島津勝久書状
二月一日 / 冊子 698頁
島津勝久が奈良原帯刀允に、子息弥六左衛門の討死を忠節の至りとして悼み、今後も変わらぬ奉公を求めた書状。
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二月一日 / 冊子 698頁
島津勝久が奈良原帯刀允に、子息弥六左衛門の討死を忠節の至りとして悼み、今後も変わらぬ奉公を求めた書状。
二月一日 / 冊子 710頁
本文はNo.2143の島津勝久書状と同文のため省略される。奈良原帯刀允の子弥六左衛門の討死を忠節として悼み、奉公を求めた書状。
康暦元年四月日 / 冊子 120頁
島津五郎左衛門尉の代官である帯刀左衛門尉景忠が、紀州への発向以来、南都・江州栗津の陣などで軍忠を尽くしたことを申告し、後証となる証判を求めた軍忠状。
十月廿八日 / 冊子 508頁
大坂の唐物屋伏見屋作兵衛・金兵衛が所持していた、朝鮮での軍功に関する豊臣秀吉政権五奉行の感状らしき文書を譲り受けた経緯を記す。島津家の重宝になるとして内見を経て御記録所へ納めるよう命じた島津帯刀覚書。
文政6年5月29日(朱書) / 冊子 670~672頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1937
上野帯刀の四月二日付書状と同じ紙面に記された朱書返答。御臺様の神田橋立寄りと重豪の御目見・拝領を受け、本丸・西丸、大奥、隠居方などへの御礼の出し方、名代・使者による取次、進物と通知先について、本書の各問いに添って了承や指示を記す。末尾の朱書は五月二十九日付で、川上美濃守・島津安房守・新納内蔵の三名が連署する。原本では独立した白紙上の返書ではなく、本書と朱答が重なるため、本文の経過と朱書の返答を区別して読む。
9月5日摂津(通知);当7月19日の武功への言及 / 冊子 386頁/原整理番号 548の1/整理ID 547-1
当七月十九日の長州勢襲来で諸軍を率いて禁闕の危難を救ったことを称え、嶋津圖書に感状一通・太刀一振・鞍置馬一疋を軍賞として賜うと記す。次に小松帯刀にも同日の大事の際に尽力して危難を救った功により、感状一通・拵刀一腰・馬一疋を賜うとする。九月五日摂津の通知で、表方と奥掛御勝手方へ伝えるよう命じる。原本の第548号の1に当たり、二人の賞品と単位は別に保持し、原通知から現物の同一性や実受渡日を確定しない。
正文年月日不記(巻173二月、小松の任命取扱いの記事) / 冊子 482~483頁/原整理番号 651の1/整理ID 651-1
薩州小松帯刀が総裁局顧問を命じられ、御所で岩倉から直接渡されたことを記す。徴士参与は三條公から、外国事務掛は宇和島侯から仰せ出されたと列記し、後者は名代で承知したと注記する。京都でこれらを命じられ、直ちに大坂へ詰めたという。詰所は以前の大坂町奉行の場所と承ったとする。任命の区分、受け渡しと名代の承知、大坂詰の記事を分ける。正文には日付がない。
閏四月22日 / 冊子 560頁/原整理番号 725/整理ID 725
小松帯刀に従四位下を叙する旨を宣下する。日付は閏四月二十二日。
建徳二年十月十五日 / 冊子 58~59頁
渋谷重門が死後の家政と所領処分を定めた置文。後家・帯刀左衛門尉への扶持、虎五郎丸による家の取り計らい、薗野・内山などの知行を指示し、長王・虎王・くり犬ら女子にも所領を配分して、親族間の相続と扶養の秩序を整える。
年月日未詳 / 冊子 33頁
弘治二年十一月十七日、蒲生城衆が出撃して鼠ヶ尾で島津方と戦い、島津方は負傷者を多く出して退いた。その際、二階堂帯刀・桑波田主馬助らが馳せ合い、分捕の高名を立てて退却した。小戦は続いたが城は容易に落ちず、翌弘治三年を迎えたと記す。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
天正十五年四月二十五日、豊臣秀吉が川内の太平寺へ着陣し、西国諸将の大軍と舟橋で人馬を渡した。平佐城へ降伏を迫ると、城方は「賢人は二君に仕えず」と旧主への忠義を理由に拒絶。二十八日には城門・藤崎小路で激戦となり、高木帯刀・谷山紀伊守らが奮戦して京衆・在地衆を感嘆させた。
(天正19年)閏正月24日 / 冊子 499頁
島津義弘が又八郎へ、中山三めしきの処遇、具足を野副帯刀長に持参させる手配などを伝える。家中の子らが勇健であることを喜び、久保への奉公に疎意がないよう戒めるとともに、伊達政宗の反抗と石田三成の出陣にも触れ、学問・手習いを怠らないよう求めた書状。
文禄3年正月12日 / 冊子 761頁
島津義弘が又八郎忠恒へ新年を祝い、今年はいっそう満足のいく年となるよう祈る。義弘側の状況は従前どおりであり、詳しいことは野添帯刀長から聞くよう伝えた年頭の書状。 父から上京中の後継者へ送られた簡潔な新年挨拶と使者取次の連絡。
文禄3年2月21日 / 冊子 768~769頁
義弘が塩漬け桶二つを贈り、又八郎の上着と秀吉への出仕の成否、現在の滞在先を尋ねる。諸事は幸侃の指南に従うよう勧め、野副帯刀・久四郎の在京や下向についても消息を求める。 こちらは異状ないと知らせつつ、急便のため供衆への伝言を簡略化した、上方の動静を細かく気遣う私信。
文禄3年4月 / 冊子 779~780頁
忠恒が、野添帯刀の帰朝時に聖門様への祈祷願いを友林斎が奏上し、了承された経過を伝える。聖門様から向庵への書状や取次事項を確実に届け、帰国後は詳しく報告するよう求める。 家中の使者と公家・寺社関係者を介し、祈祷と書状を往復させた上方交渉の実務を示す。
年月日未詳 / 冊子 252~253頁
『図書頭忠長譜』が、明軍の泗川攻撃に対する島津忠長の迎撃を記す記事。明側から降伏を促す書状が届くと、義弘は勝敗は戦って決すべきだと退けた。九月十九日に明軍二十万が進み、忠長は九月廿八日の戦闘で自ら敵へ向かい、野添帯刀長・本田與兵衛尉と合力して数人を討つ。義弘が忠長の危急を見て数百騎を救援に送り、寺山四郎左衛門尉の働きもあって明軍を敗走させ、晋州川まで追撃したとする。
(慶長四年)九月廿八日 / 冊子 443~444頁
太田一吉が薩摩少将島津忠恒に、内府が羽柴肥前守を詰問するとの風説と、中村式部少将・堀尾帯刀を使者に立てる動きを伝える。出陣や海上輸送への備えを述べる一方、彦山座主職をめぐる黒田甲斐守・毛利壱岐守の争いが豊前との境で起きているため、上洛を見合わせたと説明する。
(寛永九年)七月六日 / 冊子 292~293頁
島津久元が、家久の指示を谷山孫右衛門尉・国分帯刀長に伝えさせ、帯刀長の馬の件を処置するよう命じた書状。併せて、肥後の有力者が剃髪して退去し熊本城が無事に渡される見込み、肥後への諸国衆の動員・人質や家臣配置、伊勢貞昌の病状と後任・奉公人選、惟新供衆の名簿などを詳報した。
五月廿二日 / 冊子 45頁
原田市兵衛が、天正十五年の平佐城攻めにおける祖父原田帯刀の軍功を申し立てた文書。籠城戦で寄手の大将九鬼八郎を弓で射たこと、直後に和談となり、矢をめぐって小出大隅守方の家老らが確認した経緯を述べる。
永禄十二年五月六日~九月十八日 / 冊子 220~221頁
永禄十二年五月六日、羽月・大口境の戸神尾で島津方が勝ち、敵百六人を討ち取ったとする。初秋から相良氏と和平を協議し、九月十日に双方が人質を交換した。十八日巳刻、貴久・義久が大口城へ入り、鎌田政年を役者として太平の祝宴を催した。
二月六日 / 冊子 646頁/整理ID 2213
嶋津八郎右衛門久重が二月六日、嶋津帯刀へ、旧冬から宿次の奉書と拝物が仰せ出されたと聞き、喜びを伝える。機会を見て御前へこの祝意を伝えてほしいと取り次ぎを頼む。
正徳二年十二月十六日 / 冊子 62~63頁/整理ID 138
十二月十六日、願王院権僧正が島津帯刀へ、南泉院位牌のとおり写して彫刻し、その本書を永く不断光院へ納置するよう求め、印を進める。清揚院の牌名は、先に妙法院宮へ願い出たところ染筆されたので和田次兵衛へ渡しており、受け取ってよいように伝えることを依頼する。不断光院内に位牌殿を造立する件も承知し、染筆が延引して待たれるだろうと気遣う。
正徳三年 / 冊子 68頁/整理ID 156
かよ・岩倉が島津将監・帯刀へ、天英院の御機嫌がよいので安心するよう伝える。今回の上様の御袴着をめでたく思う旨の書状について、その趣旨を披露し、たいへん満足されていると返答する。付記でも薩摩守に関する祝意と伝言を記す。
正徳三年 / 冊子 87頁/整理ID 206
かよといは倉が島津帯刀・将監に、叙位の祝儀と贈り物を受け取ったことを喜び、礼を伝える仮名消息を送る。
正徳三年八月五日 / 冊子 106頁/整理ID 248
八月五日、島津淡路守惟久が島津帯刀方へ、御家庶流についての以前の指示に従って私家の扱いも改めたいので、内々の見分と指図を求める。家来が他家の苗字で御家の字を名乗っていた件は、以前に大玄院へ伺い、自分の代では久の字を名乗らせてきたと説明する。今回の改定で他家の苗字の者に名乗り字を遠慮させるべきか、詳しい指図を依頼する。
正徳三年八月五日 / 冊子 109頁/整理ID 252
島津惟久が島津帯刀に、佐土原家臣の称号・名乗りの改定案を示し、例外となる家筋についての判断を求める。
正徳四年 / 冊子 154頁/整理ID 378
かよ・岩くらが嶋津将監・帯刀へ、七月二十一日の書状を受けたと返答する。公方・一位様の御機嫌を伝え、六月十八日に公方から奥さまへ暑気見廻いとして目録どおりの品を拝領したことを薩摩守がありがたく思っている旨と、その礼文を披露したと知らせる。
安永六年四月二十一日(年は朱) / 冊子 524頁/原整理番号 1446/整理ID 1446
太守は去年の参府の御礼を申し上げた時から御直御請を述べるようになっていたが、この節は御機嫌のことまで申し上げる上意があり、御直御請を述べた次第が別紙の御書附写の通りであると伝える。其元で承るべき面々へ、この趣旨をもって申し渡すことを何分取り計らうよう求める。四月二十一日、二階堂主計。島津左中・喜入主馬・小松帯刀・赤松造酒の四宛を掲げ、後ろの三宛は次頁へ続く。去年からの御直御請と、この節の御機嫌伺いを含む取扱い、別紙の次第写、在所への伝達の依頼を分ける。差出は原の主計の表示を保持し、この記事の独立署にない諱は目録情報と区別する。
卯10月15日内田報告/外包:慶応3年卯12月19日収納注 / 冊子 417~418頁/原整理番号 592の7/整理ID 592-3
太守と中将への勅書写二通、召書一通を列挙する。召書は中将に快気がなければ太守が上京するとの扱いで、傳奏日野大納言の雑掌近藤外記を通じて渡されたとする。夕刻に出席する切紙を受けて出た際、国元へ早く知らせるよう申し置いたことを内田仲之助が帯刀へ報告する。卯十月十五日、留守居付役永山左内が同勤している旨と、用事による追加の出席指示も記す。外包には四通一包の注、慶応三年卯十二月十九日に内膳から上村休之進へ渡され、白木御文書十一番箱に納めたとの注がある。明細の二通・一通、報告と梱包数、十月の受渡と十二月の収納を分け、上京の完了や快気を確定しない。
兼務と東京先着は辰九月、任玄蕃頭は9月4日、周知は明治元辰10月20日 / 冊子 612頁/原整理番号 786/整理ID 786
通達留に小松に関する三つの命と備後の周知を収める。明治元辰九月の行政官の達は、小松帯刀に当官のまま外国副知事を兼務するよう命じる。辰九月四日の宣下は玄蕃頭に任じ、辰九月の行政官の達は小松玄蕃頭に東幸御用のため東京へ先着するよう命じる。備後はこの通り命じられたとの知らせを受け、向々へ周知するよう求める。末は朱明治元辰十月二十日。任命と兼務・先着の指示であり、九月の命を十月二十日発給としてまとめたり、実到着済みとしたりしない。
正徳二年十月廿六日 / 冊子 65~66頁/整理ID 148
島津吉貴が又三郎へ伝える口上の覚え。家督を継ぐ際には祖先・父の遺訓を忘れず、家臣の忠誠や役儀をよく見極め、処遇を急がず慎重に行うよう戒める。
12月27日認、岩下佐次右衛門署(十二日以降の動向報告) / 冊子 438~440頁/原整理番号 615/整理ID 615
十二日までの報告に続け、徳川内府・会桑の下坂、淀・伏見への人数繰出し、尾越両侯の仲介、慶喜への辞職・政務用途分の領地収納と公議による処置の沙汰を伝える。期限を七日として返答を求めるが、朝命への恭順が明確でないと述べる。西郷・大久保・自分の参与任命と諸藩の交名、宮門警衛の平常化、伏見の歩兵増員と乱妨の聞得、土藝の巡邏、奉行屋敷へ入った千人余の兵と当分の対陣、三條卿・宇和島侯の議定等を報告する。朝廷勤務が朝四ツから夜まで続くため小松の早い上京を望み、諸藩の異論で薩摩を孤立させる意図があるとの見方、乾退助らの引出しや津田側の尊幕論への懸念も述べる。近く飛脚を立てて大坂の形勢を知らせるとして、十二月二十七日に岩下佐次右衛門が桂・小松へ送る。
辰正月2日新納刑部署 / 冊子 451~452頁/原整理番号 619/整理ID 619
翔鳳丸が江戸から廻着して江戸の挙動を別紙で報告したこと、同夕に大坂川口から国元へ出帆予定の平運丸が当湊に碇泊し、翌日は臨機に処置する予定を伝える。無事に帰帆するか不安があるため、連名の御用封丈を開いて内容を撰分け、新納喜之助に足軽壱人を付けて陸路から急送する。今日幕兵二小隊位も大坂へ到着したとの聞取り、大坂の形勢不明、尾越両侯の尽力などに触れるが、平穏に処置できる見通しは乏しく翌日の一挙を心配していると述べる。辰正月二日に新納刑部が五名へ連絡し、夜明けが不幸の儀になり得るため急いで大略を知らせたと追記する。予定・聞取り・懸念と封書処置の報告を区別する。
辰正月10日新納刑部署(去5日の堀直太郎急便を受けた相談) / 冊子 466~467頁/原整理番号 633の1/整理ID 632-1
昨年脱走した竹内健藏・木場十藏が今回京都へ来て、重大な形勢のため滞京して奉公したいと願い出、事情を聞き置いたと、五日の堀直太郎の急便で伝えられた件を述べる。情勢上その志を捨て難いが、認めれば今後の取締にもかかわるため容易ではないと相談する。高野方面に浮浪の者が集まり、鷲尾侍従も勤王の意を示していると聞くが、この時節に御用へ立てるかは分からないという。国家のため忠志を立てておけば自然に採用される場合もあり得るとの考えを内々に伝え、中将にも知らせた上で吟味・取計らうよう、辰正月十日に新納刑部が五名へ送る。奉公願と採用の可否を相談する文書で、赦免・採用済みとはしない。
四月十四日 / 冊子 713頁/整理ID 2412
島津帯刀・中務が四月十四日、相承院へ、堂社修覆に伴う本尊・白幡宮の戸張と鬘髪入袋の改調、還宮供料の調達を願う書状を受け、薩摩守に申し聞かせたところ、願いどおり調えるよう指示されたので役人から相談すると答える。白幡宮への永い供料は追って意向を聞き薩摩守に申し聞かせる予定と記す。
五月廿七日 / 冊子 716–717頁/整理ID 2425
島津帯刀・勘解由・中務が相承院へ、頼朝公の神霊に供える白銀百両を薩摩守から送ると告げる連署書状。手配が長く滞ったことを詫び、受領を求める。
五月廿七日 / 冊子 717頁/整理ID 2427
島津帯刀が五月廿七日、相承院へ、寺が納め伝える頼朝公の鬢髪を分け、薩州に頼朝を崇める社頭へ安置したいとの申入れについて返す。数百年間全てを奉納してきた大切な寺宝を今さらに分取し、数百里の山海を越えて移すことに手を付けるのは忍び難く、所望に応じ難いと伝える。
七月朔日 / 冊子 725–726頁/整理ID 2445
島津帯刀が島津大蔵・新納市正・種子嶋蔵人へ、吉貴の帰国に先立ち、実子惣領鍋三郎が江戸にいる間の老中への届けや家来の差出しについて伝える書状。吉貴の自筆書を土屋相模守・小笠原佐渡守へ渡し、必要な内容を記録所に残すよう求める。
宝永六年五月二日 / 冊子 804頁/整理ID 2712
島津帯刀が御記録奉行へ、島津淡路守が替紋を願い出て紋の絵形を示し、前年九月二十三日に比志島隼人を使者として御折紙を添えて拝領した経緯を伝える。紋所の絵形と御折紙の控を記録所に納めるよう指示する。
宝永六年三月十二日 / 冊子 827–828頁/整理ID 2764
島津帯刀仲休が三月十二日、薩摩家老五名へ、琉球中山王使者の代替祝儀を先例どおりとする照会経過を報じる。朝鮮は隣国の交好による挨拶だが琉球は先祖の武威で支配したため格別とし、琉球使者の来聘は日本の威光に関わる重要事とする。海路・風に応じ早く通知し、来夏の使者を認めた件を国元へ書き留めるよう求める。方角絵図は先方に留め置かれ、口上書のみ返却されたので絵図写と琉球由緒書を追送し、奥村治右衛門を介して照会するよう伝える。
宝永六年三月十四日 / 冊子 828頁/整理ID 2766
島津帯刀仲休が龍松院公盛上人へ、東大寺大仏殿の落成を受け、島津吉貴が曼荼羅壇一基・什器一部・舎利塔を寄進すると伝える。各品の銘を書き、殿内に納めるよう依頼する。
正徳2年8月・正徳3年11月(先例)。末記2月、独立年記なし / 冊子 295頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0073
正徳2年8月、故薩摩守吉貴が留守差置家老嶋津内記の代わりとして嶋津大蔵を国元から差し越し、御目見願のとおり命じられた例を記す。内記に久貫、大蔵に久明の注がある。また正徳3年11月、その大蔵の代わりとして嶋津帯刀を国元から差し越し、同様であったと掲げ、帯刀に仲休の注を付す。末に2月の記載。現行標題の嶋津内蔵は本文の内記へ訂正し、内記から大蔵、大蔵から帯刀という二度の交替を分ける。文化5年の安房御目見が許可されたとの記録ではなく、提出された正徳期の先例書。
文政5年9月29日(目録による。本文日付なし) / 冊子 625頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1872
原本No.1872は「重豪公御譜中」「扣正文在家老座」という出典・正文所在の二列のみを掲げ、書状本文・署名・宛名・日付を掲載しない。原目録には文政五年九月二十九日、上野帯刀書状とあるため、その日付と表題を目録情報として整理する。入力の家老座を宛先とは扱わず、正文の所在として明記する。本文の用件、上野帯刀の実名、受取人、差出経緯はこの表示から推定しない。
文政5年9月29日(主日付)/10月29日(宛前朱注・目録。関係未詳) / 冊子 625~626頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1873
上野帯刀から川上美濃・嶋津安房・新納内蔵への書状。太守が去る朔日に月次登城して居残った際、大御目附岩瀬伊豫守の伝達を受け、白書院の黒鷺杉戸際で老中大久保加賀守から重豪の御庭見物について仰せられたと述べる。大御隠居の老年と歩行への心配から、特別に当年内の吹上見物を許す書付が下され、本人の西丸登城、出仕後の退城と桜田屋敷入り、両御丸老中への礼の巡勤を指示した文言を引く。隠居の礼は太守が名代を務め、太守自身の礼、若年寄への留守居、側衆への表方使者による礼も伝える。近親への知らせは使番が取り計らい、近衛ほかへの通知は今日便の使番から留守居へ急ぎ問い合わせるという。以上を内證様へ伝えてほしいとし、上野らも当日高輪へ出向き側役を通して祝儀を申し上げたこと、見物の詳細を上から知らせてほしいとの申越に同意したことを記す。書付本書は右筆へ渡し、写と留守居首尾書を送るとの但書を持つ。主日付は朱注の文政五年九月二十九日で、上野署には「上」、三名宛前には「下」と十月二十九日の朱注がある。目録は十月二十九日・三家老連署返書としており、主日付・署宛との関係は未詳のまま併記する。
文政6年4月2日(朱注) / 冊子 670~672頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1936
上野帯刀が御臺様の神田橋屋敷立寄り後の御礼勤めを相談する書状。先月十四日の老中水野出羽守からの御留守居呼出しを踏まえ、二十八日に御臺様が神田橋屋敷へ立ち寄り、重豪が御目見して拝領品を受けた経過を伝える。御本丸・西丸、大奥、隠居に関係する礼の申上げ先、名代や使者、進物の取次、帰宅後の御礼などを列挙し、先例や御側の取扱いに照らして処置を尋ねる。末尾に文政六年四月二日・上野帯刀とある。同一紙面の朱書回答と三名の署名はNo.1937として別行に記録する。
文政7年4月3日(目録による。掲載箇所に日付なし) / 冊子 704頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1995
掲載するのは「重豪公御譜中」と「扣正文在家老座」の出典・正文所在表示のみで、書状本文、日付、署名、宛名はない。目録は文政七年四月三日の上野帯刀書状として立項する。印刷1996に上野帯刀の四月三日付本書と五月二日付返答が載るが、本項には独立した正文が掲載されない。
文政7年4月3日(本書)・5月2日(返答層) / 冊子 704~705頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1996
上野帯刀が川上美濃守らへ、御臺様の神田橋屋敷立寄りに際する重豪の伺候と拝領、斉興らの礼勤について問い合わせた書状。先月十六日の老中からの呼出し、二十七日の来邸、九鬼長門守が重豪の名代を務めたこと、御精進日・大奥への祝儀、翌二十八日の礼勤、鯛や反物などの献上を記す。末尾は四月三日付上野帯刀署、川上美濃・町田監物・新納内蔵宛。五月二日付の返答層では、前年の同様の例を基に内証への祝儀を相談し、御留守居の首尾書等を添えて返す。
4月(服装・勤務変更);4月12日(鐘堂時刻変更と通達注) / 冊子 293頁/原整理番号 412の2/整理ID 412-2
三つの申渡。第一は御三役と諸役人の朔望・平日の出勤服装を定めてあるが、見分などには行形の服で出勤してよいと伝える四月帯刀の通知。第二は御三役以下の役人の御暇を七ツ時としていたが、明日から従来の四ツ出勤・八ツ時御暇に戻すとする。第三は当分一日七時の割合で鐘堂を撞いていたところ、明日から日一杯六ツ時の割へ変更すると伝える四月十二日帯刀の申渡で、当日伊地知壮之丞から役名へ通達したとの注。原時刻語を保持し、出勤・退勤と一日の鐘撞き割合を区別する。
5月(申渡);亥5月朔日北條織衛取次/亥5月4日向井新兵衛取次 / 冊子 296頁/原整理番号 414の1/整理ID 414-1
二内容の申渡。第一は玉薬・普請・兵粮・人馬の四奉行が出馬時に物資等を差し出す役務を相談し、一ヶ月当番を設け毎月漏れなく軍賦役へ届けるよう求める。亥五月朔日北條織衛取次注。第二は汽船が当地前の浜に入る時、遠沖通航時も旗印を確かめ、開聞嶽・佐多立目ならびにひこる合図の大砲壱発を打って乗り入れるよう命じる。古郷から前の浜まで大砲を打つ趣旨も銘々の乗付の者へ伝え、船奉行その他へ周知する。五月帯刀、亥五月四日向井新兵衛取次注。地点名・合図語は原表記を保持し、古郷やひこるの読み・地理を推定しない。
辰2月7日内田報告、通知は去月11日の神戸事件を述べる(日不記) / 冊子 485頁/原整理番号 654の1/整理ID 654-1
備前家老日置帯刀が去月十一日に神戸を通行した際、外国公使へ発砲したことについて、朝廷が公法による処置として、発砲を号令した士官を死罪、帯刀を勤慎に付すと通知する文言を収める。太政官代からの廻達が久留嶋伊豫守方から到来したため、原本を内藤備後守方へ順達し、写を添えて届けると辰二月七日に内田仲之助が報告する。処置の通知と順達・写添付を区別し、刑の執行や責任の実証はこの文書だけから確定しない。