島津氏老臣連署起請文
元亀四年二月廿六日 / 冊子 301~302頁
禰寝重長への使者となった伊集院久治・上原尚常・市来家諸・河野清通・新納忠元の五名が、今回伝えた条々に虚言はないと誓った連署起請文。違反時には日本国中の神祇、新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を受けるとする。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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元亀四年二月廿六日 / 冊子 301~302頁
禰寝重長への使者となった伊集院久治・上原尚常・市来家諸・河野清通・新納忠元の五名が、今回伝えた条々に虚言はないと誓った連署起請文。違反時には日本国中の神祇、新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を受けるとする。
元亀四年二月廿一日 / 冊子 300~301頁
禰寝重長との和睦成立後、前日の無署名誓紙に代えて署名を明示した連署起請文。伊集院忠金・本田盛親・河野清通・伊集院久治・上原尚常・市来家諸・新納忠元・喜入季久の八名が花押を据え、誓紙を重長へ渡した。
寛永六年七月吉日 / 冊子 101頁
島津久元・喜入忠政・伊勢貞昌の三名が、私心なく奉公して国政に尽くすこと、家中の諸子の派閥に加わらず惣領を守ること、兄弟間を讒言で離反させないこと、偏頗を避け、三人の間の疑念は熟談して解くことを神仏に誓った連署起請文。
元禄十三年秋(八月二十五日) / 冊子 229–230頁/整理ID 789
近衛関白基熙・右大臣家熙が、島津忠久以来の近衛家と島津家の旧好を理由に、島津綱貴の娘亀姫を大納言近衛家久の妻に望み、綱貴が承諾して八月二十五日に近衛家諸大夫へ書面で返答した記事。亀姫は元禄三年生まれで当時十一歳、のち家久の御簾中となり宝永二年に十六歳で早世したとの考証を付す。
文久2年戌7月 / 冊子 267頁/原整理番号 371/整理ID 371
雑集中の短い記事。島田左兵衛権大尉が長野主膳と同じ動きをして奸曲を企てたとして、天地に容れられない奸賊と断じ、誅戮して梟首したと記す。島田には九条家の諸大夫正辰との注がある。文久二年戌七月。断罪的な呼称と処置は記事の記載として扱い、今回独立に裏付けた有罪事実とはしない。発給者・記者の実名や宛先は記さない。
年月日未詳 / 冊子 481~482頁
寛永十二年六月二十一日付の武家諸法度。文武・弓馬の修練、参勤交代、城郭修補の許可、私的な同盟・婚姻や徒党の禁止、反逆者・殺人者の処罰、倹約、衣服・乗輿の身分秩序、五百石以上の船の停止、寺社領保護、キリシタン禁制、道路・宿駅・関所、江戸法令の全国適用などを定める。
享保二年三月十一日 / 冊子 301~303頁/整理ID 796
三月十一日に武家諸法度を受ける際の登城時刻、大広間での着座・御書の受渡し、退出までの順序を記し、座席と配列の図を添える次第。
享保二年三月十一日 / 冊子 303~304頁/整理ID 797
吉宗の代に示された武家諸法度の写。文武忠孝・礼義、城郭の修補、婚姻、奢侈の禁止、乗輿、知行地の政務、諸国の寺社領など、大名と家臣に関わる規範を列挙する。三月十一日付。
享保二年三月十一日 / 冊子 308~309頁/整理ID 799
三月十一日付、吉宗代の武家諸法度を別掲した写。文武忠孝と礼儀、交替参勤の人数・時節、人馬兵具の分限相応、城郭修補、私関所等の禁止、国元政務、喧嘩口論、婚姻、倹約、服飾・乗輿、養子、知行地清廉・道路駅馬橋船維持、寺社等の条項を列挙する。服飾には絹・紬・布・木綿等に関する身分に応じた規定がある。末に天和の法制を当代に潤色した旨を記す。
享保二年三月十一日 / 冊子 309頁/整理ID 800
享保二年三月十一日、吉貴が執政の奉書に従い継豊を伴って登営した。吉宗が大広間へ出て、諸侯・譜代・万石以上が一同に列座し、戸田山城守忠真が挨拶して諸国国政務の条目を示した。原注は武家諸法度と天和の法令に言及し、詳しくは吉貴の譜にあるとする。
延享三年三月廿一日 / 冊子 904~905頁/整理ID 2433
御代替に際して示された武家諸法度写。文武忠孝・礼義、毎歳の参勤交替と従者の人数、分限に応じた人馬兵具、城郭の新規造営禁止と修補届、私的結党・関所新法禁止、在国統治と刑罰、訴訟の扱い、国主城主万石以上や近習等の無許可婚姻禁止、贈答嫁娶・饗応・造宅の倹約、衣裳の分限を定める。附則は従者の衣類に羽二重・絹・紬・布・木綿、弓・鉄炮の者には紬・布・木綿等を用いることを定める。乗輿資格、養子の選定・届出と殉死禁止、国郡道路・驛馬・橋船の往還、無断の大船禁止、寺社領と新地寺社建立禁止、江戸法度の領国遵守を記す。
延享三年三月二十二日・二十三日(順達記録) / 冊子 905~906頁/整理ID 2434
三月二十二日・二十三日、武家諸法度写を諸大名へ順達した先を記す一覧。二十三日は松平壱岐守から有馬中務大輔へ、二十二日は松平大膳大夫から松平大隅守へ、上杉民部大輔から松平陸奥守へ、松平安藝守から松平大膳大夫へ順達した経路と諸侯の名を列挙する。
天明七年九月十一日(末尾)。同年十一月十五日受渡し(包紙朱書) / 冊子 999・1000頁/原整理番号 2690/整理ID 2690
天明七年九月十一日付の武家諸法度十五条を掲げる。文武・忠孝に励み礼儀を正すこと、参勤交替の所定時節を守って供の人数を増やさないこと、人馬・武具を分限に応じて備えることを命じる。新たな城の構築を禁じ、居城の塁・石壁等が壊れた際は奉行所へ届けて指図を受け、櫓・屏・門以下は先規どおり修補する。新規の徒党・誓約、私的関所・新法の津留を禁じ、不慮の事態でもみだりに集まらず持場で指図を待ち、刑罰の場へ役務外の者が出向くことも禁じる。喧嘩・口論・私的争論を慎み、事情があれば奉行所へ届け、争いへの加担や元の主人に差し障りのある者の召抱えを禁じ、百姓の訴えは支配で相談し、滞る場合は評定所で扱う。国主・城主・一万石以上・近習・奉行・物頭の私婚を禁じ、公家との縁組も奉行所の指図を求める。贈答・婚礼・饗応・屋敷造営等は倹約し、無益な道具や私的な奢りを慎み、身分に応じた衣類と乗輿の許可・例外を定める。養子は原則同姓で相応しい者を選び、異姓の場合は由緒を正して在生中に届け、五十歳以上・十七歳以下や末期養子は吟味を受け、実子でも筋目違いの者は認めない。殉死を禁じ、知行所を清廉に治め、道路・駅馬・橋船を無断で滞らせず、荷船以外の大船を禁じる。寺社領を古来の付属どおり保持し、新たな寺社建立は禁じ、やむを得ない事情は奉行所へ届ける。江戸の法度を国元でも守ることと全条の堅守で結ぶ。包紙には武家諸法度一通と記し、十一月十五日に和泉から川上平右衛門へ渡して白木御文書六番箱へ納めた旨を朱書する。
年月日未詳 / 冊子 12頁/原整理番号 22/整理ID 22
武家諸法度頒布一件の見出し。白木御文書九番箱中五十三番の出典表示で、法度本文・回覧添書・頒布次第書・首尾書などの具体的内容はNo.22の1~22の10に収められる。
天保九年二月廿一日 / 冊子 12~13頁/原整理番号 22の1/整理ID 22-1
天保九年二月二十一日付の武家諸法度。文武忠孝と礼義、毎年定められた時期の参勤交替と従者数の抑制、分限に応じた人馬・兵具の用意を求める。城郭の新規構築を禁じ、修補は奉行所の指図を受け、徒党・誓約・私関所・新法の津留、無断の出向、喧嘩口論や私的な談議を禁じる。異変は奉行所へ届け、主従双方に責任を負わせ、百姓の訴えは支配側で処理できなければ評定所へ差し出す。領主等の私婚姻を禁じ、公家との縁組には指図を求め、贈答・婚礼・饗応・家宅造作などは倹約して私的な奢りを避けるよう定める。衣服と乗輿には身分別の規定を置き、養子は生前の届出を原則とし、五十歳以上十七歳以下の者や末期の場合は吟味を受け、殉死を禁じる。知行地の政務を清廉に裁き、国郡の衰弊を防ぎ、道路・駅馬・橋舟の往還を保つこと、大船の停止、従来の寺社領の維持と新規寺社建立の停止、各国各所で江戸の法度を守ることを命じる。
〔天保九年〕二月廿一日(年は目録による) / 冊子 16~18頁/原整理番号 22の8/整理ID 22-8
代替わりに伴う武家諸法度頒布の、二月二十一日の儀礼次第。御三家、万石以上の領主、交替寄合が登城し、御座間では紀伊・尾張・水戸の順、黒書院では田安ら、御上段では松平加賀守以下の諸侯へ、将軍が法令を出す旨を伝えた経過を記す。大広間へ渡る際の先導、将軍の着座位置、掃部頭・老中・奏者番・若年寄らの席次、嫡子や菊之間縁の人々の配置も詳しく定める。老中太田備後守が法令を出す旨を伝えた後、将軍と出席者はいったん退出する。御法令を文台に載せて置き、林大学頭が読み上げ、諸侯が謹んで聞いて挨拶の後に退出した。松平三河守は養父看病による御暇との注がある。
嘉永七年九月廿五日(法度付日)、天保九年二月廿一日(同文参照先) / 冊子 156頁/原整理番号 218/整理ID 218
白木御文書十番箱中六十四番の表示に続き、嘉永七年九月二十五日付の武家諸法度は天保九年二月二十一日付のものと同文なので省略すると記す。ここで掲出されるのは省略注で、法度の条文全文は収録されない。
の1:安政6年9月25日;の2:今廿六日;の4:10月2日;外標:安政6年未12月 / 冊子 224~225頁/原整理番号 307の1~4/整理ID 306-1
印刷第307号の1~4を収める一件。の1は安政六年九月廿五日付武家諸法度を天保九年二月廿一日付と同文として略す注で、法度正文は載せない。の2は今廿六日、間部下総守が御條目写一通を家来へ渡し、御國持四品以上の各家へ順達するよう命じた旨の覚。受領した各家が銘々下総守へ使者を遣わして名面書どおりに順達し、この方へ返却されたら重役にも伝える。の3は相模守・大膳大夫以下、修理大夫・有馬中務大輔・細川左京大夫・南部美濃守等の名面書。の4は西筑右衛門の御名内宛報告で、先月廿六日に阿波守家来へ渡された御條目写一通が有馬中務大輔方から今日到来したため、国許の修理大夫へ知らせ承知のうえ御請を申し上げるとする。十月二日。外標は安政六年未十二月。
寛永十七年七月九日 / 冊子 414~425頁/原整理番号 531
寛永十七年七月九日の人衆賦帳で、須木口・大口・加久藤口などの各方面へ、須木・小林・野尻・高原・高岡・鹿児島等の郷衆中と島津家諸士を組み分けし、各人の高、全役・半役、主従人数を列記する。複数の組に『合五百人』等の総計欄があり、国境方面へおおむね五百人単位で人衆を割り付けた構成を示す。冒頭の須木口一与は須木百人、小林百十人、野尻七十六人、高原百二十五人、高岡四十人、鹿児島五十人を掲げ、原記総計を五百二人とするが、内訳の算術合計は五百一人となる。編者は、相良清兵衛召還に伴う大童半兵衛ら三百余人の籠城と求麻騒動を受け、隣国境目の警備用に作成された帳簿と考証する。天保二年十二月二十日の写載経緯と、伊地知重政・相良頼員が京詰のため加久藤口の名簿に載らないとの説明も付す。
年月日未詳 / 冊子 383~384頁/原整理番号 102
続花押藪の記載として、元亀四年二月二十一日の八人連署と花押を掲げる。祢寝重長が肝付省釣の党を離れて島津側へ降参した際の誓紙関係文書として位置づけ、全文の写しを求めている。伊集院忠金が見えず写し落ちかと注記し、太田と本田、市木と市来の表記や、盛親・清通・家諸らの出自を考証するが、河野子孫のことは承知していないという。
元亀四年二月廿一日 / 冊子 385頁/原整理番号 103-3
元亀四年二月二十一日付で、伊集院忠金・平田盛親・河野清通・伊集院久治・上原常尚・市来家諸・新納忠元・喜入季久の八名を列記する起請文。和睦成立後、義久が誓紙を重長へ与え、国老と三使・副使もそれぞれ誓紙を作って渡したと記す。各誓紙は後に掲げるとしている。
現行年紀:元亀四年貳月廿一日 / 冊子 143頁/原整理番号 248/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0248
忠金・盛親・清通・久治・常尚・家諸・忠元・季久の連署と花押を掲げる。 「旧記雑録後編一」660―3号同文の刊本注を伴う。この切片には条文を独立掲載せず、日付と八名の連署を掲載する。参照先本文は未読・未補充。
年月日未詳 / 冊子 273~317頁
寛永二十一年の御勘定所日帳。正月から十二月まで、使者・筆者の召出し、帳簿・証文・書付の授受、米・銀・物品・扶持・借銀の処理、地頭所や各役所からの申請・照会、役人の任免・吟味・差出しなどを日付順に記録する。藩財政と行政実務の年間推移を示す長大な日記である。
天明七年七月(年は朱書) / 冊子 991頁/原整理番号 2667/整理ID 2667
松平豊後守への返答として、健勝を喜び、今回使者を上京させて時候の見舞いとして目録の品々を贈られたことへの満足を伝える。泰宮からも同様の返答があり、通君も見舞いを受けたことへの返答をする。続いて松平上総介への返答を記し、右府・泰宮・通君がそれぞれ同様に見舞いへの返答をしたとする。年月は天明七年七月で、個別の署名や贈物の品名・数量は本文に記されない。
天明七年七月(年は朱書) / 冊子 991・992頁/原整理番号 2668/整理ID 2668
茂姫を右府の養女とする件について、取り結びのため今回使者を通じて申し入れられた趣旨を了承したと伝える。関白へ内談したところ、差し支えあるまいとの意向だったので、十分に承知したとする。この養女の願書は二十二日に提出した。願いが許可され次第、早速今大路内蔵権頭を関東へ派遣する考えであると知らせる。
(慶應元年)十月廿五日 / 冊子 529~532頁/原整理番号 1
山田立斎が季安に、秘伝島津譜図草稿の意図と、京都で古書・古文書を借りて考証する方法を長く説明する。水府の蔵書目録、玉海・台記・明月記・太平記・東鑑・源平盛衰記などの借覧と写し、寺社旧蔵の古文書探索、近衛家での秘蔵文書の内見を述べ、御用が済むと控えを持ち下る扱いや、広く貸さない制限を記す。譜図の草稿が忠煕の内見と序文・添書を得ること、皇孫の系図を訂正する意図、関係者の取次と、手元に秘蔵する扱いを説明する。古記録探索の発端と先年の勅考、国内巡見時の寺社文書調査、江戸の金子宗耕による軍談と講義への評価も振り返る。末尾で、玉海の書抜には巻・年・月を示し、混雑する時期と出立前の早い見合わせを求める。
現行年紀:慶長五年十一月廿六日 / 冊子 150~151頁/原整理番号 262/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0262
重長の忠節時の約束と根占家在所に関する神文・証文を述べ、諸地の給付条件を記す目安。 鹿屋が守護領となる場合はその田数ほどの別所を、郡本は「御弓箭御存分」が成就する時に給付すべき旨を述べる。 山川・田上等の借地は、合点された分を給付時節に返上する旨を述べる。 約束を知る人衆、御使者、神文等を頂戴している旨を列挙する。
文禄2年9月10日 / 冊子 725頁
島津久保(又一郎)の死去を受け、弔いを理由とする帰国を厳禁し、義弘の許可を得た百人以外は渡海してはならないと定める。 久保の陣所を老臣・有力者に守らせ、普請・城米・後続船の兵糧収納を急がせ、下人を含む無断帰国を処罰するとした軍中統制の事書。
宝暦十一年二月二十一日 / 冊子 835~836頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2496
二月二十一日付の武家諸法度で、文武・忠孝・礼義、毎歳の参勤交代と従者数、分限相応の人馬・兵具、築城禁止と修繕届を定める。徒党・私関所・新たな津留を禁じ、騒動時の持ち場と命令待ち、刑罰役以外の出向禁止、喧嘩・私争論の制限と奉行への届出、百姓訴訟の支配相談と評定所への提出を規定する。私婚姻と贅沢を禁じ、衣服・乗輿の格式、同姓で相応しい養子の選定と存生中の言上を定め、五十歳以上・十七歳以下の者や末期の養子は吟味して立て、実子でも筋目違いは認めないとする。殉死を禁じ、知行所の清廉な支配、道路・駅馬・橋船の維持、大船の制限、寺社領の保持と新寺社建立の停止を定め、江戸・国元とも法度を守るよう命じる。
宝暦十一年二月二十一日 / 冊子 834~835頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2495
重豪が二月二十一日の召しに応じて登城し、家治が大広間に出御して大名の拝謁を受けた。老中が上意による法令を伝え、中奥小姓が条令書を中段に置き、儒者林内記が読み上げた。重豪は拝聴して退出し、西丸へ赴いて政令を祝った。
寛永十二年六月廿一日 / 冊子 481~482頁
修正版インデックスでは六月二十一日付の島津家久書状とされるが、本文では直前の六月二十日付書状の後に寛永武家諸法度が続き、独立した該当書状を確認できなかった。本文・目録・インデックスの行対応にずれがある可能性がある。
元禄十三年九月十四日 / 冊子 232–233頁/整理ID 798
進藤筑後守長房ら近衛家諸大夫が新納美作久珍へ、中将島津綱貴が亀姫と近衛家久の縁組を了承し、蓮光院から委細を聞いて近衛基熙・家熙父子が大いに喜んだと伝えた連署状。陽和院の意向も了承したが、公儀へ願い出る前なので正式な返書は遠慮し、蓮光院との対面で口上を伝えたため、その趣旨を心得るよう求める。
元禄十三年九月晦日 / 冊子 235頁/整理ID 812
綱貴が近衛家諸大夫四人へ、新納美作宛書状を拝見し、縁組について陽和院の内意を蓮光院が口上で伝え、関白・右府が満悦と聞いて喜ぶ旨を返した書状。公儀へ願う前なので両公が書状を控えたとの判断をもっともとし、詳しくは蓮光院へ両公が直接口上を伝えた由を承知して謝す。その旨を両公へ取り次ぐよう頼む。
延享三年三月二十一日 / 冊子 902頁/整理ID 2428
三月二十一日、宗信が老中各位の奉書によって登城し、大広間で在府の諸侯・譜代・万石以上の者と列座して、松平能登守乗賢の伝える上意と諸国政務の法令を聞いた御譜記事。老中が御殿へ入った後、林大学頭信充が武家諸法度の条目を読み、一同拝聴して挨拶し退席した。宗信らは西城へ登り賀意を述べて退出した。
延享三年三月廿一日 / 冊子 903~904頁/整理ID 2431
三月二十一日、御代替に伴う御法令が仰せ出され、宗信の登城・拝聞・退出の手順を記す。御三家の出座、広間や御座間での席次、松平加賀守と諸大名の着座、御法令を渡す使者、武家諸法度の伝達と拝聞後の礼が続く。野矢直之丞の報告には、当日の夕刻に能登守の家から呼ばれ、上意と御用之筋を申し聞かされた経緯も載る。後半は前書の受渡しと翌日の謝礼・登城に関する具体的な段取り。
宝暦五年九月十八日 / 冊子 556頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1676
島津久馬ほか二名の九月十八日付朱書返答は、伊集院十蔵・島津主鈴の袖判に関する伺いに、当主が幼少で当分は継豊が諸事を取り扱うため、袖判を出すには及ばないと答える。当主の成人後に御用を取り扱う時、初入部による帰国時、または同様の機会に袖判を出すよう申し上げる旨を伝える。有章院時代の武家諸法度の有無に関する書付を写し、参考のため別紙で送る。先方から送られた別紙は返却する。
天保九年二月廿一日 / 冊子 12頁/原整理番号 21/整理ID 21
徳川家斉が家慶へ将軍職を譲ったため、例に従い武家諸法度を下したことを記す記事。天保九年二月二十一日、島津斉彬が召しに応じて登城し、諸侯とともに大広間に列した。家慶が臨席し、老中太田備後守が法令を下す旨を告げ、将軍と諸侯はいったん退いた。斉彬らは再び大広間へ出て林大学頭の法令朗読を聞いた。礼式の詳細は留守居の首尾書にあるとする。
二月廿三日~廿五日の回覧書込(年は目録一件から天保九年とみられる) / 冊子 14~15頁/原整理番号 22の3/整理ID 22-3
大広間諸大名の交名と、武家諸法度の写しが届いた家・次に順達した家を記す一覧。「次第不同」とし、松平越前守・大膳大夫・三河守・因幡守などを掲げ、松平大隅守(島津斉興)に続いて松平陸奥守・阿波守・大和守・右近将監・上総介らの順達先を列記する。書込によれば、有馬玄蕃頭から二月二十五日に松平越前守へ、松平大膳大夫から二十四日に松平大和守へ、上杉伊予守から二十三日昼に上杉弾正大弼へなど、複数の経路で送られた。回覧の個々の到着日と送り先を追える史料であり、単独の差出人・宛先を持つ書状ではない。
(元和元年)七月十日 / 冊子 605頁
島津家久が島津義弘に宛て、用事に備えて留め置いた大学坊を、特別の案件がないため先に帰国させること、掛川方面からも特段の知らせがなく、当地の情勢も変わらないことを伝える。さらに、七日に伏見で能見物のため諸大名が伺候した際、「御法度条々」が発布され、その条書を義弘へ送ったこと、京都でも種々の命令が出されていることを報告し、詳しくは大学坊に申し含めたとする書状。
元禄十三年八月二十五日 / 冊子 230頁/整理ID 790
綱貴が進藤筑後守・今大路兵部大輔・進藤修理亮・今大路治部少輔へ、大納言家久と娘の縁組について親族一同が望み自身も承知したこと、関白・右府が満悦と蓮光院から聞いたことを伝えた書状。元祖以来の由緒を挙げつつ不釣合いな栄誉への思いを述べる。娘を出生時から養育した祖母陽和院の意向には書面で述べがたい点があり、近日蓮光院を上京させ口上に含めるので取り次ぐよう頼む。本書そのものと、予定する口上伝達を区別する。
文化10年閏11月3日崩御・12月26日香奠(記事) / 冊子 429頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1334
重豪公御譜中。同年閏11月3日に仙洞が崩御し、謚を後櫻町院というと記す。12月26日、重豪も馬廻四本甚七兼方を仮に物頭として遣わし、泉涌寺の霊床前へ香奠銀3枚を献じた。これは大家が諸侯に来献を命じていたためとする。年は目録文化10年。崩御日・閏月と献奠日、使者の馬廻という本役・仮物頭の役割、銀3枚・献上先・大家の命令を区別し、数量を3両へ変えず葬送全般や個別参列を本文以上に補わない。
文化11年8月25日・26日・27日(年は目録) / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1379
重豪公御譜中、斉興公御譜にもありとの注。今秋8月25日、蘭窓公(島津忠治注)の三百年忌法事を鹿児島郡吉田郷津友寺で修し、重豪も家老川上右近久芳を遣わし香奠金200疋を進献して拝したと記す。同月26日に竹千代君が薨じた(法号玉樹院殿注)ため、翌27日に重豪は留守居を老中及び水野出羽守忠成(西丸側用人注)の邸へ遣わし、大家と諸君の起居を伺わせた。年は目録文化11年。忠治の遠忌供養と竹千代の薨後の機嫌伺いを分け、香奠金を竹千代への献上へ移さず、竹千代の実名や死因を補わない。
〔天保九年〕二月廿二日(年は目録による) / 冊子 13~14頁/原整理番号 22の2/整理ID 22-2
松平三河守斉民の使者が、御条目の写し一通に添えた口上書。二月二十二日に太田備後守から家来へ写しが渡され、大広間四品以上の人々へ順達するよう命じられたため、使者で送り、各家から備後守へ承知の届を出すよう求める。順達後は写しを返却し、回覧先は別紙に添えるとする。同じ写しを松平加賀守にも渡して残る同席の人々へ回す手筈であり、加賀守の順達先も早く届く予定と伝える。
〔天保九年〕二月廿五日(年は目録による) / 冊子 15頁/原整理番号 22の4/整理ID 22-4
井上逸作が央様に、法令写しの回覧到着と受けの手続きを報告する。二月二十一日に出された法令の写しは松平加賀守・三河守へ渡され、有馬上総介から二十五日に島津家へ順達されたため、国元の太守島津斉興へ申し上げる旨の手扣書一通を、担当老中太田備後守の取次恒岡傳八郎へ持参して説明・提出した。取次から老中へ伝えるとの返事を得た。追記は、太守が承知した後に受書を差し出す予定とする。
〔天保九年〕二月(年は一件目録による) / 冊子 15~16頁/原整理番号 22の6/整理ID 22-6
法令頒布に伴う祝儀の手続きを定めた触書。二月二十一日・二十二日に登城する人々は、本丸での用が済んだ後に西丸へ出仕して祝儀を述べるよう命じる。病気・幼少のため出仕しない人々は掃部頭・老中伯耆守・備中守の邸へ使者を出し、在国・在邑の人々は知らせを受け次第使札を送るとする。隠居はこの手続きを要しない。口裏は大目付宛、包紙は大目付から松平大隅守の留守居へ送ったことを示す。
〔天保九年〕二月廿一日(本文戌年、年は目録による) / 冊子 18~19頁/原整理番号 22の9/整理ID 22-9
半田嘉藤次が央様へ、少将島津斉彬の法令頒布への登城を報告する。五半時の登城を老中連名の奉書で命じられ、今朝六時に供が揃って登城した。目付大津主馬・柳生伊勢守の案内で大広間下段の四畳目に着座し、将軍出御後、太田備後守が法令頒布を伝えた。将軍退出後に御法令の文台が置かれ、林大学頭が読み上げ、諸侯は拝聴して挨拶した。斉彬は帰邸し、林の朗読時には担当老中太田備後守へ進んで恐悦を述べたという。西丸での祝儀については堀田加賀守・松平伊豆守らへ確認し、いつもどおり直に帰邸して使札で祝儀を伝える旨を触達した。法令・式書は星野求珉が持参したため写しを添付する。追記は、国元の太守が法令を承知した後に別の請書を出す予定とする。
〔天保九年〕三月(年は一件目録による) / 冊子 19頁/原整理番号 22の10/整理ID 22-10
将軍代替わり後初めて出された法令関係の資料を、例に従って御記録所へ納めるよう命じた申渡書。江戸から届いた御条目写一通、これに関する書付二通、御廻状写一通、留守居首尾書を添えた横折帳一冊を列記する。三月付で但馬の署名があり、人物注は島津久風とする。包紙の注は四包、紙数十八枚と記す。
弘化四年四月廿四日(本文未年)。蓋紙は弘化四年五月 / 冊子 77頁/原整理番号 123の1/整理ID 123
寛之助と愛君との縁組内約について、調所笑左衛門が四名へ相談経過を報告した書状。少将の着坂・上京に際して近衛家の諸大夫等と相談し、今月十七日に参殿した際、寛之助が成長したことと愛君の似合う年齢を踏まえ、従来の由緒と郁君入輿後の関係により、縁組を取り結びたいとする意向を伝えたと記す。内使者が先に取り扱っていたため、近衛方も内約の領掌を承知しており、別紙書取のとおり返答したことを知らせる。未四月二十四日付。添える四月付の口上写は、寛之助の成長、愛君の年齢、特別な由緒、郁君入輿後の続柄と、愛君がまだ入輿していないことを挙げ、縁組を取り結ぶ願いを述べる。前の蓋紙は弘化四年五月の寛之助縁組一巻と家老問合書等を留める二冊の表示を付す。
七月十日 / 冊子 358頁
用事に備えて留め置いていた大挙坊を吉田九郎右衛門尉とともに下向させると報じる。併せて、七月七日の伏見での能に諸大名が出席し、幕府の法度が公布され、京都でも同様に触れ出された状況を伝えた島津家久書状。
元禄十三年春 / 冊子 206頁/整理ID 703
元禄十三年春、島津主計忠雄が江戸を発し、三月四日に京都へ着いて近衛家諸大夫の進藤修理亮長之・今大路治部少輔孝在に面会し、近衛基通以来の島津家由緒を記した二通を届け、近衛基熙・家熙父子の閲覧に供した記事。