郎に、山田弥九郎の書状で現地の無事を知った一方、島津義弘(武庫)の病状を案じて照門に七日間の祈祷を依頼し、祈念の札と守を送ったと伝えた書状。銀子七枚の進上を使者との対面時に披露したこと、諸将の引陣が決まったことを祝い、帰朝時には迎えに出ると述べる。
(慶長三年)十一月三日 / 冊子 274頁
安弥左衛門尉が(慶長三年)十一月三日付で伊勢弥九郎へ出した書状。初めて和泉と同陣した際に受けた懇意と言葉への感謝を述べ、各方面から出た唐人を時を移さず討ち取った働きは日本中に隠れのない比類ない手柄だと称える。帰朝の折には図書頭殿のもとへ参上して直接祝意を述べたいとする。
(慶長三年)十一月十八日 / 冊子 283~284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月十八日付で伊勢弥九郎へ出した書状。蔚山・西生浦の勢が十七日に撤収して無事到着し、この日に出船したこと、竹島・昌原も前日に引き払ったと伝える。順天方面の番船が追い払われたとの風聞を喜び、自身の在所には異変がない一方、見舞いの使者を出せない事情を説明する。
(慶長三年)十一月廿日 / 冊子 284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月廿日付で伊勢弥九郎へ出した書状。順天方面の番船と交戦して味方の船も出たとの知らせを受け、家中の負傷者や現地の様子を案じる。加藤主計頭・黒田氏・鍋島氏が当地へ来たものの急迫した様子ではないと伝え、使者を送れないため、詳しい状況を返信で知らせるよう求める。
(慶長三年)十一月廿八日 / 冊子 299~300頁
北郷忠能が、朝鮮での戦況が有利に運び、天下に名誉が伝わったことと、無事の帰陣を祝う。寒中に引き続き上洛する苦労を気遣い、本来は参上して祝意を述べるべきところ事情により果たせないため、上京を待っているとして、伊勢弥九郎に披露を依頼する。
(慶長四年)十一月廿六日 / 冊子 469~470頁
島津忠豊が伊勢弥九郎に、当地での働きと辛労をねぎらう。本来は参上して申し上げるべきところ、まず飛札を送り、勝利は確実と見込む。今しばらく滞留するなら必ず参謁するとし、現地の状況を報じるよう求める。詳細は鍋倉作右衛門尉に申し含めたと付記する。
文禄4年4月9日 / 冊子 875頁
新納弐右衛門尉が、上洛以来の奉公に感謝し、御前で聞いたことを他言せず、主君に害となる情報は必ず報告すると誓った起請文。世情が変転し親子兄弟が分かれても、他人・他国を頼まず忠節を守るとする。 さらに流行する一向宗へ心を寄せないことも明記する。秘密保持・情報提供・宗教的立場まで具体化した、家臣統制の重要史料。
文禄4年5月24日 / 冊子 884頁
忠清は、帰国して上洛した一行の労苦をねぎらい、島津忠恒がなお在番しているため気遣われると伝える。 漢国と日本の和睦をめぐる使節が目前に来ているとの風聞に触れ、自身の病状は竜伯の薬と養生で快方に向かったと報告する。
文禄五年十一月十九日 / 冊子 53頁
新納忠貞が、現在の指示に背かず忠節を尽くすことを誓い、違背した場合には諸神の罰と地獄の苦患を受けると記した起請文。
(慶長四年)三月十一日 / 冊子 357頁
比志島国貞が、上意により出水へ赴き、異議なく城請けを済ませたことを報告する。出水は予想以上に見事で城もよく造られていると述べ、武庫様が移ることになれば地域も治まるだろうとし、処置を遅延なく決めるよう求める。
五月廿四日 / 冊子 145頁
帰国許可を得て五月十日に国元へ着き安堵したこと、忠恒は合戦場で在番中だが、中国・日本の講和使節が朝鮮へ出されたとの風聞から勝利と早い帰国を期待すると報告した。前年以来の病も龍伯から薬を与えられて半ば回復し、在国療養で全快する見込みだと伝えた書状。
七月廿日 / 冊子 193頁
伊集院忠棟からの相談を受け、翌晩の儀礼で飛鳥井殿へ銀子三枚、取次衆二人へ各百疋を贈ればよいと伝えた。相公が格別に尽力したため何らかの進物が必要ではないかとして、翌日の方針を尋ねた書状。
三月廿三日 / 冊子 367頁
御詠を再三吟味し、初句から結句まで申し上げるべき難点はなく、特に『明け残したる』との表現を称賛した沙弥某書状。
(寛永八年)正月廿八日 / 冊子 249頁
山奉行の内田仲左衛門・大窪半兵衛が、島津又八郎の武芸鍛錬のため竹子鹿倉山を猟場とする願いについて、又八郎の家系と実父島津家久の朝鮮・琉球での軍功などを挙げ、国政への参与を願い上げた上申状写。
年月日未詳 / 冊子 1~3頁
当山国長・楡井頼仲・肝付兼重が薩摩・日向で争った経緯を背景に、島津氏久方の山田弥九郎らの戦闘、横山城・志布志松尾城の攻防、兼重と頼仲の最期を記す。末尾に、頼仲が自害前に書き残した位牌表・辞世の偈頌と和歌を掲げる。
永禄十年十月廿五日 / 冊子 176~177頁
永禄十年十月、菱刈方が三之山へ島津方の襲来を知らせたため、城内が十分に防備を整えたことを記す。島津歳久・義弘・家久らの大軍が城を囲んで攻めたが、米良弥九郎ら城兵が激しく防戦して多数を討ち、島津勢は退却した。島津家がこの通報を恨み、ただちに菱刈征討へ向かったとする日向方の記事。
文禄3年5月7日 / 冊子 784~785頁
義弘が赤塚三右衛門尉の到着を受け、又八郎の秀吉への御目見えが無事に済んだことを祝う。まず石田三成へ礼状を出し、今後も身持ちを油断なく整えるよう命じる。 龍伯の上洛を待つため渡海が延びた事情を確認し、すべて三成の指南に従うこと、伊勢弥九郎以下の供衆にも奉公の心構えを徹底するよう求めた書状。
文禄4年5月20日 / 冊子 881~882頁
義弘は、川上四郎兵衛尉と伊勢弥九郎に特に念を入れて奉公させるよう家久へ指示し、本田助丞らの乗船・船の所在について知らせる。 悪天候で渡海が遅れているが順風を待って出航すると述べ、在番を油断しないこと、伊勢弥八から京都・国元の様子を聞くことも伝える。
(慶長元年)三月九日 / 冊子 11頁
島津義弘が又八郎へ、朝鮮在番衆の辛労をねぎらい、図書頭・石田治部少輔らの供奉、伊勢弥九郎の上洛、光明院・神徳院による渡海祈念について伝えた。さらに、明の勅使来朝に伴い、朝鮮在番衆の各主将は人数を残して帰朝すること、約七百人を伊集院抱節・比志島紀伊守・鎌田出雲守のもとに残し、又八郎らは直接京都へ上ることを指示した。船数を確実に整え、不足時は国元へ連絡すること、残番衆の士気や帰国用の船に配慮し、小西摂津守と相談することなども求めた書状。
(慶長元年)九月十一日 / 冊子 44~45頁
島津義弘が忠恒へ、抱節や紀州・雲州・伊予方面への連絡を頼み、山田弥九郎・野村五郎次郎・村田藤五郎・新納拾郎らの派遣と朱印状送付を知らせた書状。さらに大明勅使来朝後に和議が破れ、秀吉が高麗への再出兵を命じたため、人数・兵糧の差渡しを急ぐよう伝える。
慶長二年六月六日 / 冊子 104頁
雑抄のうち、慶長二年六月六日付の友枕斎如貴から伊勢弥九郎への書状に、宰相が前日に上洛したと記されていることを抄出した記事。
(慶長三年)九月九日 / 冊子 235頁
川上忠智(肱枕)が、前年夏以来の島津義弘の病気と、島津忠恒が医師を招いて療治・祈願に尽くしていることを報告した書状。急使の上洛後、島津義久(竜伯)が伊勢大神宮・多賀大社・愛宕山へ代参や奉納を行い、照門や中性院にも祈祷を依頼した経緯、山田弥九郎の帰還で病状を詳しく把握したこと、護摩祈祷が始まったことを述べ、早期平癒と無事帰朝を願う。
(慶長三年)九月十三日 / 冊子 235~236頁
島津義久(竜伯)が島津忠恒に、山田弥九郎の口上で島津義弘の病気を知り、照門・伊勢大神宮・多賀大社へ祈祷を依頼したので快気するだろうと伝えた書状。朝鮮での度々の勝利を祝い、石田三成が十月二日に出発するため帰朝の暇も決着するはずだとして、船の準備を怠らず、出帆後は直ちに帰国すること、義弘・忠恒父子で相談することを求める。宰相の滞留は不要として帰国許可を働きかける意向も述べる。
(慶長三年)十一月五日 / 冊子 276~277頁
島津義久(竜伯)が(慶長三年)十一月五日付で山田有盛(弥九郎・茂六)へ出した書状。高麗から届いた報告を写し、泗川戦で大手から白狐一匹、水の手から赤狐二匹が敵へ向かい、赤狐一匹が戦場で死んだという前代未聞の出来事を稲荷神の霊験とする。勝利は神慮によるものとして、稲荷社で神楽を奏し、祈念所で本地供百座を行って礼を尽くすよう命じる。
(慶長三年)十二月五日 / 冊子 301~302頁
舟越景直が(慶長三年)十二月五日付で島津忠恒へ、自身の小姓を国元で召し使うよう推薦した書状。小姓は番船を奪取した際に一番乗りし、首級を挙げて船を捕らえ、さらに別船へ乗り移って働いたと述べ、掃部助らもその戦功を知っているとする。処罰を受けるような者ではなく、詳しい事情は伊勢弥九郎へ伝えたとして、島津義弘にも取り計らいを求める。
年月日未詳 / 冊子 663頁
別説として、山田弥九郎と赤崎丹後は関ヶ原で島津義弘(惟新)と別れ、敵中を突破した。島津豊久(中務大輔)が乗ったと思われる血染めの馬を見て戦死を疑い、一度敵中へ引き返したが、一本杉の馬印を見つけ、義弘がなお無事と悟って敵を切り抜け、ようやく供奉したと伝える。
年月日未詳 / 冊子 663-664頁
島津方の人質を退去させる手形がないため、使僧を大坂城へ遣わした。仙秀坊は島津義弘(兵庫頭・惟新)が豊臣秀頼のため関ヶ原で戦死したと申し立て、人質を国元へ下すよう求め、返答が出るまで一日一夜城に詰めて手形を得た。出立時には後に残る者が必要となり、山田弥九郎が残留を申し出た。
(元和五年)五月廿六日 / 冊子 701頁
日下部宗好ら三名が、虎屋弥九郎の宿所が狭いため近所の妙顕寺へ移し、家久の内衆は従来どおり置くことを認め、帷子五領中の単物二つへの謝意を述べた連署状。
(寛永八年五月)十九日 / 冊子 214頁
病気の弥九郎に薬の種類を変えて手当てしたが亡くなったことを深く悼む。幼少から召し使い頼もしく思っていた人物で、旅の苦労の中でも国元を思っていたであろうと述べ、両親にも諦めるよう伝えてほしいと頼んだ家久の書状。
九月十三日 / 冊子 139頁
太守の下向を祝って一同の満足を察し、飯野への見舞いに配慮するよう頼んだ。また天下の定めに従って諸所の公役を条々申し付け、尽力して勤めることを求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 624~637頁
島津久保の死去をめぐる記述を起点に、新納忠増が国内の宿駅をたどり、海路で朝鮮へ向かう長い旅程を日記形式で記す。 道中の宿主・使者との応対、和歌、渡船や暴風雨、難航する船中での祈願、朝鮮到着後の島津義弘への伺候までが細かく描かれる。 朝鮮出兵の軍事行動だけでなく、移動・宿泊・航海の危険、従軍者の感情と信仰を当事者の言葉で伝える貴重な紀行史料。
三月廿六日 / 冊子 401頁
島津龍伯が、斎藤源介に高麗から仰せ付けられた武者道具を当座に整えさせ、本人に持参させたことを伝え、その後の準備と、その間の秘密保持に十分配慮するよう求めた書状案。
四月二日 / 冊子 381頁
しばらく便りがなく案じていたが一同無事と聞いて安心し、宰相が在京しているため宛先の苦労を察して一層の配慮を求める。宰相からの色々な贈物が届いたことや、義久から心遣いを受けたことへ謝意を示した島津忠恒書状。
慶長4年7月13日 / 冊子 568頁/原整理番号 70
島津惟新(義弘)が山田越前入道(理安)へ、国元に異変がないことを喜び、上方も一段と無事であると伝えたうえで、庄内の様子を尋ねる。時節柄の心配を述べ、若い少将殿には竜伯様から諸事を言い聞かせられるよう、山田が内々に親しく働きかけてくれればありがたいと依頼する。慶長4年7月13日付。本文冒頭の『正文本田弥九郎』は正文の所在を示す注記で、宛名ではない。欄外には『旧記雑録後編三』803号と同一文書かとの推定注記がある。
年月日未詳 / 冊子 210~211頁/原整理番号 544
鹿屋理右衛門家の系図。祖の鹿屋純慶について、鹿屋領に居住したこと、乱世に戦死したこと、墓を大松寺の木のもとに置いたことなどの伝承を記す。以後、亀千代丸・弥九郎理右衛門らの相続、婚姻、出生、法名、奉公関係をたどり、寛文年間に生まれて島津久侶に奉公した兼矩らに至る。
(慶長三年)二月廿二日 / 冊子 196頁
川上三河入道肱枕忠智が伊勢弥九郎へ、島津忠恒の前年十一月三日付書状を正月二十五日に受け取り、朝鮮の陣所が無事で、奥地での軍労と勝利が名誉であると喜んだ書状。龍伯や宰相殿以下の供衆も無事であると報告する。石治少が関東へ赴いたため、島津義弘の書状を伊集院久左衛門尉に持たせ、同人の帰還後に竹内兵部少輔が事情を聞いて渡海する予定だと伝える。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
年月日未詳 / 冊子 405頁/原整理番号 368の4
主取壱岐介の五枚帆一艘と、蔵右衛門・市右衛門・弥九郎の四枚帆各一艘に、水手各八人・赤米各一石二斗を掲げる。十一月二十三日以後二十日分、一人一日七合五勺の海上飯米を片浦で渡したので、到着後も算用して支給するよう是枝喜右衛門へ命ずる。天草一乱に伴う送状である。
11月23日 / 冊子 407頁/原整理番号 370の2
十一月二十三日、主取壱岐の五枚帆一艘、蔵右衛門・市右衛門・弥九郎の四枚帆各一艘に、水手各八人・赤米各一石二斗を割り付ける。同日以後二十日分の海上飯米を、一人一日七合五勺の算用で渡すよう三原源左衛門・永山覚右衛門へ命ずる。天草一乱に伴い、人衆上乗として片浦から出水へ遣わすための支給である。
天文九年十一月廿二日 / 冊子 143~144頁/原整理番号 76
天文九年十一月二十二日の犬追物手組。相模守入道殿十四疋、島津右馬守五疋、山田弥九郎二疋などの射手別犬数を掲げ、検見を島津武蔵守、喚次を島津十郎左衛門尉とする。
正文発給日:弘安六年十一月十八日 / 冊子 338頁/原整理番号 五一四/整理ID TMP-P02-NENE4C-D0514
祢寝南俣佐汰村本地頭弥四郎親治と、佐汰西方本地頭弥九郎定親が異国警固番役について相論する。 双方は子細を申すが、定親は別の御家人で、安堵の御下文を帯びると記す。 警固番役は各々別に勤めるよう命じる。 その旨を下知する。
本文日付:弘安六年十一月廿二日 / 冊子 338頁/原整理番号 五一五/整理ID TMP-P02-NENE4C-D0515
佐汰弥四郎と弥九郎が相論する警固番役について、双方の申子細と御下知状を踏まえて書き下す。 定親は各別の御家人であり、安堵の御下文を帯びるとする。 警固番役も各別に勤仕すべき旨を述べる。
本文日付:正應六年五月七日 / 冊子 339頁/原整理番号 五二二/整理ID TMP-P02-NENE4C-D0522
大隅国御家人佐多弥九郎定親の代、治部房了親の当参を報告する。 今度の騒動の時に馳せ参ったと述べる。 この旨を披露するよう求める。
本文日付:八月六日 / 冊子 340頁/原整理番号 五二四/整理ID TMP-P02-NENE4C-D0524
佐多弥九郎殿の件で仰せを受け、今津へ便宜に申したところの返答について述べる。 今年の番役免除について「御かたに申へきよし被仰下候」と記し、その旨を伝えるよう求める。